Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

終身刑創設案・5/26付:市長射殺死刑判決・5/27付

2008年05月26日 | 一般
社説  終身刑創設案 拙速避け議論深めねば



(5月26日)



 死刑と無期懲役のギャップを埋める刑を創設する論議が高まっている。「量刑制度を考える超党派の会」が与野党六党の国会議員で設立された。一年後の裁判員制度をにらみ、原則として仮釈放のない終身刑の導入や、無期懲役刑の仮釈放禁止期間の延長などを検討する。議員立法で関係法令の年内改正を目指す。

 「無期懲役」となっても、現行法では、仮釈放が最短十年で認められる。死刑との差があまりに大きい。以前から、研究者が間を埋めるさまざまの刑罰を提案してきた。過去に法制審議会で中間の刑を論議したが、まとまらなかった。拙速は避け、専門家や現場の声も聞きながら、論議を深めてほしい。

 「超党派の会」には死刑存置派から廃止派まで入った。死刑の是非については議論しない。廃止派が存置派に呼びかけて結成した。背景には、厳罰化の風潮が強まる中で、死刑の判決や執行が急増していることへの危機感がある。終身刑を設けると、裁判に誤判があったときに、救済できる。仮に死刑を執行されていたら不可能だ。

 また、長い時間をかけて受刑者とさまざまの人が面会することで、犯罪の原因や背景などが解明され、再発を防ぐ材料にもできる。裁判員制度で、国民から選ばれる裁判員が死刑か無期かで悩んだ時の選択肢を広げることにもなる。

 問題もある。一つは出所の望みがない受刑者の更生を図ることの難しさだ。終身刑は受刑者を自暴自棄にするとも言われる。説得力に欠けるが、法務省は「死ぬまで刑務所の外に出られず、死刑より残虐」という立場だ。新しい刑をめぐって、国会議員の中には、仮釈放はないが、恩赦はある「重無期刑」を求める意見も出ている。

 近年、被害者や遺族の感情を反映して仮釈放の時期が遅くなり、実態として、無期懲役が終身刑に近づいている現状も無視できない。二〇〇六年に仮釈放された無期懲役囚(三人)は平均二十五年間、服役していた。すでに五十年を超えている無期懲役囚が数人いる。こうした実態をふまえないと議論が上滑りになりかねない。

 仮釈放や恩赦の余地が全くない終身刑にするか、多少でもある制度にするかも一つの焦点だろう。過去の法制審では、裁判所が無期懲役の言い渡しをするときに、裁判所の裁量で、仮釈放が可能となるまでの服役期間を二十年とする権限を認める案も論議された。

 長年の論議を生かしつつ、国民が納得する刑罰を工夫したい。




北海道新聞







社説(2008年5月27日朝刊)

市長射殺に死刑/見えてきた司法の流れ




 昨年四月、伊藤一長・前長崎市長が市長選の最中に射殺された事件で、殺人などの罪に問われた暴力団幹部に対し、長崎地裁の松尾嘉倫裁判長は、求刑通り死刑の判決を言い渡した。
 伊藤さんは被爆五十周年に当たる一九九五年四月、四十九歳の若さで長崎市長選に初当選。平岡敬広島市長(当時)とともに国際司法裁判所で核兵器使用の違法性を意見陳述するなど、平和行政にも熱心に取り組んだ。

 判決は、事件について「銃犯罪の恐怖を全国に広げ、自治体の不安を増大させた」だけでなく、「選挙権の行使を妨害し、民主主義を根底から揺るがす行為」だと厳しく指弾した。

 社会を震撼させた事件の卑劣さは、いくら強調しても、し過ぎることはない。その一方で、事件の被害者が一人で、被告に殺人の前科がないことなどから、従来の量刑基準が適用されるかどうかが注目されていた。

 死刑適用の指針となっている一九八三年の「永山事件」最高裁判決に照らせば、今回の死刑判決は異例の判断である。被害者感情を重視した厳罰化の流れに沿ったものだといえよう。

 山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審で広島高裁は、殺人や強姦致死などの罪に問われた元少年に死刑の判決を言い渡した。

 この二つの判決は、死刑に対する司法の考え方の変化を端的に示すものだ。死刑を控えるのではなく、事件の凶悪性の程度によっては死刑をちゅうちょしない、という司法全体の意志が感じられる。

 今回の事件であぜんとしたのは、殺害動機が極めて自己中心的で短絡的だったことだ。

 判決は、殺害動機について(1)長崎市の中小企業向け融資あっせん制度を申し込んだが、融資が受けられなかった(2)市道での車の事故に絡む補償金も市から得られなかった―ことなどが重なり、伊藤前市長を逆恨みした末の犯行、だと指摘している。

 自治体に不当な要求を突き付ける「行政対象暴力」に対して厳しい判決が出たことは、警察の取り組みと呼応したものだとみることができる。事件を機に警察庁は四月、入札参加要求など行政対象暴力の規制対象を拡大した改正暴力団対策法を成立させた。県内でも自治体と警察が協定を結び、情報の共有など連携を強めている。

 判決は、こうした現場での動きを後押しし、抑止効果を発揮するかもしれない。

 前市長射殺事件によって選挙の自由が妨害された。暴力で言論を封じたり、銃弾によって民主主義社会を破壊するような犯罪に対しては、これを認めない社会全体の強い意志を示すことが必要だ。

 ただ、死刑という極刑判決については、時代の変化の中で「永山基準」をどう考えるか、静かな雰囲気の中での冷静な社会的議論が必要なのではないか。

 裁判員制度が導入されることを考えれば、一人の市民としても、この問題を避けて通ることはできない。司法サイドからの重大な提起だと受け止めたい。




沖縄タイムス
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森達也さんの「死刑」を読んで…

2008年05月26日 | 一般

わたしたちは殺人事件が大々的に報道されたとき、被害者の側に立って怒りの声を上げるかも知れませんが、被害者の側ではわたしたちが期待するほど気持ちの支えにはなっていません。むしろ疎外感さえ感じさせてしまっているようです。それは、わたしたちが「死刑にせよ」、「厳罰を持って犯罪者に報いよ」という言説が、はっきり言いますが、他人事であり、野次馬根性的、俗物的好奇心に基づいているからです。森達也さんの「死刑」を読んだ最初の感想は、無責任なマスコミ報道と俗物的な世間の反応、そして陰湿な匿名の言論による中傷・攻撃への強烈な嫌悪でした。

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実の弟である明男を1984年に殺害された原田正治は、当初は主犯格の長谷川敏彦を激しく憎悪して極刑を願う。しかし獄中の長谷川から何度も謝罪の手紙をもらい、死刑確定直後に初めて面会を果たした原田は、その深い反省に触れると同時に、長谷川の姉や子どもが逮捕後に自殺したことなども知り、彼を処刑したとしても誰も救われないと考えるようになる。その心境の変化を、原田は以下のように記述する。




その頃、僕は、こんなことをイメージしていました。明男と僕ら家族が長谷川君たちの手で崖から突き落とされたイメージです。僕らは全身傷だらけで、明男は死んでいます。崖の上から、司法関係者やマスコミや世間の人々が、僕らを高みの見物です。

彼らは、崖の上の平らで広々としたところから、「痛いだろう。かわいそうに」そう言いながら、長谷川君たちとその家族を突き落とそうとしています。僕も最初は長谷川君たちを自分たちと同じ目に遭わせたいと思っていました。

しかし、ふと気づくと、僕が本当に望んでいることは違うことのようなのです。僕も僕たち家族も、大勢の人が暮らしている崖の上の平らな土地にもう一度上りたい、そう思っていることに気がついたのです。

ところが崖の上にいる人たちは、誰一人として「おーい、ひきあげてやるぞー」とは言ってくれません。代わりに「おまえのいる崖の下に、こいつらも落としてやるからなー。それで気がすむだろう」。

崖の上では、何もなかったように、平和な時が流れているのです。

(原田正治『弟を殺した彼と、僕。』ポプラ社、2004年)




こうして原田は死刑執行停止を願い、死刑廃止運動の団体と行動を共にするようになる。駅前で死刑執行停止を訴えるビラをまく原田らのグループに、通行人が「被害者遺族の気持ちを考えろ」と声を荒げる。「彼はその被害者遺族です」とグループのメンバーが答えると、通行人は気まずそうに走り去る。そんなエピソードもこの本には記述されている。

結局長谷川は処刑される。つまり遺族の願いは聞き入れられなかった。




死刑廃止か存続かはともかくとして、被害者遺族が持つ応報感情に社会全体の治安悪化への不安や恐怖などが重なって、「許せない」や「成敗せよ」のような威勢の良い述語が、今のこの社会に流通していることは確かだと僕は思う。

この述語を口にするとき人は、「俺」や「私」などの一人称単数の主語を失い、「われわれ」や「この社会」、「国家」などの複数代名詞を主語にしている。だから述語が暴走する。正義や善意を燃料にして攻撃的になる。原田たちに声を荒げた通行人のように。死刑も含めた厳罰化待望の世相の背景には、間違いなくそんなメカニズムが働いている。

僕のそんな分析に、郷田(郷田マモラ。「モリのアサガオ」という死刑をテーマにした漫画の作者)は大きくうなずいた。
「そこは僕も同感します。最近では、秋田の連続児童殺害事件の畠山鈴香容疑者とか、悪人に仕立てあげられているような感じがすごくありますね。確かにここ一年くらい、やたら死刑判決が多いんですよ。何かが麻痺しているような感じですね。それは本当に怖いことだと思います」。





(「死刑」/ 森達也・著)


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厳罰を要求する世論は、被害者を支えるものでは決してなく、疎外感をさえ与えているのです。原田さんの持っておられたイメージというのがとてもわかりやすいですよね。厳罰を要求する意見はたいてい、「一人称単数の主語ではなく、個人があやふやにされた複数代名詞で語られる。彼らは正義や善意を燃料にして口撃する」というセンテンスは森さん独自の鋭い表現で、この問題の本質を的確に、かつ簡潔に言い当てているなあ、と感銘を受けました。


殺人事件の加害者は、肴になっている。大衆の閉塞感をガス抜きさせるかっこうの材料になっている。大衆はいつも社会正義や市民としての善意を理由にして感情論を正当化する。マスコミはそんな大衆のエネルギーを見抜いて、エネルギーに点火する働きをする記事を書く。扇情的で感情的なことばで社会面に事件を描く。そうして販売部数を上げる。そうやって新聞や大手オヤジ系週刊誌、大手女性週刊誌が飛ぶように売れてゆく。そして紙面を開くと、全紙面の半分は広告だ。そういう大手広告主、たとえばト○タ自動車が日本で最も多くリコールを出しているというような記事は絶対に書かれない。三菱自動車は書かれたが。書かれるのは犯人がいかに極悪な異常人間かというステレオタイプなイメージの押しつけ。あるいは下手をすると被害者へのバッシング報道だったりする。そして裁判所はそんな世論におもねる。だから被害者家族にも読者からも真の共感を得られない。むしろマスコミは不信感と嫌悪と反感を持たれている。

厳罰を要求する声は確かに大きい。そういうマスコミに感情をあおられているから。現に、死刑を直視しようとしているいくつかのブログでも、そのブログ筆者たちが死刑に疑問を呈すると、辛辣で強硬な反論を浴びています。世間も同じです。世間の意見を焚きつけているのはマスコミです。マスコミの論調も、「人権派」弁護士や死刑廃止運動の人々へは冷たくて強い風を当てます。情緒的な単語が選ばれて、不安を煽り、怒りを焚きつけ、犯罪者を魔物として描きます。とくに少年による事件や未成年者が被害者になる事件、性的な事件、残忍な殺害事件に対してはその傾向が強い。森達也さんの「死刑」には、こんな記述もありました。




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1999年11月22日、(東京都)文京区音羽幼稚園の園庭で若山春奈ちゃん(当時2歳)を拉致した山田みつ子(当時35歳)は、そのあとにマフラーで首を絞めて春奈ちゃんを殺害し、遺体を静岡の実家の庭に埋めたが、夫に説得されて警察に出頭した。


…(中略)…

この音羽事件の被害者である春奈ちゃんの祖父に当たる松村恒夫は、娘(恒夫さんのお孫さん)を殺害された衝撃から立ち直れない娘夫婦に代わり、法廷に欠かさず通い続けた。「あすの会」(正式名称:全国犯罪被害者の会)に入会したのは2001年5月。松村自身は「傷跡を舐めあうような印象があって最初は会への参加をためらっていた」と説明する。

しかし最終的に松村が会に参加した理由は、当事者となって初めて被害者遺族が蔑ろにされている状況を知って驚いたと同時にメディアによる2次3次の報道被害を受けたからだ。

「お受験殺人事件」なる呼称が象徴的だが、メディアは母親同士の嫉妬や仲間はずれなどが事件の要因になったかのような報道を繰り返した。春奈ちゃんの母親のほうにむしろ非があったと受け取れかねないような内容だった。

事件の2年9ヵ月後、松村は光文社の『週刊宝石』と『女性自身』、文芸春秋の『週刊文春』、小学館の『女性セブン』の4週刊誌、それからブックマン社の単行本『お受験事件の深層「なぜ殺したのか」』を提訴した。『週刊宝石』はこの時点で休刊していたが、『女性セブン』、『女性自身』には2003年11月に謝罪文が掲載され、新聞広告にも告知がなされた。ブックマン社の単行本も回収された。

特に話題になったのは『週刊文春』の対応だ。松村の手記を2ページにわたって掲載し(2005年4月28日号)、編集部のクレジットで報道の検証記事も載せ、さらに松村の要望に従い、車内吊り広告にもこの謝罪記事の見出しを大きく載せた。

「基本的には訴訟ではぜんぶ和解、もしくは勝訴ですね」
僕は言った。松村は大きくうなずいた。
「でもね、本当に訴えたかったのはテレビです。ところが録画していないからね、残念ながら(提訴を)あきらめざるをえなかった」

僕も目にしたことがあるけれど、ワイドショーでは二人の母親の共通の友人を名乗る複数の女性が現れて、春奈ちゃんの母親の側に問題があるかのようなコメントが何度も放送された。ここから被害者家族への不当なバッシングが始まる。ならばあの友人は何だったのだろう。
「嘘です。ぜんぶ嘘。幼稚園に緘口令(かんこうれい)が敷かれていたから、困ったマスコミが、ちょっと幼稚園にかよったことがあるとか、そういうお母さんをつかまえて話をつくったんです。その人が推測で話したことを、テレビでは実際にあったかのように取り上げた」

松村によれば、その帰結として全国から手紙が殺到した。内容はほとんどが、「次はオマエの番だ」とか「殺されてよかった」などの文面ばかりだったという。





(「死刑」/ 森達也・著)

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無神経で残忍な手紙を書く人も殺人者に匹敵するくらい低劣だと思いますが、テレビのヤラセにやすやすと乗っかる安易さにも絶望的な気持ちになります。ブロガーに食ってかかる幾つかの反論にも、わたしはこの流れ、このノリにあるひとが多いように感じているのです。それだけではありません。わたしが強く反感を覚えるのは、森さん、郷田さんが真に問題視されておられることです。

「最近では、秋田の連続児童殺害事件の畠山鈴香容疑者とか、悪人に仕立てあげられているような感じがすごくありますね。確かにここ一年くらい、やたら死刑判決が多いんですよ。何かが麻痺しているような感じですね。それは本当に怖いことだと思います」

司法がそういう世論の流れにのっかっているんじゃないかということです。裁判官といえば難関大学を卒業したエリートたちでしょう。なのにこんなにやすやすとヤラセを平気でする、お金の勘定を主に考えるようなマスコミにのせられるものでしょうか。それとも彼らを包摂する大きな意志があって、それにのっかっているということなのでしょうか。



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全体主義では、独裁者が宗教をバックにつけているかどうかにかかわりなく、政府は死刑執行による威嚇効果、しばしば公衆の面前で行われたりテレビ中継されたりする死刑執行の威嚇効果が、唯一、政治的反乱や殺人の増加に対する歯止めになるものだと考えている。


何千年という歴史によって犯罪者を殺しても犯罪はなくならないということが証明されているとしても、こうした支配者にとっては、犯罪者を根本から排除することが、見せしめとして、あるいは威嚇として、依然として価値があることなのである。





(「死刑制度の歴史」/ ジャン・アンベール・著)


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教育基本法が政府権限を強化した形に変えられ、憲法も政府権限を強化した形にかえられようとしている現代日本。それら改変には大勢の国民の賛同すらあるのです。一方、政府は国民の暮らしのための財政支出を抑え、大企業が商売しやすいように規制緩和がすさまじい勢いで進み、いまや自衛隊はアメリカとともに戦場へ出てゆこうとしています。アメリカ軍をそのように活発に動かしているのはアメリカの企業です。日本国民は不安にさいなまれています。その不安は社会保障が削減され、労働が商品として安く買い叩かれ、老後の保障がないことからくる不安なのですが、マスコミのいうことに耳を傾けていると、まるで凶悪犯罪が増加していて、それが不安の大元であるかのように受け取れるのです。

大嘘です。凶悪犯罪は戦後最低レベルにあるのです、今は。国民は死刑執行と厳罰化によって安心を得ようとしている。そのための監視強化を受け入れている。町中に張り巡らされた監視カメラをありがたがっている。共謀罪が成立するようなことがあれば、そのときにこそ通信傍受法とともに、監視カメラは活き活きと活躍することでしょう。わたしたち、だまされているんじゃないでしょうか。わたしたちの不安の原因はそんなところにあるんじゃないのではないでしょうか。

山口県光市の母子殺害事件の被害者遺族の本村洋さんも、マスコミを通して被害者感情を発言されていますが、でも本村さん自身、マスコミには深刻な不振を抱いておられます。本村さんご自身は死刑論議をしているのではない、とおっしゃっておられます。森達也さんの「死刑」からもう少し引用してみましょう。



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私(本村洋さん)は、自分の事件に関しては、被告人に対し死刑が相当であるという考えは揺るぎませんが、他の事件や国家の刑事政策まで考察の範囲を広げたときに、死刑制度の是非について語る資格はないと思っています。


また、私が死刑制度存置のイニシアチブをとっているかのように思われることも、人権派弁護士の方々と対立軸に置かれることも、決して快くは思っていません。私は、刑法の199条に基づいて発言しているだけです。





(「死刑」/ 森達也・著)


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マスコミは、まず売れることを考えます。売れるためには売れるネタを集中的に取り上げます。厳罰化の「イニシアチブ」を積極的に取ろうとしているわけではないのかもしれません。そうだとすれば単にマスコミの知性というものが儲けに曇らされる程度のものでしかないということでしょう。しかし、読売新聞の親分が自民=民主の連合をお膳立てしたというような報道を見るにつけ、ほんとうにそれだけだろうか、なにかもっと大きな意図があるのではないだろうか、と勘ぐってしまうのです、わたしは。

死刑という厳罰のハードルをもっと低くせよ、と主張する人たち。人殺しは社会の安寧に取って重大な挑戦です。でも人殺しは人殺しとして生まれついたわけではないでしょう。わたしたちが、自分では気づかないところで、誰かを追いつめてしまっているのかもしれません。たとえば福祉政策を放棄する自民党に票を入れることで、人間としての最低限の暮らしも奪われる人がいるのかもしれません。極度の貧困は犯罪の温床であることは理解できるでしょう。死刑で威嚇すれば、明日をも知れぬ人たちは威嚇されてシュンとするでしょうか。それとも逆に「どうせなら自爆攻撃だ」というような自暴自棄の行動に出るでしょうか。

犯罪加害者はまずかつては被害者だった、という視点をご紹介しましょう。




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死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ  


山口由美子さん
  西鉄バスジャック事件被害者



西鉄バスジャック事件から4年半が過ぎ、やっと西鉄バスを見ても平常心でいられるようになりました。2000年5月、私はこの事件で亡くなられた塚本達子先生(*)と一緒にバスに乗り、重傷を負いました。

そのころ、ほかにも少年事件が続き、少年法改正に向けての動きが出てきました。 2000年11月、私は参議院法務委員会に招かれ、年齢を下げて罰することには反対という立場で意見を述べました。それまで私は、悪いことをしたら罰せられて当然、そして殺人を犯した人は死刑になって当然と思っていました。そういうことを深く考えもせずにそう思いこんでいたのです。

自分が事件に遭遇し、事件を起こす側の人の気持ちに触れました。ほとんどの加害者は、それまでまわりの人々からの被害者だったということに、バスジャックをした少年を通して気づきました。いろんな人から心を傷つけられ、そのやり場のない気持ちをだれにも理解されずに、ぎりぎりのところで自分の尊厳を守るため、他人に刃物を向ける人がいるのです。

人を殺すということは絶対にゆるされる行為ではありません。でも、そういう状況を考えたとき、死刑や厳罰では何にもならないと思うのは私だけでしょうか。そこに至るまでの生命の軌跡に共に向き合い、人として尊重されて初めて謝罪の心が生まれてくると思います。私たち被害者がいちばん望んでいるのは、加害者の心からの謝罪、そして再び罪を犯してほしくないということです。

もちろん、被害者の中には事件直後、そのつらさのため、極刑を望む人もいます。しかし、事件後にどういう対応がなされたかでその受け止め方が違ってきます。まわりの人から被害者が必要としている援助があり、心からの謝罪がなされたときには、心は癒され、平常心を取り戻していけます。反対に、そのまま放置され、援助も謝罪もない状態では、恨んで極刑を望むしか道はありません。

今、被害者やご遺族の方々の活動のおかげで、少しずつ被害者にも光が当たり始めました。もっともっと被害者側に立って支援をしていくことで、被害者も加害者の気持ちに思いをはせることが可能になると思います。

私は、被害者と加害者を分けて考えるのではなく、同じ船に乗り合わせた運命共同体だと考えます。一つの事件を通して、お互いどう折り合いをつけていくのかが大事なことではないでしょうか。

 


*塚本達子先生
1931年生まれ。小学校教師を29年間務め、その後モンテッソーリ養成コースを受講され幼児室を開設。2000年、バスジャック事件の犠牲となり死亡。著書に『お母さんわが子の成長が見えますか――私の手づくり幼児教育論』(河出書房新社、2000年)がある。約20年前、山口さんは子育てに悩み、お子さんを幼児室に入室させ、その後、子育てや教育をテーマとした交流をもとに、親交を深められました。 
(2004.12.18 up)



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森さんは、「死刑」のなかで、死刑を続けるか止めるか、どちらにせよ論理的必然的論拠を探そうとしておられます。しかし、最後はやはり情緒に立脚する結論を導かれました。死刑を存続させようという立場もやはり、被害者感情という「情緒」であることにたどりついたのです。であれば、森さんはこのように述べられます。

死刑制度維持を主張する人たちは、死刑執行の現場を見ていない、死刑囚をナマで面識していない。せいぜい新聞記事の数行で死刑が執行されたということしか知らない、だが自分は死刑執行の様子を、死刑執行に立ち会った刑務官から生々しく取材して知った、死刑囚という人物にも会って知り合った、その上でこう思う、

「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。僕は彼らを死なせたくない。論理ではないし情緒でもない。水が低きに流れるように、冬が来れば春が来るように、昼食を抜けばお腹がすくように、父や母が子どもをいつくしみ、子どもが父や母を慕うように、

 ぼくは願う。彼らの命を救いたい」







死刑をめぐる、必然性。結局それはなかったのでしょうか。死刑はそれこそ古代からあたりまえのように行われてきました。18世紀、19世紀には使用人が主人のパン一つ盗んだという理由で死刑に処されました。日本でも町人は武士によって切り捨て御免の扱いを受けることも現実にあったのです。

でも今は死刑はそんな理由では執行されません。なぜでしょうか。封建時代には「個人」というものは存在しませんでした。「個人」という考え方は資本主義の発達とともに生み出された概念です。「人権」という概念は個々人の生命の尊厳、個々人の労働による財産の労働者個々人の所有を保証しようとするところから誕生しました。

人権という思想とともに死刑制度も制限されてきました。イタリア人のベッカリーアという哲学者が「犯罪と刑罰」という図書を著し、そこで残虐な刑罰の禁止と死刑の廃止が訴えられていたのでした。

とすれば死刑制度は人権思想の発達とからめて考える、というオーソドックスな手法が案外切り口を与えてくれるかもしれません。

わたしはアイデアとして思っているのですが、死刑制度というのは、わたしたちがどういう社会をつくろうとしているか、わたしたちがどう生きていこうとしているのか、というもっと基本的な部分に根ざしているのではないか、そう直感しています。

死刑制度を廃止しようとするなら、それはおそらく社会の仕組みや生きることについての考え方、社会のあり方についての理念、そういうものから変えていかないとできないことではないかと思うのです。かなり大きなことになりますが、一月ほどしたら、このことについて書いてみたいと思います。





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資料:死刑問題の基礎知識

2008年05月19日 | 一般
今週はブログのための準備が十分にできませんでした。で、資料として、死刑を廃止しようという立場から、死刑の問題点を簡潔にまとめたホームページがありますので、「死刑問題の基礎知識」として転載しておきます。無断転載ですので、クレームが来たらすぐ削除ということになりますが…。

ただ、とてもわかりやすいです。さらに詳しく勉強されたい方は当該ホームページを閲覧なさってください。

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日本には死刑制度があります。日本には処刑場のある拘置所が7ヶ所あります。1993年以降、39名の死刑囚が執行されました。
 
現在、日本には53人の死刑確定囚がいます。(2000年12月31日現在)彼等は家族以外(友人やジャーナリスト等)との交流はできません。家族であっても面会や文通が禁じられることがあります。ほとんどの死刑囚が24時間テレビカメラで監視された独居房に隔離されています。そして執行は当日になってはじめて知らされます。家族だけに、執行があったことが後から伝えられます。
 
このように社会と隔離されて日本の死刑囚は存在し、社会と隔離されて日本の死刑は執行されます。これから紹介することは、日本人でも、関心の高い人しか知らないことかもしれません。



1.死刑判決が確定するまで

【逮捕から裁判まで】

 捜査側は被疑者を逮捕してから、23日以内に起訴・不起訴を決めます。日本には起訴前の国選弁護人制度がありません。それまでは私選で弁護士を選任するしか、法的援助(アドバイス)を受けることは出来ません。

 現在、全国の弁護士会がボランティアで当番弁護士制度を採用し、本人、家族、友人等からの要請があれば24時間以内に弁護士が接見に駆けつけ、1度だけ無料で法的アドバイスをするようになっています。しかし2度目からは私選として選任しなければなりませんし、この制度も知らないまま起訴される人が多いのです。

 日本の裁判では被疑者の「自白」が大きな意味を持ち、客観的証拠より重く評価される傾向にあります。

 一度自白し供述調書に署名すると、後の裁判で否認してもめったに認められません。それゆえに捜査側は23日以内に「自白」させることに全力を傾けます。弁護士の接見を妨害したり、接見時間を15分程度しか与えないなどして、被疑者を孤立化させます。また弁護士との手紙も、すべて検閲されています。

 日本の監獄法では被疑者は拘置所に勾留されることになっています。ただ、警察の留置場を代用してもよいという規定があるため、通常は留置場に勾留し取り調べが行われています。この代用監獄[daiyo-kangoku]は、毎日10時間以上の取り調べを可能にし、被疑者を疲弊させ不利な自白を引き出す大きな武器になっています。

 日本のマスメディアにも問題があります。報道に際して「無罪推定の原則」はなく、警察が被疑者を逮捕すると、裁判を待たずに真犯人と断定する記事を、大量に報道します。取り調べで悪意に満ちた新聞記事を見せ、被疑者の心をかき乱させることもあります。

 逮捕された人は、十分な法的援助もなく、長時間の取り調べとたった1人で立ち向かわねばなりません。「黙秘権」は告知されますが、黙秘する者は警察官・検察官によって厳しく非難され、保釈が許可されないなどの様々な不利益を受けます。日本の「黙秘権」は形骸化しています。多くの被疑者は苦しさから逃れようと、警察の言いなりの供述調書作成に応じていきます。殺すつもりはなかった(傷害致死)のに、殺意があった(殺人)ことにされたり、突発的に殺してしまったのに以前から計画していたことにされるなど、不利な自白が作られていくのです。

 そのため日本では起訴されると99.8%に有罪判決が下されています。


【裁判】

 日本の刑事裁判では、法廷での証言よりも捜査段階での調書の方が重視されています。そのため法廷で事実関係を争わずひたすら情状酌量を求めるケースが少なくありません。多くの死刑事件で、1年程度で死刑判決が出されています。

 日本には死刑判決に対して「必要的上訴制度」がないため、被告人が控訴せず、一審で死刑を確定させてしまうこともあります。

 被疑者が起訴され、弁護士を依頼する資力が乏しいなどの場合、裁判所の命令により国選弁護人が選任され弁護にあたります。しかし、被告人には国選弁護人を選任したり、解任したりする権利すらありません。国選弁護人は一審、二審、三審それぞれで選任されることになっているため、裁判終了から次の国選弁護人が選任されるまで、被告人は弁護士なしで過ごさねばなりません。判決が出ると、担当した国選弁護人が上訴手続きをとることが出来ますが、弁護士不在の空白期間に被告人が上訴を取り下げ、死刑が確定してしまうこともあります。

 一方、検察官は死刑を求刑しながら死刑以外の判決が言い渡された場合でも、上訴することが出来ます。1997年から98年にかけて、控訴審で無期懲役が言い渡された事案5件に対し、検察は最高裁に上告しました。

 政府は「我が国は三審制を採用し、慎重な審理を経て死刑判決を言い渡している」と、裁判の公正さを公言していますが、最高裁判所は事実審理を行わないので、日本の裁判は実質二審制といえます。上告審で弁護側は「死刑は残虐な刑罰を禁止した日本国憲法36条に違反する」と主張するのが常ですが、最高裁は一貫して「残虐ではない」として、見直しを行おうともしていません。




2.裁判中の被告人の処遇

【居房】

 被告人は拘置所に勾留されます。死刑事件の被告人には保釈は一切認められません。

 独居房は床面積は約5平方メートルですが、流し台、便器などがとりつけられているほか、寝具、机、房内所持品が置かれているので、動ける空間はごくわずかで、しかも拘置所の規則により室内を自由に動くことも許されません。

 ほとんどの拘置所で暖房設備は使われておらず、冬は「しもやけ」に悩まされます。冷房設備はどこの拘置所にもありません。夏は「あせも」との闘いが続きます。

 死刑が予想されるような事件の被告人は、「自殺を防止する」という理由で、いっそう厳しい管理のもとにおかれます。24時間テレビカメラで監視されます。そのため、就寝中も明りがついています。窓と鉄格子の間は、穴のあいた遮蔽板で塞がれています。この「自殺防止房」の通風性は一般房の約200分の1、採光性は約3.5分の1です。


【外部との交流】

 未決の間は面会は誰とでも出来ますが、ほとんどの場合1日1回(3人程度までいっしょに会える)です。その面会時間も10~30分で、遮蔽板ごしです。面会には看守が立ち会い、会話の内容が記録されます。被収容者が使用できる電話はありません。

 ジャーナリストと取材目的で面会することは認められません。

 手紙も誰にでも出せますが、原則1日1通、便箋7枚までと制限があります。受信に制限はありません。発信、受信とも検閲されます。適切でないと判断された内容は書き直しを要求されたり、黒く塗りつぶされたりします(墨塗り)。差し入れられた書籍も、内容によっては不適切とされ、黒く塗りつぶされることがあります。

 さらに問題なのは「接見禁止措置」です。裁判所は逃亡、罪証隠滅のおそれがあると判断した場合、弁護人以外との接見を禁止することが出来るのです。この措置を受けると、長期間家族、友人と面会もできない孤独な環境で、裁判を闘わねばならなくなります。

 被収容者が所持できる物品の総量も規制されています。房内所持品も規制され、長期間裁判で争っている被告人の裁判資料所持も規制の対象とされ、十分な公判準備ができなくされています。


【生活】

 刑が確定する前から、起床から就寝に至るまで、拘置所のタイムスケジュールに沿って生活しなければなりません。被収容者は、不自然なタイム・スケジュールを強要される上、裁判の準備に十分な時間も確保できません。


平日の日課表

  起  床  7:00
  点  検  7:30
  朝  食  7:40
  昼  食 11:50
  夕  食 16:20
  点  検 16:50
  就  寝 21:00



【食事】

 食事は3食支給されます。味、量の評価は個人差がありまちまちですが、生野菜が出されないためビタミン類が不足しています。自費で果物などを購入し補うこともできますが、お金のない人はそれもできません。9時間で3食を食べねばならないスケジュールは、収容者の人権を配慮しているとは言えません。


【運動・医療】

 房外の運動は、夏は週2回、冬は週3回で、30分程度できます。死刑囚のような独房収容者は、運動も独りです。運動場は2メートルかける5メートル程度の広さのコンクリート製のベランダや屋上で行われ、上部から監視されます。運動用具は、縄跳び用のロープが貸与されるのみです。

 入浴は、運動した日を除く夏週3回、冬週2回で、衣類の脱着を含めて入浴時間は15分程度です。独房収容者は入浴も独りです。

 面会、運動、入浴以外は独房で座って過ごします。

 希望する者には、室内で座ったままできる軽作業(請願作業)が許可されます。最高で月4~5千円の収入が得られますが、近年は厳しく制限されるようになりました。

 運動不足、ビタミン不足、医療体制の不備などから、長期間勾留されると身体のあちこちに障害がでます。腰痛、虫歯、歯槽膿漏、視力減退、拘禁ノイローゼなどがよく見られる症状です。




3.確定後の処遇=死刑囚処遇

 裁判で死刑が確定した死刑囚は、処刑場が併設された拘置所の独房に勾留されます。居房や運動・入浴、医療などは確定前と同様です。


【判決確定後の外部交通】

 死刑判決が確定すると外部との交流はさらに著しく制限されます。監獄法9条では死刑囚の処遇は未決囚に準じるとされているのですが、国はこの規定を守っていません。

 面会や文通は原則として親族に限られます。事件を起こして配偶者と離婚したり、親兄弟や子供と絶縁状態になるケースがしばしばあります。だから面会をしてくれる親族もいない人が多いのです。裁判中に知り合った支援者が養子縁組をして親族となっても、判決確定後は拘置所はなかなか面会や文通を認めません。

 当局は、死刑囚から生きる希望を奪い、死刑を受け入れる心境にさせるため「心情の安定を図る」という名目で、死刑確定囚の外部交通を認めないのです。

 死刑確定囚との面会については、国内外のNGO団体、国会議員等も求めてきましたが認められていません。

 2001年3月、ヨーロッパ評議会人権委員長のヤンソン(JANSSON)氏が日本の死刑制度の調査に来日した際、東京拘置所に赴き、家族からの依頼を受け、死刑囚との面会を希望しましたがそれも認められませんでした。

 処刑の日まで、外の誰とも話すことがないまま執行されていく死刑囚もいるのです。

 死刑囚が希望すれば、看守の立ち会いのもと、月1回程度、教誨師との面談が認められます。教誨師は執行の日も立ち合いますが、中での様子については秘密を厳守しなければなりません。

 再審請求の代理人になった弁護人との面会、手紙の発受は認められています。

 しかし、面会には看守の立ち会いがつくため、秘密の保持が出来ません。確定してから再審弁護人を依頼しようとした死刑囚と弁護士の面会が不許可とされたこともあります。

 差入れも再審弁護人や親族に限られます。


【確定後の生活】

 希望すれば、確定後も房内での軽作業が出来、わずかながら賞与金を得ることが出来ます。

 医療体制の不備は変わりません。面会等外部交通が厳しく制限されるため、症状が悪化するケースがあります。網膜症を放置され失明、脳腫瘍の治療が不十分なため歩行が困難、話す機会がほとんどないため失語症状態、そして拘禁ノイローゼから精神障害を引き起こしている死刑囚もいます。そうなっても病院に移送することはめったにありません。




4.死刑囚の防御権

【再審請求】

 日本では再審が認められるのは困難です。例外的なケースとして、80年代に4人の死刑囚が相次いで再審で無罪になりました。4人は、拷問による取り調べで自白させられていました。無罪獲得まで28年~34年の歳月を要しました。最初に無罪となった免田栄は、「70人くらいの死刑囚を見送ったが、無実を訴える死刑囚5人ほどいた」と語っています。

 2000年12月末段階で、死刑囚は53人います。うち25人が無実あるいは一部の事件についての無実を訴え、再審請求をしています。他に8人の死刑囚が裁判で無実を訴えていました。

 しかし4人の死刑囚が再審で無罪になった後、死刑囚の再審は認められていません。多くのジャーナリストが「冤罪」と断定する事件でも、再審の門は開かれません。逮捕から40年、死刑が確定してから30年が経過した死刑囚もいます。

 1999年12月に2人が執行されました。1人は無実を訴え第8次の再審請求中、もう1人は人身保護請求中の死刑囚でした。数少ない防御手段を講じていた死刑囚を処刑したのです。国の言い分は、「再審請求、人身保護請求は執行停止事由にならない。同一主旨の再審請求は執行を逃れるためで、法の正義を守るために執行もあり得る」というものです。無実を訴える死刑囚が、「自分は殺していない」と同じことを主張するのは当然です。20年前生還した4人もそう主張していたのです。


【恩赦請求】

 恩赦は、本人あるいは代理人の弁護士が請求出来ます。しかし、1975年以降、死刑囚が恩赦で減刑された事例はありません。

 恩赦の審査結果は口頭で本人に告知されます。代理人の弁護士には伝えられません。結果に対する異議申立はできません。

 95年12月には、恩赦請求却下を口頭で告知された死刑囚が、何の防御手段を講じることもできないまま、直後に刑場に連れ出され執行されています。




5.死刑執行

 日本では1989年11月~93年3月までの3年余りの間、死刑執行がありませんでした。

 1989年12月に「死刑廃止国際条約」が国連で採択されており、わたしたちはこのまま廃止されるのではないかと期待を抱いていました。しかし、1993年3月、死刑執行は再開されました。


【法的手順】

 死刑以外の裁判の執行は検察官が行いますが、死刑の執行は法務大臣の命令による、とされています(刑事訴訟法475条)。上記の3年余りの間死刑の執行がなかったのは当時の法務大臣が信条に基づき命令を出さなかったことも大きい理由です。しかし、最近の法務大臣は「裁判で確定した刑を執行しないのは法務大臣ではない」と、次々に執行命令を出しています。

 法律では、死刑の執行は命令から5日以内にする(刑事訴訟法476条)とあるだけで、執行の方法、場所、執行官などの明文規定が存在しません。法律の裏付けのない執行が行われています。

 執行される死刑囚も恣意的に選び出されます。高齢者や精神障害者、犯行当時少年だった者にも死刑が執行されています。

 ここ6、7年間、死刑執行は国会の閉会中に行われています。94年に「死刑廃止を推進する議員連盟」が設立され活動を始めましたが、閉会中の執行では法務大臣に国会で説明を求めることもできません。日本の法務大臣は7、8ヶ月で交代しています。法務省は執行命令を出さない法務大臣を作らないために、必ず一度は命令書に判を捺させようとします。死刑囚の状態とは無縁に、年に1、2度の恣意的なタイミングでの執行が繰り返されているのです。


【執行手順】

◇執行まで

 死刑執行は事前に本人、家族、弁護士等に伝えられることはありません。執行の日の朝、死刑囚は突然呼び出され、「これから死刑を執行する」と告げられ、刑場に連れ去られるのです。家族と最期の別れをすることも許されないのです。

 弁護士を呼ぶことも出来ず、法的援助を受ける機会は与えられません。

 執行の事前告知がされないことは、死刑囚の精神状態を不安定にしています。現在、確定から6、7年で執行されています。確定から6、7年を迎えた死刑囚は、いつ執行されるか毎日怯えて暮らさねばなりません。再審請求中の執行もあります。恩赦を請求していても、却下の告知と同時に執行を告げられることがあります。

 朝、舎房の前で看守が立ち止まったときが最期なのです。しかし、今朝看守が立ち止まらなくても明日の朝は分かりません。わずか24時間の猶予を与えられただけです。こうした生活が執行の日まで続くのです。


◇死刑執行

 処刑場では、拘置所が準備したいくつかのセレモニーが執り行われます。数分間、遺書を書く時間が与えられ、教誨師と最期の別れをします。そして、後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされ、床板がふたつに割れる処刑台に立たされます。暴れて身体に傷がつかないよう膝を縛られ、同時に首に処刑ロープがかけられます。

 合図とともに床板が開き、死刑囚は落下します。あらかじめ死刑囚の身長にあわせてロープの長さは調節されており、地上15センチの中空に吊り下げられたまま、絶命するまで痙攣し続けます。

 地下には医師が待機し、脈を取り、心音を聞きます。絶命するまで15~20分かかるといわれています。

 執行終了後、家族に連絡がされます。24時間以内に申し出れば遺体を引き取ることが出来ます。93年3月の執行再開後39名が執行されましたが、遺体が引き取れたのは2名だけです。97年8月に執行された永山則夫の遺体は、弁護士が引き取りを希望していましたが、拘置所側が荼毘に付し遺骨で返還されました。抵抗の跡が身体に残っていたためと推測されています。

 遺品は遺族に返還されますが、確定後につけていた「日記類」は戻されません。また日記以外に返還されない品物があっても確認が出来ません。




6.日本の死刑

【執行数】

過去20年間の死刑執行数は以下の通りです。

1981    1
1982    1
1983    1
1984    1
1985    3
1986    2
1987    2
1988    2
1989    1
1990    0
1991    0
1992    0
1993    7
1994    2
1995    6
1996    6
1997    4
1998    6
1999    5
2000    3


 執行停止前の8年間で13名だった執行が、再開後の8年間で39名と3倍にも増加しています。


【国民世論】

 政府は国民世論の大半が死刑を支持していると公言しますが、これはトリックです。1999年に政府が実施した世論調査で、「死刑もやむを得ない」という回答が79.3%あったことは事実です。でも、質問に仕掛けがあるのです。

 「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」という質問に対して、選択肢は、

「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」
「場合によっては死刑もやむを得ない」
「わからない、一概に言えない」
の3つです。こう聞かれれば、「やむを得ない」を選択する人が多くなるのは当然です。日本では死刑囚は厳重に隔離され、世間の目から隠され、執行も秘密裏に行われています。国民は死刑について十分な情報が与えられていないのです。

 しかし世論調査も捨てたものではありません。死刑容認の回答者に、死刑制度を将来はどうするかというサブクエスチョンをしています。その回答は、

「将来も存続」 56.5%
「条件が整えば廃止」 37.8%
「わからない」 5.7%
でした。あくまでも死刑が必要と考える日本人は、容認派の5割強しかいないのです。全体の比率に直せば、44.8%。過半数にも達していません。

 日本政府は、この結果を重視し、国連の勧告に従って、死刑廃止に向けた政策を採るべきなのです。




7.最後に

日本は残虐な死刑制度を維持し、毎年複数の死刑囚を執行しています。

 93年、98年に国連規約人権委員会が日本政府に死刑廃止を勧告しましたが、日本政府はこれらを無視して死刑を執行しています。さらに日本政府は、国際社会において死刑制度を維持する他国に働きかけて死刑廃止に反対するよう影響力を行使し、国連人権委員会における2度の死刑廃止決議にも反対するなど、死刑を廃止しようとする国際的潮流に敵対しています。

 日本から死刑がなくなるよう私たちの活動をサポートしてください。
 日本政府に死刑廃止を訴え、
 日本政府の死刑執行に抗議の声を上げてください。



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このホームページから転載しました。
「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」
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本村洋さんの葛藤/5月13日付毎日新聞 「記者の目」 &5月16日付社説

2008年05月13日 | 一般
本村洋さんからのメールで思う



◇「3人の命」を生かすために--判決の意味、探究したい◇

 山口県光市の母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)を4年間、取材してきた。広島高裁は差し戻し控訴審で4月、被告の元少年(27)に死刑を言い渡したが、本村さんが記者会見などでずっと語り続けてきたように、私も今回の判決を社会に生かさなければならないと思っている。広島支局の大沢瑞季(みずき)記者は4月29日の本欄(*)で、「自分が裁判員だったら」という視点で事件を見つめた。私は、本村さんから判決後に受け取ったメールの一部を紹介し、この判決をどう受け止めるべきなのか考えてみた。



 事件から9年間、本村さんはメディアの前で発言を続けた。山口地裁の1審当時は、無期懲役判決に「司法に絶望した」と話し、応報感情が激しい言葉になった。しかし、今回の判決直前の4月19日の会見では、改めて死刑判決を求めながら、「裁判の『正義』を信じ、(死刑でも無期懲役でも)それを真実と思って生きていく」と語った。私はその言葉に、死刑を求める遺族としての葛藤(かっとう)を感じた。

 判決後に2回、本村さんとメールを交換し、発言の真意を尋ねてみた。裁判を巡る報道を振り返った時、本村さんに関しては「物言う遺族」の発言を伝えることだけに終始していなかったか、という思いがあったからだ。



 本村さんは私への返信で「どれだけ思考しても、やはり『死刑が相当』だという結論になります」「命で償うべきだという私の『正義感』は満たされたし、判決に納得しましたし、司法を信頼することもできました」と書く一方で、「今後、この裁判が厳罰化の起点と認知された時、死刑を求める発言をした遺族として責任をどう負っていくべきか……」とつづっていた



 本村さんは判決後の会見で、失った妻子を思い涙を浮かべながら、「死刑判決は決して喜ばしいことではない」と語っている。そして(妻子と死刑判決を受けた被告の)3人の命を思いながら、「こんな残酷な判決が出ないようにするにはどうしたらいいのか。犯罪抑止の方法を、教育のあり方を考えないと」と訴えた。自らに向き合う「遺族の責任」からの言葉だった。



 私は判決前、元少年がどうして事件を起こしたのか、事件までの18歳と30日の生い立ちをたどってみた。母の自殺と父の体罰。複雑な家庭環境を抱えた元少年を、学校の先生たちは必死で支え続けたという。「怠学したり家出したり。かまってほしかったのだろう。私たちは何をすべきだったのか」。当時の担任教諭たちは今も悩み続けていた。

 取材するうち、裁判への疑問も感じた。事件直後に成育歴を調べた山口家裁の調査官が、担任や同級生には数人としか接触していなかったからだ。当時の心理状況を解明する重要な資料となる家裁の少年記録には、小中高の担任らが記した照会書が7枚添付されている。「学級の人気者」「思いやりがある」。そんな評価はあるが、窃盗や痴漢には詳しく触れられていない。しかし、そうした行為の中に、彼が抱える課題が見えはしないだろうか。

 「不安や怒りを言葉にできず問題行動に出るのもサインの一つだ」。福岡市こども総合相談センターの藤林武史所長(精神科医)は非行少年の特徴を説明する。元少年は1、2審まで一度も遺族に反省の手紙を書けなかった。藤林所長は「なぜ家出したのか、なぜ盗んだのか、自分の気持ちが『分からない』ことが課題。感情を伝える言葉を育てる作業こそ、非行少年が罪と向き合う第一歩ではないか」と指摘する。事件の背景に何があったのか、司法の場で解明に至らなかったことがある気がする。



 私は昨年11月7日、「広島拘置所の君へ」と題して本欄でこの事件を取り上げ、元少年が小学生の時に父の暴力から母を守ろうと何度も止めに入ったという供述を紹介した。加害少年にも「心」があることを伝えたかったからだ。その後、福岡県の専門学校生から「裁判は罰を与えるのが目的ではなく、被害者と加害者がどう生きていくかを考える場だと知った」という感想を受け取った。



 この記事が紙面化された5日後、私の長男が誕生した。12日で6カ月になった。本村さんの長女夕夏(ゆうか)ちゃんは事件当時、生後11カ月だった。長男はやがて夕夏ちゃんが生きた時間を超えていくだろう。元少年は今回の判決を受け、即日上告した。最高裁は06年、無期懲役判決を破棄して審理を高裁に差し戻しており、上告棄却の公算が大きいという。しかし、私は今後も、事件の意味を探し続けたい。「3人」の命のために。(周南支局)




毎日新聞 2008年5月13日 0時19分







(*)
光市の母子殺人・私が裁判員なら=大沢瑞季(広島支局)
 
◇大沢瑞季(みずき)
 


◇心読めず「明快論理」出せず--死刑判決後、続く自問

 99年に山口県光市であった母子殺人事件で、広島高裁が22日、被告の元少年(27)に死刑判決を言い渡した。差し戻し控訴審を07年5月の初公判から12回すべて傍聴し、広島拘置所で元少年に面会もした。この間、「自分が裁判員だったらどんな判決を出すだろう」という思いが頭を離れなかった。判決を聞いた後も、自問は続いている。

 元少年に会ったのは今年4月上旬、広島拘置所の接見室だった。彼は透明なプラスチックの板越しに愛想のいい笑顔を見せた。

 「被告人会見はできないので、自分を伝えるためにできるだけマスコミの方と会う」と言い、「何の恨みもない人を殺してしまったわけで、自己嫌悪というか自分を許せない気持ちがずっとあった。だから、自分が嫌で死にたいと思ったことはあったが、今は違います」と話した。椅子に真っすぐに座り、視線をそらさず、慎重に言葉を選んで語った。

 その言葉は生きて罪を償う、という意味で、事件と向き合い始めていると感じたが、一方で、元少年は弁護団が依頼した精神鑑定人に、死刑になった時は「(死後の世界で)先に(被害者の)弥生さんに会えば夫になる可能性がある」と言っている。事件の重大性を感じているのか、理解しきれない面も多かった。

 家裁の記録には、元少年は父親の体罰や、中学1年で実母が自殺して孤独感を深めたとある。18歳と30日で本村弥生さん(当時23歳)と長女夕夏(ゆうか)ちゃん(同11カ月)を殺害し、4日後に逮捕され、2審以降、家族も面会に来なくなった。このころから精神薬を投与され、接見では舌が回らないこともあり、法廷でも被告人質問にたどたどしい口調で答えていたという。

 しかし、差し戻し審では冗舌ともいえる語り口だった。「最高裁の判決以降、支援者の人が面会に来てくれるようになり、人に対する思いやりを持てるようになった」と変化の理由を法廷で説明した。遺族への謝罪の言葉も述べた。だが、弁護団は「復活の儀式」など理解しにくい主張を続けた。「なぜ突然、供述を変えたのか」。それも知りたかった。

 判決は「親代わりとまで述べた2審の弁護人とは、計296回も面会しているのに、新供述で述べるような話をしてないのは不自然」と主張をすべて退け、「死刑を免れようと虚偽の弁解を弄(ろう)した」ために「改善更生の可能性を大きく減殺した」と断じた。

 元少年は法廷で椅子から立ち上がり、ひざまずき、身ぶり手ぶりを交えて事件当時の様子を説明したが、弥生さんの首を絞めた手について「感触も覚えていない」と話した。判決は、こうした点も「不自然」と判断した。

 確かに、新供述は合理的でない部分が多かったように思う。だが、私は判決のようにすべてを「虚偽の弁解」と言い切る自信はない。元少年の本当の姿が見えないため、その言葉にもいくらかの真実があるように思えてしかたないからだ。

 これまでの死刑判決は、83年に最高裁が示した「永山基準」が基になった。動機や社会への影響などの9項目を検討するものだが、その中でも殺害した人数(結果の重大性)が重視されてきた。来年5月から裁判員制度が導入されるため、当時18歳の元少年に死刑が求刑された今回の事件は、死刑の適用基準という点からも判決が注目された。

 国学院大の沢登(さわのぼり)俊雄名誉教授(刑事法)は判決について「被害者数ではなく、残虐性や社会影響を重くみた。一方、これまで重視してきた更生可能性を低くみたもので、厳罰化への流れは感じる」と話している。

 取材を通じ、私は元少年の本当の思いがどこにあるのか、とらえることができなかった。「被告人を死刑に処する」。裁判長の声が響く法廷で、元少年は最後に天井を見上げた。私は傍聴席で「(元少年は)今、何を考えているのだろう」と思いながら、判決文の朗読を聞いた。

 仮に今回の事件が裁判員制度で裁かれたとしたら、どうだっただろうか。結果の重大性を重視する人もいれば、当時の被告の年齢を重くみる人もいたかもしれない。

 判決後の会見で、遺族の本村洋さん(32)は「判例にとらわれず、個別の事案を審査し、世情に合った判決を出す風土が日本の司法に生まれてほしい」と話した。裁判員制度が始まれば、私たちも人を裁く重責を担うことになる。量刑基準などについて、幅広い議論が求められている。




毎日新聞 2008年4月29日 東京朝刊







終身刑創設案 死刑問題も考える契機に


 刑法に終身刑を創設することなどを目指す「量刑制度を考える超党派の会」が15日、6与野党の衆参両院議員約100人の参加を得て旗揚げした。年内にも刑法改正案を取りまとめる方針という。1年後に迫る裁判員制度のスタートを前に、刑罰のあり方を問い直す、またとない機会となりそうだ。法案の行方を注視するとともに、国会からの問題提起を市民も真摯(しんし)に受け止め、論議の輪を広げたい。

 現行法で死刑に次いで重い刑は無期懲役刑だが、法律上は10年以上経過すれば仮釈放が認められるため、極刑とのギャップが問題視されてきた。会が発足に至ったのもギャップを埋める刑が必要との共通認識があればこそだが、市民感情としても終身刑は比較的是認しやすい刑と言えそうだ。国会では山口県光市で起きた母子殺害事件の死刑判決の後、終身刑の必要論が勢いづいたという。

 死刑制度の存廃を議論の対象としないことを申し合わせたため、幅広い賛同者が集まったことも特筆に値する。死刑判決の急増への懸念を募らせる死刑廃止派の議員と、死刑に次ぐ厳刑として仮釈放のない無期懲役刑の導入を求める死刑存置派が、呉越同舟の形で結びついた。成案までには紆余(うよ)曲折が予想されるが、厳罰化を危ぶむ声も聞かれる折、立法府で刑罰を問い直す動きが生まれたことは好ましい。

 終身刑は死刑に代わって多用されるのか、死刑とは別に厳刑として採用され、厳罰化を加速させるのか、といった問題をはじめ、不確定な要素は少なくない。裁判員裁判では死刑以外の選択肢が広がる分、裁判員の精神的負担を軽減させるといわれる一方、評議が複雑化するとの指摘もある。諸外国の制度も参考に、是非を慎重に検討すべきだ。

 刑務官らが「一生出所できないと絶望した受刑者の処遇は、死刑囚以上に難しい」と、終身刑の導入に反対してきた経緯も考慮されねばならない。最近は無期懲役刑でも二十数年たたないと仮釈放にならず、死刑求刑事件の受刑者は35年以上も服役するようになっているのが実情だ。すでに終身刑化が始まっているとの見方もできるが、終身刑が法制化されるとなれば受刑者の処遇上の対策が欠かせない。恩赦などを活用し、刑務所内のトラブルを回避する工夫も求められる。

 論議の対象外にされたとはいえ、注目すべきは死刑制度をめぐる世論の行方だ。各種の世論調査で8割前後が死刑の存置を認めているのは、死刑か無期懲役刑かの二者択一を迫られた影響との分析もある。終身刑の創設を前提とすれば、調査結果に変化が生じる可能性は大だ。世界の潮流が死刑廃止に向かっている折だけに、終身刑の是非を通じて死刑問題にも向き合い、刑罰体系の将来像を描きたいものだ。




毎日新聞 2008年5月16日 0時05分

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中国ナショナリズム幻想

2008年05月12日 | 一般
聖火ランナーをとりまく青いコスチュームの中国人警護団、中国国旗を大量に振りかざす外国居留中国人たち。かなり違和感を覚えたのはわたしだけではないはずです。偏狭なナショナリズムに走ったのが、民主主義諸国に滞在し、国内に留まり続ける大方の中国人よりはずっと見識が広くなっているはずの外国居留中国人たちでした。

彼らまでがなぜ、あのように熱狂的になったのでしょうか。やはり、中国共産党によるマインド・コントロール的な教育が彼らをしてあのような行動に走らせるのでしょうか。とくに日本へのバッシングはここ数年、過激になっているようにわたしには思えます。中国人のナショナリズムはどのように作り出されたのか、を考察した一文をご紹介します。


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2003年秋、陝西省(せんせいしょう)西安で日本人留学生の「下品な踊り」に端を発した反日暴動事件が起きています。

同年10月29日夜、西安・西北大学外語学院の文化祭で、日本人男子留学生がTシャツに赤いブラジャーをつけ、腰をくねらせて踊ったというものです。

この踊りに対し、学生の間から「中国人を侮辱するものだ」という抗議が起き、翌日に西安市内で学生のデモが始まり、どんどん拡大しました。ついには7千人が参加する大規模な抗議行動になりました。

おりしもこの年、日本企業による広東省珠海(しゅかい)での集団売春疑惑が発覚し、また黒龍省チチハルで旧日本軍の遺棄した化学兵器により死傷者が出るなど、日本がらみの事件が相次いでいました。

いくつもの事件、歴史的背景、政府の姿勢、教育、文化、国際事情などがそろって反日感情をあおりたてる方向に働き、その中で西安「下品な踊り」事件は起きました。デモは11月1日の夜まで断続的に続き、学生は「日本製品排斥」といった標語を掲げ「日本の犬、豚は出て行け」などと叫びながら、日の丸を焼いたりしました。

デモ隊はまた、外国人留学生寮に押しかけました。「日本人はいないか」と叫びながら部屋を荒らし回り、日本人を見つけ次第なぐるけるの暴行を加え、女子学生にまで暴力を振るいました。日本料理店の窓ガラスを割り、日系の電気機器メーカーの事務所も襲いました。

デモ隊は警官にもレンガや棒切れを投げつけ、警察の車をひっくり返しました。このため西安の公安当局は、労働者ら52人を拘束しています。この事件によって、デモには政府に不満を抱く労働者が参加していたことがわかりました。単純な反日デモではなく、背景に中国社会の抱える矛盾が潜んでいることもわかったのです。日頃から国民の反日感情だけでなく、政府への不満が暴発寸前の状態にあることがうかがえたのでした。



(「中国のいまがわかる本」/ 上村幸治・著)

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中国国民の反日感情をあおる影響力のうち、「政府の姿勢」があげられています。これはひとことでいうと、政治・社会については、中国共産党政府は民主化には一切応じない、という姿勢です。

天安門事件が起きたころは、ソ連は自由化路線に方向転換し、数年後にはソビエト共産党政権事態が崩壊しました。東欧諸国でも共産党支配が終わりを告げてゆきました。今や中国は共産党による強権独裁を以前継続する唯一の大国として孤立するようになります。国民のほうもソ連の崩壊によって動揺し、民主化への要求が高まります。この危機を乗り切るのに、当時の最高指導者であった小平(とうしょうへい)は経済に競争原理を導入するという冒険に出ました。しかし政治はあくまで共産主義独裁を継続する、というのです。当然、経済が市場経済に移行すると、国民の側が共産党への支持から離れるようになります。共産主義というのは市場経済の否定に特徴があるのですから、マルクス主義への疑いと幻滅を感じるようになるのも当然です。

もはや共産主義は国民を統合する力を急速に失ってゆきます。そこで当時国家主席だった江沢民は、「愛国主義教育」を導入し、強力にプッシュするようになります。1994年に、「愛国主義教育実施要綱」を発表し、全国の学校で展開させたのです。この教育は民族主義を高揚させる性質のものでしたが、中国共産党には批判の矛先を向けさせず、外国の排撃をねらった教育で、危険な思想でした。

この政策の下で、以前なら政府から弾圧されていた出版・表現の自由もあるていど解禁されるようにされたのです。



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たとえば95年に、中国の知識人が「ノーと言える中国」という本を出版しました。この本は米国と日本を一方的に指弾するもので、中国の外交政策から大きく離れたものでした。

通常、中国共産党は政府の見解からはずれた本の出版を認めません。にもかかわらず、こうした書物を放任しました。それはおそらく中国政府自身が、こうした動きを利用しようと考えたからです。愛国主義教育に有利になると考えたのだと思われます。


(上掲書より)

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そのほか、インターネットの言論を巧みにコントロールする工作も行います。中国共産党機関紙自ら、「強国論壇」というサイトを開設し、「人々の怒りを表現する場(上掲書)」を提供しました。インターネットを活用している私たち日本人も知っているように、インターネット上ではひたすら感情が野蛮な暴走を行います。ネトウヨさんやサヨクさんの書き込みなどをちょっとでも見たことのある方々なら理解できるでしょう。こうした工作が国民の感情を焚きつけ、煽るのに一役買っているのです。

しかもいまや共産党も制御できないくらいインターネットは暴走しており、そこでの感情暴走をコントロール不能の状態に至っているようなのです、2008年の今では。ところが上記引用文からわかるとおり、国民の感情を暴走させるエネルギーは単に排外主義だけではなく、政府への不満が大きなウエイトを占めていることが明らかにうかがえるのです。インターネットは中国にとって国民の不満に火をつける諸刃の剣となった様相です。

また、共産党の教育政策は愛国を標榜する反日活動団体を容認することも行いました。「中国民間保釣(ほちょう:尖閣諸島防衛、の意)連合会」です。彼らは職業的な反日活動団体で、尖閣諸島は中国領だと叫んで回る団体です。日本でいえば黒塗りの街宣車を駆使する右翼団体、というところでしょうか。



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しかし、過去にさかのぼると、こうした活動家たちも当初は政府の弾圧を受けてきました。中国民間保釣連合会の会長、童増(どうぞう)氏は、1990年代初頭に対日民間賠償請求運動を始めたときは、当局にしばしば拘束されました。童増氏は勤務先の中国老齢科学研究センターを事実上の解雇に追い込まれています。

90年代半ばに尖閣問題にも取り組むようになり、96年に同連合会の設立を宣言しましたが、中国メディアからは無視されていました。もっとも、このころから、彼らをとりまく環境が変わり始めたのです。

童増氏らの活動は次第に政府から容認されるようになり、同氏が2003年12月に中国民間保釣連合会の設立を改めて宣言すると、当局はもはや弾圧しなくなりました。それどころか、北京紙「新京報」が童増氏のインタビュー記事を掲載したり、「中国青年報」が連合会の成立を紹介しました。これによって、連合会は事実上公認され、前後して活動家による愛国デモも黙認されるようになったのです。

中国では通常、政府や共産党の許可を得た団体しか承認されませんし、活動もできません。デモだって禁じられています。中国の警察はふつう、住民が少しでも集まったら、すぐに解散させます。しかし、この団体だけは違う扱いを受けています。定期的に北京の日本大使館前で抗議行動を展開することが認められています。それどころか、警察自らが周囲の道路を封鎖して車を締め出し、大使館の前の通りを小さな広場にした上で、この活動家たちを招きいれるのです。


(同上書より)

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明らかに中国共産党は反日感情を巧みに利用しています。共産党の求心力を維持するため、天安門の恐怖(政府にとっての恐怖)を繰り返さないために。「下品な踊り」事件では労働者による暴動化の傾向が見られた以上、民衆の暴発を起こさせないため、適度に「ガス抜き」をさせながら、しかも決定的な反政府運動に発展しないようコントロールしています。

でもこういうことなら、わたしたち日本人にも察しがつきます。しかし、今回の北京オリンピックの聖火ランナーに関連する外国居留中国人のナショナリズム報道で指摘された点で、わたしが驚いたのは、中国人の被害者意識です。



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もっとも、こうした動きをすべて愛国主義教育によるものだと決めつけるわけにもいきません。そもそも中国の歴史を振り返ってみたら、排外的な民族主義が出てこないほうが不思議なくらいです。それぐらい、中国は過去に日本などからひどい目にあっているのです。

たとえば、もう一度、西安の「下品な踊り」事件に話を戻してみましょう。日本人留学生が大学文化祭で下品な踊りを見せたとき、中国の学生が「中国人を侮辱した」と怒りだし、デモを始めたことにはすでに触れました。

実は当時、事件の起きた大学では、抗議に集まった学生に対し、教師がこんな演説をしていたのです。

「いまはしっかり勉強しよう。祖国の建設に打ち込もう。国家が豊で強くなれば、日本もわれわれをいじめようとはしなくなるだろう。いまは騒いだらだめだ」。



一部の日本人留学生が下品な踊りをしただけで、なぜ「いじめられた」と思ったのでしょうか。それは彼らの抱えている心の傷が、想像以上に大きかったからです。中国の人たちが持つ集団レベルの記憶の中に、大きな傷があると見るべきでしょう。

中国は、19世紀に西洋列強の侵略を受けました。もともと長い王朝の歴史をもち、周辺国を蛮夷とみる中華思想の国だっただけに、屈辱も大きかったのです。とくに日本については、アジアの小国なのに近代化を先行されてしまいました。日本に懸命に学ぶようになりましたが、やがて日本人に「劣等国民」扱いされていると感じるようになったのです。

そこに日中戦争が起きました。中国は形の上では戦勝国になりましたが、日本に勝ったという意識を持っている中国人はほとんどいません。日中戦争では、日本軍が中国に一方的に攻め込み、首都の南京を陥落させ、さらに攻撃を受けたからです。このため、中国国民の記憶の大半は「日本軍を倒した英雄的な軍事行動」ではなく、「日本軍の攻撃に伴う果てしない惨状」といったものが占めているのです。すぐに「いじめられた」と反応するのは、そうした背景があるからです。



(上掲書より)

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中国人の集団的な記憶には、外国によって一方的に蹂躙される中国、という「心の傷」があるというのです。実際、中国における日本軍による殺戮の壮絶さは言語に絶するものでした。そして戦争国とはなったものの、それはこの本の筆者によると、「形の上だけ」だったというのです。というのは、この本の筆者によると、太平洋戦争では、日本は1942年のミッドウェー海戦より敗戦に転じ、その後日本本土空襲、沖縄上陸、2都市への原爆投下という大きな展開にいたったのに対し、中国では目だった日本軍の撤退が見られなかったのです。それゆえに、中国人の国民としての記憶には、日本軍による一方的蹂躙、大量虐殺として印象づけられているのだそうです。この筆者は新聞記者として中国特派員を務めておられた方ですので、それは実際の感触だったのでしょう。

もっとも残虐な殺戮という点では、規模は日本軍に劣るものの、中国共産党はそれこそひどい殺戮と弾圧を行ってきました。今回のチベット暴動は中国共産党の支配のひずみであることは明白です。ただ共産党への批判は封じ込められているため、いまのところ共産党には行動のはけ口が向かわないだけではあるでしょうけれども、それでもそういうマインド・コントロールをやすやすと受けいれてしまう背景には、日本軍をはじめイギリスなどに蹂躙された記憶があまりにも大きすぎるのでしょう。

どうなのでしょう、こういうトラウマがいま仮に現在の中国国民をして反日行動に走らせるものだとして、わたしたちはそれをどう受けとめるべきでしょうか。またまた香山リカさんを引っぱりますが、香山さんはこんな文章を書いておられます。



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靖国問題で日本が揺れた。直接のきっかけは、小泉首相の参拝に対してアジア諸国が激しい不快感を示し、2005年になって中国では大規模な反日デモが起きたことだ。しかし、問題そのものはいまに始まったわけではない。1979年にA級戦犯の合祀が明らかになり、85年に中曽根康弘氏が首相としては初めて8月15日に公式参拝を行い、首相の参拝は違憲ではないかと問う裁判が起きている。その後も公人が参拝するたびに靖国問題は国民の注目を集め、そしてまたなんとなく忘れられていった。

…(中略)…

「時間がたてばそのうちなんとかなるはずだ」という根拠のない楽観的な思い込みも、問題の先送り態度に一役買っている。精神病理学の分野では、日本人は一般的に取り越し苦労が多くて心配性のメランコリックな気質を持つとされてきたが、さまざまな事象から判断すると、集団になるととたんに「なんとかなるさ」、「誰かが(ルナ註:アジア諸国との軋轢については、“アメリカが”。)やってくれるだろう」と思考停止に陥って無責任になるようだ。また「時が解決する」、「水に流す」など「時間さえたてば過去の問題もすべてなかったことになる」という発想が一種の美徳にもなっている。いつまでも過去にこだわる人は、「野暮」「前向きじゃない」と評価される。

こう考えてみると、靖国問題をはじめとする一連の問題が、国内で長いあいだ “見て見ぬふり” をされてきたのは、決してそれらの問題が特殊だったからではないということがわかる。日本人の性質や価値観に従って、ごく自然にしていたらこうなった、そういうことなのだ。

ところが、日本国内では「なんとかなる」「時間が解決する」ですんでいたことも、国際社会ではそうではなかった。中国や韓国で「もう許せない」という声が上がってしまったのだ。「時間の経過」は忘却につながるどころか、東アジア諸国では「戦後60年もたつのにまだ反省ができないのか」と逆に怒りの材料になっている。

おそらくこのメカニズムは「時間は心を癒す特効薬」と思い込んできた日本人には、うまく理解できないだろう。さらに最近は、「過去にいつまでもこだわるのは心が弱い証拠」と否定され、過去を忘れて未来を見ることが奨励される傾向もある。

今回の中国の反日運動を論じる雑誌の中に、一貫して日本の戦争責任を訴え続け、“親中派” として何度も訪中経験を持つ野中広務氏を非難する記事がいくつかあった。そうした記事の中に「野中氏は自分の戦争体験をついに乗り越えられず、自虐的な発言を繰り返している」と揶揄するような記述があった。しかし、自分の経験を信念の核に置いて発言、行動することは、これまで肯定され、尊重されてきたのではなかったのか。

こうして、政治や憲法、あるいは国際問題の次元では「過去にこだわるな」という価値観にシフトしつつあるようだが、一方で個人のレベルでは、過去に受けた心の傷、いわゆるトラウマに苦しめられている人の数は年々、増加しているという事実もある。中には、従来ならトラウマとは呼べなかったような親や友だちの “ひとこと” を長年忘れられず、今なお当時と同じ怒りや悲しみに支配されている人もいる。

トラウマの問題について一般の人向けに解説した本には、必ず「過去に心の傷を受けた人のことを理解しましょう」とある。最近は、大きな事故が起きるたびにいち早く「心のケア」の専門家が現場に派遣され、長期にわたって治療が行われるようになってきた。誰もが、心が傷つくと後々まで深刻な問題が残ること、そしていったん傷ついた心が回復するまでには時間がかかることを理解しつつあるのだ。

にもかかわらず、なぜ、心の傷に苦しむ人には「いつまでも過去に苦しむな。早く乗り越えて水に流せ」とは言わないで、むしろ苦しむ感情に寄り添い、共感を示そうとする人が、東アジアの国々に対しては「いつまでも昔のことにこだわるな」と平気で一蹴してしまえるのだろうか。



(「いまどきの常識」/ 香山リカ・著)

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トラウマを持つ人や、トラウマとまでは行かなくても過去に愛されなかったために心の成長が止まってしまった人の、その気持ちに寄り添い、共感しようとする態度は、その人を愛し、その人を受け容れ、その人とともに生きていこうとする態度があるからではないでしょうか。他者と協調して生きていこう、他者と共生するために他者を尊重しよう、という心構えがあるからではないでしょうか。

わたしが以前所属していたエホバの証人という宗教団体では、過酷な布教スケジュールや、心理学や精神衛生の科学的事実に真っ向から反対した教育方針のために、心が傷つき、心が疲弊した人は、その人の信仰のあり方が悪いのだと叱責され、ある場合には処罰すら受け、大勢の人の前で辱められることも頻繁にありました。

宗教社会で処罰や辱めを怖れ、誰にも本心を話せずにいたのを、ようやく、宗教団体によって禁止されていたインターネットという告白の機会を得て、「こんな宗教はカルトだ」と掲示板で吐露すると、外部の人間や自己愛性人格障害の傾向の強い人間から、専門知識によって完膚なまでに論破され、最後の希望であった発言の場も奪われる、こんな経験を受け、また見てきました。

こういうのは他の人間とともに生きてゆこうとするのではないのです。それはイデオロギーのために、また現存する体制を守るために、人間の自然なありようを否定し、人間らしくダウンした人を切り捨てていこうという態度の表れなのです。全体主義というのは、この考え方の延長上にあるのです。人間は体制や体制の支配者の目的のための歯車の一つでしかないのです。日本の会社至上主義社会はこんな感じですね。競争を勝ち抜くのが偉大なのだとうそぶく「勝ち組」の人たちが、それは単なる運の良さであったということから目をそむけているのです。

東アジア諸国の国民感情の側に立たずに、日本の感覚で、それら諸国家の国民の文化に基づいた感情のありようを否定してしまう日本の態度は、何をめざしているのでしょうか。少なくともそれはアジア諸国と共生しよう、協調してアジア諸国とともに生きてゆこうという態度ではないのでしょう。それはもろもろの事情を考慮してみるに、アメリカの政策に組み込まれて生きることを選び、アメリカの庇護の下に儲けを吸い続けようという方針であるのです。違うでしょうか。

さもなければ、戦後まもなく、中国で共産党政権が誕生し、反共防衛線として日本を位置づけるため、再び強い日本をつくろうというアメリカの画策のもと、釈放された戦犯たちが政官界にカムバックさせられてきた人たちが、院政のような影響力を日本の政界に及ぼし続け、彼らの喜ぶ社会を造るために、大日本強国を復興し、戦後民主主義を踏み潰そうとする方針だったのではないでしょうか。それで捨て去られるのは誰でしょうか。彼らに煽られるわたしたち国民なのです。

中国共産党はわたしは大嫌いです。日本が戦争中に中国国民を陵辱したことには恥ずかしい思いでいっぱいです。でもそのことを中国共産党から責められることには激しい反発を覚えます。「おまえらにそんなことを言われる筋合いはないぞ」と思いっきり言い返したいです。「おまえらこそ大日本帝国のエリートとおんなじタイプの人間だぞ、それがわかるか」と言い返したいです。でも、中国国民の過激で挑発的な反日運動に、感情的に反応はしたくありません。中国国民とは、彼らの側に立って、彼らの感情に共感し、機会を見つけて粘り強く対話を続けてゆくべきだと思います。わたしも、かつてカルト宗教によって人間性を蹂躙され、帝国主義国家のような、宗教団体の拡大主義の捨て駒にされた経験を持つ人間だからです。わたしはこの経験に立脚した信念を核として、これからも発言し、この核に沿って生きてゆきます。

後半はかなり論点がそれちゃいましたが、これはルナのブログの特徴です。昔、60年代末期から70年代初頭、ロックシーンではエリック・クラプトンやオールマン・ブラザース・バンドといったアーティストたちが、インプロヴィゼーションという即興演奏が延々と続くライブを繰り広げたものですが、ルナのブログもこのインプロヴィゼーションのスピリッツを大事にしていますので、論点が拡散してしまうことにはご容赦をもって、お読みいただけたらうれしいです。長々とありがとうございました。

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