Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

プレゼンス

2005年05月31日 | 一般
たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯の一断片以外の何物をも生きることはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯の一断片以外の何物をも生きることはない、ということである。

したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら、現在は万人にとって同じものであり、したがってわれわれの失うものも同じである。ゆえに失われる「時」は瞬時のものに過ぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものをどうして奪われることがありえようか。

であるから次の二つのことを覚えていなければならない。
第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。したがってこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、なんの違いもないということ。
第二に、もっとも長命の者も、もっとも早死にする者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているものはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。

(「自省録」/マルクス・アウレリウス)

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今、感じているこの瞬間だけが、
ただ一つ意味のある財産。今この瞬間がすべて。
だから、たいせつに生きよう、今この瞬間を。

過ぎてしまった機会は貴重だった…
でももう思い出の中を除いては、どこにも存在しない。
過ぎてしまった時間の中で生きることはできない。

来るべき時間に不安を感じることも、取り越し苦労でしかない。
今はそれは存在しないものだから。
今はただ、やるべきことを、決めたとおりに果たすだけ。

行く手に深い霧がたちこめていれば不安に思う。
でもいちばん不安なのは、目前にして見ているとき。
一たん入り込んだら、何とかしようとするものです、人間って。

過去も未来も、自分の所有物じゃない。
現在だけが確実なもの。だから目の前のハードルから逃げちゃいけない。
失敗したら…とか、絶対飛び越えなきゃ…なんて
人目を気にして押しつぶされてもならない。

失敗したからって、失うのはこの瞬間だけ。
人生そのものが失われるんじゃない。
だって生きているのは今この瞬間だけだもん。

今は、あのバーをクリアするのに、自分のベストを尽くすだけ。
アドレナリンが全開で分泌され、全身の血管を疾走する…
心臓の鼓動が鼓膜に響く。

今、この機会からもう逃げない。
生きている今だけが真実。
生きているこの瞬間だけが現実。

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いくじなしのわたしへ…

2005年05月24日 | 一般

***
思い起こせ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか。
またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながら、これを利用しなかったか。

しかし今こそ自覚しなくてはならない。  …(中略)…
君には一定の時間が与えられており、その時を用いて心に光明を取り入れないなら、時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものとならないであろうことを。
(「自省録」/マルクス・アウレリウスによる覚書 より)



***
大事に当たっては、好機を生じさせようとするよりも、到来する好機に乗ずることを第一に心がけるべきである。 (「人間考察もしくは処世訓と箴言」/ラ・ロシュフコー・著)より



***

なるほど。
上手に生きるには、チャンスというものに対する感度を研ぎ澄ませておくことですね。
そしてチャンスはいつ飛び込んでくるか、はかり知ることができない…。




真っ青な朝の空を見上げながら、
自分なら何ができるのかを見極めたい
冷たい夜明けに一人きりでいる君は、
今も自由だといえるかい? ほんとうに?

寒い明日が迫ってきて、昔の悲しい夢が思い起こされれば
君は気づく、道の果てしなさを

だからチャンスはあるうちに手にしてごらん
ロマンスなんて作り話でもいいじゃない
なぜって、すべては君次第



いいかげん気づけよ
当てにできる人なんていないってこと
時には先行きが不安にならないかい?
このまま思い通りに明日を迎えられるかって…

これ以上君の元を去る人さえいなくなって
自分でも自分が信じられなくなったとしたら
その時こそ君を欺くものは何もなくなる

だからチャンスはあるうちに手にしてごらん
ロマンスなんて作り話でもいいじゃない
なぜって、すべては君次第



真っ青な朝の空を見上げながら、
自分なら何ができるのかを見極めたい
冷たい夜明けに一人きりでいる君は、
今も自由だといえるかい? ほんとうに?

灰色の風が吹いてきて
知る価値のあるものなど何もなくなったなら
それが君にとっては出発のとき

だからチャンスはあるうちに手にしてごらん
ロマンスなんて作り話でもいいじゃない
なぜって、すべては君次第

While You See A Chance / Steve Winwood
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エピクテトスかく語りき

2005年05月21日 | 一般
エピクテトスのことば。

世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為ではない一切のものである。

われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。

それゆえ、君が本来隷属的なものを自由なものと思い、他人のものを自分のものと見るならば、君は障害に会い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。

これに反して、君が真に自分の所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、だれも君を強制したり、妨害したりはしないであろう。君はだれをも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要はないであろう。だれも君を害せず、君は一人の敵をも持たないだろう。そして君の不利となることは一切起きないだろう。
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*ルナはこういうふうに解釈しています*

影響力のある人物に取り立ててもらおうとするのは、自分の尊厳を売り渡すことになります。
どんな目標を立てるか、何を求めるかなどということは、自分に属する「所有物」ですが、栄誉とか財貨とか高い地位とかいうものは、それを任じる他者に所属するものです。もしその他者が自己愛の偏って強い人、つまりナルシストであったなら、実際の能力とか熟練とかで評価するのではなく、自分への服従する度合いに応じて任じるでしょう。その場合には、ナルシストの特質として、あなたがどれだけあなたの個性を抹消し、自分の影響にどれだけ染まっているか、という観点で評価します。

ここでエピクテトスが「自分の力の及ばないもの、財産、名誉、官職などを得ようとするのは隷属的である」と言ったのは、カルト組織について当てはめてみれば、ぴったり言い切ることができます。「妨害されやすく」というのは数少ない椅子を大勢で競い合うことを想像すれば、やはりぴったり当てはまります。「肉体が自分の力のおよばないもの」というのも、「予見し得ないアクシデントは誰にでも起きうる」という伝道の書のことばを思い出せば、やっぱり「自分の力の及ばないもの」と言えることですね。

努力を誠実に果たしても、確実に実らせることのできないものを、確実に得ようとするのは過大な望みです。権力者に所属するもの、栄誉や高い地位などをも確実に得ようとすると、自分という個性を放棄しなければならないかもしれません。それは多大の犠牲というものです。そういう他者に所属するものを自分に得させようとすることには「悲哀と不安」が必ずついてきます。現代人はこういうストレスでかなり精神的にダメージを被っているのではないでしょうか。本屋さんに行くと自己啓発ものの著作がかならず店頭に積み上げられています。「人間らしさ」というものがこんにち高く高く評価されていますし、その影響として心理学や精神医学は非専門の一般の人々にも大きな関心の的となっているのです。権力者に所属するそれらの「賞」はそれほどまでに貴重なものなのか、みんな今ではそういう価値観に疑問を持っているのではないでしょうか。

エピクテトスは続けてこのように言いました。

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饗宴の席か、挨拶の際に、または相談をかけられるという場合に、だれかが君に先んじるということもあろう。ところで、それが本当によいことであったなら、そうした尊敬を受けた人のために祝意を表するがよい。しかし、それが良くないことであったら、君はそれを得なかったことを少しも悲しむにあたらない。いずれにしても、自分の力のうちにないものを得るにあたって、他人がしたのと同じことをせずして、他人と同じ報酬を得ることはできないということを常に忘れるな。

言い換えれば、偉い方にお伺いしない者がお伺いする者と同様に、またお供しない者がお供する者と同様に、またはお追従(ついしょう)を言わない者がお追従を言う者と同様に、どうして彼の恩顧を受けることができようか。いわばそのものが売られる代価を支払わずして、そのものを得ようとするならば、君は不正であり、また貪欲である。

サラダはどれほどで売られるか。多分1グロッセンくらいであろう。さて今、ある人が自分の持っている1グロッセンを支払って、その代わりにサラダを得たとする。一方君は1グロッセンを手離さず、何物をも得なかったとする。この場合、君はその人よりも決して少なく持っているわけではない。彼は彼のサラダを持っているし、君は君の手離さなかった1グロッセンを持っているのだ。これは他の場合についても同じである。

君はある人に招待されなかったが、しかし、招待者がそれと引き換えに招待を与えるところの代価を、君もまた与えなかったのである。招待を与える人は実際、自分への賛辞に対し、自分への尽力に対して招待を与えるのである。したがって、彼から招待を受けたければ、君はその代価となる賛辞や尽力を支払うがよい。それをせずして受けとろうとするなら、君は貪欲な愚か者である。

ところで君は、この場合について、招待の代わりに何をも持たないのか。いいや、君はたしかに、誉めたくない人を誉めなかったということを持っているのである。
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影響力のある人から寵愛を得るためには、お伺いを立てたり、お供したり、お追従を言ったり…、自分の尊厳を代償として支払わなければならない。それを支払って恩顧を受けても、支払わずに恩顧を断念しても、「持っているものは同じだ」とエピクテトスは看破しました。恩顧を得た人は、自分の尊厳を代価として得たのであり、得なかった人は尊厳を支払わずに自分の手許に持っているのです。持っているもの、という観点では同じであり、どちらの方が多いわけではありません。しかし、その後の人生はどうなるでしょうか。自由に自分を表現し、実現してゆけることと、影響力のある人の設けた制限に束縛されているのとでは、どちらが勝っているでしょうか。わたしたちは、他人に指図したり、他人を思うままにコントロールしたりする権限を持つことが「成功」であると思い込まされてきたために、本来もっとも貴重であるはずのものを放棄してきたのではないでしょうか。

「ところでこの場合、君は権力者からの招待の代わりに何も持たないのか。いいや、君は誉めたくない人を誉めない」という意志の自由を有しているのです。これ以上の財産があるでしょうか。「どんな些細なことであっても、自分の意に反したことをしないでいられること」、これ以上の財産があるでしょうか。わたしたちは他の誰かの意志のための奉仕者として生まれてきたのではないのです。わたしはわたしの意志のために生きる、これは哲学者でなくても、だれにとってもあたりまえの道理ではないでしょうか。

家庭をも顧みず、人生を会社のためにささげてきた、それなのに不況になると肩をたたかれた…、権力者のために自分の尊厳、家庭、人生の美しいものすべてを捧げ尽くしてきたのに、権力者の都合で捨てられるというのは決して特殊な出来事ではありません。こんな話を聞くと、ほんとうに大切なものは何かということに気がつくのではありませんか。そんな事態になれば今度は人を恨むというたいへんなエネルギーが消費される精神的ストレスをも抱え込むのです。他者に所属するもの、つまり自分の力の及ばないものを見分けて、手をださないというのは、とても貴重な人生処世訓だとわたしは思うのです。


ナポレオン・ヒルが著した「成功哲学」という本にこのようなエピソードがありました。
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ある青年貿易商が私に会いに来て、こう言った。
「私の人生の主な目的は、ヘンリー・フォードが蓄積した富の百倍、つまり一千億ドルを築くことです」。
それで私(N.ヒル)は訊いた。
「そんなはした金で何をしたいのかね?」
彼はいろいろ言っていたが、結局、
「実を言えば、よくわかりません」と白状した。
「それなら」と私は言った。
「一人の人間が一千億ドルを持つのは、世界に脅威をもたらすことになるよ。それは別におくとしよう。
もしその財産を、古い迷信や時代遅れの因習を克服したがっているインドの人々(この本は20世紀半ばに書かれたと思われるので、その頃のインド)を援助するのに使うのだとしたら、私は君に共感するね。だが、どうやら君は、ヘンリー・フォードを抜くだけのためにそのお金が欲しいようだね」。
彼と話し合ってみてわかったことだが、彼が本当に欲しいものを手に入れるためには、25万ドルもあればよかった。彼自身にもそれがわかったらしい。それがわかって、彼の心の緊張もほぐれたようだ。
「ずっと気分が楽になりました」と彼は言った。
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この青年貿易商は自分のために生きていたのではありません。ヘンリー・フォードという他人に振り回されて生きていました。この人はカルトに所属していたのではありませんが、他人を出し抜こうという想いが、カルトのように彼を駆り立てていたのではないでしょうか。この青年にとって、20世紀半ばにおける一千億ドルの稼ぎは、人生の本当の目標ではありませんでした。この目標は、彼の「力の及ばないもの」へ向かっていたからです。だから「何のためにか分からなかった」のです。

人に指図を与えられる地位に就きたいというような目標も同じです。他人の行動は他人の権限に所属するものなのです。あなたが指図しようとしても、相手の人が、「わたしはあなたから何かの任命を得ようとは思わない。だからあなたのためにわたしの尊厳を放棄したりはしない」と宣告されれば、あなたの野心は挫折することになります。自分の力の及ばないものへの野心は、自分を満足させないし、他人をも不幸にします。そおの場合、あなたは面子をつぶされた代償として彼に思い知らせてやるために、わざわざ時間と労力を割いて復讐しなければなりません。これも大きなストレスです。

クリスチャンとして生きて行きたいなら、人の上に立とうなどとは思わないことです。イエスはむしろ仕えるようにと言われたではありませんか。大会などでもよく用いられる開拓者になるとか、長老や旅行する監督になることは「仕えること」だと、エホバの証人によって再定義されますが、実情を見ればそれはウソであることは分かるはずです。キリストの追随者であるならなおさら、自分の領分と他人の領分をわきまえることがより重要だと思うのです。なぜって、他の人の自己決定権を尊重するのも「愛」だから。

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自尊心を建て直す(3)

2005年05月20日 | 一般
こんにちわ! 暑いですね。今日はこれから同僚と食事に行きます。がぜん元気が出てきました。

さて、「自尊心を建て直す」の第三弾がようやく書き終わりました。今回は実際に役立つものです。またまた長いですが、ぜひ見てくださいね。



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楽観主義(プラス思考)



1.
楽観的であるということは「ノー天気、極楽トンボ」ということと同じではありません。楽観主義はむしろ、あらゆる困難に立ち向かう力です。

*****

楽観主義者は、あらゆる困難に勇敢に立ち向かい、それらを難しいこととは受けとらない。彼らは自信を持っており、人生を切り拓いてゆく意欲を容易に生み出せる。彼らは過度の欲求を持たない。なぜなら彼らは良い自己評価を持っており、無視されているとか疎外感を感じるというようなことはないからである。それゆえ彼らは、人生の諸困難に耐えるのが他の人々よりもたやすい。
(「人間知の心理学」から)

*****

悲観主義者は、悪い事態は長く続くものだし、自分は何をやってもうまくいかないし、それは自分が悪いからだと思い込むのに対し、楽観主義者は同じような不運に見舞われても正反対の見方をし、敗北は一時的なものだし、その原因も現在の事態を引き起こしたものひとつであり、決して自分の人生に一般的について回るものではないと考えています。


2.
楽観的でいられるかどうかは、未来志向、目的思考であるかどうかの違いでもあります。

人間の行動を解明しようとする視点として、
(1)過去の原因から見て、「人間の行動には原因がある」とアプローチする方法、原因論と、
(2)未来に向けての目標から見て、「人間の行動には目的がある」と迫る方法、目的論があります。

フロイトの精神分析は「原因論」の立場に立ちます。デカルト、ニュートン以来の科学的思考法をそのまま人間精神にもあてはめて、クライエントの症状や行動を解明する際、過去の親子関係などの生育暦に問題の焦点を当てようとします。自分という人間を見つめるとかいう面ですると、それはそれなりに価値はあるかもしれませんが、生きてゆく上でまず大切なのは、今現在の局面にどう対処するかということです。

アドラー派の主張はフロイト=原因論の対極に位置する、目的論の理論です。アプローチの仕方を対比してみると次のようになります。

(1)原因論では、人間は原因によっていわば後ろから押されて生きている、つまり過去の何かの原因が致命的な影響を与える、と見るのに対して目的論では、人間は過去にどんなことがあったにしても、未来の目標に向けて現在の境遇に積極的な意味を見出せる、自ら目標を設定してそれを主体的に(自分主人公的に)追求して生きてゆくことができると考えます。

(2)この原因がこういう結果を生みだす、という思考法は自然現象を科学的に評価するときには有効かもしれませんが、人間の行動は単に化学・物理法則に動かされているのではなくその人固有の意志が存在します。目的論では、人間の行動を意志による営みと捉えます。同じ境遇の下に在っても、それぞれの意志の違いは、その後の人生を異なったものにします。人間の行動を説明するときに極端に原因論に偏って、本人の意思や主体性をないがしろにすると、不適切な判断や行動の責任回避に陥ってしまうかもしれません。

(3)原因論では、不幸な環境や否定的な要因があるので、今現在うまくいかないことが多いとみなして、当人を被害者、犠牲者と見なしがちです。それに対して目的論では、自らを当事者とみなす発想法です。創造的、建設的に「自分は運命の主人公」と受けとめ、状況に対して能動的に対応してゆく生き方です。

目的論的思考と原因論的思考とのちがいは、日常におけるシチュエーションで見るとあきらかです。
原因論思考を反映した言い方で、人間関係を悪くしがちなものに、「なぜ」に類する言葉があります。ここでひとつ、ある恋人同士の待ち合わせのケースを見てみましょう。

*****
良美さんは邦彦さんと6時半に待ち合わせた新宿駅の東口でずっと邦彦さんを待っています。良美さんは運悪く携帯を会社に置き忘れていました。6時40分になっても彼は来ません。「残業があって遅れているのかな、気にしないでおこう」と思いましたが、念のため、彼の携帯に公衆電話からかけてみました。

話し中です。

「もしかしたら、遅れてごめんって、わたしの携帯にかけているのかな」と思い、悠長に構えていると、邦彦さんが怒った表情で近づいてきました。

そして第一声。
「オマエ、なんでこっちにいるんだ?」
「だって、東口交番って言わなかったっけ?」
「東口じゃなく、西口って言ったじゃないか!」
「ふつうなら確認するんだけれど、今日、携帯、会社に置いてきちゃったのよ」
「なんで置いてきたんだよ。何回も電話したんだぞ。
よりによってなんで東口だって思い込んでいたんだ?」
「前に東口で待ち合わせていたこともあったじゃない」
「前のことと、今回のこととなんで関係あるんだ?」
「そう思い込んでいたのよ」
「オマエってやつは、なんでそんなに思い込みが激しいんだ?」
「そこまで言うことないでしょ! あなたってどうして人のことばかり責めるの!
もういい! 帰る!」
*****

このケースでは邦彦さんが良美さんに対して何回も「なぜ」と追及しています。あまりにも訊問調なので、最後には良美さんも「どうして」と反発し、喧嘩別れになってしまいました。

わたしたちは結構、「なぜ」「どうして」と質問します。自分がこのように訊かれてみるとわかりますが、かなり答えにくい質問です。そんなふうに訊かれると、なんだか糾弾されているような気分になりますし、人格を否定されていると感じます。(事実、人格を否定する話しかたです) だからそのような話しかたはお互いの関係を悪くする作用があります。

それに、「なぜ」という問いに対しては、半分以上正しい答が出てこないものです。「なぜ」と問い詰めるのは、相手に弁明を求めているのではなく、非難し、責めたてている話しかたであるのです。

科学的思考法に慣れた人たちは、「なぜ」を連発して質問する癖があります。これは自然現象や出来事のような人間の意志を伴わないものごとを対象にした場合には、有効なアプローチですが、人間の意志を伴う行動にとっては、非建設的です。なぜなら、科学の対象となる事象はたしかに原因-結果という「因果関係」で成立していますが、人間の創造的な意志を伴う行動はキッカケはあっても因果関係ではなく、目的-手段(目的を果たそうとする手段)の関係で成り立っているからです。何かの目的を持ったことに対して、人間は手段として行動に移すものだからです。そしてその手段というのは人によってさまざまに異なっていて多様なので、この場合にはこの手段のみ、というような画一的に決まってはいないのです。人それぞれ、個性に沿った仕方で行動するものなのです。だから、目的は同じでも人によってアプローチのしかたはいろいろで、ある人があのようにし、かの人はかのようにしたからといって、どちらが「真」で、どちらが「偽」かという問題ではないのです。

さて、ここでもう一度、良美さんと邦彦さんにご登場してもらいましょう。同じ状況でありながら、今度は喧嘩別れしないですむ方法でやり直しです。

*****
「あれ、やっぱりこっちにいたんだ。僕は西口交番のつもりだったんだけれどね」
「私ったら東口だとばかり思っていたわ。西口だったんだっけ?」
「たしかそう約束したと思ったよ。それに電話したけれど出ないんで、よけい心配になっちゃったよ」
「ゴメン、会社に忘れてきちゃった」
「それがわかって安心したよ。さ、行こう」
*****

人間関係を円滑にしたいと思うなら、「なぜ」と言わないですむような相互関係に満ちた関係を築くことが先決です。まとめておきましょう。



* Why(なぜ、どうして)という訊きかたの問題点 *
1.つじつま合わせの回答をい引き出すため、半分以上ウソが混じりがちである。
2.賛成できないときや不快感を表明するために、使われることが多い。
3.訊かれた人に言外に強い否定のメッセージを伝えてしまう。
4.相手に防衛的、逃避的にさせがちで、怒りを引き起こさせ攻撃的にさせる。
5.お互いの距離感を作り、信頼関係を傷つける。

* Whyと訊きたいときの別の方法 *
1.人間の行動、言動については極力使わない。
2.使うときでも軽く言う。また連発しない。非難しようとしなければ使わずにすむ。
3.原因を聞くよりも、目的を聞くよう心がける。
  Whyは原因についての問い、For Whatは「何のために」、目的についての問い。
4.過去のことがらを否定的に、かつあれもこれもと話を拡大して指摘しない。
5.代わりに、特定のことがらに限定して、How(どうやって)を使って、目的達成指向、解決指向でアプローチする。



(「勇気づけの心理学」/岩井俊憲・著)
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いかがでした?
今回はかなり実践的だったでしょ? 他人に共感する、他人を理解するっていうのは純然とした「スキル」の問題です。エホバの証人時代は互いが互いを牽制し、監視しあうギスギスした人間関係だったので、非難し、責めたてるコミュニケーションでした。以前にこのブログで紹介した、ゴードンさんの本からの引用とともに(「わたしをヘルプしてくれた本」参照)と共に、参考にしていただけたら、と願います。活字を読むのが苦痛じゃない人は、これらの本を一度ご自分でお読みになってください。
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今日の夕刊

2005年05月18日 | 一般
今日の夕刊のニュースです。じっくり考えてください。

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学生無年金障害者訴訟:
原告の訴え棄却 京都地裁「立法の裁量逸脱せず」
 


20歳を過ぎた学生時代に障害を負った京都府の2人が、国民年金未加入を理由に障害基礎年金の支給を拒否されたのは違憲として、国側に不支給処分の取り消しと1人2000万円の賠償を求めた訴訟の判決が18日、京都地裁であった。水上敏裁判長は「救済措置が取られなかったことが立法の裁量を逸脱するとは言えない」と地裁では初の合憲判断を示し、原告側の訴えをいずれも退けた。原告側は控訴する方針。

 一連の訴訟では04年3月~05年3月に東京、新潟、広島の3地裁で違憲判決が続いたが、その後の東京高裁判決(05年3月)が原告側逆転敗訴となる初の合憲判断を示した。

 原告は交通事故で視力に障害を負った京都市上京区の鍼灸(しんきゅう)師、坂井一裕さん(54)と、精神障害のある京都府精華町の無職女性(42)。2人は98年に障害基礎年金の裁定を請求したが、初診時に22歳と21歳とされ、当時は20歳以上の学生は任意だった国民年金に未加入だったとして、99年に不支給処分となった。

 判決は、国民年金の学生の加入が当時任意だった点について「一つの在り方」と認めたうえで、未成年者に限って障害基礎年金を支給する制度は合理的と判断。20歳未満の学生が支給対象で、20歳以上の学生だけが加入しない限り対象外とされた差について、「不合理とはいえない」と結論づけた。

 「学生無年金障害者が長年の放置に強い不公平感を持つのはもっとも」としたが、「特定障害者給付金法制定まで特別の救済措置が講じられなかったことが著しく合理性を欠くとはいえない」とした。【太田裕之】

 ◇「主張認められた」

 厚生労働省は「国のこれまでの主張が認められたものと考えている」とする年金局長名の談話を発表した。

(毎日新聞 2005年5月18日 東京夕刊)

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学生さんの年金加入は任意だった、でも支払っていなければ給付されない。

これ、国の方針です。原告はまた控訴するっていうから、最終的な結論はどうなるかわからないけれど、これは厳しい判決ですよねー。でも現実ですよ。エホバの証人のみなさん、ハルマゲドンが来ても来なくても、重要なのは今やるべきことはきちんとする、これが責任感のある生活態度だと思います。

年金を支払い続けるのは、ハルマゲドンを信じていない証拠だと思ったのはだれですか? あなた自身がそう思ったのですか? それともあなたに対して影響力を及ぼせるだれかですか。あなたはその人たちの聖書解釈に従わなければ会衆内で「進歩」できなかったので、言うなりになったのでしょうか。たとえわずかでも年金をもらえるのは助けになります。その時に地団太を踏むのはあなた自身です。しかもそれは全面的にあなた個人の責任なのです。その時に、あなたに暗に支払いを拒否するよう押しつけた人は知らん顔をするでしょう。もちろんものみの塔聖書冊子協会もなにもしてくれません。身内で助け合え、言い放つのです。

終わりの日がいつ来るのか、と言うことについてはイエス自身も知らないと書かれているのです。さらにイエスの追随者は、諸国民から賞賛されるように生活を送るようにとも書かれています。自分の面倒は自分でみれなくて諸国民の模範になれるでしょうか。「いつかわからない」のであれば、自分が生きているうちじゃなかった場合のことも考慮に入れて生活設計を立てるのが良識ではありませんか。エホバの証人のみなさん、イエスの教えにだけ注目しなさい。長老たちの教えに従ってはならない。それは人間の解釈でしかないのです。あなたの信仰はあなた自身から出たものでなければ、真の崇拝とはいえないのです。


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愛の物差し

2005年05月16日 | 一般
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,5 みだりな振る舞いをせず,自分の利  を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
8 愛は決して絶えません。
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聖書には、まず第一に神を愛するように、と書かれています。しかし、エホバの証人の大好きなこのコリント第一13章4-8節の記述は、人間への愛を言っています。ねたんだり、自慢したり、思い上がったり、刺激されたり、傷つけられたり…といったことは人間関係のことだからです。

エホバの証人であった人たちなら、聴聞会とか審理問題とか聞くと大変に不快感を思い出すことでしょう。長老たちの態度は、裁判にかけられる人の行為がどういう処罰にあてはまるものかを決めるもので、その人がどんな気持ちだったか、感情的にどれほど打ちのめされているかを考慮しようとするものではありませんでした。

ものみの塔には、「長老は警察官ではない」だの「裁くことではなく、援助である」と言いますが、実際は逆で、文字通りの意味で「裁き」でした。そしてその裁きを「援助」という言葉で再定義するのです。レイプされた女性は、打ちのめされた感情、貶められた品位に苦しんでいても、その気持ちを汲もうという態度は全然ありません。まず最初に、処罰の対象であるかどうかが諮られるのです。結婚関係外の性交渉はとにかく何らかの矯正を受けなければならないのが掟だからです。人は処罰によって清められる、というのがエホバの証人のモットーです。そしてこれは間違いです。

心に深く傷を負った人は、時にお寺に駆け込んだり、教会へ行ったりするというような話しを聞きますが、エホバの証人の宗教は正規信者に、そういう癒しを与えるものではありません。成員は教理体系のために存在する、というのがエホバの証人の体制です。それだからこそ、時に「北朝鮮」と例えられるのです。人間のための組織なのです。人間がいなければ組織の枠組みに何の意味があるでしょう? 組織の指導部がいくら強権によって自分を高めても、人がいなければひとり芝居です。現役の方、どうかそこを考えてください。あなたは他人をヨイショするために生まれてきたのではないのです。時々思い出したように頭をナデナデしてもらうために、あなたは自分の人生の貴重な時間をただシッポを振るためにだけに費やしていていいのでしょうか。そんな人生でいいのでしょうか。あなたはそれをほんとうは不満に思っています。その不満を解消するために、熱心じゃない人に圧力をかけて、開拓に入らせたり、イジメたりするのだとしたら、それこそ組織の人たちと同じじゃないですか。

人間を助ける、あるいは人の悪い傾向を正すというのは、処罰への恐怖では成し遂げられないでしょう。疎外される苦痛では人間は自分を変えようという目的での内省はしたりしません。疎外される恐怖はとにかく組織への服従を学ぶだけです。処罰は、自分が傷つけてしまった被害者への共感を持つことができて初めて意味をなします。組織への恐怖、掟への恐怖のためにおとなしくなる、というのは真の反省ではありません。恐怖や痛みによって言うことをきかせようとするのは、動物の調教です。エホバの証人のやり方は人間を動物扱いしています。おそらく協会の指導部にとって、信者とはそのようなものなのでしょう。彼らの目的は、彼ら自身に服従させることなのです。

加害者の心に被害者への共感を生み出すには、彼らも人間であり以上、人の気持ちを理解する人間としての能力を持っている、と信じなければなりません。平気で他人を傷つける人はまず第一に本人が深刻に傷ついているからです。その傷を癒すのには長い長い時間をかけてカウンセリングを施さなければならないでしょう。ここでキリスト教的「愛」が試されます。「愛は信じ、希望する」のです。加害者も、違反者も人間であり、違反し、加害したのはまず本人の、愛されることへの絶望的な飢えがあったからです。しかし加害者は本人がその気になれば、きっとそういう感受性を取り戻せる、そう希望してカウンセリングを施すのが真の「援助」だと、わたしは考えます。

わたしは死刑反対の立場ですが、それはエホバの証人としての機械的な裁きを経験したからです。死にたくなければ言うことをきけ、なんて人間をまったく信じていない! 人間には情緒があり、理性がある生き物だっていう認識がない! 死刑を執行するにしても、本人に悔悟の心がなければ、ただの復讐でしかありません。だから宅間守への死刑執行は民主主義精神への冒涜だと思っています。彼が行った犯罪は憎むべきものです。そのことを彼に分からせたのでなければ、刑の執行はただの暴力です。やられたらやり返す、そんなのってまるで太古のバビロニアと同じじゃないですか。また古代イスラエルの報復主義と同じじゃないですか。ルネサンス以降の近代精神は、人間が神権的封建支配における人間の奴隷状態から、ひとりひとりの人間が、個々の個性が尊重されるものとして認めようという精神の復興だといっても間違いじゃないでしょう。それなのにエホバの証人は、そしてエホバの証人の言う「神」は、とにかく法令違反という行為を罰するのです。人間は「自動法律遵守機」でしかないのです。法を遵守できないのは故障品なので壊してしまえ、と言ってるのと同じだと思います。エホバの証人の要求は無条件に人間精神、個性を尊重しようという精神を降伏させよ、というものです。見せしめの処刑なんて、権威への恐怖を生み出すだけで、人間への愛を生み出さないのです。恐怖で従わせようなんていうのは、人間を人間と見なしていないのです。

子どものしつけも同じです。人前で辱め、屈辱を与えて従わせようとするのは、反省させるどころか恨みさえ生じさせるでしょう。今度は見つからないように、もっとうまくやり抜けようとさえ考えるようになるでしょう。侮辱して悔しい気持ちになれば子どもは反省するだろうというのも、エホバの証人の考えかたに共通しています。子どもの人間性を認めるなら、辱められることへの恐怖によってではなく、子どもの心を諭すべきなのです。子どもはサーカスの動物ではないからです。人さま、世間さまの喝采のために生きているのではないのです、子どもは! しかし、エホバの証人はまさに人前で辱めることで従わせるのです、大人に対してでさえ! 

子どもが悪さをするのはどうしてでしょうか、子どもはどんな気持ちでそんなことをやったのでしょうか。二人目ができたのであまり構ってもらえなくなったからでしょうか。学校の先生に誤解されて悪者にされてしまって、そのことに親が共感してあげてなかったからでしょうか。そういう「心」を理解せずに処罰を加えれば、恨みを深めるだけです。

エホバの証人は「家族生活」という書籍を使って、エホバの証人になれば家庭は幸福になると言って回っていますが、チャンチャラおかしいです。逆です。むしろ、自分の気持ちをほんとうに理解してもらえない、ほんとうの気持ちを殺さなければならない精神風土があるので、「孤独」を生み出す宗教だと評価するのが正解です。これは表面的に揉め事があるかないかで量れるものではありません。揉めごとがないのはうまく行っていることと同じではないのです。うまくいっている、信頼関係があるのであれば、揉めごとがあっても決裂まではいかないのです。

エホバの証人の体質は非人間的です。このような宗教はいくらでも非難されて当然です。

******

人のこころを見て慈悲を持て。行いだけを見て責めるな。また反対に、正しい心情からでたものではない行為を高く評価するな。 - カール・ヒルティ

******

補足:
エホバの証人は心情が正しかろうが、正しくなかろうが、行為が組織の指導に沿ったものであれば、高く評価します。つまり、真に神への気持ちから出たものでなくても、すなわち「お手本どおりになぞっていれば特権がもらえる(=特権がもらえることはつまりエホバに認められていること、という深刻な誤解からくる動機)」という気持ちであっても、時間を多く入れ、最訪問を量産し、研究を取り決めればそれは高く評価されるのです。ここにもエホバの証人がどういう宗教かということが表れています。一方、真摯に神を愛していても、報告用紙の数字が少なければそれは評価されないのです。神への愛は報告用紙の数字で量られるのです。こんなのが神を崇拝する宗教なんて、絶対に違います。これは少数のエリートに多数の一般人を従わせようとする、時代遅れの絶対的強権支配です!



脱線だらけの書き込みでごめんなさい。ちょっとアツくなりました。
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新刊書案内 2

2005年05月15日 | 一般
加藤諦三さんの新刊書が出ました。といっても、これは以前刊行された、「いじめに負けない心理学」の文庫化ですが。表題が「やさしさを強さに変える心理学」と改題されているので、よく中を見ずに買ってしまいました。500円損しました。でも、「加筆・修正したもの」だそうで、ま、いいかとあらためて読んでみようと思います。「文庫版への前書き」をご紹介します。エホバの証人の呪縛を逃れたくても、親しい人や愛する人がエホバの証人に心酔しているために離れられないとか、エホバの証人の聖書解釈が自分の肌にあってるのだけれども、いじめられていて、それがつらいとか、正規開拓まではしたくないし、それが必要だとも思わないけれど、拒むと居場所を失う、だから野外奉仕がつらくてつらくて…、一生懸命聖書を読み、エホバに日々頼っているのに、なぜかイライラする…という方々には、大きなヒントを与えてくれる内容だと思います。

****
 人は自分の意志がない時には周囲の人からもてあそばれる。
 世の中には「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」がたくさんいる。やさしさには「たくましさからのやさしさ」と「弱さからのやさしさ」がある。「弱さからのやさしさ」とは、「イヤだな」と思っていながら、それを言えない。弱い人は、自分の気持ちを適切に説明することができない。人から「こうでしょ」と言われると、「まあ…そうです…」と言ってしまう。他人から「これは良いものだよ」と言われれば、そう思ってしまう。しかし後になって、何かよくわからないが不快感にさいなまれる。「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」は糸が切れた凧みたいなものである。あるいは「いつも宙ぶらりん」と言っても良いだろう。相手は意志を言う、こちらは意志を言わない。「お金を貸して」と言われるとイエス。「あの人は悪い人」と言われるとイエス。そういう弱い人はとにかく相手の言いなりになっている。自分がいじめられていることさえわかっていない。相手は自分を道具として使っている。それに気がつかない。それがもてあそばれているということである。

 同じことでもそれに気がついていないのが「もてあそばれた」ことであり、それに気がついた時が「いじめられた」になる。「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」は、自分が「相手を嫌いだ」ということにさえ気がついていないことが多い。相手を「嫌い」と気がついたときに、「いじめられている」という感覚になる。

 おそらくそういう従順で弱い人は、恐怖の中で成長してきたのだろう。恐怖や不安というのは、たとえば親から見捨てられる不安である。具体的には「お母さん、家、出て行っちゃう」とか「あなたなんか生まれなければよかった」などというような言葉である。

 ひどい母親は、気に入らない子どもにご飯をあげない。そして父親はいつも渋面であった。よい成績でないと夜中まで叱られた。叱られたというよりもいじめられた。そして「どうしてお前は誰々のようになれないのだ?」式の言葉でいつも能力以上のことを要求された。「学年で一番になれ」という無理なことを言われる。これは父親のいじめである。

 いじめられる子は、自分がいじめられていることに気がつかないが、同時に相手の親切に気づかない。そうした恐怖の中では、極端に言えば寒さ暑さも感じないような人間にさせてしまう。恐怖の中では自分で時間を充実させることができない。

 このように不安や恐怖の中で成長すると、意志を失う。すると、「オレ、マリファナ、やってるんだぜ」という友達の後をついてゆくような子になる。そしていいように利用される子になる。友達からいじめられる子はたいてい本当の気持ちを親に言えない。そうした親子関係の中で育っている。不安や恐怖の中で生きるということは、ただ生きるだけでエネルギーを消耗してしまう、なにもしないでも疲れる。



 いじめでからかわれている子は多くの場合、迎合するタイプである。いじめる側から見ると、その子は「先生には言わないだろう。仲間を作らないだろう」と思われている。いじめられる子は、やさしくて弱いからいじめられる。

 いじめる人は憎しみを持っていて、ストレス解消のためにいじめる対象の人を探している。そして害がなくて、真っ白な人を見つけていじめる。見つけると相手が嫌がることをする。その子を「臭い」とか、「汚い」とか色をつけてゆく。いじめることが自分の癒しになっている。いじめる人の安らぎは憎しみのエネルギーの発散である。憎しみのエネルギーを放熱して安らぎを得る。

 従っていつも怯えて周囲の人に迎合している子は、すぐにいじめられる。「お金もってこい」と言われて家からお金を盗む。大人で言えば、世間慣れしていない人である。いじめられる大人は、弱くて純粋な大人である。親にとって都合よい子は、やがて大人になって社会に出ても、周囲の人にとっても都合の良い子になろうとする。そして結果はからかわれるだけである。大人なのに、何か言葉を言うだけでからかわれている。



 ではたくましくなるため、強くなるためにはどうしたらいいか? 本書の第7章でも詳述するが、ここではそれとは別にあらかじめ考えておきたい。

 まず第一に自分に気づくことである。自分に気づけば強くなる。自分がわからなければ勇気はだせない。自分が怯えているときには、何をしても失敗する。その失敗を分析したら強くなれる。「ああ、こういう女にだまされたのか」とわかる。そのときにそれに気づいて「なぜ?」と分析する。すると自分の弱点が見えてくる。そして相手のずるさも見えてくる。しかし相手はこちらが気づいたことに気がついていない。そこで同じパターンを使ってくる。相手はこちらをナメている。だから相手は同じ手を使う。

 しかし自分の弱さがわかれば「ああ、これだったのか」と相手の正体にも気がついてくる。そうして相手を見ていくうちに自分の態度が自然と変わってくる。そのうちに「それはしないよ」ときっぱり相手に言うときがくる。

 強くなるということは周囲の人が見えてくることである。今まで「強い人、エネルギッシュな人」と思っていた相手が、実は「不安な人」だと見えてくるときもある。相手はエネルギッシュな人ではなく怯えているだけの人だとわかる。怯えているから自分の勢力を増やさなければ裸でいるような不安さを無意識に感じ、じっとしていられなくてエネルギッシュに動いているだけのことだとわかってくる。そしてさらに、「だからこの“弱い私”をプレッシャーによって“暗に恐喝”してくるのだ」ということがわかってくる。エネルギッシュに動いている姿だけを見て、強い人だと思っていた自分の見る目の無さがわかる。

 第二には「自分にとって大切なものは何か?」と考えることである。
 ある、やさしいが弱い若者の実例である。人の言いなりになるタイプであった。その人が結婚をして、家族ができた。山師のような知人が一発勝負のような事業で銀行から借金をしようとした。しかし、彼もついに闘った。彼は決して連帯保証人の判を押さなかった。人は大切なものを守ろうと思ったときに強くなる。守るべきものがあれば、人は強くなれる。「女は弱し、されど母は強し」という言葉がある。「この子を守らなければ」と思ったときに、「弱い女」が「強い母親」に変身する。自分に大切なものがわからないと、困難な問題は解決できない。ほんとうに大切なものが見えないと、戦う勇気が湧いてこない。 「あれもこれも両方ともほしい」というのでは、エネルギーが湧いてこない。「自分は絶対、これだ。これが絶対に必要だ」。そう決断できれば勢いがつく。迫力も違う。死ぬ気になれば相手にはっきりとモノが言える。そうなれば怖い気持ちを乗り越えて、相手を捌く方法も見えてくる。そして解決する。
正体が見えるだけでは解決しない。



 敵意を無意識に抑圧して、周囲の人に従順に振舞い、結果としてノイローゼになる人がいる。そういう人よりも、人と対立することのストレスで胃潰瘍になる人の方がまだ心理的には成長している。人と対立してもストレスをあまり感じないまでに成長している人が望ましいのはもちろんである。

 すき好んで敵を作る人は心理的に健康ではない。しかし自立して生きていくうえで、あるいは自分を見失わないで生きてゆくうえで、どうしても敵ができるときはある。そのときには、敵ができてもそれを受け入れる強さがないとノイローゼになる。敵がいるというストレスに耐えられないというなら、自分らしさ、個性を“殺す”よりしかたがない。

 たくましくなりたければ、「その時には敵と戦え!」である。その時に戦わないとノイローゼになる。そういう人は、死ぬときに「こんな死に方をするなら、あの時にもっと頑張っておけばよかった」と後悔する。死ぬときの後悔は地獄の惨めさである。

 この本には、やさしくて弱いがゆえにいろいろな形で追い詰められた人たちのストーリーが出てくる。それを読みながら、「ああ、この人たちはここで戦わなかったから、ここまで追い詰められたのだなあ」ということに着目して欲しい。なぜこの人たちは追い詰められたのか、ということに関心を持ちながら読んで欲しい。そこで必ず、「これで死んだら、この人たちの人生は何のための人生か?」と考えて欲しい。

 少なくとも対立から来るストレスを感じて苦しんでいる間は、立ち上がれないほど落ち込まない。外に向けるべき敵意を自分に向け、すべての人に迎合して、ノイローゼになる人がいる。そういう人に比べて、戦う人は心理的に成長している。ノイローゼになる人は戦うべきときに、戦うことを放棄して逃げた人である。それに比べて、人と対立するストレスに苦しんでいる人はまだ戦っている。自分を放棄していない。自分に絶望していない。

 人が戦わないのは、大切なもの、好きなものが見つかっていないからである。人は好きなものが見つかれば戦う。そして難局を乗り越えられる。そうしないと敵はあなたの一番好きなもの、大切なものを奪い去ってしまうのだから。弱い人は自分にとって一番大事なものがなんだかわかっていない。だから戦えない。戦わない人は、自分の心臓がどこにあるかがわかっていない。だから敵が心臓を持って行ってしまう。好きなもの、大切なものがわからないから戦わないというのは、自分の心臓をあけわたすというに等しい。

 「これだけは渡したくない」という気持ちがなければ、戦う気力が湧かない。また心の底から「わたしはこの人たちがほんとうに嫌いだ」と思わなければ、別れる力が出てこない。「ほんとうに嫌いだ」と思えば、関係を切断する準備を始める。弱い人は、自分がほんとうに好きなものは何かを考えないし、心の底から嫌いなものは何かも考えない。

 好きなものも嫌いなものも、理屈ではなく、感情的なものである。



 「やさしいが、弱い人」は自分がほんとうに嫌いな事に気づいて、その人またはそのグループから別離する準備を始めることである。どのくらい嫌いかは、そのグループを出た後によくわかる。出た後に、「よくあの人たちといっしょにいられたなあ」と思う。「あのグループの中によくいたなあ」と思う。強くたくましくなるために「好き」と「嫌い」を自分の中ではっきりとさせることである。



 最後に「強さ」とか「たくましさ」と言うときによく誤解がある。
 「強くなる」ということを、人はよく間違えている。「強くなる」というとすぐに、腕力があるとか、凶暴性とか、脅しができるとか、財力や権力があるとかいうように間違える。強さを誤解するから「強くなれ」というと武器を携行するようになる。

 ほんとうに強いとは、たとえば憎しみの感情を乗り越えることである。悔しい気持ちを乗り越えたときにほんとうの強さが出る。男の面子があると思って、「怖い」と言えない。それは強くないということである。自分の弱みをちゃんと言える、それが情緒的な強さである。「強くなる、たくましくなる」ということは、現実の自分に気がつくことなのである。そしてそれを乗り越えることなのである。気づかなければ乗り越えることができないのである。そうすれば、自ずと行動や態度が変わってくる。

 この本がその道案内になることを願っている。



加藤諦三

***

いかがですか。
エホバの証人としての生きかたに疑問を持っておられる方々にきっと良いヒントを与えてくれると思います、この本は。
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2005年05月13日 | 一般
今日ね、誘われちゃいました♪

きちんとした独身者です(^▽^)

日曜はバイトもあるし、お断りしましたが。

きっとサインは通じてるよね。

春。

青い青い空。

空気も新鮮。

いいことみんな、この指止まれ!



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「傷つくならば、それは愛ではない」

2005年05月11日 | 一般
「他人の悪口に惑わされないで」


言葉の境界線について考えてみましょう。「言葉の境界線」とはつまり次のとおりです。

誰かが、あなたの悪口を言ったとしても、それは、「その人の意見」というのに過ぎない、ということです。その人、あるいはその人たちの悪口は、その人(たち)の一方的な意見であり、「ほんとうのわたし」とは別のもの、ということをわきまえるのが、境界線を引くということです。

他人から悪口を言われるたびに傷ついていると、自分のスピリットがしぼんでしまいます。余計なことば、役に立たない他人からのことばは、自分の心やからだの中に入れないようにしましょう。

そして自分も、他人の心に土足で侵入するに等しい悪口、中傷を言うのはやめましょう。

(「心の傷を癒すカウンセリング366日」/西尾和美・著)
----------------------------------

人に好かれようとしていると、簡単に他人に操作されてしまいます。権力者の取り巻きになるタイプの人は、周囲からの賞賛に飢えている人を、動物的本能によるかのように直感的に見抜きます。そして上手に誉めて喜ばせ、周囲からの賞賛に渇いている人の信頼を獲得するのです。それから取り巻きタイプの人は操作を始めます。おだてたりすかしたりして、取りまきタイプの人自身の願望を当の権力者に実行させるのです。権力者が落ち目になると、これまた上手にできるだけ恨まれないように、しかし手のひらを返したように離れてゆくのです。

自分は権力者になれる人間じゃないよ、なんて思っていても、悪口を言われるといっぺんにどよ~んと不安になってしまうタイプであれば、根っこのほうで見ると、同じタイプに分類できるでしょう。そういう人は「自分」というものがまだ十分でき上がっていないのです。だから周囲の人によく思われていることで、プライドが保てるのです。いつかこのブログで、「ひとりの時間を楽しめるようになりましょう」という、やはり西尾先生のことばを紹介しました。ひとりでも時間を有意義に楽しめるのは、「自分」を持っているからです。人からちやほやされていなくても、どよ~んという不安さを感じることがないからです。

自分という人間のポテンシャルをはっきり見定めることはほんとうに大切だなあと思います。どんな場面で長所として発揮できるスキルなのか、逆にどういう場面では短所になってしまいがちなのかをきちんと知っていれば、人に悪口を言われても、足元が抜けてしまったような不安を感じることはないでしょう。実際、続けて西尾先生はこのように書いておられます。

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「自分の長所、能力を書き出すこと」

共依存症人、アダルト・チルドレンの人は、依存心が強く、ひとりでやっていけるという自信が弱いのです。見捨てられる、まる裸でいるような不安にかられ、自分よりも「かわいそうな人」、自分の基準から見て「劣っている」人にからんでゆき、そういう人から離れられません。

自分の長所、能力を書き出してみましょう。自分の力を、実際よりも低く評価しているのではありませんか。またひとりでいる時間を少しずつ長くしてみましょう。ひとりでいると、最初は虚無感に襲われるかもしれませんが、がんばって続けていれば、それはだんだんと消えてゆきます。

ひとりでも十分やっていけるという自信がつくと、寂しさ、見捨てられるという不安、また社会のしきたりに束縛されて、という理由からではなく、お互いの生活をより豊かにするため、そしてお互いの人間性の成長のために人とつき合えるようになります。当然、共依存的なつきあいからは縁を切ることもできるようになるでしょう。

たとえひとりになったとしても、自分は一生涯、決して自分を見捨てないと、自分に誓いましょう!

(「心の傷を癒すカウンセリング366日」/西尾和美・著)
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自分の長所を認めることは決してうぬぼれではありません。人に自分を認めさせようとして遠まわしな言動を取ることのほうがよっぽどみっともないと思われませんか。今日の記事の終わりに、わたしの大好きなことばをご紹介します。

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傷つくならば、それは愛ではない

あらゆる歌や小説や映画が語っていることとは違い、愛は傷つけません。
傷つくのは、自分の望みが満たされないとき、欲しいものが得られないとき、人間関係の中で過去の痛みにふれたときなどです。自分を立ててほしいとか、自分を中心にしてほしいとかいう要求がかなえられないときです。

多くの人が自分の内心の要求を「愛」にかこつけて、周囲の人につきつけてきました。そしてそれが満たされないので、憤るのです。もうそういう要求を捨てましょう。あなたの持つ、高すぎる「理想像」を要求するのは、相手に対しても、自分に対しても勘弁してあげましょう。ありのままの相手と、そしてありのままの自分とつきあってゆきましょう。

(「傷つくならば、それは愛ではない」/チャック・スペザーノ・著)
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いいことばでしょ?
この本はわたしのゲンキの素です。
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自尊心を建て直す(2)

2005年05月07日 | 一般
近ごろはプラス思考が流行ですね。でもプラス思考というのは、無責任ななりゆき任せと同じではありません。他人の面倒に関わり合いになりたくないために、「そのうちいいこともあるさ」と言っても、面倒の渦中にある人は全然元気にならないでしょう。それどころか、「人ごとと思ってテキトーにあしらいやがって!」という怒りをさえ買ってしまいます。プラス思考を保てるのは、自尊心がしっかりしていてこそできることです。自尊心そのものを建て直そうとするときに、まず自尊心が高いとはどういうことなのかを、「勇気づけの心理学/岩井俊憲・著」からみてみます。

エホバの証人のことを思い出しながら読んでください。

-------------------------------
自己評価の高い人、つまり自己受容できている人は、自分という人間の資源(持ち味)を熟知しており、自分で上手に活用している人です。また対人関係でも、他者をありのままに受け入れることができます。(エホバの証人用語を使って言えば、裁かない人、と言えます)自分に対してもやさしいし、他者にも思いやりがあって、寛容なのです。自己評価の高い人は、あなたの人格を認め、あなたに感謝し、あなたを心から信頼し、失敗してもそれ見たことかと非難せず、あなたの可能性を信じてくれる人です。多分そういう人は、年齢、役割、立場を超えてあなたの人格を認め、あなたの肯定的な側面に注目し、あなたの話にじっくり耳を傾けてくれることでしょう。そういう人の特徴は次のようなものです。

1.尊敬と信頼を示していて、それが自分をも他者をも勇気づけられる。
2.楽天的。つまりプラス思考。
3.目的(未来)指向。
4.聞き上手。
5.大局を見る。
6.ユーモアのセンスがある。

逆に、これまであなたが出会った人で、あなたの人格を否定したり、あなたを非難・攻撃した人を思い起こしてください。一度ならず、何度もあなたを意気消沈させ、イライラさせた人を思い起こしてください。そんな人にはどんな特質がありましたか? おそらくその人は、恐怖によってあなたを行動させ、否定的にあなたを扱い、過去のあなたの失敗を繰り返し事細かに追及する態度を取ったはずです。あなたが話をしてもいい加減にしか聞かず、人前であなたを皮肉ったり、屈辱的に扱ったりしたことでしょう。そういう人は自己評価が低く、自己受容できていないのです。以下はそういう人の特徴です。

1.恐怖で動機づける。
2.悲観的。つまりマイナス思考。
3.聞き下手。
4.原因(過去)指向。
5.細部にこだわる。
6.皮肉っぽい。

ではそれぞれの詳細を説明します。



〈尊敬と信頼による動機づけ〉

自己評価の高い人は、他者との対人関係を尊敬と信頼を基本として構築します。一方自己評価の低い人は、恐怖で人を動機づけようとします。尊敬というのは、人それぞれに年齢、性別、職業、役割、趣味などの違いがあるが、人間の尊厳に関しては違いがないことを受け入れ、礼節をもって接する態度です。そして信頼というのは、根拠を求めず、無条件に信じることです。

私たち日本人の持つ「尊敬」のイメージは、「仰げば尊し」を連想することがあります。「下の者」が恩師のような「上長者」に対して敬慕の念を抱き、仰ぎ見る態度です。それはそれで大切な態度ですが、ただここではそのような上下の序列ではなく、年齢、性別、職業、役割に関わらず、対等な人間関係にもとづく態度を意味しています。人間の尊厳には変わりがないという態度です。

あなたが自分の尊厳だけ主張して、まわりの人たち、あなたのお子さんや、生徒や、伴侶や部下については、彼らの尊厳はあなたより低いのでしょうか。逆に考えてみてください。誰かが自分をまず尊敬するよう言外に要求して、あなたの尊厳を軽んじたり、踏みにじったりしたとしたら、あなたはどう感じますか? きっと屈辱的な、腹立たしい気持ちになるのではありませんか。

尊敬とは、あなたにも人間としての尊厳があるのと同じように、あなたの身の回りの人たちにもあなたと同じように尊厳があるとみなす態度です。とりわけあなたが関わりを持つ人たちにはなおさら必要な態度です。犯罪、暴力、虐待などさまざまな人間関係の破綻の問題は、尊敬の欠如から生まれます。

一方、恐怖による動機づけには大きな弊害があります。自分自身や他者を含めて、人を動かす原理として「恐怖」を用いると、その典型的な反応は「戦うか、逃げるか」だということが研究の結果明らかにされています。「戦う」パターンというのはストレスの極度に高まった状態です。瞬間的、短期的なストレスならともかく、恒常化すると自分自身にマイナスのイメージが出来上がり、いざ本番という時に本来の力を発揮できないようになります。

「逃げる」パターンとしては、自分を守ろうとして恐怖を起こさせる要因から自分自身を遠ざけようとして、直面を避けたり、または表面上は従っているかのように振る舞っていながら実際は腰を引いている、いわゆる面従腹背をすることがあります。そのような行為は、自分を欺くような振る舞いは自尊心を自ら傷つけることです。恐怖という感情は、自分を守るために作用し、自分を発奮させ、行動に駆り立てることがありますが、多くは失敗を恐れて行動を控えるか、十分に能力を発揮できないものです。

恐怖で動機づける人は、権力、自分自身、競争を重視し、相手を脅し、無理な要求し、賞罰を与えるようなことを行動の特徴とします。さらには自分自身の内面に克服しがたい劣等感が潜んでいるのです。劣等感をベースにした恐怖は不信感と疑惑と敵意、不満を生み出すのです。
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次回は「プラス指向、楽天思考」です。
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自尊心を建て直す(1)

2005年05月07日 | 一般
朝の満員電車を想像してみて下さい。降りるときに、傘なりカバンなりが当たったからとか言うことで、知らないオッサンに大きな声で罵倒されました。そんなとき、あなたならどう反応するでしょうか。おおぜいの前でみっともない思いをしてしまったこと、何にも言い返せなかったこと、みんなはどう思っているかということ、そんなこんなで自分が情けなく思うでしょうか。それとも、「ヘンな人!」と心の中で言って、あとは気持ちを立て直せるでしょうか。日ごろから自尊心が高いか、それとも低いかということはここに表れてきます。

あなたは、次のように尋ねられたら、どうお答えになりますか。

Ques. あなたは、自分に欠点や気に入らない点について、引け目に思ってしまうタイプですか。また、自分に長所があると指摘されているのに、そのことを認めらないタイプですか。

これは、人がどの程度、自分を受容できているかを測る質問なのだそうです。

ある社員研修の講師がこのような質問をすると、90年代に入ってからこっち、30代以上の男性に、このタイプが増えているのだそうです。一流企業の中堅社員でさえ、70%もの人たちがこのタイプだと言うのだそうです。これは自尊心がひどく低下している現象であるそうです。冒頭の電車での出来事ですが、そういう出来事が原因で、罵倒されたほうがカッとなって傷害事件にまで発展することがあるそうです。たまにそんなニュースって聞きますよね。他人事として聞くと、「大人げないなあ」ですませますが、自分の身にふりかかると、ちょっとつらいものがあるかもしれません。

でも自尊心が高い人は、カッとなったりはしないのです。人前でその程度の辱めを受けても、周囲の人々は、自分が引き下がったことを見て、見下しているのではないかなどと気に病まないからです。自尊心が高いというのは、そのまんまの自分を認めているからです。しかし、自尊心の低い人はちょっとでも辱めを受けると激昂します。痛いところをつかれたと感じるのでしょう。人前で恥をかかせやがって、という感情を抱いて報復するのです。教育カウンセラーの岩井俊憲氏は、自己受容できている人と、そうでない人とを次のようにリストアップしました。


自己受容している人(自尊心の高い人)

自分が自分の味方になっている。
自分自身の能力を知っている。
リスクを冒すことを厭わない。
自立心が旺盛である。
自分の欠点や弱さを客観的に認めている。
自分の感情をコントロールできる。
失敗や挫折を学習の機会とみなす。
将来に自信を持っている。
自分と他者の違いを認める。
他者との関係が協力的。

自己受容できない人(自尊心の低い人)

いつも自分を批判的にみている。
自分自身を無力だと感じている。
リスクを冒すことに消極的。
自立心に欠け依存的。
自分の欠点や弱さを他人のせいにする。
自分の感情をコントロールできない。
失敗や挫折を致命的と考える。
将来について悲観的。
自分と他者の違いを恐れる。
他者との関係が競争的、回避的。

自己受容できない人は生活のどの場面においても、自分の居場所のない思いに寂しく思います。思うことが思うとおりにできずに、孤独に苦しみます。これが自分の人生だ、わたしは他の人と違って超越した存在なのだ、というかたくなな信念で生きていっていいでしょうか。きっと後悔します。自尊心を取り戻すのに、現代では十分な技術が確立されていて、そういう技術が本になって日本ではたくさん出版されています。今回から数回にわたって、ちょっとご紹介します。くわしくは「勇気づけの心理学/岩井俊憲・著」をご自分でお読みになってください。

もうひとつ、自己受容と、自惚れのちがいも示されていますので、ご紹介しましょう。

自己受容のばあい。

しっかりした根拠にもとづいて、自分を認めている。
欠点をありのままに認めている。
勇気がある。
自分をも他者をも肯定する。
対人関係が協力的。
他者の関心に共感的。

自惚れの場合。
根拠なく自分を評価し、高める。
自分の欠点を見ようとしない。
実は勇気のない人。
自分が正しくて他者のほうを拒否的に評価する。
対人関係が競争的、あるいは回避的(ひきこもり、孤立など)
自分の関心事にしか関心を持たない。

ここで、「勇気があること、勇気がないこと」というのはキーコンセプトとなっています。勇気があることってどういうことでしょうか。この本のなかで、リチャード・ドライカースという学者さんの言葉が引用されていました。

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勇気は自己勇気づけの産物で、それは生きることにもっとも活力を与える。勇気がありさえすれば、ある状況下で、ある課題に対してわれわれの内的な資源(個人の持ち味)をフルに活用できる。自分自身の価値を証明することにだけエネルギーを消費するようなことがなければ、われわれは、有益な目標に自ら没頭できる。

勇気は自己信頼の具体的な表れであり、自分自身の能力を堅く信じることから生まれる。勇気は恐れによって麻痺されてしまわない限り、ありとあらゆる存在に自然に備わった特質である。

しかし、よく混同されるのだが、勇気は蛮勇や無鉄砲とは異なる。勇気は本質的に責任感や所属感と相互に関連している。なぜなら勇気は、人生がわれわれのために準備しているかもしれないあらゆることに対処する能力があるのだ、という確信を反映しているからである。

勇気の反対が恐れである。恐れは諸悪の根源である。勇気があれば、適切な判断が下せるし、それによって効果的な結果を自分にもたらすことができる。勇気があれば、身体的な強み、知的な活力、感情的な持久力(スタミナ)、創造的なイメージの力をフルに使える。勇気があればわれわれ自身と他者が平和に暮らせるようになる。なぜなら他者はもとより自分自身のことをもはや恐れることがないからである。
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「自分と他者の違いを恐れる。他者との関係が競争的、回避的」というのはエホバの証人の長老や、巡回監督によく見られた特徴でした。あなたの会社でも、若手の管理職にいませんか、ちょっとしたことで叱り飛ばすとか、どなりちらすとか、侮辱的な対応の人…。これらの人たちも同じです。自分に自信がないのです。ありのままの自分を直視できないのです。とくにエホバの証人の場合、人間的な成長を買われて「特権」を任されたのではなく、任命権のある人に気に入られたことで任命を受けた人たちなので、実際問題の処理能力については「自分自身の無力さ」をひしひしと感じているのです。お局姉妹たちもそうです。親や夫にきちんと愛されないので、成績によって自分を認めさせようとするのです。会衆の新しい成員や若い人たちに影響力を与えることで、自分の価値を自分自身に知らせようとするのです。こんな人たちに操作されてきて、十分傷ついたのではないでしょうか、わたしたちは。わたしたちはあんなふうにはなりたくないですよね。この本は「円熟」というものをキリスト教によらず、エホバの証人がこき下ろしてきた心理学的見地から、スキルの育成によって成し遂げようとさせるものです。わたしもみなさんといっしょに見ていきたいと思います。
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Interlude 6

2005年05月06日 | 一般
衰颯(すいさつ)の景象は、就ち(すなわち)盛満の中に在り、発生の機緘(きかん)は、すなわち零落の内に在り。故に君子は安きに居りては、宜しく一心を操(と)りて以って患を慮る(おもんぱかる)べく、変に処しては、当に百忍を堅くして以って成るを図るべし。
(菜根譚/前集117)
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ものごとの衰えるきざしは、最も盛んで隆々たるときにすでにもう始まり、新しい芽生えの働きは、葉の落ちつくしたときに早速に起きているのである。そこで君子(円熟した人)たる者は、無事平安なときには本心を堅く守り通して他日の患難に備えるべきであり、また異変に対処したときには、あらゆる忍耐を重ねてあくまでも成功することを図るべきである。
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これは「祇園精舎の鐘の音、盛者必衰の理在り…」っていうのと共通するものがあるのかな? 人生って都合のいい時ばかりじゃないし、決して不運にとりつかれるばかりって訳でもない。だから不都合な状況に見舞われる度に、エホバに退けられている、なんて窮々とするなんてばかばかしい。まして人の苦境を見て「エホバに喜ばれてないんじゃない?」みたいなことを言うなんて、人間として未熟ですよね。せっかく「聖書を研究してます」って大声でふれ告げまわっているんだから、「苦難のときの友は真の友」っていう聖句をそこで実践すればいいのに。



「葉隠」でもこんなことが言われています。
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盛衰を以って、人の善悪は沙汰されぬ事なり。盛衰は天然の事なり。善悪は人の道なり。されど教訓の為には盛衰を以って云ふなり。
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人の身の盛衰によって、その人の善悪を論じることはできない。盛衰とは所詮自然のなりゆきであり、一方善悪は人間の判断によるものでしかない。しかしながら、教訓の為には、人の盛衰を善悪の結果であるかのように言いやすいものである。
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自然のなりゆきは善悪で推し量るものではないのです。それをある規範を教え込むために、ああいうふうにならないようにするためには…などと、次元の異なる善悪の判断を持ち出すと、正確な状況判断ができなくなるのではないでしょうか。また困難な時期に冷静で正確な対処もできなくなってしまうように思います。特に、宗教的な規範を守らせようとしたり、宗教的な指図に従わせようとして、自然のなりゆきを善悪で操作できる、なんて言うのは、人を操作しようとする態度だと思います。ほんとうに一人の人間を成長させようとするのであれば、冷静で正確な状況判断ができるように、正確な知識を教えるべきです。



上の「菜根譚」に拠って言うなら、盛んな時期に慢心して、自分をさも成功者のように高めるのではなく、これは、自分も自分なりに努力はしてきたが、しかし上昇気流に乗っているという恩恵も無視してはならない、あまり調子に乗って協力してくれた人たちをクサらせてしまうと、後日タービュランスに落ち込んだときに、協力者を失って、ひとりで対処しなければならなくなるかもしれない。ひとつの目標はそこそこ達成できたのだから、今関心を引かれる次の目標を制覇することに取り掛かろう、その前に、今日の成功を協力してくれた人たちと分かち合おう、友情をさらに堅くしようと心に決めよう、とするのが情緒的に健全な、円熟した人の精神態度であるということになります。

逆に「有事、異変」に見舞われているときには、これも自然のなりゆきなのだから、うまくない事情に見舞われているからといって、自分の決定、判断に自信を失うことはないし、ましてやエホバの報復であるなんて考えて慌てふためくこともない。自分から望んで決定し選択した道なのだから、成就を信じて今手を緩めたりしないようにしよう、できることを精いっぱいやろう。この事情のために自分から離れて行った人たちは、まだ未熟であるか、あるいは利己的な動機で「友」を装っていた人たちなのだ、ちょうど誰をもっとも信用するべきかを知る機会にもなった、これはこれで収穫だった。また失敗やミスからも自分の弱点を知り、経験を積むことができた、これは大きな収穫であると信じれれば一人前に近づける。こう思えれればそれだけエホバの証人のマインド・コントロールの傷痕から解放されているということにもなります。

サイコセラピストの西尾和美先生はこのようなことを書いておられます。
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あなたは、あなた自身であるというだけで、愛情と尊敬を受けるに価する人なのです。
ときには試験に失敗したり、人間関係がうまくいかなかったり、仕事がうまくいかなかったりするかもしれませんが、それ自体はあなたの人間性とはまったく関係のないことなのです。友人や恋人に拒否されたり、誰かに嫌なことを言われたり、批判されたり、見下されたり、精神的に攻撃されたり、辱めを受けたりすることがあっても、そのことはあなたの人間性と無関係です。

もし、まわりでネガティブな問題が起きたら、自分が関わっている部分は何かを考え、それから何を学んだらいいかを考えればいいのです。いったん、何かを学んだら、もうそのことにはとらわれないで、先へ進んでいきましょう。自分をいたわりましょう。あなたは、あなた自身であるというだけで、愛情と尊敬を受けるに値する人間なのですから。
(心の傷を癒すカウンセリング366日)
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ひとつのことを成し遂げようとしたなら、紆余曲折はあるものです。うまくいかないから自分は能無しだとか、自分の決断は未熟だなどと思う必要はないのです。人間にまちがいがあるとしたら、それは第一に「自分で決断しないこと」です。エホバの証人は研究用の書籍だけを使って、バプテスマを決断します。それも自分の決断のように言われることがありますが、それは違います。なぜって、そっれは関係する多くの情報を考慮したのではないからです。エホバの証人にとって都合の悪い情報は遮断されていたのですから、その決断は、自分でしたのではなく、「させられた」のです。そして間違った選択、決断から引き返すことを決断するのも勇気あることなのです。そういう勇気ある決断ができたのですから、「自分」はとても立派な大人なのです。勇気とはアドラー派心理学によれば、リスクを恐れず受け入れることであるからです。

それに、上の菜根譚の句から、わたしが思ったことに、生きがいをどこに見いだすか、は自分の情緒的成熟度を測るバロメーターにもなるということがあります。人に自分を認めさせることを目指していれば、ひとつの成功をひけらかしてしまったり、その成功に慢心してしまったりするのでしょう。でも達成感によって自分のセルフ・エスティーム(自尊感情)をより高め、自分という命を精いっぱい使おうということを目指しているのであれば、栄光を受けることよりも、成功にいたるプロセスのほうを楽しめるのではないでしょうか。だからひとつの成功が終われば、新たな挑戦をすぐに見つけ出して、また成功への長いプロセスを行こうというモチベーションが湧くのです。こういう、人目を得ることに右往左往するのでない、成功におぼれない人の日ごろのあり方がどんなものかを言い表した句が、先ほどの「菜根譚」の句の一つ前に掲載されています。次のようなものです。



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巧を拙に蔵し、晦を用て(もって)して而も(しかも)明にし、清を濁に寓し、屈を以って伸となす。真に世を渉るの一壺(いっこ)にして身を蔵するの三窟(くつ)なり。
(菜根譚/前集116)
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熟練を内に隠して拙いようにふるまい、蓄積してきた知恵をくらましながらも明察することを失わない。清節を守りながらも俗流に身を任せ、身をかがめるのはやがて身を伸ばさんがためである。このような態度が、真に世間の海を渉る上での貴い浮き袋であり、わが身を安全に保つ隠し場所である。
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熟練を内に秘め、清廉をひけらかさず、俗世間で平凡でいられるのは、人からの賞賛を受けようと画策しないからです。そうすることはむやみに敵を作らず、友人を失わずにすむので、「安全」な生きかたでもあるのです。子どもの頃から「自分」の個性を押し込められ、自然な自分の考え、感情、目標は否定されてきたアダルト・チルドレンにとっては難しいことです。人間は幼い頃に十分肯定されてはじめて高い自尊感情を育めるものです。それができていないACは、どうしても自分への帰属、自分を評価することを他人に要求しがちです。でもACのわたしは確信をこめて言います。そうやって生きていても、決して心は満たされません、と。ひとりになればさみしさに苛まれつづけるでしょう。人からの賞賛はまやかしでしかありません。金儲けに狂奔する人は皆そうなのです。「愛され」、「認められ」、受け入れられることを求めて、お金や権力に執着するのです。そしてそういう人を評した聖書の次の言葉は真実です。

銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。
(伝道の書5:9/新共同訳)

自分が自然に望むこと、自分が本来的に欲求する目標、それに従事することが満足を生み、その共同者との絆が人を真に満たす「愛」なのだから。生きること、それは他人に決めてもらうことじゃないのです。生きる喜びも、他人に評価されることじゃないのです。
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