Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

人間性回復のために(8)

2005年09月04日 | 一般
エホバの証人として生きてきた…。多くの貴重なチャンスを見逃してきた…。自分のほんとうの意欲を押し殺して、「エホバの喜ばれる」選択を取って生きてきた…。もっと正確に言えば、「組織の言うがままに」、「熱心なエホバの証人の親に受け入れられるようにするために」生きてきた。でももう「自分」を放棄するような生き方はできない、限界に達した…。人によっては、不幸にも「うつ」をわずらってしまった、人によっては、人づき合いがうまくできず、孤独に苦しんでいる…。でももうおしまい、こりごり!

そして今、バプテスマの水を逆にくぐり抜けて、「世」に飛び出してきた。「世」という世界は広い、ちっちゃな、ちっちゃな自分はこんな世界で生きてゆけるんだろうか…。幸せになれるだろうか、「しあわせ」ということが何か途方もないことに思える。

「でも生きなきゃ!」

しあわせになるって、どういうことなんだろう。
こんな生き馬の目を抜くような世界で、どうやったらしあわせを勝ち得るんだろう…。
あたしには、あんなすごい競争を勝ち抜くなんて、とてもできない…。
多少不満があっても、だれかリードしてくれそうな人に寄りかかるのが最善の策かな…。

いいえ、それではエホバの証人時代とおんなじことになってしまいます。世の中の流儀は人間をしあわせにしない構造になっています。わたしたちは「人間」というよりは単なる「労働力」という一面でしか評価されないのです。十分働けなくなれば容赦なく切り捨てられるのです。小泉首相が「構造改革」の旗揚げをしたとき、首相は「構造改革に伴う痛みに耐えよ」といい続けてきました。しかし「痛み」はあまねく社会全体に及んだのではなく、退職者世代や病人や障害者や少数の在日外国人、「効率性の低い」業種に携わる人々にのみ押しつけられているのです。30代40代になって、いえ、たとえ20代でも、世の中を「神」に見立ててそこに精力のすべてを注ぎ込むと、エホバの証人時代と同じネガティブな報いを刈り取ることになりかねません。

わたしはまず、「しあわせとは『ゆとり』にある」という考えに立って、今の日本の社会の実情と、こういう社会にしてしまった構造上、思想上の欠陥を学者たちの小著から拾い出し、また自分個人がどんなペースで、どんな方針で生きてゆくことができるか、そのモデルを示してみたいと思います。このブログ始まって以来はじめて、「テーマ」というものを持って、記事を出してゆこうと思います。

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【豊かさって何だろう…女たちの生活実感】





「ミセス」1988年2月号で、読者である100人のミセスの声を集めて「豊かさって何だろう」という特集が組まれたことがあった。

「ウサギ小屋に住み、満員電車に長時間ゆられて通勤し、夜遅くまで働く日本人。豊かな生活とは、どんな暮らしを言うのだろう。『豊かさ』をお役所の統計や数字ではなく、ミセスひとりひとりの肉声で、台所からの視座で、身近で具体的な生活実感から捉えると」
…と前置きしたその特集はミセスたちの声を次のように紹介している。


「きれいな空気と豊かな自然。近所には図書館、保育所があり、ミセスも安心して仕事ができる。受験競争もなく、子どもたちはのびのび学び、遊ぶ。老後はのんびりと年金生活。ひとり暮らしになっても福祉サービスが行き届いていて安心」。


つづいて『あなたにとって豊かな暮らしとは?』という質問に対してミセスたちは、

「日の当たる家に住み、家族そろって夕食をとり、日曜日には近くの公園や郊外に足をのばしてスポーツに汗を流す。年に一度くらいは家族でバカンスを楽しむ」。
「平均的サラリーマンにも、通勤時間が1時間くらいのところにマイホームが持てる」。
「子どもが家の中で、TVやファミコンで一人遊びをするのではなく、元気に外で走り回って遊ぶような社会」。
「平和であること。老後に不安がないこと」。
「多少不便でも、公害、農薬、食品添加物がない生活」。
「公害をなくし、緑をふやす。子どもを塾から解放し、まじめに働く者に住宅を与えることができる国」。
「規則だらけではなく子どもが生き生きできる国」etc...。



次に、『あなたの欲しいもの、必要なことは?』の質問に対しては、

「自由な時間」(この答えは圧倒的に多い)。
「有給休暇」。
「将来の生活に対する不安を取り除くことが、今の生活にゆとりを生む」。
「まじめに働いた人なら、老後の生活の心配をしなくてもすむような制度」。
「私立学校の授業料への補助」。
「勤務時間に見合う収入」etc...。


さらに、『日本人の豊かさの象徴は?』との質問に、

(この引用は1989年上梓の著作から、だからバブルの頂上期のアンケートです)
「海外での不動産の購入」。
「ゴッホの『ひまわり』の取得」。
「40グラムそこそこで5万円もする化粧クリーム」。
「成人式の振袖、海外旅行の女子大生の華やかさ」。
「粗大ゴミ捨て場」。
「子どもの受験、進学にかける親の熱意と金と暇」。
「不動産広告に億単位の数字が並んでいること」。
「商品の過剰包装」。
「石原裕次郎の告別式」etc...。



最後に、『日本の貧しさを象徴するものは?』の質問に対して、

「画一化されて個性のない教育」。
「国民年金の少なさ」。
「税金が高いこと、つめこみ教育」。
「道端でゴルフの素振りに熱中しているお父さん。ラッシュアワーにもまれるお父さん。単身赴任のお父さん。カラオケバーで、ささやかなストレス解消をするお父さん」。
「農薬づけの野菜、薬づけの食肉、加工食品」。
「台所の窓から、隣の家のトイレの窓がすぐ目の前に見える住宅」。
「住宅ローンの破産急増」。
「民間の高金利金融の広告、看板があまりに多いこと」。
「人口あたりの公園の少なさ」。
「病人を詰め込むだけ詰め込んだ老人病院」。
「高額なお金を出さなければ入れない老人ホーム」。
「特別養護老人ホーム入所希望者の順番待ち」。
「年収が800万円あっても家が買えない」。
「銀座セゾン劇場、六本木シネ・ヴィヴァンのトイレ。GNPに直接結びつかないものはなおざりにされている」。
「今の日本の豊かさは、ひとたび社会的弱者になるや、ただの幻に終わってしまう。弱者として生活するにも、ほとんど自分で対処するしかない現実では、『今』を切り詰め、万一に備える負担の大きさに人々は苦しんでいる」。

ミセスたちの生活実感は、日本の豊かさの本質をみごとに言い当てているように思われる。



(「豊かさとは何か」 / 暉峻淑子・著)

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当時の主婦たちが「豊かになること」に対して望んでいたことは、ゆったりした生活空間そして家族の生活の時間、まじめに働いていれば安心できる老後の生活でした。しかし、当時にも現在にも、国民ひとりひとりが望んでいたものは手に入らなかったのです。当時も今も豊かさとは、そういう生活に密着したところにあったのではなく、生活とはかけ離れたところでの、華やかで高額な消費の行為でした。日本が得意の絶頂にあった頃から、すでに住宅や老後の生活、日常生活にはゆっくりした気分になれないものがあったのです。「ほしいものは?」と訊かれたら「自由時間」が圧倒的に多かったのです。

わたしが興味深かったのは、

「台所の窓から、隣の家のトイレの窓がすぐ目の前に見える住宅」
「銀座セゾン劇場、六本木シネ・ヴィヴァンのトイレ。GNPに直接結びつかないものはなおざりにされている」

…ということでした。装飾的で表面的な華やかさを「豊かさ」と見なしていて、生きている人間の生活というものがなおざりにされていたのですね。日本人が追い求めてきたものが何かを、たしかに的確に言い表していると思います。身を粉にして、家族も放置し、睡眠も健康もなおざりにして働いてきたエコノミック・アニマルたちは、その生きる人生そのものにはほとんど何の配当もないのです。

2005年の今日から振り返ってみて、過労死した労働者、うつ病から自殺した労働者、バーンアウトした労働者、あれよあれよという間に財産を失った労働者たち、彼らの労働はいったい何だったのでしょうか。そんな報酬を得るために働いていたのでしょうか。

労働って自分の生活のためにするんじゃないんですか? 
あなたたちはいったい誰のために働いてきたの?

この疑問は実はエホバの証人の頃に、わたしが感じていた疑問です。

時間の入れ方をあれこれ細工して、報告用紙に振り回されて、これがほんとうに「神」の求めることなのか、自分は神に何を期待しているのか、自分の幸福ではないか、でもこんな「奉仕」に充実感が見いだせない、何のための奉仕? 誰のための宗教? 日本の社会ってまるでエホバの証人の応用編のようだと感じます…。


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