Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「島田紳助的なもの」を超克してゆこう!

2011年10月10日 | 「世界」を読む




ごぶさたしております。

最近はヤフーブログのほうで主に書いておりましたが、こちらのほうも再開してゆこうと思い立ち、ヤフーのほうでも書いた記事を転載エントリーします。




(以下引用文)---------------------------


島田紳助氏の引退騒動では反社会的集団との関係に話題が集中した。しかしわたしは、彼が表象する価値観とそれに魅かれる人々が多くいるという状況こそ批評されるべきだと思う。


島田氏は今年の二月に『島田紳助・100の言葉』(ヨシモトブックス)という本を出版している。この本は30万部を超えるベストセラーとなり、多くの読者を獲得した。

ここで島田氏は「勝つこと」へのこだわりを表明し、勝つための方法を身につけるべきだと強調する。しかし島田氏の考えでは、成功する人間は先天的な才能に依拠しており、勝つか負けるかはあらかじめ決定されている。彼は「生まれ変わり」を信じ、才能は前世に規定されているという。これはまさに、スピリチュアルな優生思想だ。

島田氏の価値観は、「心と心でつながる透明な共同体」の希求へと発展する。彼は同じ価値観を共有する人間同士の純粋な絆関係を重視する。そして、その共同体に加わる条件は「私(島田氏のこと)を大好きであること」だという。

この自己愛に基づく同質的な連帯意識こそが「ヘキサゴン・ファミリー」の共同性であり、「知識はないけれど、心がピュアで情熱的」であることを強調する「おバカブーム」へとつながった。

しかし、一方で島田氏は自らの価値観と合致しない人間に対しては、非常な態度を貫く。彼は(上記図書のなかで)「ほとんどの人間は別にいなくてもいい人間です」と言い、「私の人格は、相手によって決めることにしています」と公言する。

このような、価値観を共有しない人間への排他的姿勢が、吉本興業女性社員への暴行事件や、若手タレントへの暴言騒動につながったのだろう。島田氏の志向する「絆」は、分かちえない他者への暴力的排除と表裏一体のものといえる。

さらに、彼の価値観は格差社会への肯定的な評価へとつながる。彼は「格差社会はしようがない」と公言し、松本人志氏との対談本では、低賃金で保険の費用もかからないフリーターがいてくれて助かっていると述べている。

新自由主義的な価値観と同質的で排他的な共同性の希求との共存。島田氏が芸能界から引退することよりも、「島田紳助的なるもの」を批判的に乗り越えることこそ、現代社会の課題である。
 
 





「島田紳助的なるものへの違和感」/ 中島岳志・著/ 「週刊金曜日」2011-10-07号より



こちらのブログもぜひご覧ください。


---------------------------(引用終わり)
 



島田紳助さんの引退の際に、吉本の人だったか、別の芸能評論家だったか、そういう関係の人が、「彼のギャグには弱者を叩く危うさがあって、個人的に気がかりだった」というようなコメントを読んだことがある。


もともと芸能界の「掟」というか、「風習」というか、あの価値観にはどうも嫌悪感しか感じなかった。とくに「お笑いの世界」の雰囲気には。厳格な上下関係には、芸の世界のありようとしてギリギリ容認するとしよう。だが、その上下関係を利用してパワハラを公然と認めてしまうようなあの雰囲気が嫌いだった。親分的な人に追従的な卑屈な態度を公然とTV放映の中で見せつけることにも嫌悪を覚えるし、その「親分」的な人の、自分の親分的な自意識におぼれた傲慢さにも嫌悪が走る。


彼らはファンに愛想よくしない。むしろ公然と見下し、上から目線でファンを見下ろす。そうなるのは、TV芸能人は収入を得るのにファンに依存していないからだ。彼らはスポンサーから収入を得るのであり、スポンサーは視聴率の取れるタレントを使いたがる。多くの人々にCMを見てもらうためだ。そんな彼ら、お高くとまる芸能人たちが「格差社会」ということばで表現されている、「新しいカースト制度」ともいうべき身分差別社会の中の、弱者の立場にいる人々の犠牲を肯定するのも当然といえば当然なんだろう。「新しいカースト制度」「身分差別社会」という表現を使ったのは、現在の「格差社会」における格差はきわめて固定的で、「一度滑り落ちたらもう二度と浮かび上がれない(湯浅誠氏)」という実情だからだ。こういう実情における「下層階級」を背面にして暮らしているのがわたしたち夫婦なので、見下され、犠牲にされ、というような態度には現実的な嫌悪を感じるのだ。


だが、島田さんの書く本は売れていて、彼を、崇拝とは言えないまでも導き手として仰ぐ人々がいる、ということに危機を覚えるし、恐怖をも感じる。それは「その他おおぜい」を犠牲にして「自分さえよければそれでいい」という社会のありようをまったく肯定する態度であるからだ。他者を踏みつけにしていいから自分さえ生きれればいいという思考は、「大日本帝国」のアジア周辺諸国への搾取的侵略を実行させていったのだった。そういう認識を批判し反省したうえで受け入れたのが日本国憲法だった。憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に追放しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳われている。


だが、戦後の日本は「専制と隷従、圧迫と偏狭」の原理によって経済成長を遂げてきた。その絶頂が1980年代後半のバブル景気であり、バブル崩壊後の格差社会の成長も、隷従と圧迫のもとに生涯追いやられる階層の犠牲の上に遂げられたものだった。明日の暮らしを立ててゆけない恐怖と欠乏が多くの人々を圧迫しているのだ。こういう階層を作り上げたのが労働者派遣法であり、自己中心的な企業倫理の浸透であり、それを助長させてきたのが芸能界だった。労働者の犠牲の上に製造されて、売り出されるにいたった製品の宣伝のために利用されてきたのがTV芸能人であり、ふつうの労働者が何十年働いてやっと届くような収入、いや何十年働いても手にすることのできない収入が、彼らには支払われるのだ。しかもその宣伝費はみな、製品の価格の中に含まれている。商品を買うわたしたちはそのたび、宣伝に使われている芸能人の超高額のギャラを支払っているのだ。


こんな世の中ではたしかにまじめにコツコツ働こうという人が少なくなるのも無理はないのかもしれない。芸能人のように “イッパツヒット” に賭けて、億単位の貯蓄を夢見るのも無理はないのかもしれない。だからこそ、わたしたちはそんな不公正な社会のありようを変えてゆかなければならない。というのは、そのような不公正な社会のありようは、結局社会全体の自滅に至るからです。わたしたち日本人はアジア太平洋戦争においていちど壊滅という結末を経験したのです。それは自分さえ良ければ他者を蹂躙しても構わないという思考がもたらした結末だったのです。人間はみんながうまくおさまらなければ生きてゆけない存在なのです。暴走する自由至上主義も、それにフリーライドする「島田紳助的なもの」も、人間の存在についての基本原理を忘れている。いや、軽蔑さえしている。


ある経済学者は、経済学は思想など語るべきではない、と聞こえるような発言をすらしています。中谷巌さんの、例の懺悔本に対する評のなかでです。ただその学者さんは学会のなかでもあまり認められていない人のようですが。経済学はもともと人文科学の一分野だった。でも、ITの進歩の結果、金融が工学的モデルで説明されるようになったために、もはや経済学は人文科学を離れ、社会科学からも逸脱し、ただの工学になってしまった。工学であるならたしかに思想など語る必要はないのだろう。だが、工学の理論は十分な検証なしに、人間の暮らしを左右する政策に、性急に盛り込んでよいものだろうか。政策に盛り込むのなら、そこには思想による吟味が必要なのではないか。国民全体の暮らしを守るのが政治の役目だ。一部の公権力の様相を帯びた国民層の利益だけを守り、国民のほかの層は切り捨てるというような政策を実行しようというならそれは徹底的に戦って、わたしたちの暮らしを、そう「命」そのものを守るべきだ。





(以下引用文)---------------------------



アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と定義した。


人間は社会を形成してさまざまな仕事を分業し、協力しあうことによってめて安全に豊かに生活することができる。アリストテレスは、社会から孤立して存在できるものは神か森の獣だけであると述べた。


神は全能であるから他者の助けを必要とせず、獣もまた本能にしたがって森で一匹で生きてゆける。しかし、人間は常に他者と助け合いながら生きていく存在である。そのような社会的存在としての人間に必要不可欠な「徳」(=倫理観、と言い換えてもいいと思う、個人的に…)として、正義と友愛が大切でなのである。


正義と友愛は個々人の「魂」(=心、精神、人格、と言い換えられると思う、個人的な感想だが…)に教育によって培われなければならない。アリストテレスは、そのようにして「魂」に「徳」の全体が備わることが達成されて、正しい状態になることを全体的正義と呼び多くの「徳」のなかのひとつとしての部分的正義と区別した。さらに部分的正義は、その人の功績や能力に応じて報酬を正しく配分する配分的正義(比例的正義)と、罪をおかした人を罰し、被害者を補償して」、各人の利害が平等になるように調整する調整的正義(矯正的正義)に分類した。






「もういちど読む山川・倫理」/ 小寺聡・編


---------------------------(引用終わり)



人間はひとり、あるいは少数では生きてゆけない存在です。全能ではないからです。そして社会を形成して、分業によって生産し、正義によって生産品を配分してゆかなければ誰ひとり生き続けることはできないのです。暴走する自由市場経済のイデオロギーは、おそらく莫大な富を自分自身に集めることができたがために、自分は全能であるという思念に囚われてしまったのだろう。なんでも買うことができる→なんでも手に入れることができる、というふうに思うようになったのだろう。なんでも手に入れることができるから、自分は全能だ、と。それゆえ、自分が生きているのは、名も知らぬおおぜいの人間たちの協力があるからだ、ということに考えが及ばなくなってしまったのだろう。


だとすればそういう思念は知力の劣化であり、アリストテレスが言ったとされる「徳」の萎縮消失が原因だと推測される。傲慢・おごりと呼ばれる精神状態は知性と品性の劣化の症状だと考えられる。劣った性質は悪い症状や結果を生み出す。新自由主義のイデオロギーも、それを是とする「島田紳助的なもの」も、人間の知性と徳の劣化による症状であるとわたしは言いたい。



だからこそわたしたちは、「島田紳助的なもの」を超克してゆかなければならない。わたしたちはTVの送り出す映像にコントロールされてしまってはならない。それは人間の意識に強力に働きかけるプロパガンダですが、わたしたちは意志によってそれを除染することができるのです。プロパガンダによる宣伝=洗脳=マインドコントロール・ウィルスをガードすることは可能なのです。


芸能界にあこがれて、「島田紳助的なもの」を容認してはならない。「島田紳助的なもの」こそ、今現在の社会の閉塞を生み出した張本人だからです。なぜならそれは人間性の劣化、知力と徳の劣化の表れであるからです。知力と徳の劣化とは、人間は社会的存在であるゆえに、ひとりでは生きてゆくことができない、だから社会を形成して、互いに協力し合ってでなければ豊かに安全に暮らしてゆけない、だからこそ「社会正義」なるものが必要不可欠である、という基礎的原理を嘲笑するような態度であるからなのです。


だからこそ、そのようなもの、「島田紳助的なもの」、新自由主義と呼称されてきた、社会という結びつきを解体し、社会正義とみなされてきた価値観を廃棄しようとする、暴走する自由市場経済思想を、太古の昔にアリストテレスが「正義」ということばで定義したものによって、わたしたちは矯正してゆかなければならない。太古の昔に定義された「正義」というものによって、自由をはき違えて暴走する市場主義経済体制を「調整」してゆかなければならない。それが「島田紳助的なもの」を超克する、ということなのです。





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4 コメント

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福祉主義 (東西南北)
2011-11-09 10:53:41
 弱肉強食の市場原理に対抗する軸は、福祉主義です。福祉主義は、まだまだ社会に強力です。

 税財政での所得再分配機能の強化、福祉主義国家か、それとも、福祉の民営化、市場化、弱肉強食=何でも金の資本主義か。

 
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東西さんへ (ルナ)
2011-11-12 14:48:01
TPP体制が日本に確立してしまうと、福祉や社会保障は大幅に後退してゆくことになると思います、残念ですが、旗色は悪いですね。
返信する
ありがとうございます。 (あお)
2018-11-06 12:30:28
島田紳助さんが嫌いでした!
なーんか嫌なんだよなぁと思いつつ、何が嫌なのか自分で言語化できず、時々ネットでみかけてはモヤモヤしてました。

島田紳助的なものへの嫌悪感がわかってスッキリしました。

彼はなるべくして彼になり、
時代の反面教師役を担ったのだと感じました。

10年くらい見るたびになんか嫌だなぁと思ってたことが魔法のように解けてすがすがしい気持ちです。

ありがとうございました。
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あおさんへ (ルナ)
2018-11-06 19:45:00
共感してくださってうれしいです。
いまどうしているんでしょうね、紳助は。
どうも、彼の後をダウンタウンの松本がいま、引き継いでいるようで、芸能界は相も変わらずですね。
辟易します。
少なくともわたしは、ああいうものを見てへらへら笑わないようにしたいです。
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