Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「奥さまは愛国」/朴順梨・北原みのり・共著 の目立った点

2014年08月21日 | 平成日本の風景

 

 

 

今の日本は、変だと思う。とても生きにくく、息苦しいと思う。

 

 

2012年冬、第2次安倍政権が誕生してから私はほとんどTVを見なくなってしまった。ニュースを見るのは気が重く、時代の空気をTVを通じて感じたり、何が起きているのかを直視するのに、疲れてしまったのかもしれない。考えてみれば、2011年の3月11日以来、ずっとTVや新聞の報道から目が離せない日々を送ってきたのだ。

 

東日本大震災の直後、私は数日間、涙が止まらなかった。あの日、家に帰れなかった友人たちが私の家に泊まっていた。スーパーに買い物に行き、6人分の朝食のため牛乳パックを数本買い物かごにいれていると、近くの男性が「買い占めかよ」と、ぼそ、とつぶやいた。近所のガソリンスタンドは全て閉まっていて車での移動は一切できず、とはいえそもそも行くあてがあるわけでもなく、東京に閉じ込められているような気分になった。目の前の映像で家や人や車が流されるのを見て、原発事故の全容は分からず何も手がつかないのに、牛乳パック一つを監視しあう日常に、名前のつけられない感情で泣き続けた。

 

耐えがたい気分で3月15日、私は行き先を決めずに新幹線に乗った。自由席はもちろんのこと、広島行きの新幹線はグリーン車も満席だった。メディアでは、東京の人が「逃げている」ことは報道されない。新幹線でツイッターを見ていると、知人が「逃げる者は恥を知れ」というようなことを書いていた。新幹線に乗っていることは、ネットでは書けない、と思った。

 

あの時メディアは「こんな状況でもパニックにならず、ゆずりあう日本人は世界から称賛されている」と紹介していた。確かに私たちは、奪い合うようなパニックを経験していないかもしれない。でも、この国ならではのパニックに確かに陥っていたのではないだろうか。互いに監視し合い、抜け駆けしないように注視し、批判しあい、みなが同じ方向を向くような力に、縛られていたのではないだろうか。

 

私が「愛国運動」を知ったのは、あの年の夏だった。人類史上最悪の原発事故から半年も経っていない8月に、フジTVに対し「韓流ドラマを流すな」という抗議デモが行われたのだ。あのデモは「愛国運動」ではなく「メディア批判」だ、という人も少なくなかった。が、人びとが振る無数の日の丸や、インタビューに答え「韓国スターは気持ち悪い」と笑う参加者の様子は、メディア批判の体すら取っておらず、嫌韓感情と熱狂的な愛国心が伝わってくるものだった。私は「彼等」のデモを週刊誌の連載などで批判した。

 

それからが大変だった。私は事実無根のことをネットに書かれ、会社の電話が鳴り止まず「日本が嫌いなら出て行け」と叫ばれ、会社のサーバーも攻撃を受け業務を停止せざるを得なかった。顔の見えない人たちから嫌がらせを受けるのが、次第に日常になっていった。

 

 

2013年8月15日、私はニコニコ動画に呼ばれて、「終戦記念日」の番組に生出演することになった。終戦の日に際して、数十人の言論人が一人ずつ10分間演説する、という主旨の番組だった。私は田母神俊雄氏の数人後くらいにステージに立つことになっていて、スタジオに着くと、ちょうど田母神氏が拳をふりあげ力一杯演説をしている最中だった。「韓国、ふざけるな‼」「反日教育するな!」と勢いよく韓国バッシングをする田母神氏に888888 888888の「拍手」が画面に溢れている。途端にその場に来たことを私は後悔した。

 

その日、私は祖母の話をした。今年89歳の祖母は、20歳の時に終戦を迎えた。その祖母が「戦争中一番怖かったのは、米軍でもB29でもなく、隣組のオジサンだった」と言っていた。空襲時に防空壕に入って、万が一そのあたりが火の海になったら確実に「蒸し焼き」になってしまう。だから防空壕には入りたくない、という祖母に、オジサンはギャーギャーわめいて「和を乱すな」と怒ったそうだ。また、戦後、旅館を経営していた祖母は、元日本軍兵士の戦友会で、お酒をつぐこともあった。その時に男たちは「中国で何をしてきたか」と繰り返し話していたという。どのように人を殺したか、どのように拷問したか。そんな話はきっと、妻や子どもたちにはできなかった、同じ境遇にいた男どうしだからこそ語れる話だったのだろう。祖母は「日本軍はそんなことをしていたのかって、本当に怖かったわ」と、私に「元日本軍兵士から聞いたこと」を話してくれた。

 

…そんな話をTVカメラの前で話した。戦争とは「かっこよく死んでゆく」ものでも、「あの国嫌い」というようなものでもなく、容赦なく自由を奪われ言葉を奪われ命を奪い奪うもの、そんなものは絶対にいやだ、と。

 

その話をしたことで何かが起きたわけではない。バッシングされたわけでもない。むしろ自分の話したいことを話せたのだから、それでよかったはずなのだ。それなのに、どういうわけなのだろう。私はその夜から激しい耳鳴りに悩まされるようになった。

 

 

ネットで何を言われても、叩かれても平気だと思っていた。私より激しく攻撃されている人はたくさんいるし、感情的な批判に振り回されないようにしよう、と思っていた。でも私はぜんぜん大丈夫じゃなかったのだと、あの夜に初めて気がついた。もしかしたら「買い占めかよ」と男に言われたときから」、もしかしたら新幹線の中で「逃げる者は恥を知れ」というツイートを読んだ時から、ずっとダメだったのかも。耳の中でずっとカサコソカサコソ音がしていて、動悸が激しく、不安な気分に押しつぶされそうになってようやく気がついた。私はずっと、もの凄いストレスの中を生きてたんだ。人と違うことを言ったり、自分の意見を言ったり、自分の思うままに行動して「間違った」ときに、ものすごい勢いで叩かれる空気が、もう限界だったのだ。

 

その時に、はっきりと私は自覚した。私はこの国が、嫌いだ。とても変な国になっている、この国が嫌いだと。

 

 

そんな私にとって、「愛国にはまる女性」たちは、まったく理解のできない存在に思えた。男とともに「韓流気持ち悪い」と言い、男とともに「慰安婦はうそつきだ」と言う。しかもそんな運動は、あはり3.11以降、目に見えて増えている。

 

もしあの震災と、あの原発事故が、彼女たちのきっかけだとしたら、私と彼女たちの違いは何だろう。3.11以降、この国をほんとうに怖いと思った。逃げたくてたまらないと思っている。一方で、同じように不安に感じ、怖いと思っただろう女たちが「国を愛そう」と動きはじめたのは、なぜだろう。彼女たちには、どんな未来が見えているのだろう。彼女たちの「生き方」は、新しいのか、それとも絶望なのか。

 

この国がどう変わったのか、なぜ私はこの国がここまで嫌になったのか。その答えを探るように、私は彼女たちを知りたいと思いはじめたのだ。

 

 

 


「奥さまは愛国」 / 北原みのり・朴順梨・共著 / 「はじめに」より

 

 

 

 

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