Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

Interlude 7

2005年08月31日 | 一般
自分のレベルを相手に押しつけない




回復、改善の道をだんだんと進んでゆくと、まだ回復をはじめていない人が目につくようになります。すると自分の回復の度合いに自信を持つようになり、感動して、他の人もこうすればいいのにと夢中になって、相手を説教しようとしたくなることがあるでしょう。他の人に知らせてやったり、教えてやったりするのはよいことですが、むりに押し売ったり、相手を非難がましく言うのはやめましょう。相手に心の準備ができていなければ、どれほど高度な説得力を使っても、大きな岩のごとく少しも動きません。

ときどき情報を与え、様子を見てみましょう。人は、それぞれに違った速度、違った方法で回復、改善してゆきます。あなたにとってすばらしい回復の方法であったとしても、相手にとっては、まったく役に立たない方法かもしれません。もし情報を与えたとき、反応があったなら、その人をもう少し助けてあげましょう。

のめり込むような助けではなく、静かに見守り、その人があくまで自分で歩けるような助けをしてあげましょう。




(「心の傷を癒すカウンセリング366日」 / 西尾和美・著)

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ときどき掲示板には、そこに集まっている人のうち、吐露を書き込んでいる人を念頭において、過去にとらわれるなとか、オレはこんな風にしているし、それで成功もしているとか、一刀両断に裁いてしまうような書き込みが見られます。

たしかにその言うことは正しいのかもしれません。しかし人間の個性やその人の置かれた環境、その人自身の遺伝的特徴はあなたとは異なるのです。重々しい吐露を読んでいると、かつての自分の姿を見て嫌悪感を覚えるのでしょうか。もしそうであるなら、あなたはまだまだ過去を振り切ったとは言えないのです。ほんとうに過去を振り切れれば、かつての自分も受容できるはずだからです。かつての自分を受容できていないと、同じ境遇にある人に反発を感じてしまうかもしれません。「かもしれません」なんて、なんだかエホバの証人のような言い回しですが、ほんとうのことです。人はそれぞれその人のペースというのがあるのです。

温かく見守ってあげようではありませんか。かつての自分も、あれができていない、これができていない、ああすべきだ、こうすべきだと言われれば、非難されているようでもっと傷ついたことでしょう。重々しい吐露のために、今自分が振りたい話題が書き込めないからって、気短にならないで、有名で大きなサイトならたいてい複数の掲示板が設置されていますから、場所を変えて書き込んでもいいのではありませんか。

わたしたちはエホバの証人という狂信的&偏執的集団によって傷ついた同志です。みんながそれぞれのペースで回復してゆけるよう、静かに見守ることは愛の実際的な表しかただと思います。
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人間性回復のために(7)

2005年08月29日 | 一般
エホバの証人から一大決心をして脱出してきた、それでシャカリキに働いてどうにか気分的に一段落はした。でも虚しい。エホバの証人時代が懐かしくさえ思える。何が足りないのだろう。同僚が誘ってくれれば飲みにも出かけ、騒いで笑って、そのうちに何人かの男性とも交際した。でも満たされない。仕事でも人一倍働いて、認められようと努力もするのだけれど、ひとりになってみると、疲れがずしんと来る。なんでだろう…。

努力の仕方が間違っているのです。人と競争をして勝とうというその考え方が間違っているのです。

「そのような人は、自分に名声や才能や財力や力があるから、人びとに認められていると思い込んでいる。称賛を手離さないためにはパンピー(一般のピープル、の意)とは差をつけていなければならないと思い込んでいる。カレン・ホーナイは、その安全を得るために自分の内面、素のままの自分にはどんどん重要ではなくなると述べている。不安は、自分にとって何が大切なものかを忘れさせてしまう」。

世の人のようにならなければならない、そういう思い込みが間違っているのです。世の人たちの生きかたに何か活路があるのではありません。わたしたちの父親や母親は、世の人たちの「不安」を解消しようという動機での生きかたに疲れて、エホバの証人取り込まれたのです。日本における生きかたは、全体としてみればエホバの証人とまったく同じなのです。ヨーロッパ先進諸国から「エコノミック・アニマル」と揶揄されたことに見られるとおり、日本人は経済成長を至上の使命として、エホバの証人同様の「滅私奉公」してきています。それは人間らしさ、人間性を顧みない生きかたでした。

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雑誌「世界」1986年12月号に書いた私(著者)の小文「本当の豊かさとは」を読んだ高校生たちが次のような感想文を送ってきた。

「日本人は、まるで日本という工場で作り出された製品のようだ。私たち高校生は、経済競争の歯車になるべく勉強しているのではなく、日本に生まれたときから、もう日本という機械の歯車であるのだ」

「ものごとを順番づけでしか見れないのは、人間的に貧しいと思います」

「日本では少しでもいい大学、いい会社に入り出世することを目指しているから、個人を一列に縦並びにし、ひとつのモノサシで優劣を決め、他人を尊重しない。尊重したくないのだ。競争以外に、ものごとに対する積極的な関心、行動など認めない(競争に勝つことだけが暗黙のうちに至上命令として要求される、の意)。世界一の所得だ、高い生活水準だ、ということばにだまされているだけだ」

「出る杭は打たれる、のことばどおおりに、優れた発想を持っている人も平均化されてしまい、その才能を発揮できずに一生を終わってゆく。手本となるべき大人がそうであり、その大人が子どもを教えているのだから」。

(「豊かさとは何か」 / 暉峻淑子・著 / 1989年第一刷発行)
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バブルの絶頂期に書かれたこの本は、バブル当時でさえ、国家経済の潤沢さとはうらはらに国民の生活は貧しく、余裕のないものであったこと、をデータをもとに、冷徹に暴いてみせました。当時の高校生の、世の中を見る目をここに引用しました。暉峻(てるおか)氏は生活経済学を専攻されておられる名誉教授職にある方です。充実した福祉政策を確立してきた西ドイツ(当時)で数年生活された経験をもとに日本という国を経済学者の目で描写されました。上記の四つのコメントを見ただけでも、経済戦士として生きる生きかたは決してエホバの証人が憧れるようなものではないことが理解できるのではないでしょうか。むしろエホバの証人社会の拡大版です。

この5年後に、オランダ(ドイツの隣り。言語もドイツ語とは方言ほどの差しかない、よく似た人たち)のジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏はこのように喝破されました。

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日本がかかえている問題 ‐ みなさん(読者)がかかえている問題です ‐ をもたらしているのは、皮肉なことに戦後の驚異的な「偉業」と考えざるを得ないふたつの要素である。現在の日本の国をつくり上げた人たちが成しとげた「偉業」は、それまでどの国の権力者も達成できなかったほどの成功をもたらし、広範囲に多大な影響を及ぼした。

第一に、彼らは世界のどこよりも効率的に工業製品を生産するシステム、すなわち、組織間の関係を構築した。第二の要素は驚異的だ。それは、あくまでも産業の発展を最優先し、誰も(基本的人権を要求するような)抗議のできない社会をつくりあげたのだ。

(「人間を幸福にしない日本というシステム」 / カレル・ヴァン・ウォルフレン・著)

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日本という国は、明治以来一貫した精神態度を持っているように思えます。現代では「富国強兵」から「強兵」を取り去っただけです。国家を富める国として世界の目立つ席に座ることを意固地に追い求めているのであって、国民一人一人の生活を豊かにしようという意図はきわめて薄いのです。わたしたちに求められるのは人間としての存在をただただ利益向上のために、搾(しぼ)れるだけ搾り出せ、ということです。これはエホバの証人が私たちに要求したこととまったく同じじゃないですか。

エホバの証人として育てられ、経験の少ないわたしたち。わたしたちはこんな競争の過激な社会で生き抜いてゆけるのでしょうか。エホバの証人としてつくづく嫌気をさしてはいるけれど、怖くて離れられないという人には、案外このような生き馬の目を抜くような競争社会で生きてゆく自信がないという気持ちがあるのではないかとわたしは思いました。一部の現役の方々の書き込みなどに、学歴や地位、財力への畏怖の気持ちを見て取ったのです。

もう他人の欲求や要求のために「滅私奉公」して生きるのはイヤだ。でも世の中はもっと厳しい。どうやって生きていったらいいんだろう…。自分としては今度はもっと心豊かに生きてゆきたい、そう思うなら会社へ飛び込む前に、まず自分を見つめなおしたほうがいいように思います。世界の目に偉く映るように経済力をのみ高めようというのは、内面の弱さに起因すると加藤教授は書いておられます。わたしもそう思います。暉峻教授もウォルフレン教授も同様です。学歴とか会社での出世とかを意識して闘争心を燃やすのは、決して自分をしあわせにはしません。充足した人生ってどういうことなのか、今回のシリーズでは、日本的生きかたのひずみを書き表した文書から少し考えてみようと思います。




「カネがあるんだ。幸せかどうかなんて気にしないさ」  
       (「長いお別れ」 / レイモンド・チャンドラー・著)より
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人間性回復のために(6)

2005年08月27日 | 一般
人生の無意味感を持っている人




偉大なことができるように健康を求め、幸せになろうとして富を求め、世の人々の称賛を得ようとして成功を求める人たちは、ひと口で言えば心が傷ついている。そしてその傷を癒そうとして自己栄光化を求めて焦っているのである。そうした人びとは、自分の人生の無意味感に苦しんでいる。

心が傷ついているトンボは、トンボの仲間と話すときには、「トンボなんて…」と、トンボをバカにする。しかしテントウムシと話すときには、「トンボでないなんてかわいそう」と言う。「テントウムシなんて価値がない」と言う。

神経症的自尊心をもとにした自己栄光化は、彼らにとって心の葛藤を解決する手段なのである。だから失敗が怖ろしい。「失敗したらどうしよう」と怖れるのは、成功によって心の葛藤を解決しようとしているからである。また、他者からの評価にこだわるのも同じ理由である。自分は「こうであるべき、こうなければならない」のは、実は「こうではない」劣等感にさいなまれているからである。

したがって「こうありたい」という目標ではなく、「こうでなければならない」ということを追い求めてしまう。「こうありたい」というのは自分から出た欲求である。が、「こうでなければならない」というのは他人から教え込まれた要求である。生きることの無意味感を内心に抱いている人は、他人の要求のために自分の人生の時間を費やしている。不満やいらだちはここを源としている。不満やいらだちは攻撃性となって表面に表れる。自分は、自分の欲求を抑えて生きてきたのだから、社会人たるものみな、そうあるべきだと主張する。「自分らしく生きてゆきたい」というと、怠け者とか甘えということばでレッテルを貼り付ける。
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人間性の回復のために(5)

2005年08月27日 | 一般
力を求めるのは弱さから




パーティは嫌いだけれども、人を呼びたい。
それは人びとから称賛され、チヤホヤされたいから。

自己栄光化は弱さの象徴である。人が力を求めるのは弱さからである。内面(=素のままの自分自身、というハードウェア)の力を感じられない人が、つまり心に借金のある人が、その代償として強迫的に社会的な称賛、権力、名声を求める。

カレン・ホーナイは、人が力を求めるのは弱さからであると言っている。が、また人が力を求めるのは憎しみからであると、私(著者)は思っている。エーリッヒ・フロム(「自由からの逃走」の著者。精神分析学者)は、死を愛好する者は必然的に力を愛好すると言う(「悪について」/E.フロム・著)。しかし、力を持って人の上に立っても安全ではない。憎しみがあるから、人に寛容になれない。人にやさしくなれない。それで誰にも愛されず、支持されない。部下、臣下はお金や権力(地位に任命する権限など)に従っているだけで、その人本人に敬服しているのではない。

だから安全は、その人の信じる「安全」でしかない。他の人から見た安全ではない。そのことが彼らのような人々には分からない。単に人の上に立つことが安全なのではないということは、愛されている人には、つまり愛されるがゆえに自分に自信のある人には感覚的に理解できる。励まされていると、愛されている人は「心の杖を貸してくれているんだなあ」と思える。それが「安全」。しかし強迫的に名声を追及している人は励ましを受けても、「うるさいわね、同情なんてまっぴらよ!」と思ってしまう。杖が鞭に見える。

カレン・ホーナイによると、力にはふたつの意味がある。ひとつは、他人を支配する力。もうひとつは自分の人生を充足させる何かをする力、他人を支配することではない、何かを。

そのとおりである。




「無名兵士の言葉」 / 加藤諦三・著 より
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人間性回復のために(4)

2005年08月27日 | 一般
成功と自己栄光化は別




自己栄光化のために強迫的に努力をする人は、成功の意味をまちがえている。彼らにとって「成功」は「達成感」という意味ではない。人よりも優れていることを見せつけたい、あの人を出し抜きたい。自分が好きだから、そのことに打ち込むのではなく、あの人に勝ちたいからがんばる。あの人に勝てた、それが自己栄光化を追及する人の「成功」である。

だから、努力をするのだけれども、いつまで経っても成し遂げたことに充足できない。彼らは心の糸を紡がない。小さな達成感、ひとつひとつの満足感を積み重ねることが、心の糸を紡ぐことなのである。この糸を紡いでいないと、人は人生に意味を感じなくなる。自分の人生の価値を感じられなくなる。心の糸を紡いでいない人は、自分がしていることが好きではない。

達成感とか充足感を味わうためには、今日やるべきことを、今日やる。「これを作ったら、みんな驚くだろう」と思って研究する品種改良と、「こういう品種をつくりたい」という欲求から研究する品種改良は違う。前者は飽きが来る。でもそれが自己栄光化に役立つ。それをしないと自分の価値が感じられない。

なぜか。
彼らは、自分は守られていないと無意識に感じているからである。チヤホヤされることと守られていることとは意味がちがう。それが分からないから、ウソでもいいから誉められたい。

自己栄光化のための努力は憎しみが動機である。そして自分が憎しみを持っているから、他人も憎しみを持っているだろう、と思う。自分が偉い人に迎合するから、他人も同じように偉くなった自分に迎合すると思う。だが偉くなったり、人を見返しても、実は自分は守られていない。

小さい頃、屈辱感を味わって強迫的に栄光追及をしている人には、自分を守る方法がわからない。強迫的に栄光追求して自分を守ろうとする行為によってこそ、人は前向きに生きるエネルギーを消耗させる。生きることに喜びを得られない。生きることがつらくなる。

他人を守ろうとすることによってこそ生きる力、生きる意欲が湧いてくる。その生きる意欲が自分を守る。




「無名兵士の言葉」 / 加藤諦三・著
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人間性回復のために(3)

2005年08月27日 | 一般
自分を受け入れる




自分を守るためには自分を受け入れればいい。成功しても心身とも病んだら、自分を守れない。

簡単に言うと、いつか死ぬのだから、今日一日を自分らしく生きる。不安(得体の知れない焦り)で焦っている人は、その「自分らしく」がわからない。人に見せつけるような生きかたさえしなければ、「自分らしく」とはどういうことか自然とわかってくる。

自分を見せつけなくてもいい人を自分のパートナーに選びなさい。虚勢を張って生きていると、自分は誰と付き合うことが適しているのかがわからなくなる。自分らしく生きているから、「この人は自分とは合わないな」とか「この人と自分は合うな」ということを感じることができる。

ビジネスに振り回されてくると、つまり自分のポストを維持することに腐心すると、誰とつきあうと「得するか」ということばかりが優先してくる。誰とつきあうことが自分を飾ることになるか、だれとつきあうことが自分を守るのに役立つかということばかり考える。劣等感を持つと、誰とつきあえば自分の弱点を覆い隠せるかということばかりを考えてしまう。

利害が一致する人と、適性の合う人とはぜんぜん別である。


「無名兵士の言葉」 / 加藤諦三・著 より。
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人間性回復のために(2)

2005年08月26日 | 一般
自信を求めるまちがった方法




自信のない人は、自分を信じられないし、自分を偽って生きている。本当の自分で生きていない。自信のない人は、自分に「ほんとうに好きなものがあるの?」と聞いてみることである。

彼らはこの小さい山よりも、あの大きな山に登るほうが自信ができると思っている。だから、自信をつけることにおいてつらさが先に来る。ほんとうは、この山を登ったときの達成感、登ったときに味わった満足感が自信の芽となる。楽しいことがないとほんとうの自信はつかない。

過剰な優越感や虚栄心は、その人が必死で自信を求めていることを表しているものである。しかし残念ながらそれはまちがった方法である。本人は不安を解消しようとしているが、逆に自分の不安を作っているようなものである。いくらがんばって成果を挙げても不安は解消しない。なぜなら、精神分析学者のカレン・ホーナイが言うところの「人の上に自分を引き上げる衝動」に駆られているからである。

彼は自信を持とうとがんばって、人の上に自分を高めても残念ながら自信はできない。素のままの自分をさらけだせるような親しさを持てないからだ。見下す人とはだれも親しくなろうとはしない。

そもそも、なぜ人の上に自分を引き上げなければならないのか。理由はふたつある。ひとつは、人の上に自分を引き上げることで、劣等感に由来する焦りを和らげようとするからだ。相手を低く見下すことで、得体の知れない焦り、または取り残されたような寂しさを解決しようとしている。

もうひとつは自分の安全を守るためである。そのような人は、自分に名声や才能や財力や力があるから、人びとに認められていると思い込んでいる。称賛を手離さないためにはパンピー(一般のピープル、の意)とは差をつけていなければならないと思い込んでいる。カレン・ホーナイは、その安全を得るために自分の内面、素のままの自分にはどんどん重要ではなくなると述べている。不安は、自分にとって何が大切なものかを忘れさせてしまう。


「無名兵士の言葉」 / 加藤諦三・著 より。
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人間性回復のために(1)

2005年08月25日 | 一般
語り合う人がいない悲劇



(2005年から見て)数年前の話である。

JR中央線の踏み切りで、有名大学の4年生が快速電車に飛び込んだ。その大学の学生寮に住んでいた。たいへんな勉強家だった。学部内でも1,2を争う優秀な学生だった。抜群の成績で、学内で伝統ある合唱団に所属していた。「明るい人だった」というのが同級生の一致した意見だった。完全無欠のエリート候補生だった。

この優秀な学生にも会話があればよかった。「全優」をとる努力をするよりも、自分の周囲の人に関心を持つ努力をすればよかった。「全優」をとるための努力をする過程で自分が見えなくなった。

完全無欠のエリート候補生でも、誰か人間と喜びや悲しみを共有する気持ちがなければ生きるのはつらい。強迫的に名声を追及する人は、心ふれあう人がいないために、人の目を意識した行動を続け、真の自信を失う機会を失う。彼のように頑張った行動を続けていても、決して自信は生まれてこない。差をつければつけるだけ、人々は彼から遠ざかってゆく。自分を見おろす人にだれも親しみを持たない。そこが彼の悲劇だった。

人は大きなことをするから自信ができるわけではない。成功するから自信ができるわけではない。心の底で、「自分はほんとうはこういうことがしたい、ほんとうは自分はこういうことをするべきなんだ」と感じることを実行することで自信がつく。

認めたくないことを認めたときに、人は大きく伸びる。大きな自信を得る。




「無名兵士の言葉」 / 加藤諦三・著 より。
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聞くスキル(2)

2005年08月24日 | 一般
「聞く」ということは、人間が贈ることのできる最高のプレゼントです。聞いてくれれば、話している人は自分を受け入れてくれている、受容されている、と心から感じることができるからです。受け入れられていると確信できるとはどういうことでしょうか。

いっぱい愛されると自信が生まれます。
自信は勉強したからつくというものではなく、
お金を貯めたからつくというものでもなく、
美人に生まれてきたからつくのでもありません。
いっぱい愛されることによって、
人は自信を得るのです。

(「なぜか幸せになれる女の習慣」 / 大原敬子・著)

だれかから受け入れられていると確信できるということは、自信を得るということです。だれかに自信を与えるということは、愛することなのです。

人を受け入れる方法は、先回の「聞くスキル(1)」で取り上げた、「内的観点に立って聞く」ということです。内的観点に立つっていうのは、頭ではすぐに理解できますが、実践するとなると難しいのです。実は内的観点に立つのを妨げる障害があるからです。最大の障害は自分のうちにある劣等感です。劣等感はそのまま認めてしまうと、自分は無価値だという「結論」を自分に突きつけてしまうのです。劣等感を生みだす原因のひとつに、厳格な規範を信じ込んでしまっていることがあります。人間たるもの、こうでなければならない、ああでなければ一人前ではない、人間は規範にかなうよう、つまり限りなく完全に近くなければならない、という信念を植え込まれていると、劣等感を作ってしまうのです。理想的な自分でなければならないと思い込むんですね。

人間には自分を責める代わりに、自分と同じ性質を示す他人を責める、という心の仕組みがあります。子どもがふたりいて、一方がお母さんによく似ていると、劣等感の強いお母さんなら、似ているほうの子よりもうひとりの子のほうに程度の差はあれ、ひいき目にしてしまうことはよくあることなのです。劣等感を解消するには、自分についての間違った考え、間違った信念、内面に植え込まれた規範がほんとうに正しいのかを再検討するのがいちばんいいことなのです。この点はいつかまたの機会に譲りましょう。

内的観点に立つのをむずかしく思う人、すぐ外的観点に立って話す人は、エホバの証人用語を使って言えば、「すぐに裁く人」は自分に幻滅しています。理想的な自分からかけ離れている現実の自分に幻滅しています。もっとおもいやりをもって自分を見てあげるほうがいいのです。

「自分への思いやりとは、誤りも犯すし、理想的なんかじゃぜんぜんないけれど、それでも価値ある人間として、自分を受け入れ、尊敬することです。ひとりの人間として自分を受け入れるという基本的態度がとれれば、自分にとって無益な行動を変えようと努力することもできるようになります。無益な行動を受け入れる必要はありません。どの程度まで自分自身を受け入れ、尊敬できるかが、他の人をどの程度受け入れ尊敬できるか、つまり、どの程度質の高い聞き方ができるのかを決定します (「思いやりの人間関係スキル」より)」。

受け入れる態度、受容的態度とは、相手は自分とは違った独自の思考や感情を持っている一個の個性ある人間だと認めることです。これは相手が言うことすべてに同意するということではありません。しかし、自分とは異なる意見ではあっても、相手の言うことに敬意を払う必要はあります。他の人からのメッセージをすべて聞き取るように努め、「壁」や「色眼鏡」を使いません。「壁」や「色眼鏡」を使うとは、受けとったメッセージに含まれている特定の要素(たいていは自分の内面の規範に反すること、自分のメンツを潰すような内容のもの、自分の考え、感覚とは異なるもの)を変えたり、歪めたり、取り除いたりすることです。最悪の場合には、自分の中で相手が話すメッセージすべてを否定したり、排除したりします。相手の話したことをその場で評価、裁定し、その後に「~するな、自分の言うようにしなさい」というような判決を下すというのは最悪中の最悪です。

聞くスキルの基本は、受容する態度を自分に備えるということです。劣等感があったり、偏見を強く持っていたりするなら、形だけのものであっても、聞くスキルを生活の場面で活かすことはできないでしょう。以下、聞くスキル(2)の本題に入ります。「反射」という技術です。わたしを変えてくれた技術です。この技術を意識して活用すれば、信望を得ることができます。友人ができれば世界も変わってきます。社会から認められれば生きることに意欲がわいてきます。会社では有能な社員ではあっても、鬱に陥ったりするのは人と心のふれあう関係を持たないからです。自分の心を許せば見下されるとか、利用されるとか、そういうエホバの証人の心の傷に通ずる怖れがあるからです。相手の心を開くためには、高邁な哲学を話さなければならないわけではありません。人びとが驚愕するような能力を見せつけなければならないのでもありません。人びとに脱帽させるような業績を挙げなければならないのでもありません。相手の話を聞くことです。心情を受け入れることです。つまり、愛すること、愛を与えることなのです。

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いま、ここに「反射」という概念を定義します。それは、「話し手の内的観点に立った、理解を伴う反応」というものです。話し手のことばのメッセージ、感情や考えが映し出された声色、声のトーン、しぐさなどに読み取れるメッセージの核心を、聞き手の側で、やはりことばや声のトーン、しぐさを用いて鏡に映すように返す、という行為を指します。例を挙げてみましょう。

〈患者とその友人の会話〉
患者:ガンの宣告をされたとき、世界がバラバラになったように感じたよ。
   今でも、死ぬことを考えると、恐ろしくてブルブル震えてしまう。
友人:死ぬことが頭に浮かんできて怖いのね…。
    ガンの宣告のショックで苦しいのね…。

〈妻と夫の会話〉
妻:子どももやっと学校を出るので、これからはもっと自分のために生きてみたいの。
  一日中家事ですごしたくないの。やりたかったことがあるの。
夫:そうか、今まで家のことをよくやってくれたよ。
  これからは外で活動したいんだね。

この例では、後者の反応が「反射」です。反射がどのていどうまくできたかを評定するには、三つの要素からなる発言の連鎖、「最初の発言→反射→第二の発言」を考えると役立ちます。反射がうまくできていると、最初の発言に含まれていた考えの続きが、第二の発言の中に含まれるのです。

【反射の使用について】

反射というスキルを教えると、たいていの人が最初は躊躇します。会話が不自然であるように思える、話している人は、ただ単に繰り返しているように思うのではないか、自分の自主性の妨げになるのではないか、これを使うとわたしは自意識過剰になってしまうetc...。

どんな技術でも、新しく身につけようとすれば、こなせるようになるまでは一定の期間が必要です。習得に向けて努力を続け、正しい一連の動作を選択しなければなりません。「反射」も例外ではありません。しかし練習を重ねれば、「反射」も自然な自分の一部分のように身につきます。反射が初め、不自然に思える主な理由は、人を思いやるスキルとは相手のことを判断することであると誤解されているところにあります。「反射」はいつでも使われるべきスキルではありません。わたし達の反応のレパートリーのひとつとして、柔軟に取り入れられるべきです。「反射」が役立つのは以下のような場合です。

*理解したことを相手に示す必要があるとき。
*理解した内容を確認する必要があるとき。

*相手が、自分の感情は妥当なものであると認める必要があるとき。
*相手が、自分を理解しようと格闘しているとき。
*相手が、自分の考えや感情をどう表現していいか困っていて、助けを必要としているとき。
*相手が、自分の問題を何とか解決しようとしている、あるいは何か意思決定をしようとしているとき。

*相手と意見が合わず、相手の立場を明確にする必要があるとき。
*相手の人生における決定や進路に対する、こちらの責任を明らかにしたいと思うとき。
*お互いの話を聞く定期的な時間を特別に取って、
 相手との関係を維持したり、促進したりさせたいとき。

しかし、以下の場合には、反射は使わないか、控えめに使ったほうがいいでしょう。

*相手がしゃべりすぎていて、こちらが話すべきときが来たと思えるとき。
*こちらの内的観点を相手と分かち合うことが重要なとき。
*相手が伝えてくる個人情報の深さのレベルに、こちらも合わせたいと思うとき。
*相手がこちらをほめたり、感謝しているとき。
*こちらの主張を控えたいので、相手の話を聞き流していると思うとき。
*疲れていたり、消耗していたりして、相手の話をきちんと聞けないとき。
*相手の話を受容できないとき。(エホバの証人擁護論など)
*相手の話が、自分や他の誰かを傷つける内容であると思えたとき。

【反射のスキル・初級 / 語句を言い換える】

反射の下手なカウンセラーについてのジョークがあります。このようなものです。

クライエント:あなたのことがとても好きだな。
カウンセラー:わたしのことがとても好きなのですね。
クライエント:あなたはほんとうにかわいいと思います。
カウンセラー:わたしがかわいい人だと思うのですね。
クライエント:あなたが魅力的だと気づいたんです。
カウンセラー:わたしが魅力的だと気づいたんですね。
クライエント:ほんとうに魅力的です。
カウンセラー:わたしがほんとうに魅力的だと思うんですね。
クライエント:だから寝てみたいな。
カウンセラー:わたしと寝たいと思うんですね。
クライエント:どうです。僕といっしょにベッドへ行って楽しくやりましょうよ。
カウンセラー:あなたといっしょにベッドへ行くわけにはいきません。
        わたしはカウンセラーですから。
クライエント:じゃ、僕のカウンセラーとしては、あなたをクビにします。
        だから、さあ、ベッドへ行きましょう。

上のジョークでは、カウンセラーは単純にクライエントの言ったことを機械的に繰り返しているだけです。これではたいていの人が、話す気力をなくしてしまうでしょう。「反射」を下手に使った妻に対して、イライラした夫が「オレは、言ったことをそのまま繰り返す奴なんかいらない。これならオウムと結婚したのと変わらない!」と言ったそうです。無機質な反射を避けるためには、ふたつのサブ・スキルを使う必要があります。それは、「語句を言い換える」ことと、「感情を反射させる」ということです。

語句の言いかえが重要であるのは、オウム返ししていたのでは不誠実に受けとられて、相手を怒らせるからです。相手の言った語句を決して繰り返すなということではありません。頭を働かせるようにということです。語句を言い換えるときは、相手の言葉遣いにできるだけ近づけるようにするべきです。基本的な例を三つ挙げておきます。

〈妻と夫の会話〉
妻:もうあんたなんていなくなってしまえばいいのよ!
夫:僕に、ほんとうに怒っているんだね…。

〈友人同士の会話〉
A:どうも気が重いよ。
B:憂うつなのか…。

〈友人同士の会話 2〉
A:友人がみんな、別れた夫の味方なんでもうイヤになっちゃうわ!
B:あなたたち夫婦のお知り合いが、ジム(離婚した元夫)の方とだけつきあうのね…。
  悔しいんでしょう?

上手な語句の置き換えは、ちょうど鏡のように、最初の人の発言よりもかえって明瞭で簡潔にことばを反射させています。したがって場合によっては話し手から、「そうなのよ!」とか「わかってくれる…?」と感謝され、いっそう心を開いてくれることがあります。語句の言いかえが不十分な場合もあります。特にことばにばかり注意が払われているときにそう感じられるので、声のトーンやボディ・メッセージ(しぐさや腕・手を握る、よりそうなどのタッチング)も上手に共用します。

【練習問題】
次の各文章の内容を、少なくとも三種類の語句で言い換えて反射してみてください。

1.「人がたくさん集まるような場所では、ぼくはいつも人見知りしてしまいます」。
2.「他の人がわたしに心理的に近づこうとするだけで、わたしはとても怖ろしい」。
3.「彼女に無視されてるって思うんだけれど、なぜ彼女がそうするのかわからない」。

(これが正解というような回答はありません)



【反射のスキル / 中級 感情を反射させる】

相手の話を理解していることを相手にわからせる確かな方法は、相手の感情を的確に拾い上げることです。これは共感するということで、人間関係を深めるのに不可欠なことです。感情なんて個人の問題だ、重要なのは組織についてゆくことだというエホバの証人の生きかたがしみついている人にはむずかしいことかも知れません。自分のほんとうの感情は押し殺さなければなりませんでしたから。でも、共感するということが、相手を受容することであり、相手をありのままに受け入れることです。思いやりの本質でもあるのです。わたしもこのスキルをマスターできたことで、会社にもご近所にも居場所を得ることができました。会社でもよく相談されますし(相談といっても、何かを解決するのではありません。相談に来る人もそんなことを期待してはいません。みんな自分の気持ちを聞いて共感してほしいのです。感情を精確に反射してもらいたいのです…)、またマンションなんてふつう隣は何する人ぞというものですが、わたしはけっこう深いおつき合いができています。

「感情を反射させる」とは、相手の感情の流れと共に感じ、それを相手に伝えるということです。したがって、このスキルには、感情的な交流が必然的に伴います。相手のことばにではなく、相手の感情に反応しなければなりません。感情の反射は、相手の人に、相手自身の感情をより深くとらえる機会を与えることでもあります。感情を反射するには、相手の感情を読み取るスキルと、反射して送り返すスキルが同時に求められます。ちょっとむずかしいですよ。自己愛性人格障害の人にはぜったい無理です。自分のことにしか関心がないのですから。

〈相手の感情を受けとめるスキル〉
相手の身体や顔からのメッセージを読み取る。
相手の声によるメッセージを受け取る。
相手のことばとその言外の意味を読み取る。
自分の感情的流れを調整する。
相手のメッセージが、どんな状況で発せられているかを考慮する。
相手のメッセージのうわべにとらわれず、メッセージの意味を正しくとらえる。

〈反射を送るスキル〉
感情を表す相手の語句を拾い上げて反応する。
相手の感情を的確に、しかも血の通ったことばに置き換える。
相手から伝えられた感情に、余分なものをつけ加えたり、差し引いたりせずに、送り返す。
自分が理解していることに誤りがないかを確認する。

相手の感情に焦点をあわせて反射を続けてゆくと、相手が自分の感情に溺れてしまう危険があります。例えば、ニールという男性はうまくいっていない恋人との関係を話していて、後悔の念に襲われてしまいました。聞き手は、いつ、どの程度、感情を反射させるかを判断する必要があります。ニールの場合で言えば、最初は彼の感情表現を促すよう反射を使いますが、適当なところで「それで、その状況をなんとかする方法は見つかった?」というような質問をすると良いでしょう。

【感情を表す語句を拾い上げる】
相手が感じていることを、完璧ではないにしろ、上手にくみ上げる方法は、まず感情を表す語句に注意深くあることです。時々、「それでどう感じたの?」と聞いてしまうことがありますが、それはたった今相手が言ったはずのことを尋ねることです。よく聞いていないと受けとめられるでしょう。

また、時には感情を表す語句がメッセージの中にはっきり表れないことがあります。例えば、ある女性は彼女の母親の再婚について「よかったわ」と言うかもしれませんが、声の調子や表情やしぐさは別の感情を表現しているかもしれません。この場合、相手の感情をどこから読み取るべきでしょうか。

例を挙げましょう。

「夕べのデート、ほんとうに楽しかったね。まったくすばらしかった。つきあいはじめて間もないけれど、僕たちの間には何か特別なものが存在すると感じているんだ。今度はいつ会ってくれる?」

ここで、感情を表すことばは、

ほんとうに楽しかった
すばらしかった
僕たちの間には何か特別なものを感じる
いつ会ってくれる? (つまり、「また会いたい」という気持ち)

…です。

【練習問題】
次の文章において、①話し手の感情を表している語句、②その語句から感情をできるだけ的確に反射させるよう言い換えてみてください。

1.「仕事がないと気が滅入るってほんとうだな。僕はまだ若いし、出世したいと思っているのに、今のままじゃお寒い限りだよ」
①感情を表す語句→
②反射する語句の言い換え→

2.「あたし、もう人の手を借りないで自立しようと決めたわ。あたしはあの仕事で成功できる人間だって言われて、興奮してるの」
①感情を表す語句→
②反射する語句の言い換え→



注意事項があります。感情を交流させるというのは、単にことばを的確に送り返すというだけではありません。声の抑揚や表情も伴っているはずです。例えば、自殺をしたがる傾向のある友人が「もうどうにでもなれっていう感じ…」と言ったとすれば、この自暴自棄の感覚を声や表情で「鏡に映すように」反射させるのです。ただし、このような場合の反射が、温かさや同情を示すのを妨げるようであってはなりません。感情を反射させるとは、こちらが聞いているということと、気にかけているということをきちんと伝えるものです。感情の反射は次の二つの段階を経て、正しく行われる必要があります。
1.感情は正確に見出されなければならない。
2.感情の強さが正確に表現されなければならない。
その上で、メッセージ全体をきちんと読み取り、相手の感情の核心を表現できるように組み立て、反射させます。文章にすると複雑なようですが、自動車の運転と同じで、実際にやっていくうちに、身体で覚えるでしょう。

【反射のスキル 上級 感情と理由を反射させる】

反射をさらに有効なものにするのは、相手の感情とその理由の両方を反射させることです。大切なことですが、その際にこちらの「外的観点」から解釈したり、説明を加えてはなりません。それは押しつけ、または操作です。むしろ相手が、ある感情の生じた理由を述べた際に「~だから、あなたは~と感じたのね」と、相手の内的観点を映し出すように反射させます。例を挙げましょう。

A:今度、法学の試験を受けるんだけれど、これで良い点を取ると就職のときにすごく有利なんだ。
  将来がかかってるんで、とても心配だよ。
B:運命を左右するような試験が近いので、不安なんだね。
A:そうなんだよ。夜も眠れないし、食欲もない。緊張が続いているんだ…。どうにかしないとね…。

ここでBさんはAさんの言うことを妨げることなく(やるっきゃないって、などの対処法のアドバイスなどせずに)、Aさんの心配と不安を的確に見いだして反射させています。「~だから、あなたは~と感じたんだね」という反応の仕方は、単に「不安なんだね」とだけ言うよりも、深く理解していることを相手に伝えることができます。Bさんの「~だから」の部分は、心配の原因をAさんの観点から見て、その核心だけを簡潔に表現しています。Bさんの的確で思いやりのある反射は、Aさんに自分の感情をことばで確認させ、その感情にどう対処するべきかを「自分で」考えるきっかけを与えています。余計なおせっかいのないBさんの反応は、AさんのBさんへの友情の気持ちを深めるに違いありません。

【練習問題】
次の会話について、「~だから、あなたは~と感じたのですね」というやり方で、話し手の主な感情を別の語句に言い換え、その感情が生じた理由の核心を簡潔に述べてみてください。

1.あたし、からかわれていてつらい…。ほんとうにもううんざり。
  別に他の子と何も違ってないのに、みんなよってたかっていじめるの…。
  これからどうなるんだろ。あたし、怖い…。

2.予定してなかったのに、妊娠しちゃったの。で、できてみたら、すんごいうれしいの。
  夫もそろそろ子どもが欲しかったんだって。うれしかたわあ。



(「思いやりの人間関係スキル・ひとりでできるトレーニング」 / R.ネルソン・ジョーンズ・著)より

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以上です。いかがでした? 
むずかしいですか? でも実際にやってみたら、すぐ慣れますよ。しかも効果は絶大! 保障します。エホバの証人を孤独に出てきた方々、早く周りに融け込んで、いい人生を送ってくださいね。ああ、でも疲れちゃった…。

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目は口ほどに…

2005年08月18日 | 一般
ウソは目にあらわれる。みなさんも経験的にこのことを知っておられることと思います。よくやるエホバの証人の目を観察したことがおありでしょうか。

昨日、日ごろ伏目がちだった同僚が倒れて救急車で運ばれました。今日、電話があって、過労だということでした。でも会社の仕事が原因ではなかったのです。その人には今、ちょっと込み入った事情があるのですが、おそらくそのことでしょう。わたしも電話で、「あのこと?」って聞いたらちょっと黙って、ちいさく「うん」と言いました。もうそれ以上深入りして聞きませんでしたが、あらためて人間の心ってほんとうに目にあらわれるんだなあ、と実感しました。

それでちょっと立て続けに記事出しますが、「目」についてこんな一文を紹介します。

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心のあり方は、顔の中でも特に “目” にでて来るものです。
大きなマスクで、鼻と口、つまり顔の半分以上を隠していても、その人がだれなのかはわかってしまいます。ところが、濃い色のサングラスをかけていると、目だけしか隠れていないのに、ちょっと見ただけではだれだか見当がつかないということがあります。顔の広い部分を隠すより、目を隠しただけのほうが、その人がわからなくなるということは、逆に言えば、目にその人が出るということを裏づけています。

目に生気のない人、ぼんやりとした目をしている人がいます。それは心が死んでいることなのではないでしょうか。きらきらと輝いた目を持っている人は張り切っているので、見ているだけでこちらも楽しくなってきます。目の美しさは、美人の条件のひとつです。

結局は、その人がどのような心がまえで人生を歩んでいるか、どういう考えのもとに仕事をしているか、どんな心の態度で他人と接しているか、というその人自身の心の持ち方が、目の輝きにあらわれ、目の輝きが顔の美しさをつくるのだ、と思うのです。とすれば、心の持ち方は、美人になれるかどうかの大切な問題なのです。

(「女の魅力は『話しかた』しだい」/ 金井良子・著)

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わたしがエホバの証人をやめた1997年、最期に出席した真冬の巡回大会(前年12月バカ忙しい時期)で思ったことです。その時の巡回監督はとても若い方でした。その兄弟は話すときには、伏目がちなのです。会衆のある若い兄弟も、今度の巡回監督は近づきにくい、永久宿舎に引っ越されてきたときに手伝いをして、親しく話をしたのに、大会ホールで出会ってもすぐ目を逸らすんだと言っていました。もし明日この巡回監督に会う用事があるとしたら、この情報だけで、この巡回監督が自分についてどう感じているか、どういうふうに接したらいいか、みなさんならどんなふうにおおよその推測を立てて、心の前準備をされますか?

目はたしかに人の心のありようをあらわす、とわたしも思います。わたしは初対面の人と話すときには、目で相手をおおよそ判断します。それは意地の悪い姉妹たちはたいてい目つきもよくなかった経験に由来しています。どんなに立派な注解をしようとも、その人が日ごろどういう心がまえであるかは、顔の中では最初に目にあらわれます。そして顔はいちばん目立ちますし、顔の中でも目はもっとも目立つのです。

好きな人ができれば、その人を見る目はきっときらきらしているはずです。好きじゃなくなったら、その人を見ると反射的に、一瞬目を伏せたり、泳がせたりして、当惑の表情をつくっていることでしょう。現役の方、こんど集会へ行ったとき、奉仕のとき、いつもだれかを裁いている人、悪口ばかり言う人の目をちょっと観察してみてください。美しいと思うでしょうか。きっとなぜかしら、一歩引いてしまうような、そんな印象を受けるはずです。

一致があるだの、平和を達成しているだの、喜びにあふれているならなおのこと、目がそれを物語るはずです。わたしは出身の県を離れて暮らしていますが、こちらに来てから滅多にエホバの証人の訪問を受けたことがありません。ずっとマンション住まいなので、オートロックがかかっており、インターホンしかないためかもしれません。でも今度もしエホバの証人の訪問を受けたら、上へ上げて、対面してみようと考えています。そしてやはりその伝道者の目が、作り笑いとはうらはらな色をしていたら、こう言ってやります。

「目は心の鏡といいます。あなたの目には、あなたが言うようなお話とはぜんぜん違う感情が見られます。あなたはほんとうにおっしゃっていることを信じておられるんでしょうか。ちょっと疑わしいですね」。
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「無名兵士の言葉」(2)

2005年08月17日 | 一般
加藤先生の「無名兵士の言葉」ですが、全体的に文章も短く簡潔なので、4章をダイジェストでご紹介しようと思い立ちました。4章は「無名兵士の言葉」の第4節、

世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった

…をテーマにして、70歳に手が届こうとする、加藤先生のお考えを展開されておられます。ご自身「神経症」の青春時代を過ごされ、心理学の研究を通して、人間というものへの洞察を話されておられます。

みなさんは、現役だった時代の自分にいま会えるとしたら、かつてのその自分にどんなことを言いたいですか。どんなふうに慰めてあげたいですか。どんなふうに勇気づけてあげたいですか。いつも会衆に認められよう、長老や巡回監督に認められようと背伸びばかりしていた自分。あるいは逆に、会衆や長老に非難されないように慎重に、慎重に振る舞おうとしていた自分。もうすでにマイナスのレッテルを貼りつけられていて、いつも心を痛めていた自分。集会の日には、深いため息をつきながら王国会館に向かっていた自分。せめて笑わないようにして、わたしはあなたたちのやり方、考えかたに同意できません、という抗議のサインを示していた自分。それなのに組織は、「快活になれないのは不満を表している、不満を表すのはコラのような反逆的な霊のサインである」と「助言」する、自分の心の中で怒りと悔しさが燃え上がり、ストレスにさいなまれていた自分。家へ帰ってひとりで何時間も涙を流していた自分…。

わたしはあのときのそんな自分に、励ましと、勇気づけと、いたわりのことばをかけるつもりで、この本の引用を行います。加藤先生の意図を損なわないよう、原文に忠実であることにします(いつもそうですが)。ところが原文は、今の日本へのアドバイスとなっています。ですから、読んでくださるみなさんは、ご自分でエホバの証人だった自分にあてはまるように、頭の中で言い換えてくださいね。

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【欲望の肥大化という不幸】


アメリカと日本がまったく違った国だということを理解しないで、「これからは成果主義だ」という。アメリカ人と日本人がまったく違った人間だということを理解しないで、日本経済はグローバル化に追いついていかなければいけないという。日本も勝ち組と負け組に分かれるという。世界に誇れる日本文化を壊してアメリカ式のビジネスをすることが、まるで先進国であるかのようなことがいわれている。

名馬にイノシシの生きかたを力ずくで強いて、名馬を殺そうとしている今の日本。そうしたなかでは、当然一方に無気力が広がり、他方で力や富や成功への願望が肥大化する。勝ち組も負け組も不幸になる。

肥大化というのは触れ合いがなくて欲だけがあるときの状態。欲望以外のことが欠落しているのが欲望の肥大化である。欲望の満足の中に人生のすべてを求めた。それが欲望の肥大化である。そうして、こう生きたら人が立派だと思ってくれるだろうという生きかたになってしまう。

どんなに「成功」しても、だれかと心がふれあっていなければ人は幸せにはなれない。心のふれあいが人生の価値であり意味であり、人に充足をもたらす。(ヴィクター・)フランクルが「成功と絶望」は矛盾しないと言っているのは、成功したけれども人との心のふれあいを失っているという意味であろう。

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上記のなかで、「名馬」と書かれているのは、大胆で勇猛ではないけれど、決して世界にひけをとらない日本の文化を例えています。「イノシシ」は、大胆不敵で、雄大で勇猛で強靭であることに憧れて、日本が模倣しようとしている外国文化を例えています。馬が良いかイノシシが良いかということではありません。「名馬」とあえて書かれているのは、「イノシシ」を悪く言おうとしているのではありません。国民性としての日本の性質・個性を全否定することはない、とてもいい面もあるのだ、ということを言いたいからです。

日本には日本の伝統的な文化があって、考えかたや行動を決める枠となっています。善いことか善くないことかという問題ではありません。日本に生まれてきて、日本の社会で育ってくればおのずと身につける国民性、大きく括(くく)った場合に見られる、独自の特性というものがあります。そんな日本人には、それに合ったライフ・スタイルがある、というのが加藤先生のご意見です。加藤先生のご意見は心理学者の視点に立っているものです。アメリカに追いつけ追い越せ、という考え方で西洋文明を盲目的に輸入し、日本的なものをあたかも時代遅れでもあるかのように見なして、低く評価する…。

アメリカの巨大な物質文明とその富を得られれば、世界から「一流の国民」と見られる、そういう観点で経済発展を追及するのだとしたら、アメリカ国民と日本国民の違いを無視しているので、自分に無理を強いることになる。馬を駆る騎手を相手に、早足自慢の日本人の飛脚が競走しようとしているようなものだ、というワケです。このへんの説明は、加藤先生の別の著書、「日本型うつ病社会の構造」に詳しいです。

無理して日本に合わない方法で西洋型の富と財産を追求しなければならない、だから人間の自然な必要を棄てて遮二無二働く。そうやって経済大国に成長して、日本は所期の評価を得られたのでしょうか。欧米諸国に肩を並べれる「一流」と見られているでしょうか。わたしにはそうは思えません。一時はエコノミック・アニマルと揶揄されたこともありました。中国や韓国からは、怒鳴れば何かを引き出せる国と見られています。東南アジア諸国からもアジアのリーダーとして揺るぎない評価を得られているかといえば、とてもそうは思えない。今の日本はたしかに、中学校のいじめられっ子のような観を呈しているように見えます。いじめられっ子は自分というものを見失っているので、みんなに迎合しようとします。でも尊敬されません。それどころか軽く見られるのです。自分に自信がないのでビクビクしていて、大声で怒鳴る子や乱暴な子の機嫌をうかがってばかりいます。

いかに人から立派に見られているか、という視点で成功を目指しても自分に自信はつかない、というのが加藤先生をはじめ、眼の黒いカウンセラーや心理セラピストの見解です。自分の内にあって、人と違っていても取り残されたようには思わない「自信」というのは財力とか勲章とか学歴とか熟練とかの、「ソフトウェア」で得られるものではありません。それは人と気持ちを共有できること、自分の弱みを見せても見下されたりしない、それどころかそれでも認め合えれる人間関係から来ます。その人から、学歴や地位や財産、熟練を全部取り去ったあとに残る人間そのものを認められる気持ち、人間という「ハードウェア」そのものを貴重に思える気持ち、それが「自信」である、とおっしゃっておられます。

馬にできることとイノシシにできることは違います。馬にできることをイノシシに要求しても、馬ほど上手にはできないのです。だからといってイノシシは馬よりも価値が低いのでしょうか。馬は馬にできることを行えばいいのです。イノシシはイノシシにできることを精いっぱいにやればいいのです。アメリカ人はアメリカ人に合うライフスタイルでいいし、日本人は日本人に合うライフスタイルでいいのです。馬にしかできないことをイノシシが行おうとすると、自分の無力さを思い知って自信を失います。これはとんでもない勘違いです。自信を得られないからってますます、馬のようになろうって頑張ります。でも自信は得られません。自分に合うスタイルが分かっていないからです。だから「一方では無気力が広がり、他方で力や富や成功への願望が肥大化する」…。経済的に成功を重ねても重ねても、自分に自信が持てない。「成功と絶望」が正比例する不思議。それこそが、財産や名声や地位や学歴や能力といった「ソフトウェア」を多くインストールするだけでは自信は身につかない、ということの証拠なのです。

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【心に傷があるから脅迫的に名声を追求する】


脅迫的に名声を追及する人は、傷ついた孤独な人である。いつになっても人を好きになれない。傷つくのが怖くて、人を好きになれない。孤独と虚しさは同じコインの表と裏である。

脅迫的に名声を追及する人は、皆といっしょにラーメンを食べるのではイヤ。彼は有名料亭で料理が出たら、払うことを考えないで食べてしまうような人である。心のふれあいを知らない人は、有名料亭で料理を食べているときは癒される。名誉とか権力という「薬」を心の傷口に塗って欲しいのである。心の傷が痛むから、そうせざるを得ないのである。

脅迫的に名声を追求する行動は、心の傷が発する「痛みを止めてくれ」という叫びから出た行動である。脅迫的に名声を追求する行動は、自分の車で信号を無視して行くようなものである。そこで事故が起きる。つまり現実の世界での挫折である。

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「ソフトウェア」をより多くインストールしようと意固地になる人は、はだかの自分ではだれも認めてくれない、と思っています。自分という「ハードウェア」はみすぼらしいと信じ込んでいます。人間なんてはだかではみんな同じようなものなのに。人間ははだかの自分でも十分尊敬され、愛されるに値するのに、それが信じられない。「組織のいいつけを守らない子なんてキライ」、そういって折檻する。こういう「条件つきの愛」でしつけられると、ありのままの存在である自分、自分という「ハードウェア」では認められないという、ことば以前の信条としてその人の幼心に思い込んでしまうそうです。これも「心の傷」、あとあとまで影響を残してしまう「トラウマ」となりかねないものなのだそうです。もちろん要因はほかにもたくさんあります。

いずれにせよ、ハードウェアがみすぼらしくて誰にも認められないという誤った信念から、ソフトウェアで他の人より差をつけなければならないという脅迫的行動が生じやすいのです。名声を脅迫的に追及する人は「心が傷ついている」。名声を得るために他人を出し抜こうとします。他人への配慮もしません。加藤先生が、「信号を無視して行こうとするようなもの」と書かれたのは、こういう意味でしょうか。当然、他人との協調ができない。人と心を通わせるということもできない。だからいっそう孤独になる。孤独だから人から認められたいという渇望を抑えられない。ますます名声というソフトウェアを追求する。孤独を癒すのはだれかの温かい心遣いなのに、力でねじふせて自分を顕示しようとするからだれからも愛されない。

愛されようとして努力しますがますます孤独になってゆきます。間違った努力をしているからです。やがて自分より強く大きい車、トラックなんかと衝突する。そして挫折…。

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【ポストにしがみついてノイローゼになる人】


人はほんとうの自信をつけることができないから、脅迫的に力を求め、富を求める。そしていったん得たポストにしがみつく。そのポストでストレスからノイローゼになる人がいる。それでもポストを放さない。

ある女性の文化人である。「あなたは何を求めているのか?」と聞きたくなるくらいに「上に、上に」と脅迫的に名声を追求する。そして自分が今している勉強が好きではないようである。彼女は一時的には華やかである。しかし華やかさの中で自分を見失う。華やかさに捕まっている人は、いずれ華やかさがなくなる。テレビのワイドショーを降りる。そのときに一気に老いが来る。今までの人生のツケが来る。つまり自分は何をしてきたのか、何がしたいのか、どうやって生きていっていいか分からない。

エリートコースを歩む人、華やかさを求める人は、たとえば「どうしても」ほしいポストや賞がある。しかし、その「どうしても」欲しいポストや賞にしがみつかないことが大切なのである。それが心の自由である。人は「どうしても」欲しいものを手に入れられなくても生きていけるし、逆にかけがえのないものと思っているものを失っても、やがてそれなしででも生きていける。

その悲しみや絶望を乗り越えて人間の幅ができる。ただ、人と心でふれあえない人は、それを乗り越えることができない。

人と親しくなれないということに、人間のほとんどの重要な心理的問題が隠されていると言っても過言ではないからである。アメリカの離婚原因を調べてみると、女性も男性も第一原因としてあげるのはコミュニケーション問題である。

-------------------------------------------

加藤先生のこのご意見は、かつてエホバの証人だった自分にあてはめられるでしょうか。はい、というのがわたしの場合です。みなさんはいかがでしょうか。




「わたしはすべての骨折りと業におけるあらゆる熟練とを見た。
 それが互いに対する対抗心を意味するのを。
 これもまた、虚しく風を追うようなものである(伝道の書 4:4)」

「遠からず、君はあらゆるものを忘れ
 遠からず、あらゆるものは君を忘れてしまうだろう。
 (「自省録」/マルクス・アウレリウス)」

「全世界を自分のものにして、その周囲に柵を巡らせたとしても
 あなたは一日に三回しか食事をしないし
 寝るときにはベッドがひとつあれば足りるのだ。
 (デール・カーネギー)」

「野菜の料理とそこに愛があれば、
 肥やし飼いにされた牛とそれに憎しみが伴うのに勝る(箴言15:17)」


生きているときに、友、友人、よきパートナーである配偶者とひと時を分かちあえること、これだけで人間ってしあわせだと、つくづく思います…
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「無名兵士の言葉」

2005年08月15日 | 一般
加藤諦三さんの新作が出ました。「アメリカ・インディアンの教え」タイプの本です。聖書のことばよりもわかりやすく、心にしみ入るのでご紹介します。


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「無名兵士のことば」



大きなことを成し遂げようと思って、強さを求めたのに、弱さを授かった…
それは、わたしが謙遜を学ぶようにということだった。

偉大なことができるようにと思って、健康を求めたのに、病気を賜った…
それは、わたしがより良きことをするようにということだった。

幸せになろうとして、富を求めたのに、貧困を授かった…
それは、わたしが賢明であるようにということだった。

人びとから称賛を得ようと思って、成功を求めたのに、失敗を授かった…
それは、わたしが得意にならないようにということだった。

人生を楽しむために、あらゆるものを求めたが、
わたしが人生を賜ったのは、むしろあらゆるものを慈しむためだった。

求めたものはひとつとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
わたしはもっとも豊かに祝福された。



***

人はよく好かれることを求めながら、実際には嫌われる言動をする。好かれたければ好かれるような行動をすればいいのに、わざわざ嫌われる行動をする。好かれたいから自慢話をするのだが、その自慢話で嫌われる。人は幸せになりたいと願いながら、実際には不幸になるように行動する。こういう人は、幸せになるために自分が何を必要かがわかっていない。

黄金の冠をかぶったミイラをあなたはどう思うか? 名誉、権力、財産などは冠。冠は人間がかぶって初めて輝く。あなたは生きるのがすごくつらくて、苦しくて、それでも名誉、名声、権力を与えられるのがいいのか。それとも違う道があったと気がついて、自分が満足する道をゆく生きかたがいいのか?

心理的に病んでいながらビジネスの勝者になるよりも、心理的に健康で、満ち足りた人生を送ろうとする努力が今の日本には大切である。ビジネスや政治において失意のときは、視点を変えれば、幸せになるチャンスである。

この「無名兵士の言葉」は、失意のときにどう対処するかを教えている。第二次世界大戦後の日本は、世界でもっとも「カネ、カネ、カネ」の価値観が浸透した国になってしまった。そして世界でもっとも心理的に崩壊した。人生の価値、生きていることの意味、カネを超えた崇高なるものへの信仰などが失われた。この140年前のアメリカ南北戦争時の「無名兵士の言葉」が日本に「心」を呼び覚ますきっかけになってくれれば、と心の底から願っている。

わたしたちはついついラクに生きることを求める。生きることは奮闘労苦することだと覚悟を決めて、一生懸命に生きれば、「無名兵士の言葉」の意味がわかる。

(「無名兵士の言葉」/加藤諦三・著)
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加藤さんは、この本では現代の日本人を対象にしておられるようです。

人から認められること、見栄えのする成果を挙げようとすること、勝つこと、と言っても、だれかを自分に対して敗北させる、または服従させることという意味での勝つこと、自分に驚嘆させること、すごいなあって言わせること、そういう「形」をとにかく大きく、見栄えよくすること、そういうことで生きがいを見いだそうとしますが、どこまで行ってもそれは見いだせない…。「形」を偉大にすることが成功することだと信じてきたが、疲労と焦りしか見いだせない…。「形」あるものは衰退する、永続するものは何もない。いつも追われているようで、どこまで行っても自分だけの居場所がないような所在なげな獏とした孤独…。だからいっそう頑張って成果を挙げようとする。休みたいと思っても、そんな自分を罰するくらい、自分に鞭打って競争を続ける。戦後の日本人の生きかたをこのように描写しておられます。

何か栄光らしきものがなくては、自分は尊敬を受けることができるとは信じられない、何かきわだった「形」を生み出さなければ、一人前と認められない。はっきりことばとして意識していなくても、そんな使命感に追われて生きている。ひとりでいると寂しくて耐えられない。だれかに賞賛されていなければ気持ちが落ち着かない。加藤さんはこういう気持ちを指して「不安」と表現しておられます。

何も栄光らしきものがなくても、寂しくない。隣りの人が大きな業績を上げても追い抜かれたという敗北感にさいなまれたりしない、それどころか心から喜んであげられる、そんな境地に至らせてくれるものは何でしょうか。人間関係です。良好な人間関係です。信じられる友、愛し愛される配偶者や恋人がいるということです。そして良い人間関係というのは、相手を力ずくでねじふせたり、威気高に接したり、見下したり、思い知らせたりすることでは決して得られません。熟練とか、地位とか、名評判とかがなければ友だちになってもらえないんじゃないか、いいえ、ちがいます。財産、熟練、権力・地位、名評判、ネクタイを締める職業であることとかは、いわば人間にとってはソフトウェアでしかありません。人間の価値はハードウェアであるその人自身の生きている存在そのものにあるのです。

人を思いやる余裕とか、やさしさとか、寛容さとかはハードウェアの性能です。人を惹きつけるものはハードウェアの性能にあるのです。尊敬してもらおうとか愛してもらおうとして権力を誇示したり、なりふりかまわず財産を築こうとしたり、学歴を得ようと躍起になったりするのは、間違った努力なのです。加藤さんがこう述べたのは、そのことを言おうとしておられるのです。

「人は幸せになりたいと願いながら、実際には不幸になるように行動する。こういう人は、幸せになるために自分が何を必要かがわかっていない」。

中高年の自殺者が増え、ニートと呼ばれる若者が現れ、将来に夢を持てない、プライドも持てず、未成年の凶悪犯罪が増加し、性暴力がはびこる、こんな、国民の精神的危機を尻目に、日本は国連の常任理事国になろうと努力している。地位や名声、格式を高めようとすることを追うのは、幸福を得ようとしているのなら、とんでもなく道を間違えている、幸せになりたいのなら意識をソフトウェアにではなく、ハードウェア、つまり人間そのものに向けるべきである、加藤さんはそう主張されておられるのです。わたしはまったくその通りだと思います。この本は170ページほどの小さいものなので、読書が苦にならない方はぜひお読みになってください。税込み1470円です。
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笑顔の会釈こそ人づき合いの原点

2005年08月09日 | 一般
連日、30℃以上の気温で、もう完全にバテています…
でも毎週一度は更新したいので、ちょっと軽いお話をします。

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旅先のスイスでのこと。
アパートのエレベーターを降り、エントランスに出ると、ベビーカーに丸々と太った赤ちゃんをのせたお母さんが、こぼれるような笑顔で「ボンジュール!」と声をかけてきた。私もあわてて「ボンジュール」と応える。これだけのことだが、心にほっと灯がともる。
「いいな、こういうのって!」

シオンという古い街から山に向かう道すがら、リフト小屋のおじさんも、買い物帰りのおばさんも、目が合えばニコッと会釈、近くに寄れば「ボンジュール!」。次の日にはすっかり慣れて、こちらから明るく声をかける。と、必ず倍にふくらんだ笑顔と声が返ってくる。ドンとぶつかっても「ゴメンナサイ」も言わない日本人とは大違いだ。

この「会釈」とは、辞書を引くと仏教用語で、「ものごとの前後の事情を理解すること」と書いてある。つまり、同じあいさつといっても、頭を下げた丁寧なお辞儀をするほどのものでもない、その場の状況を判断して軽く頭を下げたり、笑顔のひと言で通り過ぎたりしてもいいわけだ。だから会釈はわたしたち大人の人間にしかできないもので、子どもがそこまでできたらかえって気味が悪い。

同じ会社や団地というエリアの中にあってすら、固い表情のまま通り過ぎ、あいさつしても無視され、ひと声かけると奇人扱いのジト目でにらみつける人さえいる現実。ダメダメ、これでは人間じゃない、大人じゃない。

ニコッという笑顔と、さわやかなひと声。これは人づき合いの原点。さあ、浮いててもいいから、自分からはじめてみよう。

(「これだけは知っておきたい・社会人の基本/今井登茂子・著」)

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しあわせは待っているものではなく、自分から作ってゆくもの。無視された気まずさよりも、ぺこっと頭を下げて、あいさつを返してくれたことのほうに注目して、しあわせをどんどん分けて行こうよね。
「惜しみなくまく者は豊かに刈り取る(コリント第二9:6)」って、耳にたこができるほど読んできたじゃないですか。これはものみの塔協会に、寄付金を「蒔くように」というのでは絶対にありません。笑顔を「蒔いて」みなさんに幸せを分けようっていうこと。

いろんな心配があるからって、自分に閉じこもっていい結果がやってくることはないって、自分の経験から分かるもん。不機嫌にしていれば誰かが気を遣ってくれるだろうっていうのは、いちばん嫌われる種類の甘え。わたしが交わっていた会衆の長老のようなヤツ。不快にされたものです…。ああいうのは反面教師にしよう。しあわせを追い求めるなら、いま自分にできる「しあわせのプレゼント」を惜しまずに分けていこう…。

エホバの証人のように、離れていった人たちを見てぷいっと目を逸らしてこそこそっと立ち去る、あんなんじゃあ、絶対にしあわせは呼びこめないから。ああいう人たちって、自分をみじめに思わないんでしょうか。「離反者」「背教者」をこそこそ避けている自分を。ひそひそ悪口を言う自分を。
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権威者を神さまにするのはやめよう

2005年08月02日 | 一般

 

 

 

 

 

昨日、ある長老のことをコメントに書いたら、ふと思い出しました。現役の方にはきっとうなっていただけると思います。
 

 

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【権威者を神さまにするのはやめよう】


権威者に対する恐れについて考えてみましょう。

日本ではとくに、先生、父親、警官、夫、先輩、政治家、上司など、地位のある者、年上の者、男性、お金持ちは、ただそれだけで権威者として威張っていたりします。また、子どもの頃から、こういった権威者を恐れるように教育されがちです。しかし度がすぎると、相手がただ権威者だというだけで、何の理由もなく自分を卑下し、恐れかしこむようになります。

真に実力と器量の大きい権威者であるなら、他人に対して思いやりと責任を持ち、自分の権力をむやみやたらとは行使しません。ですから、権威者とみなされている人に会ったら、まず、じっくりその人の人格を見てみましょう。

恐れはあなたを麻痺させます。深呼吸をして、恐れを遠ざけましょう。権威のある相手を「神さま」にしてしまうのはやめましょう。
 

 

(「心の傷を癒すカウンセリング366日/西尾和美・著」)


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どんな権威者であっても、他者の信条、思考、趣味、行動etc...までも支配するべきではないのです。権威者としての器を有している人物ならば、そこまで手を入れようとはしないでしょう。自分の目標を持ち、それに協賛してくれる人たちを部下・同僚としてパートナーシップを結びはしますが、彼らからの賞賛を求めているのではないからです。その代わり、その権威者は部下の選抜にあたっては、人をよく選びます。自分の目標を達成するのに役立つ人材を求めるからです。

一方、単に人々からの賞賛だけが欲しい人は、あまりにも熟練した人や有能な人を部下には持ちたがりません。自分の賞賛がかすむ怖れがあるからです。むしろ、意欲もなければ能力も未熟な人材を選びます。自分がナンバー・ワンであることが重要なのです、そういう人にとっては。精神科医たちは、この手の人々を「ひとかど」とはみません。むしろ、パーソナリティ障害とみます。この手の人たちには「自己愛性パーソナリティ障害」に分類される場合があるのです。アメリカの精神科医の学会で定められた、精神疾患の分類と診断基準というものが準備されています。「DSM-Ⅳ-TR」と呼ばれています。日本語版も医学書院から出版されていて、入手できます。3800円です。それによると、自己愛性パーソナリティー障害について、次のような診断基準が示されています。
 

 

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 空想または行動における誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。

1.自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2.限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4.過剰な賞賛を求める。
5.特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6.対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.尊大で傲慢な行勤 または態度。
 

 

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解説によりますと、自己愛性パーソナリティ(人格)障害の人は、自分を賞賛してくれる取り巻きを求めるのです。「賞賛されていたい、という欲求」が異常に強い人だからです。賞賛こそ、彼・彼女のパンであり、活力源なのです。裏返して言うと、「この障害の人は批判に弱い。あるいは批判を全く受けつけない。ごく小さな過ちであれ、それを指摘されることはすべてを否定されるように見えるのだ。このタイプの人は強迫性パーソナリティの人と同様、完璧主義者なのである」。

なので、このタイプの人は批判されると、耳を貸さずに怒り出します。言を弄して徹底抗戦し、なかなか自分を省みるということをしません。「だが自分の非を受け入れざるを得ないと悟った瞬間に、彼はすべてのものが一切合財台無しになったような思いに駆られ、ひどく落ち込む」。

このタイプの人を「神さま」扱いにして、自分の「主」としてしまうと自己を破壊せざるを得ないところまで追いつめられかねません。それは次の二つの理由によります。
1.
「過剰な自信とプライドとは裏腹に、現実生活においては子どものように無能で、依存的であるのも、このタイプの特徴である。そのどちらもが、しばしば社会生活に不適応を起こす原因となる。というのは、批判によって不完全性、欠点が露呈してしまうのを怖れて、社会的引きこもりがみられるのである。自らを『不遇の天才』と考え、その者にかしずく者(たいていは親か配偶者、子どもの場合もある)にだけ王のように君臨して、あごでこきつかうのである」。
2.
「自己愛性人格障害の人は第一印象では、非常に魅力的で好感を持たれることが多い。しかし、つき合いが深まってくると身勝手で、粗野な面が露呈し、驚かされたり、失望したりさせられることが多い。

このタイプの人は対人関係においては、二種類を求める。
①賞賛だけを捧げてくれればいい大多数の者と、
②本人の世話をし(なぜなら、しばしば現実面では無能力であるからである)、
さまざまな現実問題の処理を代行してくれる依存対象となる少数の者、
…である。

彼にとってあなたが前者であるうちは、お客さま扱いをされ、あなたは彼に魅了される。が、交際が深まり、あなたが後者に代わったとたん、あなたは召使いやお手伝いさんの待遇に変わってしまうだろう。だが、あなたがこのどちらかであるうちは、彼・彼女にとってはあなたはまだ存在価値を認められる。しかしあなたがあなたの人権・権利を主張しようものなら、もう彼・彼女にとってあなたは前者、後者のどちらでもなくなるのだ。すると彼・彼女は使い終わったティッシュのように容赦なくあなたを排除するのである。

このタイプの人にとって、他者というものは、『特別な存在である自分』のためになんらかの奉仕をする人たちに過ぎない。彼・彼女は他者の内面や、他者の存在の尊厳をほとんど顧みない。あまりにも自分が重要なので、他者のことや、他者の問題はどうでもいいことなのだ。ある意味で他者は、自分の都合や利益のために利用するものでしかない。(上記の診断基準の、5,6,7を確認されよ) 利用価値がなくなったり、思い通りに動いてくれなくなったら、その関係は終わりを告げる。利用価値がなくなった者は無価値でつまらない者として言いふらされ、公にさえ宣告され、否定される。非常に冷酷で搾取的な構造がそこには認められる。

他者に対して搾取的であるという点では、反社会性人格障害に共通するものがあるが、異なるのは露骨な搾取ではなく、一見合法的であったり、優雅であったりすらする点だ。
(ルナ註: 今わたしはエホバの証人の一部の長老たち、支部委員たちを念頭においていますが、もっと一般的にも言いえることです。この診断基準はきちんと統計を取って定められたものですから)
がしかし、心の底では他人の気持ちに無関心で、共感性が乏しいという点では共通している」。

ですから、権威者であるというだけの理由で盲目的に恐れかしこんだり、彼・彼女の権威によって自分のアイデンティティーを立てようなどともくろむのは、自分に自信を失っている間はなおのこと危険なのです。むしろ「こうした人たちからは離れなさい(テモテ第二3:5)」、できればこちらから離れるのがいいことです。

自分に自信を持てないでいる間は、とかくわたしたちは誰か権威者の威光を借りて胸を張ろうとするものです。他の人たちが、自分に一目置いているのを態度で示されないと不審に思う、というのはかなり自分に劣等感が大きく根を張っているということの証拠です。本当の自分を知られればきっと彼らは自分を見下すに違いないと、勝手に思い込んでいるのです。…そんなことはない、こうでなければダメだ、ああでなければダメだ、というのはエホバの証人や、そうでなくても人間的に未熟な親たち、上司たちです。自分はどんなに欠点があっても、生まれてきたのですから、生きている価値はあるのです。むしろああでなければ、こうでなければという理由で蔑む人たちこそ未熟なのです。自分に自信がないのです。

だから、もうこれからは他人にへつらわせることなど考えないようにしようよ、ね。「自分」という者に確信が持てれば、誰かが低めよう、貶めようとしてきても心の中で自分を主張できます。「これがわたしだ、あなたたちの指摘するわたしの性質は欠点となる場合もあれば、長所となる場合もある。わたしが生きてゆくのに不足することはない」と。まいた種は刈り取る、これは真実です。誰かに対して上から見おろすように接すると、相手はかならず反発します。あなたに権力があれば、面倒を避けるために表面上は服しているように振る舞っても、内心では、心ではあなたを見下すでしょう。でも相手を尊重する態度で接するようにすれば、相手の人は早く警戒心を解くでしょう。そうすれば気持ちと気持ちを触れ合わせることがより容易になるのです。わたしはわたしの人格を尊敬して欲しいし、わたしを欠点をも含めて、個性まるごと受け入れ、尊重して欲しいと思います。あなたはそう思うのではありませんか。わたしはそのように、ほんとうに切望します。

だから、「自分にして欲しいことはまず相手に対してしなさい(マタイ7:12)」。
ね、他人の威光など当てにしないで、自分で目標を見つけ、そのために生きるようにしたら、もう他人と違うからってビクビクしないで済むようになります。「自分」というものを確信できるようになります。そうなれば、同じようにして生きている心の素直な人たちがきっと目に留めて近づいてきてくれるでしょう。その時わたしたちはすばらしい特質を持った健全な友人を得ることになります。そうなるのに参考になる本をわたしはいろいろ見つけてきました。もう二度と他人に操作されたくない、自分らしく生きてゆきたい、もっと心から信頼しあえる、温かい人間関係を持ちたい、このように考えている方々にぜひ紹介したいと思いのです。

 

 

 

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「欲しい」と主張する練習:幸福になるのに罪悪感なんていらない

2005年08月01日 | 一般
最近、リズ・山崎さんの本にハマッています。とても簡潔明快で、聖書の箴言のように重みのある文章です。自己啓発書の傑作です。

こんな嫌な自分になったのはどうして? …というような原因を追究するものではなく、今日、これからどうやって自分を幸せにするかということを具体的に教えてくれます。一部分を紹介します。



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笑顔でいる、幸せになる、それはあなたの仕事です。もしラッキーだったら誰かが分かってくれる・運んでくれる、などという消極的な構えはもうやめましょう。

そのためには、いつも笑顔でいることを自分自身に許しましょう。そして欲しいものは欲しいというように、少なくとも本当は何が欲しいのかを自分で分かっている意識の状態でいましょう。あなたには幸せになる権利と自由があるのですから。

心理的デメリットを心の中で想像し、欲しいという勇気を持てないのは自分に対して失礼なこと。またむやみな遠慮は相手にも失礼です。

ワインをおかわりしたければ、「もう一杯いただいていい?」と言っていい。
男のくせになどと自分で思わず、「ちょっと甘えたい気分だな、マッサージでもしてくれよ」、そう率直にリクエストしたほうが、遠まわしな言い方で「させよう」と仕向けるより、好感度も高まります。

すごく疲れているから、協力して欲しいという時も同じ。自分を犠牲にするクセがついている人・他の人に任せることができずに自分がやらなければ、と思い込んでいる人は、「今日ちょっと体調が悪いので、これだけやってもらっていい?」などとなかなか言えません。

今、何が欲しいのか。自分の好奇心や、興味に素直になってあげてください。そしてできる範囲でいいですから、その思いをことばにして相手に伝えてみてください。それが言えたときに、またひとつ、自分を愛せたと感じることでしょう。自分で自分を愛せないと、絶対に幸せになれません。自分を愛してあげる、自分をいたわってあげる、自分のリクエストに応えてあげる、その気持ちが大切なのです。

自分の欲求を認め、表現力を磨き、行動に移せば、必ず生きていることに満足を得られます。

(「感情免疫力で極上人生を手に入れる」/ リズ・山崎・著)

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人生は厳しいもの、我慢できなければダメだと言い張る人は、思い通りに行かなかったこれまでの自分の人生に不満を持っています。何をしても満たされない、自分が生きていることに意味を見出せないと感じる人は自分が本当に興味を持つものを拒絶して生きてきた人です。他人より早くなければ、他人より上に上らなければダメだ、といつも他人を意識し、競争する人も自分の真の好奇心やライフワークを知らない人です。だから行き当たりばったりに競争するのです。何かにつけ人にからみ、結論を導き出すためではなく、単に相手をへこますだけのために反論する人も自分自身の考えや目標を否定されて生きてきました。みんな「自分のリクエスト」というものをないがしろにしてきたか、されてきました。自分を否定し、自分を嫌い、そのために劣等感にさいなまれ、イライラしやすく、すぐかんしゃくを起こす…。そんな人生って幸福じゃないですよ。

山崎さんはこの本の中で、もっといい意味で欲ばりに生きていいっておっしゃっています。「…しなければならないこと」よりも「…したいこと」を大切にしようっておっしゃっています。エホバの証人として盲目的に生きてきたわたしたちには、ある人にとっては衝撃的で、ある人たちにとっては目からウロコでしょう。わたしは山崎さんのアドバイスに心底共感できます。わたしたちは誰か他人の不安を解消するために生まれてきたのではありません。つまり脅迫的な不安に駆られる誰かのお守りするために生きているのではないのです。哺乳類というものは生まれてきた子どもが成長するまではよく面倒を見ますが、成長しきると自分の方から子どもを離れます。子どもも成長できれば、親の巣から旅立つのです。もっとも高度に発達した人間だけが、子どもを操作することにしがみつくのです。

いろんな才能を持ちながら、それを開花させられず、ただただ認めてもらいたいがために、自分を押し殺して周囲に迎合する…。こんなことを「大人の証し」と称して押しつけてきた人間たち。不幸であることを認めず、「幸福」よりも、他人を出し抜くことにより「勝者」あるいは「成功者」と認められることのほうを追い求めてきた人たち。思いやりや優しさをせせら笑い、突き放すこと、出し抜くこと、押しのけること、踏みにじる力を賞賛する人たち…。そんな彼らは、ふとひとりになったとき、いいようのない寂しさ、孤独感にさいなまれる人たちでもあるのです。自分を大切にしなかったのです。

せっかくこの世に生を享けてきたのです。精いっぱい堪能したいじゃないですか。後悔のないように生きたい。リズ・山崎さんがおっしゃるとおり、「幸福になること、笑顔でいられること」はわたしたち人間の最大、最重要な「仕事」なのですから。世間の常識をみんな鵜呑みにすることはありません。もっと自分のほんとうの欲求に素直になりたい。自分をもっと大切にしたい。生きることをこよなく愛したい。他人へのやさしさ、思いやりって、そうやって生きることを楽しんで満喫してはじめて示せるものだと思います。自分を愛せない人は他人を思いやることなんてできない、自分に不満に思っている人は決して。
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