Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

雇用の危機=生活崩壊、責任の真の所在

2009年09月14日 | 「世界」を読む

民主党の大躍進。でも民主党の勝利というよりは、これは自民党への意趣返しという傾向が強いと思います。

なんといっても国民は仕事と暮らしの安心を期待したのです。敗北の影には、自民党が勘違いした点がある、と日本大学の名誉教授牧野先生は主張されました。それはこの事態が主にアメリカ発の金融経済危機にあるのではないということです。わたしたちもこの点をしっかり認識しておきたいです。

そう、この事態は財界と政治の責任なのです。



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雇用破壊、生活破壊をなくすには「ルールある経済社会」の確立が不可欠です。そのためにも、政治を大きく変えなければなりません。



昨秋のリーマン・ショック後、金融経済危機が瞬時に世界を席巻しました。時を同じくして、 “派遣切り” など雇用破壊による生活破壊も一挙に深刻化しました。そのため、雇用破壊・生活破壊の「原因」をリーマン・ショック後の金融危機・経済危機に求める見方が支配的です。

しかし、これは錯覚です。事実に反します。

このような見方は “政治の責任” を隠蔽しています。金融・経済危機が今日の雇用破壊・生活破壊を加速させましたが、これが「主因」ではありません。 

「主因」は、
① 90年代半ばから本格化した「構造改革」、「労働ビッグバン」と、
② 金融・経済危機を口実とした大企業の「派遣切り」などによる大量解雇、
…の二つです。

つまり、「構造改革」・「労働ビッグバン」で派遣労働など非正規労働者を大量につくり出し(雇用破壊の第一段階)、金融・経済危機を口実にして “非正規の使い捨て” を躊躇なく行い、そして “正規労働者の大量解雇” に踏み切るに至った(雇用破壊の第二段階)、ということです。

 

 

(「雇用破壊・生活破壊と政治の責任」/ 牧野富夫・著/ 「経済」2009-9より)


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「ワーキング・プア」なる言葉が流通しだして、非正規労働の非人間性に注目が集まりだしたのはこのリーマン・ショック前後のことです。ネット喫茶などで暮らす日正規労働者などをマスコミは初めは興味本位で、リーマン・ショックからはいくぶん本気で報道・放映するようになったのです。

そんなわけでわたしたちはこの雇用危機・生活崩壊の主因がリーマン・ショックにあるかのように受け止めている向きがあります。もちろん、ブログなどを見れば、目の黒い人たちはそうじゃないことを、ブログ荒らしにからかわれながらもめげずに一生けんめい訴えておられます。しかし、一般にはそのように受け止められているようです。

 

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メディアなどは、上の引用文の第二段階、リーマン・ショック後の非正規労働者大量「遺棄」以後に、雇用破壊を問題視しだしました。

そのため、雇用破壊の発生がリーマン・ショック後であるかのような、そして雇用破壊の原因がリーマン・ショック後の世界金融経済危機であるかのような印象を与えています。これが財界の「自分たちもアメリカ発の金融経済危機の被害者」のように装う態度を生み出しています。しかし、雇用破壊には第一段階があり、それは90年代から始まっていたのです。

 

(上掲書)

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雇用破壊の問題、派遣村事件が論じられる際にも、片山さつきのような規制緩和擁護者たちは、企業もたいへんな状況にあり、内部留保も自由に使うことができない状況に追い込まれているかのような論を展開させてきました。しかし、日本大学の名誉教授である牧野さんは正確に、NO、を言明されました。この事態は財界・官僚と結託した政治の責任であるのです。


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雇用破壊は90年代後半から行われてきた「構造改革」の展開とその急激なエスカレートに対応して生じた現象です。

「構造改革」はその名が示すとおり「部分改革」ではなく、「橋本六大改革」に見られるようにトータルな「日本改造」を追及するものです。その中心には経済があったということです。「構造改革」の眼目は「経済の国際競争力強化」でした。

しかしここで言われている「経済」とは国民の暮らしに直結する「経済」のことではなく、「大企業の経済」=「大企業の利益」のことだったのです。そしてこの「大企業の利益」には日本の大企業だけではなく、アメリカの大多国籍企業が主な部分を占めているのです。

結局、「構造改革」の主旨は「国際競争力強化」という錦のみ旗のもと、大企業の利益のために、生産性が高く、成長の見込める産業・企業・事業等を育成し、生産性が低く成長の見込めない産業・企業・事業を生理淘汰させることでした。規制緩和はこの目的を実現、促進させるためのもので、産業や労働や国民の暮らしを守る役割を果たしていた各種の規制を緩和・撤廃し、コストを引き下げ、大企業の商品の値段を下げることにより、競争力をつけさせようとするものでした。

つまり、この規制緩和による競争・市場原理の拡張と徹底は大資本が圧倒的に生き残りやすく、小資本や農業などには「整理・淘汰」の憂き目に遭わせやすい制度だったのです。強者(日米欧の多国籍大企業)と弱者(中小企業・個人商店・農業など)が競争すれば教者が勝つことは事前に分かっていたのです。結果を承知で競争を仕掛ける、これが「構造改革」の正体です。

そのうえ、政府が強者である大企業を公的資金の投入や税制・金融面で幾重にも優遇支援するのですから、「整理・淘汰」はますます徹底的に進展してゆくのです。「格差・貧困の拡大・深化」が小泉政権時代から重大な社会問題となってきたのは当然の結末なのです。したがって、今日の雇用崩壊・生活崩壊の「主因」は自民党政治にあるのです。

「構造改革」は大企業・財界の利益のために経営資源としてのヒト・モノ・カネを、停滞分野から成長分野へ移し変えるものです。その際、「ヒト」はモノ・カネよりも摩擦が大きく、移動が困難です。というのも、ヒト=労働者は地域に根づいた生活者であるだけでなく、労働法制で守られているからです。そのため、労働法制が財界には「排除すべき障害物」と映じ、その大爆発=「労働ビッグバン」が構想され、実行され、さらに強化されてきたのです。そうです、「労働ビッグバン」は「構造改革」の一環だったのです。

 

(上掲書)

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どこの新聞でも、経済畑の記者たちは、「構造改革」そのものはまだほとんど未着手であり、金融経済危機に萎縮して、政権交代後の経済政策が内向きになってしまわないよう、経済成長を促がすためにも、構造改革を断行すべし、という意見を述べます。

経済畑の人間にとって、社会とはなんなのかについてどう考えているのだろう、と思ってしまいます。学校で習ったとおり、GDPを上げて行き、世界2位に経済大国の面目を維持すること、それが豊かさだと思っているのでしょう。しかし、バブル真っ最中にすでに、日本国民はほんとうに豊かなのか、豊かさとは一体なんなのか、そういう問いかけがなされていたのです(「豊かさとは何か・暉峻淑子(てるおかいつこ)・著」、「豊かさのゆくえ・佐和隆光・著」など)。日本人はバブル真っ最中でさえ、ヨーロッパに比べて生活はずっと追いつめられたものでした。決して豊かではなかったのです。

GDPは上げて行かなければならないでしょう。900兆円に及ぶ借金大国の日本にとっては、経済成長によって借金を減らす必要があります。しかし、国民を犠牲にしてしまっては日本そのものがもたないのです。財界はそれでもいいのでしょう。東南アジアの安い労働力を「輸入」すればいいと本気で考えているのです。労働社階層の日本人が消滅したあとに、労働権も十分に保障されない奴隷のような扱いをされるアジア系の人びとが日本に住み、それを大企業家族のごくごく少数の日本人が支配するという、近未来のディスとピア日本も現実味を帯びてきているのです。

精神科医や有能な=良心的なカウンセラーたちが指摘しているように、日本人は社会性=公共心を喪失してしまっている、他者の気持ちになれず、自己本位な思考が広まっている。個々人がまったく分断され、孤立し、個人主義が偏って進展してしまったようです。このようになったのは相互のコミュニケーションが阻害されてしまったからです。日本とは企業ではなく、国益とは企業の収入ではないのです。それは国民の暮らしを物質的にも精神的にもバランスの取れた豊かさに至らしめること、それが「経世済民=経済」の本来の思想なのです。経済畑の人たちは、そう、戦後の団塊の世代の子どもたちからそのまた子どもたちの世代です。わたしの世代をも含むひとたちです。高度経済成長時代に父親に放置され、過剰な競争にさらされ、ライバルを出し抜くことのみが人生の意義であると、そういう思想を「ことば」でではなく、いえむしろ表面的には理想的友愛的だった「ことば」とはまったく裏腹の「行動」で、国家経済の成長至上主義を刷り込まれてきた世代です。

近年の戦後責任を否定する右傾化もそういう世代によって支えられています。そして経済成長とは企業利益を最大限に上げるため、国民は一身をささげなければならない、かつて天皇に捧げたように、という思想に染まった経済学者たち、経済畑のマスコミ人たちがわたしたちのくらしを捨て駒にしてきたのです。今回の自民党大敗北、民主党独裁体制の確立は、そういう経済全体主義者たちへの、わたしたち捨て駒たちの反乱だったということは出来ないでしょうか。

しかし、労働者派遣法の改正には民主党も賛同したのです。わたしたちは決して楽観できないのです。楽観できないこんな事情もあります。


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財界などは新たな規制緩和=雇用の流動化の動きを強めています。「労働市場の柔軟度を高めることが、結果的には社会全体として雇用拡大につながることも認識すべきである」という経済同友会の第一次意見書(09年4月)はそのひとつです。

また、「これからの雇用システムは、いかに解雇を減らすかではなく、いかに雇用された労働者を新しい職場につかせるか、産業構造の変化に合わせて、どのような能力を身につけさせるかに重点を置いた制度設計をすべきである」というNIRA(総合開発研究機構)研究報告書(09年4月)も同様の主張となっています。

さらにアメリカが日米政府の「規制改革および競争政策イニシアティブ」(09年7月)において、日本の労働市場の流動性を高めることが(=解雇しやすいようにすることが)外国からの直接投資に有利だとの立場から、「いっそうの労働法制の規制緩和」を求めています。これらはきわめて憂慮すべき新たな動きです。

新動向を別にしても、今後、失業の増大が必至の情勢です。「完全失業率の予測平均値が2010年4月~6月期に5.66%まで上昇し、過去最悪を更新する」(経済企画協会「ESPフォーキャスト調査」)という予測や、OECD(エコノミック・アウトルック)の「日本の失業率は09年の第3四半期に過去最高と並ぶ5.5%に達し、10年第2四半期には5.8%に上昇する」などの予測がでていますが、これらは09年5月の有効求人倍率が調査開始以来最低の0.44倍(正社員では0.24倍)まで悪化していることなどを考え合わせると、ひかえめな予測と言えるでしょう。

 


(上掲書)

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牧野先生のこの記事は、こうした事態はすべて財界優遇政策を取ってきた自公政権の政治責任である、というものです。この記事が書かれたのは選挙前です。選挙では自公政権には責任が突きつけられました。

が、民主党はこういう認識を持ち合わせているのでしょうか。アメリカの国防相から沖縄基地の問題でさっそく圧力がかかり、鳩山論文に対し、例のごとく「社会主義的だ」という批判が突きつけられ、鳩山さんは表現を柔らかくしました。

市場が暴走した時には市場に規制を強めて、社会主義よりの政策をとるのは当然じゃないかと思います。経済状況の動きに合わせて、市場に規制を強めたり、逆に規制を緩めて活性化を図ったり。要は国民の暮らしにとっていちばん都合のよい政策を実施していけばいいんじゃないでしょうか。ナントカ主義なんてのにこだわる必要などないんです。

とくに、アメリカのように偏見と差別の露骨な国情と違い、日本はずっと平等思想が行き渡った国なのです。そういう面ではアメリカなんかよりずっと文化的に進んだ国なのです。アメリカのように一部の富裕層の安楽のために大多数の被差別国民を犠牲にしてもしかたがない、とは本来考えなかった国なのです。わたしは日本のこういう面については大きな誇りを持っているのです。こういう優れた面では、決してアメリカに潰されてはならないと思うのですが。もっともアメリカの合理主義と徹底した民主主義も高く買いますが。ただ、最近の日本の状況で気になるのは、国民個人よりも国家全体のほうを優先させる最近の国民意識の右傾化です。アメリカをも含む、統制を狙う支配者層に利用されてしまわなければいいが、と心配です。


 

コメント (3)
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