Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

日本が築き上げてきたものって…

2010年04月18日 | 一般

 

日本人は、ほんとうに豊かな国をつくってきたのだろうか。「きけ、わだつみのこえ」の冒頭を飾る上原良司さんの「所感」に述べられた日本人像、「世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これがわたしの夢見た理想でした」というこの「理想」を現代の日本人はどこまで達成できたのでしょうか。

ちょっとショックな一文を読みましたのでご紹介します。

 

 

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社会人をやっていると、いろいろな出会いのチャンスに遭遇する。

数年前、東京農業大学の松田藤四郎理事長からご連絡をいただき、「サイトウさん(この文章の著者。作家北杜夫の娘。サントリー社員でエッセイスト)が週刊新潮の連載コラムで、健康食品の『マカ』について書いているが、精力剤市場でさらにPRしたいなら、東京農大の卒業生が(南米の)アマゾンですっぽんの養殖をしているから、それを見に行きませんか」というお話をただいた。そんなわけで「やってみなはれ」の社風のお陰で、海外出張でアマゾンに行くことになったのだ。

現地で(日系人から)いろいろな話を聞いたが、衝撃だったのは、「一匹虫(ビショ)」と呼ばれる虫の話だ。その虫は人の身体の柔らかところに入り込むのだという。体長が3ミリもの大きさで、毛が生えており、身体の中で、もぞもぞしているのがわかるという。
「虫が身体に入っても、お医者さまに行かないのですか?」
「ブラジルは日本の23倍もの広大な土地です。何千キロも移動しないと病院がない。飛行機のお金もかかるし、虫が身体に入っても死なないということがわかっているから病院にいかないのです。虫がある程度育つと、爪で押すと、ピュッと出てくるんですよ」

まるで「エイリアン」のようである。そんな異国の地で日本人たちは100年以上も大変な苦労をされたのだ。


今回の訪伯で現地の日系人の方に聞いたのだが、ブラジルは治安が悪く、銃社会だという。銃で撃たれた知人が何人もいるそうで、その方も銃で撃たれた足の傷跡を見せてくれた。殺すためではなく、生活に困り金や物資を強奪するために、命と関係ないところを撃つらしい。
「ほんとうは生家がある日本に帰りたいが、日本への飛行機代がかかるから帰国できないんだよね」
とみなさん、日本の故郷を懐かしむ。ブラジルから日本は遠い。サンパウロからロサンゼルスまで8時間、ロスから成田空港まで14時間。時間も費用もかかる。ブラジルから見て地球の裏側に当たるのが日本なのである。

ある方は、以前、ブラジルから日本に帰国し、再びブラジルに帰ったら、空港から自宅まで強盗団がつけてきて、玄関に入るやいなや拳銃を突きつけられ、パスポートや貴金属はもちろん、荷物全部を奪われたという。日本から帰国したということで、「金めのものを持っている」と思われて、空港から何百キロも離れた自宅まで尾行してきたのだ。しかも、強盗団のなかで銃を撃ったのは(強盗団のメンバーの)子どもだった。子どもなら、人を撃っても刑務所に入らないことがわかっているためだ。

「こんな治安の悪い国にいないで、早く日本に帰って、晩年は平和な日本で穏やかに暮らしたほうがいいんじゃないですか?」と言うと、意外にもノーという答えが返ってきた。
「日本は閉塞感がいっぱいだから窮屈です。あんなにつらい国はない。ブラジルはね、心が豊かでね、伸びやかでいいですよ」と語るので驚いた。
「でも銃で撃たれてしまうじゃないですか。命の危険があるんですよ」
「ブラジルでは銃で撃たれる人が年に3万人います。でも、日本では自殺者が3万人もいる。先進国でそんなに自殺が多いほうが不気味ですよ」


わたしは返すことばを失ってしまった。

 

 


(「うつ時代を生き抜くには」/ 小倉千加子・斉藤由香・共著)


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銃で撃たれる危険がある国のほうが、日本より「心が豊かで伸びやか」なのだそうです。わたしたちが求めてきた「豊かさ」というのは暮らしの豊かさではなく、「豊かな国家」という看板だったのではないでしょうか。本屋さんに行くと、「右」の人たちによる、「日本の危機、中国に追い抜かれる」「もはや経済大国ではない」みたいなタイトルや論調が見られます。「だから国際競争力をつけるためにも、規制緩和をもっと推し進めなければならない、国が沈んでしまう、社会保障だの格差社会だのと甘いことは言っていられない」のでしょうか。銃で撃たれる危険、命の危険がある国に住んでいる日系人は、こんな日本が「不気味だ」というのです。

派遣村が問題になったときのこと。




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生活保護だけは、住所がなくても申請できます。派遣村に来た人たちは住所がない状態ですから、派遣村からファックスで生活保護の申請を行いました。生活保護申請は到達主義ですから、役所に届けば申請行為は成立し、受理ということになります。役所(の業務)が始まってから面談を経て保護が開始され、アパートに入ることができるようになります。そこで初めて就職活動もはじめることができます。

しかし、生活保護が開始され、アパートに移ってゆく人が出始めると、派遣村を取り巻く雰囲気が変わりました。マスコミの人からも「社内の雰囲気が変わってきている」と聞くことがありました。「生活保護まで受けさせるのはやりすぎだ、甘えている」と言う人がいる、と。働く気がないから生活保護を受けるのではなく、住居もない状態では就職活動すらできないので、まずは生活保護を受けさせるところから自立の第一歩を始めるしかない、と言う現実があるのですが、生活保護ということばが出てくると雰囲気が変わってしまう。

 



(「派遣村 何が問われているのか」/ 宇都宮健児・湯浅誠・共著)


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社会のセーフティネットが「社会悪・道徳悪」として捉えられる日本の社会。これはたしかに閉塞感を生み出しますよね。しかも十分な教育を受けてきていると思われる大手マスコミが先頭に立ってそういう音頭を取る社会、日本。自分の視点という狭窄な思考力しかもてないことに、閉塞感の第一の原因があるのではないかとわたしは予想するのですが。たとえば、こういうことが書かれています。




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『文芸春秋』2006年4月号に下層社会に関する衝撃的なルポが掲載された。生活保護給付を少し上回るていどの所得の世帯に給付される就学援助金が42%を上回る子どもたちに支給されている東京都足立区の実態をルポしたものだ(佐野眞一/ 「ルポ 下層社会 改革に棄てられた家族を見よ」)。

タクシー運転手の夫とスーパーのパートで働く妻の夫婦共働きでも所得は生活保護給付(額)に満たないという世帯の実情などが取り上げられていたのだが、あるTV番組のコメンテーターは、このルポを「おかしい」と言って、就学援助金や生活保護給付を受けて生活している人たちについて、人に甘えて努力をしようとしない姿勢を改めるべきだと酷評していた。

このコメンテーターは、たいへんな苦労と努力によって現在の地位と生活を築いてきたのだろうが、誰もがそのように「うまくいく」ものではない。俗にいうところの「勝ち組」の人たちは、しばしば低賃金から這い上がれないのは本人の努力が足りないからだというが、それは違う。

タクシー業界は、ただでさえ不景気でタクシー利用が控えられる時代に、事業の参入規制も需給規制も緩和されてしまった。タクシーへの需要は低迷しているのに台数だけは増えるという熾烈な競争のために、売り上げも運転手の収入も激減した。そこそこの売り上げを得たかったら、車の回転率を上げる以外にない。「信号が黄色から赤に変わったまさにそのときなら突破する、青信号なら横断歩道に人が出ないことを(希望的)前提につき走る、そんな運転をしてできるだけお客を乗せるからタクシーも事故を起こす、それをやっちゃあタクシーも終わりだ」とぼやくドライバーもいる。

低賃金化は、個人の努力が足りないからではなく、この間の競争政策によるものであったのだが、同様のことは規制緩和にあってきたすべての業界に共通して起こっている。

 


(「労働ダンピング」/ 中野麻美・著)

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ここで登場するTVコメンテーターのような人は、ネットではよく見ますよね。自分の思いつき、自分の経験だけが絶対だという思い込み。こういう視野狭窄はなぜ生じるのでしょうか。テストの点数が絶対視される学校教育の影響なのでしょうか。がんばればかならず正解にたどり着く、という思い込みが学校ではぐくまれるのでしょうか。それとも「しがみつかない生き方」で香山リカさんが指摘されたように、想像力や危機対処能力の未熟さのために、未知の事態への恐怖から目をそらそうとして、自分に理解できない状況、自分の対処能力を超える状況を否定しようとするのか。あるいは、TV局勤めなら、スポンサーへの遠慮から、自民党政策への批判的な報道をバッシングするよう、局の偉い人たちから圧力がかかったのか。なにせ、この出来事の2年前には欧米で悪評の高かった、イラク人質バッシングの先頭に立ったのが、外務省の情報操作に積極的に協力したマスコミですから、そういううがった詮索もしてしまうのです。こういう他者への配慮、同胞を思いやる気持ちの未熟さが日本社会に閉塞感をもたらしているのではないかとわたしは思うのですが。

そして、当時のそういう政策を打ち出した経済官僚とその御用学者。彼らの最大の欠陥は現実を見ようとしないこと、現実に即した政策を打とうとしないことにあります。彼らは単に自分たちが優秀な人間であることを自分と自分の側近に見せびらかしたいだけである可能性が高いです。こんな指摘があります。



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フリードマンらに代表される、合理的期待仮説 (人間はみな理性的・合理的な動機で経済活動をするので、市場にすべて任せておけばすべてはうまくいく、とする考え方) や一般均衡理論 (市場経済における労働、資本、エネルギーなどの資源の配分のなされ方を分析する、ミクロ経済学の理論) の一部が現実から遊離した夢の世界の理論になってしまっている、という論を、森嶋通夫は述べる。「この派の学者は、互いにしのぎを削って知力と論理的能力とを証明することに憂き身をやつしており、現実の世界を見る必要があるとする人々を劣等生と決めつけるのである。科学的な精神態度の退化の顕著な症状、それがこの現象である」。(島居泰彦監修「フューチャー・オブ・エコノミックス」同文書院インタナショナル、166ページ)




(「経済学は死んだのか」/ 奥村宏・著)

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日本人にもアメリカ人にも共通している劣等感のようなものがあって、それは数学コンプレックスともいうべきものです。高級そうな記号をたくさん用いて表記される数学的な論理ばかりが追及されて、現実の問題は彼らにとってはレベルの低い問題なのです。これをして「本末転倒」といいます。こういう、「自分は常人とは違ってえらいんだ」という自意識の強い人物は小泉=安部政権にもいました。「さらば、財務省」の著者である高橋洋一さんです。



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あるとき、高橋に聞いたことがある。
「洋ちゃん、ほんとうのところ、竹中さんはあなたの話をどれくらい理解しているの?」
答えがふるっていた。
「長谷川さん、あの人はすごいよ。ぼくがフルで話して、8割くらいわかっているんだから。さすが経済学者だよ」

つまり、竹中でも高橋の話の8割しか、ちゃんと理解していないということなのだ。これには注釈が必要だろう。たとえば、経済学には「動学理論」という分野がある。ふつうの大学の経済学部で教えられているのは「静学理論」であり、米国の大学院以上では動学理論である。数学ができないとついていけない分野なので、日本ではエコノミストでも「実は、動学はよくわからない」という人が多い。数学の素養がないと、プロの学者でも間違えることがしばしばある分野である。

東大数学科出身の高橋は、こうした分野が専門であり、得意だった。だから彼が「フルで話す」となると、ほとんど数式だけでしゃべるようなものになるはずだ。(著者は聞いたことがないし、理解もできないだろう。) それを8割理解するなら、数式の会話が8割わかるということであり、それは相当すごいと思う。わたしは高橋が日本語でしゃべっても、消化不良があったのだ。高橋はあるとき、数式の会話についてこう言ったことがある。
「プリンストン大学に留学していたころは、英語はわからなくても、数式はわかるから、講義は完全にわかったよ。長谷川さんは文章から数式になったところで、本を読むスピードが落ちるでしょ。ぼくはことばで書かれたことより、数式で書かれたほうがよくわかるから、スピードは落ちない。ことばと同じように、すらすら理解できるんだ」。


(「官僚との死闘700日」/ 長谷川幸洋・著)

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実は、自分の得意なことをこれ見よがしに言い立てる人は、内心では劣等感を強く持っているのです。自尊心自体は低いのです。つまり、人は何かできないと愛してもらえない、ということばにならない思い込みが強いのです。高橋さんにとって、あるいは高橋さんを取り巻いていた人間関係にとって、数学や自然科学は神的な優越性のあることだったのでしょう。それらに精通していないと、目をまっすぐに上げられない、というような思い込みがその環境によって刷り込まれてきたのかもしれません。

宇沢弘文さんといえば、日本の経済学界の第一人者の一人であり、押しも押されぬ重鎮でいらっしゃいますが、宇沢さんも東大数学科出身です。でも、宇沢さんは他人に理解できないような話し方をして、悦に入ったりはされません。宇沢さんは、初学者にわかりやすく数学の教養を与える社会人向けの教本を書かれました。全6冊で、全部そろえるのにけっこうな額は必要ですが。でもとてもやさしくてわかりやすいです。宇沢さんの授業でも、第一年目は、生徒たちに数学の素養を教えるのにまるまる費やされたそうです。

宇沢さんは数学の知識があることで自分が常人離れした特殊な人間だという自意識を誇示されたりはされませんでした。宇沢さんは、むしろ小泉=竹中路線の痛烈な批判者となっておられます。この違いは何か。宇沢さんは、数学科を出たあと、進路を選ぶときに、人間の必要に役立ちたいという動機から経済学を志されたのだそうです。一方に見られる人間への関心と、他方に見られる理論家としての自己像への愛=ナルシズムという動機の差なのでしょう。これは人間の成熟度の差でもあります。

そして、銃社会のブラジルのほうが、日本よりも住みやすいといった日系ブラジル人も、そんな人間への関心のなさに、日本の閉塞感を見たのだとわたしは思うのです。豊かさとは何か、それはまず、人間同士のつながり、連帯がしっかりしているか、つまり、互いに相手の人権を尊重する人間関係が少しでもあること、だとわたしは訴えたい。すくなくとも、命の危険の高いブラジルには、日本よりもずっと温かい人間関係がはぐくみやすい土壌もあり、その点で日本よりずっと住みやすいのだと思います。日本は、人間の気持ちや人間自身を二の次三の次にして、「経済成長」のほうをあくまで追求するのですから、銃社会による命の危険が高いブラジルより「おおらかで温かい」雰囲気が少なく、そのために住みづらい社会になっているのだと思います。そして、今日本が目指すべきなのは、人間を経済成長の道具のようにみなす風潮を180度変革させるという、この方面なのだということをもって、この拙文を締めくくらせていただきます。




ちなみに、高橋洋一さんは、公務員界の改革に着手したのですが、既得権益を守りたい財務官僚の手に落ちて、スキャンダルを仕立てられ、失脚しました。高橋さんの仕事には大きく評価すべき点もあったのですが、小泉時代に社会保障を削減したことによって、大きな不幸と深刻な悲劇が国民に生々しく臨んだのでした。

コメント (2)
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