Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

社会現象を「科学的」に研究できるか (1)

2008年12月14日 | 「市民」のための基礎知識
オピニオン・ブログで述べられることに、どのようにしてある程度ではあっても説得力を持たせることができるでしょうか。そのためにはより客観的に、科学的に論じることができれば、ちょっとは説得力を高めることができるかもしれません。

でも、科学ということばからわたしたちが最初に連想するのは、やはり自然科学の分野の研究です。社会現象を扱う研究は「科学」と呼べるのでしょうか。メンヘラーたちは心理学や精神病理学に素人にしてはやけに詳しかったりしますし、そうした知識を使って、子どもの育て方や、親の「愛」を批判したりします。元エホバの証人たちも、心理学や精神病理学の知見をつかってエホバの証人を批判します。こういう人間を扱う分野で、実際、科学的な研究ができるものなのでしょうか。事実、エホバの証人などは、心理学や哲学、社会学が自分たちを痛烈に批判するものになるので、それらは科学とはほど遠い代物なので、それらを勉強するのはくだらないことだと豪語します。自分たちの教理こそおよそ科学とはかけ離れたものであることは棚上げするくせに。

しかしそれでも、自然科学とちがって、社会現象は人間の営みを基本としているわけです。

「科学的認識である以上、それは因果性という概念の使用ということとどうしても関連を持たざるを得ない。ところが、人間というものは意志の自由を持つために、その行為は非合理的なものを含み、したがってその営みには本来的に計測不可能性を帯びている。だから、人間の営みである社会現象は、非合理的なものを含んでいるために、目的→手段という目的論的な関連は辿れるかもしれないが、因果性の概念をあてはめて、原因→結果という関連を辿ることはできにくい。では科学的認識としては、社会科学は自然科学と較べて程度の低いものにならざるをえないのだろうか(大塚久雄/「社会科学の方法」より)」。

どうでしょう。わたしたちはいくら努力をして勉強しても、わたしたちの切実な訴えは、科学性の低さゆえに説得力が劣ってしまうのでしょうか。「Luna's “A Life is Beautiful”」の第2部の最初に、この問題を扱った本を読みました。そのメモとして、今回はエントリーします。


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中学生のとき、弟といっしょに一高 - 三高の野球戦を見に行ったのですが、入り口近くで群衆がなだれをうって動きはじめました。そしてそのなかへ、私も弟も入ってしまったのです。

どうにも逃げ出すわけにいかない。足がもう地についていないのです。着物を着、下駄をはいていたのですが、帽子や下駄などはいつのまにか、どこかへいってしまいまして、足がようやく地についたときには、よくも生きていたものだと思ったことがあります。

ああいうばあい、逃げ出すわけにはいかないものですね。力の強い人なら、少しはがんばって抵抗することもできるでしょうけれども、いくら強くたって、個々人が全体に徹底的に反抗して動こうとしたら、自分が死なないまでも大怪我をするだけで、無事に生きのびようとすれば、個々人はその流れのなかで、ただ全体の動きについていくほかはないでしょう。

マルクスは、自然成長的な分業の基盤の上でおこなわれる場合、経済現象はだいたいこうした性質をおびることになると言うわけなのですが、この群集の例をとってみると、それがもっと単純な形で現れてくるので、われわれの理解にはたいへん好都合です。




ところで、群集全体のものすごい力、教委に値するようなエネルギーは、しかし、よく考えてみると、諸個人の力の総和に他なりません。それが諸個人の協働の結果、倍加されていることはもちろんありますが、しかし、結局のところ、諸個人の、群集を形づくる一人一人の力の総和に過ぎないことは明らかですね。

…(略)…

そうした諸個人の力の総和にほかならぬ群集全体の力が、その場合、群集を形づくる諸個人自身から独立し、むしろ(ルナ註:諸個人に)対立するものとなっていることは明らかでしょう。皆どうにもならない。ただ、その群集の一人として全体の流れる方向に動いているだけです。一人一人は、みな、自分はそんなところへ行きたいとか、そういう動き方をしようなどとは、だれも思っていない。できたら、もちろん止めたいと思っている。早く流れの外へ出たいと思っている。

しかし、ちょっとそこまで出れば楽になるんだから、と思っても、どうにもならないで、どんどん一定の方向にもっていかれてしまうわけです。怪我せずにいたいから、ただ仕方ないから進むわけですが、その個々人の進むことが、また(ルナ註:群集の暴走の)力の総和の一環となっていくわけです。

こうして、自分たち自身の力が、自分たちにまったく対立した別のものになって、どうにもならなくなる。それはどこから来て、どこへ行くか、ぜんぜん見渡すこともできない。これが「疎外」だといったら、よくわかるんじゃないでしょうか。そしてまた、人間の「疎外」の現象が、とりもなおさず、社会関係の「物化」~人と人との関係がわれわれの目には物と物との関係として表れてくる~の現象であることも分かってくるのではないかと思います。



(「社会科学の方法」/ 大塚久雄・著)

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いくつか用語を説明します。まず、「自然成長的な分業」ですが、これはマルクスが使った用語らしいです。何のことかと思うに、この著者の解説によると、

「社会的分業、大ざっぱにいって、さまざまな職業分化だとお考え下さっていいと思います(上掲書)」。

つまり日本でいうと、農業労働者がいて、運送業者によって運ばれ、仲買業者に渡り、一部は食品加工業者に渡り、他は卸売市場で小売業者に卸される、また、農耕車を製造する工場はさまざまな部品を下請けに出し、下請けは部品を作るのに鋳物業者から材料を入手する、というような社会的分業が偶発的に、あるいは自然とできあがることをいうのだそうです。

こういう分業化された個々の業者は、その産業をまったく私的な行為としておこないます。鋳物業者は、自分のところから買ってくれる製造業を営む会社に納めることを考えて仕事をします。下請けの製造工場はその材料を部品に仕立てあげて元請け会社に納めることを考えて仕事をします。決して社会全体を意識して製造、納品するわけではないのです。みんな自分と従業員の生計を立てるため働くにすぎません。みんな、自分たちがそこそこ暮らしていけるように、いろいろやりくりして家族や友人や恋人同士でたまに楽しいときを過ごせるように、そんなささやかなことを願って自分の仕事をするわけです。

ところが、こうした個々の私的な営みの総和である、社会全体のレベルになると、需給のバランスをうまく取れない、景気の変動を招く、自分たちの作ったものが自分たちに還元されない、景気が極端に悪くなると自分を失業させる。個々人の仕事は、個々人である程度コントロールできますが、その個々人の分業体制の総和である社会レベルになると、もうコントロールできなくなる。こういう現象を、マルクスは「疎外」という言葉で表現したのだそうです。上掲書ではこのように説明されています。

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では「疎外」とはどういう現象なのか。それを少し説明してみましょう。先ほども申しましたが、マルクスの場合、具体的な人間というものは、社会をなして生産しつつある諸個人です。つまり、その諸個人がそれぞれ独自な生産用具をもって労働対象に働きかけつつ、さまざまなものを生産する。この、さまざまな物を生産する諸個人の力が、マルクスによって “生産諸力” と呼ばれているものです。 …(中略)… こうした生産諸力の総体が社会の生産力を形づくるわけです。

ところで、こうした生産諸力を支える基盤が、計画的ではなくて、「自然成長的な分業」である場合には、ほんらい人間諸個人の力の総和にほかならない社会の生産力が、そしてその成果たる生産物が、人間自身からまるで独立してしまって、その全体を見渡すことができず、また人間の力ではすぐさまどうすることもできないような動き、そういう客観的な過程と化してしまう。この意味で、まったく自然と同じようなものになってしまうというわけです。

つまり、経済現象というものは、ほんらいは人間諸個人の営みであり、その成果であるにもかかわらず、それが人間諸個人に対立し(もはや人間のコントロールの及ばないものになっているから)、自然と同じように、それ自体頑強に貫徹する法則性をそなえた客観的な運動として現れてくる、というわけです。

マルクスはそれを、哲学者にわかるように言えば、人間の「疎外」だ、と言っております。すなわち、彼のいう「疎外」とは、人間自身の力やその成果が人間自身から独立し、人間に対して、あたかも自然がそうであるような、独自な法則性をもって運動する客観的過程と化してしまうことであります。

つまり、経済現象がわれわれにとっていわば第二の自然として、マルクス自身の言葉を使えば、「自然史的過程」として現れるということであります。だからこそ、自然を取り扱うのと同じやり方で、同じ理論的方法を用いて、科学的認識が成立するのだとマルクスは言うわけなのです。



(上掲書)

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ここでいわれている「疎外」とは、個々人の労働から発する経済現象が、社会的分業の総和としての社会全体のレベルとなったときに、人間の意図の及ばない、ある場合には人間を富ませ、ある場合には人間を貧窮させるというような、人間に対して独立した、対立的な過程となる、そういう意味で、経済現象が人間を疎外するようになる、だからこそ、その経済現象は自然と同じようなものになるということができ、それゆえ、経済学のような社会科学も、科学的に社会現象を取り扱うことができる、とまとめてよいようです。わたしの、このまとめかたはもちろん、正確さを欠くかもしれませんが。

昨年から今年にかけての金融危機などはまさに、人間のお金儲けの行為が人間の暮らしを破壊してしまう、という現象で、大塚さんのこの記述は生々しくわたしたちの耳に響いてきませんか。このたびの金融危機は、実体経済の生産とは少し離れたバーチャル性のあるマネーゲームの招いた危機ではありますが。つまり金融工学という、一部の投機家たち、金融業者たちのルール無用の無法な経済活動が、まっとうな生産をおこなう諸労働者たちを食い詰めさせているわけです。

とりあえず、マルクスによれば、社会現象を研究したり、評論したりするときにも、科学的に論じ、記述することができる、ということらしいです。ですからわたしたちも、科学的な手順を意識するなら、まっとうに世の中の出来事を論じることができるわけです。そしてそうした意見の開陳は客観的であるものとして、訴える力を持たせることができるというわけです。

同書にはもう少し具体的で直感的な説明もしてくださっています。以下の通りです。

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さて、群集がなだれを打って動きだして混乱が生じたばあい、それを収拾するには、どうしたらよいでしょうか。皆さんは、どうお考えになりますか。この点で、マルクスの考え方を、著者なりに解釈して比ゆ的に説明してみますと、むしろ、こういうことになるのではないでしょうか。

どこか小高いところに立って、群集全体の動きを見渡す。高いところから見るのですから、個々の人間の細かい動きはともかく、群集全体がどこからどこへ動いているか、その大筋がはっきりとわかるでしょう。そのばあい、個々の人間を、独自な個性的な動きをする人間をする人間として取り扱うことは当然二の次です。群集全体が自然と同じような「もの」になって動いているのだから、さしあたっては人間を「もの」扱いにするほかはありません。ともかく、群集全体の動きを見定めて、方々に伝令をとばし、方向をいろいろ変えさせたり、止めたりしていくわけです。その極限は、軍隊などのように、計画的な隊列を作らせることになるでしょうが、ともかく、こうして混乱は収拾されるでしょう。

つまり、計画的に隊列をつくって行進すれば、そうした混乱は起こり得ないのだから、群衆に隊列行進という計画性を与えて、その混乱を解消していく。こうして、人間の「疎外」現象を解消していけばいいのだ、こうマルクスはいうのだと思います。これが彼のいう社会主義とその計画経済の意味するところでしょうが、それはともかくとして、「社会的分業の自然成長性」の結果たる「疎外」現象のために、人と人との関係がわれわれの目に物と物との関係として表れてくるような資本主義社会の経済現象を、科学的に認識するためには、このような意味で人間の営みである社会現象を自然史的過程として捉え自然科学と同じ理論的方法を適用することが必要ともなり、可能ともなるというわけです。



(上掲書より)

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なんとなく、共産主義のおおもとがつかめる説明ですよね。共産主義はこうした思考から生み出されたようです。

今回わたしたちが直面している大不況は、金融にもう少したががかけられていたら、回避できたものでした。前世紀末ごろから生じるようになった格差拡大は、一切の経済活動を市場に任せる、福祉から社会保障からなんでも市場に委ねるという、暴力的な政策がもたらしたものです。市場が判断できるのは採算性であって、公益性ではないのです。社会保障というのは採算が取れないものだから、公的に行われるものなのではないでしょうか。まさにわたしたちは「群集の無軌道なスタンピード(殺到)」に呑みこまれて、そこから逃げ出したくてももはや自分をコントロールできない状況にあるのです。うちの会社でも、12月最初の朝礼で、来年は本格的に残業規制がかかるかもしれないとか、覚悟を決めなきゃいけないとか、胃の痛くなるような話がされました。「財政再建」といえば市場原理主義的な政策はノンストップでアクションを演じさせていいような政治家(陰には歳出削減にこだわる財務省がいる)の無能。たしかに共産主義は崩壊しました。ソ連がなくなったとき、みんな資本主義の勝利だといいましたが、今、資本主義も行き詰ったことが明らかです。日本はいいかげんアメリカから離れて、もうちょっと社会主義的な政策を取り入れないと、ほんとうにわたしたちの暮らしはダウンです。2008年12月9日の毎日新聞によると、麻生さんは「労働は神が与えた罰(キリスト教)と思ってる国と、神と一緒にやる善行と思っている(日本のような)国では、労働に対する哲学が違う。日本の持っている底力の一番はこれだ」と言ってくれたそうです。このことばにそって政策転換を図ってほしいものです。




えーっと…、またまた話がそれましたが、とにかく、資本主義社会の非合理的に見える現象も、「疎外」という概念によって、自然と同じようなものとみなすことができ、したがって科学的研究も可能になる、ということです。大塚さんは、つぎに、マックス・ヴェーバーという社会学者の著作から、社会現象を科学的に陳述できるかどうかを考察されます。次回に続きます。
コメント (2)
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