Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「国を愛する心/ 『国を愛する心』/ 三浦綾子・著」の目立った点 (1)

2016年04月06日 | 「市民」のための基礎知識






お便り拝見いたしました。

あなたもまた、近頃テレビや新聞でたびたび取り上げられている教科書問題について、若い母親のひとりとして、真剣に心配していられるのですね。

「私はその時まだ生まれておりませんでしたから、日本の国が、ほんとうに他国を侵略したものか、しないものか、よくわからないのです。また、終戦というべきか、敗戦というべきかもわからないのです。私は子どもに真実を教えたいのです。三浦さんは、第二次世界大戦において、日本が中国その他を侵略したと思いますか、ほんとうのところを教えてください」。

このお便りのなかに私は、あなたの謙遜と真実を感じました。私はある人から、「あなたはそれでも日本人ですか。日本が侵略をしたとか、残虐なことをしたとか、いろいろ書いていますが、あなたには愛国心がないのですか」とい手紙をもらったことがあります。困ったことに、これからはますます、「おまえはそれでも日本人か」という言葉が、多く使われるような気がしてなりません。

ところで、この間、澤地久枝(ノンフィクション作家、1930年=昭和5年生まれ)さんの講演会が旭川でありました。850人で満席になる会場に950人も入ったのです。澤地さんの話が終わったとき、ほんとうに嵐のような拍手が、いつまでもいつまでも鳴り響いておりました。誰もが、受けた感動をその拍手に込めたのです。(中略)

澤地さんは「もう一つの満州」というノンフィクションの中に書かれているとおり、少女時代、満州に育った方です。この澤地さんが昨年(=1981年)満州を訪ねられました。一人の抗日青年の生涯と、無残な死を調べるためでした。その取材旅行において、澤地さんは、日本が犯した数々の怖ろしい残虐行為を直接中国人の口からきかされたそうです。肉親の誰彼が、日本人の手によって、目の前で虐殺された話、一つの村が、赤子から老人まで皆殺しにされた話など、身の毛がよだつむごたらしい話であったと言います。

戦後40年にもなろうとして、いまだにそうした忌まわしい記憶を引きずって生きている人々のいることを、澤地さんは改めて知らされたのです。それらの人びとの目に、消しがたい悲しみと恨みを見たとも澤地さんは言われましたが、当然のことでしょう。

私たちは、敗戦後、初めて南京大虐殺の話を聞いたものでした。小さな子どもが串刺しにされたこと、妊婦がその腹を引き裂かれたこと、非戦闘員が一つ建物に閉じ込められて焼き殺された話なども聞きました。もし、私たちの故国に、他国の軍隊が乱入して、このような殺戮をくり返したとしたら、私たちはそれを「進出された」と言うでしょうか。それとも「侵略された」というでしょうか。いいえ、もっと強烈な表現を取るのではないでしょうか。日本政府が「侵略」という言葉をどんなに教科書から消し去ろうとも、いまなお現実に、肉親の無残な死を思い、悲しみ憤っている人々がたくさんいるのです。その人たちの胸から、「侵略」という言葉をどうして消し去ることができるでしょう。

学問は真実でなければなりません。とりわけ歴史は、その時の政府の都合で、勝手に書き改めるべきものではありません。一たす一は二であるはずです。けれども、一たす一は五であるという教科書がもしあったとしたら、あなたはその教科書を子どもさんに与えますか。明らかな侵略を進出などという言葉に置き換えることは、一たす一は五である、というのと同じで、いったい、一たす一は五であると強弁することが愛国心なのでしょうか。私には到底そうは思えないのです。私たちの国が、ほんとうにどんな歩みをしたのか、その真実を私たちは知るべきです。そして誤った歩みをしていたならば、その責任を取るべきです。それともあなたは、自分の子どものすることなら何でもよしよしというのが、親の愛だと思いますか。弱い者いじめをしようと、体の不自由な人も真似をして、そうした人々を辱めようと、他の人に乱暴しようと、人の家に火をつけようと、黙って見ているのが親の愛だと思いますか。


…(中略)…


さて、国を愛するとは、いったいどういうことでしょう。時の政府の言うままに、唯々諾々と従うことなのでしょうか。「侵略ではなかった、進出だった」と政府が言えば「そのとおり、そのとおり」と拍手をし、「戦いは負けたのではない、終わったのだ」と言えば「そうだ、そうだ」とうなずくことなのでしょうか。

あなたはまだ生まれていなかったそうですから、戦争中のことは何もご存じないでしょう。しかし(戦争中)二十代だった私は、当時の国民が、どんなに自分の国を信頼し、誇りに思っていたかを知っています。国のために死ぬということは、男性は無論のこと、私たち女性も、この上ない名誉に思ったことでした。そして、勝利を祈ってしばしば神社に参拝し、慰問袋を戦地に送り、かき消えるように亡くなった食料の乏しさにも愚痴を言いませんでした。いいえ、食料どころか、たった一人の息子を戦死させても、一生の伴侶である夫を戦地に死なせても、「お国のためだ」と歯を食いしばってその悲しみに耐えたのです。そうした純粋な気持ちを、私たち国民は、戦争のために利用されたのでした。そして戦争は負けたのでした。

私たち庶民は、戦争がある種の人びとの儲ける手段であるなどとは、夢にも思わなかったのです。あの時、戦争はいけないと言った人がもしあれば、その人こそ真の意味で愛国者だったのです。そうした人もわずかながらいました。でもその人たちは、国のしていることはいけない、と言ったために獄にとらわれ、拷問され、獄死さえしたのでした。真の愛国者は彼らだったのです。国のすることだから、何でもよしとするのは、国が大事なのではなく、自分が大事な人間のすることです。

もし、第二次大戦のとき、すべての日本人が戦うことを拒んでいたなら、原爆にも遭わず、何百人もの人が死なずにすんだのです。いや、他の国々のさらに多くの人々が殺されずにすんだのです。とにかく、日本の犯した罪を知っている人々が、侵略は侵略だと言い、敗戦は敗戦だと言っているはずです。でもその数が次第に少なくなっていくだろうという予感に、私は戦慄を覚えます


こんなお返事でお分かりいただけたでしょうか。日本と世界の真の幸福を祈りつつ。

 

 

(小学館発行月刊誌「マミイ」1982年11月号初出/ 1982-11-01/ 三浦綾子)

 

 

 

 

 

 

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