Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

憲法にとって「国家」とは?

2010年05月06日 | 日本国憲法を知る


現代の地図は精密に描かれていますが、それでも宇宙から見た地上の姿とは異なった点があります。いうまでもなく、宇宙から見ると地上・海上のどこにも「国境線」が引かれていません。あたりまえの話ですが、国境線というのは、なにか必然性があってそこに引かれているのではなく、恣意的、人為的に定められたものです。わたしたちが、国境線で区切られたある一定のエリアを、「自分の国」として意識するのは、それが自然なことだからではなく、ましてそれが必然だからでもありません。純粋にわたしたちが、国境線で区切られたエリアを「ここは自分たちの国だ」と取り決めることで「自分の国」は存在するようになるのです。その、国境線で区切られたエリアには、たとえば同じ言語を話す人たちが多く集まっている、同じ宗教、同じような習慣、伝統を共有している人たちが多く集まっている、同じような人種が多く集まっている、あるいは同じ民族が集まっている(この点は、先ほどの、「同じような宗教、伝統などを歴史を通じて共有してきた」ということとほぼ同じ意味になるかもしれませんが…)などの理由で「自分たちの領域」という共同意識が生じるのでしょう。


(以下引用文)---------------------

わたしたちは、「国」というものを、なにか所与の存在のように考えがちである。しかし、「国」とは自然的な実体として存在するものではなく、人為的に作られた「イメージ」なのである。

だがそのイメージが、自分の生まれた土地や生活の場、自分の生まれた地域への愛着、あるいはそこでともに暮らす人々・ともに暮らしている人たちをまとめている宗教や伝統、習慣への愛着というような感情と結びついて想像されるときはじめて、「国」は「わが国」として意識されるのである。

 


(「憲法学教室」/ 浦部法穂・著)

---------------------(引用終わり)

 

しかし、「憲法学」では、ここまで言われてきた「国」「わが国」とは区別して「国家」というものを考えるのです。なぜならば、「国家」の実体は「権力」だからです。一般によく言われる「国家」の定義は、「領土、国民、統治権の三要素がそろって国家というものは成立する」というものです。

でも、土地とそこに住む人々というのは国家というものがなくても存在しえます。事実、人類史という観点からすると、国家などなかった時代のほうが長かったのです。ですから、あるエリアとそこに住む人々のうえに「国家」が成立するのは、そこに住む人々を包括的に支配する統治権力が現れるようになったときなのです。したがって、


(以下引用文)---------------------


統治権こそが、国家を国家たらしめる本質的な要素なのである。国家の本質は「権力」にあり、「権力」こそが国家の実体だ、ということである。

「権力」とは、他者を支配できる力、あるいは他者に対して服従を強制しうる力であり、国家はそのための装置、つまり強制装置なのである。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)


このような強制が存在するようになるのは、ある土地に住む人々が共同生活を維持してゆくために必要なルールをみんなが守るようにするためです。ですから権力は必要なものではあるのです、共同生活を営んでゆくためには。

しかし人間の歴史は、権力が必ず乱用されるようになり、共同体を維持するという目的をはみ出して、一部の少数者が多数の人々を搾取するために使われてきたことを記録しています。一部の少数者が必要以上に利益を自分たちに蓄積しようとするからでした。こういう現象をわたしたちは「権力の暴走」または「権力の腐敗」と呼ぶようになりました。そうです、権力は暴走し、腐敗する性質があるのです。

わたしたちは歴史を顧みるときに、権力の暴走、あるいは腐敗を防ぐ取り決めが必要だということを学び知ったのです。

 

(以下引用文)---------------------


「権力」にはすべての共同体の成員に、人間らしい生活を保障すべき義務があるのだ、ということを明確にし、さらには、「(共同体の成員に服従を強制しうる)力」の発動が許される場合と、「力」の発動が許される条件とをあらかじめきちんと定め、それらを遵守することを条件に「権力」の行使を担当させる、という「権力」への縛りが不可欠である。いわば、「権力」を、権力の側にない「ふつうの人々=人民」の利益のために仕えさせるための「縛り」である。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)

 

最後の文章をご覧ください。そこでは「権力」が「権力の側にない人々=人民」と対比されています。つまり、あるエリアに住む人々にとって、「権力」は対立関係にあるものなのです。なぜって、一歩まちがえば、権力は暴走し、腐敗して人々を搾取してしまう性質があるからです。つまり、そうならないよう権力は、権力行使の対象となる共同体の人々=人民によって、縛りをかけて監視されなければならないものなのです。

このことは、ある一定の領域に住む人々、同じような伝統、習慣、宗教を共有し、生活を共にしている隣人への愛着、あるいは自分が生まれ育った地域とその地域の人々、自分という人格に影響を与えてきた伝統・慣習への愛着としての「自分の国」への愛着のような感情を、「国家」には持ち得ないものだということが浮かび上がってきます。そうです、「国家」とは「権力」であり、つまり人民に服従を強制しうる「力」であるゆえに、暴走、腐敗しないよう「監視」されなければならないものなのです。だから「愛国心」というのは「国家」にたいして抱くべきものではないのです。「愛国心」は暮らしを共にしてきた共同体の人々や、生まれ育った郷土への懐かしい愛着として抱くべきものであり、「権力を行使する装置=国家」に対して抱けるはずのないものなのです。

 

(以下引用文)---------------------


「権力」は、常に「人民」にとっては自分たちの側にあるものではなく、それはいつでも人民にとって「対立物」なのである。たとえその「権力」がいかに「人民」にやさしい態度を示すものであったとしても、ひとたび「権力」として存在した瞬間から、それは「人民」のものではなくなる。だからこそ、「権力」に対する不断の監視が必要なのである。「人民」がそれを怠ったとき、そこには暴力的支配だけが残るであろう。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)


そして、権力を、暴走あるいは腐敗にいたらせないように掛ける「縛り」、それを「憲法」と名づけるのです。近代国家の場合、人間の歴史を通じて「権力」は中央集権的で排他的に割拠するような形で存在するようになった「国家」に一元的に集中してきたので、近代国家についていえば、「権力」は「国家」という単位によって、「国家権力」という形態で存在するようになってきました。(アフガニスタンなどのように、「国家権力」の統治力の弱い「国」の場合もありますが、ここではヨーロッパ型の近代国家について述べられています)ですから、憲法は、「国家権力」への「縛り」を第一義的な目的を存在意味とするようになっているのです。こういう方針を「立憲主義」といいます。

 

(以下引用文)---------------------


立憲主義とは、もともと権力者の権力行使の濫用を抑えるために憲法を制定する、という考え方のことをいい、広く「憲法による政治」のことを意味している。

したがって、立憲主義の概念は本来多義的であり、前近代の君主制のもとで、君主の権力を制限しようとする「立憲君主制」とも結びつくことができた。

一般には、近代以降に、国民主権・権力分立・基本的人権の保障という原則をともなった近代憲法が成立して立憲主義が定着したため、これを近代立憲主義の意味で用いることが多い。そしてこのような近代立憲主義は、20世紀前半以降、しだいに現代立憲主義と称すべきものに展開していった。

これに対して、同じく立憲主義の憲法でありながら、国民主権・権力分立・基本的人権の保障の原理を持たない憲法を「外見的立憲主義」と呼んで、近代立憲主義と区別している。たとえば、1871年のドイツ帝国憲法や、これを模倣した大日本帝国憲法が、君主主権・権力集中・基本的人権の否認などの特徴をもっていた点で、外見的立憲主義の憲法に分類される。

 

(「憲法」/ 辻村みよ子・著)

---------------------(引用終わり)

 

こうした憲法の基礎知識に照らして、最近の日本における「愛国心の強要」の広がりを見ると、それはほんとうの意味での「愛国心」ではなく、「国家権力=少数者の服従強制能力」への無条件服従に走っているのだ、ということが見えてきます。日本の風潮は今、少数者の搾取を容認する思考に走っており、「権力=人々に服従を強制する力」に服従する思考に順応させようとしているのです。マスコミや前近代的な縦の服従関係をいまだに持つ芸能界の影響力=国民が権力の道具になるように「愛国心」ということばで擦り替える影響力により誤導されている国民の姿が見えてくるのではないでしょうか。

いつかまた詳しく紹介したいことなのですが、こうした「権力」への服従を要求するようになってきている背景には、多国籍企業化した日本企業が、海外での企業活動を有利に行えるようになるために、日本の多国籍企業が進出した外地における、労働運動や内政不安定などの不安定要素を平定するアメリカの軍事力展開への日本の多国籍企業の期待と、それへの見返りとしての自衛隊のよりいっそうの軍事的協力を望むようになったことが第一に挙げられます。

そしてそういう日本の多国籍企業の要求を実現するのに邪魔になるのが日本国憲法なのです。今、日本国憲法改正については9条が有名ですが、実は13条や24,25条などの人権保障への「改正」も主要な対象としてもくろまれているのです。それは製品の価格を下げるという「国際競争力」を実現するためには、労働力を買い叩く必要があるからです。(「日本の大国化は何をめざすか」/ 渡辺治・著)

その目的で憲法を改正しようとして、権力へ隷属化を「愛国心」という体裁ですり替えていま教育現場でさまざまな強制が行われつつあるのです。それはまさに、「外見的立憲主義」への回帰ともいうべき現象なのです…。

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平和憲法を受け入れる覚悟

2005年04月09日 | 日本国憲法を知る

 

 


日本国憲法 第13条

すべて国民は、個人として尊重される。

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 


------------

 

国民は「すべて」尊重される。

だから、「最大多数の幸福」とは異なっています。すべてのひとの幸福を国家は保障してゆく義務があるのです。

つまり、「日本国憲法は、社会のためにただのひとりも犠牲にしてはいけない、と言っているのです(「中高生のための憲法教室」/ 伊藤真・著/ 「世界」2004年4月号)」。

このことは日本の社会が覚悟を決めなければならない、ということを意味しています。すなわち、「そう、他人の犠牲のうえに成り立つ『しあわせ』は本物ではない、と感じる気持ちを持つ(同上)」覚悟、です。

おおぜいの人の安全のために、自分が安全と安心を剥奪されなければならないかもしれない、そんな人生はほんとうの安全ではないのです。

原子力発電は現在のところ、被ばく労働が不可欠です。でもそれはおおぜいのひとの便利のために一部の人びとを犠牲にすることです。ですから、原子力発電に頼るわたしたちの暮らしは、ほんとうの平和と安全ではないのです。したがって、わたしたちが憲法13条に則って生きてゆく覚悟を決めるということは、原子力への依存を断念する、ということを意味します。たとえそのために、今の暮らしの便利さをあるていど縮小することになっても、です。

 


また、国民はすべて、「個人として」尊重される。

ですから、ひとはみな違っていていいのです。意見も違っていていい。いえ、むしろ、明治憲法時代に、国がよしとする考えかただけを考え、かつ信じなければならなかったことを反省し、それを否定する意義があります。

ですから、わたしたちは、日の丸と君が代に反対する意見を堂々と主張していいのです。国家に反対する人間を脅したり処罰したりしていた明治憲法時代の考えかたをいまだに引きずっている人たちが、同じように脅したり処罰しようとする方が間違っているのです。

ヨーロッパでは、信教の自由は自由の中の自由、人権の中の人権として、最も重要視されていますが、それはヨーロッパの歴史で、宗教の違いから起こった戦争の歴史を反省する意志が重要視されているからです。しかし日本では、みんなと同じ方向性、同じ考えかた、同じ精神態度でなければならず、そうでないなら極端な場合、殺されてしまうこともあったので、これは日本人にとっては一大転換です。ですから日本において「自由の中の自由、人権の中の人権」とは、思想・言論の自由であると、これはわたしが個人的に思っています。

在日外国人を差別したり、違う意見の人を村八分にしたりするのは、憲法に反していることなのです。

 

 


 

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