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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

イジワル・いじめ・ハラスメント 1(下)

2007年08月26日 | 一般
つづき



「いじめ」とは自分より弱い立場にあるものを、肉体的・精神的に苦しめることと定義されたので、ここでは社会的差別も「いじめ」の範疇に入れられたわけです。そしてそうした差別=いじめはいつの時代にもあったが、それを「いじめ」と自覚されることがなかった、だからそういうことが改善される機会が生じなかった、ということです。当然、いじめが「精神的な暴力」であるという認識もなかったわけです。それどころか暴力は権力者たちの特権として公然と横行していました。とくに残酷なのは、道徳によって権威づけられていたいじめの構造です。女の人権を蹂躙することが、道徳的に正しいことだったのです。ちょうどパリサイ人たちが、クリスチャンを狩り、処刑していくことを「神への神聖な奉仕」だと考えていたように、道徳的に正しいことを行うということで、女性は着の身着のままで放り出されたんですね。

エホバの証人社会のいじめだって、道徳で権威づけられています。存在を否定する、存在を無視する、人の仕事を否定する、助言という形で侮辱を加える、調整するという名目で罵倒する、などモラル・ハラスメントの手法はみな道徳的に権威づけられます。長老の権威にむかって意見することは、神への挑戦だという道徳によって、人間を精神的暴力にさらす。「道徳ってなんだろう」と問いかけられていますが、道徳は共同体の伝統的な風習であって、それは人間によってつくられたものでしかないのです。それを神の権威によって(旧憲法下では天皇の権威によって)人間の及ばない絶対的なものに仕立て上げられているにすぎないのです。ですから、道徳を無条件にのみ込んではならないのです。何百年来の伝統的な道徳であろうが、何千年来の神の律法や、万世一系の天子さまの勅語であろうが、人間を押しつぶすものであるなら、即座に検討しなおすべきなのです。

ちょっと熱くなってしまいましたが、そういう人間を肉体的・精神的に苦しめる社会構造やイデオロギーをいま改めて、『いじめ』と捉えなおす、長年の会社の風習である「日本的宴会」にみられる女子社員への所業を『ハラスメント』として捉えなおす、そういう名前をつけて定義しなおすことで、伝統が変えられる代わりに、人間を苦痛から解放できるのです。いえ、人間を苦痛から解放するのです。「名前をつけて定義するのは大事なこと」なのです。そういうふうに、いじめやハラスメントという概念がつくられるようになる流れは以下の通りです。

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「じゃあ君も、ぼくと同じ定義で考えるかぎり、昔にもいじめがあった、という意見に賛成してくれる?」
「ええ、賛成ですよ。で、なぜ、それがなくなっていったか、ですよね」
「弱い立場に置かれた人たちが、人権という考えに目覚めて、それをあたりまえのことと考えなくなったこと、いじめはなくさねばならないと考えるようになっていったこと、そして特権を持っていて、いじめる側の人間だった人の中に、これはおかしいと自覚する人が出て、その特権を自分から捨てていった人たちがあること、などが理由だね」
「へえ、『人権』ですか」
Y君はしきりとうなずいていた。
「すると、いじめという言葉が使われるようになったのは、人々の心に人権意識が次第に目覚めていったのと、時期的に一致するのか…?」
「いいところに気がついたね。正確にぴたりとはいえないが、意識されて言葉が流行し、言葉が流行して意識が深まる、という関係かな」

「それはなぜなんでしょう?」
「これはぼくの考えだが、言葉というのはね、かつては特権階級のものだったんだ。庶民はほとんど読み書きができなかったからね。今残っている昔の言葉は、みな記録された書き言葉が主だから、庶民の感情をこめた言葉はあまり入っていない。そういう言葉は俗語として蔑まれてきた。いじめの事実は大昔からあったのだけれど、だからそれが言葉になったのは二百年くらい前、ということになろうか。大衆的な読み物に出てきたところが象徴的だ。また同じころに、『同じ人間なのに』という言葉が、誰の口からも自然に出るようになった。外国語の『いじめ』にあたる言葉も俗語として出てきたようだ。徐々にではあったけれど、差別をやめさせようという動きもでてきたし、『人権』という考え方も広がりを見せたのさ」
ぼくは自分の考えを社会科ふうにまとめた。
「なるほど、言葉にはそういう一面もあるのかもしれませんね。たしかに『いじめ』って、庶民の感覚の言葉ですね。『人権』の方は知識人的で、理屈っぽい響きがある。でも、ふたつはペアで考えるべき言葉なんだ」

「ま、そういうことだ。18世紀の中ごろから、世界、ことにヨーロッパやアメリカではだんだんと人権というものが意識されるようになってきた」
「フランス革命やアメリカの独立の影響でそうなったんですか」
「いや、もとはそういう考えが広まって、フランス革命やアメリカの独立も起こった。だがその革命は飛び火したんだね。その飛び火したところでは、人権なら人権という考えが今度は革命を起こす」
「フランス革命のあと、革命が輸出される形になったし、アメリカが独立すると、その後植民地の独立が続いたのは、この事件が世界に影響を与えたためだと、高校では習いました」
「なるほど」
「ともかく、人権というものがそのころから人間に意識されるようになってきたことは確かですね。そしてその前に、古い制度の下で生きている大衆に、『いじめ』として実感されるようになっていた。『いじめ』という言葉も使われるようになっていた…」
「…とぼくは考えるんだがね」
「そして、その結果、世の中のいじめは次第に縮小するようになっていった」
「弱い立場の無産階級、労働者たちも、ひとりだったらいじめられてしまうけれど、労働組合をつくって闘えば、いじめられないですむという知恵を身につけた。被差別の住民だって、という団体をつくって自分たちの人権を勝ち得て、守ろうとした」
「こうして、『いじめ』にあっても泣き寝入りせず、闘って人権を守ろうとしてきたんですね。そうした努力の結果、少しずつだけど、社会のいじめは縮小してきた部分もある」


(上掲書より)

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モラル・ハラスメントは「ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである」(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)と定義づけられました。それまでは人間関係ではごく当然なこと、あたりまえに存在してきたこと、無視し続ける、とか妻や部下にぞんざいに接するとか、妻や子どもの人生を夫=父親が決め、服装の好みまで夫が決めるというようなことは、亭主関白として微笑ましくさえ受けとめられてきたことですが、それをここでハラスメントとして捉えなおす、以前には妻や子ども、部下たちの方が心の持ちようで処理すべきこととされてきたことを、ハラスメントとして捉えなおすことで、夫、父親、母親、上司や管理職者の側の未熟さ、人権蹂躙として扱おうとするのです。それは子どもや従業員や女性は、夫や父親や上司と同様の人間であり、人間として尊厳を尊重される権利がある、と考えるのです。ハラスメントを忍ぶのは決して義務なんかではありません。そういう考えはある人間の人生を別の人間の所有物のようにさせてしまいます。被害者側の人間から生きる喜びを奪い去ってしまう行為だからです。

香山リカさんは、今年に起こった事件を持ち出してこう述べておられます。

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2007年1月10日、日本中に衝撃的なニュースが走った。東京都新宿区と渋谷区で2006年12月、男性の切断遺体が相次いで見つかった事件で、被害者が特定され、容疑者が逮捕されたのだ。被害者は、30歳の米大手投資銀行「モルガン・スタンレー」のグループ会社員だった。そして容疑者はその被害者の妻である32歳の女性だった。妻は、「夫を殺してのこぎりで切断し、路上などに捨てた」と容疑をあっさり認めた。供述によると、女性は2006年12月12日早朝、帰宅して寝ていた夫の頭部をワインの瓶で殴って殺害し、自宅内で切断したという。単独犯だった。

動機について容疑者はこう語ったと報じられた。「2003年の結婚後半年くらいから、夫と行き方が合わず口論するようになった。夫から自分のことを否定されたり、暴力を振るわれたりして殺意を抱いた」「夫は一度として真に『悪かった』という謝罪の気持ちがなかった。ひどい暴力を受け、いつか殺そうと考えるようになった」。

容疑者の妻にとってもっとも耐えられなかったことは、やはり「夫と生き方が合わないこと」や「自分の生き方を否定されたこと」だったのではないか。もっと具体的に言えば、「話をしても真剣に聞いてもらえない」「カネさえやっているのだからこれでいいだろう、といった態度を取られる」「自分の人生についていろいろ考えて相談しても、取り合ってくれずバカにした薄笑いを浮かべる」ということだ。

こうやって具体的に説明しても、多くの読者は、「それくらい、どこの家庭にでもあるだろう」「収入も十分、妻のしたいことは自由にさせる、それのどこが『真剣じゃない』んだ?」と理解できないに違いない。じつはこれこそがモラル・ハラスメントなのである。


(「知らずに他人を傷つける人たち-モラル・ハラスメントという大人のいじめ」/ 香山リカ・著)

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「それくらい、どこの家でもあることだろう」。ただ単に口が悪いだけ、そんな人間はどこにでもいる、そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないじゃない…。

いいえ、そういう些細なことひとつひとつをないがしろにしてきたから、人間関係が希薄になり、不信感が深まってゆくようになったのです。わたしは、愛するにもルールがある、と考えています。そしてこの考えは正しい、と確信しています。傷つける言葉はしょせん傷つける言葉なのです。動機には悪気がなかったとしても、言葉を選ばないなら、表情を選ばないなら、つまり相手を尊重する意思表明がないなら、悪気はないということすら伝わらないのです。現代人は愛し方を知らないのです。人を愛するつもりでも、実際にやっているのは、「自分を愛せ」と強要しているのです。そしてそうすることが、人間のつきあいというものだ、と誤解してきたのです。イルゴイエンヌ医師の著書のサブタイトルは、「人を傷つけずにはいられない」となっています。人を傷つけることで人と関わろうとしてきたのです、わたしたちは。だから、今、これまであたりまえだと思ってきた考え方、習慣、話し方、人との関わり方を再検討するのは必要だと、わたしは切実に思います。

ハラスメント、いじめ。これまではされるほうの問題とされてきたことを、改めてここで「ハラスメント」と定義づけ、ハラスメントを加えるほうの責任を追及し、人権問題とみなし、人間関係の思いやりのスキルという観点から、問題として捉えなおそうとするのです。次週、モラル・ハラスメントの手法について書いてみます。


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イジワル・いじめ・ハラスメント 1(上)

2007年08月26日 | 一般
だれかにイジワルなことを言われたり、されたりしたら不快に感じる、これは人間として当然の感情です。自分が大切にしていること、大切に思っていることを悪く評価されたり、否定されたりすると悔しく感じ、腹を立てる、これも人間として当然の感情です。こちらの言い分はなおざりにされたまま、一方的にこちらが非難される、これも憤りを覚えるでしょう。こちらの意向はまったく無視され、相手側の要求を一方的にのまされつづける、これも重い苛立ちを生じさせます。

人間がつきあいを営んでゆくうちにはこういう経験は一度ならず、するものです。一度か二度、暴言を浴びせられたり、いわれのない誤解が周囲に広まる結果を招かされたりしたために、人間関係が完全に断絶してしまうことはないでしょう。日ごろはそんなことのない関係が営まれてきたなら、嵐のような天候に比喩できる、そういった人間関係の衝突がたまにあったからといって、それで一方がうつ病を引き起こしたり、殺意を抱かせたりすることはありません。

では、一方的に非難され、侮辱され、否定され、貶められることが継続するときはどうでしょう。もっと言えば、非難され、侮辱され、否定され、貶められるというかたちのコミュニケーションが「通常的に」行われればどうでしょう。それはつまり、他方の側の人間に、不快に感じさせられたり、悔しく感じさせられたり、腹を立てさせられたり、憤らせられたり、といった経験が日常的に継続することを意味します。自分についての悪い評価を自分の知らない範囲まで言い広められていたりしたら、やはり強い屈辱を覚えるでしょう。こうしたことが日常的に続けばどう感じるでしょうか。

ひと昔前までは、どうも感じるべきではないと考えられていました。いえむしろ、我慢と忍耐が要求されていたのです。それを要求するのは「道徳」、「礼儀作法」といった社会通念、ある社会、ある共同体に通底する、そう、常識というものでした。「女三界に家なし」だの無条件に「父母を敬え」と要求した教育勅語、同様のエホバの証人の聖書解釈などは、序列や秩序を維持することが重要とされ、序列や秩序を乱すようなことであれば、人間の自然な感情や自然な意欲、あたりまえの自己主張は「悪いこと」、「お行儀の良くないこと」、「未熟なこと」、「オトナげないこと」だったのです。

この「ひと昔前」というのは決して戦前の時代に限定したわけでもありません。精神科医の香山リカさんはこの著書『知らずに他人を傷つける人たち』でこのように述べておられます。

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1970年代になっても日本ではいまだに、「巨人の星」的な家族像、すなわち絶対的な権力を持つ父親と、それに黙って従う妻や子どもたち…や、ワンマン宰相、ワンマン社長などは好意的にさえ受け入れられており、リーダー(および家長)の多少の横暴さや理不尽さには、周りの人たちのほうが目をつぶるのが「オトナ」であるという価値観が一般的だった。

70年代どころか、日本でもフェミニズム運動が広まってきた80年代にいたっても、その傾向はまだ続いていた。たとえば、1982年に大ヒットした三船和子の「だんなさま」という演歌は、こんな歌詞だ。

つらい時ほど 心の中で
苦労見せずに かくしていたい
わたしの大事な だんな様
あなたはいつでも 陽の当たる
表通りを 歩いてほしい
(作詞 鳥井実)

また1988年の都はるみ、「王将一代小春しぐれ」の2番は、次の通りだ。

女房子どもを 泣かせた罰は
あの世でわたしが かわって受ける
さしてください 気のすむように
将棋極道 ええやないの
そばに寄り添う 駒がいる
(作詞 吉岡治)

もちろん、この時代にはすでに「夫に黙ってつき従う妻」という夫婦像が崩れていたからこそ、このような過剰な夫唱婦随ソングがヒットしたのかもしれないが、それにしても80年代後半になっても「夫だけ陽の当たる表通りへ」「女房子どもを泣かせてもかまわないわ」と女性自らが歌っていた、というのは欧米とはかなり違う風景であったろう。

(「知らずに他人を傷つける人たち」/ 香山リカ・著)

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私の印象ですが、横暴なふるまいや、権力のあるほうによる理不尽な抑圧が秩序を保つための立派な価値観、というふうに見る傾向は90年代に入っても日本ではまだ主流を明け渡してはいなかったと思います。例の、アダルトチルドレン・バッシングでは、親を責める子どもに甘えがある、とか責任を親に押しつけている、というような批判がくりひろげられました。身体的な暴力はいけないことという認識はあったのですが、精神的なことについては、一から十まで、個人の成熟性で解決するべきことと考えられているのです。この背後には、「親、上位の者を敬うのは道徳の最も基本、それなしに社会秩序は保てない」という思想があるとわたしは見ています。

その思想は、古くは徳川家がその時代に身分制度という究極の格差社会を正当化させるために、儒教を支配者階級に都合よく解釈したものを持ち込んだことに始まり、明治になって富国強兵のため国民総動員体制を築くために、教育勅語が下されて、あらためて儒教(もどき)にもとづく身分秩序絶対思想が確認されてからこっち、ずうっと続いてきたものなのです。21世紀になった今でも、ある人がうつ病になると、「本人の自己責任」というような論調がなされ、長期にわたって会社を休むようになると、「あいつはもう見込みがない」と見なされますし、未成年者が凶悪事件を起こすと、子どものほうが異常という報道がなされ、なんといっても安倍政権に入って、教育基本法が復古的に改訂され、憲法も同様の線で改訂されようとしていることからすると、人間個人よりも伝統や伝統にもとづく秩序のほうが圧倒的に貴重であるという思想はしぶとく生き続けているのです。

アメリカでは、ベトナム帰還兵に見られた社会生活不適応の症状に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」という名がつけられ、「精神的な傷」という概念がつくられ、治療や社会問題へ適用されるようになりましたが、日本ではずうっと遅れて、阪神淡路大震災の被害を経験してようやく注目されるようになったのです。注目はされていますが決して理解されているとはいえません。

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日本人がこの「トラウマ」や「PTSD」の存在を認めるようになったのは、アメリカから20年以上遅れての1990年代後半になってからのことだ。そのきっかけになったのは、阪神淡路大震災と、地下鉄サリン事件である。それ以降、ようやく地震や噴火などの自然災害、飛行機事故やバスジャックなどの犯罪被害において、医師も一般の人たちもPTSDを認めはじめ、それに対する治療法も積極的に検討されるようになりはじめた。

そしてこれまたアメリカと同じく、事故や災害のみならず、家族間や男女間、あるいは職場の人間関係でもトラウマが発生することがある、そしてトラウマが起きるような関係の中には、決して「夫唱婦随」「カミナリ親父」とかいって笑ってすまされないものもある、ということが知られつつあるようになっている。


(*ルナ註)
わたしは、トラウマを生み出す人間関係に、文字通りの「身体的暴力」を忘れてはならないと考えています。身体的暴力も、これから書く、精神的暴力も、どちらも脳では同じ部分で痛みを感じているのです。人間を傷つけ、辱めるという効果に立ってみれば、身体的であろうと、精神的であろうと、暴力は暴力なのです。それ以上の何ものでもないのです。しかし暴力もたとえば、秩序を叩き込むための「しつけ」という名目をとると、そこに「愛があれば」体罰は肯定されると声高に主張されます。力で人間を従わせようとする短絡的な方法は決して人気を失いません。こういう風潮がしぶとく生き続ける間は、カルト宗教は隆盛を続けるでしょう。カルトは厳格な秩序を強制することによって安心感を保障しようとするからです。


(上掲書)

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こうしてみると、「心の傷」とか「精神的な暴力」といったものは、以前からあったもので、現代に入ってから、以前からあった言動が新しく解釈されたものというものであることがうかがえます。これは「いじめ」でも同様です。「いじめ」と「モラル・ハラスメント」は非常によく似ているようにわたしには思えます。精神科医のなだいなださんは、いじめも昔からあったものだが、あるときから「いじめ」として定義するようになって、非難の意をこめて世の中に存在するようになった、という論考を一冊の本にまとめておられます。なだいなださんは「いじめ」を、「自分より弱い立場にいる人たちを、肉体的・精神的に苦しめること」と定義して、そういう行為はいつから存在するようになったか、いつから問題視されるようになったかといったことを、歴史的に展望しておられます。その部分を引用してみます。「先生」と少年の会話形式を取っていますので読みやすいです。

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「昔を十年前、二十年前のことと考えるから、分からなくなるんだ。思い切ってうんと前のことを考えてごらんよ。明治の前はどういう時代だった?」
「明治の前は徳川時代、封建時代ですね。士農工商の階級差別がまだまだハッキリしていた時代でした」
「そうだろう。武士はいばっていた。殿さまは、農民などには顔さえ直接に見せなかった」
「ええ、土下座させました。今の日本では土下座をするのは、特別に悪いことをして許しを乞うときとか、無理なことをお願いするときのポーズです。ああいうのって見るだけで卑屈で嫌な気分にさせられますね。でもあの時代は、それがあたりまえだった。下の階級のものは弱い立場にあったんですね。といっても農民と職人の差なんて、ほんのわずか。武士とそれ以外の差が絶対的でしたけどね」
「つまり、武士に対して、農民や町人は弱い立場だった」
「どんな無理をいわれても、頭を下げていなければならなかった。今だったら、ぼくなんか、ばかばかしくて我慢できないだろうな。同じ人間なのに、侍には土下座させられたり…。うっかり失礼なこともいえないなんて」
「そうだね。相手(侍)には『切り捨て御免』なんて特権がある」
「そうですよ。危ない、危ない。とんでもない特権だ。もちろんいくらなんでも正当な理由がなく町人を切り捨てれば、侍だって処罰はされたんでしょう」
「形だけはね」

「でも、無礼を働いた程度で、十分な理由があったと見なされるなんて…。TVドラマには、こういう特権をかさに着て、庶民を “いじめる” 侍がよく出てきます」
「今は、そういう時代もののドラマは大はやりだ」
ぼくは(先生は)TVのチャンバラの場面を思い浮かべながら言った。だいたい “いじめ” 役の侍は、最後に復讐されたり、懲らしめられたりして終わる。だが、それは何人かが殺され、苦しめられたあとだ。
「ドラマはドラマ。しょせんは作り物ですよ。でもそこから幾分の真実は透けて見えますよね」
若いY君は、時代劇はあまりお呼びではないらしい。その彼にぼくは質問した。

「Y君、ちょっと考えてくれないか。あんなつまらないドラマでも、もし江戸時代に芝居小屋で演じようとしたら、どうだったろう」
Y君はぼくを見つめて言った。
「そうですねえ。おそらく弾圧したでしょう。…なるほど、そういうことか。あの時代は、武士が農民や町民をいじめることが多かったけれど、それを “いじめ” とは言わなかった。やり過ぎだけがとがめられた程度…」
「そういうことじゃなかったかな」
「なるほど。江戸時代にあちこちで一揆を起こした農民は、かなりいじめられていたと考えていいわけですよね」
「その通りだよ」
「それって、社会科で習ってきたことですよ。日本の封建時代の農民は、ほとんど奴隷といってよかった。ロシアの農奴より日本の農民のほうがより幸せだったとはいえない、と学校の先生も言ってました。なんで、それがどうして、ぼくの頭の中で “いじめ” に結びつかなかったんだろう」
「そう意識して見ないと、なかなか見えてこないものさ。野外観察でも、そんな体験しなかったかね」
「ええ、あります。なるほど。あの時代のぼくたちの先祖は、その点で、今のぼくたちより幸せだとは思えないな」
「先祖の大部分、というふうにとらえたほうがいいよ。『すべて~』と言ってしまえば、反例を一つあげられただけで簡単にひっくり返されてしまうからね。ここで、そういういじめのない世の中を明治維新に期待されたと考えてみよう。つまりそれまであたりまえだと受けとめられてきたことが、だんだんとあたりまえだとは考えられなくなって、制度が変えられた…」
ぼくは明治維新をそういうように捉えなおして言ってみた。




「で、革命が起こり、明治になった」
「封建時代はべらぼうだったけど、いちおうそれも明治維新で終わって、四民平等ということにはなりました。もちろん特権を持っていた武士階級は、しばらく四民平等に抵抗してましたけどね」
「四民平等ねえ」
ぼくは懐かしい言葉を聞いてうっとりしかけた。ぼくはすぐに続けた。
「侍たちたちは、特権は失っても、せめて名前だけでも区別を残そうとして、戸籍に士族という身分を明記させたりした」
「それは知っています。足軽を武士扱いにせず、卒族なんて呼ばせたこともあったんでしょう? 残りを平民と呼ぶような、そんな差別を残そうとしたんでしたね。それからまたしばらくして、昔の大名や公家や金持ちたちを集めて、貴族なんて新しい特権階級をつくったんですよね。そう考えると当時の政府の反動性がよく分かるなあ」
Y君は答えた。
「うん、そうだった。よく知っているね。さては社会科で教わったばかりだね?」
「じつはそうなんです。それから、これが問題です。昔、封建時代に士農工商のさらにその下におかれた被差別の人たちは、戸籍にと書かれ、維新のあとも平民の下に格付けられたんですね。反対が起こって、すぐにこの戸籍上の名前は消されましたが、この人たちに対する差別は、あとあとまで続いた」
「そこまで習ったの」
「でも、それは差別でしょ。『いじめ』とは別のことではないんですか」
「…別のことかね…」

しばらくY君は考えていた。
「やはりれっきとしたいじめかな…。社会全体でいじめていた。…そうか、いじめを学校だけの現象としていたから、差別が社会的いじめだと考えられなかったのか」
「どうもそうらしいね」
「差別は学校の中でも外でも行われていたんだよ。外の差別のほうが問題だったともいえる。でも、学校の中での差別でも、現在のいじめとまったく同じことが行われていたのさ」
「…そうか…」
「たとえば、の子どもたちも学校に通う。小学校は建前上誰でも入れた。侍も農民もみんな、同じ学校に入った。でも、これは『橋のない川』という小説に書いてあることだけど、その子たちは、学校に行けるようになっても、そこでクラスの者から『やあい、エッタ』とか、『エッタの子はくさい』とかいわれて、無視されたり、仲間はずれにされていたんだ。しかも親たちまで、『エッタの子とは遊ばないほうがいい』というような始末さ」

「ふうん。今の学校で、太っている子がデブと呼ばれたり、知恵遅れの子が臭いとか、不潔とかいわれて、仲間はずれされるのがいじめなら、被差別の子どもの差別はれっきとしたいじめだ。どうしてそのことに気がつかなかったんだろう」
「名前が違うと、別のものに見えるのさ。だから名前は大切なんだ」
「ほんとにそうですね。この差別といういじめは、差別をなくそうという運動のおかげで、今ではかなりなくなってきたんでしょう?」
「たしかにね、表面からは見えなくなった。でも、まだまだ水面下にはあって、ぼくたちの社会に見え隠れしている。完全になくなったわけじゃない、就職や結婚で嫌な思いをする」

ぼくは本(『橋のない川』)の内容を少しばかりY君に話した。
の子どもが主人公で、その親友になったのが、当時は『私生児』と呼ばれた、正式の婚姻によらずに生まれた子どもだったことなどを。『私生児』、これも家という制度の外に置かれた立場の弱い人間だ。彼も『めかけの子』などと呼ばれて、社会的に差別といういじめをうけていた。その彼も、自分が被差別の子どもと友だちになって遊んでいることは、母親には隠していた。母親が、自分の子どもは家柄のいい家の子どもと遊ぶことを望み、被差別の子どもと遊ぶことを禁じていたからだ。
「なるほど、いじめられている人がいじめるほうに回る、そういうこともあるんだ」
ぼくの話を聞いて、Y君は大きくうなずいた。

「でも、そのほかにも『いじめ』を受けていた人々はいたんでしょ?」
「いたよ」
「わかった。今の言葉でいえば身体障害者、精神障害者、それから伝染病患者などの病人などもいじめられていたんだ」
「よく気がついたね。いわゆる偏見を抱かされていた人たちだ。その人たちは病気であるだけでも不幸なのに、その上に『いじめ』の不幸まで加わっていた」
「それは残酷な話ですね」

「まだあるよ。女性と子どもたちだ」
「えっ、女性と子ども!」
「そうさ。どうしてそんなに驚くの」
「だって、なんだか大切にされていたように思っていたからです。女性のいじめって、先生、それひょっとして嫁いじめのことですか」
「それもあるね。姑とか小姑とかが、嫁にずいぶん意地悪をした」
「両親に聞いたことがありますよ。昔のこととしてね。もうぼくの両親の時代には、嫁姑の葛藤はなくなっていましたけど。今の女の子は幸せだなんて言ってました」
「そうか、両親から聞いていたか」
「はい。『家』というものが制度としてあったとき、結婚は、好きになった男性と女性だけの問題ではなかったと聞きました。長男が結婚相手だったら、嫁は長男の家族全員との共同生活をしなければならなかったんでしょう?」
「そのとおりだよ。農村ではほとんど逃れられない運命のようなものだった」
「長男の属する共同体の一員になるといったほうがいいのかな。つまり嫁に行くということは、ひとりぽつんと知らない人たちの集まりにほうり込まれるようなものだったのかな」
「まさにそうだ。男と女が家から飛び出して、新しい家庭の単位をつくるような、今の形とはずいぶん違っていた」
「じゃあ、転校生の立場と似ているな。そして姑とか小姑とかは、転校生をいじめるいじめっ子、と思えばいいですか」
「そりゃあいい例えだね。状況としてはそっくりだよ。法律的には新憲法(日本国憲法)から、制度としての家はなくなった。それと同時に、嫁いじめもなくなるはずだった」
「でも嫁いじめはまだ残っていたんでしょう」
「そう、新憲法制定後も、しばらくは嫁いじめは続いていた。ところがこれがほとんど話題にならなくなる」
「核家族化が進んだからでしょう」
「その通りだよ。それに住む家も都会ではマンションが多くなり、大家族で住めなくなった。そういうこともある」
「なるほど、新憲法が嫁いじめをなくすもとだったのか」
「嫁だけじゃなかったんだよ。明治憲法下では女性全体がとても弱い立場に立たされていたんだ。女性は夫の家族に気に入られないと、簡単に離婚させられていた。当の夫の同意がなくてもね。夫は一緒にいたくても、姑が決めることができたんだ。だから、女性はいじめられても、じっと我慢しなければならなかった」
「我慢、我慢、忍耐、忍耐ですか。『家』制度のなかで、姑はそんなにおおきな権力を握っていたんですか」
「いや、これは単なる権力の問題じゃない」
「え?」
「それは『親孝行の道徳』だった。道徳だから絶対的な支配力を持っていた。形式的には、自分の夫が家長という立場に立っていても、親の権威は道徳だったから、夫も夫の親には服従しなければならなかった。一応は自分の妻を弁護しても、最後に、嫁をとるか、親をとるかというふうに迫られては、道徳的に『親不孝』になることはできなかった」
「ふ~ん…。道徳って自動的にいいものだと思っていたけど…。道徳っていったい何なんだろう」

…(中略)…

Y君はいじめが昔にもあったことをだんだんと納得してきたようだった。そしてそれをつぎのようにまとめた。
「明治以降、いじめは全体としては少なくなったけれど、まだ弱い立場に立たされ、いじめられる者が残っていた。差別がその一つか。そうなると、以前の武士以外の人間すべてが差別を受けていた時代より、当人にはつらかったかもしれないな。前は『みんないじめられているんだ』と自分を慰めることができたけど、明治維新からは『どうしておれたちだけがいじめにあうんだ』と考えねばならなくなったからね」

(「いじめを考える」/ なだいなだ・著)




(下)へつづく
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トリビア 9(だったかな?)

2007年08月25日 | 一般
“Luna's Scrap-book”でコピペした毎日新聞の記事なのですが、とてもよかったので、こちらにもトリビアとして掲載しておきます。

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【キャリアサプリ:<28>価値観の違いって埋められるの?】



キャリア(人生)の選択と決断に大きく影響するのが、価値観であると考えます。

 キャリアデザイン(どう生きるか)を考える時の価値観とは、個々人が育成(発達)しながら「大切なもの・価値があると考える事象」と私は位置づけます。

 価値観は成長や出会いなどで変化するものと、あまり変化をしないものがあると言われています。変化しないものの中で強固なのが、親や育成の環境から受けたさまざまな価値観です。

 これは子どものころ、生活のいろいろな場面で意思決定ができない時には、親の価値観で動きますから、それが必然的に自分の行動となるわけで大きな影響です

 しかし、成長と共に社会からも影響を受けるので、だんだんと親の価値観と自分が持つ価値観が違ってくることも当然あるわけで、これがある意味の自立とも言えます。

 動物病院に行った時のことです。待合室にいたその子どもは獣医という職業を知りませんでした。物言わぬ動物に小児科と同様の医者がいること、その獣医は動物の言葉が分かるがごとく対応していることに、その子どもは大変感激していました。「おかあさん。すごいね。すごいね」と何度も繰り返し、その母親に話しかけていました。

 (しかし)その母親は「そうよ。動物のお医者さんになるには、いっぱい勉強しなきゃなれないんだからね。お医者さんはもうかるんだから」と。

 どうやらどこに価値を持ったかが親子で違ったことに母親が気づかなかったようです。

 この場合、母親の価値観が子どもの価値観への刷り込みとなっていく可能性が大です。

 (重要→)それが悪いということではありません。この場合、子どもが持った価値観(すごい!という発見)を認める…ということができたら、子どもは色々な「すごい」を発見して成長することが出来る可能性が多いと思いました。



 さて、大人になって人間関係のトラブルの見えない原因に「互いの価値観を受け入れられない。理解できない」があり、極端な言い方をすれば「信じられない」とまでなります。

 そうですよね。価値観とは自分が生きていく上で大切にしているものなのですから、それを他人が誹謗(ひぼう)したり、否定したら、ショックというか関係構築どころではないでしょう。

 夫婦関係や親子関係のように近しい価値観を持ち合いそうなところでも、価値観の共有が難しいのですから、他人ではなおさらでしょう。

 そこで、今回は「価値観の違い」でヒントを紹介します
 (1)価値観は違っても当たり前
 (2)価値観が違うことが新しい発見
 (3)価値観の押し付け合いをしない
 (4)他者の持つ価値観を否定しない
 (5)価値観を共有したい時は、まず相手の価値観を受け入れることから始める

 まずは、違った他者の価値観を受け止めることから、はじめてみませんか? 人の価値観(大切なもの)を知ることは自分の価値観を豊かにすることでもあります。




毎日新聞 2007年8月22日
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ポツダム宣言「黙殺」のいきさつ

2007年08月19日 | 一般
8月15日は韓国にとっては解放記念日です。日本が無条件降伏した日だからです。ということはいうまでもなく日本にとっては戦争が終結した日ということになります。終戦の日にあたって、今回はポツダム宣言をめぐる日本政府の動向の一部を書き出しておこうと思います。(ほんとうは15日の日にエントリーしたかったんですが…。)




ポツダム宣言は昭和20年7月26日に、米トルーマン、英チャーチル、中・蒋介石の3国宰相の名によって発せられました。サンフランシスコからラジオ放送によって全世界に流されたようです。日本はその電波を捕捉したわけです。 「(帝国日本の)海外放送受信局がその電波を捉えたのは、7月26日午前6時のことである。むろん、陸相の傍受機関もこの時間にはその内容をはっきりと捉えていた」(「敗戦前後の日本人」/ 保坂正康・著)。

その内容は以下の通りです。

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ポツダム宣言(米、英、支三国宣言)
1945年7月26日、「ポツダム」ニ於テ


吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ


合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ 
右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ聯合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ


蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ
現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ、測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ
吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ


無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ、又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ


吾等ノ条件ハ左ノ如シ

吾等ハ右条件(いうまでもありませんが、この記事では「下」になります)ヨリ離脱スルコトナカルベシ
右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ


吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ、平和安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ、日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ


右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ、聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ


「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後、各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ


吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ、吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ
日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ
言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

十一
日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ
日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ
右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ
日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ

十二
前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ、聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ

十三
吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ、且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス

右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

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(二)、(三)によると、連合国は、日本が抵抗を終止するまで戦闘を継続する決意を持って軍備増強を行って日本を包囲した、ドイツはすでに降伏したが、もし今日本に臨んでいる連合国の軍事力がドイツに投入されたならば、ドイツの軍事産業、生活様式に測り知れない荒廃をもたらすだろう。日本国はドイツの降伏から教訓を得るべきである、とくに現在の連合国の軍事力の最高度の使用は日本国の国土を破滅に至らせることを意味する、ということです。これは原子爆弾使用の準備がすでに整っていたことを背景にした宣言です。それゆえ(四)では、日本の軍国主義的指導者の支配を選択するかどうか、理性的な判断を真摯に検討するときに至っている、(五)の前半では、われわれ連合国はこの条件から句読点一つといえ変更する意志はなく、この条件に代替策も認めず、この条件を受け入れるタイムリミットに遅れることも一切認めない、という固い決意を表明しています。

その条件とは、
日本国民を欺いて世界制覇の挙にうって出さしめた権力者とその勢力の永久除去を意図しているので、この目的が達成されるまではすでに連合国が制圧した日本国領域内の諸地点を占領し続けること、
日本国の主権は4列島と諸島に限定されること(つまり満州ほか「大東亜共栄圏」からは撤退してもらう)、
日本国軍隊は完全に武装解除すること、

そうするならば各兵士は家庭に帰り、平時の普段どおりの活動に戻ることを認める。連合国は日本を民族奴隷化しようという意図は持たないからだ、ただし、連合国の俘虜を虐待したものを含め、戦争犯罪人は厳重に処罰することになる。

日本国は、民主主義的傾向の復活を図り、それを発展させようとしてほしいし、そのための障害となるものをすべて除去すること。言論・宗教・思想の自由と基本的人権の確立のために最大の努力を払うこと。

日本国は、その経済を立て直すため、また公正な賠償をするためにも、産業を続けることができるし、そのための原料の入手も差し止められない。将来には国債貿易関係への復帰も保証する。ただし軍需産業はこれから撤退してもらう。

これら連合国の目的が達成され、日本国民の自由意志に従って平和的傾向を取り戻し、かつ責任ある政府が樹立した時点で、連合国による占領は終了し、占領軍は撤退する。

だから日本国政府は上記条件を直ちにのみ、無条件降伏の宣言をし、保証と賠償を行う意図を表明するようわれわれ連合国は要求する。さもなければ、日本国は迅速かつ完全な壊滅を身に招くだろう。



有無を言わせぬ強い姿勢です。しかし日本国民の生存が保障される内容でもありました。外国の手助けによって施政指導を受けるという屈辱はあっても、です。わたし個人の感覚をいえば、戦前の、まるでエホバの証人社会のような理不尽な家父長制が継続するよりも、「もどき」レベルとはいえ、民主主義の考え方が入り込んできた戦後の社会の緩やかな変化のほうが絶対によかったです。

しかし、日本国はどう反応したでしょうか。わたしたちはその結果を知っています。広島、長崎、沖縄…です。日本の指導部の動向を引用文からご紹介しましょう。

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ポツダム宣言を補足した日、午前中に最高戦争指導会議の構成員による会議が開かれている。正午からは閣議が開かれた。この宣言に、日本側はどのような態度をとるのか、どういうふうに扱うか、という善後策を打ち合わせるのが目的であった。

いずれの会議でもポツダム宣言を受諾の方向に持っていこうとする東郷茂徳外相と、それを支える鈴木貫太郎首相が一方の極にあって、梅津美治朗統帥部参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相がポツダムを無視しようと主張する構図となっていた。この構図は6月以来の同じ構図であり、あとは天皇がどちらに暗黙の支持を与えるかにかかっていた。

すでに天皇は6月22日の段階で、6人の最高戦争指導会議の構成員に自らの意思を伝えている。戦争終結の方向も検討できるではないかという意思である。鈴木も東郷も米内(光政海相)も、それが自分の意思と同じであると信じている。が、それを具体的に政策に反映させるには、何よりも(政府としての)強い意思が必要であった。


(「敗戦前後の日本人」/ 保坂正康・著)



1945年7月26日、実質的に講和条件の緩和が施された対日ポツダム宣言が米・中・英3国の名で発表された。

東郷茂徳外務大臣はただちに「無条件降伏を求めてきたものに非ざることは明瞭」であると評した。また「占領も地点の占領」であって「保証占領であって広汎なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と受けとめた。ほぼ正確に「ポツダム宣言」の意味を読み取った東郷外相は、天皇と最高戦争指導会議にその趣旨を説明して、「これを拒否するが如き意思表示」は「重大なる結果を惹起する」惧れがあるとの判断を示した。鈴木首相もこれに同意して、とりあえず日本政府は公式の対応を避け、慎重に検討することにした。

しかし、陸海軍内部に強い反発が生じた。敵の重大な対日宣言に対して政府が何の反駁もしないのは将兵の士気にかかわる、との抗議が前線から軍中央部に向けられたのである。2日後の28日、陸海軍の強い要求を受けた鈴木首相は、記者会見の席での記者の質問に答えるかたちで、「何等重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。われわれは断固戦争完遂に邁進するだけである」と述べた。

『鈴木貫太郎伝』は、鈴木が「黙殺」を「ノー・コメント」程度の心持ちで用いたところ、「リジェクト(拒否)」の意味に解されたと説明している。実際には “ ignore it entirely ” 、「完全に無視する」と訳されて国外に伝えられた。「完全に」という修飾語を添えたことに問題があるにせよ、当時、日本政府がこれを受諾する決定をなし得ない事情にあった以上、外電が「無視」の訳で「拒否」の意向と伝えたのは、誤まっていなかったといえよう。2週間以内に「イエス」の返事をしなければ、「ノー」と解するのが国際慣行であろう。

日本政府内の外務省と和平派政治家は、ポツダム宣言の意図したところを読み取って、この呼びかけに対して速やかに反応する必要を感じていた。しかし「黙殺」談話を余儀なくされたことが示すように、なお政府内政治において陸軍に勝利することができず、空しく時を過ごす結果となった。


(「日米戦争と戦後日本」/ 五百旗頭真[いおきべまこと] ・著)

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ポツダム宣言の十項には、日本政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活を図れ、ということが書き込まれています。ポツダム宣言を作成するに当たり、ヘンリー・スティムソン元陸軍大臣が、日本にはファッショ化する以前に大正デモクラシーの時代があって、憲政の常道が築かれつつあった、その日本自身が築きかけていたデモクラシーの流れを戦後の日本に持ち越すことができる、だから敗戦後の日本を寛大に扱っていい、と助言したというエピソードがあります(「日米戦争と戦後日本」より)。東郷茂徳外相はポツダム宣言の条文を見て、高く評価し、ぜひ日本はこれを受諾すべきだと考えさせるに十分の、寛大さをも含められていたのです、ポツダム宣言には。

ところが日本の帝国陸軍がまたぞろ面子を守るために、またポツダム宣言にあるように、戦争責任を問われることから逃げようとしたのかもしれませんが、断固拒否にまわったのでした。

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この7月27日(ポツダム宣言発表の翌日)朝早く、東郷は松本俊一外務次官のほか局長や主要課長を集めて会議を開いている。このときの結論を、東郷は自らの回顧録 『時代の一面』 に詳しく書き残している。つまり、それが東郷のこの段階での考え方だったといってもいい。いまその手記から箇条書きふうに抜き出してみると、次のようになるのである。
① これは無条件降伏を求めたものではない。
② 日本の経済的立場にも配慮がある。
③ 占領形態については曖昧であり疑問がある。
④ この宣言の取り扱いは慎重にすべきもので、拒否すべきが如き意思は示さないほうがいい。


東郷は、外務省内の幹部会議が終わったあと、天皇に上奏している。東郷は回顧録(『時代の一面』)のなかで、「殊にこれを拒否するが如き意思表示をなす場合には重大な結果を引き起こす懸念のあること、また終戦についてはソ連側との交渉は断絶したのではないのだから(東郷はソ連が連合国と日本の間で中立を保っていると予測していたが、それは甘い認識だった)、その辺を見定めた上措置することが適当であると考える旨」を言上したと書いている。

最高戦争指導会議でも、東郷はこの主張を繰り返した。東郷は、この宣言の持つ意味を伝え、できるならこの宣言に対する態度はすぐには明確にしないで、たとえばコメントなしで全文を国民に知らせるほうがいい、という意味のことを述べた(政府がコメントを加えると、国民に思考の方向を指示することになる)。そしてこれを拒否するような態度は示すべきではない、と強く訴えた。

閣議でも、東郷は熱弁をふるった。
閣僚といっても、最高戦争指導会議での国策の方向は知らない。だから東郷はソ連へ依頼している(終戦工作の)仲介内容も明らかにし、言外にこの宣言(ポツダム宣言)に「拒否」という姿勢を見せてはならぬと繰り返した。閣僚たちも重大な岐路に立っているのを理解したのか、変に強がりを言う空気はなかった。国体に関しては、この宣言はどのような意味を持っているのか、という質問が何度も出て、それこそが日本の降伏の条件になるという認識が政治指導者の紐帯であることが確認されたのだ。

こうして閣議は、次第に結論を一つに絞り上げていった。ポツダム宣言受諾の可否は決めずに事態を見守るということであった。これは先の最高戦争指導会議とまったく同じであった。ひとまず東郷外相と鈴木首相の“勝利”ということができた。なぜかというと、豊田軍令部総長は、このポツダム宣言は不都合だという声明文を発表するように迫り、阿南陸相も、ポツダム宣言を発表する以上は、これについての日本政府の考え方も述べるべきだといっていたからだ。

この日の主役は東郷であったが、鈴木はそれを支えるのに懸命であった。まさに日本の存亡をかけた二人三脚だったのである。



しかし、最後の詰めの段階で、ふたりは予想外の結果を迎えるのである。その努力が水泡に帰してしまうのだ。



閣議では、このポツダム宣言をどのように新聞、ラジオで報道させるかを最後の議題とした。単純に技術的な問題という意識が、全員にあったかもしれない。

東郷はこの報道はしばらく控えておいたほうがいいかもしれないといった。だが、阿南陸相は、最高戦争指導会議のときと同様に、発言する以上は反対意見を掲載しなければならないと主張した。すでに陸軍部内には、前線の将校から、ポツダム宣言についてなぜ反対しないのか、これでは将兵の士気は維持できないとの苦情書きが届いているといわれていて、阿南もこれに答えなければならなかったのだ。閣僚の中にも、そういう意見に賛成する者があった。

結局、大きく扱わない、個別の項目につき論評しない、ソ連には触れない、戦意低下につながる表現は用いない、と決まって発表することになった。



閣議はこういう結論を得たのだが、27日夕刻から28日朝にかけて、内閣側には陸海軍の戦争継続派の将校が押しかけてきて、執拗にポツダム宣言受諾せず、の手を打ってほしいといいつづける。窓口はもっぱら書記官長の迫水であったが、彼もしだいにその執拗さに音をあげたのである。こういう動きは28日付けの朝刊にポツダム宣言が発表されてからは、ますます激しくなっていった。

閣議の意向を受けて発表された28日付の朝刊では、米・英・重慶政府が、日本降伏の最後条件を表明したことと、これは謀略放送の疑いもある、となっていた。朝日新聞と毎日新聞は紙面の左端に、読売新聞は紙面の下に掲載している。情報局の指示通りであった。記事の内容は、この宣言を「笑止」とか「黙殺」という表現で軽く見ようとする配慮で満ち満ちていた。情報局の指導は、『敵側は、こんな謀略放送をしているが、日本はこれれを「笑止」、「黙殺」するという態度だ』という点に力点があったのだ。

東郷はこれに激怒している。どの新聞の記事もよく読んでみると、政府はこれを「黙殺すると決した」と報じているようにしか読めないのだ。東郷は、これでは閣議の約束とは違うではないかといって、鈴木首相に抗議している。練達な外交官である東郷は、こうした記事を英語に訳して相手(米英)に伝えるとなれば、日本はポツダム宣言を拒否している、というようにしか読みようがないことを知っていた。


(「敗戦前後の日本人」/ 保坂正康・著)

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上記に引用したように、事実、米英には、“ ignore it entirely ” 、「完全に無視する」と訳されて伝えられたのでした。こうして無駄に時間が過ぎて行き、8月6日朝、広島の上空で史上初めて核爆発が生じました。ポツダム宣言第3項で言われていた、「吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ」、つまり、日本軍も日本国民も、日本の国土をも完全に破滅に至らせる軍事力の最高度の行使が行われはじめたのです。続いて長崎にも原子爆弾が投下され、沖縄に米軍が上陸し、住民を巻き込んだ殲滅戦が展開されたのでした。


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広島の被爆教授の訴えと今日の国会議員

2007年08月05日 | 一般
終戦以来62年が過ぎ、戦争を経験したことのない世代が政界でも財界でもトップに立つ時代になりました。特に2006年12月に教育基本法が強行採決によって改訂されてからこっち、次々と「戦前レジーム」への回帰(保坂正康の言)ともいうべき事態が進展しています。明日はヒロシマに原爆が投下された日。その3日後は長崎。久間元「防衛大臣」が原爆投下も「しようがない」発言をし、安倍総理は安倍総理で集団的自衛権容認へむけて意地を張っています。こういう時代に、もういちど思い起こしておきたい一文をご紹介します。

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今日わが日本の国是・国策の一切を規定する唯一絶対の基礎たる日本国憲法の前文を読むと、そこにはこうある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

こうした趣旨から出発して憲法第2章は「戦争の放棄」を宣言して言っている。



日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



日本国民はポツダム宣言を受諾し、今までの軍国日本が人類に対していかに戦争の惨禍と不幸を与えたかを懺悔し、いまだかつて世界にない全面的な戦争の放棄と徹底的な永久平和とを主張する新憲法を、議会を通じて決定した。このようにしていまや日本国憲法は、国民の理想であるとともに、国民の悲願となったのである。

あの聖書の中にある「エホバは地の果てまでも戦を止めしめ、弓を折り、矛を断ち、戦車を火にて焼き給う(詩篇46章)」というキリスト教の絶対平和の精神が、今や欧米のいずれのキリスト教国でもなくて、人類史上はじめてわが日本国憲法に雄々しくも厳然として現れたのである。

この新憲法はもちろん外国人が作ったものではなくて、われわれ日本国民自らが作ったものである。ただ占領下にある日本が戦争放棄のこの憲法を決定するに当たって、ポツダム宣言を実行する責任を連合国に対して持っている立場から言っても、さらには連合国が希望したというのが言いすぎであるとするなら、少なくとも連合国が反対しなかったことは事実であろう。

というのは、敗戦後の日本のあり方を決定する新憲法の制定が、ポツダム宣言に違反し、連合国の希望に反して成し遂げられるということは、無条件降伏の日本に決して許されるはずがないからである。

しかしわが国民は他国からの強制の故に戦争を永久に放棄するという新憲法を制定したのでは決してなかった。詳しく言えば日本国民が今まで犯してきたもろもろの罪を全人類の前に懺悔し、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争放棄の新憲法を決定したのであった。

したがって戦争の放棄は全人類に対する日本国民の義務であるとともに、これに対して連合国民が援助と激励をあたえることは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」新憲法を制定した日本国民に対する、少なくとも道徳的の義務と言えるのではあるまいか。





しかるにこの新憲法に対する無理解と、それが制定に至るまでの歴史的な条件についての常識の欠如から、日本人としていとも恥ずべき言動が、今や(1951年当時)次から次へと巷間に見られるに至ったことは悲しみにたえない。

例えばあの歴史的悲劇である朝鮮の動乱(朝鮮戦争)に対して、大多数の心ある日本人が同情の涙さえ流しているのに、次のような悲しむべき言をなすものさえあるのである。

「…この4つの島に8500万人(1951年当時の日本人口?)が閉じ込められて…これは連合軍が最初日本を統治する際、まさか日本がこんなに従順だとは思わないで、このライオン(日本のこと。日本はほんとうは強いんだ、という自意識)をどういうふうにしてやろうかと思ったときに、アメリカの哲学者が『ナニ、4つの島に閉じ込めておきさえすれば、生活難でお互いに相食むようなことになるからいいんだ』と云われたそうですが、確かな狙いでしたからね。幸いなことに、朝鮮事変のおかげで…これは神風でしょうよ…われわれはこれと云う資源を持っておりませんから、朝鮮・満州の厄介にならなければどうにもなりません。このままで進めば先へ行って大変なことになります。朝鮮動乱は全く神風だと思いますよ」(修養団機関紙『和親』昭和26年6月号、11ページ)。

学習院院長安倍能成氏は、その著『平和への念願』(昭和26年、岩波書店発行)のなかで次のように言っている。

「わが国民の一部には、戦争があれほどの惨害と不幸をもたらしたことを考えず、また広島や長崎で十数万の同胞が世界最初の原子爆弾試験動物に供せられた人類的国民的悲劇をも忘却して、敗戦後の困窮と不景気の除去を、またもや戦争の勃発によって僥倖しようと願う者のあることは、実にあきれ果てた次第である。殊に世界の二大強国なるアメリカ、ソヴィエットの不和に乗じ、小策を弄してその間に漁夫の利を占めようとするがごときは、敗戦のわが国をとことん滅亡にまで沈淪(ちんりん;淪はしずむ、の意)させる外の何ものでもないということを、深く深く認識しなければならない。

 軍隊と武力とを有しないわが国の取るべきは、軍隊と武力以外にも、どの国の戦争にも関与せず、どの国の戦争にも協力せぬことである。それはすなわち中立である。現実における日本の国際的事情から、このことの困難もしくは不可能を説く人もあるが、もしそれができなければ、果たして何のための戦争の放棄であろう。自分の国の戦争は放棄して、外の国の戦争の手伝いは続けるという不合理が許されるであろうか。

 それが単なる不合理に止まるならばまだよい。その結果は日本を戦争に巻き込まずにはおかず、再び戦争の惨禍を国民に負わせ、憲法の破壊に終わらせて、日本国民の立つべき道義的基礎も物質的基盤もなくしてしまうではないか。日本国民はまさに死を賭しても、いかなる意味でも戦争に参加したり協力したりしてはならない」(同書18‐19ページ)。

われわれはこの哲学者の教えを胸に刻みつけるとともに、今や先にかかげた憲法の前文と戦争放棄の第2章を読み直して、新たな決意を固めなくてはならない。





大戦終了後六年、依然として世界は不安につつまれ、またしても新たな戦争への脅威が身近に感じられる。そこで決して二度と戦争を起こさせてはいけない、どうかして平和を守り通そうという意気が、今や全世界の隅々から沸き起こってきたのも当然である。今度もし戦争が起こり、原子爆弾第3号が炸裂するならば、クラウゼウィッツのいわゆる暴力の無限界行使で、それは測り知れない連鎖反応を誘発して、何万発という原爆・水爆が戦争に加わる国の津々浦々までも炸裂して、地球を人類滅亡の墓場と化すであろう。原爆はその性質上奇襲によって多数の市民を殺戮するには適していても、勝敗を決するいわゆる決定的兵器ではなく、いわんや原爆・水爆を以って平和をもたらすなどということの決して望めぬことは、今日の原子力学者の常識となっている。

こうした世界の情勢が、世界中のひとりひとりをして「われわれは戦争を欲しない」「われわれは平和を求める」という力強い意思表示をさせることを要求している。それが急迫した今日の世界の状態ではなかろうか。なるほど人々が今日戦争への脅威に脅かされていることは事実であるが、しかしそれと同時に、いやそれゆえにまた一方において、人類が平和を求めて、力強く立ち上がりつつあることも人類史上未曾有の出来事ではないか。


(長田新/ 「原爆の子」編者、同書「序」より)

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憲法9条をここまで真摯に受けとめられていることには感動しました。長田新さんは大学の先生です。解説によると、「長田先生は、原爆が人間の精神にどのような影響を与えたかということに関心を持たれ、とくに感受性の強い少年少女たちがあの原爆で何を感じ、何を考えているかを知ることは、教育者や政治家ばかりではなく、あらゆる階層の人々にとって重要な意味と価値を持つ問題であると考えられた。そして先生は、教育学者としての立場から、原爆によって被害を受けた少年少女の手記を集め、それを『平和のための教育』研究の資料とする計画を立てられた」…ということで昭和26年10月に上梓されたのが「原爆の子」です。

上記引用文は、永田さんによる「序」の「二」からのものです。前半を引用しました。後半には教育基本法の意義についての長田さんの見解が感動的につづられています。後半の文章も近々ご紹介します。

この文章を読めば、イラク派兵がどれほど日本国憲法の原理から逸脱したことかよく理解できます。また久間発言のような「恥ずべき言動」が生じるのは「しかるにこの新憲法に対する無理解と、それが制定に至るまでの歴史的な条件についての常識の欠如」にあるということがよくわかります。自民党がつくった「改正憲法草案」のような「国民に義務を課す憲法」というような憲法の常識を外れた草案が堂々と公表されるのも、憲法というものへの無理解があるのです。現代の憲法学者の浦部法穂さんはその著書「憲法学教室」でこのように言っておられます。

「日本国憲法99条は、大臣、国会議員、裁判官等に、憲法を尊重し擁護する義務を課しているが、これは、憲法というものの性格から当然のことを定めたものである。すなわち、『憲法は、国家機関に対する授権規範・制限規範であり、その規範的拘束は基本的に、国家機関に対して向けられたもの』だということである。憲法というものが、国家の権力担当者に向けられた規範であるということ、したがって憲法を守らなければならないのはこれら権力担当者であるということは、近代立憲主義の大前提である。

しかし、最近、こうした憲法の基本的性格を180度転換し、『国民が守るべき憲法』に変えようという議論が、ほかならぬ国会議員たちのなかから沸き起こっている。たとえば2004年6月に発表された「自民党憲法調査会」の「中間報告」は、憲法とは権力制限規範にとどまるものではなく、「国家と国民が協力し合いながら共生社会を作るためのルール」として位置づけるべきものだといい、また同じく2004年6月の「民主党憲法調査会」の「中間報告」は、憲法は「国民一人ひとりへのメッセージ」であり、「国民と国家の強い規範として、国民一人ひとりがどのような価値を基本に行動をとるべきなのかを示すものであることが望ましい」と述べている。こんな「憲法」はもはや「憲法」とは呼べない。政権党も野党第一党も憲法というものの基本さえまったく理解していないとは、怖ろしいことである」。

おなじく法律学教師の伊藤真さんもこのような報告をしています。

「私は、2006年5月18日に衆議院の日本国憲法に関する調査特別委員会に参考人として出向いて、憲法改正国民投票法制の要否について話をしています。この日にはもうひとり、慶応大学法学部の小林節教授も参考人として呼ばれていました。

世の中では、私(伊藤)は護憲派、小林教授は改憲派と認識されているようです。小林教授と私とでは9条についての考え方に違いがありますし、国民投票法の制定を急ぐべきか否かについても逆の考え方を持っていますが憲法の本質についての認識は一致しています。おそらく2人を呼んだ側としては、改憲派と護憲派とで真っ向から意見が対立するであろうと考えていたのかもしれません。しかし、この委員会において、実際は憲法の意義や、イラクへの自衛隊派遣が憲法違反であること、愛国心を憲法の条文に盛り込むことに反対であることなどについて、わたしたちの意見はぴたりと一致して、当時の小泉政権のやっていることを憲法の本質から見て批判したものですから、聞いている委員側にとっては驚きだったようです。

憲法とは国家権力を拘束するものであって、国民に義務を課すものではないという点について(あたりまえのことですが)二人の認識は共通しています。私は、国民の間にこの共通認識がない段階で、改憲や国民投票法を制定するのは危険であると考えています。それに、小林教授も自民党の議員の暴走ぶりを見て、このまま改憲に突き進むのはかなり危ないことだと考えられているようです。

それにしてもこのときの委員会のようすは、忘れることはできません。憲法という国の根幹にかかわる法案の審議中であるのに、まるで学級崩壊を起こした小学校のようでした。委員は50名近くいるのですが、出席しているのは半数ほど。あとの半分は出たり入ったりを繰り返し、きちんとこちらの話を聞いてくれたのかどうか疑問が残りました」(「憲法の力」/ 伊藤真・著)。



要するに、国会議員からして憲法というもの、立憲主義というものへの理解がないのです。さらに伊藤さんの委員会の様子から見ると、まじめに議論しようという姿勢すらない、ということです。「原爆の子」が発売された当時、まだ戦後6年目にして大陸への野心にふたたび火がつき始めていたというのです。戦争を経験した世代が消え去ろうとしている今ならなおさらでしょう。

民主党の前原さんは、アメリカとの関係を悪くするのでテロ特措法は継続するべきだといいました。参議院で民主党が第一党になったからと言って、安倍暴走車にブレーキがかかるとは言い切れない不安がここにあります。民主党の中には、ワシントンポスト紙に、従軍慰安婦日本軍不関知説の意見広告をやった議員が多数いるのです。しかし、戦後間もないころの学知はこうです。

「軍隊と武力とを有しないわが国の取るべきは、軍隊と武力以外にも、どの国の戦争にも関与せず、どの国の戦争にも協力せぬことである。それはすなわち中立である。現実における日本の国際的事情から、このことの困難もしくは不可能を説く人もあるが、もしそれができなければ、果たして何のための戦争の放棄であろう。自分の国の戦争は放棄して、外の国の戦争の手伝いは続けるという不合理が許されるであろうか。

 それが単なる不合理に止まるならばまだよい。その結果は日本を戦争に巻き込まずにはおかず、再び戦争の惨禍を国民に負わせ、憲法の破壊に終わらせて、日本国民の立つべき道義的基礎も物質的基盤もなくしてしまうではないか。日本国民はまさに死を賭しても、いかなる意味でも戦争に参加したり協力したりしてはならない」。このことばを現代に当てはめれば、イラク派兵は100%憲法違反だということです。



わたしたち国民は憲法の勉強をするべきです。そうする義務は憲法が定めているのです。わたしたちは国民主権と、市民としての権利を擁護するよう不断の努力をしなければならないのです(第12条、96条)。憲法について読みやすい図書としては、杉原泰雄さんによる岩波ジュニア新書の「憲法読本」があります。伊藤さんがおっしゃっているように、国民の側に憲法というものへの基本的理解がないうちに改憲をするのは危険なのです。なにしろ国会議員のレベルは「学級崩壊を起こしている小学生」程度なのですから。


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センチメンタル・レイン

2007年08月04日 | 一般


■センチメンタル・レイン




雨の日は嫌い?

眺めてる分には
雨って心を静めるよね…
アスファルトではじく音、遠くのざわめきのよう

人間って、結局はみんなひとり
ふたりいても、おおぜいいても
ほんとうの自分を知っているのはわたしだけ

ひとりであると思うときが
寂しいこともあるけれど
なぜか落ち着くこともある

感傷にひたるなら雨の日がいい
やたら懐かしく、「あの日に帰りたい」のは
その時々を精いっぱい生きていなかったからだけれど

でもいまはもういいの
なつかしいことが今は愉しいから
なぜって、あのころから、きっとこうなるだろうなって

そう、こうなるだろうって分かっていたから
だから今日このごろ、地道に生きていることは
近い将来に、きっと華になる

それが分かるから、なつかしいことが、いまは愉しい
アスファルトを流れる水のように
緑の表面にたくさんの色の花びらをさかせるのが見えるから

 

 

 

2005/07/04  20:37






-------------------------

なにかを求めて
振り返っても、

そこにはただ、風が吹いているだけ…

 


振り返らずただ一人、一歩ずつ。
振り返らず、泣かないで、歩くんだ。

 


「風」/ はしだのりひことシューベルツ

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