Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

お葬式のあとの、真夏の青空の下で…

2010年07月25日 | 一般

 

 

友人の娘さんが亡くなられた。

まだ二十歳だった。




他県の国立大学に通っておられたのだが、事故だったそうだ。遺影は明るく、いかにも活発で聡明そうな表情だった。

友人は、焼香のたびに、ていねいに頭を下げていた。ひとりひとりに顔を向けて、心をこめて。そういうひとなのだ。わたしの大好きな友人。あなたにこんな不幸が襲うなんて。

式が終わったあとが、怖ろしく寂しい。ご主人は身体の大きいたくましい方だが、がっくり肩を落とされて、ひとまわり小さくなったように見える。

娘さんの思い出の話をぽつりぽつりと、ささやくように話し合っていた。




この一週間は、抜けるような夏空で、目を開けていられないくらいまぶしくて、そして暑かった。街は喧騒のはずだったが、わたしにはひどく静寂に感じられた。静寂な夏。こんな感じを、かつて感じたことがある。

高校生の頃にもわたしは男の友だちの死に遭った。バイク事故だった。つい昨日、おとといまで生きて話していた人が今はもういない。これからもいない。生きていることが不思議に頼りなく感ぜられたものだった。

死に直面したときに感じる「静寂」というのは、「生」の脆さ、頼りなさが暴かれたからだと思う。そう、死には音がない。光もない。存在がなくなるのだ。死は、だから静かだ。そんな死が、身近に起こったとき、自分のすぐそばに、死はいつもまとわりついていることに気づかされる。

死は壮大だ。わたしたちの「生」は数十年の時間の現象だが、死は、永遠から永遠に至る静寂なのだ。わたしは「怖ろしい」というよりも、そこはかとない寂しさを覚える。

面倒に巻きこまれたとき、わたしたちは波風のない平穏さ、静寂さを恋しく思わないだろうか。そんな静かな日常に戻りたい、という気持ちをもう少し延長すると、死という静寂に逃げ込みたい、という感情にたどり着くのではないだろうか。もはや静かな日常へ戻るという希望が失われたとき、わたしたちは「静かな日常」という静寂よりももうちょっとだけ先にある、永遠の静寂、本ものの静寂に戻ろうとするのだろうか。




「生」はほんのわずかの時間のまぼろし、夢なのかもしれない。あらゆる意欲も業績も、一瞬にして切断される。人が他者を出し抜いたり、優越したりできたからといってそれがなんなのだろう。名声を獲得できていれば、葬式後数週間は取り巻きの人々が賛辞を提供するかもしれないが、死んだ本人はそれを聞いて得意になることはもはやないのだ。

策を弄して競争することに何の意義があるだろう。妬みや陰口をたたくのに時間を費やすことはまったくムダではないだろうか。人生に意味や目的をつけてみたところで、それがなんだというのだ。死ねば自分自身はそれから何の誉れも得られないのだ。失敗を悔やんだところで何を失うのだ。死ねば成功の誉れをも根っこから失ってしまうのだ。

では、生きるっていったい何なのだ。少なくとも、「成功する」とか「勝ち組になる」とか言うものに人生の時間を費やすことには何の意味もないのではないか。そう、愛を勝ち得ようとして心を砕くことさえ!





(以下引用文)---------------



公益を目的とするのでない限り、他人に関する思いで気味の余生を消耗してしまうな。なぜならばそうすることによって君はほかの仕事をする機会を失うのだ。

すなわち、だれそれはなにをしているだろう、とか、なぜ、とか、何を考え、何をたくらんでいるだろうとか、こんなことがみな君を呆然とさせ、自己の内なる神性を注意深く見守る妨げとなるのだ。

したがってわれわれは思想の連鎖においてでたらめなことやむなしいことを避けなくてはならない。またそれにもまして、おせっかいや意地の悪いことはことごとく避けなくてはならない。

…すべて君の内にあるものは単純で善意に富み、社会性を持つ人間にふさわしいものであることや、あらゆる享楽的な思いや競争意識や嫉妬や疑惑やそのほかすべて、君が他者に知られると赤面するであろうようなことは、いっさい囚われないよう背せよ。



…曇りなき心を持ち、他人から与えられる平安(=他者からの愛や賞賛、承認など)を必要とせぬよう心がけよ。他人にまっすぐ立たせられるのではなく、みずから(=自己肯定感によって)まっすぐ立っているのでなくてはならない。



…ほかのものは全部投げ捨てて、ただこれら少数のことを守れ。そして同時に記憶せよ。人はみな各人、ただ現在、この一瞬にすぎない現在のみを生きるのだということを。

その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。

ゆえに各人の一生は小さく、彼の生きる地上の片隅も小さい。またもっとも長く続く死語の名声といえども、それらもすみやかに死に行く小人どもが次々とこれを受け継いでいくことによるのにすぎない。

その小人どもは自己を知らず、まして大昔に死んでしまった人間のことなど知る由もないのである。





(「自省録」/ マルクス・アウレーリウス/ 神谷恵美子・訳)


---------------(引用終わり)




他人を踏みにじってまで自分に財産や名声を集めたからといって、それが結局自分をどれだけ満たせるのだろう。愛情を得ようとして四苦八苦し、セックスに夢中になったからといってそれで何を満たせるのだろう。より多くを欲望させるだけでしかないのだ。賢人ソロモンが書き残したとおり、「銀を愛するものは銀に飽くことなく、富裕を愛するものは収益に満足しない。これはむなしいことだ(伝道の書5:9-10)」。

ただ今日のこの一瞬、現在を悦びを持って過ごすこと以上に、人間によって良いことはなにもない、というのが結論だった。しかり、ソロモンはかく言う、「人間にとってもっともよいのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。自分で食べて、自分で味わえ(伝道の書2:24-25)」。

人が自分を満足させうるのは、今現在の一瞬しかできないのであり、そうであれば現在を悦びで過ごすこと以上に良い生きかたというのはないのだ。誰かを出し抜く算段や野望を遂げられなかった悔しさに嘆いて今現在を過ごすというのは、そう、まったく無意味なことなんだろう。愛を得ようと悶々とするよりは、ただ愛を無償で、つまり見返りを求めることなく与えることで今現在を過ごすこと、そこにしか「充実」はない、ということなのだろう。




わたしは夏が好きだ。夏の森の木漏れ陽が好きだ。だから、蝉の鳴き声を浴び、木漏れ陽を眺めてただ夫と過ごす、そんな何もしない時間というのが、きっといちばん有意義な一瞬だということになる。そうだ、「しあわせ」っていうのはきっと邪心なく過ごすそんな一瞬なのだと思う。だって、すべからく影がつきまとうように、人にはいつも死がつきまとっていて、いつそれが自分をとらえるか、わたしたちは知らないのだから。

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