Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

日本へのレクイエム 日本の牧歌的な時代は終わる

2011年10月31日 | 「世界」を読む




■野田首相、TPP交渉参加の意向固める 11月のAPEC首脳会議で関係国に交渉参加を伝達へ


FNNニュース 2011/10/30 13:08  
  
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00210523.html
 


野田首相は、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉に参加する意向を固めた。11月中旬にハワイで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の際に、関係国に交渉参加を伝達する方針。


政府関係者によると、野田首相は、TPP参加に慎重な鹿野農水相と、10月だけで数回極秘の会談を重ねてきた。


鹿野農水相は、最終的に交渉参加を容認する考えを示唆し、これを受けて野田首相は、APECで交渉参加を表明する意向を固めた。



------------------------(引用終わり)






みなさん、日本の歴史に対してレクイエムを捧げましょう。



そして堤未果さんの著作をいくつか読み直してください。
 「貧困大国アメリカ」
 「貧困大国アメリカⅡ」


今度読み返すのは、アメリカを知るためではない、明日の日本を知るためです。

または、(わたしもまだ読んでいないのですが)内橋克人さんによる、
 「ラテン・アメリカは警告する」 ¥2600(税別)…ちょっと高いですが。




TPPは笑いごとじゃない。アメリカが日本を市場に狙いを定めた協定です。アメリカは決してうやむやにはしない。やる、と言ったら徹底的にやる。

病気をするな、苦しみぬいて死ぬことになりますよ。




国賊民主党。わたしは許さない。決して。



















自衛隊、立ち上がってくれないか、クーデターのために…。
…無理か… 

 

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TPPを糺す:日本の政府という売国奴--どこまで国民を犠牲にするのか

2011年10月12日 | 「世界」を読む

 

 


オーストラリアはTPP参加国ですが、「オーストラリア公正貿易・投資ネットワーク」という団体がTPP批判を大きく打ちあげました。この団体は、人権・労働者の権利保護、環境の持続可能性を護る公正な貿易を支持し、すべての国々との公正な貿易関係を築くことを求めてきています。この団体の議長パット・ラナドルさんが、「消費者を保護する政府の能力を、TPPが危うくする」と主張して強い懸念を表明しました。

 


(以下引用文)------------------

 


具体的な事例でいうと、アメリカの企業団体がいまも医療品の利益を拡大するために規制の変更を求め、オーストラリアの医療品価格規制に反対していることです。あるいは、(アメリカの企業団体が)食品への遺伝子組み換えを表示するラベルの中止を求めていることです。また(アメリカの企業団体が)オーストラリアにおける映画やTVなどのコンテンツへの規制を、(アメリカのそれにあわせて)さらに弱めるよう強く求め続けていることです。アメリカが、これらのオーストラリア政府の規制を「貿易障壁だ」と言って緩和あるいは撤廃を要求し続けることに、「オーストラリア公正貿易・投資ネットワーク」は批判し続けています。


この団体はまた、TPPが企業にもたらすことになるかもしれない「新たな権利」に警戒を強めています。この「権利」というのは、企業の投資に不利益を与えるような規制を政府がおこなった場合、これを訴えることができる、というものです。これには具体的な先例があります。アメリカがカナダとメキシコと結んだ北米自由貿易協定=NAFTAです。この協定にはその「新たな権利」と同じ規定が定められていて、(カナダ、メキシコ国内の)建築規制、認可や有害廃棄物禁止などの、日本にもあるふつうの基本的な規制があったのですが、(アメリカが)企業活動に邪魔だと文句をつけて規制を撤廃させたり、弱体化させたりしています。そのうえ、この訴訟の費用や賠償についても税金が使われたといいますから、国民から批判が起こるのも当然でしょう。


というわけで、オーストラリアのこの団体は、「TPPはわれわれが(現在結ばれている)アメリカ=オーストラリア自由貿易協定から除外したすべての問題をふたたび交渉のテーブルに持ち出されることになる」ので批判を強めているのです。オーストラリア公正貿易・投資ネットワークは以上のような経験を踏まえて、TPP交渉にあたっては、次のような原則が盛り込まれるよう政府に要求しています。


1.
医療品の卸売価格を引き上げ、手の届く価格の医療品の入手可能性を縮小するような医療品給付制度のさらなる変更は行わない。

2.
被害について政府を相手にして訴訟を起こすことのできる特権を多国籍企業に与えることになる投資家・政府間の紛争解決手続きは導入しない。

3.
遺伝子組み換え食品の表示を義務づけ、遺伝子組み換え作物の規制のための(オーストラリアの側の)全面的権利を保障する。

4.
オーストラリアのコンテンツのための視聴覚メディアへの規制をおこなうオーストラリア政府の権限をこれ以上縮小しない。

5.
外国投資検討委員会と、公益分野への外交的投資を監視する(オーストラリアの側の)権限の維持。

6.
(オーストラリアの)検疫規制の弱体化を行わない。

7.
政府購入での現地調達要件と現地雇用を支援する産業政策を有する(オーストラリアの)能力を縮小しない。

8.
調印国に対してILO条約における中核的ILO基準の実施を求め、その違反には貿易上の罰則を持つ強力な労働条項を維持すること。

9.
調印国に対して、国連環境協定に含まれる基準を含むすべての適用可能な国際環境基準の遵守を求め、その違反には貿易上の罰則を持つ強力な環境条項を設ける。

 

これらはどれをとっても、国民の生活や安全を考えれば当たり前のことですが、どれをとってもTPPとは相いれない原則ばかりです。日本でのTPP反対運動にも参考になるでしょう。

 

 

 


「TPPターゲット」・アメリカの目論見と日本の進むべき道/ 佐藤洋・著

------------------(引用終わり)

 


これをみれば、オーストラリアでは医療品の価格が高騰するような医療品給付制度の、オーストラリア政府の権限と、手の届く医療品価格で生存を護りたい国民の権利が実際に脅かされている現状がうかがえます。

わたしがTPPに大反対なのは、この医療分野での市場化のもたらす恐怖があるからです。みなさん、マイケル・ムーア監督の「シッコ(SICKO)」という映画をご覧になったでしょうか。アメリカ国内の非情な医療事情を正直に報告した記録映画です。医療費が高騰し、まともな医療を受けられないアメリカ国民。支払いが滞ったため、病院が患者を教会か何かの慈善施設の前に放棄する場面には背筋が凍りつきました。


堤未果さんの名著「ルポ・貧困大国アメリカ」でも、アメリカ中間層の没落の大きな原因として、高騰する医療費の問題が挙げられていました。その本の第3章で取り上げられています。
「八十年代以降、新自由主義の流れが主流になるにつれて、アメリカの公的医療も徐々に縮小されていった。公的医療が膨らむほど、大企業の負担する保険料が増えるからだ。そのため政府は『自己責任』という言葉の下に国民の自己負担率を拡大させ、『自由診療』という保険外医療を増やしていった。
 自己負担が増えて医療費が家計を圧迫し始めると、民間の医療保険に入る国民が増えてゆき、保険会社の市場は拡大して利益は上昇してゆく。保険外医療が拡大したことで製薬会社や医療機器の会社も儲かり始め、医療改革は大企業を潤わせ、経済を活性化するという政府の目的にそっていたかのようにみえた。
 だが、国民の『いのち』に対しての国の責任を縮小し、『民間』に運営させることは、取り返しのつかない『医療格差』を生み出していったのだった」…
…という荘重な文章からはじまる章です。


その後、大統領がオバマさんに代わって、オバマさんは公的医療の再建を公約し、作業に取り掛かりましたが、国民皆保険制度はみごとに挫折しました。結局保険会社や負担増を嫌うメジャー企業の圧力は打破できなかったのです。わたしがショックだったのは、国民自身が容易に企業サイドの扇動に乗ったことです。それは自分たちの首を絞めることになるのに。堤さんが「もやい」の湯浅さんとの対談で言われていたんですが、アメリカには日本で多く出版されている新書や文庫本などの小型本がないのだそうです。本といえば、ペーパーバックの物語・小説モノか、ハードカバーで長い序文や推薦のことばのついた豪華本なのだそうです。アメリカ国民はもっぱらTVで情報を得、TV情報に基づいた考察をおこなうのだそうです。だから企業に負担が及ぶ政策を、それも国民の生命・生存を守る政策を、「社会主義」だというレッテルによって、その通りに解釈して反対運動を起こすのです。


TVや大手新聞などは企業の広告費で食っているギョーカイですから、情報の受け手である一般人の利益よりも企業の利益のほうに偏ります。日本の新聞・TVと同じです。その点、日本は有利です。企業サイドに偏りなく情報が得られます。新書や文庫本、薄手のブックレットなどで、メディアの宣伝によって知らされない政策の真意などが安価に知ることができるからです。この有利な状況を無駄にしてはならない。新聞やTVの提供する加工脚色された「現実」なるものに惑わされないようにしましょう。そのブックレットのひとつに日本医師会のTPPについての懸念が掲載されました。

 

 

(以下引用文)------------------

 

■規制制度改革、総合特区、そしてTPPへの参加が日本の医療のもたらすこと

日本では国民皆保険のもと、いつでも、どこでも、誰でも同じ医療を受けられます。しかし最近、国民皆保険をくつがえす意見が出てきました。医療は、国が責任を負うべき社会保障です。しかし政府が、医療を成長産業と位置づけてから、営利を追求する意見や動きが目立ってきました。

…(中略)…

話題のTPPも、医療にとっては大きな問題です。

政府2010年11月閣議決定「包括的経済連携に関する基本方針」によれば、「国を開き、海外の優れた経営資源を取り込むための規制改革」が提案されています。これは日本の病院が外資系になる可能性を持つものです。

日本の医療は国民すべてが加入する公的医療保険によって公平に提供されています。日本の公的医療保険では、治療費などは診療報酬で決まっており、営利を目的とする企業や、高額報酬をめざす人材(カネがほしい医者たち)には魅力がありません。アメリカ流の病院経営は、公的医療保険ではなく、高額の自由診療を行うようになる。おカネがなければ高額の自由診療を受けられない。高額自由診療の病院が増えれば、そのなかで淘汰が起こる。また、病院は自由診療でよいということになると、国は公的医療保険の診療報酬を引き上げない。公的医療保険で診療していた地方の病院などが立ち行かなくなる。それが国民皆保険制度を崩壊に導く。

 

▽なぜ医療機関は営利を追求してはならないか

公的医療保険の日本では、医療法人の利益は、地域の医療をよりよくするため、再投資(設備や人材に投資すること)に回されます。一方、株式会社は、再投資のための原資に加えて、株主に配当するための利益が必要です。しかし、公的医療保険下の診療報酬では大きな利益が出ません。株式会社は配当を確保したうえで医療法人と同じように再投資(上記に同じ)をしようとして、無理なコスト削減や、ムダな検査を行う怖れがあります。

株式会社が医療に参入して、公的医療保険で決まっている診療報酬という収入の中から、再投資だけでなく、配当のための利益も生み出そうとすると、
① コスト削減を優先するあまり安全性が犠牲になる。
② 不採算部門、不採算地域、あげく病院経営そのものから簡単に撤退する。
③ 優良顧客(=患者のこと)を選別する(低収入層は排除されるということ)。

ここまでしても、なかなか株主の要求にこたえる配当をすることはできません。株式会社の病院は「高い自由価格で医療を提供することを認めるべきだ」という主張をするようになるでしょう。それが現実のものとなると、おカネがなければ医療を受けられない日本になってしまいます。

 

 

「TPPと日本の論点」/ 農文協・編

------------------(引用終わり)

 

日本医師会もアメリカ型自由医療に強い警戒を持っているということです。ところが、2011年10月14日付の毎日新聞(大阪版)で、こんなニュースが報道されていました。

 

(以下引用文)------------------

 

TPP:政府が問答集で説明へ「安全でない食品流入せず」
 
 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉への参加問題で、政府がまとめた「問答集」の原案が13日、明らかになった。野田佳彦首相は11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で交渉参加を表明したい考えだが、TPPへの反対論は根強く、与党内の調整すら難航している。政府は、医療や食品の分野などでの「誤解」が反対論の広がりにつながっているとみて、問答集を国民の理解を得るための説明資料として活用する。

 「TPP協定に関する誤解の例」と題した原案は11日に首相官邸で開かれた「経済連携に関する閣僚会合」で、閣僚に配られた。
(1)食品安全
(2)医療・保険
(3)外国人専門家
(4)労働市場
 --の4分野について、交渉参加国から外務省が情報収集してまとめた。

 食品安全分野では「安いが安全でない食品の輸入が増える」との懸念に対し、「食品安全に関する措置はWTO(世界貿易機関)の協定があり、協定で認められた権利を妨げる提案は受け入れない」と断言した。

 牛肉の輸入規制や遺伝子組み換え食品の表示ルールについては「現状は議論されていないが、今後提起される可能性も排除されない」と認めた。ただ「ある国のルールを変更するよう他国から一方的に求められることは想定しがたい」と理解を求めている。

 外国人労働者が大量流入するとの指摘には「一般にFTA(自由貿易協定)ではビジネスマンの商談目的の短期滞在、技術者など専門家の移動などを規定している」と解説。「単純労働者の流入が容易になる事態は考えられない」とした。

 政府は、交渉参加に反対している全国農業協同組合中央会(JA全中)や日本医師会などの業界団体向けの説明資料を原案をもとに作成する。ただ、原案では「(食品安全の)権利を妨げる提案は受け入れない」など、他国の要求を日本が拒めることを前提にした答えも目立つ。反対派からは「日本がそれだけの交渉力を発揮できるのか」との疑問も出てきそうだ。【小山由宇】

 

 

毎日新聞 2011年10月14日 2時30分

------------------(引用終わり)

 

少なくともオーストラリアの例を見るだけでも、上記の資料はごまかしであることは明らかです。オーストラリアのTPP批判団体の要求には食品の安全にかかわるものがあり、医療品の高騰を防ぎたい要求もありました。つまり、現実にアメリカとの自由貿易協定を結んだ国でそういう脅威があるということです。しかもTPPはFTAなどよりも「高い水準の」自由貿易協定なのです。あらゆる関税を撤廃するという性質のものであり、しかもそこにはアメリカの強い意志があるのです。

 

 

(以下引用文)------------------

 

2010年12月、ニュージーランド(以下 NZ と略)のオークランドで九か国が参加したTPPの拡大交渉会合が開かれました。ところがここで思わぬ事態が起きました。日本政府が、情報収集の好機とばかりに、この会合にオブザーバー参加で傍聴を求めたのに、拒否されたのです。2010年のAPEC議長国日本と2011年の議長国アメリカでタッグを組んでTPPを推進するような鼻息だったのに、日本にしてみれば「えっ??」「話が違うじゃないか!!」という感じです。オブザーバー参加を拒否された日本政府はやむなく、九か国を、一か国ずつ担当者を訪ね、情報をもらうということになりました。

実は、交渉会合への参加を断られたのは、日本が初めてではありません。カナダ政府がTPPへの参加方針を決めて申し込んだところ、アメリカに断られたというのです。理由は、カナダがアメリカやメキシコといっしょに、1992年12月(94年1月発効)に結んだNAFTA(北米自由貿易協定)でチーズと家禽類の肉を、貿易自由化の対象から外すという「例外」をカナダが設けていたことでした。これが問題とされて拒否されたのです。

アメリカはTPPへの参加を望むカナダに対して、「ならば、あの例外品目を自由化の対象とする決定を下すか」と問いただし、「その決定がない限り、TPPの交渉への参加を許さない」という意思をあらわにしたのです。カナダはこのことを理由にTPP参加を取りやめました。

この話を聞けば、アメリカの腹は、「日本もTPPに参加したいなら、一切の品目の自由化を認め、例外をいっさい認めないという決定を必ず下せ」というアメリカの意思表示であるということです。

 


2011年1月20日づけの外務省など四省連名の情報収集結果には、交渉への新規参加の条件について、次のようなことも述べていました。

「新規参加にはすべての交渉国の同意が必要であり、そのためには新規参加希望国がTPPのめざす高い水準の自由化交渉に真剣に取り組む容易があるという信頼を全交渉国から得る必要がある。
…なお、米国は、新規参加を認めるためには、米国議会の同意を取り付けることが必要とする」。

これは日本に、例外なき自由化の姿勢を鮮明にせよ、交渉国にそれを固く約束せよ、というメッセージにほかなりません。しかも自分の国の参加を自分の国の議会の承認を得るというなら当たり前ですが、日本の参加にアメリカ議会の承認が必要、というのです。

 

 


「TPPターゲット」/ 佐藤進・著

------------------(引用終わり)

 


よろしいですか、これは外務省をも含めた省庁の調査結果です。先の1毎日新聞が報道した、外務省の「誤解を解く」ためのパンフと比べてみてください。閣僚に配布されたパンフでは、日本のイニシアチブのもとに交渉が進められるかのような印象を与えられますが、共産党の佐藤さんのブックレットでは、アメリカの議会の承認と、参加諸国家の信頼を得る必要があるというのです。つまり、日本が独自の主張を通す余地はないのです。それどころか、日本が完全降伏する意思がないなら、オブザーバー参加をさえ断られるのです。誰によって? アメリカです。このことからして、TPP協定がアメリカ主導のものであることは明らかです。


しかも、そこまで他国に完全自由化を迫るアメリカが、オーストラリアとのFTAでは、アメリカの砂糖と乳製品を例外品目に定めており、TPPが進められている現在もその関税の撤廃を言明していません。これがアメリカの本性です。これがTPPの正体です。上記毎日新聞の記事を見ると、外務省はあきらかに本当のことを隠している。上記の閣僚向けのパンフでは、医療分野での、営利企業の参入などは議論の対象外、とされているのですが、TPPがいっさいの「例外なき」規制関税撤廃協定である以上、やがて議論のテーブルに乗せられるのは時間の問題であり、現実にオーストラリアでは医療品目へのアメリカ企業による自由化の介入により、「手の届く価格」が脅威にさらされているのです。しかもアメリカは、日本に嫌とは言わせない約束をさせたうえでしか、日本のTPP参加を認めない方針なのです。弱腰外交の教科書のような日本の政府に、オーストラリアの市民団体のような人間の生存と尊厳をかけた主張ができるでしょうか、毎日新聞で報道されたようなパンフを作成するようなうそつき外務省に。


わたしは外務省があんなパンフを作成したことに情けなさを感じます。日本の国民をよくもまあこんなに平然と無慈悲な外国企業に売り渡せるものだと。右翼は何をしているんだ、あいつらこそ真に売国奴じゃないですか。どうしてあいつらに抗議しないんだ。


もう時間がありませんので、TPP問題についてはつづけて書いてゆきます。この問題が一人でも多くの人の心に届きますように。教育基本法強行改訂の前例があり、日本の議会制民主主義の信頼は失われているので、わたしはTPP参加が同様な仕方で決定させられるのではないかと恐怖を抱いています。官僚の述べる楽観論はほぼ必ず悪い結果になる、ということは原発震災がわたしたちに手痛い仕方で知らせたのです。外務省のパンフなどどうか鵜呑みにされませんように。

 

(急いで書いたので、変換ミスによる誤字にはみな様のお知恵によって解読してやってください)






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「島田紳助的なもの」を超克してゆこう!

2011年10月10日 | 「世界」を読む




ごぶさたしております。

最近はヤフーブログのほうで主に書いておりましたが、こちらのほうも再開してゆこうと思い立ち、ヤフーのほうでも書いた記事を転載エントリーします。




(以下引用文)---------------------------


島田紳助氏の引退騒動では反社会的集団との関係に話題が集中した。しかしわたしは、彼が表象する価値観とそれに魅かれる人々が多くいるという状況こそ批評されるべきだと思う。


島田氏は今年の二月に『島田紳助・100の言葉』(ヨシモトブックス)という本を出版している。この本は30万部を超えるベストセラーとなり、多くの読者を獲得した。

ここで島田氏は「勝つこと」へのこだわりを表明し、勝つための方法を身につけるべきだと強調する。しかし島田氏の考えでは、成功する人間は先天的な才能に依拠しており、勝つか負けるかはあらかじめ決定されている。彼は「生まれ変わり」を信じ、才能は前世に規定されているという。これはまさに、スピリチュアルな優生思想だ。

島田氏の価値観は、「心と心でつながる透明な共同体」の希求へと発展する。彼は同じ価値観を共有する人間同士の純粋な絆関係を重視する。そして、その共同体に加わる条件は「私(島田氏のこと)を大好きであること」だという。

この自己愛に基づく同質的な連帯意識こそが「ヘキサゴン・ファミリー」の共同性であり、「知識はないけれど、心がピュアで情熱的」であることを強調する「おバカブーム」へとつながった。

しかし、一方で島田氏は自らの価値観と合致しない人間に対しては、非常な態度を貫く。彼は(上記図書のなかで)「ほとんどの人間は別にいなくてもいい人間です」と言い、「私の人格は、相手によって決めることにしています」と公言する。

このような、価値観を共有しない人間への排他的姿勢が、吉本興業女性社員への暴行事件や、若手タレントへの暴言騒動につながったのだろう。島田氏の志向する「絆」は、分かちえない他者への暴力的排除と表裏一体のものといえる。

さらに、彼の価値観は格差社会への肯定的な評価へとつながる。彼は「格差社会はしようがない」と公言し、松本人志氏との対談本では、低賃金で保険の費用もかからないフリーターがいてくれて助かっていると述べている。

新自由主義的な価値観と同質的で排他的な共同性の希求との共存。島田氏が芸能界から引退することよりも、「島田紳助的なるもの」を批判的に乗り越えることこそ、現代社会の課題である。
 
 





「島田紳助的なるものへの違和感」/ 中島岳志・著/ 「週刊金曜日」2011-10-07号より



こちらのブログもぜひご覧ください。


---------------------------(引用終わり)
 



島田紳助さんの引退の際に、吉本の人だったか、別の芸能評論家だったか、そういう関係の人が、「彼のギャグには弱者を叩く危うさがあって、個人的に気がかりだった」というようなコメントを読んだことがある。


もともと芸能界の「掟」というか、「風習」というか、あの価値観にはどうも嫌悪感しか感じなかった。とくに「お笑いの世界」の雰囲気には。厳格な上下関係には、芸の世界のありようとしてギリギリ容認するとしよう。だが、その上下関係を利用してパワハラを公然と認めてしまうようなあの雰囲気が嫌いだった。親分的な人に追従的な卑屈な態度を公然とTV放映の中で見せつけることにも嫌悪を覚えるし、その「親分」的な人の、自分の親分的な自意識におぼれた傲慢さにも嫌悪が走る。


彼らはファンに愛想よくしない。むしろ公然と見下し、上から目線でファンを見下ろす。そうなるのは、TV芸能人は収入を得るのにファンに依存していないからだ。彼らはスポンサーから収入を得るのであり、スポンサーは視聴率の取れるタレントを使いたがる。多くの人々にCMを見てもらうためだ。そんな彼ら、お高くとまる芸能人たちが「格差社会」ということばで表現されている、「新しいカースト制度」ともいうべき身分差別社会の中の、弱者の立場にいる人々の犠牲を肯定するのも当然といえば当然なんだろう。「新しいカースト制度」「身分差別社会」という表現を使ったのは、現在の「格差社会」における格差はきわめて固定的で、「一度滑り落ちたらもう二度と浮かび上がれない(湯浅誠氏)」という実情だからだ。こういう実情における「下層階級」を背面にして暮らしているのがわたしたち夫婦なので、見下され、犠牲にされ、というような態度には現実的な嫌悪を感じるのだ。


だが、島田さんの書く本は売れていて、彼を、崇拝とは言えないまでも導き手として仰ぐ人々がいる、ということに危機を覚えるし、恐怖をも感じる。それは「その他おおぜい」を犠牲にして「自分さえよければそれでいい」という社会のありようをまったく肯定する態度であるからだ。他者を踏みつけにしていいから自分さえ生きれればいいという思考は、「大日本帝国」のアジア周辺諸国への搾取的侵略を実行させていったのだった。そういう認識を批判し反省したうえで受け入れたのが日本国憲法だった。憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に追放しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳われている。


だが、戦後の日本は「専制と隷従、圧迫と偏狭」の原理によって経済成長を遂げてきた。その絶頂が1980年代後半のバブル景気であり、バブル崩壊後の格差社会の成長も、隷従と圧迫のもとに生涯追いやられる階層の犠牲の上に遂げられたものだった。明日の暮らしを立ててゆけない恐怖と欠乏が多くの人々を圧迫しているのだ。こういう階層を作り上げたのが労働者派遣法であり、自己中心的な企業倫理の浸透であり、それを助長させてきたのが芸能界だった。労働者の犠牲の上に製造されて、売り出されるにいたった製品の宣伝のために利用されてきたのがTV芸能人であり、ふつうの労働者が何十年働いてやっと届くような収入、いや何十年働いても手にすることのできない収入が、彼らには支払われるのだ。しかもその宣伝費はみな、製品の価格の中に含まれている。商品を買うわたしたちはそのたび、宣伝に使われている芸能人の超高額のギャラを支払っているのだ。


こんな世の中ではたしかにまじめにコツコツ働こうという人が少なくなるのも無理はないのかもしれない。芸能人のように “イッパツヒット” に賭けて、億単位の貯蓄を夢見るのも無理はないのかもしれない。だからこそ、わたしたちはそんな不公正な社会のありようを変えてゆかなければならない。というのは、そのような不公正な社会のありようは、結局社会全体の自滅に至るからです。わたしたち日本人はアジア太平洋戦争においていちど壊滅という結末を経験したのです。それは自分さえ良ければ他者を蹂躙しても構わないという思考がもたらした結末だったのです。人間はみんながうまくおさまらなければ生きてゆけない存在なのです。暴走する自由至上主義も、それにフリーライドする「島田紳助的なもの」も、人間の存在についての基本原理を忘れている。いや、軽蔑さえしている。


ある経済学者は、経済学は思想など語るべきではない、と聞こえるような発言をすらしています。中谷巌さんの、例の懺悔本に対する評のなかでです。ただその学者さんは学会のなかでもあまり認められていない人のようですが。経済学はもともと人文科学の一分野だった。でも、ITの進歩の結果、金融が工学的モデルで説明されるようになったために、もはや経済学は人文科学を離れ、社会科学からも逸脱し、ただの工学になってしまった。工学であるならたしかに思想など語る必要はないのだろう。だが、工学の理論は十分な検証なしに、人間の暮らしを左右する政策に、性急に盛り込んでよいものだろうか。政策に盛り込むのなら、そこには思想による吟味が必要なのではないか。国民全体の暮らしを守るのが政治の役目だ。一部の公権力の様相を帯びた国民層の利益だけを守り、国民のほかの層は切り捨てるというような政策を実行しようというならそれは徹底的に戦って、わたしたちの暮らしを、そう「命」そのものを守るべきだ。





(以下引用文)---------------------------



アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と定義した。


人間は社会を形成してさまざまな仕事を分業し、協力しあうことによってめて安全に豊かに生活することができる。アリストテレスは、社会から孤立して存在できるものは神か森の獣だけであると述べた。


神は全能であるから他者の助けを必要とせず、獣もまた本能にしたがって森で一匹で生きてゆける。しかし、人間は常に他者と助け合いながら生きていく存在である。そのような社会的存在としての人間に必要不可欠な「徳」(=倫理観、と言い換えてもいいと思う、個人的に…)として、正義と友愛が大切でなのである。


正義と友愛は個々人の「魂」(=心、精神、人格、と言い換えられると思う、個人的な感想だが…)に教育によって培われなければならない。アリストテレスは、そのようにして「魂」に「徳」の全体が備わることが達成されて、正しい状態になることを全体的正義と呼び多くの「徳」のなかのひとつとしての部分的正義と区別した。さらに部分的正義は、その人の功績や能力に応じて報酬を正しく配分する配分的正義(比例的正義)と、罪をおかした人を罰し、被害者を補償して」、各人の利害が平等になるように調整する調整的正義(矯正的正義)に分類した。






「もういちど読む山川・倫理」/ 小寺聡・編


---------------------------(引用終わり)



人間はひとり、あるいは少数では生きてゆけない存在です。全能ではないからです。そして社会を形成して、分業によって生産し、正義によって生産品を配分してゆかなければ誰ひとり生き続けることはできないのです。暴走する自由市場経済のイデオロギーは、おそらく莫大な富を自分自身に集めることができたがために、自分は全能であるという思念に囚われてしまったのだろう。なんでも買うことができる→なんでも手に入れることができる、というふうに思うようになったのだろう。なんでも手に入れることができるから、自分は全能だ、と。それゆえ、自分が生きているのは、名も知らぬおおぜいの人間たちの協力があるからだ、ということに考えが及ばなくなってしまったのだろう。


だとすればそういう思念は知力の劣化であり、アリストテレスが言ったとされる「徳」の萎縮消失が原因だと推測される。傲慢・おごりと呼ばれる精神状態は知性と品性の劣化の症状だと考えられる。劣った性質は悪い症状や結果を生み出す。新自由主義のイデオロギーも、それを是とする「島田紳助的なもの」も、人間の知性と徳の劣化による症状であるとわたしは言いたい。



だからこそわたしたちは、「島田紳助的なもの」を超克してゆかなければならない。わたしたちはTVの送り出す映像にコントロールされてしまってはならない。それは人間の意識に強力に働きかけるプロパガンダですが、わたしたちは意志によってそれを除染することができるのです。プロパガンダによる宣伝=洗脳=マインドコントロール・ウィルスをガードすることは可能なのです。


芸能界にあこがれて、「島田紳助的なもの」を容認してはならない。「島田紳助的なもの」こそ、今現在の社会の閉塞を生み出した張本人だからです。なぜならそれは人間性の劣化、知力と徳の劣化の表れであるからです。知力と徳の劣化とは、人間は社会的存在であるゆえに、ひとりでは生きてゆくことができない、だから社会を形成して、互いに協力し合ってでなければ豊かに安全に暮らしてゆけない、だからこそ「社会正義」なるものが必要不可欠である、という基礎的原理を嘲笑するような態度であるからなのです。


だからこそ、そのようなもの、「島田紳助的なもの」、新自由主義と呼称されてきた、社会という結びつきを解体し、社会正義とみなされてきた価値観を廃棄しようとする、暴走する自由市場経済思想を、太古の昔にアリストテレスが「正義」ということばで定義したものによって、わたしたちは矯正してゆかなければならない。太古の昔に定義された「正義」というものによって、自由をはき違えて暴走する市場主義経済体制を「調整」してゆかなければならない。それが「島田紳助的なもの」を超克する、ということなのです。





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