昨日、ある長老のことをコメントに書いたら、ふと思い出しました。現役の方にはきっとうなっていただけると思います。
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【権威者を神さまにするのはやめよう】
権威者に対する恐れについて考えてみましょう。
日本ではとくに、先生、父親、警官、夫、先輩、政治家、上司など、地位のある者、年上の者、男性、お金持ちは、ただそれだけで権威者として威張っていたりします。また、子どもの頃から、こういった権威者を恐れるように教育されがちです。しかし度がすぎると、相手がただ権威者だというだけで、何の理由もなく自分を卑下し、恐れかしこむようになります。
真に実力と器量の大きい権威者であるなら、他人に対して思いやりと責任を持ち、自分の権力をむやみやたらとは行使しません。ですから、権威者とみなされている人に会ったら、まず、じっくりその人の人格を見てみましょう。
恐れはあなたを麻痺させます。深呼吸をして、恐れを遠ざけましょう。権威のある相手を「神さま」にしてしまうのはやめましょう。
(「心の傷を癒すカウンセリング366日/西尾和美・著」)
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どんな権威者であっても、他者の信条、思考、趣味、行動etc...までも支配するべきではないのです。権威者としての器を有している人物ならば、そこまで手を入れようとはしないでしょう。自分の目標を持ち、それに協賛してくれる人たちを部下・同僚としてパートナーシップを結びはしますが、彼らからの賞賛を求めているのではないからです。その代わり、その権威者は部下の選抜にあたっては、人をよく選びます。自分の目標を達成するのに役立つ人材を求めるからです。
一方、単に人々からの賞賛だけが欲しい人は、あまりにも熟練した人や有能な人を部下には持ちたがりません。自分の賞賛がかすむ怖れがあるからです。むしろ、意欲もなければ能力も未熟な人材を選びます。自分がナンバー・ワンであることが重要なのです、そういう人にとっては。精神科医たちは、この手の人々を「ひとかど」とはみません。むしろ、パーソナリティ障害とみます。この手の人たちには「自己愛性パーソナリティ障害」に分類される場合があるのです。アメリカの精神科医の学会で定められた、精神疾患の分類と診断基準というものが準備されています。「DSM-Ⅳ-TR」と呼ばれています。日本語版も医学書院から出版されていて、入手できます。3800円です。それによると、自己愛性パーソナリティー障害について、次のような診断基準が示されています。
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空想または行動における誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期に始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)で示される。
1.自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績やオ能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2.限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4.過剰な賞賛を求める。
5.特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6.対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7.共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.尊大で傲慢な行勤 または態度。
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解説によりますと、自己愛性パーソナリティ(人格)障害の人は、自分を賞賛してくれる取り巻きを求めるのです。「賞賛されていたい、という欲求」が異常に強い人だからです。賞賛こそ、彼・彼女のパンであり、活力源なのです。裏返して言うと、「この障害の人は批判に弱い。あるいは批判を全く受けつけない。ごく小さな過ちであれ、それを指摘されることはすべてを否定されるように見えるのだ。このタイプの人は強迫性パーソナリティの人と同様、完璧主義者なのである」。
なので、このタイプの人は批判されると、耳を貸さずに怒り出します。言を弄して徹底抗戦し、なかなか自分を省みるということをしません。「だが自分の非を受け入れざるを得ないと悟った瞬間に、彼はすべてのものが一切合財台無しになったような思いに駆られ、ひどく落ち込む」。
このタイプの人を「神さま」扱いにして、自分の「主」としてしまうと自己を破壊せざるを得ないところまで追いつめられかねません。それは次の二つの理由によります。
1.
「過剰な自信とプライドとは裏腹に、現実生活においては子どものように無能で、依存的であるのも、このタイプの特徴である。そのどちらもが、しばしば社会生活に不適応を起こす原因となる。というのは、批判によって不完全性、欠点が露呈してしまうのを怖れて、社会的引きこもりがみられるのである。自らを『不遇の天才』と考え、その者にかしずく者(たいていは親か配偶者、子どもの場合もある)にだけ王のように君臨して、あごでこきつかうのである」。
2.
「自己愛性人格障害の人は第一印象では、非常に魅力的で好感を持たれることが多い。しかし、つき合いが深まってくると身勝手で、粗野な面が露呈し、驚かされたり、失望したりさせられることが多い。
このタイプの人は対人関係においては、二種類を求める。
①賞賛だけを捧げてくれればいい大多数の者と、
②本人の世話をし(なぜなら、しばしば現実面では無能力であるからである)、
さまざまな現実問題の処理を代行してくれる依存対象となる少数の者、
…である。
彼にとってあなたが前者であるうちは、お客さま扱いをされ、あなたは彼に魅了される。が、交際が深まり、あなたが後者に代わったとたん、あなたは召使いやお手伝いさんの待遇に変わってしまうだろう。だが、あなたがこのどちらかであるうちは、彼・彼女にとってはあなたはまだ存在価値を認められる。しかしあなたがあなたの人権・権利を主張しようものなら、もう彼・彼女にとってあなたは前者、後者のどちらでもなくなるのだ。すると彼・彼女は使い終わったティッシュのように容赦なくあなたを排除するのである。
このタイプの人にとって、他者というものは、『特別な存在である自分』のためになんらかの奉仕をする人たちに過ぎない。彼・彼女は他者の内面や、他者の存在の尊厳をほとんど顧みない。あまりにも自分が重要なので、他者のことや、他者の問題はどうでもいいことなのだ。ある意味で他者は、自分の都合や利益のために利用するものでしかない。(上記の診断基準の、5,6,7を確認されよ) 利用価値がなくなったり、思い通りに動いてくれなくなったら、その関係は終わりを告げる。利用価値がなくなった者は無価値でつまらない者として言いふらされ、公にさえ宣告され、否定される。非常に冷酷で搾取的な構造がそこには認められる。
他者に対して搾取的であるという点では、反社会性人格障害に共通するものがあるが、異なるのは露骨な搾取ではなく、一見合法的であったり、優雅であったりすらする点だ。
(ルナ註: 今わたしはエホバの証人の一部の長老たち、支部委員たちを念頭においていますが、もっと一般的にも言いえることです。この診断基準はきちんと統計を取って定められたものですから)
がしかし、心の底では他人の気持ちに無関心で、共感性が乏しいという点では共通している」。
ですから、権威者であるというだけの理由で盲目的に恐れかしこんだり、彼・彼女の権威によって自分のアイデンティティーを立てようなどともくろむのは、自分に自信を失っている間はなおのこと危険なのです。むしろ「こうした人たちからは離れなさい(テモテ第二3:5)」、できればこちらから離れるのがいいことです。
自分に自信を持てないでいる間は、とかくわたしたちは誰か権威者の威光を借りて胸を張ろうとするものです。他の人たちが、自分に一目置いているのを態度で示されないと不審に思う、というのはかなり自分に劣等感が大きく根を張っているということの証拠です。本当の自分を知られればきっと彼らは自分を見下すに違いないと、勝手に思い込んでいるのです。…そんなことはない、こうでなければダメだ、ああでなければダメだ、というのはエホバの証人や、そうでなくても人間的に未熟な親たち、上司たちです。自分はどんなに欠点があっても、生まれてきたのですから、生きている価値はあるのです。むしろああでなければ、こうでなければという理由で蔑む人たちこそ未熟なのです。自分に自信がないのです。
だから、もうこれからは他人にへつらわせることなど考えないようにしようよ、ね。「自分」という者に確信が持てれば、誰かが低めよう、貶めようとしてきても心の中で自分を主張できます。「これがわたしだ、あなたたちの指摘するわたしの性質は欠点となる場合もあれば、長所となる場合もある。わたしが生きてゆくのに不足することはない」と。まいた種は刈り取る、これは真実です。誰かに対して上から見おろすように接すると、相手はかならず反発します。あなたに権力があれば、面倒を避けるために表面上は服しているように振る舞っても、内心では、心ではあなたを見下すでしょう。でも相手を尊重する態度で接するようにすれば、相手の人は早く警戒心を解くでしょう。そうすれば気持ちと気持ちを触れ合わせることがより容易になるのです。わたしはわたしの人格を尊敬して欲しいし、わたしを欠点をも含めて、個性まるごと受け入れ、尊重して欲しいと思います。あなたはそう思うのではありませんか。わたしはそのように、ほんとうに切望します。
だから、「自分にして欲しいことはまず相手に対してしなさい(マタイ7:12)」。
ね、他人の威光など当てにしないで、自分で目標を見つけ、そのために生きるようにしたら、もう他人と違うからってビクビクしないで済むようになります。「自分」というものを確信できるようになります。そうなれば、同じようにして生きている心の素直な人たちがきっと目に留めて近づいてきてくれるでしょう。その時わたしたちはすばらしい特質を持った健全な友人を得ることになります。そうなるのに参考になる本をわたしはいろいろ見つけてきました。もう二度と他人に操作されたくない、自分らしく生きてゆきたい、もっと心から信頼しあえる、温かい人間関係を持ちたい、このように考えている方々にぜひ紹介したいと思いのです。