Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

八王子「君が代」訴訟、原告請求棄却判決に思うこと (修正版)

2009年03月29日 | 「世界」を読む


10・23通達後の卒業・入学式の “君が代” 時の不起立で、都教委に懲戒処分された、八王子と町田の市立中教諭三人の処分撤回裁判で、東京地裁・渡邊弘(わたなべひろし)裁判長は、3月19日、請求を棄却する不当判決を出した。(永野厚男/ 教育ライター/ 週刊金曜日09・3・27号より)

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判決理由は以下のとおりです。


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(1)「思想・良心の自由」侵害の有無について;
「卒業式等での国歌斉唱は全国の公立学校で従来から広く実施されており、客観的に見て、教職員の起立斉唱は通常想定される行為であり、特定の思想を有することを外部に表明する行為と評価することはできないから、起立斉唱を命じた(校長の)職務命令が、直ちに(教諭らの)歴史観、世界観、信念自体を否定するものと断じられない」。

「外部行為(起立)の強制」の違憲・違法性の有無を「客観的な見地から判断するのは当然である」。


(2)「学問の自由」を保障している憲法第23条について;
①普通教育の教師は、児童生徒に教授内容を批判する能力がなく、教師が強い影響力を有すること、 
②全国的に一定水準を確保すべき要請が強いこと
…などを理由に、
「完全な教授の自由を認めることができない。したがって、教諭らは、校長が学習指導要領の国旗国歌条項の趣旨をいっそう充実させるべく発令した職務命令に従うべき立場にある」。

 

(前出記事より)

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(1)については、国旗掲揚、国歌斉唱時に起立させられることは、先の戦争への反省を意識した教師個人の感情(主観)が抵抗を覚えるので、強制は違憲だという主張を退ける論理を回答したものです。

でも、従来から広く実施されていたのは「教職員の起立斉唱」であり、「起立の強制」ではなかったのではないでしょうか。わたしがエホバの証人だった頃は、エホバの証人の信条から(国家への忠誠よりも神への忠誠を優先させる、という信条。国旗掲揚時、国歌斉唱時の起立行為は国家への崇拝行為だという教理がエホバの証人にはある)、エホバの証人の生徒・教師は、起立不参加を要請して、おおかたそれは受理されていました。

東京都教育委員会は、車椅子の障害を持った児童・生徒にも、わざわざ起立させるという道理に反した強制を行ったことがありました。こういう強制も従来から行われていたというのでしょうか。いいえ、以前はそこまではしませんでした。そこまでしたら、いくら生徒たちに「批判能力がない」としても、生徒たちの中には強い不快感を表明する子も出てきたでしょう。70年代に青春時代を送ったわたしなら、そのような暴挙に対しては怒りを表明したでしょう。

しかし、3・19判決では、「従来から行われてきたこと」だから、主観的な判断よりも「客観的判断は当然」ということになりました。つまり、教師たち個々人の個別の感情は抑えこまれて当然だというのです。

憲法というのは、多数派によって少数派が不利益を被らないよう、個人の人権を保障しようとするものではないでしょうか。それなのに、従来から広く実施されてきたことだから=多数意見だから、個々人の主観は尊重されなくてもいいのです。

こういう判決が出される根拠にはやはり憲法の条項が関係しています。それは15条の1項です。

 

「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」。

 

公務員は国民のサービスに必要な仕事をしています。ですから、一般国民のように、自由にストライキを行ったりすると、国民へのサービスが滞ることになりますし、また公務員は国家・地方自治体の仕事をしていますから、特定の政党、特定のイデオロギーを一般市民のように自由に表明することはしてはならないということです。そうすることにより、公務が公正に行われることを確保しようとするのです。

では学校の行事で、国旗掲揚、国歌斉唱時に、職務命令によって起立を強制されたとき、それに不参加を表明することは、「一部の利益に奉仕すること」にあたるのでしょうか。
(2)では、「児童生徒には教授内容を批判する能力がなく、教師が強い影響力を及ぼす」ので、つまり、日の丸・君が代へのその教師の主観を強制する怖れがあるから、不起立は行政処分の対象になって当然だとされていますが、そうなのでしょうか。むしろそういうやり方は、全体の意向に従わないことは「まちがったこと、違反、処罰されること」という、憲法に反した考え方を刷り込んでしまうのではないですか。また憲法というのは単なるお飾りであって、本気で従ってはならないものだ、ということを刷り込んでしまわないでしょうか。



日の丸掲揚、君が代斉唱へのある教師たちの不同意は、先の戦争における日本の加害責任を意識した行動です。そして戦後を通じて、教育現場では、日本の加害責任については被害に較べて圧倒的に言及が少なかったのです。その表れが、沖縄集団自決事件が教科書から削除されつつあることへの沖縄県民の大々的な抵抗運動でした。

そういう加害責任を意識した(あるいはそれが悲惨な被害経験からの反戦意識であっても)不起立行為が教育委員会によって抑えこまれ、それでも自分の主張を通そうとした教師たちが処分されるのを目の当たりに見た「批判能力のない児童・生徒たち」は、日本政府による戦争加害責任を意識した思想への感じ方について影響を受けないでしょうか。戦争というものは、戦勝国についても敗戦国についても、加害責任を問わずに語れるものではありません。まして歴史教育においてはなおさらです。

近頃は田母神さんの越権行為に見られるように、加害責任を考えないようにしようという動きすら、いいえ、加害責任という視点を消してしまおうとする動きが顕著になっている風潮があるのです。ではなおさら加害責任に教師が注目させようとするのは、公平な教育です。それを行政処分によって抑えこもうなんて、それこそが「一部の」勢力への一方的な肩入れに当たらないのでしょうか。教育現場における国旗掲揚時・国歌斉唱時での不起立行為を、公務員の中立性に障ると判断するのは違うと思います。このことについてはもっと厳正で慎重な議論が必要だと思います。



むしろ、この判決を後押ししたのは(2)の「全国的に一定水準を確保するべき要請が高いこと」なのではないでしょうか。2003年10・23通達がまず東京都の公立学校における、国旗掲揚・国歌斉唱時の起立行為をあまねく浸透させるべく「要請」したのです。ついで教育基本法が「改正」され、教育現場へ行政が以前より広く介入できるようにし、愛国心を植えつける教育をも可能にする法的措置を設けたのです。この教育基本法の「改正」は安倍自民党の暴挙に等しいやり方で行われたものです。「全国的に」要請が高いのではなく、日米軍事同盟を確立させたい自民党=民主党右派=読売・産経新聞がそのように「要請」しているのではないですか。

この判決について、原告側はこのようにコメントしています。

 

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判決後、八王子市内で開かれた報告集会で、斉藤園生(さいとうそのお)さんら教諭側弁護士や教育法研究者は、「判決は都教委の主張をほぼそのまま受けいれており、『客観的に見て』『学習指導要領の趣旨を』云々は、ピアノ判決(07年)のコピペだ」などと厳しく批判した。

教諭らは、「校長は、自分が処罰されることを怖れ、国歌斉唱や証書授与のあいだ、壇上の両隅に分割して追いやった生徒の卒業制作パネルを幕で隠させ、中央の国旗と市旗しか見えないように舞台設定を施し、卒業の言葉や合唱の間だけ幕を開け(て、生徒たちの制作した卒業式用パネルが見えるようにし)た。が、卒業式は “お上が卒業させてやる式” ではない。自分たちがみんなで制作したパネルが隠されたことで、多くの生徒が “君が代斉唱” 時、不起立した」と語った。

参加者からは、「こんな判決が社会にのさばったら大変なことになる。教育と命令は相容れない」などと控訴を支持する意見が相次いだ。

 

(前出記事より)

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憲法学者の伊藤真さんはその著作『中高生のための憲法教室』でこのように述べておられます。


「社会の秩序を意識し、そこで生活する者の生命と財産を守るためには、国家という権力装置が必要なことを否定しているのではありません。しかし、国家が愛国心をあおって、国民にことさら国民一丸を意識させることは危険をともなうこともまた、自覚しておかなければなりません。ことさらに国民としての連帯を強制したり、愛国心を強制したりすることにともない危険には大きくわけて二つあります。

「ひとつは、それがやがては、現行憲法の根本理念である『個人の尊重』を否定してゆくことにつながる、ということです。つまり、『国家のほうが重要なんだから、個人は滅私奉公に努めよ』という風潮になりかねないのです。

また『国家』『国家への貢献』という枠でものを考えることは、『その枠に当てはまらない人』たちを排除することにつながります。この日本にも200万人あまりの外国人が住んでいます。そうした外国人の人たちともうまく共存してゆくためにも、あまり『国家・全体』という枠組みを強調しないほうがいいのです」。




でも最近は外国人排斥の感情は大きく昂じています。あくまで総論にすぎない「正論」で、個人別のユニークな事情を考慮せず、典型的なパターンに当てはまらない人たち(派遣村に集まった不利な状況に追い込まれた人たち、家庭や社会保障から排除された人たち)は自己責任という経済学の原理で容赦なく切り捨てられる風潮があまりにも席巻しすぎています。人間というものは社会を構成する機械的な部品ではありません。経済的合理性と経済的効率で判断し、行動しなければ排除するというのは、すでに人間を人間とみなさず、人間個人をニッポン社会という大きな経済成長マシーンの部品としてしかみなさない非人間的な態度なのです。

これはもう紛うことのない全体主義です。国旗敬礼と国歌斉唱の強制は全体主義の教育であり、全体主義は今、経済界が必要としているものなのです。財界の一部の人たちが自由に商売をし、欲しいままに利益を上げるため、そういう社会であって欲しいがため、国民個々人の権利だの労働者の権利だのを押し潰そうとしているのです。

近頃は行動経済学という分野が注目を集めています。経済学と心理学を統合したような理論なのですが、それは、「経済的に合理的な判断しかしない個人」という、実際には存在しない経済学的人間を前提に理論を組み立てる従来の経済学には欠陥がある、人間というものはもっと不合理で、非効率な判断で生きるものだという、より現実に即した視点に立った新しい経済学です。

人はそれぞれユニークな存在であり、あなたに取って代われる人間などいないのです。この前まで流行していた効率最優先的な考え方では、個人は他の個人と取替えが利くものでしかありませんでした。日本型の派遣労働というものがまさにその典型でした。労働者は会社が勝ち残ってゆくための部品でしかないのです。モノでしかないのです。赤い血が流れていて、人間としてあたりまえに幸福に暮らしたいと願う人間ではなく、必要なときに利用でき、必要がなくなったら使い捨てることのできる道具でしかないのです。これが全体主義です。

日本国憲法はそれとは逆に、このユニークな個人が、ただ人間であるだけで人間らしく、つまり日本社会という経済成長マシーンの部品としてではなく、たとえ経済成長に役に立たない芸術などに生きる生き方であっても、また障害があって普通以上の世話が必要であっても、体力や健康の衰えた老人であっても、それを理由に「役立たず (生産をしないから) 」としてみなしたり、まして遺棄されたりすることのない温かい、ひとりひとりの人間のための社会を建設するようにという命令を国家権力や社会的権力者(資本家「階級」の人たち)に与えているのです。

学校では、こういうこと、つまり個々人が何にもまさって尊重されなければならない、ということがまず教えられるべきです。個々人は国家の体面なんかよりずっとずっと重要だからです。「一定の水準を維持する要請が高い」というのであれば、わたしたち国民はもっと声を上げて、こんな暴挙に反対し、個人の内心の自由を守れという「要請」を出してゆこうじゃないですか。国民個々人がまず尊重されるべきこと、その延長上に、労働者尊重、経済偏重への批判があるのですから。

わたしたちは、いまこそ、日本国憲法という戦後日本の原点に立ち返るべきだとわたしはここで主張します。

 

 

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「笑っていいとも」? 神経を疑いたくなる人びと

2009年03月15日 | 「世界」を読む

こういう時事ネタは主にヤフーのほうのブログに書こうというのが方針なんですが、ヤフーは使えないブログでして、本文5000字、コメント欄にいたっては500時しか容量がなくて、字数オーバーでエントリーできませんでした。

で、まあ、ホーム・グラウンドであるこのブログにエントリーすることにしました。こちらのブログは基礎知識的なことを自分なりに推敲して、まとまったものとしてエントリーしたいんですが、ヤフー用はとにかく思い立ったことを、まとまりを気にせずに書き綴っていく方針です。で、もうぜんぜんまとまってないんですが、ことの起こりは週刊金曜日に掲載された投書に共感したことです。

いつも以上に読みづらいとは思いますが、おやつでも食べながら、暇つぶしに読んでいただけたらうれしいです。

 


死刑にまつわる話で、週刊金曜日の投書にこんな一文が掲載されました。とても共感できたので、この投書に触発されて、感じたことをかなり脱線しつつ、つれづれ書いてみました。

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TVをはじめとしてちまたに送り出される「笑い」は非情に低俗で幼稚なものが多くなりました。日々の暮らしの中で私たち日本人はそこまでして「笑い」を取る必要があるのでしょうか。特にそう感じたのは、TVで放映されていた党員または支持者を前にしての鳩山邦夫総務大臣のことばを聞いた時でした。

「私は法務大臣の時、13人の死刑囚に…」、ここまで語ったところで会場から笑いが起こるのです。私にはにわかに信じがたい光景でした。

続けて、「死刑を執行しましたので、『朝日新聞』からは『死神』と呼ばれました。今回かんぽの宿の問題では、『かんぽの神さま』と呼ばれています」。

ここで会場は大いに沸きます。

 

大臣の口調からして多分、「笑い」を取ろうとしていることが分かり、聴衆がすばやく反応したせいなのでしょうが、なぜ彼らは「13人に死刑執行」と聞いて笑ったのでしょう。また大臣も笑いを取るための前置きとして、どうしてそのように重い事実を「枕詞」として軽々しく使ったのでしょう。

死刑囚とはいえ、鳩山さんの決断によって命が絶たれた13人です。その責任は死ぬまで大臣が心に留め置くべきものです。命に対して、これほど鈍感な人が大臣であることに私は耐え難いものを感じます。

 

先日、ニュース番組で、死刑について(執行方法など)街頭でインタビューをしていました。そのなかで、「死刑については何も知らないし、知りたくない」と答えた人がいましたが、私はそれは間違っていると思います。

裁判員制度が導入され、死刑制度があるわが国では、その極刑である死刑まで含めた量刑を念頭において裁判に参加、判決を下さねばなりません。ですから当然「知っているべきこと」。

 

私は、国家公務員死刑を執行される方の存在を認めているこの国の制度を肯定することができません。鳩山さんは、その職業の方々のことを思いやったことがおありでしょうか。「知りたくない」と答えた方もまた。

あんなに命に敬意を払えない大臣は政治家としてはもちろん、人間としても失格だと今日の姿(TV番組で、死刑執行をネタに笑いを取ったすがた)を見て私は思いました。

 


(「週刊金曜日」09年3月13日号、投書欄より)

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死刑という制度は時代錯誤であり、犯罪抑止効果もなく、人権擁護の方針に真っ向から逆らう制度です。死刑は国会での議論によって廃止に追い込むべき制度です。特に日本では冤罪が多すぎる。警察・検察・裁判所の権威ある人の下した結論を覆すのはあたかも礼を失したことでもあるかのような考え方のため、再審請求が通らず、証拠に裏づけられていない判決で人が死刑になってゆく、こんな異常な暴力があっていいはずがないのです。またマスコミの煽るままに、日頃のうっ憤に火をつけられる「国民感情」という圧力によって人が死刑にされてゆく、こんなのはただの暴力です。

罪のない人間を死に至らしめる行為が死刑にふさわしいというのであれば、冤罪で無実の人間を死に至らしめた警察官、検察官、裁判所、また死刑の国民感情を煽ったマスコミ、そして感情を煽られて無実の人間の死刑を支持した国民自身は死刑にしなくていいのでしょうか。

しかしいまのところ、法で死刑が定められ、憲法解釈でも合憲とされている以上、法務大臣が死刑執行にゴーサインを出すのを間違ったことであるかのように書いた朝日新聞はたしかに常軌を逸していたと思います。元来、刑訴法では死刑確定後6ヶ月以内に執行するように定められているのですから、何年も先延ばしにする方が、精神的苦痛を増すことにならないかとさえ思います。

法で死刑が定められており、死刑が確定した囚人が刑を執行されてゆく。しかし囚人はやはり最後まで人間なのです。人間が意図的に死に至らしめられるのですから、それはやはり厳粛に受けとめるべきです。人殺しは罪だと定める法の側が人を殺す。死刑とは人殺しなのですからそれを笑いのネタにする神経が批判されるのは当然だと思います。

なにかのネタを笑う、というのは、そのネタとなったことを受容するということなのです。元法務大臣、現役の総務大臣が笑いを取ろうとして、死刑囚の死をネタにする、それを笑った聴衆は、「人の命を終わらせる行為はおもしろい」という感覚を受容したのです。こういう人たちが、マスコミの煽るまま怒りの感情をほとばしらせ、死刑だ、死刑だ、殺せ、殺せと騒ぎ立てるのでしょう。人ひとりを殺す判定ですから、慎重に議論をつくした上で決めるべきことでしょう、死刑判決は。それなのに日頃のうっ憤をぶつける対象にしてしまうわたしたち。冤罪の人にさえ、聞く耳持たず、予断に歪んだマスコミの情報をうのみにして、まるでプロレスを見るときみたいに、倒せ倒せ、殺せ殺せと騒ぐ。死んだら今度はそれを笑いのネタにする。冤罪と分かったら、思い出さないようにする。

わたしたち国民の、この幼稚な精神構造はどうやって生み出されたのでしょうか。いえ、なぜわたしたち大の大人がこんなに幼稚な心のままなのでしょうか。とくに引用文のなかの、「死刑については知りたくない」と言う人。暗く、重たいことであるが、紛うことのない事実であることに向き合えない人たち、学校の先生はとくに80年代に入ってからは、そういう子どもが増えてきた、と指摘されています。この指摘は興味深いんです。戦争を伝える平和教育に関する発言なんですが、私たち戦後の日本人がなぜ、戦争を肯定できるのかについて一つの観察が述べられました。戦争も死刑と同じく、殺人が法によって許されるものです。ここに、死刑執行を「笑える」神経の解明があるように、私は思います。以下にその発言を引用します。


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1980年代の半ば頃から子どもたちの様子がずいぶん変わってきました。成田さん(成田龍一 日本女子大学人間科学部教授)が、歴史研究では戦争の生々しさが見えてこなかったということを先ほど言われましたが、80年代の後半から、授業において戦争の生々しさを教えると子どもたちが逆に「ひく (=引く)」という現象が出てきました。

原爆をテーマにした授業で、リアルな原爆のようすを聞かせると、「ひく」子どもたちが出始めました。日本軍が中国で何をしたのか、加害の研究が80年代には大きく解明されるようになりましたが、その成果を子どもたちに話すと、「ひく」という現象が見られるようになったんです。

 

(渡辺賢二・現明治大学非常勤講師/ 「歴史教育と歴史研究をつなぐ」・山田朗・編)

 

 


渡辺さんが、戦争の生々しさが教えにくくなっているという話、つまり平和教育が成立しにくい背景については、このように感じています。

教育の世界では最近、子どもたちの生きづらさということがよく指摘されます。それは「ゆとり教育」とは名ばかりで、学力向上への過度の競争圧力があり、あるいは管理教育が以前重くのしかかっており、あるいは暴力の(教師・生徒双方で)渦中にあり、いじめが蔓延しており…、そういう平和とは反する状況が子どもたちの生活のなかにある、ということだと思うのです。そのような状況において、子どもたちの側からすればふたつのリアクションがあると私は感じました。

ひとつは、「いい点をとれるようにがんばれ」という競争圧力のなかで勝ち残るために自分たち(子どもたち自身)も闘っているんだ、それがよくないことはわかっているけれども、自分たちが勝ち残るためにはしかたがないんだ-このような発想が子どもたちのなかに生活実感としてあり、それが日本の戦争などを肯定してしまうような背景に結びついているのではないかと思うのです。

…戦争だからいろいろあったんだ、しょうがないじゃないか、日本が生き残るためにはしかたないことだったんだ…

そういう戦争を肯定する論調に共感してしまうような実感が90年代前後から顕著になったんじゃないか。

もうひとつは、そういう過度の競争圧力や暴力・いじめが蔓延する状況のなかで、だからそういう殺伐とした社会や世の中はいただ、もっとやさしい癒しの空間にはまりたいんだ、だから戦争の話なんかごめん被る…、そういう反応です。戦争は怖ろしいからいやだ、話さないで、聞きたくない…そういう反応がもう一方で出てきているのではないかと思うのです。

先日、学校の現場の先生に社会科教育について集中講義をする機会がありました。その際、息抜きに合間合間で、沖縄戦を描いたアニメ『かんからさんしん』(小林治監督、1989年)のような戦争の映画を二、三本見せたところ、講義のあとに提出してもらった感想のなかでこのようなことを書かれた方(学校の現場で働く「先生」のこと)がいました。

「戦争のことは、わたしはほとんど授業で深く取り扱ったことはありません。わたしにとって戦争は怖ろしいものというばかりで、ビデオを見るのも怖いです。それに戦争を取り上げると思想教育だと勘違いされそうで、ずっと逃げています」。

私と同じ世代の40代の小学校の先生がすでにそういう感覚になっている。戦争は怖ろしいものだから、授業で扱うには影響が大きすぎる、そういった感覚があるのではないかと思います。

 

(久保田貢・現愛知県立大学文学部准教授/ 「歴史教育と歴史研究をつなぐ」/ 山田朗・編)

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人権を踏みにじる管理教育の重たーい圧力を耐え抜き、度を越した競争、誤まった競争を必死で生き残ろうとしてきたために、自分を守るために他人が押しのけられてゆくことはしょうがないことなんだ、という感じ方が、判断する際の基準になってしまったということです。

死刑執行というネタで笑える人、というのは、つまり人を殺すという重たい役目のまさにその重たさに耐えられない人が、軽く笑ってしまうことで、直視することを無意識に避けている、ということではないでしょうか。もちろん、あまり深く考えないで、笑いを取ろうとする「空気を読んで」、その場面にふさわしい反応である「笑う」という挙動に出ただけの人いたかもしれません。そういう人は、いつも空気を読んでその場に受け容れられる反応をすることに追われている、という意味で、やはり主体性を見失っているということができるかもしれません。

感情的に死刑を叫ぶのも、競争から追い落とされる恐怖と、自分を押し殺して生きている不満、そういう緊張状態に立脚した「平穏」な暮らしを脅かすものへのヒステリックな抵抗なのかもしれません。わたしたちはそれほどに、競争と管理のために心が押し潰されており、近隣の人びとと連帯できず、孤立してしまっているということなのでしょう。幼児虐待が行われているのはほとんどいつも孤立した家庭、孤立した親元で、ですしね。自分の周囲だけのヒーリングを守るために、とげとげしくなっているのでしょう。


カルト宗教にハマっているひとがこんな感じでした。指導部が流す情報に動かされて生きている人たちです。操作されて生きている人たちです。ある熱心なカルト信者の子どもさんが手記を残しています。そこにこのようなことが書かれていました。

 

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私も小学校高学年になるとムチで叩かれることはほとんどなくなりましたが、この頃になると私の人間としての感覚も完全に異常になっていて、2世の子供にはムチは絶対に必要で、2世の子供にムチをするからこそ正しいエホバの証人になれる。もし2世にムチをしなければ、絶対にまともなエホバの証人にはなれない。というふうに考え方が変化していきます。


集会中に子供がむずむずし出すと、その子供がどうにも許せなくなり、姉妹達は何をしているのかと2世達が姉妹達を見ます。その視線に気が付いた姉妹達は姉妹同士で目線を交わしあい、人差し指で該当する子供の母親を指さし始めます。すると、一番近くにいる姉妹がその母親の背中を軽く指でつつき、その母親は子供を引っ張ってトイレに連れ込みます。


すると、いきなり状況が変わって自分の身に起きる悲劇に気づいた子供は「ごめんなさい、ごめんなさい、おとなしくします、もうしません、もうしません」と言いながらトイレに連れ込まれ、30秒位経ってから、「ぱんぱんぱんぱん」と音が聞こえだして、「うぎゃー!」という絶叫が会場内に響き渡ります。


しかしだれもそれを止めないし、特に子供がかわいそうとも思えず、私も当然ながら顔色一つ変わらずに「がんばれよ、みんなそうやって正しいエホバの証人になって行くんだよ、エホバに感謝しなくちゃね」と思っていました。


この時代の自分の異常な考え方や感覚はうまく説明できませんね。自分がムチで叩かれたからこそ、まともなエホバの証人になれたと組織に洗脳されていたとしか言いようがありません。それが週3回の当たり前の日常でしたから、JW (エホバの証人の略称。Jehobah's Wittness )を辞めてしばらく経って気が付くまで、自分の心の中にムチのトラウマがあったなんて感覚は一切ありませんでした。

 

ホームページ 「昼寝するぶた」のコンテンツ、「なぜムチなんだ?」中編より

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「ムチ」というのは、道具を使って子どもに加えられる体罰です。体罰により屈辱と依存心を思い知らせて、親の気に入る「よい子」としてふるまわせようとするのです。エホバの証人として生きた経験から言いますが、体罰は何ひとつよい成果をもたらしません。体罰によっておとなしくなるのは、「抑えこまれている」にすぎないのです。体罰を常習的に受けていると、体罰を受けてきた子は暴力を畏怖し(畏怖するというのはただ単に恐怖するのではなく、それに敬意を持つという意味です。怖れかしこむ、と言う意味です)、暴力が恐怖を与える効果を学習し、コミュニケーションに暴力を取り入れるようになります。

暴力をコミュニケーションに取り入れる、というのはつまり、愛情の表現として殴り、要求を訴えるのに殴り、自分の不満を訴えるのに殴るのです。そして中年近くになって居場所ができると、暴力はいまの自分を形成するのに必要だったという感想をさえ持つようになります。暴力を支持、擁護するようになるのです。上記の手記の引用文は、常習的な体罰をうけることによって、暴力を容認し、賞賛さえするようになった心理を表現しているのです。

日本はアメリカと同様、伝統的に体罰を容認する傾向が強い風土でした。暴力はむしろ世直しや矯正に有用だという考え方の土壌がありましたが、それは暴力によって子育てが行われてきた結果なのでしょう。TV番組を見ていても、暴力によって善玉が悪玉を退治して正義が行き渡ったというようなストーリーの多いこと。暴力を容認する教育、精神風土が、死刑や戦争を肯定できる心理的決定要因にもなっているのだと思います。

 


えーっと、かなり話がドライブしちゃって脱線しまくりでここまできましたが、ヤフーは5000字しか書けないんですよね、大丈夫かな。

ま、とにかく、死刑を執行するというのは、人を殺すということですから、それは厳粛・深刻に受け止めるべきであり、怖ろしいことではあっても、裁判員制度が間もなく始まろうとしている以上、人を殺すという判断を自分がするかもしれないという現実を逃げずに直視しなければならない、決して笑いのネタにするようなことをすべきではないし、そんな人は人格や品性を疑われて当然だという投書に共感しました、ということです。

お粗末な文章で失礼しました。でも私が言おうとしたことは理解していただけたら幸いです。

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リーマン・ショック、「天災」なんかじゃないぞ、麻生さん!

2009年03月02日 | 「世界」を読む

国民生活のための給付金だか定額給付金だか何だか知りませんが、2兆円というのはなんと無駄遣いなんでしょう。貧乏で嘆くなら、小遣いくれてやれ、その代り自民党よろしくな、とでも言いたげなボンボン麻生さん。

2兆円というのは小泉改革以来減額されてきた社会保障費よりも多い金額なのです。2兆円あれば、数年間にわたる社会保障の削減分を即埋め合わせることができる額です。

もうこんな政府に何も期待しちゃいけない。共産党系の雑誌ですが、こんな記事を見つけました。これからの選挙などの際に、ぜひ参照してもらいたいと思い、ご紹介します。

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▽「100年に一度の暴風雨が荒れている。金融災害とでもいうべきアメリカ発の暴風雨と理解しています」(2008年10月30日、記者会見での麻生太郎首相のコメント)。つまり、今回の金融危機は、誰の責任でもない、天災のような不可抗力なのだ、というのが麻生首相の認識なのです。(「大失業・大倒産の回避は政治の責任で」/ 「経済」2009年2月号より)。

▽それにしても、(マスコミも政治家も)アメリカのFRB前議長グリーンスパンが使った「100年に一度の津波(このたびの金融危機をたとえて)」というセリフがよほど気に入ったとみえて、不況ニュースの枕詞になりつつある。世界恐慌は1929年だから、80年前。今度のはその恐慌を超える異常事態だというのだから手の施しようがない、そういうメッセージに容易に変換される。
 「100年に一度の天災」という名称は、ほぼ毎日使われるマザー・タン(母語)のようなものになっていて、そうすることによってNHKニュースは視聴者から批判言語を奪おうとしているのではないか。(「メディア批評」/ 神保太郎/ 「世界」/ 2009年3月号より)

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つまり、このたびの金融危機は「天災」のようなものだから、諦めるしかない、失業者が増えても、収入が2割、3割カットされる羽目になっても、国民は黙って耐えるしかないのだ、という暗黙の思考操作が行われているのではないか、ということを言おうとしているわけですね。「100年に一度の金融災害」ということばを多用することにより、国民を思考停止に追い込もうというわけです。これは意図的に行われているのであれば明らかにマインド・コントロールですし、無意識に行われているのであれば、何とか克服しようという強い意志の欠如ということになるでしょう。わたしはかつて、エホバの証人というカルト性の強い宗教団体に所属していましたから、こういうことばや概念の名称を使って、深く思索し、原因究明を図ろうとする意欲を奪う手法については敏感に感じます。これはマインド・コントロール的な効果が大きいです。この裏に、ひょっとしてまた世耕のようなスピンドクターが操作を行っているのかもしれません。だまされないようにしましょう、景気の浮き沈みは資本主義社会の宿命とはいえ、恐慌を回避するのは政治の重要な責任なのです。

事実、麻生さんの認識とはうらはらに、2008年11月に催されたG20金融サミットでの首脳宣言ではこうなっていました。


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今回の深刻な市場の混乱をもたらした背景として、いくつかの先進国において政策立案者、規制当局および監督当局は、金融市場において積みあがっていくリスクを適切に評価、対処しなかった。

…金融機関もまた、この混乱に対する責任を負わなければならない。

 

(「大失業・大倒産の回避は政治の責任で」/ 「経済」編集部 / 「経済」2009年3月号より)

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麻生さんの認識とは雲泥の差があるではありませんか。このたびの金融危機は人災なのです。恐慌はいつでも人災です。人間のエゴイズムが生じさせるのです。そして目の黒い(つまり竹中のようなエセ学者とは異なる人たち)人たちは、バブル崩壊後の日本のゼロ金利政策が投機資金を大量に生み出してきたと指摘します。つまり、今回の金融危機には、日本の金融政策が遠因になっているということです。天災どころか、日本もこの危機の責任を負っている、というのです。


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この間、日本政府は「対米協調」の名の下に、異常なゼロ金利政策を続けてきましたが、日米間の金利差が大量の投機資金を生み出す土壌となりました。ですから、日本政府は、投機取引を増殖させ、金融危機を招いた、いわば共犯者であって、それを「金融災害」などというのは論理のすり替えであり、政府の責任を投げ棄てるものです。日本政府には、アメリカを手本として追求してきた規制緩和と金融緩和への根本的な反省こそが求められています。

(上掲書より)

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ゼロ金利なら、日本で「円」を借りれば、安上がりなわけです。何しろ、金利がつかないんですから。つまり投機資金が調達しやすい環境を日本は提供し続けていた、だから日本にはこのたびの危機について責任を自覚するべきであり、自然回復をじっと待つように国民に「痛みを」強いるよう説教するなどとんでもない、詭弁もはなはだしいというわけです。

サブプライム危機というのは要するに不良債権が手におえないほど増えたということです。銀行は預金によって集めた資金を投資したり、ヘッジファンドに任せて投機させたりして、お金を運用してさらに稼ごうとします。おカネに働かせて儲けを得ようというわけです。しかし、それには逆に損をする可能性もあります。損をすると、資金が目減りします。100の投資資金が、株価下落などで80,70になると、20、30の損が出ます。この損があまりに大きくなると、銀行は企業の事業のために融資するのを控えめにしようとします。だって、資金がなくなるわけですからね。

そうすると企業の方でも設備投資ができなくなって見送ったりし、そうすると機械製造業者などの受注が減り、機械製造業者に材料を納めている部品加工屋さんや鋳物屋さんやうちのような製鋼屋さんの受注が減ります。こういうことが産業全体に回りまわって不況になるわけです。不況になると収入も減り、消費が控えられ、需要が減り、さらに供給がだぶついて抑制されてゆく、やがて設備・労働力の余剰が減らされてゆく、それがさらに景気の足を泥沼に引きずりこんでゆくのです。

そこで銀行などの金融機関に国が税金を使って資本を注入しようとします。銀行などに資金を増やして、お金を貸しやすくしようとするわけですが、銀行の体力などの事情によって、ちょっとやそっとの資本増強ではすぐに金融機能を発揮できるようになるとは限らないわけです。


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麻生政権が成立に執念を燃やしたのが金融機関などに公的資金を投入するための「新金融機能強化法」でした。投機的な資金運用に乗り出し、自己資本を棄損した日本の金融機関を公的資金(わたしたちの税金)を使って応援する法律です。しかしそれは、最終的に損失が発生したばあい、その損失を国民に回す仕掛けになっているのです。

しかも、資本注入は銀行の貸し渋り対策となる保証がありません。中小企業向け貸出残高など、地域経済貢献目標が達成できなかった場合、従来は株主責任や経営責任を問う仕組みがありましたが、それも失くされています。巨大金融機関の強欲な姿勢が問題になっているときに、金融機関の甘やかし政策をとることは、利益至上主義を助長させるだけで、金融危機克服の真の解決とは逆行したやりかたです。

 


さらに麻生さんの追加経済対策では、大企業の「成長」を追及する立場から「企業活力を高める『成長力強化税制』の導入」がうたわれました。その際、麻生首相は、「3年後に消費税の引き上げをお願いしたい」と発言。国民にいっそうの負担を強いる考えを表明したのです。

大企業の「成長力」に頼る麻生内閣の対応は、各国の経済政策と較べると対照的です。欧州連合は11月末、加盟各国に対し、消費税や労働者の所得税減税などを提案しました。こういう「欧州経済回復計画」の考え方の柱には、需要刺激策と、消費者の信頼回復があるわけです。つまり、雇用の喪失を食い止めて人々が労働市場に戻れることを求めているのです。
(ルナ註: 労働者をモノ扱いし、景気が悪くなった、はい、非正規従業員を切っちゃえ、で済ます日本企業に一方的に肩入れする日本の考え方とは逆なわけです。こういうところはヨーロッパの良い面ですよね)

アメリカのオバマ大統領も250万人の雇用計画を打ち出しました。アルゼンチンでは、経営危機に陥っているGMアルゼンチンが435人を解雇する計画を発表したことに対し、同国のクリスティナ・フェルナンデス大統領は、労働者に肩入れするための政府介入の指示を出し、解雇を一時凍結する「強制調停」措置を発動しています。日本の政策のお粗末さがよくわかる外国の有能な対策ではないですか。

金融サミットの首脳宣言は、「金融システムの安定に必要なあらゆる追加的措置をとる」としています。日本の政府も、非正規労働者の「雇い止め」や解雇を食い止め、内需主導型の自立的な経済の再生へ向けて、真に有効な措置を迅速にとるべきです。

 

(上掲書)

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日本にはまだまだ、国民はお上や全体への奉仕を優先するべし、という全体主義的な思考が脈々と息づいているようです。つい先日、2月19日の、君が代不起立訴訟の判決が出ましたが、そこでは、起立強要という職務命令も、東京都教委の03年10・23通達も合理性がある、なぜなら教育公務員は「全体の奉仕者」だから、不起立は信用失墜行為だというものでした。憲法を擁護する義務のある裁判所がこのていたらくです。こういう思考と、企業競争力保護優先の政府の経済政策とは根でつながっています。つまり国民個々人は「日本」、「会社」、また、「全体」というものより鴻毛のように価値が低い、という思想です。現行憲法に真っ向逆らう思想です。

「真に有効な措置」とはヨーロッパのように、まず国民、労働者の保護を優先させることです。国民の暮らしを守るための民主国家なのです。個人消費を拡大させることこそが、最大の景気対策だという考え方です。またヨーロッパは人権を成長させる歴史的経緯を持っています。それがヨーロッパの現代史の特徴です。そういう思想を中世の絶対王政や宗教戦争の悲劇から学んできたのです。ここがアメリカと決定的に異なる点です。ヨーロッパの、日本やアメリカとは段違いに高い人権意識は、悲劇的な歴史への反省がこめられているのです。

ヨーロッパ方式、つまり、雇用の確保・改善という労働改革こそ、経済回復、生活安定の基本方針であり、大前提です。


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国民のいのちと暮らしを守ることこそ、経済を活性化させるのです。社会保障の充実は、
① 暮らしに安心を与え、家計を潤す
② 社会保障関連の産業の発展を促がす
③ 雇用が増える
…という「一石三鳥」の効果があり、内需拡大の好循環を生みます。

『公正労働白書』(08年版)もこの点を強調しています。

“ 社会保障給付は国民所得の二割を超えるなど、国民経済に占める比重も大きく増大している。社会保障には、
「生活安定・生活向上機能」
「所得再分配機能」
「経済安定昨日」
…の三つの機能がある。社会保障関係事業の生産波及効果は全産業平均より高く、雇用誘発効果も高い(「厚生労働白書」08年版) ”。

しかし、歴代の政権は、社会保障も国庫負担を減らし続け、2002年以降、社会保障費を毎年2200億円抑制、7年間で1兆6200億円も抑制してきました。その結果が「医療崩壊」「介護崩壊」の深刻な現状です。

いま、必要なことは、社会保障費抑制政策を転換し、医療、介護、福祉、年金、保育、公的扶助等々、必要な社会保障の充実を進め、国民のいのちと暮らしを支えることです。それが生活の安定と日本経済の活性化につながります。そしてその際の、社会保障の財源は、企業と国と国民が能力に応じて負担するのが原則です。『社会保障改革の “痛み” の議論を』(「日本経済新聞」2008年11月5日付け社説)といって、消費税増税と抱き合わせる議論がありますが、逆進性が強く、企業負担がない消費税は、社会保障財源には不適切です。

 

(上掲書)

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この金融危機は決して天災のような耐え忍ぶべき偶発的不幸ではありません。人間による、バランスの崩れた経済活動が生み出した作為的な過ちが原因です。小泉・竹中路線は、宮内義彦という政商の介入のもとで、国民には増税と社会保険料の値上げ、社会保障削減によって「痛み」を加え、さらにトラブルを自己責任で当たるよう要求する一方、大企業、大銀行には法人税減税や公的資金投入という政府の厚い保護に甘えさせてきたのです。アメリカの企業の言うままにドルを買い支え、米国債を大量に買いつけ、アメリカが不況になると、他のどの先進諸国よりも大幅なマイナス成長をさらけ出すのです。

「ですから、日本経済の再生をはかるには、外需依存から内需主導型へ経済構造をシフトさせ、大企業優先、対米追従という『ふたつの政策過誤』をただして、根本的な構造変化が必要です(上掲書)」。

麻生さんにはもう何もやることが残されていない、何もやることができない、とにかく自民党を下ろさなければならない、そうなった場合にはアメリカは隠然と介入してくるでしょう。でもそれを国民世論によって退けてゆかなければならないのです。でなければ、みなさん。皆さんもおおかたの方々は、中小企業にお勤めでしょう。実際、こんな状態が1年も続いていくと、会社はもたないです。自分の勤めている会社が倒産すれば、いよいよ、自分の番です。自分が路頭に迷うことになるのです。ナショナリズムに寄りかかっているばあいじゃない。いまこそ、憲法の理念を「不断の努力」で実践していくべきなのです。

 

コメント (2)
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