Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「モラル・ハラスメント」-心理的嫌がらせ

2006年07月30日 | 一般
エホバの証人の生活の中で「悔しい思いをする」とか、「屈辱を味わわされる」などのわたしの主張は、おおかた一方に大きな不満がある夫婦とか、学校で、会社でいじめられている人たちの気持ちとかとまったくどうようのものです。基本的には、個人的な感情、個人の人格が「組織」や「全体」や「慣習・因習」の前に踏みにじられる、というものです。そして東洋のように儒教の影響が多かれ少なかれ尊重されている社会では、そういうことはまったくもって当然のこととされ、むしろ自分の感情やセンスを主張することのほうが「わがまま」、「甘え」として否定的な評価を受けます。そこでは「個人」は「全体」のための部品であり、奉仕者であることが美徳なのです。

一方で、特に西ヨーロッパでは、フランス革命から第一次世界大戦、第二次世界大戦にいたる戦争やクーデターや暴動、資本主義の発達に起因する過剰な自由競争による労働者の平均寿命の低下、それへの反発から共産主義国家の勃興などを経験し、反省して、憲法に人権規定や社会権といった原理が導入されてきました。そこにある考えは、「全体」に押しつぶされない「個人」、「全体」に埋没されてしまわない「個人」であり、個人の尊重という原理です。この原理は人類の歴史から学んできた成果なのです。

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第97条 基本的人権の本質

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

日本国憲法 第10章 最高法規 より

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そしてこの日本国憲法の第13条には、「すべての国民は個人として尊重される」と規定されています。これは最高法規です。国家権力と公権力はこれを絶対的に遵守しなければならないのです。わたし自身に憲法への理解が、若い頃にあったなら、まず間違いなくエホバの証人のような反動的な宗教に入ることはなかったでしょう。「反動的」というのは歴史の流れに逆行する、超保守的な態度を意味します。エホバの証人は、信者を「臣民」呼ばわりします。「臣民」というのは主権を持たない、被支配者を意味し、絶対専制君主に絶対的に、無批判に従わなければならない立場を指します。

明治憲法では、皇族以外の国民はみな等しく「臣民」でした。臣民は絶対君主のために生き、「一旦緩急アラバ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう:永遠に続くこと、の意)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく:任務が達成されるよう扶助すること、の意)スヘシ(教育勅語)」、つまり絶対君主の家系の繁栄のために死を賭して戦うのが美徳なのです。明治憲法下では天皇=国家=神ですから、国家の前には国民の命など「鴻毛の如し(軍人勅諭)」、禽獣の羽よりも軽いものに過ぎないのです。さらに「神」という概念が「天皇」には含まれています。天皇は天照大神以来の血統を有する現人神だったのです。神の一族の繁栄のためには臣民の命など「鴻毛」程度のものである、という考え方はエホバの証人の心理深層に根づく感情と同じものと見なせると、わたしは経験から言います。「神の一族」というのは「油注がれている家令である統治体」であり、統治体によって任命された各支部の支部委員、支部委員によって任命された長老たち、ベテル家族たち、と言えるでしょう。

個人が、個人の人生と命が、誰か別の人の自尊心を満たすために消費されるなどということは、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」と「幾多の試練を堪え」てきた反省と智恵を真っ向から否定するものです。国民は、国家権力による個人の尊厳への侵害から自分を守ることはできます。憲法が保護しているからです。でも、個人と個人の間で行われる人権侵害はどうでしょうか。さらに閉鎖的な宗教団体の内部で行われる人権侵害については…。憲法は国家権力、あるいは会社経営者のような公権力を拘束するものです。ですから個人間の人権侵害行為については法的な争いに持ち込むことは、犯罪行為がある場合を除いてはできない相談です。まして夫婦間で行われる心理操作による精神的被害を償わせることとなると。でも、だからといって、心理攻撃をひたすら忍ぶ必要はないのです。わたしたちには憲法によって尊重されている自分の尊厳というものをもっと高く評価し、それを自分自身でも守ることができますし、また守るべきです。

セクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメント、などといった問題が20世紀末頃から社会問題になりました。これらはハラスメントという心理攻撃の持つ、人間の精神への破壊力に理解が示されるようになったことの表れであり、そうなったのは、心理攻撃を経験した人たちが声をあげたからなのです。わたしたちは誰か他の人の目的のための捨て駒となってはならないのです。誰か他の人の自尊心を満たすために利用されてはならないのです。自尊心はあくまで自分で満たすものだからです。「むしろ各人は自分の業がどんなものかを吟味するべきです。そうすれば、他の人と比べてではなく、ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう。人はおのおの自分の荷を負うのです (ガラテア6:4-5/ 新世界訳)」。

セクシャル・ハラスメント、パワーハラスメント、ドクター・ハラスメントなどなどをひっくるめて、「モラル・ハラスメント」ということばが作られています。心理操作の目的で行われる言動や人事管理を、身体的な打撃があるなしに関わらず、それを「暴力」と定義します。なぜなら人間の品位や尊厳を傷つけることが組織的に、または継続して行われると、確実に個人は自分自身を見失い、自分への自信が破壊され、鬱症状を引き起こしたり、精神疾患さえ引き起こされることが判明したからです。たいてい、ハラスメントの加害者たちは、被害者のプライドを貶めることを目的としています。それは被害者の人格への巧妙な攻撃なのです。そしてその効果は決して、「気にしなければ済む問題」などではないのです。人間はみな、誰かから承認を受ける必要があります。人間が結婚をするのはやはり自分自身を受け入れ、認め、愛してくれることを望むからです。誰であっても、自分の価値が否定され、自分の個性的な表現を退けられ、愛されずにいれば、まともに生きてゆくことはできないのです。孤独は人間にとってこれ以上ないくらい残酷な仕打ちです。そしてそういう残酷な仕打ちを効果的に加えることがハラスメントなのです。

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これからこの本のなかで述べてゆくように、モラル・ハラスメントの加害者は心理的に相手を殺してゆき、この行為を繰り返してゆく。ちょうど肉食動物が他の動物の命を自分のものにして生きていくように、モラル・ハラスメントの加害者は他人の人格、人生を食いつぶして、自分の自尊心を保って生きてゆくのだ。これは精神の連続殺人である。



特に、職場におけるモラル・ハラスメントとは、言葉や態度、身振りや文書などによって、働く人間の人格や尊厳を傷つけたり、退く大敵、精神的に傷を負わせて、その人間が職場を辞めざるを得ない状況に追い込んだり、職場の雰囲気を悪くさせる事を指す。

(「モラル・ハラスメント」/M=F・イルゴイエンヌ・著)

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職場におけるモラル・ハラスメントというのは、まさにエホバの証人の会衆におけるいじめそのものと言えます。この本を読んでわたしはつくづくそう思いました。上記の定義に少しつけ加えるなら、エホバの証人社会でのモラル・ハラスメントの手口には、人事管理がある、ということです。会衆内には「責任ある仕事」というものがあり、それは「奉仕のしもべ」や「長老」といった管理する仕事があり、それには女性は就くことができません。女性は「欺かれやすい性質」を神によってプログラムされている生きものであり、それゆえ「弱い」存在なのです、エホバの証人社会では。わたしに言わせれば、ものみの塔協会の出版物を無批判に受け入れ、組織の手先として一生懸命、誠実に人間管理をする男性信者のほうがずっとずっと欺かれやすい人たちではないか、と思うのですが。彼らはとにかく、何かのポストに任じられたがってウズウズ悶々としているのですから。

また「長老」職にも、奉仕委員というのがあって、主宰監督、書記、奉仕監督といった立場に割り当てられる人たちは、協会への書信にサインできる人たちです。「主宰監督」と「書記」は協会から直接任命されます。重要なのは、こういった職務が割り当てられることで、エホバの証人の男性信者は一人前と見なされるということです。1980年代初期には、娘を持つ姉妹たちの間では、娘の結婚相手には会衆内で「責任ある仕事を割り当てられている」男性なら信頼できる、とさえ見なされていたくらいでした。ですから、男性たちはとにかくまず正規開拓奉仕という、昔は年間1000時間(今は年840時間になっている)、布教活動をする伝道者をめざしたものです。結婚するには「奉仕のしもべ」くらいには任命されていたほうが有利だからです。つまり、正規開拓奉仕者でなければ、特に独身の男性信者はポストに任じられにくいのです。

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初日の午後のプログラムは、「開拓奉仕は霊的成長を速める」という話で始まりました。本当にその通りです。神はみ言葉や聖霊、またご自分の組織を通して、わたしたちが「十分に成長した大人」へと進歩するのに必要なものをすべて備えてくださいますが、開拓奉仕をすれば、これらの備えをよりよく、より徹底的に活用する上で有利になります。(エフェソス 4:13)  

開拓者たちはインタビューの際、神の霊の実をより豊かに結び、人々により多くの愛を示し、宣教をより効果的に行ない、エホバをさらに深く信頼し、エホバとさらに緊密な関係を培う点で全時間奉仕がいかに役立ったかを述べました。これらのことはすべて、開拓者たちの霊的成長を速めました。

(塔88 1/15 25‐26ページ 「エホバへの信頼を増し加えた大会」 より)

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「霊的成長を速める」というのは、実は、「奉仕のしもべ」や「長老」職に任じられるのが速くなる、ということです。協会は言質を取られないように、明記はしませんが、巡回訪問の折、男性信者を「奉仕のしもべ」や「長老」に推薦するかどうかは、開拓奉仕をとらえているかどうかという基準で計られるからです。男性信者たちがポストをほしがってウズウズ悶々とするのも無理はないわけですね。そして実は、こういうことが「心理操作」であるということなのです。

だって、年間1000時間も布教活動をしようとすれば、まともにお勤めなんてしていられませんから。正規開拓者たちはみなアルバイト、パートのお仕事で生計を立てています。男性が正規開拓奉仕をしようと思えば、どうしても今までのお仕事を辞さねばならないのです。ところが聖書にはどこにも、神の救いのために一年に何時間以上布教を行わなければならない、などとは書かれていません。それはエホバの証人の機関紙である、ものみの塔にもはっきり命じているわけでもないのです。

ところが会衆の現場では、九官鳥のように「開拓奉仕、開拓奉仕」と言われ続けるのです。だれであってもそれは「圧力」としか感じられないのです。そういう暗黙のプレッシャーに頑として抵抗し、自分を主張していると、会衆での雑誌を配分する仕事や書籍を扱う仕事、案内の係り、会計の仕事の「責任者」という割り当てが回ってこないのです。やがて、その人より若い人とか、後からバプテスマを受けた人とかが、暗黙のプレッシャーに従順に服して、仕事を「調整(会社を辞めるなり、仕事を変わるなりすること)」して、正規開拓などを始めると、そういう男性信者たちに「責任者」の仕事を割り当てます。傍目(はため)にはどうしても「出世の遅れ」、あるいは「干されている」と見なされます。

当人はそれでも、神への奉仕だから、自分にできることを精いっぱいすればいいと、きちんとした考えでしばらくは続けるのですが、周りはそうは見ません。開拓奉仕をやろうと思えばできるのに、自分を出し惜しみしている人=霊的に弱い人だから、責任ある仕事にふさわしくない人というレッテルを貼られてしまいます。エホバの証人社会の外に立ってみれば、当人の考え方が成熟していて、周囲の考え方が歪んでいるのですが、会衆の中では評価の仕方が逆になります。当人のほうが「霊的に未成熟」なのです。

こんなことのひとつひとつは何でもないことですよね。たとえ周囲がなんと言っても、自分は自分の信じているとおり生きていればいいんですから。会衆内の仕事がほしければ、プレッシャーに服せばいいんですしね。そんなことで「これはおかしい」などと声をあげるほうがおとなげない、ということになります。モラル・ハラスメントというのは実はこういうことです。当人に加えられる仕打ちのひとつひとつは小さなこと、何でもないことなのです。しかしそれでも確実に当人の自尊心を破壊してゆく心理攻撃となっているのです。それは当人を孤立させ、当人の判断を否定し、マイナスの評価を加えてゆくからです。ひとりひとりのユニークさを認めない社会風土が温存されているからです。

エホバの証人の会衆を例にとって言えば、人それぞれの判断、決定を尊重しようという空気がなく、ある行動様式、ある判断だけを「正当」あるいは「正統」と評価するのです。自分らしい判断をすると周りから浮いてしまい、冷遇されるのです。これは実は大変つらいのです。なぜなら「孤独」という、人間にとってはもっともつらい「罰」に相当するからです。こういう事情があるので、モラル・ハラスメントが社会問題になるまでには、長い、長い年月がかかりました。心理操作、心理攻撃が陰険なのは、こういう性質があるからです。

夫婦関係において、職場において、個人個人の人格とその尊厳を尊重しようとせず、むしろ当人の人格、個人特有の判断・決定を組織的継続的に否認することを、人を精神的に傷つける「暴力」であると認識されたときに、モラル・ハラスメントは社会問題になり、フランスでは2002年1月に、職場におけるモラル・ハラスメントを禁止する法律が制定され、モラル・ハラスメントが犯罪として罰せられるようになりました(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著、訳者の追記より)。フランスは主権的市民という概念が発達した歴史を持つので、人権意識が進んでいますよね。なんでも「お上」まかせの日本とは正反対です。

では、これから数回にわたって、モラル・ハラスメントとみなされている心理攻撃にはどのようなものがあるか、「モラル・ハラスメント」から引用してみます。モラル・ハラスメントという「暴力」は歪んだコミュニケーションが使われます。この目的は、相手を不安に陥れることです。

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モラル・ハラスメントの加害者が被害者を支配下においてゆく過程の中で、加害者は被害者に対してモラル・ハラスメント特有のコミュニケーションの仕方を用いる。だが、実をいうと、それは本来のコミュニケーションとはいえない。というのも、このコミュニケーションは相手と意思を通じあわせるためのものではなく、むしろ相手を遠ざけ、対話を拒否するためのものだからだ。この歪んだコミュニケーションの目的はひとつ、相手を利用することである。

そのためには、まず嘘をついたり騙したりするという形でことばが使われる。真実の情報を知らされないことによって、被害者は何が起こっているのか理解できずに混乱する。その結果、加害者と対決することができなくなってしまうのだ。また、言いたいことをはっきり言わずに、何かでほのめかしたり、急に黙りこんだり、相手のことばに返事をしなかったりという方法も被害者を不安に陥れる。


1.直接的なコミュニケーションを拒否する。
モラル・ハラスメントの加害者と被害者の間では、直接的なコミュニケーションは成り立たない。というのもふたりは「何かについて率直に、正面切って話し合う」ということがないからだ。たとえば、被害者が加害者に何かを質問しても、加害者は答えるのを避ける。話をしなければ、懐が深く、賢い人間のように見せかけることができるからだ(自己愛的な人間にとって、これは大切なことである)。

その結果、被害者のほうは言葉によるコミュニケーションができない世界にひきずりこまれてしまう。といっても、もちろん、加害者が言葉を使わないわけではない。加害者はむしろ言葉を使うのを得意とする。だが、それはいつも歪んだ形で、相手を攻撃する武器として使われるのだ。ちょっとした嫌味や皮肉、ほのめかしや当てこすり…。そういった言葉で、加害者がまず相手を攻撃すると、そのあと加害者は相手との話し合い;つまり、本当の意味での言葉によるコミュニケーションは拒否する。

一方、被害者のほうは、言葉によってきちんとしたメッセージが伝えられてこないので、ほんのわずかな仕草から相手の気持ちを読み取らなければならなくなる。そうなったら、加害者は肩をすくめるなり、ため息をつくだけでよい。すると被害者のほうは、「自分は何をしたのだろう。何か行けないことをしたのだろうか」と一生懸命考えて、悩むようになる。はっきりした言葉で表現されないだけに、ひとつひとつの動作がすべて非難のように思えてくるのだ。


《実例》
アンナは仕事を通じてポールと知り合い、一緒に暮らすようになった。そうなると、アンナはそれまで表面化していなかったポールの別の側面に直面するようになった。彼は、心でふれあうということを避ける人間だった。率直に気持ちを表現することをせず、いつも批判や皮肉を言って、物事全般に対してあざけっているような態度を取るのだった。

パーティーに行くと、彼は友人をつかまえては、「アンナの聴く音楽といったら古くさいものばかり」、「胸が薄いくせに、オッパイをひきしめるクリームを使っている、無駄遣いもいいところ」などと嘲笑する。友人の夫婦とともに旅行したときには、彼らの前でかってにアンナのスーツケースをあけ、「余計な荷物が多いだろう? 引越しでもする積もりかね」と嘲笑口調で言う。アンナが、「あたしが持つんだからいいでしょう?」と言い返すと、「でも、お前が疲れたら、おれに持てっていうつもりだろう? 女はずるがしこいから、いつも男に手助けさせる」と女性蔑視的な発言でやりこめようとする。

ポールの口ぶりは、単なる冗談なのか、それとも悪意がこめられているか、判別しにくいものだった。周りにいる人たちも悪意の言葉とは思っていないようだった。だれかに、ポールの口ぶりに悩んでいるの…と相談しても、「考えすぎじゃない?」、「気にしすぎよ」程度にしか受け止めてもらえないようなニュアンスだったのである。だが、アンナは確実に、人前で困らせられており、屈辱を覚えるのだった。 これが “ちょっとした嫌味や皮肉、ほのめかしや当てこすり” である。

(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)

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エホバの証人社会でもこういうことは茶飯事です。わたしは上記のようなことを経験しました。

主宰の長老は会衆では偉そうにふるまうのですが、たまに大会でステージに立つと、声が上ずってしまうような、気の小さい人でした。それで、日ごろは会衆の人たち自身では、どうしようもないことを批判の対象とするのです。一番多かったのが、年齢の序列に異様にこだわることでした。大会で講演の割り当てをしている若い兄弟たちを、その若さを批判の理由とします。ことば遣いがなっていないとか、若いうちから用いると増長するようになるなど。別の会衆の30代の長老を遠くから不愉快そうに睨み、彼があいさつに来てもまともに答えない〈 =直接的なコミュニケーションを拒否する、ということ 〉、選挙のときには20代女性の候補者を指して、どういうつもりだ、なにができるんだと皮肉を言うなど。

年長者は敬うようにするのが当然ですし、単に若いうちから活躍する機会に恵まれているからといって、年長者を見過ごしたりするのは、人間関係に緊張を生じさせることではあります。それはわかります。でもだからといって、年下の人たちが自分より活躍していることへの不満を、関係ない人をつかまえて、その人に向かって皮肉を言ったり、「どういうつもりだ」と迫られても困るんです。そういう不満は祈りを通して神とのあいだで解決してほしいわけです、神を信じているというのであれば、ね。

わたし自身の実績話になって恐縮ですが、わたしはある女性との家庭聖書研究にこぎつけることができました。ところがその女性は、今話している主宰監督の妻がずっと以前に研究していた人だったのです。そしてその研究生が、王国会館で、わたしに気を遣って、ルナ姉妹は説明がお上手で、いろいろ励ましていただいて、とか言っちゃったんですよ。そこへ、集会に定期的に出席になって、注解までするようになっていたんです。これが当の主宰妻の逆鱗に触れたわけです…。

こういうのってね、「時」っていうのがあるんですよ。司会者の手腕ではないんですよ、絶対に。なぜって、エホバの証人の教理なんてまともな論理じゃないですからね、何かにすがりたい時期であれば、研究生は実際には理解しなくても、エホバの証人のおしゃべり仲間になりたいから、わかった、と言うんですよ。だいたいからして司会者でさえわからないんですよ、エホバの証人の強引な聖書解釈なんてね。それなのに、かの主宰妻は、年下の姉妹に出し抜かれたって思ったわけです。ここからわたしと彼女の熾烈なバトルが始まりました。わたしもね、自分に自信のない人間ですから、その当時はかなりいい気になっていたことは事実ですけれどもね…。

うちの主宰は、こういうように年齢差という本人にはどうしようもないことを理由に、相手を批判する人でした。「年齢は絶対だ」という人でした。でもね、若いうちから向上心を持つことはとてもいいことだし、若い人たちの才能を伸ばすよう励ますのは、年長者の器量なんですよ。懐の深いところを見せればね、若い人たちも、自分が年長の人よりも仕事をするようになっても、敬意はちゃんと示すものなんです。それを非難して若い人たちを抑えつけ、才能の芽を摘み取るようなことをするから、かえって反撥を食らうことになるんです。それって、個人の存在意義を否定されることですから…。そして、相手の存在を否認する、ということも、モラル・ハラスメントの手口なのです。






さてさて、字数が押してきましたので、(2)に継続しますね。

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宗教団体「エホバの証人」、換言すれば「トラウマ製造工場」

2006年07月23日 | 一般
ストレスが積み重なると、鬱病などのような心身の病や、深刻な障害が引き起こされます。場合によってはそれが長く続いたり、コミュニケーション不全に一生悩まされる人さえいます。でも「トラウマ」となる出来事というのは、そういうストレスとなる出来事とは異なっているのだそうです。トラウマを引き起こす出来事というのは、予想できない不測の事態であり、また自分自身や他の人を死の危険にさらすような出来事、を指すのだそうです。

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トラウマの定義 : トラウマとなる出来事とは、わたしたちの生命や身体を危険にさらすような、思いがけないときに突然に降りかかった出来事のことをいう。

トラウマとなる出来事は、自然災害または人為的な災害に関係している。

*集団災害*
人為的な災害 : 航空機事故、列車事故、船舶事故(難破)、自動車の衝突事故など。
自然災害 : 洪水、火災、地震、台風、火山の噴火、雪崩など。
暴力犯罪
戦争行為 : テロ、戦場での戦闘行為やその目撃、拷問、強制収容所体験など。

*個人的なトラウマ*
個人的な攻撃 : 暴行、死の脅威をともなう性暴力、または死の脅威をともなわない性暴力、ドメスティック・バイオレンス、自動車事故、強盗に遭うこと、武器・凶器での脅迫、人質体験など。
未成年者に対する暴力、暴行。
児童・障害者・老齢者に対する虐待 : 殴打、食料や自由の剥奪、侮辱、罵り、性暴力など。
労働災害。

子どものトラウマ後のストレス:
子どもも数多くのトラウマの被害者となりえますが、その影響は大きく、場合によっては、成人してからの人生に障害となって現われることもあります。家庭内暴力や事故、交通事故、性虐待、そのほか身体的暴力や身体的暴力による虐待などがあります。子どもたちに表れる症状は、大人の場合と似ていますが、年齢によってその表れ方はさまざまです。トラウマは人格の形成にまでかかわることがあるので、その影響は重大です。

*ハラスメント特有のトラウマ*
ハラスメントとは、支配や操作といったあらゆる戦略を用いて、他者が自ら判断せずに自分の言いなりになるように仕向け、相手を支配したり、精神的に抑えこむことを目的とした心理的な嫌がらせなどの行動をいう。こうしたハラスメントの被害者を守るための法律については、現在、さまざまに検討されています。

ハラスメントをする人はふつう、相手の信用をおとしめ、ないし失わせたり、相手を侮辱したりした後に、うって変わった態度で偽の褒美を与えたりする戦略を用いる。こうした心理的暴力を受けると、被害者は自信や自尊心を失い、常に不安定感を抱くようになり、多くの場合、外傷後ストレス障害、またはうつ状態に陥る。被害者たちは、剥奪感や心理的な空虚感にとらわれ、さらに自分自身で思考することができず、自分が存在していないような、透明な存在であるかのような気持ちにまでなることがある。

しかし、自分の周囲の人たちや上司について嘆くと、弱いとか大げさだとか、ひいては「妄想的」だと非難されることが多い。被害者は、自分の実体やアイデンティティが抜け落ちたかのような気持ちになり、意欲や向上心、創造性、独立心などを失う。場合によっては、他者を操作する人が自分のやりたいようにするために、相手の罪悪感を利用することさえある。これが心理操作である。

仕事場での精神的ハラスメントや、宗教団体や党派のなかで見られるような、さらに過激な心理的暴力は、まさしくトラウマ的なストレスを引き起こす原因となる。

(「トラウマを乗りこえるためのセルフ・ヘルプ・ガイド」/ オロール・サブロー=セーガン・著)

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ここの「ハラスメント特有のトラウマ」というところは、まさしくエホバの証人での出来事ですよね。親や長老による「懲らしめ」には、あきらかにハラスメントそのものであるケースが多いです。その目的は、彼らの支配を確立・維持させようとするものです。上記のことばを借りれば、

「支配や操作といったあらゆる戦略を用いて、他者が自ら判断せずに自分の言いなりになるように仕向け、相手を支配したり、精神的に抑えこむことを目的とした心理的な嫌がらせ」、という戦略としての機能を、「懲らしめ」や体罰は有していると言えるでしょう。

家族の中の、かわいがられているほうの成員、会衆の中の成員が見ている前で、ある人の仕事や仕事の仕方、果ては話しかたやクセ、立ち居振る舞いなどを非難し、その人はこれこれこういう人だというレッテル貼りを行って侮辱します。こうすることによって、権威を持つほうへの求心力を高めるのです。現役のエホバの証人が運営するホームページに設置されている掲示板などを見ると、同じ手法で心理操作が行われています。掲示板の管理人を「長」とする序列を確立し、維持しようとする意図が見えるのです。エホバの証人の親にせよ、エホバの証人の会衆の長老にせよ、現役のエホバの証人のホームページ管理人にせよ、彼らが求めているのは、自分が完全にコントロールできる世界に引きこもることです。彼らは人間をも含め世界から、自分に対処できない不測の事態、予期せぬ出来事というものを追放してしまいたいのです。そこには、広い世界に向かって自己実現に向けて挑んでいこうとするときに、親の受容を得られなかったショックがトラウマとなっている場合もあるそうです。

ヨチヨチ歩きができるようになると、子どもはいろんなものに興味を持つようになります。広っぱなどに連れて行くと、お母さんを離れて自分から目についたもののところへ行こうとします。でも、転んだりして恐怖や不安に陥ったときに、お母さんがうるさそうにしたり、無視していたりすると、子どもは「広い世界の孤独における安心感」というものを確立させることができないのだそうです。こういう精神分析系の話は難解で、なかなか読み手に理解してもらえるようには話せないのですが、まあ、こういうことがあるんだそうです。そして子どものころに親に十分受容されないと、自尊心と自己肯定感が育まれないのだそうです。そうなると、おとなになって、自分の理解できない事態が生じたりすると、不安に対処できず、怒りを発散させるようになるのだそうです。その不安に対処できないのは自尊心と、自己肯定感が確立されていないからなのだそうです。この手の話は難解なのですが、興味はあるんです、わたしもね。またじっくり読んでみて、何とか書けるようになったら書いてみますね。そこで…

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心理操作とは何か : 心理操作とは、自分の思惑に気づかれることなく、相手に何らかのことをするように働きかけることである。

*心理操作をする動機*
1.権力を手に入れようとしている。
心理操作をする人は、心理的に不安定で無力感にさいなまれていることが多い。だから、他人の行動をコントロールできれば、一時的に強者の立場で権力を行使できるようになる。

2.他人の権利や感情をほとんど考慮していない。
心理操作をする人は、他人のことをほとんど考慮しない。彼らは、他の人たちにしてもらいたいことのほうが、他の人たちが自分の意思で決定することよりも重要であると信じている。

3.自分の道徳や正邪の基準が他人のそれよりもすぐれていると信じている。
自惚れと利己心の固まりのようなこの信念の持ち主は、相手の考え方を無視して自分が正しいと思ったことを他人に押しつける。
(ルナ註: エホバの証人の組織を正確かつ的確に表現する一文だなあ、と思いました。みなさんはそう思われませんか)

4.目的は手段を正当化すると信じている。
一部の人は、自分の目的がとてつもなく価値があると信じているので、自分の目的の邪魔になる者の権利を臆面もなく踏みにじる。(ルナ註:上に同じ)

5.自分が他人にとって最大の利益になるように行動していると信じている。
一部の人たちは、他の人たちにとって何がいちばんいいかを自分のほうがよく知っていると勘違いしている。彼らの意識の根底には、他の人たちは無知で愚かだから、自分にとって何がいちばんいいかすらわかっていないという思い込みがある。

*心理操作の影響*
わたしたちは自分がしたいからではなく、断りきれないという理由で、他人のために何かをしていることがあまりにも多い。そういう状況を列挙してみよう。

やっかいな親戚づきあいを我慢しながらする。
他人の運転手を引き受ける。
自分を犠牲にしたり、自分に不都合が生じても他人の頼みごとを聞き入れる。
好きでもない人に親切にふるまう。
相手の人が「こうするべきだ」と考える行動をとり、相手の人が「そうするべきではない」と考える行動はとらない。
相手の気持ちを傷つけないように気を遣う。etc...

わたしたちは、ぜんぜん楽しくないことをしているとき、「自分はなぜこんなことをしているんだろう」と疑問に思う。直感的にどこかおかしいと感じるが、何がおかしいのかを指摘することができない。とりわけよくないのは、こういう不快な状況に巻き込まれるのは絶対にご免だと思っていながら、どうやって断ればいいかがわからないために無力感を抱く、ということだ。当然、わたしたちは犠牲になり、イライラや怒りを感じ、反感を抱く。自分ではっきりと意識していないかもしれないが、自分の人生の決定権が自分の手から奪いとられ、他人の手に譲渡されているように感じる。

では、自分のおかれた状況がそれほどに嫌いなのに、なぜそのような状況に自分が巻き込まれるのを許してしまうのだろうか。その理由は、ほとんどの場合、そうするように他人からプレッシャーをかけられているからだ。わたしたちは、自分が望んでもいないことをする義務を負っているかのように、他人に思いこまされているのである。言い換えれば、「心理操作」されているのだ。

(「人生がうまくいく、とっておきの考え方」/ ジェリー・ミンチントン・著)

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このような心理操作を受ける人は、心に傷を負います。「剥奪感や心理的な空虚感にとらわれ、さらに自分自身で思考することができず、自分が存在していないような、透明な存在であるかのような気持ちにまで」自尊心を破壊され、立ち直るどころか、他人の機嫌を損なうことを怖れて、自由に自分の意見を言い、自由に自分の意欲を実現して行こうとすることを控えるようになってしまうのです。これは、自由にふるまえば、辱められるという恐怖が、自分自身を萎縮させているのです。そうさせるのが「トラウマ」です。

トラウマはまた、人為的な事故や戦争体験や、犯罪暴力体験によっても引き起こされます。近頃はようやくこういうことにマスコミも注目するようになりました、以前なら、前向きじゃないとか、甘えている、みたいな言い方でしたけれども、ネ。いいことですよね。

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トラウマの症状

「外傷後ストレス障害(PTSD;Post-Traumatic Stress Disorder)」は災害、交通事故、惨劇などを体験し、その後数週間~数ヶ月を経て出現する障害です。病名にある「外傷」とは「心理的な外傷」で、「トラウマ」とも呼ばれており、後に精神障害を引き起こすような脅威的な出来事の体験、またはその体験により受けた心の傷を意味します。
 生死に関わるような衝撃的な出来事を体験したり目撃したりすると、ある期間を経て出来事が「フラッシュバック」して苦しむようになります。これが外傷後ストレス障害と診断されるもので、その潜伏期を数週間~6ヶ月(時に数年後)としており、体験直後に現れる障害を「急性ストレス障害」と呼び、区別されています。
 症状が外傷後ストレス障害か否かの判断ポイントは
(1)次のような経験(両方とも)がある。
 ①もう少しで死ぬか重症を負うような出来事を体験するか、目撃するかした。
 ②そのときに強い恐怖感、または無力感、戦慄を覚えた。
(2)以下のような形(1つまたはそれ以上)で、現在もその出来事を再体験している。
 ①出来事が否応なく、繰り返し思い出され、苦痛を覚える。
 ②出来事について繰り返し悪夢をみて、苦痛を覚える。
 ③出来事があたかも再び起こっているかのように感じたり、行動したりする。

外傷後ストレス障害の症状
 上記の症状を中核として出来事を思い出させるものを避けるなどの二次的な症状が現れる。
①出来事を心理的に再体験し、苦痛を覚える。
②出来事を思い出すものを避ける。
③無感動、無感覚。
④過覚醒(少しの刺激に過剰な反応を示す)。
⑤他に、落ち込み、不安、集中力低下、罪悪感、パニック発作、解離性状態、幻覚など。
 また、身体的症状として、頻脈、発汗、血圧上昇、睡眠障害などが生じる。

(http://www.sikai-web.com/hinto-de-dento-04-bunrui-06.htmより転載)

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特に、⑤についてですが、「ベッドに入っても眠れない。また何度も目覚めて睡眠を続けられない。怒りっぽくなったり、怒りの感情が爆発する。過度の警戒心。過剰な驚きの反応」とも書かれています(「トラウマを乗りこえるためのセルフ・ヘルプ・ガイド」より)。これらの症状は社会生活を送る上で、また職場でも著しく機能の低下を引き起こすものとなっています。子どものころにトラウマを受けると、大人になってから、他人とのコミュニケーションがうまくとれずに孤独に陥ったり、その結果うつ病を発症したりします。

ここ暫らくの長雨で、多くの犠牲者が生じています。家・財産を失うことだって、十分トラウマを引き起こす原因となります。エホバの証人の組織から、「火をくぐるようにして(コリント第一3:15)」脱出してくる人は、神を求める気持ちと、神に見捨てられた、あるいは神を裏切ったという罪悪感にさいなまれて生きている人もいます。個人の尊厳の尊重という日本国憲法の根本原理を遵守しない社会のあり方のために、自立心を育めなかった日本人の受けている報いは大きいです。さいごに、トラウマに苦しんでいる人に、どう話しかけたらいいのか、どんなことは言ってはいけないのか、についての精神科医の経験から、ヒントを引用しておきます。

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被害者が傷つけられるような言葉をいくつかあげてみよう。同時にそれと比較して、被害者をもっと尊重しているような言葉をあげてみよう。

1.
×「あなたは生きているじゃない、何が不満なの? 他のことは忘れなさい!」
○「あなたが生きていてくれてうれしい。わたしにとってはそれがとても大事なの」

2.
×「だから言ったじゃないの!」
○「…(何も言わない。くどくど言ってもしようがないから)」

3.
×「もうそのことは考えるな。何も起きなかったかのようにしていればいいんだ」
○「あれだけ怖ろしい目に遭ったんだもん。もう忘れられないよ、ね」
 (無理に忘れようとしなくていいよ、忘れられないからって悩まなくていいよ、当然だよ、という暗黙のメッセージを伝える)

4.
×「話さなくっちゃ。すべてを話せば楽になるよ」
○「あのことについて、話さなきゃいけないんなら、わたしは聴くよ。
  OR 話したくなったら、いつでも聴くよ」
 (無理にカウンセラーになろうとしないこと。相手の気分を尊重する)

5.
×「どうしてまだその話をしようとするんだ? そんなことをしたってつらいだけじゃないか」
○「あのときのこと、話したいみたいだね。でも、ごめん、申しわけないんだけれど、わたしはその話をきちんと聴いてあげられそうにないんだよ…」

6.
×「だから、だれも信用しちゃいけないんだ! 次は注意しなさい」
○「運が悪かったんだよ。信頼できないような人に出会ってしまったのだから。そんなことまでは予想もできないしね(一度の失敗を全般にまで一般化させない言いかた。再び人と関わってゆこうという精神態度を称揚する言いかた)」

7.
×「あなたにはいつだって、そんなことばかり起きるのね」
○「…(上のようなことは何も言ってはならない。そんなことを言っても、本人の自信をさらに破壊するだけで、助けとなるような効果はまったくない)」

8.
×「同じことばかり考えていてもしかたないでしょう? 過ぎたことは過ぎたことなんだから」
○「ひどいことだったよね…。あのことを言いたくなるのはよく分かるよ…。
  …どう? ちょっと気晴らしに散歩に出ない?」

9.
×「まったくあなたって人は、いつもいつもこういうことばかりしでかすんだから!」
○「ああいうことは、誰にでも起きる可能性があるんだよ」

10.
×「わたしだったら、そんな目に遭ったら、もう生きていけないわ」
○「あなたはほんとうに強い(or 芯がしっかりしている、理性の勝った人だと…他)と思うわ。わたしに同じことが起きたら、あなたのようにしていられるかどうか分からないわ」


(「トラウマを乗りこえるためのセルフ・ヘルプ・ガイド」/ オロール・サブロー=セーガン・著)

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I Shall Be Released.

2006年07月18日 | 一般
エホバの証人だった経験から、学んだことがある。
大事なく生きるには、「自分」を出すな、追従しろ、そして考えるな。
このようにしていれば、おおぜいの人に囲まれ、長老の妻にも愛でられる。
このことだけは、肝に銘じよう、そう決心したけれど…。
やっぱり、わたしは、追従できないで、自分を主張してしまう。



わたしは、怒っているんだよね。
わたしをちっとも認めてくれなかった、両親に。
要領のいい弟ばかり目をかけて、わたしには辛らつだった両親に。
だから、権威を振るう人を見ると、ぜったいについて行けない。
あごをしゃくりあげて、対峙しようとする。



そしていつも、気持ちがさめていって、静かに別れる。
気がついたら、部屋の中でぽつんとまたひとり。
そう、わたしはまたひとり。



窓の外で風が音を立てる、窓が響く。
黒くて重い雲がたれこめて、こちらに迫ってくるかのよう。
わたしはがっくり肩を落とし、首を垂れる。
Anyday now, anayday now
I shall be released...




ふふ、そうよね、こうなるってことは、予想してたじゃない…
わたしは顔を上げ、両手で髪をかき上げる。
これでいいんだ、これでいい。
わたしは、やっぱりこうやって生きていこう。
いつかきっと、いつかきっと、わたしを理解してくれる人が来る。



窓を開け放ち、風と真正面に向かい合う。
髪が顔に絡みつき、また後ろに流される。
わたしが行こうとするところにはいつも、強い向かい風がある。
後ろには下がらないぞ、背をかがめ、ドリルで穿つかのようにして
私は前に進んでいこう。



潮は引くときばかりじゃない、満ちる日が必ず来る。
陽はまたかならず昇る。
その時には、凍てついたわたしの運命も、融けて緑の芽がふくだろう。
だから、だから、歩いていこう、ひとりでも。
東へ、陽の昇るほうへ、少しずつ、少しずつ、逆風をかきわけながら。

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不快な過去と決別する

2006年07月17日 | 一般
ある日の午後、ふたりの僧侶が僧院に向かう途中で森の中を通り抜けていた。流れの速い川のそばに来たとき、ひとりの若い女性が土手の草むらに立って激しく泣いていた。僧侶たちが事情を聴くと、その女性はこう言った。 「川を渡ろうとしたら、橋が崩れ落ちてしまいました。わたしは泳げないので、子どもたちの待っている家に帰れません。ああ、どうしたらいいのでしょう」。

年上の僧侶は彼女を哀れに思い、「わたしがおぶって川の向こう岸に連れて行ってあげましょう」と言った。年下の僧侶は、年上の僧侶をにらみつけた。女性と接触してはいけないという戒律があったからだ。しかし年上の僧侶は女性をおぶって川を注意深く渡り始めた。女性は向こう岸で降ろしてもらってお礼を言うと、子どもたちの待っている家へと走っていった。

ふたりの僧侶は先を歩いていった。だが、年下の僧侶は、年上の僧侶がとった行動が頭から離れず、だんだんと腹が立ってきた。そしてついに、数キロ歩いた時点でとうとう怒りをこらえきれなくなり、こう言った。 「あなたは誓いを破りました。これは戒律を汚す行為です。天罰があなたに下るでしょう」。 年下の僧侶は数分間にわたって、年上の僧侶をこんなふうに激しく非難しつづけた。そして、「女性をおぶって川を渡るという過ちを、あなたはどれだけ深刻に受け止めているのですか」と問いただした。すると年上の僧侶は静かにこう答えた。

「私はあの女性を二時間前に背中から降ろした。しかし君はまだその記憶を背負っている」。

(「人生がうまくいくとっておきの考え方」/ ジェリー・ミンチントン・著)

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過去の出来事が、それが衝撃的であったり、悲惨なものであったりしたものであればなおのこと、自分の現在の考えや感情や行動に影響を及ぼす可能性が大きいというのは否定はできません。傷つくことを怖れて引っ込み思案になったり、自分の弱さ、消極的さに自分で嫌悪感を感じ、自分が他の人よりも子どもっぽく感じられたり、思うように自由に自分を表現できないという重いいらだちから、他人の粗探しをしてしまう傾向が身についてしまって、それがさらに自分を惨めな気持ちにさせてしまっていたり…。

でも、そういうマイナスな影響は、過去の出来事から自動的に引き起こされる、というのは正確な言い方ではないのです。耳にタコができるほど言い習わされてはいますが、やはり、過去の出来事への自分の評価の仕方が、今の自分の弱さ、イジワルさ、消極性を生じさせているのです。つまり、「心の持ち方しだい」なのです。でも、これを言われると、悔しいし、腹が立ちますよね。それは、過去の衝撃的な出来事において、自分の衝撃的な気持ちをだれも分かってくれず、理解しようともしてくれず、むしろ、自分のほうに落ち度があるかのように周囲から責められたからです。

エホバの証人なら、長老や組織の「ささいな」間違いはこだわらないようにしなさい、人間はだれも不完全なのだから、許しあいましょう、と言うでしょう。実際は長老や組織は、自分たちに与えられた権威を振るうことをエンジョイしているだけであったり、単に自分のことしか考えないだけであったりするのがほんとうのところなのです。だから、当の長老や組織から、「お前の受け止め方を変えろ」などと一方的に指図されるいわれなどないのです。お互いが自分を反省して、態度を変えるよう努めなければ、真に解決はしないのですから。でもそういう「真の解決」は見込めません。長老たちも組織も、単に権威を擁護し、面子を立てることだけしか考えないからです。

こうして、自分の悔しい気持ち、自分の言い分を承認してもらえないもどかしさが、不満となって鬱積し、それ以降周囲の人たちへ不信感を持つようになってしまいます。素直に反応できなかったり、イジワルに答えたり、高飛車に対応したりといった、相手の尊厳を低めようとする言動には、自分の気持ちにも理解を示してっていう内心の叫びが隠されている場合があるのです。

わたしは違法駐車2回と、スピード違反1回をとられて、違反点数が6点になったので、違反者講習を受けるようにと通達を警察から受けました。違反者講習の最後のプログラムは、自分の過去の違反を発表しあって、それを互いに検討するというものがあったんですが、ある若い女性が自分に起こった事故を話しました。対向車がウインカーを出さずに急に右折したので、バイクに乗っていた自分は接触してしまい、転倒した。相手の人が悪いのに、自分の不注意のように対向車の人から言われたということでした。その講習の先生はもちろん警官です。先生はこういいました。

「単車は車の横をすり抜けるが、対向車からは見えにくい、だから交差点に入る際には十分減速するのが良い、でも相手の車も、右折するのに合図しないのは悪いよな」。ここの「でも相手の車も、右折するのに合図しないのは悪いよな」のところで、その若い女性はうんうんと大きくかぶりを振り、「はーい!」と答えました。この警官は、その若い女性の言い分にも同意を示して、共感を表しました。上手な指導だなとわたしは思いました。一方的に説教するのではなく、相手の側の感情や言い分にも同意できる点には、もれなく同意したからです。自分の気持ちや感情に理解・共感を示してもらえれば、人間はそこで不快な感情や気分に決着をつけることができるのです。

でも、エホバの証人の中で受けた侮辱や攻撃については、だれも弱い立場のほうに味方しません。そのことが後々に傷や囚われ、つまり、しこりとなって残るのです。世の中全般にそうですよね。ゴリ押しするほうにみんなついちゃって、マイノリティのほうの言い分なんて一蹴されます。競争に勝つことばかり強調される風潮が生みだしたものなんでしょう。でも、いくら誰にも理解されないからといっても、自分の中で過去の出来事に囚われて、恨みがましく思っていては、自分の人生から喜びを失ってしまうのです。上記の著者はこのように続けています。

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過去の問題にもとづいて人生を構築したり、心の中のしこりのために憂うつな気分に浸ったり、やたらと攻撃的になったり、高飛車にふるまったりしていても、何にも利点はないことは明らかである。いやな思いをした記憶にとらわれても何の得にもならないのだ。

過去の重荷を背負うべきではない理由はいくらでもある。過去を通して人生を見ることによって、自分の成長が阻まれる。つらい記憶に執着しつづけると、それが足かせとなって先に進めない。過去の行動様式に固執すると、現在に適した新しい行動様式を身につけることができない。現在抱えている問題の責任を過去に押し付けていると、自分の強みや柔軟性、環境適応能力を活かせない。さらに悪いことに、過ぎ去ったことにいつまでもこだわる態度は、被害者意識を持って世の中を見つづけることを意味する。その結果、わたしたちはいつまでたっても被害者として生きることになる。

したがって、次のことが言える。

正しくない考え方:
過去の出来事、その中でも特に衝撃的な経験は、わたしの人生と行動に常に影響を及ぶすことになる。

正しい考え方:
過去の出来事が私にまだ影響を及ぼしているとすれば、それは必然的な結果ではなく、自分がそれを選んでいるからだ。

(同上書より)

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この後に、冒頭のたとえ話が書かれていました。聖書を読んだ人なら、あの年下の僧侶を非難するのに、イエスの弟子たちが安息日に、穀物畑で、穂をむしって食べたことを非難したパリサイ人の例を持ち出すでしょう。マタイ12章の冒頭の記述です。エホバの証人で生きてればどうしてもそういう風に思っちゃいますよね。それはそれで正当な議論ですよね、もちろん。でもここでのたとえ話では、「私はあの女性を二時間前に背中から降ろした。しかし君はまだその記憶を背負っている」、のことばが要点なワケです。戒律への違反に罪悪感を抱き続けるか、過去の違反は事実としても、それは神の裁きにまかせて、囚われずに生きていく、ということですね。

ただし、そのように心の中の考えを立て直すのは、あくまでも本人の意思で、本人の中でだけ行われるべきものであって、回りの人たちが考えを変えるように説得しようとするものじゃありません。周囲で考え方を改めさせようと説得するなら、どんなに「あなたの気持ちは分かる」と言っても、どうしても「でもね、…」と相手の今の気持ちの持ちようを否定しなければなりません。つまり過去の出来事に囚われている人自身を非難し、責めたてることになるからです。当人が過去の出来事に囚われるようになったのは、そうやって当人の気持ち、感情が否定され、共感されなかったからなのですから、同じ経験を与えられればよけいにすねるだけです。周囲の人にできるのは、当人の悔しかった気持ち、情けない感情、傷つけた人への当然の復讐心(たとえばジダン選手の言い分のような)などの吐露を徹底的に共感して聞き、悔しい気持ちには理解できるよっていうことを表明してあげることだとわたしは考えています。そうやって、当人にも味方がいる、自分の気持ちを分かってくれる人がいた=自分は承認してもらえた、ということを納得したときに、その人は過去のつらいつらい出来事を越えていこうとするのだと、わたしは思うのです。
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Human Rights … 人間として正しいこと

2006年07月09日 | 一般
憲法改正を主張する人々は、安定した秩序を取り戻すには、権利を濫用する傾向を是正しなければならないという論を述べます。少年による凶悪犯罪がマスコミによって執拗に繰り返し報道されるため、世の中が異常になっているかのように考えているのでしょう。また、女性が結婚したがらない時代の風潮を批判して、憲法の24条を変えようともします。結婚するかしないかは本人の生き方の選択の問題なのに、国が「女は家庭に入って子育てをすべし」という、家父長制時代の女性のあり方を復旧させようというのでしょうか。その時代、女は、人間として一人格を認められていませんでした。結婚するのに、世帯主の許可が必要だったのであり、家長が決めれば、娘自身は望まなくても、嫁入りさせられた時代でした。

現行憲法の24条では、女性に人格を認め、女性個人の意思が尊重されています。
第24条 【家庭生活における個人の尊厳・両性の平等】
婚姻は、両性の合意にのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻および家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

現在のわたしたちからみれば、しごく当たり前のことですが、明治憲法はこれを認めていなかったのです。日本国憲法が作成されるときも、GHQ草案に、この条項があるのに対して日本側はかなり抵抗を示したのです。明治以降、日本を牽引してきた指導者たちは、江戸時代の武士階級の道徳観が染みついた人たちでしたから、個人の尊重などというのは「暴論」としか見えなかったのです。薩摩藩主、島津久光が池田屋事件で、クーデターの首謀者、有馬新七を斬らせたのは、身分の差を越えて浪士たちや町民、農民たちが結束するのを「道義に反する」と感じたからだったと、日本歴史学者の井上清さんは書いています。こういう儒教倫理(といっても、儒教本来の教理とはちょっと違うのかもしれません。封建的秩序を擁護するために、儒教から都合のいい部分を取り出して、イデオロギーを作成したのでしょう。こういう態度を原理主義といいます)に囚われた人々が教育行政を指導してきたのですから、「人権」や「個人の尊重」などという概念は、真剣に考慮するに値しないものだったのでしょう。

わたしたちの身の回りにもいるでしょう、権利という言葉を引用するのを嫌う人が。そういう人は「むかしはこんなに悪くなかった」と言います。過去に理想的な秩序世界があったように考えるのも原理主義にみられる特徴です。エホバの証人も、本来世界はエホバへの崇拝において一致した平和な世界となるはずであった、と主張しています。でもこれはウソです。争いは生物について回るものです。人間も、特に農耕をするようになってからは土地を求め、水を求めて大規模な戦争をするようになりました。原始時代の戦争は情け容赦のないものでした。1960年代に発掘された、「ジェベル・サバハ」という遺跡、ロケーションはエジプトとスーダンの国境にあるそうですが、そこから、BC.12000年~BC.4500年前まで続いた「カダン文化」と呼ばれる時代の墓が発見されました。そのようすは以下の通りです。

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遺跡からは、49の墓が発掘されており、人体の骨格は概して良好な状態で保存されている。発掘に当たった人々の前に現れたのは、人間が驚くほど凶暴であったことを物語る形跡であった。

人骨のうち、約40%については、同じ墓の中に先の鋭くとがった石片(細石器)が埋められていたが、槍や投げ矢にしては小さすぎるようなので、おそらく矢尻であろう。実のところ、その矢尻は4人の男女の骨(数ヶ所も傷を負っている者もいた)のなかに食い込んでいた。そのうち2人の場合、矢尻が頭蓋骨中の蝶形骨(脊椎動物の頭蓋の中にあって、眼の付近から頭蓋底中央まで位置する:広辞苑第5版)の中から発見されており、それは下あごの下から射貫かれたのに違いない。このことはおそらく、これらの人々が負傷して身体がきかなくなって、仰向けに倒れ、頭をのけぞらせて苦しんでいるとき、弓矢で喉を射抜かれたことを示している。

これらの遺骨の主は、戦争で死んだというよりは、処刑されたのかもしれないが、多くの傷の中には、想像するだにぞっとさせられるものもある。墓番号44の若い成人女子の場合、体内に21個の石片が入っていた。そのうち3個は、それぞれ下顎の前部と内部と後部から発見されたが、それらは口の中へ射込まれた矢柄についていた穂先などであったにちがいない。どうみても、この女性は身体中のいたるところへ矢を射込まれている。現代人の目から見れば、必要以上に残酷な殺し方かもしれないが先史時代では、それがあたりまえだったようだ。

…(中略)…
11人の子どものうち4人もまた同様の方法で殺されている。

(「戦争の起源」/ アーサー・フェリル・著)

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しかし、現代に起きる凶悪事件もやはり情け容赦のないものですね。先史時代にけっして引けを取りません、残虐さでは。

ちょっと脱線しましたが、こういう風潮は、「権利の濫用」に原因があるのでしょうか。戦後の民主的方針に間違いがあったのでしょうか。そして、「権利ばかり主張して、責任を果たさない」風潮がある以上、権利は制限するほうがよいのでしょうか。ぜひ読んでいただきたい一文をご紹介します。

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21世紀は「人権の世紀」である、ともいわれる。20世紀の後半、国際社会は、「人権」の重要性をあらためて確認し、その国際水準の確立と実効的な保障に努めてきた。そして21世紀は、この「人権」価値が世界全体に普遍的なものとして受けいれられる時代になるであろうことが期待されている。

では、日本の場合、「人権」価値は十分に浸透・定着しているといえるか、となると、どうも怪しいところがある。「人権」という言葉は、英語でいえば “Human Rights” の訳語である。しかし、 “Human Rights” と「人権」とは、少なくとも、語感的にはかなりの隔たりがあると思う。そのへんが、日本における「人権」理解のあやふやさに通じていそうな気がする。

そもそも “Right” を「権利」と訳したことから、この隔たりは始まっていると思う。英語の “Right” という言葉には、「権利」のほかに「正しい」という意味がある。「ほかに」というのは実は正確ではなく、right は right なのであって(名詞と形容詞の違いはあるが)、日本語に訳されたときに違った意味が与えられたのである。つまり、 “right” は日本語では「権利」という単語で翻訳されて意味づけられているが、本来 “right” とは「正しいこと」という意味なのである。英語圏ではそのような意味で使われているのである。とすると、日本語では「人権」と訳されている “Human Rights” とは、「人間として正しいこと」という意味になる。

しかし、日本語の「権利」という言葉には、「正しい」という意味は全然含まれてはいない。むしろそれは、自分の利益を押しとおす、といったニュアンスを持っている。さらに、同じ「権」という語が、「権力」というふうにも用いられるから、「人権」の「権」と、たとえば「行政権」の「権」との違いもあいまいになり、「権利」はじばしば「権力」と同様に、相手を問答無用に黙らせる道具として使われることにさえなる。そのために、人々は、「権利」とか「人権」とかいうものに対して、なんとなくうさん臭いものを感じているのではないか。だからこそ、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことが言われたりするのであろう。

しかし、ここでいわれている「権利」を “right” という語に置き換えてみれば、「 right (正しいこと)ばかりを主張する」のが悪かろうはずはないから、こういう言いかたのおかしさが明白になる。

したがって、「人権」価値を日本において浸透・定着させるためには、「人権」を「人権」という言葉で考えるのではなく、日本語へ翻訳する前の “Human Rights” という言葉で、つまり「人間として正しいこと」というものとして考える必要があろう。

どういうことかというと、人権を主張する側は、それが「人権」だから(憲法で保障されているから)主張するというのではなく、 それが「人間として正しいことだ」ということをきちんと言えなければならない、ということであり、逆に、そんなものは人権ではないと否定する側は、それが「人間として正しいこと」ではないということを、やはりきちんといえなければならない、ということである。こうして、何が「人間として正しいこと」なのかについて、きちんとした対話がなされ、それを通じて社会的コンセンサスが形成されてはじめて、日本社会に「人権」価値が定着することとなろう。

(「憲法学教室」/ 浦部法穂・著)

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日本人には、人権というものをきちんと理解していない、ということですね。もともと「権利」というのは、商業が発達してきて、それが封建制を崩してゆくのですが、その際に、営業上の利便のため、土地や領主の荘園の通行の自由と安全、そしてまた私財の「所有権」を確保しようとして、商人が主張するようになったものです。封建的土地所有と、さまざまな課税は正等じゃない、というわけです。

基本的人権の最初のものは、所有権の保障でした。ですから「権利」は「自分が持つこと」の保障、営業の自由という含みがあって、人格の尊重、生命の尊重という意味合いはずっとあとになって考慮されるようになりました。引用文にあるように、第二次世界大戦のときに台頭した枢軸3国のファシズムへの反省から、人権は今日的な意味を重く持つようになったのでした。

浦部教授は、この「権利」という言葉に、個人の利益の追求という含みから、もういちど「人間として正しいこと」という意味に帰ろうと主張しておられます。第二次世界大戦直後の世界の反省の地点に戻ろう、と。ファシズムが生みだす、人間の搾取、抑圧からの解放という願いに戻ろう、と。

日本は戦後、一旦は公職追放になったA級戦犯や特高警察の官僚などを、政界に迎えるようになり、日本国憲法を改訂しようとして自民党を立ち上げました。岸○介はA級戦犯だと目されていましたし、特高警察とともに思想弾圧を行ってきた思想検察検事、池○克(治安維持法改正に関わった人)は1954年に、最高裁判所判事に任命されています。また元特高警察官僚の緒方○一という人物も、公職追放解除後に政界に戻ってきて、なんと文部省初等中等教育局長のポストに就いています。こうして反動的な流れを生みだす拠点となってきたのです。こうした人たちは国家のためなら個人は犠牲になるのもしようがないと考える人たちです。戦後の公害や薬害の問題を起こす背景には、こういう人たちの考え方があるのに違いありません。(以上、「思想検事」、「告発 戦後の特高官僚・反動潮流の源泉」より)

教育は反動的に歪められた教育行政によって今日まで導かれてきました。戦後の世界の人権意識の流れに逆行する行政が次々と敷かれてきたのです。学校の荒廃は異常な競争がもたらしたものです。教育基本法の理念を尊重してこなかったことにあります。個人を尊重しようという意識は過度の競争の中では生まれません。そうやって育ってきた世代が今、そう、競争で勝つことでしか自分に価値を見出せない、そんな自己評価の低い世代がいま、国家や民族という大きな組織に依存することで自分を大きくしようとする世代が今、反動的潮流に乗っているのです。こういう人たちが今、、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことを言うのです。

浦部教授は、「権利」を「人間として正しいこと」という原点の意味に帰り、憲法を論じておられます。今、「人間として正しいこと」かどうかという点をきちんと議論するべきときだというご意見には、ほんとうに賛成です。厚生省官僚はこのことばをどう聞くでしょうか。サリドマイドから、薬害エイズまで、悲惨な犠牲者を生み出してきたのは、考え方において、企業優先の「権利」ばかり注目して、国民の福利厚生という「人間として正しいこと」という見方を採らなかったからではないでしょうか。公害の問題もそうです。水俣病からアスベスト問題、企業側の論理だけを見て、生活する労働者への視点を持たなかった、それは「人間として正しいこと=人権」という視点を持たなかったのではないでしょうか。そんな人たちが、むき出しの競争社会をめざして憲法や教育基本法を変えようとするなんて、絶対に納得できません。

同じことを、エホバの証人にも向けてみましょう。信教の自由はたしかに保証されています。どんな教理であろうと、日本人は自分の選んだ宗教イデオロギーにしたがって生きていい、そうかもしれない。でも、こじつけの論理で、医療を制限し、治療できたかもしれないのに、みすみす子どもを死なせてしまう、これは「人間として正しいこと」でしょうか。子どもに偏った情報しか与えないで、輸血拒否を絶対的に信奉させてしまう宣伝方法は「人間として正しいこと」でしょうか。体罰については十分否定的な研究成果が出ているのに、精神主義的な意固地さで正当化しようとすること、それは「人間として正しいこと」でしょうか。しかも信教の自由は声高に主張するのに、学問の自由、家庭生活における個人の尊重、両性の平等、法の下の平等、思想、良心の自由は巧みに制限する、これは「人間として正しいこと」でしょうか。エホバの証人は自分たちに都合のいい「権利」ばかり主張しているように思えるのですが…。
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ロング・ディスタンス 

2006年07月06日 | 一般
遠くて近きもの、極楽、舟の道、人の中。

清少納言/ 「枕草子」より

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正確な翻訳は全然できないんですが、「人の中って近いようで遠いナ」というのはわかるなあ。通勤で地下鉄に乗るんですが、いろんな人がこれだけ多いのに、人間はどうしてこう心から理解しあえないんだろう。どうして自分を愛してもらおうとして、「押す」んだろう。ちょっと「引いて」、自分のほうから相手に喜んでもらおうとすれば、気持ちはつながってゆくのに。ひとこと、正直に誠実にほめてあげれば、相手の気持ちを温めてあげれるのに。

*****

ほめることは決しておおげさなことではありません。

相手の中に「いいなあ」と思えるところが見つかったら、口に出していってみる。好きなところは好きと言ってみる。つまり自分の中のポジティブな感情やプラスの考え方をそのまま表に出すことが、「ほめる」ということなんだと思ってください。

「ほめるにふさわしい証拠が見つからなければほめてはいけないし、ほめるときは、その証拠をきちんと相手に説明できなければいけない」などと、むずかしく考える必要はありません。いいな、という気持ちをぽっとそのまま外に出せばいいのです。

けれどもやっぱり、ほめることはむずかしいと多くの人は思いがちです。何がほめることをむずかしくしているのでしょうか。

理由の一つは、目に見える成果や業績でなければほめてはいけない、と思っているからです。たとえば、テストの点が80点以上ならほめてもいいけれど、60点だったらほめてはいけないなどと、結果だけを見て判断するからです。そうすると、めったにほめることがなくなってしまうでしょう。

結果よりもプロセスをほめるようにしましょう。よい成績が出せなくても、まだ結果を出せるかどうか分からない段階でも、「お、今日はがんばったじゃない」「前よりもいいね」とプロセスをほめれば、ほめられたほうはうれしいし、また励まされてモチベーションがあがります。そうすればよい成果をあげようという意欲が自然とわいてくるのです。

すぐれた上司や教師とは、このように結果よりもプロセスをほめて励まし、相手の良い部分を引き出し、伸ばすことができる人です。

ほめることをむずかしくしている第二の理由、それは気持ちの問題です。ほめることには、自分をさらけだす怖さがつきまとうのです。自分をさらけだした後、傷つくことを怖れるからです。

いいなあ、好きだなあと素直に表現することは、自分をさらけだすことであり、そのとき人は心理的に無防備です。気持ちを言い表して、それを相手にどう思われるか、どう受けとられるかを気にしはじめると、怖くなって何もいえなくなってしまいます。もしも、あなたが「いいなあ」というプラスの気持ちを言い表したときに、相手から無視されたり、「そう考えるのはおかしい」「少しもよくないのに…」といったマイナスの反応が返ってきたらどうでしょう。ショックでしょうし、傷つくでしょう。とくに子どもの場合は、心に深い傷を負ってしまうかもしれません。

たとえば、子どもが何気なくお母さんに言ったとします。
「ねえ、ボクはお父さんのことが大好きなんだ。だって、お父さんってすごくカッコイイんだもん」
折り悪く、そのときお母さんは夫婦ゲンカの直後で、ムシャクシャしていました。
「何言ってるの! お父さんなんてカッコよくありません!」

こんなふうに言われたら、子どもはシュンとしてしまうでしょう。「好き」という気持ちを出すときはほとんど無防備です。「そうね、お母さんも好きよ」という反応が返ってくるものと期待しています。ところが逆の反応が返ってきたのですから、落差は大きいです。

「ボクが悪いことを言ったから、お母さんを怒らせてしまったのかもしれない」などと落ち込んでしまうかもしれません。以後、「好き」ということには用心深くなるでしょう。
起こられるのが怖くて「好き」という気持ちを表に出せなくなってしまうかもしれません。こんなふうに子どものときの体験が影響して、「良い感じ」を表現できなくなってしまう人はたしかにいるのです。

(「自分の気持ちを素直に伝える52のレッスン」/ 平木典子・著)

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人間って、自分を認めてもらいたいもの。何か特別な業績をあげなくても、上からの要求に応えられなくても、自分が生きて幸せでいることを、ほめてもらえること、人間がもらってうれしいプレゼントって、じつはこういうものではないでしょうか。

何か親の望む成果をあげなければほめない(=認めない)、宗教団体の要求する枠型にはまらなければ認めてもらえない、なんていうのを「条件つきの愛」といいます。ここで「愛」っていう言葉を使うのには個人的には抵抗があります。ここでいう「愛」は相手への愛ではなくて、自分に向かっての「愛」です。与える気持ちではなく、自分に差し出すように要求する気持ちです。「条件つきの愛」は相手を操作しようとする行為です。

奈良県で、お医者さまの息子さんが、家に放火して家族の何人かを死なせてしまうという事件がありました。放火した子どもは、父親の期待に沿おうと生きることに疲れの限界に達していたようです。「父親が不機嫌にならないように気を遣って生きてきた」という自供もあったようです。まさにアダルト・チルドレンの「症状」を呈しています。父親からは体罰が当たり前に行われていたようです。この家族、どこか熱狂的なエホバの証人の親子関係に共通するものがあるように、わたしは感じました。

親と子のあいだで、素直に、正直に気持ちを交わせない…。遠い間柄の親子。愛しかたを知らないことって、なんと孤独で寂しいことなんでしょう。
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会衆内の不公正な仕打ちに対処するためのある処世術

2006年07月01日 | 一般
分かるようで分からない、でも経験からするとなんとなくうなずける、そんなちょっとユニークな処世術をご紹介します。

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「ウチの上司はほんとうはたいした仕事もしていないんです。そのくせ、小さなことでみんなを怒鳴り散らす。私が悪くて怒鳴られているんじゃないとわかっていても、ガミガミ、ネチネチ言われつづければ、やっぱりへこみますよね」と、気持ちを告白してくれたがんばり屋さんの女性がいました。こんなときには、いまの職場を自分のおなかのなかに移動させて考えてみたらどうでしょう。頭を切り替えると、怒鳴る上司もまったく違った存在にみえてくるものです。

人間の腸のなかには、善玉菌と悪玉菌が住んでいます。善玉菌は、酵素やビタミンなどカラダに役立つ物質を分泌し、悪玉菌は、硫化水素など腐敗物質をつくりだしていると言われています。でも、もうひとつの菌も存在するのです。「日和見菌」です。日和見菌は、善玉菌と悪玉菌の勢力の強いほうに味方する性質があって、腸内環境に大きく作用するのだそうです。善玉菌20%、悪玉菌30%、日和見菌50%のバランスを維持していると、健康でいられることもわかっています。腸のなかでは、健康状態を保つために、20%の善玉菌が日和見菌を味方につけ、悪玉菌の増殖を阻止しているんですね。

そこで、職場の人間関係を、この3種類の菌に例えて考えてみましょう。
1)善玉菌 : つねに物事を前向きにとらえ、現実的な計画を立てて、それを実現しようと努力する人。
2)悪玉菌 : いまの肩書きや自分の立場や面子を守ることが大切で、
         人を利用したり、人に要求することばかり考える人。
3)日和見菌 : (1)(2)のどちらともいえないが、優位な立場にいるほうに味方しようとする人たち。

日和見菌に入る人のなかで、善玉の道をめざす人を善玉日和見、悪玉の道に行く人を悪玉日和見と分けることもできます。日和見菌は名前のとおり、善にでも悪にでも染まりやすいのが特徴で、将来はどちらにも変わってゆく可能性があります。



《“日和見菌”タイプを上手に自分の味方につけよう》

ちなみに、冒頭の女性のケースの場合には、悩みを打ち明けてくれた女性自身を「善玉菌」、怒鳴り散らしてうっ憤を晴らす上司は「悪玉菌」、二人の様子を観察している同僚や後輩たちを「日和見菌」に譬えて考えるとわかりやすいですね。

悪玉菌の上司にすれば、自分が非難されたり、内心で軽蔑されていたりする立場になるのは気に入りません。何とかしておおぜいの人たち(=日和見菌タイプ)の注目と服従を自分につないでおきたいわけです。そこで考えたのが、周りにいる人たちをあたりかまわず怒鳴り散らす“ 威嚇射撃作戦 ”と言えます。悪玉菌上司も、威嚇射撃でスケープゴートとなった善玉菌タイプにとどめを刺せるとは思っていません。ただ、おおぜいの人の前で辱める、この手の不当な威嚇射撃がかなりなストレスになるのは知っています。善玉菌がストレスで弱まれば、情勢を測って強いほうにつく日和見菌タイプの人たちへの脅し効果が抜群であることを本能的に理解したうえでの挙動なのでしょう。「悪玉菌」側が態勢を有利にするには、数がモノを言う。これは腸内も職場も同じことです。「日和見菌」タイプを味方につけて、「悪玉菌」タイプ側が8割、「善玉菌」側が2割という圧倒的な勢力を得ようとしての戦略なのです。

これを回避するには、「善玉菌」側が、「悪玉菌」側の威嚇射撃ストレスに負けずに、「日和見菌」タイプの人たちを自分の味方にしておかなければなりません。ところが「悪玉菌」側の威嚇射撃があまりにも激しく、執拗だと、「善玉菌」側も強くストレスを感じ、「悪玉菌」のちょっとしたひと言にもつい感情的になったり、自棄(やけ)を起こして、反撃的な言動に出てしまい、緊張を生み出してしまいがちです。ところが組織において公に認められている権威に逆らうと、まちがいなく「日和見菌」たちは緊張から逃れようとして、権威を持つ「悪玉菌」側についてしまいます。つまり、周りの人たちに八つ当たりしたり、いら立った態度、投げやりな態度を周囲に見せてしまうと、「日和見菌」タイプである同僚や後輩たちはあっという間に離れていってしまいます。まさに「悪玉菌」タイプの思うツボです。

「日和見菌」タイプの人たちは、「おかしいな、ひどいな、不公正だな」とは思っていても、権威には逆らいたくない。そういうアンビバレントな状態にある「日和見菌」たちを「悪玉菌」上司は、待ってましたとばかりに、優しく迎えます。これが「悪玉菌」上司の威嚇射撃の最終目的なのです。日和見菌たちが自分の側につけば、「善玉菌」にいやがおうにも服従を強制させることができるからです。服従が嫌ななら、自分から去ってゆくような圧力ともなるのですから。

どうです、「善玉菌」であるあなたは、心を強く持っていなければならないことがわかるでしょう。善玉菌にとって、天王山を乗り越えるには、心の強さにあるのです。こんな最悪な状況を招かないためにも、善玉菌は悪玉菌に対して、「あの人はああいう人なんだ」と心のなかで距離を置きましょう。そして「怒鳴る人にヘコまされるのは、まだ “善玉” の自分が確立されていないからね」と考えを建て直し、真の善玉をめざすことを心に決めるのです。善玉菌に心のゆとりがあれば、悪玉菌の策略は阻止できます。心の中にゆとりが生まれると、目の前の怒る上司も、いままでとはまるで違って見えてくるからおもしろいもの。上司の顔を見ながら、心の中で「わたしは善玉ですけど、あなたは悪玉なんですネ」とつぶやくだけで、なぜか落ち着いている自分に驚くかもしれませんよ。そんなあなたをみて、「日和見菌」タイプの人たちも安心して支持を表明してくれるでしょう。

とはいえ、日和見菌人間とのつきあい方も考えておく必要があります。日和見菌人間たちは、今は善玉の味方であっても、状況が変わればまた態度を変えるのは明らかだからです。ですから、こういう人たちから支持されたとしても、いい気にならないこと。オススメは、「うるさい上司への防波堤」とみなすことです。あるいはエキストラくらいに思っておいてもいいかもしれません。「日和見な人たちって大キライ!」と思っても、善玉体制作りに欠かせない協力者であることは確かです。わざわざ敵にまわして戦う意味がありません。それに誰であれ、相手に八つ当たりで攻撃的に接したら、その時点で自分も悪玉菌になってしまい、善玉たるゆえんを失ってしまいます。

悪玉上司の策略にまんまと乗せられないためにも、まずは自分のことを、腸内善玉菌ならぬ「社内善玉よ」と心に言い聞かせ、胸を張りましょう。怒鳴る上司がいるからこそ、あなたは「正当性」をさわやかに主張できるんですから。やがて、上司からのストレスが、あなたの心の善玉をほんとうに強くしてくれることに気づくかもしれません。

(「なぜか『ヘコまない女』の共通点」/ 嬪嶋珠光(ひめしま・しゅこう)・著)

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さてさて、ルナは元エホバの証人で、会衆の中の権力者の不興をかい、会衆内で孤立するよう仕向けられました。イジメの典型的なパターンですよね。当時は恨みまくりましたが(だって、そのために好きだった男性信者も向こうについちゃって、わたしの心のダメージは深刻でしたから…)、今となっては、あの事件のお陰で、エホバの証人が大嘘つきの大詐欺教団であることに気づくようになったんですから、よかったことではあります。婚期を逸してしまったことは悲しい傷でしたけど。あそこに残ればまだ結婚のチャンスはあったでしょう、でも、もうできなかった。そう、ルナはすでに無神論者になってしまっていたのでした。血が緑色から、赤い赤い色に変わったのです。人間の心を取り戻したルナは、ネブカドネザルとは反対にエホバに栄光を帰すことを止めたのでした。

そこで、上記の引用文の方法で、エホバの証人の会衆の中に当てはめて見ましょう。自分の意見やセンスを主張しようとする人を「善玉菌」に例えます。なぜなら、人間一人一人は個性的な存在で、人によって持つ美的感覚や、ものごとを評価する判断基準は異なります。ですから人生に対する目標も人それぞれ違っていて当然です。だから自分の個性を主張するのはしごく自然なことです。それに対して、組織の論理を個人の内側や、家庭の内側にまで及ぶような、過剰に適用させようとするエホバの証人の「管理職」連中は「悪玉菌」です。会社の仕事をチームでする際には、チームワークを意識します。これは当然のことです。しかし、いくら会社の仕事のためとはいえ、妊娠した女子従業員は退社するのが慣習である、会社に残りたければ妊娠できねーよ、みたいな圧力があるなら、それは行き過ぎなのです。

同様に、長老や巡回監督に認めてもらうために、自分の意思に反して子供をもうけない決定をしたり、結婚を先延ばしにしたり、あげくのはてに寝室での流儀にまで指図をする、ばれることはそうあることではないにしても、バカ正直にも(しかし現実にいるのです、このタイプのオンナが。)、夫の性行為に悩む「お子ちゃま奥さん」がわざわざ長老に相談するなどして、「ふさわしくない行為」が発覚すれば会衆の問題にされる、なんてことは明らかに人権侵害なのです。だから、エホバの証人の管理職は「悪玉菌」です。
(夫と妻が寝室で何をしようがエホバにどんな関係があるんでしょう? バカ長老の一人によると、夫婦関係におけるある種の行為は異教の風習に起源があるそうな。ホンマかいな…。)

そこでこの両者の間にある他の信者たち、長老に認められることがエホバの喜ばれることだと信じて、日々奉仕に集会に励む人たちは「日和見菌」です。この人たちは、陰に回ると、長老や巡回監督の悪口や不平不満を言いますが、集会では率先して賛辞し、まるで映画スターのように見上げます。集会に集まる「日和見菌」タイプのおおかたは無批判に従う人たちですが、一部には巧妙に距離を置く人もいます。たいていはあまり熱心に活動するタイプではありませんが、開拓奉仕を行う活発な成員もいます。また文字通り日和見な人もいます。あっちではあっちの話に合わせ、こっちではこっちの話にあわせるというタイプです。ポリシーも何にもない人たちです。

最後のタイプの人、文字どおり日和見な人たちは問題外にします。会衆内で、露骨な不公正やイジメが行われると、「日和見菌」タイプの人たちは陰で不満をうわさします。うわさは「日和見菌」タイプの、特に姉妹たちの人脈を通して、近隣の諸会衆に伝わります。もし、不公正な仕打ちの対象になっている人やイジメの対象になっている人たちが、これら「日和見菌」タイプの人たちの同情を得るなり、共感を得るなりすることができるなら、会衆内での孤立の程度はかなり下げることができます。野外奉仕で、司会の兄弟がいないときなどでは、積極的に話しかけてもらえたり、慰めてもらえたりすることができます。逆にこれら「日和見菌」タイプの人たちの反感を買えば、会衆内では完全に浮いてしまい、集会に行くのが、胃に穴があくほどつらい思いをすることになります。そこでどうすれば、これら「日和見菌」の人たちの共感を得ることができるようにするか、そのための戦略を、この引用文は教えてくれているのです。

エホバの証人の会衆では、姉妹たちの「うわさ」パワーは実は、かなり強力なプレッシャーを長老たちや巡回監督たちにさえ与えています。もちろんいざとなれば、「うわさ話」の危険、などという話を、「会衆の必要」で取り上げられればこれら「日和見菌」女性たちのパワーはあっという間に鎮圧されるのですが、しかしそこにいくまで事態を持ってゆくことができれば、不公正な扱いの対象になっている人、イジメの対象になっている人にとっては、「一矢報いてやったぞ」と思えることができるのです。けっこうこれはストレス軽減に役立ちます。

そこで、引用文が教える作戦が、Pr.2410作戦。「Pr.2410」とは箴言24章10節という意味です。「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。(もしそうならば)あなたの力は乏しくなる」という聖句でしたね。圧力が加えられたときに、自棄や、八つ当たりをおこしたりすると、権威に盲目的に服従する会衆内の「日和見菌」たちからも総スカンを食らって、自分の勢力が弱くなるのです。ですから、長老から圧力が加えられたり、イジメられたりしたら、クサらないで、今までどおりに奉仕や集会に出席し、しかも今までどおりに注解にがんばります。むしろ聖句からの注解などいっそう行うと、日和見菌たちに対して、自分はヘコんでないぞ、だってあんな不当な仕打ちを受けるいわれがないんだから、という暗黙のメッセージを送ることができます。そうなれば、「おかしいな、ひどいな、不公正だな」と内心で思っている日和見菌の水面下からの支持を得ることができるのです。そういうことが重なってゆくうち、やがて悪玉菌長老や同類のお局どものほうが、しだいに孤立してゆくでしょう。

…ただ、自分の孤立を自覚しはじめた会衆内の権威者たちは伝家の宝刀である「裁き」の権限を濫用してくる可能性はあります。「長老に対する批判的な精神は、サタンの霊です」などと切り返されると、日和見菌たちは切り崩されてしまい、一気に自分のほうが孤立してしまうことは、エホバの証人の社会ではよくあることです。もともとエホバの証人の体制は、戦前の日本のように、「年長」、「親」、「国家(=JW体制)」、「天皇(=体制の神、エホバ)」に忠孝をつくせ、とする軍人勅諭、教育勅語体制と似たようなものですから、個人の尊厳の尊重などという概念は通らない構造です。信者は「臣民(基本的人権など持たない封建的民衆)」と公然と言い抜けるのですから、人道的な救済など望み得ないのです。あるていど抵抗したら、いい加減なところでキリスト教の別の教会に鞍替えするしかなくなるのではないかとは思いますが…。

でもその頃には、「日和見菌」のなかにも、「この組織は神の組織じゃないな」と目ざめる人もわずかながら出てくるでしょう。そうなれば、自分としては一つの勝利を得た、と思っていいんです。事実、そのとおりなんですから。わたしは、さらにその軌道からも外れ、しょせん神などいないのだというところまでイッちゃいましたが、でも後悔はしていません。無神論になったため、ほんとうに苦しいときに頼るところをも失って、寂しい思いもしましたけれどもね。これはこれで、わたしが自分で選んだ生きかたです。人が神を求めるのは、真に自分に共感し、プラスの感情もマイナスの感情も、無条件で肯定してくれ、わたしの気持ちに寄り添ってくれる、そんな、慈愛に満ちた、現実には幻の「親」を求める気持ちからだと、わたしは、わたし個人はそう考えているからなんです。
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