Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

イスラエル軍元将兵の証言に見るメンタリティ (3)

2009年01月31日 | 一般
(承前)






両親へのドタンの反論(父親への反論だけ転載します)


両親は違ったことを語っているように聞こえますが、実は同じことをいっています。つまり、占領地の現実を見ないように、“鉄のカーテン” を引いています。「沈黙を破る」で私たちが闘っているのは、実はこの両親のようなイスラエル社会の態度や反応なのです。



50歳を超えている私の父は軍隊の体験があり、ガザで兵役に就いていたこともあります。1967年の「六日戦争」(第三次中東戦争)や1973年の「ヨム・キプール戦争」にも参戦しました。しかし当時と現在では “政治の空気” が違うし、世代も違います。

その父は、ガザ地区で兵士が住民に水を与えようとして殺された話をします。それはほとんど「物語」です。たしかに実際に起こったことかもしれない。しかし占領地の現実は父が見たようなものではない。そこではパレスチナ人に水を与えるような「ゼスチャー」など必要ないし、われわれはそんな見せかけの行為はしません。

“占領者” としての日常任務のなかで、自分が暴力的になってゆくのを目の当たりにしました。自分が他の人間に対して注意を払わなくなってゆき、パレスチナ人が “同じ人間” であることを忘れてゆくのです。それこそが問題なのです。

1973年のヨム・キプール戦争のときにゴラン高原で戦った当時のイスラエル兵と、占領地にいたわれわれとは同じ状況だと父は思っています。父がガザ地区での体験を語るとき、イスラエルとエジプトが戦争し、ガザ地区がその戦火のなかにあった当時の状況を語ります。

しかし私たちが語っているのは、 “占領” なのです。それはまったく違います。私は “戦争” をしていたのではなく、占領地で “占領者” だったのです。イスラエル政府は占領し続けています。しかも占領しているのは “土地” ではなく “民衆” なのです。そこが重要な点です。

父はそのことを見ようとはしない。両親は私に「なぜ、そんなふうに住民の移動を遅らせたりできるのか」と訊く。彼らはなぜこんな愚かなことをやっているのかを把握していないのです。休暇で帰った家の食事でも、私がどう感じているのかということを、彼らは受け止めることができません。感覚が麻痺しているからです。

…(中略)…

イスラエル社会の人びとは、「今も続く “戦争” のなかにいるのだから仕方がない」と考えたがります。しかし「テロ」は決してイスラエルの存在を脅かすものではありません。しかし人びとは「緊急事態」の雰囲気を作りたがる。「 “戦争” のときは、テロリストがイスラエル内に侵入してくるのを防ぐためにどんな手段でも取れる」と彼らは言います。しかしそれは「占領地で自分の好きなことを何でも自由にやれる」ということではありません。

私たちは占領地で「テロを防いでいる」と思っている。しかし同時に、別の深刻なこと、つまりパレスチナ人の家を破壊し、住民に暴行するなど、決して必要でもないことをやっています。住民にわれわれのことを怖れさせるためです。それが “占領する” ということです。そしてそのすべてが「テロリストを食い止めるため」と正当化されるのです。

わたしは(「沈黙を破る」の活動を行うのは)それと闘っているのです。私は家を破壊した、住民に暴行を振るった、自分はこれとこれと、これをやった、それを知ってほしい。

わたし自身、占領地の状況に感覚が麻痺していました。軍隊を除隊し、現地から離れてやっと私は、 “政治” というものがわかってきました。私たちが巻き込まれてきた “占領” という状況を生み出している “政治” というものが、です。誰かが、私たちの後ろで糸を引いているのです。




(上掲書)より

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パレスチナ紛争についてなにか意見を言えるほどわたしはまだ十分知識がないので、分析は今回はできませんが、少なくとも日本のマスコミが伝えるのとはまったく違って、つまり、テロ攻撃を行って、イスラエル市民に無差別殺人を仕掛けるイスラムに対するイスラエルの対抗攻撃というようなものではなくて、事実は逆で、イスラエルによる殺人をもいとわない大規模無差別人権侵害に対するイスラムのささやかな対抗攻撃というのが実体であることは、この本から生々しく伝わってきます。

わたしはこの本を入手したのは、このような無差別殺人が、ごくふつうの市民に行わせるメンタリティに疑問を覚えるからです。いうまでもなく、わたしの頭には旧日本軍による南京事件があるのです。この本のほかに、広河隆一さんによる「パレスチナ」という小著があって、そこでイスラエルによるジェニン大虐殺が克明に記録されていて、これは南京虐殺であり、ソンミ村事件だ、と思ったのを覚えているからです。南京虐殺を行った日本兵はごくふつうの農民の子たちでした。特に深い教養があったわけではありませんが、日本では決して行わないような殺人を、中国では行えた、そのメンタリティに関心があるのです。というのは、彼らにあのような残虐なことが行えたのであれば、わたしも彼らと同じ境遇に置かれたら、行いえることだと思うからです。戦争の狂気というものの本質は、それが平和に暮らしていたごくふつうの庶民によって行われている、ということだと思うのです。

この本はまさに、南京事件に共通するものがあると察した筆者による、イスラエル兵のメンタリティと旧日本軍の兵隊のメンタリティを精神科医の野田正彰氏に調査に出した結果が最後の章につづられているのです。それによると、イスラエル兵と旧日本兵がおかれた境遇には決定的な違いはあるものの、ふつうの庶民がなぜこのような非人道的な殺人が行いえたかということについては共通する点もあったのです。つぎにその点のうちの一部をを書き写しておきましょう。詳しくは、この本をどうかご自分でお読みになってください。これはわたしたち日本人がぜひとも向き合うべき問題です。


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私は本文中に登場する三人のイスラエル軍将兵の証言の草稿を野田氏に送って読んでもらい、両者の共通点、相違点についての分析をお願いした。


…(中略)…


元イスラエル軍将校ユダ・シャウールは、占領地での兵役のなかで、どう考えても正当化できない殺戮や暴力を行う自分自身が怖くなると同時に、邪悪な行為に慣れることによって、それを「楽しい」と感じるようになっていく体験をこう告白している。

 「悪党になるのに慣れきってしまうのです。しかもだんだんそういうことが楽しくさえなってくる。一般市民の生活を支配する “権力” を持っていることが楽しいのです。その “権力” を楽しむのです。
 銃を持っているし、小隊の二、三人か四人くらいの仲間や同僚といっしょにパトロールしたり検問所にいる。どこにいようと指一本で思いのまま。どんな車も、進め、とか走れ、右だ、左だ、出て行け、IDを見せろ、とか、十八歳の若者が自分の父、母、祖母くらい年上の人に指図するわけですから、ある点までくると、それが快感になってきて、その中毒みたいになってしまう。自分が存在するために、それがなくてはならないものになってしまうのです」



このような将兵たちの心理を野田氏は「パワーの快感」と表現した。装甲車でパレスチナ人の車を潰していくというゲーム感覚、また両親ほどの年配のパレスチナ人を武器の力にまかせてあごで使うような傲慢な行動に、その「パワーの快感」を見て取れるというのだ。

そのイスラエル軍将兵の「快感」には「自分はテロリストから祖国を守るためにやっている」という「使命を果たしている満足感」が入り混じっているのではないかと私は推測したが、野田氏は「使命を十分遂行しているという『満足感』はあまり感じ取れない」という。

むしろイスラエル軍将兵たちに感じるのは “ホロコースト・コンプレックス” だと野田氏は説明する。ヨーロッパ社会に受け容れられず、しかも自分の国がないために、政治条件の変化次第で簡単に殺されるというナチズムの体験が、“精神に焼き付けられた、理屈抜きの信念”(コンプレックス) になっている。その後、アラブ諸国の “大海” のなかにイスラエルという国を建国したが、ちょっとでも気を抜いたら消されるという思いはイスラエル社会に浸透している。その意識が薄れつつある若者たちを国家は必死になって教育している構図があるのではないかという。

一方で野田氏が注目するのが、「正当化」の破綻だ。「自分たちユダヤ人は、追い出された人間で、他の民族以上に犠牲を払ってきた、だから生きる権利があるんだ、こうやって生きていくのは正義なんだ」という言い訳である。しかしイスラエル軍将兵たちはこの情報化社会のなかで、そのような国家レベルで言われている「表向きの正当化」では “個” として自分自身を正当化できなくなっていると野田氏は指摘する。その結果が「沈黙を破る」(という活動)につながったのではないかと言うのである。




(上掲書)

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ユダヤ人という民族はもう世界のどこにも存在していません。おそらく西暦一世紀にティトゥス将軍率いるローマ軍によってエルサレムが焼き落とされて以来、異邦諸国民の間を放浪していくうちにローマ世界の人間に吸収されていったのでしょう。今日ユダヤ人と言われているのはユダヤ教徒を指すそうです。あとイスラエルに帰化した人もそうなんだと思います。ユダヤ教徒にとって悲劇的だったのは、キリスト教会が世俗化してヨーロッパで政治権力となったことでした。イエス・キリストを裏切った民族だという宣伝によって、キリスト教世界のなかで敵として位置づけられ、政治権力となった教会の支配への不満を逸らせる目的と、キリスト教徒としてのアイデンティティを保つ目的などのために利用されたことでした。これは徳川幕府によって、厳格な身分制が敷かれた日本でも行われたことです。意図的に賎民階級が設けられ、搾取される農民のガス抜き役を彼らが引き受けさせられたのに似ているのかもしれません。これはまだ調べたわけではないので、自信を持って言うことはできないのですが。いずれにせよ、ヨーロッパ放浪の時代に受けた非人道的な仕打ちが、今現在、イスラエルという国家国民の精神の底にどっしりと横たわっている、というのです。怖ろしいことです。

もちろん、インターネットに代表される情報化社会の21世紀に暮らす若者たちには、そういう意識は薄れつつあるのでしょう。イスラエルでようやく、ヒトラーに愛され、政治利用されたワーグナーの楽劇が演奏されるのを許されるようになったということを見てもわかるでしょう。しかし、現在のイスラエルはアラブ諸国民から強奪した土地にある国です。さらにその領土を拡張しようとしています。占領政策です。「アラブ諸国の “大海” のなかにイスラエルという国を建国したが、ちょっとでも気を抜いたら消されるという思い」は特にイスラエルを治める年配の政治家たち、ホロコーストの生き残りの老人たち、アメリカに住むユダヤ人富裕層に根強いのだと、いうことでしょうか。日本でも、戦争責任を徹底的に向き合ってこなかったために、特高官僚上がりの人間、戦犯上がりの人間が政界・財界に復帰させられ、彼らの薫陶を受けた人たち、によって、今、教科書検定問題が引き起こされ、憲法改正に圧力が加えられている状況があるのと同じなのかもしれません。彼らはイスラエルの大義をなお正当化し、それを今世代、次世代に継続させようとしており、その「教育」の目的もかねて、占領地での非人道的な虐殺に寛容になっている、というのです。

これはわたしのような一介の四十代の「天然」女性が一冊か二冊の本を読んだだけではなにも意見をいうことができない問題ですが、でも日本人として何をしなければならないかはぼんやりと分かります。

まず第一に、南京事件や慰安婦問題から目を逸らし、それらの事件などなかったと揉み消しを図りながら、パレスチナ蹂躙を行うイスラエルを非難できる道理など日本は持てない、ということです。日本人がまずしなければならないことは、自身の戦争責任を片付けることです。もみ消すのではなく、それを正直に認め、ドイツのように徹底的に批判し、日本が被害を与えたアジア諸国とある程度の和解の合意を得ようとするべきです。その上で、その実績があってこそ、イスラエルにどうするべきかを提案できるようになるのです。それをしない今の日本にできることといえば、せいぜい、ジェニン大虐殺などなかった、また元イスラエル狙撃兵のドタンさんのお父さまのように、ガザで起きているという「沈黙を破る」活動の若者たちの言うようなことなどは起きていないと言い抜けるための方便の方法、もみ消しの方法くらいのことでしょう。そんなことでは国際社会の敬意も信用も得られません。まして国連の常任理事国を目指そうなんて笑止千万です。このことは今すぐにでも取り組むべき喫緊の課題だとわたしは声を大にして言います。




昨年の年末から今月いっぱい、ふつうの小説にマハってしまいまして、こちらのブログの方はずいぶんサボっちゃいました。イスラエルによるガザ大規模攻撃が平行して起きていて、そのためにこの本に出遭えました。素晴らしい本でした。この本はぜひ皆さまにも読んでいただきたいです。書き写す範囲が多くて、体力勝負のエントリーでしたが、ようやくアップできます。パレスチナで起きている人権蹂躙は、けっして遠い中東で起きていることではなく、かつて日本が行ったのと同様なことが行われており、しかもそれがふつうの市民によって実行されていて、わたしたちもよく似た状況に置かれれば、彼ら動揺の行動を取ってしまうのだということに注意を向けて欲しいです。何といっても日本人は虐殺の「前科」があるのですから。そしてイスラエル世論の意図的ともいえるほどの無関心にも注目するべきだと思います。ネットに見る弱者バッシングも結局、弱者に共感しようとせず、自分の関心、自分の不安にかまけるだけの考え方から出てくるものであり、おなじ精神態度がイスラエル社会を蝕んでいて、それがイスラエルの若者をパレスチナ占領地に送り込んでいるのです。軍隊を持って戦地へ出かけて行くということはこういうことなのです。「沈黙を破る」の若者たちは、これは意図的な行為であり、つまりそれは政策だということに気づきました。日本は二度と「政府の行為による戦争を起こさない(日本国憲法前文)」という世界一高邁な憲法を持っているのですから、二度と政策発案者たちにおどらされることないようにしたいです。




(おわり)
コメント (2)
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