Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

トリビア 10

2007年09月30日 | トリビア
1.
拉致問題政策の失敗と大手マスコミの偏向報道



安倍晋三首相はやはり政権を投げ出した。無責任を絵に描いたような突然の辞任の理由の一つは、政権最重要項目の拉致問題の行き詰まりにあったはずだ。しかし、その可能性を指摘していた大手マスコミは、ほとんどない。

たとえば、モンゴルのウランバートルでの日朝作業部会が、9月5,6日の日程を終了したが、新聞各紙は「拉致進展なく閉幕」と、具体的な成果がなかった点ばかりを強調した。社説などでも「『拉致』重視の姿勢を貫け」(産経新聞)、「日本は原則堅持を」(読売新聞)、「期待裏切られた拉致問題」(山陽新聞、各紙9月8日)など、従来の論調が主流を占めた。

さらに、日本政府は従来からの経済制裁を継続させるとし、北朝鮮の水害被害に対する緊急人道援助も見送られた。「拉致問題に進展が見られなかったことに対し、世論の反発が強まっている」ためという(「産経」9月9日)。

しかし、今回の日朝交渉では、 “対話と圧力” を標榜しながら事実上は圧力一辺倒だった安倍政権の拉致問題政策の破綻が明確にされた。小泉首相(当時)の二度目の訪朝時頃から、安倍氏の強硬路線批判を強めていた蓮池透氏は「安倍首相よ、強硬路線だけなら時間のムダ」(「サンデー毎日」07年3月8日号)と明言。元NHKアメリカ総局長日高義樹氏は「『北朝鮮に脅威なし』とするアメリカに『拉致解決』を懇願する無知」(「リベラルタイム」07年8月号)と酷評していた。

それでも「産経」は伊藤正中国総局長発の特ダネとして、北朝鮮の金総書記が昨年10月に「米国のパートナーになる」とブッシュ米大統領にメッセージを送ったのが事態を変えたのだと伝えた(8月10日)。しかしその伊藤記者が、9月1日の署名記事では、それより先にブッシュ大統領が金氏に親書を送ったのであって、日本は「拉致敗戦」(「中央公論」07年8月号)の状況にあることを認めた。

ここにいたって、安倍政権も核開発問題の進展を阻害しないように、との米国の意向を受けて、強硬路線からの転換に踏み切らざるを得なくなった。それが「過去の清算」を拉致問題より先に協議するという北朝鮮側の提案受け入れだった。日本側強硬路線にとっての “拉致敗戦” は明白なはずだった。

今さら「乗り遅れ論、孤立論などに惑わされることなく、腰を据えてかかる必要」(「東京新聞」9月7日)などない。とりわけ深刻なのは、前出の緊急人道支援を見送りにした件だ。米国は政治と人道援助を区別している。

これも横田滋氏などが中・高校生から拉致問題でどのように協力すれば良いかを問われ、日本政府に食糧援助をしないように働きかけてほしい、と明言している(「北朝鮮による拉致を考える=中学生・高校生に知ってほしいこと」明成社、06年)ことと無関係ではない。

05年新潟中越地震の折には、北朝鮮がすかさず国際赤十字などを通じて計13万ドルを支援したが、この事実は報道されなかった。

日本には「鬼の目にも涙」のことわざがある。その鬼も逃げ出したくなる社会となっているのでは「美しい国」どころではない。

「読売」新聞は今年2月27日の時点で、拉致問題の行き詰り状況に関し、「いかに素晴らしい目標を掲げようとも、『出口戦略』を描けなければ、政治指導者としては失格だ」と決めつけていた。

安倍首相の辞意表明は遅すぎた。 “拉致敗戦” を明確に指摘せず、人道支援を主張できない大手マスコミに、今後どれだけ的確な拉致報道ができるか疑問だ。



(「『拉致敗戦』を受入れない大手マスコミ/ 緊急人道支援の声もなく-各紙2007年9月「日朝交渉」関係報道」/ 高嶋伸欣・琉球大学教授 週刊金曜日07年9月21日号より)






2.
「山口県光市事件」の指し戻し審は、5月24日に広島高裁で初公判が開かれ、6月下旬と7月下旬に三日連続で集中審理、9月18日から三日間審理が行われ、実質的な審理がほぼ終了した。

上告審で一・二審の弁護人と代わった新弁護人は、新たに22人の弁護団を編成。初公判で、事件は検察が主張する「計画的な強姦殺人」ではなく「精神的に未熟な少年が起こした偶発的な傷害致死事件」と意見陳述した。

この事件で検察は「被告人は女性の首を両手で絞めて殺害し、女児の後頭部を床に叩きつけた上、紐で絞殺した」と主張した。

これに対し、上告審で新弁護人は「検察主張の犯行態様は遺体の実況見分調書や鑑定書と矛盾している」と指摘、「女性の頚部には両手で絞めた跡がなく、女児には床に叩きつけられれば生じるはずの後頭部の損傷や、紐で強く絞めた跡もなかった」とする鑑定書を提出した。

新弁護団は差し戻し審で、これを精密に裏づける新たな鑑定書と、検察側主張、弁護側主張の「犯行態様」による再現実験結果報告書を提出。新鑑定書は「被害者の声を封じるために口を押さえ続けた結果、窒息死に至った」との弁護側主張が「遺体所見とよく一致している」と結論。

また再現実験の結果、女性の頚部に残った「4本の蒼白帯」は、「右手を逆手にして被害者の声を封じた」という被告人の説明とぴったり一致した。

さらに弁護団は、新たに犯罪心理鑑定書・精神鑑定書を提出。事件は「性欲による計画的なレイプ事件」ではなく、「幼児期からの父親による虐待、11歳のときの母親の自殺(遺体目撃)による精神的外傷で、精神的発達がとまった少年が、ストレスを受け、『退行状態』のもとで起こした不幸な連鎖の結果」として、鑑定人2人の証人尋問・被告人質問で立証に努めた。





だが、初公判から9月20日まで10回にわたる公判の報道は、弁護側の主張・証人尋問内容を冷静・客観的に伝え、読者・視聴者にこの事件・裁判について考える材料を提供するものではなかった。

とりわけTV番組の多くは、弁護団の主張を無視、または遺族の言葉によって(感情的に興奮し)否定し、被告人・弁護団を一方的に非難・糾弾した。





この間、TV番組に危惧を抱いた人たちが「『光氏事件』報道を検証する会」を作り、約100本の番組をチェック、結果を「人権と報道・連絡会」9月定例会で報告し、番組ビデオ5本を上映した。

報道には共通のパターンがある。

被害者・遺族の写真を大きく映し、当日の公判内容を「遺族の感想」を中心に伝える。「弁護団は裁判を死刑は医師運動に利用している」、「弁護団は被告人にウソを言わせている」、「被告は差し戻し審で突然供述を変えた」、「弁護団・被告人は支離滅裂な主張を繰り返し、遺族を二重に苦しめている」…。

弁護団の主張や会見内容は、遺族の言葉に即してカット・編集され、遺族の感想がそのまま「公判の事実」とされる。それを前提に、スタジオのキャスター・コメンテイターたちが「意見」を述べる。

読売TV「たかじんのそこまで言って委員会」(5月27日放送)。冒頭、やしきたかじん氏が「21人も集まりやがって、ばか者が」と怒鳴り、宮崎哲弥氏が弁護側主張を「こんなものだれが信じますか」と切り捨てた。出演者が「死刑廃止運動は外でやれ」「被害者への第二の陵辱だ」「人間として最低レベル」「こいつら全員精神鑑定にかけろ」と次々に発言し、橋下徹弁護士が「この弁護団を許せないと思うのだったら、懲戒請求をかけてほしい」と呼びかけた。

スタジオが「被害者参加」「被告人・弁護人抜き」の法廷と化し、コメンテイターが「裁判員」となって「極刑」を宣告する。弁護団の主張や会見内容は、遺族の言葉に即してカット・編集され、遺族の感想がそのまま「公判の事実」とされる。それを前提に、スタジオのキャスター・コメンテイターたちが「意見」を述べる。
法廷の公開リンチ。「殺せ、殺せ」の合唱が大音量で流されている。

もし、こうした報道で形成された「極刑要求世論」に裁判官が動かされたら…。
刑事裁判は死ぬ。


(「公開リンチと化す“TV法廷”」/ 山口正紀 週刊金曜日07年9月28日号)




参照していただきたいブログの記事。

「署名運動」/ 週刊日記
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日記

2007年09月24日 | 一般
頭痛がひどくて、
でもバファリンが切れていて、
ドラッグストアに急いで買いに行った帰りのこと。

暗い夜道に光る目があったんですね。
ネコか、と思いきや、タヌキでした。

3匹いたんですよ。
でも一匹はぐったり横たわっていて、
ああ、かわいそうに、轢かれちゃったのかと思って、
でも邪魔だからパッシングしたんですけれど、
動かない。

残る二匹が、死んだ一匹を動かそうとするんです。
わたしは泣き虫なので、一気にまぶたに熱いものがこみ上げてきて…

とうとう一匹が、死んだ一匹の尻尾をくわえて、
道路のはしっこへ動かしたのです。
もう一匹は、それを見届けるかのような動きをしたあと、
道路のはしへ、死んだ一匹が安置された方へ
さっと走っていったのです。

親子だったのでしょうか。
哺乳類は愛情豊かな子育てをするのが特徴です。

「これに比べて人間は…」
というような野暮なことは申しません。
わたし、いちおう、心理学オタクですから。

人間が荒れるのは、
自分を受入れてくれない人々や世の中、
自分を理解しようとしない人々や世の中への
悲痛な叫びなのだといいたい。

人間をして、
親子の愛情を廃れさせるのは
決して「終わりの日のしるし」などではなく
効率ばかりを追い求める社会のありかた、
人間の自然な感情や欲求を抑えこむしきたりとか
過酷な競争とか
そういうものだろうことは、
みな頭ではわかっている。
でも身体はそんなしきたりや競争に従属し続けるのです。

毛のふさふさした動物たちの必死の行動は
そんなわたしたちの程度の低さ、
見栄の愚かさをまざまざと見せつけてくれる。

ドラッグストアでお水をいただいて飲んだバファリンが効いてきたのでしょうけれど、
もう頭痛のことは忘れていました。

生き抜いてね、
残された二匹たち…!
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「国際貢献と正しい戦争」

2007年09月23日 | 一般
「責任感ある国家として」。

テロ特措法を延長したい人たちは、「国際社会における責任感」にかならず言及します。日本が責任感ある国家であるために、安倍元首相は議会の意思を待たず、給油延長を勝手にアメリカに約束してきて、それはもう「国際的な公約となった」と言い、もういまさら拒否できないのだという圧力を作り出そうという戦略に出たのですが、小沢に敗退し、所信表明演説をした舌の根も乾かないうちに、目が虚ろになって、突然、辞任すると言ったのでした。

国際社会における責任ある国家であるために-。

この言葉には、今はもう遠い昔、湾岸戦争におけるトラウマが潜んでいます。アメリカから湾岸戦争のために、自衛隊を派遣してほしいと要請されたのですが、日本には憲法9条があるので自衛隊は派遣できない、そのかわりにお金を出します、という態度に出たところ、バッシングされた経験があります。

日本のてこ入れによって、国連決議で日本に謝意が出されましたが、その際にも、湾岸戦争では130億ドルも出したが、「敬意」は得られなかった、今回は500億円(およそ4億ドル)ほどの給油活動で国際的な謝意が得られた、「安いもんだ」という感想も出たのです。

日本が世界から責任感ある国家と見なされるために、軍事的な協力は必要で不可欠なのでしょうか。2000年ごろに出版された(したがって9.11同時多発テロ以前)対談集にこんな一文を見つけました。責任感ある国家となるためには、憲法9条を改正し、自衛隊は世界で軍事活動に従事しなければならない、という主張に有効な反論となると思いますのでご紹介します。

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浦部法穂(神戸大学教授);

9条についてはもうひとつ、国際貢献論があります。これは実は外からよりも、日本国内から出てきた議論だと思います。

湾岸戦争の直後に作られたアニメ映画「ルパン3世」では、どこかに隠された財宝を、アメリカとヨーロッパの国々が組んだ「多国籍軍」とルパンが争奪戦を展開する筋なのですが、その中で「多国籍軍」側の各国首脳が、「日本は仲間に入れますか」、「金だけ出させればいいよ」という会話があったのが非常に印象的でした。

国際的に見れば、多分日本はそういう意味で一人前に扱われていません。だからこそ、アメリカ並みとは言わないまでも、イギリスやフランスと同じくらいには扱ってほしいという意識から、この国際貢献論が出てきているわけです。

特に冷戦終結後、世界各地で民族や宗教の絡んだたくさんの地域紛争が発生しています。とりわけ国連がその地域紛争に積極的にかかわりを持つようになってきたなかで、日本は憲法上、軍事的には何もできない、これで国際社会の責任が果たせるのかという議論も、現実には受けています。平和主義の立場からは、この問題にもきちんと答えなければなりません。




常岡せつ子(フェリス女学院大学教授);

まず検証したいのは、「日本は国際社会から批判されたのか」という点です。

わたしはちょうど、1990年の4月から91年の3月にかけて、アメリカのボストン・カレッジ・ロー・スクールにいました。ブッシュ(父)大統領による自衛隊派遣の要請を日本が断ったとき、アメリカのマスコミで、なぜ日本はお金だけ出して血を流さないのか、という議論が高まったのはたしかです。ただ一方では、日本は先の戦争の反省から、憲法で軍事力に制約を加えている、だから日本に軍隊を送ることを求めるのはよくない、という論説も掲載されていました。わたしは当時、日本の新聞も見ていましたが、あたかも国際社会イコールアメリカで、しかもアメリカ中がこぞって日本を批判しているかのような報道の仕方であったと思います。

アメリカのマスコミによる日本批判の言説をよく聞くと、その主な原因に、日本国憲法そのものを見ていないため、日本国憲法に対する根本的な誤解があることに気づきました。それは、「日本の憲法は軍隊を持つことは認めつつ、海外に出すことは禁じている」という誤解です。ここから、「自分の国を守るための軍隊は持てるが、他の国の国民が苦しんでいるときには(軍隊を)出せない」、それはエゴではないか、という批判がでてくるわけです。

わたしはこの誤解を解くために、ロー・スクールで学生に日本国憲法9条について授業をしたり、新聞に投稿したり、アメリカの国防法の専門家などとパネルディスカッションで議論もしました。

そこで初めて日本国憲法の条文を見たアメリカの人たちは驚いて、わたしに「なぜこの憲法の下で日本に軍隊があるのか」と訊きました。日本政府は国民に対して、自衛隊は憲法が保持を禁じている「戦力」には当たらないと説明していますが、外から見れば世界有数のれっきとした軍隊なのです。そして軍隊を送れということ自体がむしろばかげたことだったんだと、彼ら自身が気づいてくれたのです。

この意味で、国際貢献論とそれにもとづく改憲論の出発点が、きちんと検証されるべきです。「国際社会」という言葉が出てくると、何かそれだけでひれ伏さなければいけないような感覚には、わたしたちは気をつけなければなりません。




日本国憲法からは、国連の旗のもとでも、軍事的な国際活動への参加は許されません。しかし問題は、なぜ「正しい」はずの軍事力の行使に日本が参加してはならないのか、ということです。これについて、従来二つの説明の仕方がありました。

第一は、平和な国際社会を建設するためには、最終的には軍事力が必要だという立場に立ちながら、しかし侵略戦争を起こした悪い国である日本は、いつまた「正しい戦争」の口実のもとに「正しくない戦争」つまり侵略戦争を起こすかもしれない、だから軍事力を伴う国際活動にも参加する資格はないという議論です。この議論は、日本が二度と侵略戦争を企てる惧れがないとさえ言い切れれば、憲法を改正して軍事的に国際社会に貢献すべきだ、という結論に結びつきます。いま憲法調査会で出ているのは、まさにこうした議論でしょう。

第二は、国レベルで考えれば、正しい戦争、軍事力の行使はありうるかもしれない、しかしながら、国民のレベルで考えれば、どこの国民にとっても一旦軍事力が行使されれば、その生存と安全の確保にはつながらない、その意味で、正しい戦争というものはそもそも存在しない、という議論です。

日本国憲法の、とくに9条が先の戦争に対する反省から出てきた、だから徹底して、二度と軍事力を持たないという制約を加えた、という理解は確かにその通りです。しかし、わたしは日本国憲法はそこに留まらないと思っています。なぜなら、日本国憲法は平和的生存権を、一つの人権として、しかも全世界の国民の権利として確認しているからです。これは単に日本の特殊時事情で一切の戦争をしないのではなく、正しい戦争というものは、国民の立場、つまり人権という観点からありえない、だから一切の戦争を放棄するという普遍的な意味を持っているのだと考えています。




浦部法穂;

わたしも常岡さんとまったく同じ考え方なので論争しにくいですね(笑)。正しい戦争がありうるというという議論は、憲法学でも、従来漠然とであれ、前提にされてきたと思います。その観点では、9条は、懺悔としての武装解除の意味しかないことになってしまう。これは理解としておかしいし、それが政治、あるいは国民世論に受入れられにくかった一因だと思います。

わたし自身も、昔は漠然とですが、理論上は人民解放のための戦争は正しい戦争としてありうるという前提で議論してきた気がします。しかしそれでは通用しないだろうと、数年前に転向しました(笑)。


(「いま、憲法学を問う」/ 浦部法穂ほか編)

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湾岸戦争の際に日本がアメリカの一部からバッシングされたのは、日本の自衛隊がアメリカ人にはりっぱな軍隊と受けとめられていたからでした。実際、自衛隊の軍事力は核を除外すれば、中国をさえ凌いでいるそうです。そして現代アメリカ人は日本国憲法第9条を知らないこと、そしてその条文を知ったとき、ではどうして日本は軍隊を所有しているのかと疑問に思ったこと、に注目できると思います。つまりアメリカ人はこう誤解していたのです。

「日本はものすごい軍隊を所有している。自国を不正な侵略から守るためにはその軍隊を使用するというのに、どうして他国が不正な侵略を受けたときに、同盟国と共にその軍隊を使わないのか、それは利己的ではないか」と。ところが憲法9条という条文を知ったときに、アメリカ人は日本の欺瞞的な行為を、つまり憲法に反して「軍隊」同様の軍事力を持つことに不審を表明し、常岡教授の言葉を使うと、「日本に軍隊を送れと要請すること自体がばかげたことだったんだと、アメリカ人自身が気づいてくれた」のでした。

恥ずかしい話ですよね。つまり日本は国家ぐるみで憲法違反をして、「軍隊」を所有しているのです。しかし実際に軍事活動をするとなると、憲法9条があるので、国民の同意が得られない。だから安倍首相のような議会政治を知らず、行えず、憲法も法律も知らない政治家が、疲弊した国民の思考停止状態につけこんで、総理大臣の椅子に座ると、憲法改正に向けて、国民生活の崩壊には目もくれず、法整備を行ってゆくのです。

もう一つ、この引用文から得られる反論のための要点は、国家というレベルで考えれば、「正しい戦争」という言い方はできるかもしれないが、国民というレベルで考えれば、理由がどうであれ、戦争が起きれば生存と安全は崩壊する、日本国憲法は平和的生存権を、基本的人権として捉え、しかも平和的生存権はまた、日本一国ならず全世界の人々の権利として捉えている (だからイラク戦争のような、大量破壊兵器の見つからなかった、米国の戦争は、イラク国民の平和的生存権を甚だしく蹂躙した行為である、ということになる→つまりイラク戦争に協力するのは憲法上できないこと、ということになる)、戦争は全世界の人々からその平和的生存権を奪ってしまうため、国民の立場、つまり人権という観点からは「正しい戦争」というものはありえない、だから9条で、「一切の戦争を放棄する」という普遍的な思想を述べているのだ、ということです。

感動的な条文なんですよね、日本国憲法9条は。

テロ特措法、海上給油活動はこれから焦点となってゆくでしょう。今回のエントリーが、みなさんがあちこちのブログや掲示板で議論をするときの参考となるならうれしいです。また憲法9条の思想というものにも理解が広がったと思います。こういう思想はどんどん広げてゆきたいです。


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モラル・ハラスメントの手法 (下) 補遺付き

2007年09月16日 | 一般






…つづき





子どもの人格の否定、ということに関してひとつご紹介したいことがあります。「過干渉」です。過干渉というのは、子どものできないことを親がやって見本を示す(あえて手本とは言いません。親の方法だけが絶対なのではなく、色々ある方法のうち親がよく使う方法を示す、という意味合いをこめて、手本の代わりに「見本」という言葉を選びました)ことではありません。子どもが自分でできるのに、あるいは自分でやってみようとするのに、親が代わりにやってしまうことです。



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少年非行の現場で「過干渉」が言われるとき、具体的には何が問題となるのでしょうか。「干渉しすぎること」の反対は「ほうっておくこと」ではありません。家庭で「ああしなさい、こうしなさい。あれをするな、これをするな」と口うるさく言うことが子どもを非行に追い込むのであれば、ほとんどすべての子どもは非行に走るでしょう。そこには「当然の干渉」もあるはずです。また「過干渉」ということは、厳しいしつけだけを指すものでもありません。子どもにつらく当たるかどうかではなく、不必要なところで子どもを管理し、おもちゃにすることなのです。


筆者が今ここで問題にしたいのは、親の過干渉によって、子どもが自分を否定されたように感じる、ということなのです。酒鬼薔薇聖斗事件、長崎での、少年が4歳の児童を家電量販店から誘拐し、ハサミで切りつけたうえ、立体駐車場の屋上から放り投げて殺害した事件(2003年7月)、愛知県豊川市で17歳の少年が見ず知らずの主婦(64歳)を殺害した事件(2000年5月)の犯人の少年たちに共通している要素があり、それはそれぞれの少年たちが、親自身の理想像を子どもである彼らに過剰に押し付けていたことだった。これはおそらく、競争社会に勝つ、あるいは負けないようにするためです。

彼らは、「強くありなさい」
「スポーツができる子よりも、成績の良い子になりなさい」
「運動ができないことを勉強でカバーしなさい」
「礼儀正しくて、かつ、勉強のできる子になりなさい」
といい続け、子どもの希望や欲望をときに厳しすぎるほど退け、鋳型にはめ込むようにしつけの手を緩めないのです。

自分の理想に対して、「この子はここが足りない」と(親が勝手に)思い、子供の平均像を気にして、「あそこをもっと鍛えて人並みにしよう」と必死になることが、子どもを追い込んでいくのです。少子化でひとりひとりの子どもにかまう時間ができた親が、もっとも関心を寄せたのは、「子どもを人並みにすること」でした。何をおいても学校の成績を上げること。特別な才能がなくてもいい、人より劣っているところがあって欲しくない。そのためには小さいうちから英語を習わせ、塾へ通わせる。体を鍛える方へ感心が向き、スポーツ教室などに子どもを入れる親もいます。習いごとをさせるのが良いか悪いかではなく、こうした親の行動は多かれ少なかれ、「全ての面で子どもを人並みにしたい」という願望から来ているのです。

その願望が過剰になった親は、子どもを育てる親というより、ペットをしつける調教師に似てきます。そして小さな子どもを着飾らせ、パーマをかけたり髪を染めさせたりする「ペット化」が子どもの内面にまで及んだとき、子どもの心に深刻な悪影響を及ぼすのです。親の期待通りに努力することを要求され、素直な感情の表出を禁じられたと(主観的に)感じた子どもは、表面上は「良い子」を演じながら、心の中に「もう一人の自分」を隠してバランスをとろうとするのではないでしょうか。

少年A(酒鬼薔薇聖斗)は母親に強く叱責されたとき、嘘泣きをすることを学びました。佐世保の加害女児(同級生の小学6年生の女の子の首をカッターでかき切って殺害)も、叱責に対しては反射的に謝る態度を身につけていました。その時、彼らの心の底にあった思いは、「母親(父親)は、このままの自分ではない、別の誰かを求めているのだ」という、自己否定を伴った疎外感だったのではないでしょうか。こうした疎外感が子どもの攻撃性を高めるのです。





(「子どもが壊れる家」/草薙厚子・著)


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過干渉の背後にある思想は、「子どもは親に従うべき」という「道徳」あるいは「規範」です。「どんな親であっても、親は親。血の絆は水より濃い」から、事情はどうあれ、子どもが親に逆らうことは「絶対的な」間違いなのです。これは儒教的な思想、また教育勅語的な規範です。子どもには期待されている「かたち」があり、その「かたち」にはめ込まれなくてはならない存在だというのがその発想です。親は、親の思想、親の「文化」に子どもをはめ込む「責務」があり、子どもはそういう親の期待に応える「義務」がある、という発想です。子どもが独自に将来像を抱き、それを実現させようとする「権利」はわがまま勝手でしかないのです。体罰という名の暴力が容認され、称揚されるのは、親の言うとおりに子どもを動かそうとするのは当然のしつけである、という思想から派生してきます。親のいうとおりにならない子どもは「悪い子」であり、共感や理解という愛を受けるに値しない、という発想があります。



週刊金曜日が珍しくこういう心理学的な記事を掲載しています。




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しかし日本社会には「子どもの思いや願いに応え、子どもの見地を尊重し、それを伸ばそう」という発想はない。「どんな親にでも子どもは従うべき」という意識が浸透している。


これは、東京板橋区で寮管理人の両親を殺害し、ガス爆発事件を起こした(2005年6月)少年への判決によく表れている。

報道などによると、父は寮の仕事を少年にさせ、自分はバイクでツーリングに行くなどしていた。少年が「なぜ掃除ばかりしなきゃいけないんだ」と言うと、「子どもが親の手伝いをするのはあたりまえだ」と答えて、少年の数少ない楽しみであり、心のよりどころだったゲームを壊した。掃除の手を休めていたという理由で携帯電話やパソコンを壊されたこともある。勉強のことで口論になった事件前日、父は「お前とは頭のできが違う」と少年の頭を激しく揺さぶった。

母は勉強や習い事に熱心で、70万円を工面して海外にホームステイさせた。が、少年の気持ちには無頓着。生活に疲れ、いつも「死にたい」とつぶやいていた母は、少年の食事の支度もほとんどしなかった。

少年の弁護団のひとりである川村百合弁護士は言う。「初めて会ったころの少年は感情が乏しく、大切にされた感覚を持てていないようでした。事件のころの生活を『夢も希望もない生活だった』とも話している」。





(週刊金曜日 2007年9月7日号より)



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ここでも、草薙さんの指摘されている、「親自身の理想像を子どもに強要する」という思想が見られます。報道記事で母親が苦労して70万円を工面し、子どもを海外へホームステイさせたと書かれてあるのを読めば、たいていの親御さんたちは「まあ、熱心で子供の将来のことをよく考える方でしたのねえ」としか感想を持たないでしょう。でも、ホームステイは母親にとってよいことであって、子ども自身が自発的に望んだことではなかったのです。子どももハイティーンになると自分のしたいことを探し始めます。自分はどうなりたいのか、自分は何をしたいのかということを模索し始めるのです。そういう子ども自身の考えや希望を、この母親は尊重せず、知ろうともしなかったようです。これがモラル・ハラスメントなのです。子どもを一人の人格者とは決して認めず、むしろ「世間に評価される」あるいは「せめて世間から後ろ指を指されない」ような子どもであってほしいという親の期待、親の希望を一方的に正しいこととして押しつけること、これがモラル・ハラスメントなのです。そしてこの場合の親の「教育」、「しつけ」を「良いこと」として太鼓判を押すのが「道徳」、「常識」なのです。


みなさんも、おおかたは殺された親に同情し、殺した子どもを非道なヤツと思われているのではないでしょうか。「そんなことを言われたくらいで人を殺していたら、世の中で生きていけないぞ」と思うでしょう? こう考えてみてください。あなたがもしゴルフをやっているとき、横からいろいろアドバイスを頼みもしないのに言われ続けたらどう感じますか。それでも自分のやり方を優先させて、ミスしたとき、「そらご覧。言ったとおりでしょ」と言われたら、キレませんか。将棋を指しているとき、上手な人がいちいち口をさしはさんできたら、あなたはそれを喜べるでしょうか。いいえ、むしろイライラするはずです。他人の言うとおり指して勝てるよりは、自分の思い通りに指して負けるほうがずっと楽しいのです。違いますか? ここで言われていることはそういうことなのです。キレイな結果を出すために他人の言うとおりにしなければならないこと、これが人格の否定であり、また侮辱ということなのです。

しかし判決は、子どもの人格を尊重しようという余裕は微塵もないものでした。やはり「道徳」あるいは「常識」にそったものであって、教育勅語的な、儒教的な思想に立脚したものでした。



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少年に対して栃木力(つとむ)裁判長は判決で、「虐待に当たらないことは明らかであり、両親に募らせていた不満や憎しみは身勝手なもの」ということで、懲役14年を言い渡した。


父がゲームを壊したことを「勉学がおろそかになることを心配していた」と考える栃木(←裁判長の名前であって、栃木県の裁判長、という意味ではないですよ^^)裁判長は、法廷でつらい体験を述べた少年を「改悛の情が見受けられない」と判断したのだろう。判決を読み上げた後、「ご両親なりに愛情を持って育てていたと思います。あなたには、そのことに気づいてほしい」と語っている。(朝日新聞06年12月2日付)

このような人々にとって子どもは「未熟で保護の対象になるべき者」でしかない。子どもが自分の思いや願いを持つことは許さない。間違っても、親が子どもに共感し、理解し、子どもが自分の人生を創作してゆく「権利」を尊重しようという発想など思い浮かばない。

子どもは力で押さえつけ、疑問を持たずに社会適応できるように「しつけ」てやることこそが「愛情」なのだから。(ルナ註:現実にはそのように育てられた子どもは「社会適応」ができずに殺人に手を染めている!)

情緒的な豊かさを切り捨て、弱肉強食社会で勝ち残ることに最大価値を置くように仕向けられた人々に、子どもたちの(いえ、人間の自然な欲求の)悲鳴は聞こえない。





(週刊金曜日 2007年9月7日号より)


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わたしは声を大にして言います。これは決して「愛情」ではない! それは親の側の一方的な不安であり、「しつけ」ではなく、人格の否定、人間性への蹂躙というモラル・ハラスメントだと。子どもにモラル・ハラスメントを執拗に加え続けることによって満足したのは誰か。あなたたちでしょう! 人を自分の思い通りの人形に作り変えてゆくことに、満足を覚えるあなたたちは自己評価が低く、自分自身に怒りを覚えている。だから他人を支配して自分の無力感を慰撫しているのです! あなたたちのような人にエホバの証人を批判する資格などありません! なぜならあなたたちこそ「模範的」なエホバの証人だからです! 


教育基本法が改正されたとき、その背景にあるのは、未成年の人たちは権利ばかり主張して義務を果たさないという発想でした。体罰を容認する人たちの主張も同じです。そういう人たちは「規範」というたいていは人間を支配するための恣意的な取り決めに頼って、自分のプライド、自分のアイデンティティを維持しています。家父長制という制度があれば、男はたいした努力をしないでも、尊敬と服従を得ることができます。コミュニケーションを重ね、理解を醸成していく長い道のりをはしょることができます。そういう努力をはしょっていくうちに、コミュニケーションを重ねてゆく能力そのものが衰えてしまいます。コミュニケーションを重ねる、ということは、筋道を立てて話を構成し、問題点を分析し、譲歩できる点を見いだし、お互いにとって満足の行く合意を形成するという民主主義の手法を取るということでもあります。それができなくなった人たちが権威を振りかざし、服従を強制し、強制を効果的に行うためにハラスメントを実行するのです。暴力もハラスメントです。暴力は相手に屈辱を感じさせ、辱めることで服従を勝ち得る手段だからです。暴力というハラスメントについては別に機会を設けて書きます。



またもうひとつ、指摘したいことですが、エホバの証人2世なら体罰をこれでもかと受けてきて、理解と共感を受けずに育ってきたため、愛ということを知りません。愛されないで育った人間は、「自己肯定感」というものを培えていません。自分に自信を持てない状態にあるのです。ですから、子どもが成長するにつれ、子どもが自立心を芽生えさせ、子どもが自分を主張し、子どもが親のやりかたを拒絶し、批判するようになると、親自身のその成育歴における愛情の欠如から来る自己否定的な意識が刺激され、自分が否定され、侮辱されたと解釈し、その解釈にもとづいて反応をするのでしょう。それがふつうの家庭で見られる「体罰」であり、その実体は「カッとなって手を上げる」というものです。確信をこめて言いますが、親が子どもとの合意の上で、冷静に体罰を加えるというようなことはまず行われていないでしょう。ほとんどが、親が子どもの反応に傷ついて、そしてカッとなって行われているのです。

エホバの証人という経験から学べるもっとも重要な教訓はなんでしょう? 世間体に立脚した義務ばかり強要されて、個人の権利がまったく踏みにじられることの屈辱と悲しさ、惨めさではありませんか? 道徳や行儀を説教して、個人的な吐露を非難攻撃する現役のエホバの証人はファシストなのです。少なくともエホバの証人を批判したいなら、まず自分を批判することから始めなさい、とわたしは攻撃的に言います。わたしはそういう人たちとは全身全霊をこめて、髪を振り乱してバトルする用意をいつも整えています。いつでもかかってきてください。





モラル・ハラスメントはときに人間を、犯罪を犯すまで追い詰めるのです。これまではハラスメントではなく、親の愛だ、とかしつけだ、と言われてきました。上司が部下を叱るのは当然だ、なにがおかしいと言われてきました。しばしばハラスメントを受けるほうに問題があるとも言われます。

全部違います。ハラスメントは愛ではありません。利己主義です。愛は相手を尊重しますが、ハラスメントは加害者の支配欲の一方的な表現です。ストーカー行為を思い浮かべれば分かるでしょう。女性をつけ回し、家を突き止めて周りをうろうろする。自分とは友人以上の交際をしないという相手の女性の意思を尊重できないのです。自分はこの女とつき合いたい、それだけです。これは愛じゃない、自己中心主義です。

ハラスメントはしつけではありえません。しつけは子どもの利己主義をコントロールする術を教えるものですが、ハラスメント(当然暴力も含まれる)は親の言うとおりのならないという、親の憤りを子どもに思い知らせる行為です。その底には親自身の不安があります。親が、自分の親への怒りを、子どもに対して当たってていることも多いのです。子供は親とは違い人格者であり、親とは違う素質を持ち、親とは異なる願望を持つのです。子どもの素質が目立ったものであるとき、人に注目されることもなく暮らしてきた親はそれを妬んでしまうことすら起こります。それを怒りに思って、しつけという名で子どもを責めていたぶるのです。「過干渉」の引用を見れば、エホバの証人の家庭で行われることとぴったり重なって見えてきます。

モラル・ハラスメントは常識や美徳や道徳の名で呼ばれてきたために、今でも陰湿に行われ続ける精神的・身体的暴力なのです。被害者の心の持ちようだけでは決して解決できない、深刻な暴力なのです。エホバの証人というカルト宗教体験を持つわたしは、すくなくともわたしは、モラル・ハラスメントには敏感でいる所存です。ましてモラル・ハラスメントを駆使して他人を操作し、支配しようという挙には決してでるまいという誓約を、自分のプライドと、そしてこのブログを見てくださった方々の前で、今行います。そしてこの誓約の上に立って、これからもモラル・ハラスメントによる人間の精神を破壊し、支配下におこうとするファシズムを徹底的に糾弾し続けていく所存です。




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モラル・ハラスメントの手法 (上)

2007年09月09日 | 一般







モラル・ハラスメントとは、定義によると
「ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである」ということです。(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)

モラル・ハラスメントは人間関係においてはごくあたりまえのイジワル程度にしか認識されていませんでした。時には道徳、教育、しつけという名目によって奨励さえされていたのです。そうした「つらいこと」を耐えて、人間は成長すると受けとめられてきました。

しかし、ベトナム帰還兵にPTSDという症状が認められるようになってから、精神的な傷という概念が市民権を得はじめました。これによって、犯罪を犯してしまう人間の心理や動機、テロリストの精神分析などの研究が徐々に行われるようになり、現代では少年非行や少年による重犯罪などの分析もよりわかりやすくなりました。

精神的な傷は決して個々人の心の持ちようでは処理できないものなのです。今回は、精神的な傷をあえて与えようとする異常なコミュニケーションであるモラル・ハラスメントの手法について、ごく一部を紹介してみようと思います。




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1.モラハラ加害者は直接的なコミュニケーションを拒否します。(以下、「モラル・ハラスメント」より)


▽家庭では不機嫌でいることが多く、むっつりしている。何を話しかけても無視してむっつりしている。古典的な日本型亭主に見られる、「めし」「風呂」「寝る」の3語だけしかしゃべらない、など。会社やご近所では愛想がよく、「よく気のつく人」という評判をとっている場合もある。


▽うれしいこと、つらかったこと、思ったことなどの感情や考えを共感し、共有しようとしない。そういったことを話そうとすると、「疲れている」「くだらない」というようなことしか話さないし、顔も向けようとしない。しかしご近所の人とか、上司とかを相手にするときは真摯に聞くそぶりを見せる。

▽こちらが真剣に話しているのに、冗談っぽく茶化す。または「さっぱりわからない」「おまえの考えすぎだ」「おまえのほうが悪い」、「くだらん」「うそをつけ」と、こちらを責めたてる返答をする。
 

 「冗談で茶化す」というのは、エホバの証人問題系の掲示板の書き込みでたまに見られます。深刻なこともジョークにしたり、笑いのネタにすると、それは「たいしたことじゃない」というコンセンサスを形成します。現役のエホバの証人のアクセス者が、問題の本質に迫ろうとする追求の手をかわすのによく使います。お笑い番組などではなんでも笑いのネタにしますね、タケシや所ジョージ、さんまやタモリ(いまは森田に変わっている?)の番組などでは。問題を正面から取り組もうとしないで、自分に関係がなければネタにしてしまえ、自分たちが今笑って楽しく過ごすことが何にもまして大事なことだとでもいうように。

 
 深刻な問題を悲観的に考えてさらに想像の中で深刻にしてゆく、という思考パターンはたしかに問題解決を困難にしてゆきます。何がどう深刻なのかを正面から冷静に見極めるのは、問題を乗り越えてゆくのに大切な手順です。深刻な事態の全体をはっきり見渡すことができれば、むしろ一息つけるのです。安心が少し見えてくるからです。ですから深刻に考えすぎず、なるようになれ、死ぬことに比べて重い問題というのは存在しないという覚悟に立ち返れば、深刻な問題も対処可能な範囲に照準が定まるのです。しかしそのためにはまず、感情的な動揺を鎮めなければなりません。感情的な動揺を鎮めるのは、「あんまり深刻に考えすぎなさんな」というような理性的な助言ではなく、感情的な共感なのです。
 
 問題を乗り越えてゆくのは個人の責任です。他人が代わって負うべきものではありません。他人に何とかしてもらおうとする人は、未熟な人です。未熟さに対してははっきりかかわりを持つべきではありません。しかし、ショックな出来事が起これば成熟した人でもやはり動揺するのです。周囲の人にできるのは、本人に代わって問題の処理をしようとすることではなく、本人が問題に立ち向かってゆけるよう、本人の心の準備を整える手伝いだけです。つまり、感情的に共感してあげて、本人が悲しみ、悔しさ、情けなさの感情を吐き出してしまう手伝いをすることです。感情の動揺というのは誰かに共感してもらえれば落ち着いてゆくものなのです。泣くだけ泣いたら、気持ちが軽くなるじゃないですか。

 問題によってはそれまでの期間が長くなる場合もあります。身内や友人との死別という問題がそうです。でもどんなつらい経験でも、対処できれば必ず「過去のこと」、問題の種類によっては「笑ってすませてしまえること」に変わってゆきます。でもそうならせるのはあくまで本人の仕事であって、周囲が勝手に笑ってしまうことじゃないのです。それは思いやりがなく、自己中心的な態度でしかありません。子どものこと、自分の悩み、夫に対する要求、組織に対する不満、そういう悩みを話したのに、常識論で一蹴されたり、ジョークのネタにされ続けるというのは、自分を蔑ろにされたように感じます。事実蔑ろにすることなのです。そういう反応は孤独感を深めます。相手の人への親しい気持ちに水を差します。

 モラル・ハラスメントは、加害者による被害者への専制支配が目的なのです。ですから被害者を孤立させ、侮辱し、プライドを貶めるのは加害者にとっては常套の手段でしかないのです。そして被害者本人の心情を笑いのネタにしてしまうのは、被害者を侮辱し、軽んじ、貶める絶大な効果を発揮する、ということです。ハラスメントを加えるつもりはなくても、こうした態度は相手との親密さを破壊し、人間関係に格差を設けてしまいます。通常の人間関係を営んでゆくのに、タケシやさんまやタモリを真似るのは決してしてはいけないことなのです。できればああいう番組とは接しないようにするのがいちばんいいとわたしは思います。



▽顔をこちらに向けない、あるいは目を合わせない。
 うちの会社の物流センターのほうで働くセンター長ですが、事務方の若手が伝言に行くと、その若手さんの方は一切見ず、返答もせず、若手さんが話し終わるまでしばらく黙ったまま。と、いきなり事務所のほうに頭を向け、詰め所にいる自分の取り巻き一人の名を呼んで、「○○く~ん、ちょっと話を聞いてやって」と言い、それからうんともすんとも言わず、黙っています。その間一切若手さんの顔は見ないのです。そしてその若手さんが自分の背中に一生懸命していた話をもう一度、呼ばれた○○さんに話させるのです。一言も発せず、顔すら向けず。

 こういう態度は相手を低めようとする態度です。自分としてはおまえと対等の関係を持つつもりはない。対等の人間としてはおまえを自分の人間関係から排除する、というメッセージの表明です。

 わたしは父親とは、生前目を合わせることができませんでした。話をするときも。母親ともそうです。目を合わせると気持ち悪いのです。これは憎みあって離婚する夫婦と同じものだとわたしは考えています。人間関係を深めたいという自分のがわの努力やメッセージをことごとく蹂躙されてきた人間は、相手の人に生理的な嫌悪感を覚えるようになるのです。ちょっと前に、父親の衣類とまぜて自分の衣類を洗濯機にかけられるのを忌避する女子学生のことが話題になったことがありました。こういうのがそうです。自分の気持ち、自分プライバシー、自分の意向というものにまったく共感されず、大切にしてくれない人間に対しては、わたしたちは生理的な嫌悪感を感じるのです。マスコミは女子学生の方を問題視していましたが、本当の問題は親のほうにあるのです。親のほうがそれとは知らずにモラル・ハラスメントを加えてきたのです。



モラル・ハラスメントを駆使する人はコミュニケーションによって人間関係を深めようとしないのです。力であるいは心理操作で相手を自分に服従させることによって、人間と関わろうとするのです。つまり「人を傷つけずにはいられない」、傷つけることで人間と関わろうとするのです。怖ろしい人たちであり、悲しい人たちであり、哀れな人たちです。愛というものを知らず、知ろうとせず、愛を嫌悪する人たち、なのです。



2.モラハラ加害者は曖昧な態度を示したり、曖昧な言いかたをします。

…あるいは、わざと曖昧な言いかたをしたうえで、説明を拒否することもある。たとえば、義母が女婿にちょっとしたことを頼んだときのこと…。
「だめよ、そんなこと」
「どうして?」
「言わなくたって分かるでしょう?」
「わかりませんね!」
「じゃあ、考えてごらんなさい」
この会話には悪意がひそんでいる。その口調が落ち着いていて、「普通」のものだったりしたら、相手の方は、自分が怒ったりすることが見当違いのような気がしてくる。こういう言いかたをされると、言われたほうは、「自分はどんな悪いことを言ったんだろう(or したんだろう)」と罪の意識を感じるのが普通だからだ。このやりかたが失敗することはめったにない。





(「モラル・ハラスメント」/ マリー=フランス・イルゴイエンヌ・著)




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こういう会話には相手を翻弄する効果があります。決して加害者の意図が分からないのです。これではコミュニケーションを深めて親密になることはできません。事実、モラル・ハラスメントの加害者は、被害者と親密になろうとはしないのです。いえ、なんとかしてそれを避けようとします。相手にどうしてほしいのか、それをはっきり伝えません。それは相手に対する自分の希望を提案して、もし相手が譲歩できることであればこちらの要望を飲んでもらい、自分のほうでも相手の要望に譲歩を持って可能なかぎり相手に近づく、これがコミュニケーションによる人間関係の深化です。ところが、モラル・ハラスメントの加害者は、自分の相手への要望を隠すのです。なぜでしょうか。それは相手を非難し、矯正することを目的にしているからです。モラハラ加害者の目的は、相手を傷つけること、なのです。モラハラ加害者にとって、人間関係とは傷つけあうことなのです。


相手をひどく傷つけ、侮辱する異常なコミュニケーションに「ダブル・バインド」があります。



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ダブル・バインドにおいては二つの矛盾する提案が同時に存在する。そしてあなたはそのふたつに同時に、かつ完璧に応えなければならない! もちろん、それは不可能なことである。


たとえば、ある夫婦において、妻が夫に文句を言っている場面を考えてみよう。

妻が、「わたしたち(妻と子どもたち)があなたと一緒に過ごせる時間が短すぎるわね。あなたは働きすぎよ」と言い、その一方で妻の夢である大きな家を買うための、あるいはカネのかかるレクリエーションのためのお金が足りないと、ぶつぶつ執拗に不平を言ったとする。この場合、もし夫が妻と子どもたちと一緒に過ごすために仕事を減らせば、それだけ稼ぐお金も少なくなって、家を買ったり、レクリエーションを楽しんだりすることができなくなる。いったい、どうすればいいのだろう?

倒錯的でない夫婦の場合は(共依存的でない場合、の意)、筆者は、この二重のメッセージを受けたほうの人に、どちらの選択肢も選ばないと相手に告げるように助言する。そうすることによって、現実的な交渉を行うための議論が始まる。そして問題の解決というのは現実的な交渉のための議論があってようやく端緒につけるというものなのである。





(「こころの暴力・夫婦という密室で」/ イザベル・ナザル=アガ・著)


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このダブル・バインドを親子の関係でやられると、子どもはつらい。しかしこのダブル・バインドは、むしゃくしゃした時の親がよくやるハラスメントなのです。こうすることによって、子どもは自分の弱さ、知恵の足りなさを決定的に思い知らされることになります。こういうコミュニケーションが通常的に行われていれば、子どもは自分で筋道を立てて考えてゆく能力を発達させずに大人になってしまうでしょう。それがその子どもの人生に有利に働くことは決してないのです。


アダルトチルドレンの親は、それで子どもが失敗して自分の元に返ってくることが実はうれしいのです。加藤諦三先生によると、彼らは「自分が必要とされていること」を必要としている人たちなのです。自分で自分の目的を見つけることができず、自分の人生を生きていくことができず、子どもにかまうことで自分の存在価値を見いだそうとする人たち、だから子どもは愚かであったほうがいいのです、彼らは。自分がかまって上げれるし、自分の偉さというものを確認することができるからです。残酷な親たちです。子どもが自立して人生を切り開いていけるようにするのが親の愛というものなのに。自分の価値を確認するために、子どもを大人になりきらせないのです。

ダブル・バインドがモラル・ハラスメントとして使われる場合、それは「おまえはダメなやつだ」という暗黙のメッセージを相手に徹底的に思い知らせる意図があるのです。



3.モラハラ加害者は、被害者の評判を落とそうとします。

何人かが談笑しているときでも、モラハラ被害者に話題が向けられると、加害者は被害者のミスとか弱点とかいたらなかった経験とかばかりを持ち出してきて、こっけいに話す。人前で子ども扱いにする。




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被害者をバカにした紹介の仕方をする、辱めるようなことばかり披露する、嘲弄するしかたで人々に披露する、ひどいあだ名、小ばかにしたようなあだ名で呼ぶ、性格的・肉体的な側面を「欠点」として披露してからかう。またひそかに相手を中傷するうわさを流し、そのうわさが被害者の耳に入るようお膳立てをする。被害者のほうにはそのうわさの出所が分からないようにして、困らせる。これによって被害者の周りの人々も被害者を軽視するようになる。とくに権威者がこれを行うと、被害者は確実に軽視されるようになる。


そういう周囲に満ちた「空気」を読まざるを得なくなり、被害者は心理的に萎縮するようになり、自分に自信を失ってゆく。こういう雰囲気に飲み込まれてしまい、被害者がその空気に反応してしまって、ふてくされたりとげとげしくなったり、動揺から仕事などでミスを犯すようになると、加害者のハラスメント言動が正当化されることになってしまう。「ほら、言ったとおりだろう」というわけだ。被害者はますますあわてて動揺する→さらに失敗を起こしやすくなる→滑稽さをさらに増してゆく…という悪循環に陥ってゆく。





(上掲書)


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小中学生たちはこういうことの常連ですよね。女の子のことをブスといったり、ペチャパイと言ったり、デブって言ったり。いじめでおこなわれるハラスメントは侮辱の言葉を習慣的に投げかけます。「臭い」、「汚い」、「トロい」、「ドン(どんくさい=鈍い、トロい、の略)」。人間としての弱点をニックネームにしたりすることもあります。「デブ」、「ペチャパイ」もそうですし、わたしが小学生のとき、公園でウンチをしたというので、小学校を卒業するまで「野ぐそ」と呼ばれ続けた男の子もいました。でも成長して、人間として対等の友人関係ができあがるにつれ、こういうことはなくなってゆきます。なくならない場合はいじめがあるのです。こういうことは小中学生社会だけのことではもちろんありません。大人の社会でもりっぱに存在します。


事実これはエホバの証人社会ではよく起こるのです。長老という権威者に目をつけられた人、長老のさらに「上」の巡回監督に睨まれた人などは、たとえば会衆のだれだれを最初は褒めて、いかにも「出世」を意味する「奉仕の特権」への昇格を匂わせておきながら、実際には任命しない。エホバの証人の社会では「奉仕の特権」を獲得することだけが「一人前」また「円熟」の基準なので、男性がいつまでたっても奉仕の特権に任じられないことは、ちょうど戦前の農村における不妊の嫁と同じように、悪い者、ダメな者、ちょっとおかしい者、半端者とみなされるので、その仕打ちはかなりキツイ。「問題のある人」という扱いになります。

実際それが続くと、その被害者の人は会衆内で縮こまった存在になってゆき、軽視される者としての役割が確立してしまいます。掲示板などで怒りを爆発させる人の中にはこのような仕打ちを受けてきたと思われるケースがたまにありました。可哀想に、そういう書き込みをすることで、今度は掲示板の中でも説教され、叩かれ、小ばかにされる。モラル・ハラスメントが人間性を破壊する、というのはこういう面が顕著にあるからです。

会社でもこういうことはよく見られるのではないでしょうか。とくに競争が激しい大企業などでは。とくにリストラしたい人を自発的に辞めさせようとするときなどは。管理職にあった人をいきなり窓口係に配置転換された銀行員をわたしは知っています。みなさんがその銀行員だったらどんな気持ちになるでしょうか。いままでその銀行員を知っていた人は、その人を見てもすぐに目をそらすようになるのです。JR西日本の日勤教育などは組織的モラル・ハラスメントの見本市でした。(4)で紹介する人格の否定と関連があることですが、個々人が培ってきた熟練技術を無視してわざと初級の仕事をさせる、本来なら各個人がしなければならない掃除とかを専門的にやらせる、など。エホバの証人時代にこういうことがありました。主宰監督が有能な若手の兄弟を侮辱するために、その兄弟と同じ大会でバプテスマを受けた別の兄弟は事務系の仕事に割り当てて、その兄弟だけは、演壇から「○○兄弟はトイレ掃除を行ってください」という。このときはさすがに会衆はシーンと凍りつきました。

権威者にこういう侮辱的なレッテルを貼られてしまうと、被害者はとことん追い詰められてゆくでしょう。行き着く先は欝に陥ったり、攻撃的になったり、ふてくされてレッテルがさらに追認されたりするのです。残酷な仕打ちです。なぜならそういう仕打ちは法で裁けるものではありませんし、大抵の場合は被害者のほうの「心の持ち方」として放置されてしまうことだからです。とくに最後の、エホバの証人の例では、掃除は誰かがやって当然のことですし、謙遜さを試すとかいう口実があるので、「なぜ自分がこんな待遇なのですか」と抗議できないのです。



4.モラル・ハラスメントの加害者は、被害者の人格を否定します。


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【相手を認めない態度をとる】


これは「おまえはダメだ」と思わせるようなことを繰り返し言って、相手の長所を認めず、最後には自分でもダメな人間だと相手に思わせてしまうことである。

この方法は最初、軽蔑した目で見たり、大げさなため息をついたりと、言葉によらない形で行われる。それから、言葉でもそれが行われるようになり、悪意のほのめかしや当てこすり、冗談の裏に隠した不愉快な指摘や “批判” という形をとる。

これらの方法の特徴は間接的なので、被害者のほうはそれが攻撃だとはっきり思うことができず、したがって身を守ることができない。そのうちに、言葉はもっと直接的な形を取ってくるようになる。だが、被害者のほうに自信がなかったり、また被害者が子どもだったりすると、その言葉が真実だと思ってしまうことになる。「おまえはどうしようもない」とか「おまえはダメな(あるいは、ぶさいくな)人間だから、誰も一緒にいたいとは思わないだろう。そんな奇特な人間は私だけだ。私がいなければおまえはひとりで生きることになるのだ」とか、そんなことを言われているうちに、被害者本人がほんとうにそのとおりだと信じてしまうのだ。このとき、「どうしてダメなのか」と、被害者が自分の心のうちで加害者の言葉を問い直し、検討されることがない。

こうして、被害者は直接、間接に言われた「おまえはダメだ」というメッセージを自分の中に取り込み、そしてほんとうに自分で自分を「ダメな人間」につくりあげてゆく。ここは重要だ。被害者はもとからダメな人間であったわけではない。加害者がダメだと決めつけ、被害者がそれを受け入れたから、被害者はダメな自分になっていったのだ。

また、相手を認めないというこの攻撃の対象は本人だけでなく、その家族や友人、知人など、まわりの人間にまで広がることもある。「あいつのまわりにはろくな人間がいない」というわけだ。

加害者がこういったことをする目的はただ一つ、相手を貶めることによって、自分が偉くなったと感じることである。





(上掲書)


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相手の願望、夢、意欲、または日常の会話における個人的な見解、個人的な感想をいちいち鼻先でせせら笑ったり、「しょうもない」、「ふん、いっぱしの口を利いちゃって」、「おまえが一人前のことを言うんじゃない」、などとけなす。あるいは人前で被害者が自分の見解や感想を言ったとき、「こらっ! 何を言うんだ! おまえは黙っていなさいっ。みっともない!」(←これ、うちのオヤジが母にわたしにしょっちゅう言っていました)と叱る。こうして加害者は被害者を世間に出すのが恥ずかしいみっともない存在だと考えているのだ、という超辛辣で超非道なメッセージを叩きつける。または「はい、はい。よくがんばって言えたね~」とまるで幼児をあやすように扱う。子どもが自然現象から受けた自分の感動を目をきらきら見開いて話すと、「うそつけ」と突き放す。


エホバの証人は科学(科学的手法で研究される一切のこと。自然科学だけでなく、経済学や心理学、哲学、歴史学etc...など全部を含む)に関心を持つと、そういった意欲を罪悪視する。エホバの証人は特に精神医学や心理学、哲学を侮蔑します。それらの研究がマインド・コントロールの手法を明らかにし、エホバの証人のような宗教のあり方を暴露するからです。エホバの証人の機関紙では心理学は科学ではないと主張されています。それどころか、一般向けに書かれた教養小説や歴史書などを読むことは時間のムダ、むしろ「世の哲学」(エホバの証人の教理を否定する内容があるから)に接してしまう危険な行為と繰り返し教育されます。こうしたことへの意欲を否定し、侮辱し、非難します。現役さんの掲示板では、輸血拒否を書き込んだエントリーを意図的にスルーする。つまり直後からまったく関係ない話題を振ってそれを発展させてゆく。都合の悪い情報を否定するのに、その意見を言う人の存在そのものを否定してしまうのです。

歴史を改ざんしようとする人々の論調も同様です。いわゆる「自由主義史観」を否定する歴史学を法律によって抑えこんでゆく。「愛国心」という感情的なものによって、科学的歴史研究を罪悪と見なすよう報道し、論じ、日の丸掲揚に起立しない教師を罰するといった脅迫行為によって、否定してゆく。

モラル・ハラスメントは人間に精神の自由を認めない。むしろそれを拒否することによって、一方が他方を服従させる。モラル・ハラスメントの奥にはファシズムが見え隠れします。そしてモラル・ハラスメントが行われる目的に「相手を貶めて、自分が偉くなる」というものがあることからすると、ファシズムは究極的にはファシストの心理的不安によって立てられるものと言えるのかもしれません。





(下)につづく




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