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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方(2)

2019年12月12日 | 「世界」を読む

 

 

 

■「体制とりつくろい」のウソの数々

 

「切れ者」と称される茂木敏充前経済再生相(現外相)のもとで、「アメリカの言い分は全部飲みます。ただ、体制だけは繕ってください」(ネットへの揶揄を込めた投稿記事)と言われるほど、体制とりつくろいの悪知恵もしくは猿知恵がふんだんに盛り込まれたのが、今回の合意の特徴であった。ここでは、国会論戦の争点にもなった諸点について、ウソと猿知恵を暴くことを通じて、日米貿易協定の正体を浮き彫りにしたい。


□「自動車関税撤廃」のゴマカシ

 

アメリカはTPPで、自動車関税(2.5%)を25年、トラック関税(25%)を30年かけて撤廃し、自動車部品の8割を即時撤廃することを約束していた。しかし、日米貿易協定では、これは反故にされた。

 

政府は合意直後の説明文書では、自動車・同部品については「米国附属書に『さらなる交渉による関税撤廃』と明記」としたが、協定署名直後の10月18日の説明文書では「米国附属書に『関税の撤廃に関して更に交渉』と明記」とひそかに書き換えていた。

 

実際、公表された協定文に書いてあるのは「自動車・同部品の関税の撤廃については、今後のさらなる交渉次第である」ということだけである。しかも、この部分はいまだに翻訳は公表されていない。

 

「TAG」で使われた翻訳偽装の手口は使えないので、今度は合意直後には唯一の情報発信元だった政府説明文書を偽装したのである。

 

しかも政府は、自動車・同部品の関税が撤廃されたことにして「GDPが0.8%押し上げられる」という試算を発表しているが、鈴木宜弘教授の試算によれば、GDPは0.09%~ -0.07%と、ほぼゼロかマイナスになる(「農業協同組合新聞」2019年11月14日付け)。

 

また、自動車・部品関税を撤廃しなければ、アメリカは50%台の自由化率にとどまり、日米貿易協定はWTO(世界貿易機関)違反になって、無効な協定になるが、それを避けるために「さらなる交渉による撤廃」という空手形を織り込んでアメリカの自由化率92%をデッチあげた。

 

偽造・捏造はこの政権の常とう手段であるが、ひどすぎる。

 

□「追加関税なし」のゴマカシ

 

安倍政権を日米貿易交渉に引きずり込んだのは「自動車追加関税25%」の脅しだった。首相は、トランプ大統領の口約束をあてにして「追加関税なし」を勝ち取ったと言いわけしている。野党が「それなら首脳会談の議事録を公開しろ」と要求したが、政府与党はこれを拒絶したまま採決を強行した。

 

「追加関税なし」の根拠になっているのは、「協定が誠実に履行されている間、協定及び共同声明の精神に反する行動を取らない」という共同声明の文言である。これは2018年の共同声明と瓜二つだ。しかしトランプ大統領は、共同声明後も「追加関税は最高だ!」と言い、日米が大筋合意した直後にも「私が追加関税をやりたいと思えば、後になってやるかもしれない」「究極の交渉カードは自動車だ」と言い放っている(「朝日」「読売」2019年8月27日付け)。

 

しかも、協定本文には「協定のいかなる規定も安全保障上の措置をとることを妨げない」と明記されている。「安全保障」はトランプ追加関税の最大の口実であり、トランプ大統領が、自動車への追加関税という強力な武器を振りかざしながら、「第2ラウンド」で「アメリカ第一主義」むき出しの日米FTAをゴリ押しすることは必至である。

 

 


「日米の貿易交渉を検証する」/ 真嶋良孝・農民運動全国連合会副会長
 / 「経済」2020年1月号より

 

 

 

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日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方(1)

2019年12月12日 | 「世界」を読む

 

 

 

ウソを平気で重ねるのが「二枚舌」だが、この政権はいったい「何枚舌」なのか? 2012年の安倍政権成立時から簡単に振り返ってみよう。

 

ウソの始まりは、自民党が政権復帰することになった2012年12月の総選挙。「TPP断固反対!ウソつかない、ブレない自民党」のポスターが全国に張り巡らされ、江藤拓・現農水大臣も選挙広報に「TPP交渉参加には断固反対いたします!」と公約していた。

 

しかし、安倍首相が政権に復帰して真っ先にやったことは「TPP参加」だった。当時、「日本農業新聞」は、「国益に反する『壊国』協定参加に一片の大義なし。重大な公約違反であり、不信任に値する」と断じた。

 

第二のウソは、トランプ大統領が2017年1月にTPP離脱を表明した後、安倍首相は「アメリカにTPP復帰を促す。日米FTAは断固やらない」と強がってみせた。しかも安倍政権は「アメリカ抜きのTPPは無意味」「米国をTPPに呼び戻すメッセージ」と称してTPP11(11か国による協定)を主導した。

 

第三は、日米FTAそのものである日米貿易交渉開始を宣言した2018年9月の日米共同声明。政府は「TAG」(物品貿易協定)という新語まででっち上げ、安倍首相は「これは包括的なFTAとはまったく異なる」と強弁した。

 

そして今回。トランプ大統領は2019年9月26日の日米首脳会談で「かなり近い将来、日本との包括的な協定をまとめる」と強調し、ライトハイザー通商代表は2020年春以降に「第2ラウンド」に入ると述べて、本格的な日米FTA開始を宣言した。しかし、安倍首相はこれに一言も反論しなかった。その一方、国内向けには「新たな協定を結ぶか否かも含め予断をもって言うのは差し控えたい」(衆院本会議10月24日)と白々しい答弁を繰り返している。相手が「予断」を持ち、やる気満々なのが明白なのに、である。

 

要するに、「TPP断固反対」から「TPP参加」に転じ、トランプ大統領のTPP離脱表明後は❝留守番役❞としてTPPの延命を主導し、さらに「日米FTAは断固やらない」から、「TAG」なる翻訳捏造でごまかし、最後は「包括的な日米FTA」を受け入れようとしているのである。

 

このことは2019年9月26日の日米共同声明第3項から明白である。

 

「①こうした早期の成果が達成されたことから、日米両国は、②日米貿易協定の発効後、4か月以内に協議を終える意図であり、また、③その後、互恵的で公正かつ相互的な貿易を促進するため、関税や他の貿易上の制約、サービス貿易や投資に係わる障壁、その他の課題についての交渉を開始する意図である」(①②③は引用者・真嶋による)。
①安倍政権は農産物をめぐる日米貿易協定を「最終合意」と言い、これ以上の交渉はないかのように装っているが、共同声明では「早期の成果」にすぎないとされている。
②何の協議を「4か月以内に」終えるのか、文言は不明瞭だが、政府の説明によると③の交渉で取り扱う課題を協議するという。1月1日発効とすれば、4月までは協議を終え、ライトハイザー通商代表の言う「第2ラウンド」に突入する。この交渉では、「関税」や「他の貿易上の制約」、サービス・投資など、ありとあらゆる課題を取り上げることが共同声明で合意されているのである。これはコメを含む農産物の関税削減・撤廃や、医薬品・医療保険制度、食の安全基準などを含む本格的・包括的な日米FTAそのものである。
もっとも、茂木外相は「これは『意図』の表明にすぎず、今後の交渉次第」と弁明しているが、❝負け犬❞の遠吠えか、国民を欺く隠ぺいにすぎない。

 

 


■「交渉」とは名ばかりの「大統領向けセレモニー」

2018年9月の日米共同声明から1年、2019年4月の閣僚協議開始からわずか半年、異例の超短期で決着した日米貿易交渉における安倍政権の意図は、日本の農産物を差し出して、対米自動車輸出権益を守るというもののはずだった。しかし、「牛を取られて車は取れず」---日本は牛肉、豚肉などの関税を大幅に引き下げるTPP合意のほぼ完全実施の一方で、アメリカは自動車でTPP合意の完全拒否という一方的譲歩となった。

安倍首相は「日米ウィンウィン(双方の利益)の結果になった」「一方的譲歩という批判は当たらない」「日本の農業者にとって利益となる協定」と強弁を続けているが、その空々しさ、破廉恥さは「桜を見る会」「森友・加計問題」での弁明と同列である。

鈴木宜弘東大教授は「トランプ大統領の選挙対策のためだけの『選挙対策協定』だ」と喝破しているが、実際、カウボーイハットをかぶったアメリカの農業団体代表を首脳会談と署名式に同席させ、トランプ大統領が「米国の農業にとって巨大な勝利」と勝ち誇ったことに象徴されているように、「交渉」とは名ばかりの「大統領選向けセレモニー」(北海道新聞)だった。

 

 

 

 

 

 

「日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方」/ 真嶋良孝・農民運動全国連合副会長/ 「経済」2020年1月号より

 

 

 

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日本を荒廃させたカルロス・ゴーンのたそがれ

2019年02月13日 | 「世界」を読む

 

 

 

 

 

「私は日産のために全力を尽くした」
「私は人生の二十年間を、日産の復活に捧げてきた」
2019年1月8日、金融商品取引法違反で逮捕拘留されていたカルロス・ゴーン元会長は公に顔を見せたときこう豪語しました。

 

前世紀末に日産の危機を救うべくルノーから派遣された「コストカッター」に異名をとるカルロス・ゴーンが打ち出した「日産リバイバルプラン」は生産を増やすことによって「リバイバル」を図るものではなく購買コストと人件費の大胆な削減によって利益を出そうとするものでした。2001年度末に過去最高の営業利益を上げることに成功したとき、ゴーン元会長自身がこう述べたのです。
「私のリバイバル・プランは成長による業績への貢献はいっさい前提にしていません(2001年10月18日、ゴーン社長スピーチより/ 「前衛」2019年3月号、「カルロス・ゴーンはなにを壊したのか」・湯浅和己・著より)

 

上記記事によれば、リバイバル・プラン一年目には、協力企業と呼ばれる下請けの部品供給企業を30%に及ぶ335社を取引停止として切り捨て、サービス・サプライヤーと言われる関連企業は40%削減、従業員も1万4200人を純減させました。2000年度営業利益2903億円のうち2870億円が購買コスト削減によるものでした。

 

2001年度も同様。この年度の営業利器増加のほとんどは下請け企業と労働者を犠牲にしたものでした。
「2001年度も購買コスト削減は収益改善に最も重要な役割を果たしました。…(中略)… 2001年度の購買コスト削減9%は2450億円の増益要因となりました」(ゴーン元会長、2001年度決算発表にて)。

 

2002年度には、予定より一年早く「日産リバイバル・プラン」の目標達成したゴーン元会長は新しい事業計画「日産180」を打ち出し、今後三年間で購買コストをさらに15%削減すると公表。その結果としてゴーン元会長は、「営業利益に最も寄与したのは、引き続き購買コストの改善だった。2001年度との比較で営業利益は約2500億円の増加だったが、そのうち購買コストの削減は2270億円の増益をもたらした」と話しました。日産の再建とは要するに人件費・購買コスト削減という社会を荒廃させるものでしかなかったのです。

 

2003年3月の参議院予算委員会で、日本共産党の池田幹幸参議院議員(当時)が日産の大リストラ問題を質問しています。その中で、25億円の負債を抱えて倒産した日産の二次下請け企業を以下のように取り上げました。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

リヴァイバル・ウラン発表から約一か月後、日産の一次下請けの愛知機械が二次下請け三十社を集め、向こう三年間で25%の購買コスト低減にご協力をお願いしたいと言った。結局、売り上げの四分の三を日産グループに依存しておるこの二次下請け企業は、もうまさに、(コストカット要請を)受けるも地獄、受けないも地獄という状況だったというふうに言っております。この会社は一年後に倒産したわけです。

 

結局日産はこういった状況に下請け企業を追い込んでいる。日産のこの『下請け企業を潰していく』というやり方を、政治は是正してゆく責任がある。

 

一将功なりて万骨枯れる、と言いますけれども、企業は助かったけれども、日本、国民経済的にはマイナスになったという状況があるのだということを私は強調したい。やはりV字回復が国民経済の回復には役立っていません。結局、大企業に身勝手なリストラに対しては規制してゆくべきだと思います。

 

リストラ、人減らしを推進する『効率の良い』一部企業が日本経済を舵取るのがいいのか、それとも、既存の企業、下請けも含めて支援をし、失業者を増やさない形で日本経済を支えてゆくのがいいのか、その答えは明らかだと思います。そういう点では政府の責任というのは非常に大事だ、少なくともリストラ支援政策というようなものはやめるべきだということを申し上げて、質問を終わります。

 

 

(池田幹幸参議院議員・日本共産党による2003年参議院予算委員会における質問/ 「前衛」2019年3月号・「カルロス・ゴーンはなにを壊したのか」. 湯浅和己・著より)

 


----------------------------(引用終わり)

 

 

 

2017年、日産は偽装を発覚させました。完成車両の検査を無資格者が行って資格を持っている人の名をかたって合格印を押印したのです。翌年夏には排ガス・燃費測定での不正検査が露見しました。さらに同年秋に、日産は200億円の申告漏れを国税庁から摘発されます。それは、長年にわたる人間犠牲の結末でした。同記事はこう続けています。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

日産が2018年9月に公表した不正検査についての報告には、
「日産では1990年代後半ごろから、日産リバイバル・プランが始動するなど、各車両製造工場におけるコスト削減が重要視されるようになったこととも重なり、技術員の異動はコスト削減策の一環としても位置付けられるようになった。現在の日産車両製造工場においては、完成検査を軽視する風潮が蔓延していることがうかがわれた。コスト削減の結果、車両製造工場がその生産性を健全に維持するために不可欠な要素が削減されることになるのは本末転倒である」と記載されています。

 

「ゴーンの経営が長く続く中で『ファンド体質』『投資体質』に変化してきたことが、根本の原因と考えるべきである」との指摘もあります。

 

 

(同上)

 

 

----------------------------(引用終わり)

 

 

 

まさに、コストカット、人件費カットとは安全より利益という考え方につながるのです。こんなやり方で会社の「再建」を急ぐのは、株主への配慮も大きいでしょう。会社は株主のものではない、かつては勢力を持っていたこの考え方をもういちどコモンセンスにしなければならないのではないかと思います。この記事は最後にこう締めくくっています。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

安倍首相は内閣官房長官時代の2006年、「ゴーンさんが果たした役割は大きい。ゴーンさんの出現により我々の認識は変わったように感じます」と評価しましたが、今やその評価が過ちであったことは明白です。

 

ゴーン容疑者のもとで、日産は国内生産台数を1998年度の1,528,000台から、2017年度の986,000台へと、19年間で35%も減少させています。同じ時期に国内の関連会社も514社(連結子会社と持分法適用会社)から103社へ、実に8割も削減しています。

 

「ゴーン氏は日本を強欲な株主資本主義モデルに作り替える尖兵になった。株主資本主義モデルは日本経済を慢性デフレに陥れた(産経新聞特別記者・田中秀男氏)」の指摘のように、ゴーン容疑者は、下請け切り、労働者・派遣切りを広げ、日本を長期不況の泥沼に突き落とし、日本経済を破壊しました。ゴーン容疑者を持てはやし、ゴーン流のリストラ・下請けカットを推進している自民党の責任も問われなければなりません。

 

 

(同上)

 

 

 

 

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慰安婦問題で日本に行動促す・オバマ氏「甚だしい人権侵害」~日本の「オヤジ」考

2014年04月27日 | 「世界」を読む

 
 



 
 
 【ソウル共同】
 アジア4カ国歴訪中のオバマ米大統領は25日、日本に続いて韓国を訪れ、ソウルの青瓦台(大統領官邸)で朴槿恵大統領と会談した。オバマ氏は会談後の共同記者会見で、日本政府による法的責任の認定や賠償を韓国側が求めている従軍慰安婦問題に触れ、「元慰安婦らの声は聴くに値し、尊重されるべきだ」と述べ、暗に日本の行動を促した。



 朴氏は「北朝鮮は4回目の核実験を強行するための準備を完了した状態だ」と明言。両首脳は米韓が結束して対応していくことを確認した。



 オバマ氏は慰安婦問題について、戦時中とはいえ「甚だしい人権侵害だ」とした上で「衝撃を受けた」と表明した。
 
 
 
 
 

共同通信  2014年04月25日20時30分

こちらより転載



 



------------

 





「嫌韓」を標榜する人たち、慰安婦バッシングをするハラサー(ハラスメントを行う人、ハラスメントの元凶)の考えかたは、売春はいつの時代にもあるものだから、なぜ日本を非難するような問題にしなければならないか、というものです。
 


売春を容認しているし、売春婦になる人々に落ち度がある、というオヤジ的考えかた。「オヤジ」という言葉はある用語として使われることがあります。それは権力のある側に媚びて取り入り、その権力者の威光によって自分も権力をふるおうとする姿勢で生きるひとを指して使われます。もちろん、わたしもここではそういう意味で使っているわけです。



有無を言わせない力づくで他者を、その他者個々人の気持ちや希望、意向などまったく蹂躙してしまって、自分の思い通りに動かそう、という男を、女や男の子はたいへん嫌います。家族内であればその嫌悪は生理的なレベルです。触られるのももちろんキモイし、同じスリッパをはくことすらキモイ。



ひと昔前、ふた昔くらい前…かな、「キモイから」という理由で、父親とは別の洗濯機で自分の洗濯物を洗う女の子が面白半分に語られたことがあります。その時代には、女の子のわがままという視点で評論されていましたが、実は違います。親しみのある人間関係というのは、相手へ配慮を払う、相手の意向、意見、願望などを尊重する、というところからしか生じません。



でも「オヤジ」男型父親はそういうことをしないのです。男が家族に気を遣うのではなく、家族が家長たる父親・夫に気を遣うべきであり、年長者である親が子どもに気を遣うのではなく、子どもが親に気を使うべき、なぜなら年上の者には従うべきだから、という基準を信じ込んでいるからです。つまり頭から抑えつける方法で家族に接するので、親子間、夫婦間に温かい親しさが生まれません。ある妻は、そんな「オヤジ」的夫への嫌悪、反感、不満を女の子の前でももらすし、子どもに八つ当たりをすることさえするかもしれません。そんな母親から子ども、特に女の子は父親へのいっそうの嫌悪を、学習心理学のいうところの意味で「学習」してゆく、つまり自分の内面に規範として取り入れてゆく。日本は家父長制の意識が根強く残ってきており、専制的な男性支配が容認されてきているので、こんな家庭はけっこう多く、だから「オヤジ」型男嫌いはかなりの多数だとわたしは踏んでいるのですが…。

 




またまた話はそれていったので戻しましょう。



「オヤジ」型の男は権力側に媚びるので、売春をしなければ生きてゆけないような構造になっている社会を変えようとはしません。むしろそんな社会の不公正な制度の上に乗っかってあぐらをかく。そのうえで、売春をしなければならなくなったのはその個人の努力不足であり、その女に何か欠点があるからだ、という見方に立ちます。自分では売春婦を喜んで「消費」するくせに、人間としては彼らを軽蔑します。売春婦だから大きな口はきくな、みたいに扱い、「どうせ売女」と思っています。



でも、「オヤジ」型男たちを議論の末抑え込み、個人をもっと尊重しようという考えかたで社会をまとめることに、一時的ではあっても成功したことのある欧米では、オバマ大統領の言うように、だまし連れてきて「強制売春」をさせた日本帝国陸海軍、ひいては「大」日本帝国のやりかたははなはだしい人権侵害である、と考えるのです。



そこには、「社会の伝統的な制度・思考を維持継続させるために個人個人には犠牲になってもらうことは了解すべし」という日本の伝統的な考えかたとは対極の、「個人個人が豊かな生存・生活を送れるような、個人個人の幸福を保障できる社会制度を編んでゆこう、個々人は生まれながらにして人間として尊重される権利=人権があるのだから」という思想・構想があるのです。こういう考え方を持っている男性は、決して「オヤジ」とは言われないでしょう。たとえいい年齢になっても「素敵な男性」と見られます。その娘も、「そばにいると息がくせぇから寄るな」とはいわないのです。



でも日本では男たちは「オヤジ」と呼ばれて嫌われている。飽和脂肪酸の摂取しすぎと深酒による皮膚の焼け、またアルコール過剰摂取によって首のうしろが赤黒くこわばった、象の皮膚のようになってしまった見た目にも醜い生き物が肩で風を切って、いまにも襲いかからんばかりの攻撃性をオーラのように放ち、がにまたでのっしのっしと歩く。それが男らしさ、かっこよさ、強さだと勘違いして思い込んでいるんです。



こんな男たちが政界、役人、財界で、日本のリーダーシップをとっている。「オヤジ」型の男たちが娘たちに毛嫌いされているように、「オヤジ」型男のような方針をとる日本も、人権への配慮が強い「先進国」からは異質、異物とみなされているでしょう。いや、事実、国連からは人権の問題で頻繁に日本に警告を出していますが、やはり「オヤジ」型男たちに経営されているマスコミは、そんな事実は報道しません。



だから慰安婦バッシングをしても、靖国参拝でサンフランシスコ講和条約体制打破への挑発をしても、「国際社会の理解は得られている」などと信じ込めるのです。相手への配慮をしたことがないから、他人の気持ちを推し量る能力が委縮してしまっているのです。

 


 

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日本へのレクイエム 日本の牧歌的な時代は終わる

2011年10月31日 | 「世界」を読む




■野田首相、TPP交渉参加の意向固める 11月のAPEC首脳会議で関係国に交渉参加を伝達へ


FNNニュース 2011/10/30 13:08  
  
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00210523.html
 


野田首相は、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に参加する意向を固めた。11月中旬にハワイで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の際に、関係国に交渉参加を伝達する方針。


政府関係者によると、野田首相は、TPP参加に慎重な鹿野農水相と、10月だけで数回極秘の会談を重ねてきた。


鹿野農水相は、最終的に交渉参加を容認する考えを示唆し、これを受けて野田首相は、APECで交渉参加を表明する意向を固めた。



------------------------(引用終わり)






みなさん、日本の歴史に対してレクイエムを捧げましょう。



そして堤未果さんの著作をいくつか読み直してください。
 「貧困大国アメリカ」
 「貧困大国アメリカⅡ」


今度読み返すのは、アメリカを知るためではない、明日の日本を知るためです。

または、(わたしもまだ読んでいないのですが)内橋克人さんによる、
 「ラテン・アメリカは警告する」 ¥2600(税別)…ちょっと高いですが。




TPPは笑いごとじゃない。アメリカが日本を市場に狙いを定めた協定です。アメリカは決してうやむやにはしない。やる、と言ったら徹底的にやる。

病気をするな、苦しみぬいて死ぬことになりますよ。




国賊民主党。わたしは許さない。決して。



















自衛隊、立ち上がってくれないか、クーデターのために…。
…無理か… 

 

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TPPを糺す:日本の政府という売国奴--どこまで国民を犠牲にするのか

2011年10月12日 | 「世界」を読む

 

 


オーストラリアはTPP参加国ですが、「オーストラリア公正貿易・投資ネットワーク」という団体がTPP批判を大きく打ちあげました。この団体は、人権・労働者の権利保護、環境の持続可能性を護る公正な貿易を支持し、すべての国々との公正な貿易関係を築くことを求めてきています。この団体の議長パット・ラナドルさんが、「消費者を保護する政府の能力を、TPPが危うくする」と主張して強い懸念を表明しました。

 


(以下引用文)------------------

 


具体的な事例でいうと、アメリカの企業団体がいまも医療品の利益を拡大するために規制の変更を求め、オーストラリアの医療品価格規制に反対していることです。あるいは、(アメリカの企業団体が)食品への遺伝子組み換えを表示するラベルの中止を求めていることです。また(アメリカの企業団体が)オーストラリアにおける映画やTVなどのコンテンツへの規制を、(アメリカのそれにあわせて)さらに弱めるよう強く求め続けていることです。アメリカが、これらのオーストラリア政府の規制を「貿易障壁だ」と言って緩和あるいは撤廃を要求し続けることに、「オーストラリア公正貿易・投資ネットワーク」は批判し続けています。


この団体はまた、TPPが企業にもたらすことになるかもしれない「新たな権利」に警戒を強めています。この「権利」というのは、企業の投資に不利益を与えるような規制を政府がおこなった場合、これを訴えることができる、というものです。これには具体的な先例があります。アメリカがカナダとメキシコと結んだ北米自由貿易協定=NAFTAです。この協定にはその「新たな権利」と同じ規定が定められていて、(カナダ、メキシコ国内の)建築規制、認可や有害廃棄物禁止などの、日本にもあるふつうの基本的な規制があったのですが、(アメリカが)企業活動に邪魔だと文句をつけて規制を撤廃させたり、弱体化させたりしています。そのうえ、この訴訟の費用や賠償についても税金が使われたといいますから、国民から批判が起こるのも当然でしょう。


というわけで、オーストラリアのこの団体は、「TPPはわれわれが(現在結ばれている)アメリカ=オーストラリア自由貿易協定から除外したすべての問題をふたたび交渉のテーブルに持ち出されることになる」ので批判を強めているのです。オーストラリア公正貿易・投資ネットワークは以上のような経験を踏まえて、TPP交渉にあたっては、次のような原則が盛り込まれるよう政府に要求しています。


1.
医療品の卸売価格を引き上げ、手の届く価格の医療品の入手可能性を縮小するような医療品給付制度のさらなる変更は行わない。

2.
被害について政府を相手にして訴訟を起こすことのできる特権を多国籍企業に与えることになる投資家・政府間の紛争解決手続きは導入しない。

3.
遺伝子組み換え食品の表示を義務づけ、遺伝子組み換え作物の規制のための(オーストラリアの側の)全面的権利を保障する。

4.
オーストラリアのコンテンツのための視聴覚メディアへの規制をおこなうオーストラリア政府の権限をこれ以上縮小しない。

5.
外国投資検討委員会と、公益分野への外交的投資を監視する(オーストラリアの側の)権限の維持。

6.
(オーストラリアの)検疫規制の弱体化を行わない。

7.
政府購入での現地調達要件と現地雇用を支援する産業政策を有する(オーストラリアの)能力を縮小しない。

8.
調印国に対してILO条約における中核的ILO基準の実施を求め、その違反には貿易上の罰則を持つ強力な労働条項を維持すること。

9.
調印国に対して、国連環境協定に含まれる基準を含むすべての適用可能な国際環境基準の遵守を求め、その違反には貿易上の罰則を持つ強力な環境条項を設ける。

 

これらはどれをとっても、国民の生活や安全を考えれば当たり前のことですが、どれをとってもTPPとは相いれない原則ばかりです。日本でのTPP反対運動にも参考になるでしょう。

 

 

 


「TPPターゲット」・アメリカの目論見と日本の進むべき道/ 佐藤洋・著

------------------(引用終わり)

 


これをみれば、オーストラリアでは医療品の価格が高騰するような医療品給付制度の、オーストラリア政府の権限と、手の届く医療品価格で生存を護りたい国民の権利が実際に脅かされている現状がうかがえます。

わたしがTPPに大反対なのは、この医療分野での市場化のもたらす恐怖があるからです。みなさん、マイケル・ムーア監督の「シッコ(SICKO)」という映画をご覧になったでしょうか。アメリカ国内の非情な医療事情を正直に報告した記録映画です。医療費が高騰し、まともな医療を受けられないアメリカ国民。支払いが滞ったため、病院が患者を教会か何かの慈善施設の前に放棄する場面には背筋が凍りつきました。


堤未果さんの名著「ルポ・貧困大国アメリカ」でも、アメリカ中間層の没落の大きな原因として、高騰する医療費の問題が挙げられていました。その本の第3章で取り上げられています。
「八十年代以降、新自由主義の流れが主流になるにつれて、アメリカの公的医療も徐々に縮小されていった。公的医療が膨らむほど、大企業の負担する保険料が増えるからだ。そのため政府は『自己責任』という言葉の下に国民の自己負担率を拡大させ、『自由診療』という保険外医療を増やしていった。
 自己負担が増えて医療費が家計を圧迫し始めると、民間の医療保険に入る国民が増えてゆき、保険会社の市場は拡大して利益は上昇してゆく。保険外医療が拡大したことで製薬会社や医療機器の会社も儲かり始め、医療改革は大企業を潤わせ、経済を活性化するという政府の目的にそっていたかのようにみえた。
 だが、国民の『いのち』に対しての国の責任を縮小し、『民間』に運営させることは、取り返しのつかない『医療格差』を生み出していったのだった」…
…という荘重な文章からはじまる章です。


その後、大統領がオバマさんに代わって、オバマさんは公的医療の再建を公約し、作業に取り掛かりましたが、国民皆保険制度はみごとに挫折しました。結局保険会社や負担増を嫌うメジャー企業の圧力は打破できなかったのです。わたしがショックだったのは、国民自身が容易に企業サイドの扇動に乗ったことです。それは自分たちの首を絞めることになるのに。堤さんが「もやい」の湯浅さんとの対談で言われていたんですが、アメリカには日本で多く出版されている新書や文庫本などの小型本がないのだそうです。本といえば、ペーパーバックの物語・小説モノか、ハードカバーで長い序文や推薦のことばのついた豪華本なのだそうです。アメリカ国民はもっぱらTVで情報を得、TV情報に基づいた考察をおこなうのだそうです。だから企業に負担が及ぶ政策を、それも国民の生命・生存を守る政策を、「社会主義」だというレッテルによって、その通りに解釈して反対運動を起こすのです。


TVや大手新聞などは企業の広告費で食っているギョーカイですから、情報の受け手である一般人の利益よりも企業の利益のほうに偏ります。日本の新聞・TVと同じです。その点、日本は有利です。企業サイドに偏りなく情報が得られます。新書や文庫本、薄手のブックレットなどで、メディアの宣伝によって知らされない政策の真意などが安価に知ることができるからです。この有利な状況を無駄にしてはならない。新聞やTVの提供する加工脚色された「現実」なるものに惑わされないようにしましょう。そのブックレットのひとつに日本医師会のTPPについての懸念が掲載されました。

 

 

(以下引用文)------------------

 

■規制制度改革、総合特区、そしてTPPへの参加が日本の医療のもたらすこと

日本では国民皆保険のもと、いつでも、どこでも、誰でも同じ医療を受けられます。しかし最近、国民皆保険をくつがえす意見が出てきました。医療は、国が責任を負うべき社会保障です。しかし政府が、医療を成長産業と位置づけてから、営利を追求する意見や動きが目立ってきました。

…(中略)…

話題のTPPも、医療にとっては大きな問題です。

政府2010年11月閣議決定「包括的経済連携に関する基本方針」によれば、「国を開き、海外の優れた経営資源を取り込むための規制改革」が提案されています。これは日本の病院が外資系になる可能性を持つものです。

日本の医療は国民すべてが加入する公的医療保険によって公平に提供されています。日本の公的医療保険では、治療費などは診療報酬で決まっており、営利を目的とする企業や、高額報酬をめざす人材(カネがほしい医者たち)には魅力がありません。アメリカ流の病院経営は、公的医療保険ではなく、高額の自由診療を行うようになる。おカネがなければ高額の自由診療を受けられない。高額自由診療の病院が増えれば、そのなかで淘汰が起こる。また、病院は自由診療でよいということになると、国は公的医療保険の診療報酬を引き上げない。公的医療保険で診療していた地方の病院などが立ち行かなくなる。それが国民皆保険制度を崩壊に導く。

 

▽なぜ医療機関は営利を追求してはならないか

公的医療保険の日本では、医療法人の利益は、地域の医療をよりよくするため、再投資(設備や人材に投資すること)に回されます。一方、株式会社は、再投資のための原資に加えて、株主に配当するための利益が必要です。しかし、公的医療保険下の診療報酬では大きな利益が出ません。株式会社は配当を確保したうえで医療法人と同じように再投資(上記に同じ)をしようとして、無理なコスト削減や、ムダな検査を行う怖れがあります。

株式会社が医療に参入して、公的医療保険で決まっている診療報酬という収入の中から、再投資だけでなく、配当のための利益も生み出そうとすると、
① コスト削減を優先するあまり安全性が犠牲になる。
② 不採算部門、不採算地域、あげく病院経営そのものから簡単に撤退する。
③ 優良顧客(=患者のこと)を選別する(低収入層は排除されるということ)。

ここまでしても、なかなか株主の要求にこたえる配当をすることはできません。株式会社の病院は「高い自由価格で医療を提供することを認めるべきだ」という主張をするようになるでしょう。それが現実のものとなると、おカネがなければ医療を受けられない日本になってしまいます。

 

 

「TPPと日本の論点」/ 農文協・編

------------------(引用終わり)

 

日本医師会もアメリカ型自由医療に強い警戒を持っているということです。ところが、2011年10月14日付の毎日新聞(大阪版)で、こんなニュースが報道されていました。

 

(以下引用文)------------------

 

TPP:政府が問答集で説明へ「安全でない食品流入せず」
 
 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉への参加問題で、政府がまとめた「問答集」の原案が13日、明らかになった。野田佳彦首相は11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で交渉参加を表明したい考えだが、TPPへの反対論は根強く、与党内の調整すら難航している。政府は、医療や食品の分野などでの「誤解」が反対論の広がりにつながっているとみて、問答集を国民の理解を得るための説明資料として活用する。

 「TPP協定に関する誤解の例」と題した原案は11日に首相官邸で開かれた「経済連携に関する閣僚会合」で、閣僚に配られた。
(1)食品安全
(2)医療・保険
(3)外国人専門家
(4)労働市場
 --の4分野について、交渉参加国から外務省が情報収集してまとめた。

 食品安全分野では「安いが安全でない食品の輸入が増える」との懸念に対し、「食品安全に関する措置はWTO(世界貿易機関)の協定があり、協定で認められた権利を妨げる提案は受け入れない」と断言した。

 牛肉の輸入規制や遺伝子組み換え食品の表示ルールについては「現状は議論されていないが、今後提起される可能性も排除されない」と認めた。ただ「ある国のルールを変更するよう他国から一方的に求められることは想定しがたい」と理解を求めている。

 外国人労働者が大量流入するとの指摘には「一般にFTA(自由貿易協定)ではビジネスマンの商談目的の短期滞在、技術者など専門家の移動などを規定している」と解説。「単純労働者の流入が容易になる事態は考えられない」とした。

 政府は、交渉参加に反対している全国農業協同組合中央会(JA全中)や日本医師会などの業界団体向けの説明資料を原案をもとに作成する。ただ、原案では「(食品安全の)権利を妨げる提案は受け入れない」など、他国の要求を日本が拒めることを前提にした答えも目立つ。反対派からは「日本がそれだけの交渉力を発揮できるのか」との疑問も出てきそうだ。【小山由宇】

 

 

毎日新聞 2011年10月14日 2時30分

------------------(引用終わり)

 

少なくともオーストラリアの例を見るだけでも、上記の資料はごまかしであることは明らかです。オーストラリアのTPP批判団体の要求には食品の安全にかかわるものがあり、医療品の高騰を防ぎたい要求もありました。つまり、現実にアメリカとの自由貿易協定を結んだ国でそういう脅威があるということです。しかもTPPはFTAなどよりも「高い水準の」自由貿易協定なのです。あらゆる関税を撤廃するという性質のものであり、しかもそこにはアメリカの強い意志があるのです。

 

 

(以下引用文)------------------

 

2010年12月、ニュージーランド(以下 NZ と略)のオークランドで九か国が参加したTPPの拡大交渉会合が開かれました。ところがここで思わぬ事態が起きました。日本政府が、情報収集の好機とばかりに、この会合にオブザーバー参加で傍聴を求めたのに、拒否されたのです。2010年のAPEC議長国日本と2011年の議長国アメリカでタッグを組んでTPPを推進するような鼻息だったのに、日本にしてみれば「えっ??」「話が違うじゃないか!!」という感じです。オブザーバー参加を拒否された日本政府はやむなく、九か国を、一か国ずつ担当者を訪ね、情報をもらうということになりました。

実は、交渉会合への参加を断られたのは、日本が初めてではありません。カナダ政府がTPPへの参加方針を決めて申し込んだところ、アメリカに断られたというのです。理由は、カナダがアメリカやメキシコといっしょに、1992年12月(94年1月発効)に結んだNAFTA(北米自由貿易協定)でチーズと家禽類の肉を、貿易自由化の対象から外すという「例外」をカナダが設けていたことでした。これが問題とされて拒否されたのです。

アメリカはTPPへの参加を望むカナダに対して、「ならば、あの例外品目を自由化の対象とする決定を下すか」と問いただし、「その決定がない限り、TPPの交渉への参加を許さない」という意思をあらわにしたのです。カナダはこのことを理由にTPP参加を取りやめました。

この話を聞けば、アメリカの腹は、「日本もTPPに参加したいなら、一切の品目の自由化を認め、例外をいっさい認めないという決定を必ず下せ」というアメリカの意思表示であるということです。

 


2011年1月20日づけの外務省など四省連名の情報収集結果には、交渉への新規参加の条件について、次のようなことも述べていました。

「新規参加にはすべての交渉国の同意が必要であり、そのためには新規参加希望国がTPPのめざす高い水準の自由化交渉に真剣に取り組む容易があるという信頼を全交渉国から得る必要がある。
…なお、米国は、新規参加を認めるためには、米国議会の同意を取り付けることが必要とする」。

これは日本に、例外なき自由化の姿勢を鮮明にせよ、交渉国にそれを固く約束せよ、というメッセージにほかなりません。しかも自分の国の参加を自分の国の議会の承認を得るというなら当たり前ですが、日本の参加にアメリカ議会の承認が必要、というのです。

 

 


「TPPターゲット」/ 佐藤進・著

------------------(引用終わり)

 


よろしいですか、これは外務省をも含めた省庁の調査結果です。先の1毎日新聞が報道した、外務省の「誤解を解く」ためのパンフと比べてみてください。閣僚に配布されたパンフでは、日本のイニシアチブのもとに交渉が進められるかのような印象を与えられますが、共産党の佐藤さんのブックレットでは、アメリカの議会の承認と、参加諸国家の信頼を得る必要があるというのです。つまり、日本が独自の主張を通す余地はないのです。それどころか、日本が完全降伏する意思がないなら、オブザーバー参加をさえ断られるのです。誰によって? アメリカです。このことからして、TPP協定がアメリカ主導のものであることは明らかです。


しかも、そこまで他国に完全自由化を迫るアメリカが、オーストラリアとのFTAでは、アメリカの砂糖と乳製品を例外品目に定めており、TPPが進められている現在もその関税の撤廃を言明していません。これがアメリカの本性です。これがTPPの正体です。上記毎日新聞の記事を見ると、外務省はあきらかに本当のことを隠している。上記の閣僚向けのパンフでは、医療分野での、営利企業の参入などは議論の対象外、とされているのですが、TPPがいっさいの「例外なき」規制関税撤廃協定である以上、やがて議論のテーブルに乗せられるのは時間の問題であり、現実にオーストラリアでは医療品目へのアメリカ企業による自由化の介入により、「手の届く価格」が脅威にさらされているのです。しかもアメリカは、日本に嫌とは言わせない約束をさせたうえでしか、日本のTPP参加を認めない方針なのです。弱腰外交の教科書のような日本の政府に、オーストラリアの市民団体のような人間の生存と尊厳をかけた主張ができるでしょうか、毎日新聞で報道されたようなパンフを作成するようなうそつき外務省に。


わたしは外務省があんなパンフを作成したことに情けなさを感じます。日本の国民をよくもまあこんなに平然と無慈悲な外国企業に売り渡せるものだと。右翼は何をしているんだ、あいつらこそ真に売国奴じゃないですか。どうしてあいつらに抗議しないんだ。


もう時間がありませんので、TPP問題についてはつづけて書いてゆきます。この問題が一人でも多くの人の心に届きますように。教育基本法強行改訂の前例があり、日本の議会制民主主義の信頼は失われているので、わたしはTPP参加が同様な仕方で決定させられるのではないかと恐怖を抱いています。官僚の述べる楽観論はほぼ必ず悪い結果になる、ということは原発震災がわたしたちに手痛い仕方で知らせたのです。外務省のパンフなどどうか鵜呑みにされませんように。

 

(急いで書いたので、変換ミスによる誤字にはみな様のお知恵によって解読してやってください)






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「島田紳助的なもの」を超克してゆこう!

2011年10月10日 | 「世界」を読む




ごぶさたしております。

最近はヤフーブログのほうで主に書いておりましたが、こちらのほうも再開してゆこうと思い立ち、ヤフーのほうでも書いた記事を転載エントリーします。




(以下引用文)---------------------------


島田紳助氏の引退騒動では反社会的集団との関係に話題が集中した。しかしわたしは、彼が表象する価値観とそれに魅かれる人々が多くいるという状況こそ批評されるべきだと思う。


島田氏は今年の二月に『島田紳助・100の言葉』(ヨシモトブックス)という本を出版している。この本は30万部を超えるベストセラーとなり、多くの読者を獲得した。

ここで島田氏は「勝つこと」へのこだわりを表明し、勝つための方法を身につけるべきだと強調する。しかし島田氏の考えでは、成功する人間は先天的な才能に依拠しており、勝つか負けるかはあらかじめ決定されている。彼は「生まれ変わり」を信じ、才能は前世に規定されているという。これはまさに、スピリチュアルな優生思想だ。

島田氏の価値観は、「心と心でつながる透明な共同体」の希求へと発展する。彼は同じ価値観を共有する人間同士の純粋な絆関係を重視する。そして、その共同体に加わる条件は「私(島田氏のこと)を大好きであること」だという。

この自己愛に基づく同質的な連帯意識こそが「ヘキサゴン・ファミリー」の共同性であり、「知識はないけれど、心がピュアで情熱的」であることを強調する「おバカブーム」へとつながった。

しかし、一方で島田氏は自らの価値観と合致しない人間に対しては、非常な態度を貫く。彼は(上記図書のなかで)「ほとんどの人間は別にいなくてもいい人間です」と言い、「私の人格は、相手によって決めることにしています」と公言する。

このような、価値観を共有しない人間への排他的姿勢が、吉本興業女性社員への暴行事件や、若手タレントへの暴言騒動につながったのだろう。島田氏の志向する「絆」は、分かちえない他者への暴力的排除と表裏一体のものといえる。

さらに、彼の価値観は格差社会への肯定的な評価へとつながる。彼は「格差社会はしようがない」と公言し、松本人志氏との対談本では、低賃金で保険の費用もかからないフリーターがいてくれて助かっていると述べている。

新自由主義的な価値観と同質的で排他的な共同性の希求との共存。島田氏が芸能界から引退することよりも、「島田紳助的なるもの」を批判的に乗り越えることこそ、現代社会の課題である。
 
 





「島田紳助的なるものへの違和感」/ 中島岳志・著/ 「週刊金曜日」2011-10-07号より



こちらのブログもぜひご覧ください。


---------------------------(引用終わり)
 



島田紳助さんの引退の際に、吉本の人だったか、別の芸能評論家だったか、そういう関係の人が、「彼のギャグには弱者を叩く危うさがあって、個人的に気がかりだった」というようなコメントを読んだことがある。


もともと芸能界の「掟」というか、「風習」というか、あの価値観にはどうも嫌悪感しか感じなかった。とくに「お笑いの世界」の雰囲気には。厳格な上下関係には、芸の世界のありようとしてギリギリ容認するとしよう。だが、その上下関係を利用してパワハラを公然と認めてしまうようなあの雰囲気が嫌いだった。親分的な人に追従的な卑屈な態度を公然とTV放映の中で見せつけることにも嫌悪を覚えるし、その「親分」的な人の、自分の親分的な自意識におぼれた傲慢さにも嫌悪が走る。


彼らはファンに愛想よくしない。むしろ公然と見下し、上から目線でファンを見下ろす。そうなるのは、TV芸能人は収入を得るのにファンに依存していないからだ。彼らはスポンサーから収入を得るのであり、スポンサーは視聴率の取れるタレントを使いたがる。多くの人々にCMを見てもらうためだ。そんな彼ら、お高くとまる芸能人たちが「格差社会」ということばで表現されている、「新しいカースト制度」ともいうべき身分差別社会の中の、弱者の立場にいる人々の犠牲を肯定するのも当然といえば当然なんだろう。「新しいカースト制度」「身分差別社会」という表現を使ったのは、現在の「格差社会」における格差はきわめて固定的で、「一度滑り落ちたらもう二度と浮かび上がれない(湯浅誠氏)」という実情だからだ。こういう実情における「下層階級」を背面にして暮らしているのがわたしたち夫婦なので、見下され、犠牲にされ、というような態度には現実的な嫌悪を感じるのだ。


だが、島田さんの書く本は売れていて、彼を、崇拝とは言えないまでも導き手として仰ぐ人々がいる、ということに危機を覚えるし、恐怖をも感じる。それは「その他おおぜい」を犠牲にして「自分さえよければそれでいい」という社会のありようをまったく肯定する態度であるからだ。他者を踏みつけにしていいから自分さえ生きれればいいという思考は、「大日本帝国」のアジア周辺諸国への搾取的侵略を実行させていったのだった。そういう認識を批判し反省したうえで受け入れたのが日本国憲法だった。憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に追放しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳われている。


だが、戦後の日本は「専制と隷従、圧迫と偏狭」の原理によって経済成長を遂げてきた。その絶頂が1980年代後半のバブル景気であり、バブル崩壊後の格差社会の成長も、隷従と圧迫のもとに生涯追いやられる階層の犠牲の上に遂げられたものだった。明日の暮らしを立ててゆけない恐怖と欠乏が多くの人々を圧迫しているのだ。こういう階層を作り上げたのが労働者派遣法であり、自己中心的な企業倫理の浸透であり、それを助長させてきたのが芸能界だった。労働者の犠牲の上に製造されて、売り出されるにいたった製品の宣伝のために利用されてきたのがTV芸能人であり、ふつうの労働者が何十年働いてやっと届くような収入、いや何十年働いても手にすることのできない収入が、彼らには支払われるのだ。しかもその宣伝費はみな、製品の価格の中に含まれている。商品を買うわたしたちはそのたび、宣伝に使われている芸能人の超高額のギャラを支払っているのだ。


こんな世の中ではたしかにまじめにコツコツ働こうという人が少なくなるのも無理はないのかもしれない。芸能人のように “イッパツヒット” に賭けて、億単位の貯蓄を夢見るのも無理はないのかもしれない。だからこそ、わたしたちはそんな不公正な社会のありようを変えてゆかなければならない。というのは、そのような不公正な社会のありようは、結局社会全体の自滅に至るからです。わたしたち日本人はアジア太平洋戦争においていちど壊滅という結末を経験したのです。それは自分さえ良ければ他者を蹂躙しても構わないという思考がもたらした結末だったのです。人間はみんながうまくおさまらなければ生きてゆけない存在なのです。暴走する自由至上主義も、それにフリーライドする「島田紳助的なもの」も、人間の存在についての基本原理を忘れている。いや、軽蔑さえしている。


ある経済学者は、経済学は思想など語るべきではない、と聞こえるような発言をすらしています。中谷巌さんの、例の懺悔本に対する評のなかでです。ただその学者さんは学会のなかでもあまり認められていない人のようですが。経済学はもともと人文科学の一分野だった。でも、ITの進歩の結果、金融が工学的モデルで説明されるようになったために、もはや経済学は人文科学を離れ、社会科学からも逸脱し、ただの工学になってしまった。工学であるならたしかに思想など語る必要はないのだろう。だが、工学の理論は十分な検証なしに、人間の暮らしを左右する政策に、性急に盛り込んでよいものだろうか。政策に盛り込むのなら、そこには思想による吟味が必要なのではないか。国民全体の暮らしを守るのが政治の役目だ。一部の公権力の様相を帯びた国民層の利益だけを守り、国民のほかの層は切り捨てるというような政策を実行しようというならそれは徹底的に戦って、わたしたちの暮らしを、そう「命」そのものを守るべきだ。





(以下引用文)---------------------------



アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と定義した。


人間は社会を形成してさまざまな仕事を分業し、協力しあうことによってめて安全に豊かに生活することができる。アリストテレスは、社会から孤立して存在できるものは神か森の獣だけであると述べた。


神は全能であるから他者の助けを必要とせず、獣もまた本能にしたがって森で一匹で生きてゆける。しかし、人間は常に他者と助け合いながら生きていく存在である。そのような社会的存在としての人間に必要不可欠な「徳」(=倫理観、と言い換えてもいいと思う、個人的に…)として、正義と友愛が大切でなのである。


正義と友愛は個々人の「魂」(=心、精神、人格、と言い換えられると思う、個人的な感想だが…)に教育によって培われなければならない。アリストテレスは、そのようにして「魂」に「徳」の全体が備わることが達成されて、正しい状態になることを全体的正義と呼び多くの「徳」のなかのひとつとしての部分的正義と区別した。さらに部分的正義は、その人の功績や能力に応じて報酬を正しく配分する配分的正義(比例的正義)と、罪をおかした人を罰し、被害者を補償して」、各人の利害が平等になるように調整する調整的正義(矯正的正義)に分類した。






「もういちど読む山川・倫理」/ 小寺聡・編


---------------------------(引用終わり)



人間はひとり、あるいは少数では生きてゆけない存在です。全能ではないからです。そして社会を形成して、分業によって生産し、正義によって生産品を配分してゆかなければ誰ひとり生き続けることはできないのです。暴走する自由市場経済のイデオロギーは、おそらく莫大な富を自分自身に集めることができたがために、自分は全能であるという思念に囚われてしまったのだろう。なんでも買うことができる→なんでも手に入れることができる、というふうに思うようになったのだろう。なんでも手に入れることができるから、自分は全能だ、と。それゆえ、自分が生きているのは、名も知らぬおおぜいの人間たちの協力があるからだ、ということに考えが及ばなくなってしまったのだろう。


だとすればそういう思念は知力の劣化であり、アリストテレスが言ったとされる「徳」の萎縮消失が原因だと推測される。傲慢・おごりと呼ばれる精神状態は知性と品性の劣化の症状だと考えられる。劣った性質は悪い症状や結果を生み出す。新自由主義のイデオロギーも、それを是とする「島田紳助的なもの」も、人間の知性と徳の劣化による症状であるとわたしは言いたい。



だからこそわたしたちは、「島田紳助的なもの」を超克してゆかなければならない。わたしたちはTVの送り出す映像にコントロールされてしまってはならない。それは人間の意識に強力に働きかけるプロパガンダですが、わたしたちは意志によってそれを除染することができるのです。プロパガンダによる宣伝=洗脳=マインドコントロール・ウィルスをガードすることは可能なのです。


芸能界にあこがれて、「島田紳助的なもの」を容認してはならない。「島田紳助的なもの」こそ、今現在の社会の閉塞を生み出した張本人だからです。なぜならそれは人間性の劣化、知力と徳の劣化の表れであるからです。知力と徳の劣化とは、人間は社会的存在であるゆえに、ひとりでは生きてゆくことができない、だから社会を形成して、互いに協力し合ってでなければ豊かに安全に暮らしてゆけない、だからこそ「社会正義」なるものが必要不可欠である、という基礎的原理を嘲笑するような態度であるからなのです。


だからこそ、そのようなもの、「島田紳助的なもの」、新自由主義と呼称されてきた、社会という結びつきを解体し、社会正義とみなされてきた価値観を廃棄しようとする、暴走する自由市場経済思想を、太古の昔にアリストテレスが「正義」ということばで定義したものによって、わたしたちは矯正してゆかなければならない。太古の昔に定義された「正義」というものによって、自由をはき違えて暴走する市場主義経済体制を「調整」してゆかなければならない。それが「島田紳助的なもの」を超克する、ということなのです。





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雇用の危機=生活崩壊、責任の真の所在

2009年09月14日 | 「世界」を読む

民主党の大躍進。でも民主党の勝利というよりは、これは自民党への意趣返しという傾向が強いと思います。

なんといっても国民は仕事と暮らしの安心を期待したのです。敗北の影には、自民党が勘違いした点がある、と日本大学の名誉教授牧野先生は主張されました。それはこの事態が主にアメリカ発の金融経済危機にあるのではないということです。わたしたちもこの点をしっかり認識しておきたいです。

そう、この事態は財界と政治の責任なのです。



--------------------------


雇用破壊、生活破壊をなくすには「ルールある経済社会」の確立が不可欠です。そのためにも、政治を大きく変えなければなりません。



昨秋のリーマン・ショック後、金融経済危機が瞬時に世界を席巻しました。時を同じくして、 “派遣切り” など雇用破壊による生活破壊も一挙に深刻化しました。そのため、雇用破壊・生活破壊の「原因」をリーマン・ショック後の金融危機・経済危機に求める見方が支配的です。

しかし、これは錯覚です。事実に反します。

このような見方は “政治の責任” を隠蔽しています。金融・経済危機が今日の雇用破壊・生活破壊を加速させましたが、これが「主因」ではありません。 

「主因」は、
① 90年代半ばから本格化した「構造改革」、「労働ビッグバン」と、
② 金融・経済危機を口実とした大企業の「派遣切り」などによる大量解雇、
…の二つです。

つまり、「構造改革」・「労働ビッグバン」で派遣労働など非正規労働者を大量につくり出し(雇用破壊の第一段階)、金融・経済危機を口実にして “非正規の使い捨て” を躊躇なく行い、そして “正規労働者の大量解雇” に踏み切るに至った(雇用破壊の第二段階)、ということです。

 

 

(「雇用破壊・生活破壊と政治の責任」/ 牧野富夫・著/ 「経済」2009-9より)


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「ワーキング・プア」なる言葉が流通しだして、非正規労働の非人間性に注目が集まりだしたのはこのリーマン・ショック前後のことです。ネット喫茶などで暮らす日正規労働者などをマスコミは初めは興味本位で、リーマン・ショックからはいくぶん本気で報道・放映するようになったのです。

そんなわけでわたしたちはこの雇用危機・生活崩壊の主因がリーマン・ショックにあるかのように受け止めている向きがあります。もちろん、ブログなどを見れば、目の黒い人たちはそうじゃないことを、ブログ荒らしにからかわれながらもめげずに一生けんめい訴えておられます。しかし、一般にはそのように受け止められているようです。

 

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メディアなどは、上の引用文の第二段階、リーマン・ショック後の非正規労働者大量「遺棄」以後に、雇用破壊を問題視しだしました。

そのため、雇用破壊の発生がリーマン・ショック後であるかのような、そして雇用破壊の原因がリーマン・ショック後の世界金融経済危機であるかのような印象を与えています。これが財界の「自分たちもアメリカ発の金融経済危機の被害者」のように装う態度を生み出しています。しかし、雇用破壊には第一段階があり、それは90年代から始まっていたのです。

 

(上掲書)

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雇用破壊の問題、派遣村事件が論じられる際にも、片山さつきのような規制緩和擁護者たちは、企業もたいへんな状況にあり、内部留保も自由に使うことができない状況に追い込まれているかのような論を展開させてきました。しかし、日本大学の名誉教授である牧野さんは正確に、NO、を言明されました。この事態は財界・官僚と結託した政治の責任であるのです。


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雇用破壊は90年代後半から行われてきた「構造改革」の展開とその急激なエスカレートに対応して生じた現象です。

「構造改革」はその名が示すとおり「部分改革」ではなく、「橋本六大改革」に見られるようにトータルな「日本改造」を追及するものです。その中心には経済があったということです。「構造改革」の眼目は「経済の国際競争力強化」でした。

しかしここで言われている「経済」とは国民の暮らしに直結する「経済」のことではなく、「大企業の経済」=「大企業の利益」のことだったのです。そしてこの「大企業の利益」には日本の大企業だけではなく、アメリカの大多国籍企業が主な部分を占めているのです。

結局、「構造改革」の主旨は「国際競争力強化」という錦のみ旗のもと、大企業の利益のために、生産性が高く、成長の見込める産業・企業・事業等を育成し、生産性が低く成長の見込めない産業・企業・事業を生理淘汰させることでした。規制緩和はこの目的を実現、促進させるためのもので、産業や労働や国民の暮らしを守る役割を果たしていた各種の規制を緩和・撤廃し、コストを引き下げ、大企業の商品の値段を下げることにより、競争力をつけさせようとするものでした。

つまり、この規制緩和による競争・市場原理の拡張と徹底は大資本が圧倒的に生き残りやすく、小資本や農業などには「整理・淘汰」の憂き目に遭わせやすい制度だったのです。強者(日米欧の多国籍大企業)と弱者(中小企業・個人商店・農業など)が競争すれば教者が勝つことは事前に分かっていたのです。結果を承知で競争を仕掛ける、これが「構造改革」の正体です。

そのうえ、政府が強者である大企業を公的資金の投入や税制・金融面で幾重にも優遇支援するのですから、「整理・淘汰」はますます徹底的に進展してゆくのです。「格差・貧困の拡大・深化」が小泉政権時代から重大な社会問題となってきたのは当然の結末なのです。したがって、今日の雇用崩壊・生活崩壊の「主因」は自民党政治にあるのです。

「構造改革」は大企業・財界の利益のために経営資源としてのヒト・モノ・カネを、停滞分野から成長分野へ移し変えるものです。その際、「ヒト」はモノ・カネよりも摩擦が大きく、移動が困難です。というのも、ヒト=労働者は地域に根づいた生活者であるだけでなく、労働法制で守られているからです。そのため、労働法制が財界には「排除すべき障害物」と映じ、その大爆発=「労働ビッグバン」が構想され、実行され、さらに強化されてきたのです。そうです、「労働ビッグバン」は「構造改革」の一環だったのです。

 

(上掲書)

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どこの新聞でも、経済畑の記者たちは、「構造改革」そのものはまだほとんど未着手であり、金融経済危機に萎縮して、政権交代後の経済政策が内向きになってしまわないよう、経済成長を促がすためにも、構造改革を断行すべし、という意見を述べます。

経済畑の人間にとって、社会とはなんなのかについてどう考えているのだろう、と思ってしまいます。学校で習ったとおり、GDPを上げて行き、世界2位に経済大国の面目を維持すること、それが豊かさだと思っているのでしょう。しかし、バブル真っ最中にすでに、日本国民はほんとうに豊かなのか、豊かさとは一体なんなのか、そういう問いかけがなされていたのです(「豊かさとは何か・暉峻淑子(てるおかいつこ)・著」、「豊かさのゆくえ・佐和隆光・著」など)。日本人はバブル真っ最中でさえ、ヨーロッパに比べて生活はずっと追いつめられたものでした。決して豊かではなかったのです。

GDPは上げて行かなければならないでしょう。900兆円に及ぶ借金大国の日本にとっては、経済成長によって借金を減らす必要があります。しかし、国民を犠牲にしてしまっては日本そのものがもたないのです。財界はそれでもいいのでしょう。東南アジアの安い労働力を「輸入」すればいいと本気で考えているのです。労働社階層の日本人が消滅したあとに、労働権も十分に保障されない奴隷のような扱いをされるアジア系の人びとが日本に住み、それを大企業家族のごくごく少数の日本人が支配するという、近未来のディスとピア日本も現実味を帯びてきているのです。

精神科医や有能な=良心的なカウンセラーたちが指摘しているように、日本人は社会性=公共心を喪失してしまっている、他者の気持ちになれず、自己本位な思考が広まっている。個々人がまったく分断され、孤立し、個人主義が偏って進展してしまったようです。このようになったのは相互のコミュニケーションが阻害されてしまったからです。日本とは企業ではなく、国益とは企業の収入ではないのです。それは国民の暮らしを物質的にも精神的にもバランスの取れた豊かさに至らしめること、それが「経世済民=経済」の本来の思想なのです。経済畑の人たちは、そう、戦後の団塊の世代の子どもたちからそのまた子どもたちの世代です。わたしの世代をも含むひとたちです。高度経済成長時代に父親に放置され、過剰な競争にさらされ、ライバルを出し抜くことのみが人生の意義であると、そういう思想を「ことば」でではなく、いえむしろ表面的には理想的友愛的だった「ことば」とはまったく裏腹の「行動」で、国家経済の成長至上主義を刷り込まれてきた世代です。

近年の戦後責任を否定する右傾化もそういう世代によって支えられています。そして経済成長とは企業利益を最大限に上げるため、国民は一身をささげなければならない、かつて天皇に捧げたように、という思想に染まった経済学者たち、経済畑のマスコミ人たちがわたしたちのくらしを捨て駒にしてきたのです。今回の自民党大敗北、民主党独裁体制の確立は、そういう経済全体主義者たちへの、わたしたち捨て駒たちの反乱だったということは出来ないでしょうか。

しかし、労働者派遣法の改正には民主党も賛同したのです。わたしたちは決して楽観できないのです。楽観できないこんな事情もあります。


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財界などは新たな規制緩和=雇用の流動化の動きを強めています。「労働市場の柔軟度を高めることが、結果的には社会全体として雇用拡大につながることも認識すべきである」という経済同友会の第一次意見書(09年4月)はそのひとつです。

また、「これからの雇用システムは、いかに解雇を減らすかではなく、いかに雇用された労働者を新しい職場につかせるか、産業構造の変化に合わせて、どのような能力を身につけさせるかに重点を置いた制度設計をすべきである」というNIRA(総合開発研究機構)研究報告書(09年4月)も同様の主張となっています。

さらにアメリカが日米政府の「規制改革および競争政策イニシアティブ」(09年7月)において、日本の労働市場の流動性を高めることが(=解雇しやすいようにすることが)外国からの直接投資に有利だとの立場から、「いっそうの労働法制の規制緩和」を求めています。これらはきわめて憂慮すべき新たな動きです。

新動向を別にしても、今後、失業の増大が必至の情勢です。「完全失業率の予測平均値が2010年4月~6月期に5.66%まで上昇し、過去最悪を更新する」(経済企画協会「ESPフォーキャスト調査」)という予測や、OECD(エコノミック・アウトルック)の「日本の失業率は09年の第3四半期に過去最高と並ぶ5.5%に達し、10年第2四半期には5.8%に上昇する」などの予測がでていますが、これらは09年5月の有効求人倍率が調査開始以来最低の0.44倍(正社員では0.24倍)まで悪化していることなどを考え合わせると、ひかえめな予測と言えるでしょう。

 


(上掲書)

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牧野先生のこの記事は、こうした事態はすべて財界優遇政策を取ってきた自公政権の政治責任である、というものです。この記事が書かれたのは選挙前です。選挙では自公政権には責任が突きつけられました。

が、民主党はこういう認識を持ち合わせているのでしょうか。アメリカの国防相から沖縄基地の問題でさっそく圧力がかかり、鳩山論文に対し、例のごとく「社会主義的だ」という批判が突きつけられ、鳩山さんは表現を柔らかくしました。

市場が暴走した時には市場に規制を強めて、社会主義よりの政策をとるのは当然じゃないかと思います。経済状況の動きに合わせて、市場に規制を強めたり、逆に規制を緩めて活性化を図ったり。要は国民の暮らしにとっていちばん都合のよい政策を実施していけばいいんじゃないでしょうか。ナントカ主義なんてのにこだわる必要などないんです。

とくに、アメリカのように偏見と差別の露骨な国情と違い、日本はずっと平等思想が行き渡った国なのです。そういう面ではアメリカなんかよりずっと文化的に進んだ国なのです。アメリカのように一部の富裕層の安楽のために大多数の被差別国民を犠牲にしてもしかたがない、とは本来考えなかった国なのです。わたしは日本のこういう面については大きな誇りを持っているのです。こういう優れた面では、決してアメリカに潰されてはならないと思うのですが。もっともアメリカの合理主義と徹底した民主主義も高く買いますが。ただ、最近の日本の状況で気になるのは、国民個人よりも国家全体のほうを優先させる最近の国民意識の右傾化です。アメリカをも含む、統制を狙う支配者層に利用されてしまわなければいいが、と心配です。


 

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臓器移植法改定A案の基礎知識とその本質(上)

2009年07月21日 | 「世界」を読む
 

現行の臓器移植法は平成9年に施行されました。心臓死をもって人間の死とする、という判定基準は以前のままですが、本人の生前の意思表明が確認されていれば、臓器移植の局面に限り、脳死をもって当人は死んだとみなせるようになりました。また臓器移植ができる年齢制限を設け、それを15歳以上と定められています。この規定は遺言が可能な年齢というのが民法で決められており、それが15歳以上となっているのだそうです。

もともと、現行の臓器移植法は3年後にいちど見直しを検討してみることも定めていましたが、放置されていました。でも、移植が必要な患者が治療のために海外へ渡航するケースが相次ぎました。日本では提供者が少ないからです。そこへもってきて、マスコミから、「WHO(世界保健機関)が、臓器提供を受けるのは自国でするべしとの方針を打ち出そうとしている」というニュースが流されるようになりました。こうした報道の影響もあって、今回の改正議論に至ったようです。

 


そも「脳死」とはなんでしょうか。脳死は植物状態とは別の状態です。日経新聞09年6月4日付囲み記事によると、脳死とは、
「脳幹を含むすべての脳の機能が完全に止まり、回復する可能性がゼロである状態」です。専門的には「全脳の機能の不可逆的停止」と表記されているそうです。

脳幹は呼吸などをつかさどっていて、ですから脳死状態では、脳幹の機能が完全に失われたまま二度と回復しない状態なので、自発的に呼吸することができません。人工呼吸器を使わないと呼吸を維持できず、それを外すと確実に心停止に至る、という状態が脳死です。

この点で、人間の「植物状態」は異なっています。植物状態では脳幹の機能は全部または一部残存しているので、多くの場合、自発的に呼吸できますし、しています。「多くは」というのはたぶん、脳幹の損傷している部分によっては自発的呼吸が出来ないケースもある、という含みではないでしょうか。

脳死をどのように判定するかは法で定められていて、複数の医師が、人工呼吸器を止めて、自発的呼吸があるかないかを調べる「無呼吸テスト」など5項目の検査を6時間あけて2回行うのだそうです。

ただこれは、子どもの場合は判定が難しいのだそうです。というのは、「子どもの脳は回復力が強い(朝日新聞09年6月19日付)」のだそうです。だから、「脳死判定検査項目は大人と同じだが、生後12週間未満の乳児は判定から除外し、また6歳未満なら、大人の場合に6時間あけて2回検査を実施としているその間隔を24時間以上にする」という基準を別に設けているのです。

 

ニュースでは「A案」参院本会議通過、などと言われますが、ではB案とかもあるはずですよね。あります。D案まであります。とくにD案は、A案に反対する側が作成した法案です。以下、毎日新聞の09年6月10日付けの表から、現行法とほかの法案の特徴を書き写しておきます。

 


■死の定義

①臓器移植法現行法
  心臓死。
 ただし、本人が生前に脳死で死と判断されてもいいという意思表明があれば、脳死をもって死とみなせる。

②臓器移植改正A案
 一律に脳死をもって死とする。

③臓器移植改正B案
 心臓死。本人の合意があれば、脳死をもって死、とすることができる。現行法と同じ内容。

④臓器移植改正C案
 死と判定するのは、心臓死に限る。
 また脳死の定義を現行法より厳格に定めている。

⑤臓器移植改正D案
 心臓死。
 ただし、本人の合意があれば、脳死をもって死とみなせる。現行法と同じ内容。

 

■提供の条件

①現行法
 臓器提供に際し、本人による書面での同意とともに、家族の同意が必要。

②A案
 必要なのは家族の同意だけ。ただし、本人による生前の臓器提供拒否の意志が確認されていれば、その体からの臓器提供はされない。

③B案
 現行法と同じ。

④C案
 現行法と同じ。

⑤D案
 15歳以上は現行法と同じ。
 14歳以下は家族の同意でOK。ただし、本人の拒否の意志があればそれが最優先される。

 

■提供できる年齢制限

①現行法  15歳以上。

②A案    制限なし。

③B案    12歳以上。

④C案    現行法と同じ。

⑤D案    制限なし。

 

 

A案は脳死状態の家族を持つ人よりも移植を待つ患者さんに焦点を合わせた法律ですね。臓器移植法は1997年施行ですから、もう12年になります。その間、法に則って臓器提供があったのは81例だそうです。それに対して、移植を待つひとは圧倒的に多い。

日本臓器移植ネットワークに移植希望の登録をしているひとは2009年6月1日現在で、
 心臓 … 138人
 肝臓 … 254人
このふたつは脳死の人からの提供でしか移植されません。心停止後の提供でも移植手術ができるのは腎臓で、1万1695人が提供を待っています。

日本では臓器提供が少なく、なかなか手術ができないのが現状のようです。年間心臓提供者数の国際比較したリサーチがあるのですが、それによると、
 日本が(年間)0.05人、
 スペインが  12.5人、
 アメリカが   10.1人と、先進国の中でも際立って低い。

そのため、日本の移植希望患者は海外へ渡って移植治療を受けるケースが多いのです。ところがそれが、現地の患者の移植の機会を奪っている、という批判をもたらしました。そこへ、「2008年、国債移植学会はは渡航移植の規制強化と臓器提供の自給自足を求めるイスタンブール宣言を発表し、世界保健機関(WHO)理事会も今年一月、渡航移植を制限する決議案をまとめた(朝日09・06・19付け)」というニュースが入ってきました。そこでわずか8時間の審理で、少ない審議参加者(議員の多くはおしゃべりや居眠りしていた)という条件にもかかわらず、決議されたのでした。

 

■A案の問題点

まず、審議の時間があまりに短かったこと、しかも真剣さが欠けていたことが挙げられるでしょう。こういう重要な問題はもっと国民的な議論が尽くされるべきです。「そうやっているあいだにも、移植で救える命が機会を得られないまま死んで行く」という焦燥があるのは承知で、もっと議論を尽くすべきだというのです。

二つ目は、A案は移植に優先順位を設け、親族への移植が優先されていて、それが現行法に比較して不公平だという批判。現行法では、移植先の人については一切知らされません。移植された人も、どこの誰からだとは知らされないことになっています。また、子どもの脳死判定の難しさという点もあります。

もうひとつ見逃せない点として、「WHOが渡航移植を制限しようとしている」という報道ですが、これが虚報だという指摘があります。


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WHOの新指針の実際の内容は、生体移植のドナーの保護と移植ツーリズム(臓器売買旅行)への対策である。「正式な」渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も、ひと言も述べられていないのだ。しかし、A案提案者、日本移植学会、日本移植者協議会などは虚報を喧伝し、マスメディアの多くも執拗に(虚報を)報道し、法改定に向けた社会と国会の気運を醸成した。

もし、こうした発信者が、新指針をきちんと読まずに誤報を流していたのなら、社会的責任が問われるべきだろうし、意図的に情報操作をしていたのなら、倫理的責任が問われるだけではすまされないだろう。


…(中略)…


ちなみに、衆院採決のあった6月18日、「A案提出者一同」の名による「A案支持者と投票先を決めかねている方へのお願い」という簡略文書が、衆院本会議の各議員の席上に配布されたという。

全体の主旨は、「なぜA案なのか」という理由説明と投票の戦術的方法の提起であるが、前者の第二項目には、「A案は、WHOが推奨する臓器移植法案です」とある。WHOそのものが日本のA案を推奨していたとは寡聞にして知らないが、もしそれがWHOの新指針を意味しているのだとしたら、前述のように、そこには渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も一切、書かれていない。

それどころか、逆にA案こそが、WHO新指針がドナーに関して、明確に書き記して、求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反するのではないか。

たとえば、近年の日本でとみに問題視されている児童の虐待と虐待死を、A案の提案者と投票者はいかほどに勘案したのだろうか。親に虐待されて脳死に至った子どもをドナーとすることは(ルナ註:A案なら子ども本人の同意がなくても、親の意向だけで臓器提供できるので)、格好の隠蔽工作になるうえに、A案のように親の判断だけでドナーにできるなら、子どもは二重の意味で蹂躙されるのである。このことはドメスティック・バイオレンスに関しても同様である。

 

 

(「臓器移植法改定・A案の本質とは何か」/ 小松美彦・著/ 東京海洋大学教授/ 「世界」2009・8月号より)

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これが事実ならたしかに大問題ですが、この記事にはWHOの新指針の内容がぜんぜん紹介されていないのです。せめて当該部分だけでも引用してほしいですよね。わざわざ「WHO新指針に関する虚報を喧伝」と副見出しを掲げていながら、「虚報を喧伝」の内容は上記引用文だけで、ほかはA案の特徴の説明になっています。ちょっと不満が残ります。

ただ、「中略」以降で指摘されている点は重大です。この記事でも、新聞報道のうち良心的な記事でも、人権侵害の問題に十分審議が及んでいない点がA案への改定の重大な欠陥なのです。

前半に書き写したとおり、A案では本人の合意がなくても臓器提供できる点がA案の特徴でしたが、これが人権侵害に当たるのではないかという問題に十分議論されていないのです。というか、現行法に見られるように、人権への配慮のために臓器提供者数の低迷を招いた、だからA案へ改定だ、という流れになっているのです。







(下)へつづく

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臓器移植法改定A案の基礎知識とその本質(下)

2009年07月21日 | 「世界」を読む

(承前)



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現行法の核心は、「脳死者から臓器を摘出できる条件」(第6条)にある。

その条件とは、「脳死判定と臓器提供を患者本人と家族がともに同意していること」である。換言するなら、現行法では、本人と家族がともに臓器提供に同意した場合に限って、脳死は本人の死とみなしてよい、ということになっているのである。

このように、日本の臓器移植法では、本人と家族の同意という二重の縛りがかけられており、世界各国の法律と比較して「相対的には」、臓器提供条件が厳しくなっている。

 

そこでA案は
①一律に、脳死でもって人の死と規定し(あるいは、脳死をもって死とすることを前提に据え)、
②臓器提供の年齢制限を取り払ってゼロ歳にまで拡大し、
さらに
③臓器提供を事前に拒否していない限り、家族の意思だけで摘出可能とした。

こうして「臓器不足」を一挙に打開しようとするのである。

 


(上掲同記事)

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事前に拒否していれば、摘出はされないといいますが、乳幼児や児童は臓器提供へ拒否の意思表示などできるはずがないのです。ここに低年齢者たちへの人権保護が蔑ろにされる抜け穴があるのです。

 


脳死がほんとうに人の死なのかどうか、科学はまだ答えを出せていません。脳死の定義は前半に挙げたとおり、自発的に呼吸ができないetc...などの要件がありますが、では脳死は本当に人の死なのかどうか、死の定義として脳死は確実な要件なのかどうかは、まだ十分に答えを出せていません。

ふつうは脳死するとまもなく心停止に至る、とされていますが、90年代以降、脳死状態で長く生命反応を示す例の存在が多くでてきました。


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1981年に「米国大統領委員会」で脳死判定の基準として捻出されたのが、「有機的統合性」を基盤とする次の論理である。
まず、①死を「有機的統合性(体内環境の恒常性、怪我の自然治癒、免疫拒絶反応など)の消失」と定義し、
②有機的統合性の無二の司令塔は脳であるから、
③脳死した者は死んだことになる。

これは世界で唯一、公認されてきた「脳死=人の死」の論理であり、日本も追随した。ところが90年代に入ってこの論理がさまざまな科学的証拠や臨床例から破綻したのである。「米国大統領生命倫理委員会」ですら、その破綻を認めざるを得なくなっている。

例えば、脳死状態のままいき続ける長期脳死者が数多く存在する、という事実である。驚くことに、世界の最長記録は、脳死状態から心停止に至るまで21年、という例です。

4歳のときに脳死と診断された幼児が、多くの感染症を克服しつつ、身長150センチメートル、体重60キログラムにまで成長し、第二次性徴も現れ、大人になったのである。

しかも、心停止後にその脳を解剖したところ、脳神経細胞は全て失われており、生命活動の源とされる脳幹はわずかに残っていたが、石灰化していた。つまり、脳がこのような状態になっても、その脳死者は有機的統合性を維持して成長したのである。

ということは脳は「有機的統合性の無二の司令塔」ではないことになり、上記の論理の②が事実と異なる。したがって世界で唯一の論理は成り立たないことになり、「脳死=人の死」とはもはや科学的に言えないのである。

 

脳死状態のまま生き続ける長期脳死者は日本にも少なからず存在する。

筆者自身も面会したが、脳死者には確かな脈拍があり、触れると暖かく、汗や涙を流し、排便もする。さらには妊娠していれば自然分娩も可能で、ラザロ徴候という四肢の滑らかな動きを見せることもある。

脳死者はこのような生理状態にあるため、臓器摘出手術でメスを入れると、血圧や脈拍が急上昇し、暴れだすゆえ、麻酔や筋肉弛緩剤で沈静化されている。

さらに08年の米国の例だが、脳死判定が行われて臓器摘出の準備に入ったあとに、意識を「回復」した者まで存在する。そればかりか、その元脳死者は社会復帰したあとにインタビュアーと次のようにやりとりし、「脳死確定=死亡宣言」時にも意識があったことを明言しているのだ。

「医師が何と言ったか覚えていますか」
「自分が死んだと言っていました」
「聞こえていたのですか」
「聞こえていました。心は狂わんばかりでした」
(NBC News, 2008.3.23)


以上が脳死の実態なのであり、A案とはこうした脳死を国会議員の多数決によって、一律に人の死と規定するものなのである。

 


(上掲同記事)

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わたしは、脳死者の家族と移植待ちの患者とのどちらに共感するかと聞かれれば、「患者」と答えます。これは、かつてわたしがエホバの証人だった経験があるからです。科学的な根拠もなく、聖書学的な根拠もないのに、祭壇の上で動物をする、という古代のユダヤ教の宗教儀式において、される動物の肉は食べていいが、血は捨てるように、という聖書の記述を、輸血にも当てはまると決めつけた1950年代以降のものみの塔協の指導部の恣意的な解釈を無批判に受け入れて、多くの信者やその子どもたちを死なせてきた、そんな宗教団体に染まっていた経験があるので、それへの反省と後悔から、助けられる命があるのなら助けてあげたいと思うのです。

しかし同時に、基本的人権はどんな事情があっても蹂躙されてはならないというのも、動かしたくないわたしの信念です。A案のように、患者本人の意向が軽んじられるような条項は気に入らないです。

しかも、前半に紹介したように、改定案はA案だけではないのです。なぜA案なのでしょうか。小松美彦さんはひとつの怖ろしい推測を書いています。


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A案への拘泥のなぞを解くカギは、A案と現行法との違いである、「臓器提供する場合に限って、脳死を人の死とする」という主旨の文言が、A案では第6条第2項から削除されていることにある。

唐突に感じられるだろうが、A案の本質は単なる「臓器移植法」の改定ではない。表看板がそうであろうと、提案議員の中に本質を把握していない者がいようと、A案の本質とは、医療費の縮減を目的とした「尊厳死法」制定の布石にある、と考える。

なぜA案か。それはたとえ「臓器移植法」の枠内であっても、臓器提供とは無関係に「脳死=人の死」と一律に規定することこそが肝要なのである。だからこそ、「臓器提供する場合に限って、脳死を人の死とする」という主旨の文言は削除しなければならなかったのである。

臓器提供の場面とは無関係に、一律に「脳死=人の死」と規定することの効果を考えてみよう。

(1)
長期に及ぶ可能性のあった脳死者からの臓器摘出が正当化され、さらに長期に亘った場合の医療費を抑制できる。

最近、家族が意を決して、長期脳死者がマスメディアに頻繁に登場するようになり、その存在はもはや公然の事実となった。それゆえ今後、法的脳死判定で脳死が確定しても、長期脳死になる可能性があることは想像されよう。

だが生き続ける可能性のあった脳死者が臓器摘出によって死んだとなると、ことは重大である。したがって、「脳死=人の死」と一律に規定しておけば、問題を回避できる。このことは裏返してみれば、長期脳死者にかかる医療費を事前に抑制したことになる。

(2)
脳死者に対する保険治療の打ち切りを正当化できる。

目下のところA案提案者は、法的に脳死が確定しても臓器提供を拒否した場合には、脳死者への保険治療は継続されると述べている。だが、法的脳死判定後の脳死が死であるなら、死者に対する医療など元来ありえない以上、やがては保険治療は打ち切られるだろう。

ここにおいて、臓器提供とは無関係に一律に「脳死=人の死」とするなら、打ち切りは正当化される。人工呼吸器が断たれれば脳死者は心停止するのだから、脳死者にかかる医療費を実際に抑制できるのである。

(3)
脳死状態での尊厳死を保証できる。

本年6月9日の衆院本会議で、A案の提案者代表として登壇した中山太郎議員(医師)は、発言を次のように結び、まさにA案と尊厳死との関係を公言したのである。

「A案のように法的脳死をすべて人の死とする場合にあっても、家族の同意がなければ判定作業そのものがなされないので、法的に脳死の診断が下されることはないことは強調されるべきである。

逆に、尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意思の具現化の手段でもある。

したがって、脳死は人の死であるとすることによって、脳死を人の死と認める人たちにとっても、認めない人たちにとっても、リヴィング・ウィルを尊重できるシステムをつくることができると考える」(衆院本会議第37号速記録、6ページ)。

なお、尊厳死によって脳死者に対する医療費をカットできることは言うまでもない。

(4)
ここでは尊厳死の対象は脳死状態に限られているが、A案は対象の拡大に途を拓き、「尊厳死法」制定の布石となっている。

長期脳死になる可能性があるにもかかわらず、法的脳死判定をもって脳死者が死亡したとすることは、医師による回復不能診断を死亡診断と同一視することにほかならない。なれば、医師が回復不能診断さえ行えば死亡診断しえたことになり、脳死に留まらず対象は拡大可能なのである。

一方、07年11月、日本救急医学会は「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」を公表し、脳死をはじめとした4種類の治療停止可能な対象を定めている。

こうして、尊厳死ないしは治療停止が半ば既成事実化した暁に、尊厳死法案が上程されるのであろう。

 

(上掲同記事)

---------------------------


…ということです。さあ、みなさんはどう感じたでしょう。またみなさんは臓器移植法案A案についてどう思いますか。まだ参院での審議が残されており、参院では新案提出の動きもあるようすですので、このA案がそのまま通るかどうかは不透明です。解散もあることですし、今国会で可決するかどうかさえ不明となりました。わたしはもっと議論するべきで、可決を急ぐべきじゃないと思います。とくに、最後に指摘されているような思惑があるのならなおさら、ね。

って、わたしは「尊厳死法」の予定すら知りませんでしたけれども^^。また調べてみましょう。


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シチズンシップの未成熟な社会

2009年06月14日 | 「世界」を読む

今回のインフルエンザ騒動はいったん終息に向かっているようですが、これから冬に入る南半球での動向はWHOも、国内の専門家も注視しておられるようです。その動向次第では、今年の秋口より再び北半球で流行するかもしれません。

それで、正確な情報を得るために、このホームページをご紹介しておきます。

鳥及び新型インフルエンザ海外直近情報集

主宰しておられるのは外岡立人(とのおかたつひと)医学博士です。2008年3月まで小樽市保健所長を務めておられたようです。

この外岡博士が、「世界」09年7月号に今回のインフルエンザ騒動を振り返って、記事を一本投稿されておられます。その記事から、今回のというか、この度もというか、マスコミのパニック扇動報道を批判されている部分を書写します。

いつもながらわたしが強調したいのは、正確な情報を得たいのであれば、新聞、雑誌、TVを見るな、ということです。というのは、外岡先生のお話にこういうことがあったからです…


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4月30日、WHOがフェーズ5を宣言すると、日本の厚労省は待ってましたとばかり、用意していた「新型インフルエンザ対策行動計画」(2007年11月策定)をひもといた。

その行動計画はH5N1ウイルス(今回のウイルスは「H1N1」)を想定したものであったから、国内で発生しただけでたいへんな対策が始まり、都道府県で一人でも発病者が出たら、全学校を休校とする等の、全国的対策が盛り込まれていた。

しかし、どんな新型ウイルスによるものであっても、“新型インフルエンザ” という言葉で一括りにされてしまっていた。

ここから、日本におけるブタインフルエンザ対策は歯車が空回りしだす。

 


マスコミ各社は一様に “新型インフルエンザ” という呼称を使い出した。政府ももちろんそうである。行動計画にそって、対策はあっという間に進んだ。

各保健所に発熱相談センターが作られ、新型インフルエンザかどうかスクリーニングするための発熱外来も各地域で作られ始めた。もちろん寝耳に水に近い医療機関には、そうした外来をつくることを拒否した例も多かった。

国からの情報があまりにも少なく、ただただ行動計画に従っての指示だった。

かつての “仮想感染症” としてのH5N1ウイルスによる “新型インフルエンザ” 対策が、中身は問われずに、衣だけが取り扱われだしたのだ。

検疫が強化され、物々しい出で立ちで検疫官が空港ロビーや機内に乗り込む姿がTVで放映されるたびに、国民の多くは「あの」たいへんな新型インフルエンザが発生したと思ったはずだ。それは間違いなく錯覚だった。

TV局も各新聞社も、新型インフルエンザという “日本では定着してしまっていた” 言葉しか使わなかった。もちろん、ブタインフルエンザ由来で、その遺伝子にはブタインフルエンザウイルスの遺伝子以外にも、鳥とヒトのインフルエンザウイルスの遺伝子が組み込まれている等の難しい説明はされていた。

しかし、こうした説明よりも、いま世界に登場した新型インフルエンザは、いままで耳にタコができるほど聞いてきたハルマゲドンのようなインフルエンザではなく、通常の季節性インフルエンザかそれ以下の病原性である説明を、国は十分にしなかった。

国の機関で働く医師の間でも実際に世界に広がりつつあるインフルエンザが、行動計画で対象になっている新型インフルエンザとは相当かけ離れて病原性が低いことを指摘し、過剰な対策は必要ないという意見も聞かれた。筆者のもとにも海外の国の機関で勤務している医官の方々から、日本の国の対策が過剰で、またマスコミ報道の過激さに驚いている、というメールが入ってきた。それは現地と比較してのことだから、海外では日本ほどの騒ぎになっていなかったようだ。

 


国内のマスコミの過激さは5月9日に国内初の感染者が見つかったという国の発表で頂点に達した。

「新型インフルエンザ陽性との結果が出たということであります!」

早口でまくしたてた舛添要一厚生労働相。TV各社はその発表を実況した。大臣はさらに次のように説明した。「落ち着いて対処をお願いしたい。早く発見し、早く治療すれば必ず治ります」。そう言って大臣は、三人の感染者が確認された旅客機の座席表を示しながら、機内にいた誰もが感染の可能性が高いことも強調した。

これは何の感染症のことを言っているのであろうか。エボラ出血熱患者でも見つかったというのだろうか。もし今世界中に広がりつつあるインフルエンザA(H1N1)だとしたなら、黙って寝ているだけで大多数は自然治癒するはずだ。筆者は耳を疑った。この大臣の発表内容に違和感を覚えた記者はあまりいなかったようだ。

翌日、筆者は以下のような内容をウエブ訪問者に伝えた。

 

 


【牙を剥いた日本のマスコミ】


久しぶりに獲物にありついたかのごとく、多くのマスコミは「新型インフルエンザ」なるものに食らいついた。

政府の閣僚会議よろしく、新聞社の編集委員会(…と言うのかどうか知らぬが)でひそかに記事プレゼンの方針が練られる。

そこでは、我が日本国民の安寧(社会生活の平穏の維持)のための記事作りではなく、いかに他者よりもインパクトのある内容にするかが議論される。

現代社会ではBCP(業務継続計画)は、危機発生時における社会の安寧のために、各組織で作成される。企業、自治体、マスコミ…。僕はマスコミのBCPはどういう内容なのかと想像してみる。

…(中略)…

単に他者と競争するように記事の掲載合戦をするのが、危機発生時のマスコミの役割と考えているのだろうか?

マスコミの新型インフルエンザ発生時の役割は、正しい情報を伝え、一般社会が平穏に向かうようなエネルギーの源となることだと、僕は思っていた。しかし、現在のマスコミには、新型インフルエンザに群がる、「新型インフルエンザグッズ」を販売する企業と変わらない姿勢を僕は見た。

なりふり構わぬ報道のなかには、非科学的記事や、煽りを目的としたような記事すら目につきだしている。マスコミは集団ヒステリーを起こすエネルギー源ともなりうる。日本のマスコミは未だその域を出ていないように筆者は感じる。

 

 

成田検疫で高校生たちの感染が確認されたとき、それを見越していたかのように各社は特集を組んだ。しかし、日本のマスコミは正しい事実を伝えなかった。それはマスコミ自身、正しい情報を知らなかったからではないか。

国は世界で発生しているインフルエンザ(H1N1)が、どのような特性を持っているのかをこの時点でマスコミにも、一般社会にも明確に伝えなかった。

ただ、世界で新型インフルエンザが発生したということと、それが成田空港で帰国した高校生で見つかったということだけしか語っていない。マスコミはそれだけの情報で驚くほどの多くの記事を書いた。

しかし、すでにこの時点で、 “新型インフルエンザ” の特性は米国でもWHOでも分かっていたし、それは絶えず発表されていたのだ。すなわち、抗インフルエンザ薬は服用しなくても自然治癒する、大多数の発病者は軽症である、ということなのだ。米国政府は5月6日、感染者が出た場合の2週間の休校の必要性を指示したガイドラインを改訂し、休校の必要性はないと発表していた。

日本にはすでにこのインフルエンザA(H1N1)ウイルスは入ってきていると、当初から筆者は思っていた。同じような考えを抱いていた専門家は少なからずいたはずだ。3月から4月にかけてウイルスはメキシコから米国南部に広がっていたのである。その間に感染して帰国した日本人がいないと考える方が無理である。感染していても潜伏期間中ならば発見できない。帰国後発病しても軽い。地域でインフルエンザは未だ流行していたから、そのなかに混じっていた可能性もある。

厳しい検疫は必要ないという声は現場からも出ていた。とくに医療職からそのような声が多かった。厳しい検疫の光景は、一見充実した対策がなされているような錯覚をわれわれに与えた。しかしその意義は医学的には疑問だったのである。

犯罪者のように隔離され、感染したことが感染者の責任であるかのようにバッシングされ、そして校長が父母たちに謝罪している報道すらあった。

明らかに日本は異常なのだ。
無知から来るパニック。

それは国に責任があるのか、マスコミに責任があるのか、それともわれわれ日本人がいまだ保有している閉鎖的感性にもとづいているのか、医学者である筆者には分からない。

ただ間違いのないことは、日本には健全な市民社会がいまだ確立されていない、ということである。

 

 

(「ブタインフルエンザは真の新型インフルエンザなのか?」/ 外岡立人・著/ 「世界」09年7月号より)


 

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状況証拠だけで死刑判決を下してはならない! (上)

2009年04月26日 | 「世界」を読む
 

裁判員制度は、日本人にはまだまだ拙速な制度だとつくづく感じさせられます。

なぜかというと、最近の自白は警察の拷問に等しい心理的圧迫によるものである場合が多いし、被害者感情に便乗して、犯人視された人をよってたかってバッシングする傾向が強いと感じるからです。

特に、被害規模の大きい事件となると、犯人と目された人物を異常扱いするために、プライバシ-侵害など平気で行うマスコミの姿勢には毎回怒りを感じます。あえて扇情的な記事を垂れ流し、自ら垂れ流した煽情記事に自らが酔い、つまり、自分で垂れ流した扇情記事で自分を納得させてしまい、犯人視を固めてゆく、という心理の変化の流れを見ていると、魔女裁判を彷彿してしまうのです。

松本サリン事件がこの格好のケースとなっています。あの事件がきっかけで、毎日新聞などは反省をこめて事件報道を検証したりしましたが、どこまで取材に反映させているのでしょうか。和歌山ヒ素入りカレー事件は、松本サリン事件より3~4年後の事件でしたが、反省は口先だけだったのではないかという気がしてなりません。

 

わたしのうちでは、今は新聞を取っていないんです。インターネットでいろんな新聞を閲覧できますから、ね。日本の新聞はもう信用できないので、そんなものに四千円近くのおカネを月々払うのは無駄だと判断したのです。

今回のような犯罪を判断するに当たって、新聞をはじめ、TVニュースなどの「報道」らしき情報で心象をあらかじめつくってしまうのは危険です。裁判員制度をこのままはじまらせていいというのなら、少なくとも新聞、TVは見聞しないようにしましょう、とわたしは言いたいです。

 

人を裁くときの原則は、「疑わしきは被告人の利益に」というものです。

日本をはじめ、民主主議諸国では人権の保護を最大限に保障しようとします。死刑の廃止が民主主義諸国で広がっていっているのは、人を強制的に死に至らしめる行為が、まず、人権に反するからです。ですから殺人は犯罪なのです。しかし、殺人者に対してまた国家が殺害するなら、それは人権を奪う行為を自らが行ってしまうという矛盾を生みます。そこで、法で死刑を制定したり、さらに進んで死刑を廃止したりするのです。

まして無実の人にまちがって有罪の決定を裁判所が下してしまうと、その無実の人の幸福に暮らす権利はこれ以上ないくらい蹂躙されることになります。ですから、被告人が犯人であるということが疑う余地のないくらいに証明されなければ有罪としてはならないのです。このような考え方を、「疑わしきは被告人の利益に」という格言で表されています。つまり、被告人が犯人であるという確かな証拠がないのであれば、その場合は「無罪」という判決を下さなければならないのです。


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でも、そうなると、本当は犯人なのに、うまくごまかしたために無罪になって、罪を免れる人が現れることが心配されるかもしれません。

しかし、たとえそのようなまちがいが起きたとしても、まちがって無実の人を罰してしまうよりはずっとましだと考えるのです。


(「新版・わたしたちと裁判」/ 後藤昭・著)

 


刑事裁判においては、犯罪事実の証明に関し、検察官が「挙証責任」を負う。すなわち、証拠調べを尽くし、提出されたすべての証拠をみても、ある事実があったかなかったか、いずれとも明らかにならないというとき、検察官側に不利益に、被告人に有利に事実を認定しなければならない。その場合、被告人に不利な事実、従って犯罪事実の全部または一部は、それが存在しなかったものとして扱われる。これを「疑わしきは被告人の利益に」の原則、という。

証明の程度としては、「証拠の優越」の程度では足らず、「合理的な疑いをこえる」証明、すなわち、普通の人ならば、疑いをさしはさむことはないであろうというほどの証明が必要である、とされている。したがって、被告人は、弁護人の助けを借りて、検察側の犯罪立証に少しでも疑いを生じさせることに成功すれば、有罪をまぬがれることができる。

このことは、万が一にでも、「罪のない者を処罰することを避ける」ための制度的保証としてきわめて重要である。

 

(「基礎から学ぶ・刑事法」/ 井田良・著)


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「疑わしきは被告人の利益に」という考え方は、そのために真犯人の特定が遅れることになっても、それでも無実の人間を罰する、という、あるいは人権侵害を執行してしまうことの方を重大視して、それを回避する、という、基本的人権擁護の立場なのです。一方、状況証拠だけであっても、証拠の数が多いので、有罪であると断定が可能、と見るのは、とにかく殺人鬼を罰しなければならない、そのためにはプライバシー侵害にも目をつむるし、ひょっとしたら冤罪で数名を罰してしまう危険があるが、そちらには目をつむろう、という姿勢があります。この場合たいてい、被害者感情、遺族感情が利用されます。被害者や遺族はこんなに苦しんでいる、それなのに犯人視されている人はあんなにふてぶてしい、こんなことでいいのかという感情がこういう状況証拠だけで死刑判断を下すという暴挙を後押しするのでしょうか。

基本的人権をなぜ重要視しなければならないのか、ということを、わたしたちは学校でも学びませんでしたし、家庭や地域でも学習することはありませんでした。きっとこういうことがこの死刑確定への擁護論の背景にあるんだと思います。

 

何度も言いますが、和歌山ヒ素混入カレー事件のような被害の大きい事件になると、犯人視されたひとがTVなどでプライバシー無視で取材が続けられます。個人の家がカメラや報道の車で包囲され、大勢の人が集まって、これでもかこれでもかとフラッシュが焚かれます。あのフラッシュを執拗に焚き続ける行為というのは一種の暴力です。わたしは、あれはやめるべきだと思います。

そういう行為が執拗に続けられることによって、犯人だと疑われている人がほんとうに犯人のように思えてくるんでしょう。自分たちの行為という「形」が、自分たちの心に影響を及ぼすようになることもあると思います。そういう心理から扇情的な記事が書かれ、煽情的な映像が全国に垂れ流されます。プライバシー侵害を執拗に続けるTVカメラについキレて、犯人視されている人が、TVカメラに向かって放水などするとします。すると、その映像が全国に放映され、放水した当人はふてぶてしい人物であるという心象を形成させるのです。もし、そうやって作られた心象によって、裁判員の方々が死刑判決を下すとしたら、これはもう近代裁判とはいえないと思います。



つづく

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状況証拠だけで死刑判決を下してはならない! (中)

2009年04月26日 | 「世界」を読む

(承前)

 

裁判員制度が間もなく始まろうとしているこの時期に、状況証拠だけで死刑を確定させた判決が下ったということに、重く暗い空気をひしひしと感じましたので、ちょっとみなさんに考えていただきたいと思い、以下の情報を紹介しようと思います。マスコミによる人権蹂躙暴力に注目していただきたいと思うのです。

 

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1998年に67人がヒ素中毒に陥り、4人が死亡した和歌山カレー事件。

直接証拠はなく、自白もなく、動機も未解明にもかかわらず、林眞須美被告人に対する一審、二審の死刑判決に疑問を投げかける声は最近まであまり聞かれなかった。

その最大の原因は、当時の熾烈な犯人視報道が世間に与えた、「林眞須美=毒婦」という強烈な予断であろう。

事件発生当時には、眞須美被告人が保険金目的で夫や知人にヒ素や睡眠薬を飲ませていた疑惑が洪水のように報じられていた。保険金詐欺などの容疑で眞須美被告人が別件逮捕されてからは、本人のカレー事件の有力な証拠が見つかったかのような報道も相次いだ。

が、しかし、公判記録などをもとにこの事件の初期報道を検証したところ、事実誤認の記事や、裏づけ取材を怠ったことが明白な「飛ばし記事」が実に多い。眞須美被告人に関する10年前の犯人視報道がいかにデタラメだったか、以下、具体的に提示してゆく。

 

■三大紙の報道も嘘まみれ

公判で検察は、眞須美被告人が、
夫の健治さん(63歳)、
友人の田中満さん(58歳)、
知人のI氏(46歳)、
D氏(56歳)、
M氏(46歳)、
Y氏(享年27歳)
…の6人に対し、死亡保険金目的でヒ素や睡眠薬を飲ませた事実がカレー事件以前に23件あったと主張した。

このうち、健治さんと I氏に対する6件の疑惑が一審、二審では、眞須美被告人の犯行、もしくは関与があったと認定されたうえでカレー事件の状況証拠とされ、有罪の認定の材料になっている。

しかし、上記6人のうち、眞須美被告人と共謀のうえで3件の保険金詐欺をはたらいていたとして懲役6年の実刑判決も受けた夫の健治さんは、公判で「ヒ素は自分で飲んでいた」旨を証言し、今も妻の無実を訴えて活動中だ。08年夏からは田中さんも眞須美被告人の無実を訴え、その支援集会に参加するなどとしている。刑事事件で「被害者」とされた人物がふたりも被告人の無実を訴える前代未聞の展開になっている。

以上をふまえた上で、検察の主張のなかで「カレー事件以前の被害者」とされた6人のうち、健治さんと田中さん以外の4人に関する初期報道の誤りを指摘してみよう。

4人のうち、初期報道にもっとも頻繁に登場したのが I氏とD氏だ。検察の主張では、二人は「被告人夫婦の保険金詐欺の協力者だったが、被告人にヒ素や睡眠薬を飲まされていた」という被害者だったため、公判では本当に被害者なのか、単なる共犯者なのかが激しく争われている。そんな二人に関する誤報はとくに多く見つかった。

「毎日新聞」は98年8月30日付け朝刊で、I氏が同年3月に起こしたバイク事故の原因について、「ヒ素中毒による可能性がきわめて高いことが29日、和歌山県警の調べでわかった」と書いたが、完全な誤報だ。公判で I氏本人が事故は故意に起こしたものだと認めているからだ。

林夫妻が詐取した保険金の多くの受取人だった法人について、D氏が「従業員」だと書いた「朝日新聞」98年8月26日付け夕刊や、「読売新聞」同日付け夕刊の記事も重大な誤報の一つだ。正しくは、D氏は問題の法人の「代表取締役」。保険金詐欺に使われていると知りながら、D氏は会社の名義を林夫妻に貸していたのである(つまり、詐欺の加担者ということ)。しかし、D氏が「従業員」だと書いた記事を見た人は、D氏が被害者だという予断を抱いただろう。

I氏とD氏の二人がカレー事件以前にヒ素中毒や、ヒ素による中毒症状に陥った事実があるとした報道は多かったが、これもデタラメだ。D氏には、ヒ素中毒にもヒ素中毒に似た症状にも陥った事実はない。D氏に関する眞須美被告人の疑惑は、「睡眠薬を飲ませ、自損事故を起こすなどをさせた疑惑」があったのみのうえ、この疑惑は裁判では事実とは認められなかった。D氏のヒ素中毒の罹患の有無については多くのメディアが複数回、誤報を飛ばしている。

 


■愛人説のデタラメ

検察の主張では、眞須美被告人にヒ素入りのお好み焼きを食べさせられたとされたM氏に関しても、ひどい誤報が多かった。

「週刊宝石」98年12月3日号には、「M氏は入院中、体重が減り、髪の毛が抜けるという症状がでた」という旨を語るM氏の「知人」が登場したが、M氏がそんな症状に陥った事実はない。

「週刊ポスト」98年12月11日号の「M氏の体内からヒ素が検出された」という旨の報道も事実無根である。

ちなみに、M氏も退院後に独自に2000万円の保険金を手にしていたことなどから、公判では本当に被害者か否かが激しく争われた。結果、M氏に関する(ヒ素を盛ったという)眞須美被告人の疑惑も事実と認められなかった。

 

検察の主張では、85年に眞須美被告人にヒ素を飲まされ、殺害されたとされたY氏に関しても、ひどい誤報や飛ばし記事があった。

「サンデー毎日」は98年10月4日号で「Y氏が死亡する直前、病院関係者に『林家で腐ったような味の麦茶を飲んだ』と話していた」という旨の話を紹介し、この「腐ったような味」が「ヒ素の味」であるかのように思わせぶりに書いている。だが、ヒ素は「無味無臭」なのである。なおY氏に関する眞須美被告人の疑惑も裁判では、事実と認められていない。

このY氏や前出のD氏、M氏に関する眞須美被告人の疑惑を事件発生当時に書き立てていたメディアがそろいもそろって、それら記事の疑惑が裁判で事実と認められなかったことをきちんと報じていないのも問題だ。

 

また、眞須美被告人に愛人が存在する疑惑もよく報じられたが、目だったのが「前出D氏が眞須美被告人の愛人」ではないかとする報道。
「FOCUS」98年10月21日号、
「サンデー毎日」98年10月25日号、
「女性セブン」98年10月29日号、
「週刊現代」98年10月31日号
…の4誌が匿名人物に語らせる形式などで、{D氏のアパート(もしくはマンション)の “ベランダ” で眞須美被告人が洗濯物を干していた」旨の記事はとくにひどい誤報である。現地を確認したところ、そのアパートにはそもそもベランダがないのだ。

この「ベランダがないアパート」は林家から徒歩数分のところにある。事件発生当時に林家を一日中取り囲み、犯人視報道合戦を展開した記者たちが、些細な裏取り取材も怠っていたことをこの4誌そろい踏みの誤報は示している。

 

■次々報じられた架空の証拠

次々に飛び出した「有力証拠発見」の報道にも、ひどい誤報が多かった。

「週刊ポスト」は98年11月27日号で、林家の台所の流し台下から「亜ヒ酸の付着した空き缶」が発見されたように報じたが、そんな物証は存在しない。この記事には、この架空の空き缶と同じ場所から発見され、ヒ素反応が検出された「タッパー容器」に眞須美被告人の指紋が付着していたとも書かれているが、この容器から眞須美被告人の指紋など検出されていない。

目撃証人が存在するかのような報道もあったが、いずれもデタラメであり、架空だった。

「週刊ポスト」98年9月25日号で、「ある人物がカレー鍋に何か混入する決定的な現場を目撃したという女子小学生が存在する」旨の「警察庁幹部」名義のコメントを載せているが、そんな目撃証言は存在しない。

「週刊文春」98年10月15日号が、「眞須美被告人がカレー鍋の周りをうろうろし、周囲を見渡すような素振りをしていたと複数の主婦が証言している」旨の「さる捜査関係者」名義のコメントを載せているが、そんな証言は法廷に提示されていない。

「週刊新潮」98年10月29日号で、「眞須美被告人本人がカレー鍋の見張りをしていたとき、自分の子どもから “何か” を受け取り、ゆっくりした動作でカレー鍋に近づいていった」という場面を目撃した女子高生が存在する旨の「捜査関係者」名義のコメントを載せているが、この女子高生はそのような証言はしていない。

 

また、実際に存在する目撃証言に関しても事実誤認の報道が多かった。

「毎日新聞」は98年12月7日付け夕刊で、眞須美被告人がカレー鍋の置かれたガレージに一人でいたのを目撃した女子高生が「鍋周辺で白い煙のようなものが上がった」と証言しているとしたうえで、「亜ヒ酸粉末が風で飛散した可能性も」と書いたが、その可能性はゼロだ。この目撃証言におけるカレー鍋は、正確には「現場に二つあったカレー鍋のうち、ヒ素が入っていなかった鍋」だからだ。「毎日」以外でも、この女子高生の証言におけるカレー鍋を「ヒ素の入っていた鍋」と誤認した記事は多かった。

これも、この事件の初期報道のデタラメ振りを如実に物語っている。

 

このような嘘まみれの報道によって10年前、眞須美被告人はカレー事件の犯人と思い込まれ、その予断が解消されないままに裁判で判決が下されるのだとしたら、メディアはどう責任を取っていくつもりなのか。

 

(「週刊金曜日」2009年2月13日号)

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このような事実というものに対して不誠実で、より多く販売するために、ドギツイ、扇情的な記事を垂れ流し、明らかな誤報であることが判明しても訂正も謝罪もしない、マスコミの流す情報を鵜呑みにして、予断を作ってしまったところへ、裁判員として招集がかかったら、どうなるでしょうか。とくにわたしたちは憲法についてきちんと教育されておらず、人権について誤まった見方が形成されています。人権派弁護士などという言葉で、民主的な裁判を守ろうとする弁護士たちを攻撃さえするのです。それは結局のところ、自分たち自身を害することであるのに。林眞須美さんが保険金詐欺をはたらいたのは事実です。ならば保険金詐欺で裁かれるべきでしょう。ヒ素混入カレー事件では、眞須美さんが犯人だという確証は何一つないのです。状況証拠だけで、あろうことか死刑判決が下されていいはずがないのです。もし間違っていたら、取り返しがつかないじゃないですか。

4人も死者が出たことはたいへんな問題ではあります。では実際にはやってもいない人が罪に定められて死刑にされてしまうのは、カレー事件で殺害されることよりも程度が軽いからいいのでしょうか。そんなことはないでしょう。何の罪もない人が殺された、遺族の悲しみは測り知れない、じゃあ、無実の罪で死刑にされていった人の遺族の悲しみも測り知れないんじゃないですか。無実だったということが分かれば、じゃあ、死刑判決を下した裁判官、死刑を求刑した検察官、誤まった捜査をした警察官たちは、無実の人を殺害した罪に問わなくていいのですか。わたしは、人が人を裁くということは本質的に不可能なことなので、死刑制度には大反対です。それ以上に、こんな状況証拠だけで人を死刑に定めてしまうことには、まともな感覚では理解できない異常な事態だと言いたいのです。これはもう魔女裁判まであと数センチというところまで来ています。こんな判決には絶対に承服できないし、承服してはならない、さもないと、恐怖体制の社会が実現してしまいます。もはや日本はそんな社会建設に片足を踏み出しているのです。




次に、「冤罪ファイル」№5から情報をご紹介します。メディア批判の月刊総合誌「創」の編集長篠田さんの特別寄稿文です。


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眞須美さんは、保険金詐欺とカレー事件に関わったとされて、殺人、殺人未遂、詐欺で起訴されていたのだが、死刑判決となったのは、カレー事件で4人を殺害したと認定されてからだ。

彼女には「平成の毒婦」などという悪罵のレッテルが貼られ、この事件はもう決着がついているかのように思いこんでいる人も少なくないが、ことはそう単純ではない。

後述するが、裁判での争点は幾つもあるが、一番大きな問題は、一体何を目的に住民を大量に殺害するという犯罪が行われたのかという、事件の骨格とも言うべき「動機」が未だに解明されていないことだ。どう考えても、眞須美さんに近隣住民を無差別殺害するような積極的動機があったとは思えない。

実は、裁判官もその点は同じと見えて、判決文でも動機が解明されていないと書かれているのだ。その意味では「和歌山カレー事件」とはいったい何だったのかというのは、いまだに明らかになっていないのである。なにか新しい事実が見つかれば、この事件は根本からひっくりかえるかもしれない可能性を持っている。

この点で、現在の弁護団が08年、集会などで興味深い意見を披露している。08年7月20日の集会での安田好弘弁護士の発言を紹介しよう。

 


カレー鍋に入っていたヒ素は135グラム、ということになっています。ヒ素は耳かき一杯分が致死量ですから、これはたいへんな量です。カレーの鍋は直径30センチ、高さも30センチ程度の大きさですから、ここに135グラムの砒素を入れたら、濃度もたいへんなことになります。

となると、この事件の犯人は、ヒ素の怖ろしさや毒性を知らない人が、もしかすると自分がカレー鍋に入れた粉がヒ素だということ自体を知らなかった人だという可能性も考えられるわけです。つまり、カレー鍋にヒ素を入れたのは、ヒ素に関する知識のない人だと考えるのが合理的なんです。

ところが眞須美さんはヒ素の怖さを知っている人です。夫の健治さんがカレー事件以前、保険金目的で耳かき一杯分のヒ素を飲んでひっくり返ったことを知っているんですから。こうしてみると、眞須美さんは犯人像から外れます。

そして重要なのが、犯人が四つの鍋のうち、一つの鍋にしかヒ素を入れていないことです。殺人を目的とするなら(ターゲットを決めていて、住民もろとも殺そうと企てたのなら、という意)四つの鍋すべてにヒ素を入れるのがふつうですから、一つの鍋にしかヒ素を入れていないとなると、特定の誰かを殺そうとしたわけではないんです。

すると、この事件の犯人が企てたのは無差別殺人か、あるいは被害規模こそ大きいですが、実際は(真犯人の本来の目的は)イタズラやイヤガラセ(の類)だったという可能性もでてくる。しかし、無差別殺人は通常、先日の秋葉原事件のように「開かれた場所」で起こるものです。カレー事件のように地域の夏祭りといった「小さなコミュニティのなか」で起こるようなものではないんです。

また犯人がヒ素をガレージに持ってくるのに使ったとみられる紙コップは、ガレージに置かれていたゴミ袋から発見されています。こんな重要な証拠が無造作に現場に残されていたということは、犯人は自分の行為が、多くの人の亡くなられる事件に発展するとは思っていなかったのではないか。

こうしてみると、この事件の真相は「ヒ素に関する知識のない人」によるイタズラやイヤガラセだったと考えるのにも合理性がとてもでてくるわけです。

 

残る問題は、イタズラやイヤガラセに走った動機ですが、それを考える上で重要なヒントが、この事件が発生当初は「集団食中毒」として報道されていたことです。ここで結論をいうと、われわれ弁護団はこの事件が「食中毒偽装事件」ではないか、と見ています。

実はこれはわれわれが言い出したことではなく、現地を調査した際に住民に言われて気づいたことです。事件現場の住民の方々の中でも、地域の中心にいる方々がこの事件の真相を「食中毒偽装事件ではないか」と口をそろえるんです。それを聞いて、われわれは目からうろこが落ちたんです。

この事件が食中毒を偽装したものであり、犯人がヒ素の毒性を知らない人なら、和歌山カレー事件は無差別殺人ではなく、傷害および傷害致死ということになります。

実際、このあたりでは、トイレや庭にヒ素が殺虫剤としてまかれていて、多くの家庭にヒ素がありましたから、犯人が家にあったヒ素を殺虫剤か何かだと思ってカレー鍋に入れたのだとしても何も不思議はありません。

そして、この事件の真相が傷害および傷害致死となると、重要なのがこの08年7月25日に時効が成立することです。

 

(「冤罪File」№5 より)

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ヒ素の毒性を十分意理解していなかった人が、殺虫剤程度の毒だと思って、イタズラ目的でカレーに混入した、ということですね。それでも、普通殺虫剤なんか食べ物に入れたら人が死ぬかもしれない、ということくらい分かるのではないかと、素人のわたしなどは思ってしまいます。安田弁護士のお話は、わたしたち素人から見ると、なんだか論理を複雑に操作しているようで、難解なんですが、要するに、この事件は「無差別大量殺人目的のテロ」的な思い込みで捜査する警察の解釈だけでなく、傷害致死という意図で行われた犯罪であるというようにも解釈ができる、ということを言おうとしているのだそうです。


つづく

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状況証拠だけで死刑判決を下してはならない!(下)

2009年04月26日 | 「世界」を読む

(承前)


事実、警察と保健所の発表は当初たいへんに混乱していました。最初は「集団食中毒」という発表でした。事件発生後6時間経過した時点の記者会見で、「毒物混入の可能性はないのか」という記者の質問に、和歌山保健所所長は、「その可能性は1%です。99%は食中毒です」と答えていました。次に青酸化合物だという発表になって、つまり、「1%」のほうの可能性に発表が変わって、ヒ素混入という発表になったのは、事件から8日後でした。この混乱がなければ、適切な治療ができて、被害者は助かったのではないかという反省は今でも語られます。

平成2002年に、中学3年生の女の子がインターネットで事件当時の新聞報道を調べて、「食中毒」から「青酸中毒」、そして「ヒ素中毒」と報道が代わって言った事実に注目し、適切な対応がなされていれば、被害者は助かったのではないかという論文を、「文芸春秋」に発表し、話題になったそうです。その論文はやがて単行本として発売もされたそうです。

警察はこの混乱によって面目を失ったわけですが、ヒ素混入と決まると、今度は一直線に捜査が進みます。林健治さんがシロアリ駆除の仕事をしていたことがあり、ヒ素を所有していたのがすぐに判明したからですが、それと共に、林夫婦には保険金詐欺の疑いがあることが知られ、一気に疑惑が林夫婦に向かったのでした。つまりは林夫婦もかなりアヤシイ人たちだったのでした。篠田さんの寄稿文から、林夫婦が保険金詐欺を行うに至った経緯を抜粋して書き写しておきます。


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林夫妻の証言によると、経緯はこうだったらしい。

96年10月に眞須美さんの母親が死亡し、保険金一億四千万円を取得するのだが、翌97年1月末に眞須美さんが金庫を開けてみると300万円くらいしか残っていなかった。驚いて夫を問い詰めると、「 I と二人で競輪に使い、すってしまった」と聞かされた。これで眞須美さんは激怒する。

その剣幕に罪悪感に感じたのか、しばらくすると健治さんが「わしが身体張って億のカネ稼いだら文句ないやろ」と言ってきた。

それで三人(健治さん、眞須美さん、同居人の I さん)で相談し、健治さんがヒ素を飲んで高度障害を装い、保険金を取得する計画を立てた。健治さんはコーヒーの中に耳かきで少量のヒ素を入れて口にしたが、すぐに吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。その後病院に入院し、病院内でもコーヒーカップに抹茶カタクリとヒ素を入れ、スプーンでかきまぜて飲むなどした。健治さんは涙を流して激しく嘔吐しながら、I 氏に、「よう見とけよ、億のカネ稼ごうと思ったら、こんだけ(=これだけ、の意)しんどい目せなあかんのやぞ(=しんどい目しないといけないのだぞ、の意)」と言っていたという。

裁判で明らかになったところでは、林夫妻らの保険金関係の収入は7億円以上、受領金額は6億5千万円を越えていたという。健治さんは以前従事していたシロアリ駆除の仕事を辞めてからは定職についていなかったのだが、高額の保険金収入によって、林家はぜいたくな暮らしを送っていたという。

健治さんはその後、集会などで、ヒ素を飲んだらどういう気分になるか、という質問にこう答えている。

「いかなるものに混ぜて飲んでも、食堂から胃にいたる過程で、焼け火ばしを飲んだような焼け付くような感じになるんです。それが胃に落ちてからは、胃や腸がひっくりかえるような、すべての内臓が口から飛び出してしまいそうな、そんな感じですね。よく嘔吐と下痢があるとか言われますが、嘔吐はありますが、下痢はないです」。

このあたりの夫妻の生きかたや、健治さんが保険金を受け取るために、自分の足を金属バットで I 氏に殴らせたといった話は、そういう話が裁判上、意味合いを持っているということを念頭においておかないと、誰もが驚いてしまうに違いない。


(上掲書より)

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いや、驚きますよね。
…っていうか、わたしも関西人なので、ここだけ読むと、

「…こいつら、やっぱり、変わっとるわ…」

…と思ってしまうわけですネ。「変わっとる」というのは、標準語で言うと「フツ-じゃない」という意味です。


一億四千万円というおカネを3ヶ月ほどでギャンブルですってしまう神経、それを責められると、じゃあ、自分がヒ素中毒になって保険金を詐取しようと本気で計画し、実行する思考回路、それを容認する眞須美被告人の心理など、ふつうの市民感覚では、かなり違和感がありますよね。少なくともわたしは、この夫婦のものの考え方には一部ついて行けないものを感じました。

まあ、こういうネジのゆるんだ頭で生きていると、カレー事件のような究明不能な大事件が起こたとき、自分の身に疑惑を招くことになる、という教訓のようなものを、わたしはこの話から得たわけですが、それでも、日本国憲法の精神に則って、人は、(たとえ林夫妻のような人たちであっても)やってもいない罪で処罰されてはならないし、まして確たる証拠もないのに死刑になどなっては断じてならないのです。

 

さて、冤罪を生むしくみですが、捜査の段階、起訴の段階、公判の段階と、それぞれの段階で、冤罪を生む仕組みがあるわけですが、捜査の段階では、このような問題があります。


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まずはじめに、捜査の段階についてみると、冤罪=誤判は捜査の歪みから生じるといってよい。その歪みとは、客観的証拠や科学的捜査を軽視し、主観的な見込みや勘によって捜査を進めようとする非科学的・非合理的手法と、見込みや勘に合うような成果を上げるために行う糾問的な手法(*)のことである。冤罪=誤判を防ぐためには、「見込み」や「勘」に頼る糾問的捜査を許さないことが必要である。


(*)自分たちのストーリーに沿った自白を得ようとする取り調べのこと。被疑者が事実を言っても信じてもらえない、脅迫され、精神的に追いつめられ、警察の作ったシナリオどおりにしゃべるまで解放してもらえない、という捜査手法がまかり通っているのです。


まず第一に、別件捜査に代表される、見込みにもとづく逮捕を許してはならない。そのためには、逮捕状を出す際に裁判官は、逮捕するだけの証拠があるか、逮捕しなければならない必要があるか、違法な別件逮捕ではないかなどを慎重に判断しなければならない。現在は、逮捕状が捜査官から請求されると、裁判官はごく形式的に審査して機械的に発行する傾向がきわめて強い。裁判官はこの傾向を改めなければならない。

第二に代用監獄を廃止することである。代用監獄こそは暴力的・糾問的捜査の温床であり、冤罪=誤判の温床だからである。

第三に、被疑者の取り調べの方法に対し、法律的規制を加えて改善することである。取り調べの開始時間、終了時間、休憩時間、取り調べ継続時間を規定する。食事時間と就寝時間を保障する。被疑者の要求があれば弁護人の立会いを認める。原則として取り調べ状況の録音テープ化やビデオ化を義務づける。こういった規制を加える必要がある。

第四に、取り調べの結果として、捜査官が作成する供述調書について、その作成を法律的に義務づける必要がある。またそのコピーを被疑者に交付することも法律的に義務づけるとともに、取り調べの実態が反映されるよう、そのスタイルを一問一答式の速記的なものにあらためることも必要である。

第五に、誤鑑定を防ぐために、鑑定は原則として複数の者に依頼するよう義務づけることが必要である。

第六に、捜査段階の国選弁護人制度を新設し、弁護活動の権利を強く保障することが必要である。

 

(「冤罪はこうして作られる」/ 小田中聰樹・おだなかとしき・著)

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ここで注目するのは、第一・第二と第三の点です。つまり、思い込み一本やりで突き進む捜査、警察製シナリオのための取り調べ、代用監獄、というあり方です。上で述べられている通り、林夫妻は保険金詐取目的で、ヒ素を実際に服用していました。即警察は目をつけ、まず、眞須美さんご夫婦と同居していた I 氏が事情聴取されたのですが、そのやりかたがあまりに拷問的でした。


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後に眞須美さん有罪の決め手のひとつとして証人になった林夫妻宅の元同居人 I 氏が最初に事情聴取を受けたのはヒ素混入の正式発表のあった98年8月2日とされる。そしてその後、眞須美さんが逮捕され、カレー事件で再逮捕、起訴される12月29日まで、この証人はほとんど警察に囲われたような状況に置かれたのだった。

和歌山地裁での一審の弁論で、弁護団はこう述べていた。

「 I 氏は、カレー事件発生後約一週間後の平成10年8月2日ころから同年12月29日までの約5ヶ月間、カウント不能ともいえるくらいの膨大な時間、捜査官から尋問を受けている。

8月2日頃から8月30日頃までは、2~3日に一度であったが、8月31日から12月29日の約4ヶ月間は、ほぼ連日、かつほぼ終日の事情聴取を受け、なんとこの四ヶ月間は、金屋町の警察官宿舎で警察官と文字通り寝食を共にしていたと言うのである。

欧米的発想からすれば、この一事をもって、同人の供述の任意性、信用性は否定されるといっても過言ではない。

かかる異常事態については、マスコミからの取材を回避すること、あるいは林夫妻からの嫌がらせを避けるためということを表向きの理由とするが、その実態は捜査官の監視下に同人を置き、いわば無令状(=取り調べるための時間的制限がないということになるそうです)拘禁を行い、事情聴取(=つまり、ほぼ「取り調べ」に匹敵する形式になった)を敢行したのである」。

 

眞須美さんが起訴された罪名のうち殺人未遂は、この I 氏らを保険金目当てでヒ素を使って殺害しようとした、というものだ。

検察側は、ヒ素を使った保険金詐欺とカレー事件とをひとつながりの事件と捉え、I 氏を眞須美被告の被害者として証人に担ぎ出したのだった。

 

(「冤罪File」№5より)

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最後にあるように、警察と検察は、カレー事件と保険金詐欺事件を関連させて解釈し、しかもその解釈は一方的な思いこみであって、そのために I さんを被害者に仕立てあげたのです。しかし、先に書写しておいたように、I さんは保険金詐欺の共犯者であり、I さんは保険金詐欺に合意の上で加わっていたのです。あきらかに警察・検察は、事件の実際の様相とは異なるシナリオで起訴しているのです。小田中さんの著書にあるとおりの筋道をたどって、冤罪路線をまっしぐらに進んでいるわけです。弁護側の主張も引用されていますので、そこも写しましょう。


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I 氏は少なくとも林ファミリーの保険金不正受給に多かれ少なかれ関与しており、後に立件された一連の詐欺事件について共犯的立場にあったと断じてよい。

次に、検察官の主張を前提にすれば、
 同人に対する殺人未遂事件の被害者の立場も(可能性として)あるということになる。
 さらに、本件捜査の本命たるカレー事件のきわめて重要な参考人でもあった。

かかる立場におかれた I 氏の位置(とくに、心理的な)はきわめてデリケートで複雑なものであったことは想像に難くない。

 

かかる位置に置かれた I 氏に対し、捜査官から「カレー事件の犯人は眞須美に違いない」ということを徹底的に刷り込まれ(つまり長期にわたり拘禁され、連日、終日事情聴取にさらされ続ける状態)、「おまえ自身何度も殺されかけていた」ということを繰り返し聞かされ、おそらくある場面では「お前を逮捕することもできる」と脅され、さらには「協力すれば…」という利益誘導的な、あるいは取り引き的なやりとりがあったのではないかと推測することも、前記状況(長期拘禁状態にあったという状況の説明)に照らせば当然許されるはずである。


(上掲書)

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篠田さんは、この弁護側主張を引用したあとに、このように感想を述べておられます。

「つまり捜査側は、どうしても本命というべきカレー事件を立件するために、保険金詐欺事件の共犯者たちを取り込み、眞須美さんの有罪を証言する『被害者』に仕立てていった、というわけだ」。

 

カレー事件自体は非人道的な事件で、許すわけにはいきません。ああいう事件があれば、地域は心理的にも動揺しますし、犠牲になった被害者やその遺族は詳細を知りたいと思うことでしょう。しかしそれは、真相が分からない不安から逃れるために、保険金詐欺をはたらくようなアブナイ夫妻を犯人に仕立ててしまってよい、ということでは決してないのです。そんなことがあってはならないのです。

ここにご紹介した情報をできるかぎり誠実に受け止めてほしいです。被害者感情に同化して日頃鬱積した不満を発散しようというのは卑怯です。不満があるならその都度、はっきり表明するのが大人です。しがらみなどで、はっきり反論したり抗議するのを引っ込めてきたのなら、それは澄んだこととして忘れるべきでしょう。あるいは面と向かってまだいえないのであれば、このようなブログを開設して、ヴァーチャルに反論の演習をしてみるのはいい練習になります。

少なくとも、水に落ちた犬をバッシングするような卑劣な態度はやめましょう。そんなことをして一番傷ついているのは、自分自身なのです。世間の流れに便乗して辛辣な意見をヤイヤイ言っている自分を外から眺めてみてください。なんと矮小でみっともないことか。

眞須美さんは、うさんくさいことを、つまり保険金不正受給という犯罪に手を出した人です。しかし、カレ-事件では確たる証拠は何一つないのです。であれば、有罪にはできない。こんな裁判がまかり通りと、わたしたちはみんな安心して生きていくことができなくなります。どうか、日本国民の多くの方々が、こういう裁判には反対の世論を作っていこうという気持ちを取り戻してくださいますように。




「林眞須美さんを支援する会」のブログ、ぜひご覧になってみてください。




 

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八王子「君が代」訴訟、原告請求棄却判決に思うこと (修正版)

2009年03月29日 | 「世界」を読む


10・23通達後の卒業・入学式の “君が代” 時の不起立で、都教委に懲戒処分された、八王子と町田の市立中教諭三人の処分撤回裁判で、東京地裁・渡邊弘(わたなべひろし)裁判長は、3月19日、請求を棄却する不当判決を出した。(永野厚男/ 教育ライター/ 週刊金曜日09・3・27号より)

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判決理由は以下のとおりです。


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(1)「思想・良心の自由」侵害の有無について;
「卒業式等での国歌斉唱は全国の公立学校で従来から広く実施されており、客観的に見て、教職員の起立斉唱は通常想定される行為であり、特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価することはできないから、起立斉唱を命じた(校長の)職務命令が、直ちに(教諭らの)歴史観、世界観、信念自体を否定するものと断じられない」。

「外部行為(起立)の強制」の違憲・違法性の有無を「客観的な見地から判断するのは当然である」。


(2)「学問の自由」を保障している憲法第23条について;
①普通教育の教師は、児童生徒に教授内容を批判する能力がなく、教師が強い影響力を有すること、 
②全国的に一定水準を確保すべき要請が強いこと
…などを理由に、
「完全な教授の自由を認めることができない。したがって、教諭らは、校長が学習指導要領の国旗国歌条項の趣旨をいっそう充実させるべく発令した職務命令に従うべき立場にある」。

 

(前出記事より)

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(1)については、国旗掲揚、国歌斉唱時に起立させられることは、先の戦争への反省を意識した教師個人の感情(主観)が抵抗を覚えるので、強制は違憲だという主張を退ける論理を回答したものです。

でも、従来から広く実施されていたのは「教職員の起立斉唱」であり、「起立の強制」ではなかったのではないでしょうか。わたしがエホバの証人だった頃は、エホバの証人の信条から(国家への忠誠よりも神への忠誠を優先させる、という信条。国旗掲揚時、国歌斉唱時の起立行為は国家への崇拝行為だという教理がエホバの証人にはある)、エホバの証人の生徒・教師は、起立不参加を要請して、おおかたそれは受理されていました。

東京都教育委員会は、車椅子の障害を持った児童・生徒にも、わざわざ起立させるという道理に反した強制を行ったことがありました。こういう強制も従来から行われていたというのでしょうか。いいえ、以前はそこまではしませんでした。そこまでしたら、いくら生徒たちに「批判能力がない」としても、生徒たちの中には強い不快感を表明する子も出てきたでしょう。70年代に青春時代を送ったわたしなら、そのような暴挙に対しては怒りを表明したでしょう。

しかし、3・19判決では、「従来から行われてきたこと」だから、主観的な判断よりも「客観的判断は当然」ということになりました。つまり、教師たち個々人の個別の感情は抑えこまれて当然だというのです。

憲法というのは、多数派によって少数派が不利益を被らないよう、個人の人権を保障しようとするものではないでしょうか。それなのに、従来から広く実施されてきたことだから=多数意見だから、個々人の主観は尊重されなくてもいいのです。

こういう判決が出される根拠にはやはり憲法の条項が関係しています。それは15条の1項です。

 

「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」。

 

公務員は国民のサービスに必要な仕事をしています。ですから、一般国民のように、自由にストライキを行ったりすると、国民へのサービスが滞ることになりますし、また公務員は国家・地方自治体の仕事をしていますから、特定の政党、特定のイデオロギーを一般市民のように自由に表明することはしてはならないということです。そうすることにより、公務が公正に行われることを確保しようとするのです。

では学校の行事で、国旗掲揚、国歌斉唱時に、職務命令によって起立を強制されたとき、それに不参加を表明することは、「一部の利益に奉仕すること」にあたるのでしょうか。
(2)では、「児童生徒には教授内容を批判する能力がなく、教師が強い影響力を及ぼす」ので、つまり、日の丸・君が代へのその教師の主観を強制する怖れがあるから、不起立は行政処分の対象になって当然だとされていますが、そうなのでしょうか。むしろそういうやり方は、全体の意向に従わないことは「まちがったこと、違反、処罰されること」という、憲法に反した考え方を刷り込んでしまうのではないですか。また憲法というのは単なるお飾りであって、本気で従ってはならないものだ、ということを刷り込んでしまわないでしょうか。



日の丸掲揚、君が代斉唱へのある教師たちの不同意は、先の戦争における日本の加害責任を意識した行動です。そして戦後を通じて、教育現場では、日本の加害責任については被害に較べて圧倒的に言及が少なかったのです。その表れが、沖縄集団自決事件が教科書から削除されつつあることへの沖縄県民の大々的な抵抗運動でした。

そういう加害責任を意識した(あるいはそれが悲惨な被害経験からの反戦意識であっても)不起立行為が教育委員会によって抑えこまれ、それでも自分の主張を通そうとした教師たちが処分されるのを目の当たりに見た「批判能力のない児童・生徒たち」は、日本政府による戦争加害責任を意識した思想への感じ方について影響を受けないでしょうか。戦争というものは、戦勝国についても敗戦国についても、加害責任を問わずに語れるものではありません。まして歴史教育においてはなおさらです。

近頃は田母神さんの越権行為に見られるように、加害責任を考えないようにしようという動きすら、いいえ、加害責任という視点を消してしまおうとする動きが顕著になっている風潮があるのです。ではなおさら加害責任に教師が注目させようとするのは、公平な教育です。それを行政処分によって抑えこもうなんて、それこそが「一部の」勢力への一方的な肩入れに当たらないのでしょうか。教育現場における国旗掲揚時・国歌斉唱時での不起立行為を、公務員の中立性に障ると判断するのは違うと思います。このことについてはもっと厳正で慎重な議論が必要だと思います。



むしろ、この判決を後押ししたのは(2)の「全国的に一定水準を確保するべき要請が高いこと」なのではないでしょうか。2003年10・23通達がまず東京都の公立学校における、国旗掲揚・国歌斉唱時の起立行為をあまねく浸透させるべく「要請」したのです。ついで教育基本法が「改正」され、教育現場へ行政が以前より広く介入できるようにし、愛国心を植えつける教育をも可能にする法的措置を設けたのです。この教育基本法の「改正」は安倍自民党の暴挙に等しいやり方で行われたものです。「全国的に」要請が高いのではなく、日米軍事同盟を確立させたい自民党=民主党右派=読売・産経新聞がそのように「要請」しているのではないですか。

この判決について、原告側はこのようにコメントしています。

 

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判決後、八王子市内で開かれた報告集会で、斉藤園生(さいとうそのお)さんら教諭側弁護士や教育法研究者は、「判決は都教委の主張をほぼそのまま受けいれており、『客観的に見て』『学習指導要領の趣旨を』云々は、ピアノ判決(07年)のコピペだ」などと厳しく批判した。

教諭らは、「校長は、自分が処罰されることを怖れ、国歌斉唱や証書授与のあいだ、壇上の両隅に分割して追いやった生徒の卒業制作パネルを幕で隠させ、中央の国旗と市旗しか見えないように舞台設定を施し、卒業の言葉や合唱の間だけ幕を開け(て、生徒たちの制作した卒業式用パネルが見えるようにし)た。が、卒業式は “お上が卒業させてやる式” ではない。自分たちがみんなで制作したパネルが隠されたことで、多くの生徒が “君が代斉唱” 時、不起立した」と語った。

参加者からは、「こんな判決が社会にのさばったら大変なことになる。教育と命令は相容れない」などと控訴を支持する意見が相次いだ。

 

(前出記事より)

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憲法学者の伊藤真さんはその著作『中高生のための憲法教室』でこのように述べておられます。


「社会の秩序を意識し、そこで生活する者の生命と財産を守るためには、国家という権力装置が必要なことを否定しているのではありません。しかし、国家が愛国心をあおって、国民にことさら国民一丸を意識させることは危険をともなうこともまた、自覚しておかなければなりません。ことさらに国民としての連帯を強制したり、愛国心を強制したりすることにともない危険には大きくわけて二つあります。

「ひとつは、それがやがては、現行憲法の根本理念である『個人の尊重』を否定してゆくことにつながる、ということです。つまり、『国家のほうが重要なんだから、個人は滅私奉公に努めよ』という風潮になりかねないのです。

また『国家』『国家への貢献』という枠でものを考えることは、『その枠に当てはまらない人』たちを排除することにつながります。この日本にも200万人あまりの外国人が住んでいます。そうした外国人の人たちともうまく共存してゆくためにも、あまり『国家・全体』という枠組みを強調しないほうがいいのです」。




でも最近は外国人排斥の感情は大きく昂じています。あくまで総論にすぎない「正論」で、個人別のユニークな事情を考慮せず、典型的なパターンに当てはまらない人たち(派遣村に集まった不利な状況に追い込まれた人たち、家庭や社会保障から排除された人たち)は自己責任という経済学の原理で容赦なく切り捨てられる風潮があまりにも席巻しすぎています。人間というものは社会を構成する機械的な部品ではありません。経済的合理性と経済的効率で判断し、行動しなければ排除するというのは、すでに人間を人間とみなさず、人間個人をニッポン社会という大きな経済成長マシーンの部品としてしかみなさない非人間的な態度なのです。

これはもう紛うことのない全体主義です。国旗敬礼と国歌斉唱の強制は全体主義の教育であり、全体主義は今、経済界が必要としているものなのです。財界の一部の人たちが自由に商売をし、欲しいままに利益を上げるため、そういう社会であって欲しいがため、国民個々人の権利だの労働者の権利だのを押し潰そうとしているのです。

近頃は行動経済学という分野が注目を集めています。経済学と心理学を統合したような理論なのですが、それは、「経済的に合理的な判断しかしない個人」という、実際には存在しない経済学的人間を前提に理論を組み立てる従来の経済学には欠陥がある、人間というものはもっと不合理で、非効率な判断で生きるものだという、より現実に即した視点に立った新しい経済学です。

人はそれぞれユニークな存在であり、あなたに取って代われる人間などいないのです。この前まで流行していた効率最優先的な考え方では、個人は他の個人と取替えが利くものでしかありませんでした。日本型の派遣労働というものがまさにその典型でした。労働者は会社が勝ち残ってゆくための部品でしかないのです。モノでしかないのです。赤い血が流れていて、人間としてあたりまえに幸福に暮らしたいと願う人間ではなく、必要なときに利用でき、必要がなくなったら使い捨てることのできる道具でしかないのです。これが全体主義です。

日本国憲法はそれとは逆に、このユニークな個人が、ただ人間であるだけで人間らしく、つまり日本社会という経済成長マシーンの部品としてではなく、たとえ経済成長に役に立たない芸術などに生きる生き方であっても、また障害があって普通以上の世話が必要であっても、体力や健康の衰えた老人であっても、それを理由に「役立たず (生産をしないから) 」としてみなしたり、まして遺棄されたりすることのない温かい、ひとりひとりの人間のための社会を建設するようにという命令を国家権力や社会的権力者(資本家「階級」の人たち)に与えているのです。

学校では、こういうこと、つまり個々人が何にもまさって尊重されなければならない、ということがまず教えられるべきです。個々人は国家の体面なんかよりずっとずっと重要だからです。「一定の水準を維持する要請が高い」というのであれば、わたしたち国民はもっと声を上げて、こんな暴挙に反対し、個人の内心の自由を守れという「要請」を出してゆこうじゃないですか。国民個々人がまず尊重されるべきこと、その延長上に、労働者尊重、経済偏重への批判があるのですから。

わたしたちは、いまこそ、日本国憲法という戦後日本の原点に立ち返るべきだとわたしはここで主張します。

 

 

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