つづき
「いじめ」とは自分より弱い立場にあるものを、肉体的・精神的に苦しめることと定義されたので、ここでは社会的差別も「いじめ」の範疇に入れられたわけです。そしてそうした差別=いじめはいつの時代にもあったが、それを「いじめ」と自覚されることがなかった、だからそういうことが改善される機会が生じなかった、ということです。当然、いじめが「精神的な暴力」であるという認識もなかったわけです。それどころか暴力は権力者たちの特権として公然と横行していました。とくに残酷なのは、道徳によって権威づけられていたいじめの構造です。女の人権を蹂躙することが、道徳的に正しいことだったのです。ちょうどパリサイ人たちが、クリスチャンを狩り、処刑していくことを「神への神聖な奉仕」だと考えていたように、道徳的に正しいことを行うということで、女性は着の身着のままで放り出されたんですね。
エホバの証人社会のいじめだって、道徳で権威づけられています。存在を否定する、存在を無視する、人の仕事を否定する、助言という形で侮辱を加える、調整するという名目で罵倒する、などモラル・ハラスメントの手法はみな道徳的に権威づけられます。長老の権威にむかって意見することは、神への挑戦だという道徳によって、人間を精神的暴力にさらす。「道徳ってなんだろう」と問いかけられていますが、道徳は共同体の伝統的な風習であって、それは人間によってつくられたものでしかないのです。それを神の権威によって(旧憲法下では天皇の権威によって)人間の及ばない絶対的なものに仕立て上げられているにすぎないのです。ですから、道徳を無条件にのみ込んではならないのです。何百年来の伝統的な道徳であろうが、何千年来の神の律法や、万世一系の天子さまの勅語であろうが、人間を押しつぶすものであるなら、即座に検討しなおすべきなのです。
ちょっと熱くなってしまいましたが、そういう人間を肉体的・精神的に苦しめる社会構造やイデオロギーをいま改めて、『いじめ』と捉えなおす、長年の会社の風習である「日本的宴会」にみられる女子社員への所業を『ハラスメント』として捉えなおす、そういう名前をつけて定義しなおすことで、伝統が変えられる代わりに、人間を苦痛から解放できるのです。いえ、人間を苦痛から解放するのです。「名前をつけて定義するのは大事なこと」なのです。そういうふうに、いじめやハラスメントという概念がつくられるようになる流れは以下の通りです。
------------------
「じゃあ君も、ぼくと同じ定義で考えるかぎり、昔にもいじめがあった、という意見に賛成してくれる?」
「ええ、賛成ですよ。で、なぜ、それがなくなっていったか、ですよね」
「弱い立場に置かれた人たちが、人権という考えに目覚めて、それをあたりまえのことと考えなくなったこと、いじめはなくさねばならないと考えるようになっていったこと、そして特権を持っていて、いじめる側の人間だった人の中に、これはおかしいと自覚する人が出て、その特権を自分から捨てていった人たちがあること、などが理由だね」
「へえ、『人権』ですか」
Y君はしきりとうなずいていた。
「すると、いじめという言葉が使われるようになったのは、人々の心に人権意識が次第に目覚めていったのと、時期的に一致するのか…?」
「いいところに気がついたね。正確にぴたりとはいえないが、意識されて言葉が流行し、言葉が流行して意識が深まる、という関係かな」
「それはなぜなんでしょう?」
「これはぼくの考えだが、言葉というのはね、かつては特権階級のものだったんだ。庶民はほとんど読み書きができなかったからね。今残っている昔の言葉は、みな記録された書き言葉が主だから、庶民の感情をこめた言葉はあまり入っていない。そういう言葉は俗語として蔑まれてきた。いじめの事実は大昔からあったのだけれど、だからそれが言葉になったのは二百年くらい前、ということになろうか。大衆的な読み物に出てきたところが象徴的だ。また同じころに、『同じ人間なのに』という言葉が、誰の口からも自然に出るようになった。外国語の『いじめ』にあたる言葉も俗語として出てきたようだ。徐々にではあったけれど、差別をやめさせようという動きもでてきたし、『人権』という考え方も広がりを見せたのさ」
ぼくは自分の考えを社会科ふうにまとめた。
「なるほど、言葉にはそういう一面もあるのかもしれませんね。たしかに『いじめ』って、庶民の感覚の言葉ですね。『人権』の方は知識人的で、理屈っぽい響きがある。でも、ふたつはペアで考えるべき言葉なんだ」
「ま、そういうことだ。18世紀の中ごろから、世界、ことにヨーロッパやアメリカではだんだんと人権というものが意識されるようになってきた」
「フランス革命やアメリカの独立の影響でそうなったんですか」
「いや、もとはそういう考えが広まって、フランス革命やアメリカの独立も起こった。だがその革命は飛び火したんだね。その飛び火したところでは、人権なら人権という考えが今度は革命を起こす」
「フランス革命のあと、革命が輸出される形になったし、アメリカが独立すると、その後植民地の独立が続いたのは、この事件が世界に影響を与えたためだと、高校では習いました」
「なるほど」
「ともかく、人権というものがそのころから人間に意識されるようになってきたことは確かですね。そしてその前に、古い制度の下で生きている大衆に、『いじめ』として実感されるようになっていた。『いじめ』という言葉も使われるようになっていた…」
「…とぼくは考えるんだがね」
「そして、その結果、世の中のいじめは次第に縮小するようになっていった」
「弱い立場の無産階級、労働者たちも、ひとりだったらいじめられてしまうけれど、労働組合をつくって闘えば、いじめられないですむという知恵を身につけた。被差別の住民だって、という団体をつくって自分たちの人権を勝ち得て、守ろうとした」
「こうして、『いじめ』にあっても泣き寝入りせず、闘って人権を守ろうとしてきたんですね。そうした努力の結果、少しずつだけど、社会のいじめは縮小してきた部分もある」
(上掲書より)
------------------
モラル・ハラスメントは「ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである」(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)と定義づけられました。それまでは人間関係ではごく当然なこと、あたりまえに存在してきたこと、無視し続ける、とか妻や部下にぞんざいに接するとか、妻や子どもの人生を夫=父親が決め、服装の好みまで夫が決めるというようなことは、亭主関白として微笑ましくさえ受けとめられてきたことですが、それをここでハラスメントとして捉えなおす、以前には妻や子ども、部下たちの方が心の持ちようで処理すべきこととされてきたことを、ハラスメントとして捉えなおすことで、夫、父親、母親、上司や管理職者の側の未熟さ、人権蹂躙として扱おうとするのです。それは子どもや従業員や女性は、夫や父親や上司と同様の人間であり、人間として尊厳を尊重される権利がある、と考えるのです。ハラスメントを忍ぶのは決して義務なんかではありません。そういう考えはある人間の人生を別の人間の所有物のようにさせてしまいます。被害者側の人間から生きる喜びを奪い去ってしまう行為だからです。
香山リカさんは、今年に起こった事件を持ち出してこう述べておられます。
------------------
2007年1月10日、日本中に衝撃的なニュースが走った。東京都新宿区と渋谷区で2006年12月、男性の切断遺体が相次いで見つかった事件で、被害者が特定され、容疑者が逮捕されたのだ。被害者は、30歳の米大手投資銀行「モルガン・スタンレー」のグループ会社員だった。そして容疑者はその被害者の妻である32歳の女性だった。妻は、「夫を殺してのこぎりで切断し、路上などに捨てた」と容疑をあっさり認めた。供述によると、女性は2006年12月12日早朝、帰宅して寝ていた夫の頭部をワインの瓶で殴って殺害し、自宅内で切断したという。単独犯だった。
動機について容疑者はこう語ったと報じられた。「2003年の結婚後半年くらいから、夫と行き方が合わず口論するようになった。夫から自分のことを否定されたり、暴力を振るわれたりして殺意を抱いた」「夫は一度として真に『悪かった』という謝罪の気持ちがなかった。ひどい暴力を受け、いつか殺そうと考えるようになった」。
容疑者の妻にとってもっとも耐えられなかったことは、やはり「夫と生き方が合わないこと」や「自分の生き方を否定されたこと」だったのではないか。もっと具体的に言えば、「話をしても真剣に聞いてもらえない」「カネさえやっているのだからこれでいいだろう、といった態度を取られる」「自分の人生についていろいろ考えて相談しても、取り合ってくれずバカにした薄笑いを浮かべる」ということだ。
こうやって具体的に説明しても、多くの読者は、「それくらい、どこの家庭にでもあるだろう」「収入も十分、妻のしたいことは自由にさせる、それのどこが『真剣じゃない』んだ?」と理解できないに違いない。じつはこれこそがモラル・ハラスメントなのである。
(「知らずに他人を傷つける人たち-モラル・ハラスメントという大人のいじめ」/ 香山リカ・著)
------------------
「それくらい、どこの家でもあることだろう」。ただ単に口が悪いだけ、そんな人間はどこにでもいる、そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないじゃない…。
いいえ、そういう些細なことひとつひとつをないがしろにしてきたから、人間関係が希薄になり、不信感が深まってゆくようになったのです。わたしは、愛するにもルールがある、と考えています。そしてこの考えは正しい、と確信しています。傷つける言葉はしょせん傷つける言葉なのです。動機には悪気がなかったとしても、言葉を選ばないなら、表情を選ばないなら、つまり相手を尊重する意思表明がないなら、悪気はないということすら伝わらないのです。現代人は愛し方を知らないのです。人を愛するつもりでも、実際にやっているのは、「自分を愛せ」と強要しているのです。そしてそうすることが、人間のつきあいというものだ、と誤解してきたのです。イルゴイエンヌ医師の著書のサブタイトルは、「人を傷つけずにはいられない」となっています。人を傷つけることで人と関わろうとしてきたのです、わたしたちは。だから、今、これまであたりまえだと思ってきた考え方、習慣、話し方、人との関わり方を再検討するのは必要だと、わたしは切実に思います。
ハラスメント、いじめ。これまではされるほうの問題とされてきたことを、改めてここで「ハラスメント」と定義づけ、ハラスメントを加えるほうの責任を追及し、人権問題とみなし、人間関係の思いやりのスキルという観点から、問題として捉えなおそうとするのです。次週、モラル・ハラスメントの手法について書いてみます。
「いじめ」とは自分より弱い立場にあるものを、肉体的・精神的に苦しめることと定義されたので、ここでは社会的差別も「いじめ」の範疇に入れられたわけです。そしてそうした差別=いじめはいつの時代にもあったが、それを「いじめ」と自覚されることがなかった、だからそういうことが改善される機会が生じなかった、ということです。当然、いじめが「精神的な暴力」であるという認識もなかったわけです。それどころか暴力は権力者たちの特権として公然と横行していました。とくに残酷なのは、道徳によって権威づけられていたいじめの構造です。女の人権を蹂躙することが、道徳的に正しいことだったのです。ちょうどパリサイ人たちが、クリスチャンを狩り、処刑していくことを「神への神聖な奉仕」だと考えていたように、道徳的に正しいことを行うということで、女性は着の身着のままで放り出されたんですね。
エホバの証人社会のいじめだって、道徳で権威づけられています。存在を否定する、存在を無視する、人の仕事を否定する、助言という形で侮辱を加える、調整するという名目で罵倒する、などモラル・ハラスメントの手法はみな道徳的に権威づけられます。長老の権威にむかって意見することは、神への挑戦だという道徳によって、人間を精神的暴力にさらす。「道徳ってなんだろう」と問いかけられていますが、道徳は共同体の伝統的な風習であって、それは人間によってつくられたものでしかないのです。それを神の権威によって(旧憲法下では天皇の権威によって)人間の及ばない絶対的なものに仕立て上げられているにすぎないのです。ですから、道徳を無条件にのみ込んではならないのです。何百年来の伝統的な道徳であろうが、何千年来の神の律法や、万世一系の天子さまの勅語であろうが、人間を押しつぶすものであるなら、即座に検討しなおすべきなのです。
ちょっと熱くなってしまいましたが、そういう人間を肉体的・精神的に苦しめる社会構造やイデオロギーをいま改めて、『いじめ』と捉えなおす、長年の会社の風習である「日本的宴会」にみられる女子社員への所業を『ハラスメント』として捉えなおす、そういう名前をつけて定義しなおすことで、伝統が変えられる代わりに、人間を苦痛から解放できるのです。いえ、人間を苦痛から解放するのです。「名前をつけて定義するのは大事なこと」なのです。そういうふうに、いじめやハラスメントという概念がつくられるようになる流れは以下の通りです。
------------------
「じゃあ君も、ぼくと同じ定義で考えるかぎり、昔にもいじめがあった、という意見に賛成してくれる?」
「ええ、賛成ですよ。で、なぜ、それがなくなっていったか、ですよね」
「弱い立場に置かれた人たちが、人権という考えに目覚めて、それをあたりまえのことと考えなくなったこと、いじめはなくさねばならないと考えるようになっていったこと、そして特権を持っていて、いじめる側の人間だった人の中に、これはおかしいと自覚する人が出て、その特権を自分から捨てていった人たちがあること、などが理由だね」
「へえ、『人権』ですか」
Y君はしきりとうなずいていた。
「すると、いじめという言葉が使われるようになったのは、人々の心に人権意識が次第に目覚めていったのと、時期的に一致するのか…?」
「いいところに気がついたね。正確にぴたりとはいえないが、意識されて言葉が流行し、言葉が流行して意識が深まる、という関係かな」
「それはなぜなんでしょう?」
「これはぼくの考えだが、言葉というのはね、かつては特権階級のものだったんだ。庶民はほとんど読み書きができなかったからね。今残っている昔の言葉は、みな記録された書き言葉が主だから、庶民の感情をこめた言葉はあまり入っていない。そういう言葉は俗語として蔑まれてきた。いじめの事実は大昔からあったのだけれど、だからそれが言葉になったのは二百年くらい前、ということになろうか。大衆的な読み物に出てきたところが象徴的だ。また同じころに、『同じ人間なのに』という言葉が、誰の口からも自然に出るようになった。外国語の『いじめ』にあたる言葉も俗語として出てきたようだ。徐々にではあったけれど、差別をやめさせようという動きもでてきたし、『人権』という考え方も広がりを見せたのさ」
ぼくは自分の考えを社会科ふうにまとめた。
「なるほど、言葉にはそういう一面もあるのかもしれませんね。たしかに『いじめ』って、庶民の感覚の言葉ですね。『人権』の方は知識人的で、理屈っぽい響きがある。でも、ふたつはペアで考えるべき言葉なんだ」
「ま、そういうことだ。18世紀の中ごろから、世界、ことにヨーロッパやアメリカではだんだんと人権というものが意識されるようになってきた」
「フランス革命やアメリカの独立の影響でそうなったんですか」
「いや、もとはそういう考えが広まって、フランス革命やアメリカの独立も起こった。だがその革命は飛び火したんだね。その飛び火したところでは、人権なら人権という考えが今度は革命を起こす」
「フランス革命のあと、革命が輸出される形になったし、アメリカが独立すると、その後植民地の独立が続いたのは、この事件が世界に影響を与えたためだと、高校では習いました」
「なるほど」
「ともかく、人権というものがそのころから人間に意識されるようになってきたことは確かですね。そしてその前に、古い制度の下で生きている大衆に、『いじめ』として実感されるようになっていた。『いじめ』という言葉も使われるようになっていた…」
「…とぼくは考えるんだがね」
「そして、その結果、世の中のいじめは次第に縮小するようになっていった」
「弱い立場の無産階級、労働者たちも、ひとりだったらいじめられてしまうけれど、労働組合をつくって闘えば、いじめられないですむという知恵を身につけた。被差別の住民だって、という団体をつくって自分たちの人権を勝ち得て、守ろうとした」
「こうして、『いじめ』にあっても泣き寝入りせず、闘って人権を守ろうとしてきたんですね。そうした努力の結果、少しずつだけど、社会のいじめは縮小してきた部分もある」
(上掲書より)
------------------
モラル・ハラスメントは「ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである」(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)と定義づけられました。それまでは人間関係ではごく当然なこと、あたりまえに存在してきたこと、無視し続ける、とか妻や部下にぞんざいに接するとか、妻や子どもの人生を夫=父親が決め、服装の好みまで夫が決めるというようなことは、亭主関白として微笑ましくさえ受けとめられてきたことですが、それをここでハラスメントとして捉えなおす、以前には妻や子ども、部下たちの方が心の持ちようで処理すべきこととされてきたことを、ハラスメントとして捉えなおすことで、夫、父親、母親、上司や管理職者の側の未熟さ、人権蹂躙として扱おうとするのです。それは子どもや従業員や女性は、夫や父親や上司と同様の人間であり、人間として尊厳を尊重される権利がある、と考えるのです。ハラスメントを忍ぶのは決して義務なんかではありません。そういう考えはある人間の人生を別の人間の所有物のようにさせてしまいます。被害者側の人間から生きる喜びを奪い去ってしまう行為だからです。
香山リカさんは、今年に起こった事件を持ち出してこう述べておられます。
------------------
2007年1月10日、日本中に衝撃的なニュースが走った。東京都新宿区と渋谷区で2006年12月、男性の切断遺体が相次いで見つかった事件で、被害者が特定され、容疑者が逮捕されたのだ。被害者は、30歳の米大手投資銀行「モルガン・スタンレー」のグループ会社員だった。そして容疑者はその被害者の妻である32歳の女性だった。妻は、「夫を殺してのこぎりで切断し、路上などに捨てた」と容疑をあっさり認めた。供述によると、女性は2006年12月12日早朝、帰宅して寝ていた夫の頭部をワインの瓶で殴って殺害し、自宅内で切断したという。単独犯だった。
動機について容疑者はこう語ったと報じられた。「2003年の結婚後半年くらいから、夫と行き方が合わず口論するようになった。夫から自分のことを否定されたり、暴力を振るわれたりして殺意を抱いた」「夫は一度として真に『悪かった』という謝罪の気持ちがなかった。ひどい暴力を受け、いつか殺そうと考えるようになった」。
容疑者の妻にとってもっとも耐えられなかったことは、やはり「夫と生き方が合わないこと」や「自分の生き方を否定されたこと」だったのではないか。もっと具体的に言えば、「話をしても真剣に聞いてもらえない」「カネさえやっているのだからこれでいいだろう、といった態度を取られる」「自分の人生についていろいろ考えて相談しても、取り合ってくれずバカにした薄笑いを浮かべる」ということだ。
こうやって具体的に説明しても、多くの読者は、「それくらい、どこの家庭にでもあるだろう」「収入も十分、妻のしたいことは自由にさせる、それのどこが『真剣じゃない』んだ?」と理解できないに違いない。じつはこれこそがモラル・ハラスメントなのである。
(「知らずに他人を傷つける人たち-モラル・ハラスメントという大人のいじめ」/ 香山リカ・著)
------------------
「それくらい、どこの家でもあることだろう」。ただ単に口が悪いだけ、そんな人間はどこにでもいる、そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないじゃない…。
いいえ、そういう些細なことひとつひとつをないがしろにしてきたから、人間関係が希薄になり、不信感が深まってゆくようになったのです。わたしは、愛するにもルールがある、と考えています。そしてこの考えは正しい、と確信しています。傷つける言葉はしょせん傷つける言葉なのです。動機には悪気がなかったとしても、言葉を選ばないなら、表情を選ばないなら、つまり相手を尊重する意思表明がないなら、悪気はないということすら伝わらないのです。現代人は愛し方を知らないのです。人を愛するつもりでも、実際にやっているのは、「自分を愛せ」と強要しているのです。そしてそうすることが、人間のつきあいというものだ、と誤解してきたのです。イルゴイエンヌ医師の著書のサブタイトルは、「人を傷つけずにはいられない」となっています。人を傷つけることで人と関わろうとしてきたのです、わたしたちは。だから、今、これまであたりまえだと思ってきた考え方、習慣、話し方、人との関わり方を再検討するのは必要だと、わたしは切実に思います。
ハラスメント、いじめ。これまではされるほうの問題とされてきたことを、改めてここで「ハラスメント」と定義づけ、ハラスメントを加えるほうの責任を追及し、人権問題とみなし、人間関係の思いやりのスキルという観点から、問題として捉えなおそうとするのです。次週、モラル・ハラスメントの手法について書いてみます。