Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

エホバの証人問題のひと区切り

2008年04月08日 | エホバの証人のこと、宗教の話

 

 

 

 

 

エホバの証人問題の最終回として、最後にこの記事をご紹介します。

 

 


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「時間は何も解決してくれない」-悲嘆する人に寄り添う:「安易な励まし」自問

 誰しも必ずいつかは死ぬ。多くは大切な人を亡くす経験もするだろう。しかし、その悲しみは一様ではなく、深い悲嘆からすぐに立ち直れる場合もあれば、時間がたっても日常生活さえ困難なほどに苦しむ人もいる。そのような人に対して、どう接したらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか。「悲嘆」に向き合うことが宿命づけられた記者の一人として、ある講座の扉をたたいた。

 JR福知山線脱線事故の現場に近い聖トマス大(兵庫県尼崎市)で昨年10月から公開講座「『悲嘆』について学ぶ~愛する人をなくすということ」(3期1年半)が開かれている。JR西日本が費用を賄う寄付講座で、講師は末期がん患者や震災被災者の心のケアに当たる精神科医、宗教者、死別体験者らが務める。

 受講者約300人の中には同脱線事故の被害者の遺族が数十人いる一方、個人資格で登録したJR西日本の幹部らも交じる。「生と死を考える会全国協議会」会長で、この講座のコーディネーターを務める高木慶子・同大客員教授から「記事で死を扱う新聞記者にこそ学んでほしい」と勧められた。私はこの半年、取材時間を融通しながら第1期15回のうち9回を受講した(第2期は既に締め切り)。

 「とりあえず初回ぐらいは」のつもりだった私が途中で投げ出さなかったのは、講師の柏木哲夫・金城学院大学長が使った「安易な励まし」という言葉に引っかかったからだ。

 若い時、死を間際にした患者に「弱音をはきたかった時、先生に『もっと頑張りましょう』と言われ、二の句が継げず、やるせなくなった」と告げられた経験談に出てきた。遺言と受け止め、後にホスピス医として2500人をみとった柏木学長はこう語る。「弱音をはきたい時には、はき切ってもらう。死の恐怖におびえている時には、取り去ろうとするのでなく、恐れる気持ちに耳を傾けることが大切。励ましは時に心を傷付ける」

 柏木学長は悲嘆から立ち直るまでの12段階のプロセスも紹介した。身近な人の死後、最初に現れるのはショックによる現実感覚のまひ。続いて「何かの間違いだ」という否認。パニック、敵意、自責の念などと続き、抑うつ状態や無感動状態の末に死を受け入れ、立ち直る、というものだ。

 受講した脱線事故の遺族には、こうしたプロセスを経験した人も多く、大学には「自分の精神状態が理解できず戸惑っていたが、立ち直りへの道筋なのだと分かり、安心した」との声が寄せられているという。



  ×  ×  ×

 癒えない死別の悲しみを語る有名人も私の心をとらえた。昨年1月17日に交通事故で長女えみるちゃん(当時10歳)を亡くしたタレントの風見しんごさん(45)だ。風見さんは一周忌に合わせて、家族の思い出や事故の記憶をまとめた「えみるの赤いランドセル」(青志社)を出版した。交通安全を訴える講演活動も行う。

 「娘を奪われた悲しみは、この立場に立たされた者にしか分からない。それを広く伝えるのが芸能人である私の天命」と、取材の申し出に快く応じてくれた。

 えみるちゃんは学校へと家を出た直後、青信号で渡っていた近くの横断歩道でトラックにひかれた。風見さんが駆けつけた時もまだトラックの下だった。普通では考えられない向きにへしゃげた両足。内出血で腫れ上がった顔。瞳の中まで血で真っ赤になった目。「地獄とはあのことです」。風見さんは今も日に一、二度、その時の記憶が突然よみがえるフラッシュバックに襲われるが、「悲惨な現実を知ってもらうため」と、講演などでは忌まわしい記憶を包み隠さずに語る。

 「3カ月たてば、この程度は立ち直っているはず」「1年たてば、もう忘れられるだろう」。他人の勝手な想像を感じることもあるが、間違いだ。事故後しばらくは現実を受け止め切れず、「奇跡が起きて、ある日ひょっこり帰ってくるかも」と本気で考えていた。しかし、時間の経過とともに現実を受け入れざるを得なくなる。ただ、それは立ち直りを意味するものではない。「えみるは本当にもういないんだ」。その思いが逆に悲しみを倍加させる。「時間は何も解決してくれない。それが実感です」--。

 現在の風見さんは「寝ている時も芝居をしている時も24時間えみる用のアンテナを頭に立てて、天国からの声に耳を澄ませている」。彼女の人生が残したメッセージを理解することが、いつか天国で再会するための絶対条件と信じて。



  ×  ×  ×

 私は新聞記者としてこれまで取材や記事を通じて「安易な励まし」をしていなかったかと自問しながら受講を続けた。

 第1期を終え、たどり着いたのは「寄り添うこと」の大切さだった。柏木学長は「同じ体験がなければ『あなたの気持ちがよく分かる』とは言えないが、『つらいでしょうね』とは言える。それが癒やしにつながる」と話した。

 作家の柳田邦男さんは「二・五人称の視点」という言葉を使った。「他人の死」である三人称の視点は平等・冷静を保つために大事だが、身近な人を亡くす「二人称の死」の苦しみを理解する努力も重要ではないかと。

 第2期の講座開始を前に高木客員教授から私は「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」とくぎを刺された。




毎日新聞 2008年4月2日 大阪朝刊


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わたしは多くの元エホバの証人が言うほどJWICの管理人さんに親しみを感じません。むさぼって読んでいたころもそうだし、今もそうです。それは何となく言葉の端々に私たちへのさげすみと、アメリカ社会流の学歴偏重の価値観を感じ取ったからです。「しょせんあの人は外部の人だ。それもアメリカの富裕層流の考え方に近い人だ」ということをひしひしと感じたのです。

元エホバの証人系のHPに付属していた掲示板でも、苦しみを吐き出す人へのさげすみと攻撃的傾向に嫌悪を覚えたことも多いです。とくに元2世となると、アダチル度が高いので、いい子でいたがったり、感情の濃密な吐露に過敏に反応したりする人、場をコントロールしようとする人、道徳や常識でかためた正論で乱暴な書き込みをする人を即攻撃したりする人が多いのもしょうがないといえばしょうがないのですが…。

ただそういう人たちが、自分はすでに達観しているようにふるまっていることには今でも我慢なりません。はっきりいえばこういう人たちこそウツ思考なのであり、鬱的であるというのはつまり思考が硬直しており、スキーマに完全に捉われているからです。でもそのころのわたしには反論する術を持たなかったため、いわれっぱなしでスゴスゴ「正論」のまえに敗退した書き込みした人と同じ立場にいました。

その後、精神医学や心理学のちょっと本格っぽい本を読み続けてゆくに連れ、反論する手がかりも少しずつふやすことができました。今なら、JWICの管理人さんにだってさえ正面から抗議する勇気もあります。もちろん掲示板の「偽教師」、「偽達観者」たちならどこまでもしつこく食い下がってやれます。でも時代は変わり、掲示板よりももっと個人的なブログの時代になりました。

ブログでは自分の独裁が利いて、自分にとって都合の悪い意見や反論を強制的に削除できます。でもそうすることがすでにその人の未熟さ、病的ナルシズムを雄弁に物語っているのです。少なくともわたしのブログではそんなことはしません。わいせつ系のコメントでも、それはその人なりの自己表現の仕方だろうと思うので、連続しない限りそのままにしています。

目を日本の社会に向けると、やはり弱った立場に落ち込んだ人へはバッシングこそすれ、励ましたり寄り添うことはめったになされないのです。多くの精神科医は、日本人には国民的性質としてうつ思考性が観察される、という文章を書かれたり、またそのような談話をされます。が、多くの人は注目しません。

まるで日本は危急の事態に追われており、人間を道具のように使い捨ててでも、何かにキャッチアップしなければならないかのように、デッドレースをしているようです。それは戦時下の様相をさえ示しているのです。個々人の都合や事情などにかまけていられないのだ、というような雰囲気…。こういう面にわたしはエホバの証人社会に似たものを見いだします。

つまづいてゆく人々は、その人たち自身が欠陥者であり、つまづいた人の自己責任だと言わんばかりの、弱者バッシングと暴力(心理的な暴力と体罰)礼賛、勝利至上主義。手段はどうあれ勝ち残った者勝ちだという投げやりな思考。元2世の多くの人はこういう思考にどっぷり漬かっているように感じることがあります。日本の社会はエホバの証人社会と酷似しています。それは個々人の事情にきめ細かく対応してゆこうという民主主義的な思考を面倒がり、もっと短絡に、自我を延長する対象としての「国家」や「民族精神」、「宗教組織」への帰依を重視する態度であり、それはようするに他者の威光によって自分を大きく見せようとする、動物の防衛本能にも似た精神態度が共通しているように思える、という意味です。精神科医に言わせると、そういう態度は、自分というアイデンティティが未成熟なため=自分に自信が持てず、他の人々を信頼できず、自分のほんとうの願望も感情も分からない人の思考様式なのだそうですが。



もう自分のブログでエホバの証人のことに重点を置くことは少なくなると思いますので、いままで掲示板かどこかで、弱っている人(=わざと乱暴な言葉を書きなぐったり、猥褻なことを書きなぐる人など)を正論でバッシングし、死をさえ本気で見つめているような人を軽蔑をもって迎える人を返り討ちにしてやる機会もないでしょう。

ただ、最後に「強くて成功した」元エホバの証人2世たちに言いたいことは、「資格のあるカウンセラーでもなければ、医師でもないあなたたちはどれほど偉いの?」「それほど偉くないのなら、なぜ言葉じりや表面上の汚さを問題にして、『なぜあえてこんな書き込みをするのだろう』と掘り下げて考えようとしない自分たちの弱さ、卑怯さを問題にしないの?」「それは自分が逃げている自分自身の問題から目をそらすためでしょう?」etc...ということです。

弱っているときに弱音を吐いて何が悪いの? 弱音を吐いたり批判的になるなと言ったのは、あなたたちの親でしょう? エホバの証人の親でしょう? あなたたちは単にエホバの証人の親の教えを自動的に内面化しているだけでしょう? 内心ではそれを知っているのに、それから目をそらしたいだけなのでしょう? ただ単に親への感情を冷静になって断ち切れない自分の弱さを正当化したいだけでしょう?
 親があなたたちを自分自身の延長とみなしたように、あなたたちもいまだに親を自分の延長として密着しているだけなのです。 

あるいは単に、ネット上で自分の理想的な姿を “アバター” として描き出したいだけなのでしょう? 心理学や哲学の知識をかじった自分をひけらかしたいだけなのでしょう? それはだれかを低めることで自分を高めて、そうやって自分の価値を見いだそうとする行為です。エホバの証人のベテル出身者がよく取る行動です。あるいは、ネット上のそういう人たちに対して間接的に反抗するために、アダルトチルドレンをバッシングして見せたりするだけなのでしょう? 本人に直接言えないもんだから…。アダルトチルドレンであるわたしたちはほんとうに自分自身の未熟さに苦しんでいるのに、あなたたちの競争心のために利用されるのです、わたしたちは…。

そんなあなたたちに、わたしはこの記事を紹介したいのです。人を励ますということはどういうことか、人はほんとうに常識どおりに癒されてゆくものなのか。そもそも、人ひとりひとりの心のありようは、千差万別であり、何事も一般理論どおりに運ぶものではないのです。そういうあやふやさ、あいまいさ、グレーゾ-ンの存在に脅威を覚えるのです、あなたたちは。

ひとつひとつ個別に対応できないのです。自分に理解できない世界、自分とは異なる人の思考にあなたたちは脅威を覚えるのです。つまり、知力が弱いのです。どんな有名な大学を出ていてもね。東大出身者だって、まともな歴史評価ができない人がいるのです。それは自己評価の低さのためです。大日本という強固な偶像に頼らなければ自分を信じられないのです。そういう人たちは、ものごとはきれいに区別されていなければならない、善悪ははっきり見えていなければならないのです。中間の曖昧な部分というものの存在に脅威を覚えるのです。こういう人間心理の綾を、わたしはこのブログで暴いていって見せましょう。あなたたちがどんなに激しく反論しようと、どんなに正論を大上段から打ってみても、わたしはこう感じます。

「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」(高木慶子・聖トマス大学客員教授)

 

 

 

 

 

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ER エホバの証人バージョン 後記

2007年06月03日 | エホバの証人のこと、宗教の話
実際、宗教的生活というものは、それだけに熱中してしまうと、人間を奇人や変人にしてしまいがちなものであることは、疑う余地がない。

(「宗教的経験の諸相」/ ウィリアム・ジェイムズ・著)

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さて、長い長いエントリーでしたが、おつき合いして下さった方々はどう思われたでしょうか。

(上)のいちばん最後の書き込みで、このようにあります。

「先生は、この患者さんと無輸血承諾の覚え書きを交わしたのでしょうか??それとも、最大限の努力の最中であり、先日の高裁判決じゃあありませんが、最後は輸血の選択枝を留保されているのですか。
覚え書き(「医療上のお願い」と題する、エホバの証人が常時携帯する免責証書。輸血拒否を受け入れてくれるなら、その結果についての責任を医師に問わない、という内容)を交わされていないのなら、輸血すべきだと思いますがどうでしょう。僕なら輸血します。エホバへの僕の理解の浅さ故の意見です」。

医師たちから見れば、エホバの証人が一生懸命説明する輸血拒否の「医学的正当性」なるものは「エホバの僕の理解の浅さ」を露呈しているものにすぎません。エホバの証人は、聖書に書かれている字句をことごとく「真理」として解釈します。聖書は人間の造物主である神によって著された書物だから、「科学的批判にも堪えうる」ものである。現在時点の科学的見地からは陳腐に見えても、将来には科学的に聖書の見解の正しさは立証されるに違いない、だから輸血という医療を避けることは、道理にかなっているのだと、エホバの証人の信者は教え込まれるのです。

ですから、エホバの証人からすれば、「エホバの僕の理解は浅薄だ」という医師たちのほうが「浅薄」なのだというでしょう。科学はものごとのほんの一部分しか解明していないのに、つまり将来は見解が変わりうるのに、現在時点での科学的理解を患者に押しつけようとするのは自信過剰である、という理屈です。このように言うとき、エホバの証人は、自分たちが今、「まだまったく実証されていないこと=(自分たちの聖書解釈)」を「事実」と解釈して医療の現場に持ち込んでいる、という見方をまったく無視しています。それこそが「浅はかさ」の意味なのに。

この書き込みのひとつ上の書き込みには、「しかしこれらの保険外診療の分は誰が払うんだろう。本人の信教の自由と言っても治療を修飾させているのですからねえ」とあります。エホバの証人の輸血抜きの医療の選択は、病院に対し、医療制度に対し、また他の患者さんに対して多大の負担を強いるものになっているようです。この点は(中)に引用した部分に詳しく説明されています。

(中)の最後の書き込みです。



私見では、「エホバ」は市民全体の問題です。つまり、場合によっては「エホバ」患者の無輸血診療が、一般市民に不利益をもたらしている場合もあります。このことを医療従事者として、市民に周知させる必要があるのではないかと以前から考えていました。

どんな点かというと、

1.一般の手術患者へのしわ寄せが無視できない
2.高額な医療費が健康保険の負担となっている
3.本来必要がない輸血が必要になってしまう場合がある

の3点です。説明は本文をお読み下さい。元エホバの証人として言えば、エホバの証人の信者たちには、これらの問題点についてはまったく認識していません。知らされていないのです。たとえ知らされても、自分たちは神の命令に従っているに過ぎない、神は人間にとって何が最も大きな福祉をもたらすかを知っている、その神の命令に耳を傾けようとしない人間のほうに問題があるとまで言う人が多いことでしょう。

この書き込みには、エホバの証人の信者に正しく認識されていないだけでなく、一般の国民のみなさんにも正しく理解されていない重要な問題が指摘されています。次の点がそうです。



それと、裁判所の「絶対的無輸血治療に応ずるかどうかは、専ら医師の倫理観、生死観による。後記説明為務を負うことは格別として、医師はその良心に従って治療をすべきであり、患者が医師に対してその良心に反する治療方法を採ることを強制することはできない。」というのは、現場の医師にとって、とても「ありがたい」認識だと思いました。

ところで、この訴訟は上級審に行くんでしょうか?もしこれで確定、ということなら、一つ注意するべき事があります。それは、「エホバ」の人達が、この判例を「錦の御旗」にふりかざして、医療現場で無輸血手術を強要してくるだろうことです。つまり、判決の中身を無視して、「無輸血手術」を裁判所が容認した、という論法で迫ってくるのが目にみえるようです。彼らは横の連携が密なので、この判例を最大限利用すべく、組織的な対応をしてくることが予想されます。しかし、判決の中身は医師の裁量が十分認められたものであり、従来の治療方針を変えるものでないことはいうまでもありません。

しかし、インターネットで読んだ限りでは、新聞記事の趣旨は「エホバ」が勝った、というニュアンスであったように感じました。こういった記事のために、いつまでも「エホバ」のことが、一般市民からは「一部の宗教の信者だけの問題」という認識にとどまっていると思います。



90年代に下された輸血拒否裁判の判決結果が、「エホバの証人側の完全勝利」だというのは、エホバの証人たちにとっての一般的な受け止め方であり、それは「信仰の輝かしい勝利」とさえ理解されているのです。しかし、判決内容はむしろ、この書き込みをされた方がおっしゃっている通り、医師側に多大の配慮を示したものでした。 「医師はその良心に従って治療をすべきであり、患者が医師に対してその良心に反する治療方法を採ることを強制することはできない」 のです。

しかし、現実にはこの方が危惧されたとおり、エホバの証人は「エホバの勝利」と言い換えることにより、この判決の深意を隠してしまい、この方のご指摘どおり、エホバの証人の「錦の御旗」にされているのです。しかし、このエホバの証人の輸血拒否という「原理主義的聖書解釈」、キリスト教の他の派も異端視する解釈に沿って医療が行われているという現実は、社会制度と、患者となりうる私たち国民と、そして病院とに大きなマイナス影響を及ぼしているゆえ、これは宗教問題ではなく、社会問題なのです。ですから私たち国民は、この問題をよそ事と考えていてはならないでしょう。まさに自分たちの問題なのです。



信教の自由は大切に護らなければならない市民の権利です。戦前の日本で神話的な歴史観を教え込まれ、マインド・コントロールされてきたことを考えても、また靖国訴訟に見られるように、他の宗教の人々を靖国神社に祀り続けることによって、他宗派の人々の精神的被害を無視するという、靖国神社の態度を考えても、今一番護らなければならない権利です。でもそれはあくまで市民ひとりひとりの基本的人権を擁護することが主旨なのであって、ある異常なカルト集団が宗教の仮面をかぶって、市民の基本的人権を破壊するのを見過ごす道具にされてはならないのではないでしょうか。

このエントリーはひょっとして、当該掲示板の管理人さんからクレームがついて、削除しなければならないかもしれません。そのクレームが確かに当該掲示板の管理人さんからのものであることが立証されれば。中にはバカなエホバの証人擁護派がハラスメントとして、偽装を行うことも考えられますから、このように言うのですが。それまでに、このエントリーがひとりでも多くのリベラル派のブロガーの目に留まりますように。

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ER エホバの証人ヴァージョン (下)

2007年06月02日 | エホバの証人のこと、宗教の話




Date: Tue, 17 Mar 1998 17:18:50 +0900
From: (hiromi_t)
Subject: [CCN:00718] Re: Hb2.0になったエホ バの証人

初めて発言する北○赤十字病院麻酔科の高○広巳です。くだらない話です。
私も胸部外傷で両側血気胸、右主気管支損傷のエホバの証人をみたことがあり、その時は手術後のHbで4.0弱だったと記憶していますが、結局何の障害もなく元気になって帰っていきました。
エホバの証人の人たちは自家血輸血もだめだといっていますが、中心静脈カテーテルをいれて、ルートフラッシュを2回、同じシリンジでやったら自家血輸血と同じなのかな?
極度の貧血の人の動脈採血の時、貧乏性の私はよく最初に血をひいたシリンジの血を戻したりするんですけれど、これって完全に自家血輸血だよなー!とか、神様ってどんな些細なことでも見逃さないから、こんなことやったら患者さんの魂は救われないのかなあ?などとくだらないことことを考えてしまいました。

この考えは現在、思いついたのではなく胸部外傷のエホバの証人が救急外来に搬入された瞬間0.03秒くらいで考えたことであり、上記の患者さんには細心の注意を払って治療しています。思慮深く、慎重な私の性格を知っている七戸先生なら信じてもらえるはずです。

北○赤十字病院麻酔科 高○広巳

Date: Tue, 17 Mar 1998 18:27:07 +0900
六○アイランド病院 麻酔科・ICU 速○です

エホバの証人の患者さん、いざ出血が限界点にさしかかったら・・・・・・。
我々はそれまでの川向こうの火事を見る野次馬の様な無責任な立場を失って、生かせられることがわかっている患者の命の終演を見守らなければならなくなり、はじめて自分がどうすべきか考え込んでしまいます。

私も、エホバの証人の弛緩出血症例に遭遇しました。深夜、婦人科から緊急呼び出しを受け、単純子宮全摘を行ういきさつを婦人科部長より説明を受け患者を入室、導入し始めました。この患者さん自身はエホバの証人でしたが、ご主人は違いました。導入した直後、婦人科部長が手術前にご主人の立ち会いのもとに、輸血拒否を再確認したいと申し出があり、覚醒させて再確認をしましたが、結局輸血は強く拒否されました。ご主人はがっかりされていましたが、救命の意味でも単純子宮全摘を施行しました。このとき、ご主人立ち会いの元で手術を施行し、術中出血傾向、貧血の増悪、100%酸素下に管理しても進行し続けるアシドーシスを説明しながら手術終了しました。手術終了後、ご主人に、おそらく貧血のために救命できないだろう、輸血しか手がないことを説明し、病院長、担当部長、麻酔科、ICUに対して新たに輸血承諾書を作成し、ご主人の責任下に承諾を得ました。もちろん、救命後、患者さん本人から責められた場合、どうしても太刀打ちできないとは思いましたが、結局輸血施行し救命し得ました。

約2週間後、患者本人が私のところへ挨拶に来て、「色々お世話になりました。私自身としては非常に不満ですが、主人と子供のことを考えてあきらめます。わたしは、今後幸せには成れないと思います・・・」と話しました。私は、実に複雑な心境に置かれたことを思い出します。私は「あなたは、すでに死にました。今いるあなたは以前のあなたではない。子供を授かった時点で新たな人生がはじまったのです。」と話して別れました。

以後、この患者さんには会っておりませんが、結果はまあまあこんなモンだろうと思っています。
もう一度同じことが起こったら、やはり迷う続けることと思います。

だらだら書き記しましたが、現世にいきる私としてはやはり救命に走るだろうと思います・・・



Date: Tue, 17 Mar 1998 20:53:47 +0900
From: Y. Shichinohe
Subject: [CCN:00720] まだまだ先の長いHb2.4

七○@札○医大ICUです

 皆様からの多くの御意見、アドバイス、とても有り難く拝見いたしております。
 なかなかすっきりとHbの上昇は見られません。網状球は248‰(!!)です。あとどのくらい頑張ればいいのかな、とイライラしています。中心静脈血を用いて求めた酸素消費量は40-50ml/minと、代謝抑制を目的として行っている現在の維持療法を評価できる結果だと思います。酸素供給量は200-250程度ですので、通常の安静臥床、ではなんらかのイベントがあった際にはちょっと辛いでしょう。第一病日にはベッド上安静にして経口摂取をしてなんとか非侵襲的に乗り切る方法も検討し、一晩維持したのですが、今の状況とどちらが良かったのかは解りません。経管栄養も開始しています。
 昨日非信者の御主人と医療費の支払いについて話し合いをいたしました。現実を説明させていただいたところ、それまであまり考えていらっしゃらなかったようで、非常に困惑しているように伺われました。「うちにはお金がない。子供もこれで三人目だ」ただし、この状況を患者さん御本人が知っていたとしてもきっと笑ってこう言うでしょう。
「それならこのままで結構です、死ぬのは全く不本意ではありません。神の身許、楽園に行くのですから。」と。(現実にICU入室時には子供宛ての手紙には、”お母さんが死んでも悲しまないでね、楽園に行くのだから。みんなでまた楽園で幸せに暮らせるようにお祈りしてね、パパも楽園に行けるといいね”と書いてありました。---御主人の承諾を得て見せていただきました)

ハッキリ言って処置なしです。自殺みたいなもんです。いくら神の教えに背くと地獄で悪魔の炎に焼かれると言っても、残された子供はどうなるのでしょう。

緊急時の輸血の是非については私ではなんとも決めかねます。日本的な判断でで批判も多いでしょうが、いわゆる上役へ判断を仰ぐことになると思います。カッコ悪いですが。
再出血した場合のシュミレーションとして

 その1
輸血せずに亡くなられた場合---家族、この場合は御主人かな? から、過失致死、その賠償で刑事、民事で訴えられる。そして何よりみすみす殺してしまったという職業倫理の根幹にふれる問題を一生引きずる。
 その2
輸血して救命できた場合---本人から、精神的苦痛を受けた、信教の自由を侵害されたと民事で訴えられる。
 その3
輸血したが相談しているうちに判断が遅く間に合わず亡くなられた場合---最悪。なんて自分はバカなんだろう。

今のままではその3が有力。これはまずい。



Date: Tue, 17 Mar 1998 22:04:19 +0900 (JST)
From: Katayama Katsuyuki
Subject: [CCN:00721] Re: Hb2.0になったエホバの証人

七○先生、人工血液の情報は集まりましたか?

医事新報のNo. 3854(平成10年3月7日)号に、北○○日赤血液センターの関○定美先生が紹介文を書いています。
要点としては、

1)ミドリ十字のFluosol-DAは製造・開発が中止となっている。

2)現在、臨床治検が進められているのは、いずれも米国製で、BaxterのHemAssistと、NorthFieldのPolyMemeの2製品だが、この2製品ともヒト由来のヘモグロビンを利用している。

という訳で、人工血液といっても血液製剤のようですね。



Date: Tue, 17 Mar 1998 22:53:01 +0900 (JST)
From: (財○昭憲)
Subject: [CCN:00722] Re: まだまだ先の長いHb2.4

○大救急部の財○昭憲です! 私は若干、皆さんとは違った意見を持っているようです。

20年前の古い話になりますが、患者本人も家族もエホバの証人の信者という悪条件に、医原性出血で極度の貧血(3g/dl)に陥らせた患者の治療を一般病院で引き受けた経験があります。
小骨盤腔内感染症で腹腔ドレナージ後に、DICを起こしていた患者に、中心静脈栄養を目的にトライした鎖骨下静脈穿刺に失敗して、気血胸を作り、持続出血で徐々に貧血が進行し、最後にはHb3.0g/dlとなった症例です。
原因が医原性であるので、輸血をお願いしましたが、全く駄目でした。
輸血をすれば、本人は「神にも、家族には見放される!」と言う状況でした。身体的生命は救われても、精神的生命は死ぬと言うわけです。結局、治療は酸素吸入と輸液だけで、進行する貧血は遺憾ともし難いものでした。
2週間位頑張った頃、家族や本人との会話の中で、彼らの宗派では「肉類は駄目だが、肝臓は良い!」と言うことを聞き出して、積極的にレバー料理を食べさせるようにと食事指導をして、これを境に貧血の改善が見られ、救命に成功しました。ICU退室までには1ヶ月を要しました。
緩徐に来た貧血だったので、23DPGが増えてなんとか、生命を維持してくれたものと思います。しかし、人間は以外と強いものだとも感じました。

患者が退院するときに、「神は私を見捨てなかった!」とぽろりと言った言葉を思い出します。
恐らく、彼らはこの逆境を神が与えた試練だと考えているでは無いかと感じました。

その時以来、「医者はサービス業だ! 医者は治療の選択肢をすべて説明するが、治療の決定権は患者本人が持っている。」と考えるようになり、気が楽になりました。
 患者さん本人とその家族の希望を可能な限り実現する治療を心掛け、肩肘張らずに、自然体で患者に接するようにしています。

乳酸値の上昇も無いようで、患者の意識もはっきりして、意志もも強固なようですから、酸素吸入と食事療法だけで、集中治療の必要は無いのではありませんか? 本人の希望しない強引な治療を強行することより、家族や子供達と一緒の時が過ごせる個室を与え、精神的安定をはかり、家族とともに神の試練を経験させることを推奨します。 医療者はそれを外からそっと静かに患者と家族を見守ってやるのが良いのではないでしょうか? 身体的生命だけを救うのだと、肩肘張らずに、患者本人と家族に腹を割って、話してみては如何ですか? 患者と患者家族との精神的生命の救済が大切ではないでしょうか? 何れを選ぶかは患者本人と家族だと思います。



From: takayuki
Date: Tue, 17 Mar 1998 20:39:08 -0400
Subject: [CCN:00724] Re: まだまだ先の長いHb2.4

○大麻酔科・谷○博信です。

繰り返しになりますが、当の患者さんとご家族に話を限れば、先生のお考えは正論だと存じます。しかし、「エホバ」に関して言えば、そのために他の多くの患者さんが「割を喰」っている事実は無視できないと思います。また、今回の「輸血4-5単位していれば今日にもICUから出られる」患者さんへの(本
来は不要な)高額な医療費が、健康保険で賄われるとしたら、これも問題です。冷たいようですが、医学的根拠によらず、「個人の信条」によって治療法を選択する「ぜいたく」が許されるのは、自費での自由診療の場合に限られるべきだと思います。
(途中略)
>身体的生命だけを救うのだと、肩肘張らずに、患者本人と家族に
>腹を割って、話してみては如何ですか? 患者と患者家族との精神的生命の救済が大
>切ではないでしょうか? 何れを選ぶかは患者本人と家族だと思います。

しかし、その結果、輸血をすれば救命できたであろう患者の生命を失った場合、欧米人と異なる価値観・生命観を持つ、小生を含めた多くの日本人医師は、自らを「殺人者」として責めることになります(少なくとも小生にとっては、治療手段があるのに傍観して患者を死なせる行為は「殺人」であり、以前、阪大麻酔科でこの議論が行われたときにも、医局員の半数以上が小生と同じ考え方を示しました)。ちなみに、高校の体育の「剣道」を「殺人手段」として受講拒否するこの宗教が、医療従事者に「殺人」を強要するわがままさが小生には我慢できません(ちなみに小生は剣道の有段者です、関係ないか?)。

話が変わりますが、救急の現場と、予定手術患者の術前とでは、患者・医療側とも対応が少し違うように思います。個人的感想を記せば、予定患者では「信仰心(?)」に随分個人差があるように思いました。具体的には、当初の1対1の話し合いでは無輸血に関して絶対的な固執を示さない人の方が多く、それが信者である家族や「教会」関係者と接するうちに「殉教者」のような気分になるのでしょうか、「目つき」「顔つき」まで変わってきて、強硬に無輸血を主張する、というパターンが多かったように思います。この手の人を随分観てきて、小生のエホバに対する認識は、「カルト」やなぁ、というものでした。

念のために申し上げますが、小生は、個人の信条や宗教を無視した医療行為が許されると言っているわけではありません。「医療はサービス業」、仰るとおりで、可能な限り患者さんのご要望に沿うよう努力するのが現代の臨床医のあるべき姿だと思います。

以上、限られた医療資源の中での無限度を越えた無輸血治療には無理がある、医師自らの良心も患者の価値観同様考慮されるべきだ(「エホバ勝訴」と言われた最近の判決でも医師の良心に、より重きをおいています)、の2つが小生の論点です。



Date: Wed, 18 Mar 1998 10:55:48 +0900
From: "世○ 昭彦"
Subject: [CCN:00725] Re: まだまだ先の長いHb2.4

広○大学の世○昭彦です。

私も財○先生の意見に賛成です。

私も以前エホバの証人の重症熱傷(22才女性、熱傷面積58%、Burn Index 48、顔面・上半身が主)を経験しました。この方は独身、両親・本人ともエホバの証人でした。
入院直後より両親から輸血拒否の申し出があり、病院の倫理委員会で協議し、「患者および家族の意志を尊重する、しかし輸血の了解を得られるよう説得は続ける」と言う方針で治療を行いました。

ご存じの通り、この程度の重症熱傷は手術が不可欠です。一回の手術による出血量は2000~3000ccで、輸血が必要で、手術も3~4回必要です。結局家族および本人からの輸血の承諾は得られず、手術を行うことなく、熱傷による敗血症で亡くなられました。

この患者さんは両親がエホバの証人であったため、小さいときから教会に通い、自然とエホバの証人の教義を信仰するようになった方です。じつは入院経過中一度完全に覚醒した状態で、本人に「手術をしなければ救命の可能性は無い、手術には輸血が必須である」と説明したところ、「私は生きたい、輸血をしてでもよいから手術をして欲しい」という返事がありました。家族面会時にこの話しを両親にしたところ、血相を変えて娘のベッドサイドまでいき、「輸血をしたらサタンになるよ!」と激しい形相で娘を説得し始めました。結局患者さんは両親の説得に応じ、以後断固輸血拒否に戻られました。その後は敗血症の悪化により気管内挿管・持続鎮静となり、本人の意志は確認できず、両親の意見のみで治療を継続し、最後は上記のような結果となりました。患者さんが亡くなられた数週間後、ご両親は「本当にありがとうございました」との言葉も下さいました。

この患者さんを経験して以来、私のエホバの証人に対するスタンスは変わりました。
彼らは真剣に教義を忠実に守ります。それは命を懸けてでも貫かれるものです。教義に反すれば、彼らの信者間では「サタン」として扱われ、信者からも迫害されるようです。実際この患者さんもたとえ熱傷が治癒しても、顔面にひどい瘢痕拘縮を残し、仲間からも、さらには両親からも見捨てられ一人で暮らさねばならないという将来が見えてきました。

この様な中で「救命のため」という言葉が本当に患者のためになるのでしょうか。

私は「輸血拒否」も患者の治療に対する選択の一つと考えます。財津先生の
> その時以来、「医者はサービス業だ! 医者は治療の選択肢をすべて説明するが、治
> 療の決定権は患者本人が持っている。」と考えるようになり、気が楽になりました。
に対して、全く同感です。ガンに対する治療で、手術、抗癌剤、放射線治療という選択枝がある中で、患者がどの治療を選ぶかと全く一緒であるように思います。

輸血を行うことで、命は救えますが、精神的には全く救われない状況に陥ることになるように思えます。

七○先生の症例に対する具体的な回答にはなっていませんが、エホバの証人の治療に対する選択枝の一つとして、意見を述べさせていただきました。



From: takayuki
Date: Wed, 18 Mar 1998 00:13:25 -0400
Subject: [CCN:00726] Re: まだまだ先の長いHb2.4

○大麻酔科・谷○博信です。
お詫びと訂正です。
[CCN:00724]の
「以上、限られた医療資源の中での無限度を越えた無輸血治療には無理がある」、を
「以上、限られた医療資源の中での限度を越えた無輸血治療には無理がある」、
に訂正して下さい。
申し訳ありませんでした。



Date: Wed, 18 Mar 1998 22:32:23 +0900
From: "西 ○太郎"
Subject: [CCN:00728] Re: まだまだ先の長いHb2.4

西○太郎@三○○病院外科です。

財○昭憲 wrote:

> ○大救急部の財○昭憲です! 私は若干、皆さんとは違った意見を持っているようです。

> 患者が退院するときに、「神は私を見捨てなかった!」とぽろりと言った言葉を思い
> 出します。
> 恐らく、彼らはこの逆境を神が与えた試練だと考えているでは無いかと感じました。
>
> その時以来、「医者はサービス業だ! 医者は治療の選択肢をすべて説明するが、治
> 療の決定権は患者本人が持っている。」と考えるようになり、気が楽になりました。
>  患者さん本人とその家族の希望を可能な限り実現する治療を心掛け、肩肘張らずに
> 、自然体で患者に接するようにしています。
>
> 乳酸値の上昇も無いようで、患者の意識もはっきりして、意志もも強固なようですか
> ら、酸素吸入と食事療法だけで、集中治療の必要は無いのではありませんか? 本人
> の希望しない強引な治療を強行することより、家族や子供達と一緒の時が過ごせる個
> 室を与え、精神的安定をはかり、家族とともに神の試練を経験させることを推奨しま
> す。 医療者はそれを外からそっと静かに患者と家族を見守ってやるのが良いのでは
> ないでしょうか? 身体的生命だけを救うのだと、肩肘張らずに、患者本人と家族に
> 腹を割って、話してみては如何ですか? 患者と患者家族との精神的生命の救済が大
> 切ではないでしょうか? 何れを選ぶかは患者本人と家族だと思います。

 僕も財○先生の意見に賛成です。
 これまでの意見の流れを見ていると自分の考え方が医者として失格なんかなーなん て思い始めていましたが、同じ様な事を考えている人がいてくれてほっとしまし た。確かに、患者の身体的な生命だけを救うことが医者の務めではないように思います。

 実際に自分がその場に居合わせたらかなり悩むでしょうねー。
 でも、すさまじい特殊な治療はしないでしょうね。



Date: Fri, 20 Mar 1998 17:35:57 +0900
From: Y. Shichinohe
Subject: [CCN:00731] 今日で一週間エホバ

ついつい「すさまじい特殊な治療」をしてしまいがちな札○医大ICU@七○です。

 今朝の検査でHbは3.9、Ht12.6まで来ました。当初何となく一週間頑張れば目鼻がつくと思っていましたが、その通りの経過で、今はちょっとホッとしています。合併症は今のところ見られていません。今後Hbが5を越えた時点で
・復温
・鎮静、筋弛緩薬止め
・人工呼吸離脱、という順序で進めてゆくつもりです。
 医療の現場にいる人間として、今回のような局面でどのようなスタンスを求められるかという事についてはきっと結論は出ないのでしょう。私はただ単純に患者さんが救命できる可能性が高まった事に、ご主人、幼い娘さん達とともに喜びを感じ、また職人の側面を持つ、医者としての喜びと幾許かの満足感を感じています。もちろん結果がすべてなので不幸な結果が待っていた場合この思いは崩壊してしまいますが。



Date: Sun, 22 Mar 1998 01:39:59 +0900
From: "西 ○太郎"
Subject: [CCN:00732] Re:今日で一週間エホバ

西○太郎@三○○病院外科です。

他のメンバーの方も同じだと思いますが、心から七○先生達のご努力にエールを送っています。
実際に目の前に患者さんがいて、何かしてさしあげれられることがあれば、誰もが実行に移すと思います。

先生達の患者さんが無事回復されることを心からお祈りしております。頑張って下さい。



Date: Wed, 25 Mar 1998 17:28:00 +0900
From: 諏○ 邦夫
Subject: [CCN:00741] 称賛!

やあ,すごいですね.頑張りに称賛を送ります.



Date: Wed, 25 Mar 1998 20:05:27 +0900
From:(Keiichi Tada)
Subject: [CCN:00742] ねぎらい

七○先生、本当にご苦労さまでした。広○の地より多くの同僚達の、ねぎらいの言葉
をあわせて送ります。



Date: Wed, 25 Mar 1998 20:42:54 +0900 (JST)
From: MATSUMOTO Takahiro
Subject: [CCN:00743] Re: おめでとうございます

松○ 尚浩@産○医科大学麻酔科と申します.

七○先生,
> エホバの患者さんは無事ICUを退室いたしました。皆様ありがとうございました。
この1行に様々な気持ちが込められているものと存じます.

私どもが困ったときには,先生の貴重なご経験からご指導をお願いいたします.


http://www2.kpu-m.ac.jp/~ccn/topics/topics/w0021.htmlより転載)

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以上です。感想は別に書きます。

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ER エホバの証人ヴァージョン (中)

2007年06月02日 | エホバの証人のこと、宗教の話

(つづきです)



Date: Tue, 17 Mar 1998 01:33:01 +0900 (JST)
From: Katayama Katsuyuki
Subject: [CCN:00715] Re: Hb2.0になったエホバの証人

>しかしこれらの保険外診療の分は誰が払うんだろう。本人の信教の自由と言っ
>ても治療を修飾させているのですからねえ。輸血4-5単位していれば今日にもICUから
>出られるのに。

> 札幌の七○先生の、息詰まるようなエホバの患者さんの集中治療の経緯をただ、固
>唾を呑んで、みつめているばかりです。打てる手は、すべて出尽くしているようにも
>思 いますが、難しいでしょうけどOHPしか残ってないのかしら。
> それにしても、七○先生は、この患者さんと無輸血承諾の覚え書きを交わしたのでし
> ょうか??それとも、最大限の努力の最中であり、先日の高裁判決じゃあありませ
>んが、最後は輸血の選択枝を留保されているのですか。
> 覚え書きをかえわされていないのなら、輸血すべきだと思いますがどうでしょう。
>僕なら輸血します。エホバへの僕の理解の浅さ故の意見です。つまらない意見ですみ
>ません。輸血せずして死にゆくかもしれない患者さんの姿を僕は容認できません。最
>大限の無輸血への努力で多とすべきではないでしょうか。

七○先生、いつもご苦労様です。

最もdecision makingに迷う局面ですね。
この場合、札○医大のマニュアルでどのような対応をすることになっているのでしょうか。あくまで患者の意志尊重でしょうか。あるいは最終的には担当医の判断を尊重することになっているのでしょうか。いままでの経過を伺っていると、患者の意志に従えということになっているようですね。

学問的には、輸血をしないという前提で、
1)人間はどこまで貧血に耐えられるか、
2)このような限界を越えた貧血?
への非輸血的組織酸素供給法などが、興味の持たれるところです。しかし、臨床的には、やはり多田先生の発言にあるように、輸血に踏み切るかどうかの判断が、緊急最大の問題点です。乳酸値が上がり始めてから対処して間に合うという保証はどこにもない訳ですから。

患者が信仰を守って死ぬ権利(魂が救済されると患者側は言っていると思いますが)を優先するか、医師の生命を守る義務・権利(positiveな意味での殺人者になることを避ける権利か?)を優先させるかの問題に帰着します。

また、このようなゆっくりとした貧血の進行であれば、患者のout comeとして死と生の間の植物状態としての出来上がりも十分考えられます。ほとんどのエホバの信者は、植物状態で生きながらえることについての可能性は教えられていないと思います。

結論として、私も多○先生のご意見と同じく、先生の立場であれば輸血すると思います。
先日の裁判結果のように、50万円払って法律的に済むのであれば、殺人者になるよりマシかなと思います。

いみじくも七○先生が言って居られるように、このようなextraの高額医療費を支払う用意がエホバの患者側にはないのが現状です。

「輸血4-5単位していれば今日にもICUから出られるのに」、ICUを延々と占拠して他の重症患者の治療に支障を来すことを、エホバの神さんはどうお考えなのか聞いてみたいところですネ。まさか、エホバの信者だけが助かればいいなどとは言わないと思いますが。

(やや後半感情移入されて申し訳ありません。このところ毎週1人のペースでエホバの患者がやってくるので、ちょっとキレ気味なのであります)



Date: Tue, 17 Mar 1998 03:45:28 +0900 (JST)
From: MATSUMOTO Takahiro
Subject: [CCN:00716] Re: Hb2.0になったエホバの証人

七○康夫先生,
第17回日本臨床麻酔学会シンポジウムで輸血拒否患者へ対応について勉強する機
会が有りました.
エホバの証人が最初から輸血拒否を掲げていなかったことを知り,私はこのシンポジウムで,この拒否に関しては安易に受け入れるべきではないとの立場で話を進めました.

日本では判例があるか存じませんが,合衆国には患者に依存する家族がいる場合,”
公共の孤児を防ぐ”ために裁判所が輸血を認める例も有るようです.
この患者さんに養育すべきお子様がいらっしゃるならば,この場合に当てはまると存じます.
オーストラリアでは輸血拒否を認めないそうです.
東京地裁の判決に続く高裁判決が出た今は,この問題について日本の医療のあり方を探るべき重要な時期に有ると思います.
先生だけではなく,病院全体で意思決定を行うようお勧めいたします.



From: takayuki
Date: Mon, 16 Mar 1998 22:42:26 -0400
Subject: [CCN:00717] Re: Hb2.0になったエホバの証人

○大麻酔科・谷○博信(在米)です。長文です。
At 11:54 AM 98.3.15 +0900, Y. Shichinohe wrote:
> しかしこれらの保険外診療の分は誰が払うんだろう。本人の信教の自由と言っても
>治療を修飾させているのですからねえ。輸血4-5単位していれば今日にもICUから出ら
>れるのに。

この点に関して、先日麻酔MLへの小生の発言をCCNに転載させていただきます(繰り返しになる多くの麻酔科の先生、ごめんなさい)。

At 2:39 PM 98.2.22 -0400,
○大麻酔科・谷○博信(在米)です。
(途中略)
(エホバ逆転勝訴の報道に関して)
小生が判決文を読んで感じたのは、「やっぱりファジーな説明はあかんのやなぁ」ということでした。結局、この例では、(裁判所の表現による)「絶対的無輸血」を主張する患者に対し、「相対的無輸血」で手術に望むという医療側の方針が、十分に説明されていなかったことのみが問題とされていると思います。
それと、裁判所の「絶対的無輸血治療に応ずるかどうかは、専ら医師の倫理観、生死観による。後記説明為務を負うことは格別として、医師はその良心に従って治療をすべきであり、患者が医師に対してその良心に反する治療方法を採ることを強制することはできない。」というのは、現場の医師にとって、とても「ありがたい」認識だと思いました。
ところで、この訴訟は上級審に行くんでしょうか?
もしこれで確定、ということなら、一つ注意するべき事があります。
それは、「エホバ」の人達が、この判例を「錦の御旗」にふりかざして、医療現場で無輸血手術を強要してくるだろうことです。つまり、判決の中身を無視して、「無輸血手術」を裁判所が容認した、という論法で迫ってくるのが目にみえるようです。彼らは横の連携が密なので、この判例を最大限利用すべく、組織的な対応をしてくることが予想されます。しかし、判決の中身は医師の裁量が十分認められたものであり、従来の治療方針を変えるものでないことはいうまでもありません。
しかし、インターネットで読んだ限りでは、新聞記事の趣旨は「エホバ」が勝った、というニュアンスであったように感じました。こういった記事のために、いつまでも「エホバ」のことが、一般市民からは「一部の宗教の信者だけの問題」という認識にとどまっていると思います。
私見では、「エホバ」は市民全体の問題です。つまり、場合によっては「エホバ」患者の無輸血診療が、一般市民に不利益をもたらしている場合もあります。このことを医療従事者として、市民に周知させる必要があるのではないかと以前から考えていました。
そこで、「エホバ逆転勝訴」の記事を契機に、先日在阪のラジオ番組に以下のような趣旨の投稿をし、放送されたことを報告しておきます(「無理な無輸血手術の市民への影響」という観点で投稿しました)。
(途中略)
留学までの約3年間、阪大付属病院で外科手術を受ける「エホバ」の患者さんに対する麻酔科の窓口として、私はこの方々とずっと交渉してきました。
そして、この問題が、一般市民の皆さんにとっても、決して他人事ではない、自分達の問題なんだと感じるようになり、その点につき皆さんに知っていただくべきだと感じた次第です。
問題点は以下の3点です。

1.一般の手術患者へのしわ寄せが無視できない

2.高額な医療費が健康保険の負担となっている

3.本来必要がない輸血が必要になってしまう場合がある、

一つずつ説明します。
1.一般の手術患者へのしわ寄せ
「エホバ」の患者さんの手術・術後管理を無理に無輸血で行い、長期間重度の貧血状態が続くと、たとえ救命できたとしても、腎不全他の臓器障害をおこしたり、術後出血や縫合不全といった合併症の確率が高くなったり、また手術後の回復が通常よりも遅れるために、入院期間が長くなったり、本来は必要がなかった集中治療室への入室が必要になったりします。
阪大病院のようなベッド数1000床規模の大病院でも、集中治療室は6床程度しかありません。このため集中治療室は常に一杯で、大きな心臓外科手術を受ける患者さんなどは、集中治療室への入室待ちのために手術が何週間も延期されることがあります。一般病棟も同様で、診療科によっては何カ月か先まで入院待ちの患者さんが待機しています。この状況で、「エホバ」の患者さんの無理な無輸血手術をおこなえば、本来集中治療室へ入るはずの重症患者が、ワリを喰って入れなかったり、手術そのものが延期になったり、一般病棟でも入院待ちの日数が長くなったりと、一般の患者さんへのしわ寄せはかなりのものになると思います。

2.高額医療費負担の問題
無輸血を強行するために生じる重症の急性貧血により、入院期間が長くなったり、通常は使用しない高価な薬剤を使ったり、集中治療室入室が必要になったりと、同じ手術の他の患者さんよりも随分医療費がかかってしまい、健康保険による負担も増大します。このような患者の希望・信条に基づいた治療は、歯医者さんで見栄えのよいセラミックの義歯を入れてもらうのと同じように、本来は保険診療の適応外、つまり、自費診療になるのではないかとおもうのですが、実際にはすべて保険診療扱いとなって、一般の市民の負担増となっています。

3.本来必要がない輸血が必要になってしまうことの矛盾
「エホバ」の輸血拒否は、あくまで宗教上の信条に基づくものであり、医学的根拠によるものではありません。そのため、手術前に一旦自分の血を採血して、手術時にそれを輸血し、他人の血液を使わない「自己血輸血」といった、現在多くの手術で行われるようになった輸血を避けるための手段も拒否します。「自己血輸血」は、手術前に2~3週間かけて少しづつ自分の血を採血して貯蔵し、それを手術時の出血に対して投与するもので、これにより1,000~2,000ccの貯血が可能で、言い換えると従来は同程度の輸血が必要であった手術でも、輸血の必要がなくなった、ということになります。こういった輸血回避のための工夫も、「エホバ」の患者さんは拒否するために、一般患者では輸血の必要性がない出血でも、生命や重要臓器に重大な影響を及ぼしたり、最終的には輸血を必要としてしまったりする可能性があります。つまり本来不要であった(供血による善意の)輸血が、輸血や他の処置を拒否したために逆に必要
になる場合があるのです。
以上、長々と「宗教上の信条に基づく輸血拒否」に対する一般市民への影響について記してきました。私自身は、患者さん個人の信条を尊重するのにやぶさかではないのですが、そのために生じる一般の患者さんの不利益も、もっと考慮されるべきだと考えています。他にも多くの問題点がありますが、この問題が我々みんなにとって「決してひと事ではない」ことを、是非とも御理解いただきたいと存じます。
以上のような趣旨を投稿いたしました。

以上です。


(つづく)
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ER エホバの証人ヴァージョン (上)

2007年06月02日 | エホバの証人のこと、宗教の話
元エホバの証人が集まる掲示板に、「昼寝するぶた」があります。元エホバの証人系ではおそらく最大級のホームページです。そこに、久しぶりに輸血拒否を考える書き込みがありました。その書き込みには、医師たちが集まる別の掲示板が紹介されていました。

輸血拒否は、法廷で争われるときにはいつも、信教の自由という争点が持ち出されます。その点から考えると、輸血拒否が宗教的な信条なら認めないわけにはいかないだろう、とみなさんは理知的に考えることでしょう。

でもエホバの証人は、自分たちから生まれた子どもたちに、エホバの証人の宗教を半ば強制的に押しつけている、という現実をみなさんはご存じないと思います。子どもたちにエホバの証人の教理を受け入れさせるために、情報操作、感情操作、行動操作、そして思考操作というマインド・コントロールの手法がフルに活用されている実態を、皆さんはご存じないでしょう。輸血拒否の教理の矛盾、医療現場での他の患者さんへのマイナスの影響、医療そのものへの負荷など、皆さんは日ごろ考えもなさらないでしょう。

今回のエントリーは、医療現場でエホバの証人を治療することになった医師たちの悩みと苦闘を、テレビドラマ以上の、ドキュメンタリーだけが持ちうる迫力をもってみなさんにご紹介できると思います。医療専門用語などが書かれていて、わたしにはその解説ができませんが、それらの用語を無視しても問題点は明確に示せると思います。みなさん、これがエホバの証人の宗教の現実です。エホバの証人は控えめでいい人たちが多い、という理由だけで「信仰は自由だから」と片づけないでほしいのです。いい人そう、という理由で小泉自民党に過半数の議席を与えて以来、日本はどうなっていますか。同じことです。物事を判断するときには、宣伝されているイメージだけを材料にしてはいけないのです。

では、ご紹介します。なお、無断転載なので、病院名、医師名は伏字になるようにしています。当の掲示板では実名で書かれています。

--------------------------





話題0021 エホバの弛緩出血Hb2.7


Date: Fri, 13 Mar 1998 21:23:09 +0900
From: (Y. Shichinohe)
Subject: [CCN:00703] エホバの弛緩出血Hb2.7

 今搬入されたエホバの証人の患者です。他院で出産後弛緩出血を起こし、搬入されました。内腸骨エンボリで一応止血しましたが、Hb2.7です。完全鎮静下に低体温、とも考えたのですが、意識清明で循環動態も安定、BEは-4.7、lactate51mg/dlです。
 とりあえず循環呼吸を監視しながら経過観察としたのですが、fluorocarbonについての情報をお持ちの方、いらっしゃいましたらレスポンスよろしくお願いいたします。



From: "FALCON"
Subject: [CCN:00706] RE: エホバの弛緩出血Hb2.7
Date: Sat, 14 Mar 1998 00:27:27 +0900

リコンビナントもエホバの証人の方はNOなのでしょうか?
出血はコントロールできているようですが、例えばエリスロポイエチンやG-CSFが使えれば、
低体温にしていても骨髄抑制は防げるような気がしますが、、、
リコンビナントは基本的にはヒトから取ったものではなく、ヒトと同じ遺伝子配列から作り出したもの、と捉えるわけには行かないのでしょうか、、、



To: CCN@koto.kpu-m.ac.jp
From: Y. Shichinohe
Subject: [CCN:00707] 再出血が恐いエホバの証人Hb2.6

越○さん、早々のレスポンスありがとうございます。

>1)この病状では輸血できるかどうかが救命の大きな要因になることは
>明白だと思います。病院長あるいは集中治療部長などから、輸血の承諾
>を得るべく再度説得をしていただく。他の信者の意向はともかく、患者
>の直接の家族から輸血に関するインフォームド・コンセントを取り付け
>ることはできませんでしょうか? 

札○医大病院ではエホバの証人の患者さんに対して、統一した対応をとることを可能にするマニュアルが作成されています。一応それに基づいて患者さん本人(やや頻脈ですが取り乱さずしっかりと応対されています。宗教に基づいた信念と言うのは強いものですね)、御主人(非エホバです)に御説明させていただきました。御両親は判断できる状況にないようなので御説明を断念いたしました。また、越○さんの御指摘のような教会の偉いヒト、のような方がいらっしゃいましたが直接御説明はいたしませんでした。この患者さんは小さいお子さん(今回の子供も含め)もいらっしゃいますし、御主人と御両親から説得すれば、と思ったのですが、取り付くシマがない、という感じです。

>2)現在、出血のコントロールができているか? 出血中であるか?
>DIC(播種性血管内凝固症候群)を併発しているか? などが、重要であ
>ると思います。可能であれば、凍結血漿、トロンビン製剤についてだけ
>でも投与許可をとりつけることができれば、出血傾向に対する重要な治
>療手段になると思います。
>
出血のコントロールは出来ているようです。子宮内からコアグラが排出されますが、溜っていたもののようで、Hb(BGAのHbです)2.7から2.6になった程度です。BE、lactateは変化なし。血液由来製剤は5%、25%アルブミン、グロブリン製剤などはOK(要はこれらは薬、という認識)だそうです。もちろん信者個人の判断にゆだねる範疇らしいのですが。

>3)フロロカーボンについては、どなたかから問い合わせ先をお教えい
>ただけるものと思います。正式に認可された薬剤ではない訳ですが、至
>急入手することと、家族から投与の許可を取り付けることを並行して進
>める価値があると思います。輸血の承諾が得られないならば、フロロカ
>ーボンの使用は許されるべきだと思います。
>
>*人工呼吸などをしていればなかなか実施しにくいですが、anemic
>hypoxiaを切り抜ける1手段として、高気圧酸素治療(の併用)もありう
>るかと思います。
>
HBOについても考慮してみましたが、その手間等を考えた場合、人工呼吸下に低体温維持を選択するものと思われます。
ちなみに今回の患者さんは先に話題となった「免責カード---私は輸血を拒否しますカード」をお持ちになっていました。
皆様からの御意見をお待ちしております。



Date: Sat, 14 Mar 1998 01:27:50 +0900
From: (Y. Shichinohe)
Subject: [CCN:00708] Re:エホバにEPO

At 0:27 AM 98.3.14 +0900, FALCON wrote:
>リコンビナントもエホバの証人の方はNOなのでしょうか?
>出血はコントロールできているようですが、例えば
>エリスロポイエチンやG-CSFが使えれば、
>低体温にしていても骨髄抑制は防げるような気がしますが、、、
>リコンビナントは基本的にはヒトから取ったものではなく、
>ヒトと同じ遺伝子配列から作り出したもの、と捉えるわけには
>行かないのでしょうか、、、
>
EPOは投与していますが、多分効果が現れてくるのは数日かかると思うので、それまで持つ様なら大丈夫かな、と思っていますが、さしあたっては今日明日で酸素デリバリーの低下による臓器傷害を来たすことが不安です。一応、酸素ディマンドを低下させるための、完全鎮静人工呼吸下の低体温維持を導入する基準として、血中lactateの上昇、transaminase、amylase、CPKなどの組織逸脱酵素の上昇を目安としよう、と考えています。しかし再出血したらどうするんだろう。なんてことは考えないようにしよう。



Date: Sat, 14 Mar 1998 08:33:45 +0900
From: (Ujike Yoshihito)
Subject: [CCN:00709] Re:エホバにEPO

氏○@宮○医大救急医学です。

七○先生、大変ですね。

>EPOは投与していますが、多分効果が現れてくるのは数日かかると思うので、それま
>で持つ様なら大丈夫かな、と思っていますが、さしあたっては今日明日で酸素デリバ
>リーの低下による臓器傷害を来たすことが不安です。一応、酸素ディマンドを低下さ
>せるための、完全鎮静人工呼吸下の低体温維持を導入する基準として、血中lactate
>の上昇、transaminase、amylase、CPKなどの組織逸脱酵素の上昇を目安としよう、と
>考えています。しかし再出血したらどうするんだろう。なんてことは考えないように
>しよう。

臨床医としての感覚的なもので判断するならば、
わたしであれば、意識があり組織低酸素症状や心不全などが出ていないのならこのまま様子を見ます。
低体温にして出血傾向が出て医原性の合併症を起こす方が恐いです。
患者の納得が得られない輸血は勿論できないでしょう。

最近流行のEBM的アプローチでは、
エホバ、貧血、エポなどのキーワードで過去の論文をさがし、その中から結論を見出すことになるでしょう。

役に立たないコメントで申し訳ありません。



Date: Sat, 14 Mar 1998 11:17:46 +0900
From: Y. Shichinohe
Subject: [CCN:00710] ついにHb2.1エホバの証人

>氏○@宮○医大救急医学です。
>
>七○先生、大変ですね。
>
>臨床医としての感覚的なもので判断するならば、
>わたしであれば、意識があり組織低酸素症状や心不全などが出ていないのならこのま
>ま様子を見ます。
>低体温にして出血傾向が出て医原性の合併症を起こす方が恐いです。
>患者の納得が得られない輸血は勿論できないでしょう。
>
>最近流行のEBM的アプローチでは、
>エホバ、貧血、エポなどのキーワードで過去の論文をさがし、その中から結論を見出
>すことになるでしょう。
>
 Hb2.4-2.1まで低下しました。出血そのものの量は多くありません。大体、Hb2.7から2.4まで低下するにはからりの量の出血が必要となるはずですよね。外観的に、あるいは安定した循環動態から見ても、幸運なことに止血されていると思われます。膣部ガーゼも完全に乾燥しています。(もちろんエンボリ-コイルですから再疎通は十分考えられますが)不思議なことに血小板は昨日で30万、本日でも15万あります。あまり採血検査が出来ませんが。Hb低下は希釈なのでしょうか。
 色々検索してみたところ、臓器傷害の分水嶺はHb2.0程度のようです。もちろんその時点での心機能、volume replacement、貧血に陥った時間経過、外傷かどうか等によって異なるとは思いますが。ただほとんどの症例で手術に継続して集中治療を行っているため、完全鎮静下調節呼吸であるようです。本当はSvO2を基準にしてO2ディマンドとデリバリーとのバランスを評価したいところですが、SGを入れることなど滅相もないことなのでやはり血中lactateが指標となるかな、と思います。
 賛否両論あるとは思いますが、一晩患者さんや家族が(医者も)考える時間が持てたことを幸運と思い、完全鎮静人工呼吸下の低体温(mild)維持を導入することになりそうです。氏家先生のおっしゃっていることが当然一番の問題点になるとは思いますが、ちょっと呼吸が苦しくなってきたようです。

御意見お待ちしております。



Date: Sun, 15 Mar 1998 07:44:58 +0900
From: satoru@koto.kpu-m.ac.jp (Satoru Hashimoto)
Subject: [CCN:00711] Re:ついにHb2.1エホバの証人

At 11:17 AM 98.3.14, Y. Shichinohe wrote:
>  色々検索してみたところ、臓器傷害の分水嶺はHb2.0程度のようです。もちろんそ
> の時点での心機能、volume replacement、貧血に陥った時間経過、外傷かどうか等に
> よって異なるとは思いますが。ただほとんどの症例で手術に継続して集中治療を行っ
> ているため、完全鎮静下調節呼吸であるようです。本当はSvO2を基準にしてO2ディマ
> ンドとデリバリーとのバランスを評価したいところですが、SGを入れることなど滅相
> もないことなのでやはり血中lactateが指標となるかな、と思います。
>  賛否両論あるとは思いますが、一晩患者さんや家族が(医者も)考える時間が持て
> たことを幸運と思い、完全鎮静人工呼吸下の低体温(mild)維持を導入することにな
> りそうです。氏家先生のおっしゃっていることが当然一番の問題点になるとは思いま
> すが、ちょっと呼吸が苦しくなってきたようです。
>
> 御意見お待ちしております。

橋○@○○府立医大集中治療部です。

七○先生、ご苦労様です。

血中lactateモニターは重要だと思います。
それに加えてもし人工呼吸下に管理されるとなると一番酸素消費量の多い心臓と脳のモニターを考えたいです。
個人的意見ですが12誘導心電図でSTの変化を24時間監視するというのはどうでしょうか。

Hb2g-2.4gとなると血液100ml中の酸素量は、Hbに約3mlと溶存酸素0.9ml(酸素濃度60%
)ですからFiO21.0に一時的に上げて得られる溶存酸素(この場合は0.6mlのアップ)
も馬鹿にはできないかも知れません。(それにしても苦しい、、)

また老婆心とは思いますが、完全鎮静人工呼吸への導入において心拍出量が一時的に
でも低下する事態は避けたいですね。

> ちなみに今回の患者さんは先に話題となった「免責カード---私は輸血を拒否します
> カード」をお持ちになっていました。

私どもの病院でもこれまで免責証書に医師が同意のサインしたことがありました。しかしこれで刑事責任を回避できるわけではないという理由で今後は原則的にサインをしないことになりました。逆に輸血の最終的な判断は医師が行うという同意書に入院時にサインがない場合は診療しないと言うことにもなったのです。もちろんこれでは今回のような緊急時のケースには対応しきれないことは明白です。事務との対応等を考えるなら、待てるものなら月曜日(明日)まで待つのも手かも知れません。

では



Date: Sun, 15 Mar 1998 11:54:37 +0900
From: (Y. Shichinohe)
Subject: [CCN:00712] Hb2.0になったエホバの証人
長文失礼いたします。

At 7:44 AM 98.3.15 +0900, Satoru Hashimoto wrote:
>血中lactateモニターは重要だと思います。
>それに加えてもし人工呼吸下に管理されるとなると一番酸素消費量の多い心臓と脳の
>モニターを考えたいです。
>個人的意見ですが12誘導心電図でSTの変化を24時間監視するというのはどうで
>しょうか。
>Hb2g-2.4gとなると血液100ml中の酸素量は、Hbに約3mlと溶存酸素0.9ml(酸素濃度60%
>)ですからFiO21.0に一時的に上げて得られる溶存酸素(この場合は0.6mlのアップ)
>も馬鹿にはできないかも知れません。(それにしても苦しい、、)
>また老婆心とは思いますが、完全鎮静人工呼吸への導入において心拍出量が一時的に
>でも低下する事態は避けたいですね。

 橋○先生、ありがとうございます。
 なにぶん、少しでも出血の危険があるような、侵襲的なモニターが出来ないもので困っています。鎮静には何を薬剤として使おうか、という議論があったのですが、心拍出量との関係で、けっきょくミダゾラムを用いました。やっぱりバルビチュレートが、いやプロポフォールの方がという方、御意見をお待ちしております。心拍出量に関してはUCG、酸素消費量(全身の)は呼気分析代謝モニター(Deltatrack)を使っています。dobutamin4-5γ投与下で7-8l/minというところです。ただ、健常時の数字がないため、増えているのか減っているのか。SvO2の測定は中心静脈カテ(動脈ラインとこれだけは恐る恐る入れました)からの採血で1日1回測定して代用することにしています。動脈血ガス分析と最小限の検査などで一日の採血量は3-3.5mlといったところです。
 酸素運搬量の保持に関しては橋本先生の御指摘のように溶存酸素もバカに出来ないと考えています。34℃まで体温を下げる事によって生じる酸素解離曲線の右方移動を、mildhypercapnia、pHを若干下げる事によって左方移動に修正し、さらに酸素肺傷害を起こさない程度のFiO2(0.5にしたのですが----)によって溶存酸素とともにSaO2を保持するようにしています。
 また若干議論のあったEPOですが、状況として高度の貧血があってかつ骨髄障害がなく、さらに腎が健常であれば、外因性に投与するEPOの何十倍ものレベルにすでに達している事が確実であまり意味がないかも知れない、と血液内科、腎臓内科医からいわれ、ただし血中濃度を判断できず、さらに他に頼るもののない状況では、通常使用量の何倍かを投与するのでなければあまり効果が望めないのではないかといわれました。でも免罪符的に使い続けています。
 しかしこれらの保険外診療の分は誰が払うんだろう。本人の信教の自由と言っても治療を修飾させているのですからねえ。輸血4-5単位していれば今日にもICUから出られるのに。



Date: Mon, 16 Mar 1998 22:59:10 +0900
From: Keiichi Tada
Subject: [CCN:00714] Re: Hb2.0になったエホバの証人

○○市民病院麻酔集中治療科の多○恵一です。先日橋本先生のお誘いで、CCNに加えていただくことが出来ました。おそらく、メンバー中最古参というところでしょうか。
札幌の七○先生の、息詰まるようなエホバの患者さんの集中治療の経緯をただ、固唾を呑んで、みつめているばかりです。打てる手は、すべて出尽くしているようにも思いますが、難しいでしょうけどOHPしか残ってないのかしら。
それにしても、七○先生は、この患者さんと無輸血承諾の覚え書きを交わしたのでしょうか??それとも、最大限の努力の最中であり、先日の高裁判決じゃあありませんが、最後は輸血の選択枝を留保されているのですか。
覚え書きをかえわされていないのなら、輸血すべきだと思いますがどうでしょう。僕なら輸血します。エホバへの僕の理解の浅さ故の意見です。つまらない意見ですみません。輸血せずして死にゆくかもしれない患者さんの姿を僕は容認できません。最大限の無輸血への努力で多とすべきではないでしょうか


(つづく)
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エホバの証人体験を決して無駄にはしない! (追記あり)

2007年04月23日 | エホバの証人のこと、宗教の話

 

 

 

 

 

カルト宗教の被害者を救済するのに力を注いでいる弁護士が、今年の3月に一冊の本を上梓されました。 「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」と題するものです。これはアメリカで公表されたカルト問題の文献を選んで翻訳されたものです。

カルト宗教のことが話題になると、日本ではおおかた無理解が目立ちます。そんな宗教に入団する人の自己責任だというのです。また、カルト宗教で傷ついて、人間関係を上手に営めないようになった人を責めて、「もっと前向きに生きろ」、「考え方が消極的だ」と上からの目線で「裁き」ます。「裁く」というのはエホバの証人の世界では一つの用語で、決めつける、とか排除するためにレッテルを貼る、とかいう意味です。

エホバの証人を自ら脱出してきた人や、追い出された人、もうこれ以上居続けることができない、というところまで追い込まれた人などが何人かホームページや掲示板を運営されてきましたが、なんとそこでも、世間と同様に、心痛を訴える人や、自暴自棄な心情を吐露する人を責め立てるのです。エホバの証人時代と同じような、暗黙のルールのようなものができ上がり、こういうことを書いてはならないとか、ああいうことを吐露してはならないというような、明文化されていない圧力ができあがり、エホバの証人の会衆のような雰囲気になる場合もままありました。

はっきりいいますが、現在問題になっている、学校でのいじめ問題に対処らしい対処がいまだにできていないのは、被害者の立場に立った理解がなされていないからですが、それと根は同じなのです、カルト被害者を上からの目線で責め立てる態度というのは。

カウンセラーやホームページの管理人が自らの心理的優越感を得るために、被害者を利用しているのと同じです、そんなのは。ホームページのなかには、直接エホバの証人としての経験がないくせに、ただ自分の意見に対しての賞賛を書き込んでほしいばかりに掲示板を開設する人さえいます。そんな人は言葉の定義を問題にしたり、さまざまな方面の知識を披露することに努力するのです。カルト被害者は救済どころか、自分の問題を理解してくれるところさえどこにもないのです。ただ「弱者」、「敗北者」、「無能」、「挫折者」呼ばわりされるだけなのです…。

かつてはセクシャル・ハラスメントもそうでした。考え方の問題だ、で片づけられたり、挑発的なファッションやふるまいをする女性のほうが悪いというような議論で片づけられてきました。しかし、理解のある、真に知性的な弁護士や、被害者の粘り強い運動の結果、いまやセクハラ問題は法律の場で扱われるようになりました。日本では、まだ決して十分とは言えませんが、2~30年前に比べれば、格段の進展です。カルト被害者への理解ももっと広げたいと、わたしは切実に願います。

この本は昨日、お食事の帰りに買ってきたものですから、まだ内容を読んではいませんが、序章に当たる部分のさらにその冒頭の文章をご紹介したいと思います。ほんとうは「冤罪」の後編を準備の最中だったのですが、急遽こっちに切り替えました。この記事が、自己責任を主張する人たち、カルト宗教に無関心を装う人たち、またとくにエホバの証人問題を扱うブロガーたちの目に留まりますように。






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【なぜ社会問題と考えるべきなのか】



そもそもなぜカルトが世界中で問題とされてきたのでしょうか。それはカルトが幾多の社会問題や事件を引き起こしてきたからです。つまりカルトという言葉は、決して、最初に定義ありきの演繹的な概念言語ではありません。カルトは実体を伴う経験帰納的な概念言語であることを理解する必要があります。一般には、この点に誤解があり、カルトという言葉を、得体の知れない宗教団体に対する一種の差別用語のように使用する例がありますが、それは間違いです。このことは最初に確認しておきたいと思います。


(「カルト宗教-性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)


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いきなりむずかしいことばがでてきました。「演繹」と「帰納」ということばについてちょっと意味をわかりやすく説明しておきます。





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演繹法とは、結論を、前提だけから、しかも論理学の教える規則にしたがって引き出す手続きのことです。演繹の「演」は、巻いてあるものを延ばすことです。「繹」のほうは何重にも巻いてある “糸まり” の糸口から糸をひっぱりだすことです。「演繹」はすでに提示された「前提」のなかに暗々裏に含まれているものを明るみに引き出すという意味で、つまり「推論」と同じことです。


「推論」とは、「論」つまり結論を「前提」から引き出すことです。「推」は押し出すことですが、前提が結論を押し出す=結論が前提から引き出される、ということです。数学や論理学はこの「推論」によって研究されます。推論はつまり「証明」することと同じ意味です。高校2年生で、「数列」の教材の中で「数学的帰納法」というのを勉強しますが、数学的帰納法の手続きも、結局は演繹なのです。

一方、「推理」のほうは、「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推し測ること」です。それはつまり「推測」ということであり、推論とは決定的に違う点があります。推論によって「証明」されたことは論理的に100パーセント信頼のおける結論ですが、「推理」の結果でてきた結論は「推し測り」の結果ですから、100パーセントの信頼性を持たないのです。そして「帰納」がするのはこの「推論」なのです。

帰納法は、個々の経験的な事例を集め、そこから一般的な結論を一気に引き出すという手続きです。この「一気に」という点が帰納法の大切な特徴です。推論つまり演繹では、結論の引き出し方はとても慎重ですが、その代わりその結論は仮説・仮定のなかですでに存在していた内容をはっきり証明しただけです。つまり情報量は仮説・仮定の内容から増えません。

しかし、帰納法によって引き出された結論は、前提(数学では仮定、科学では仮説)には含まれていなかった要素を新しくつけ加えるのです。この場合は情報量が増大します。しかしそうしたやり方で結論を出すためには、前提と結論の間に横たわっている溝を「帰納法的飛躍」といわれるやり方で「一気に」跳びこさねばならないのです。そしてそこに帰納法の持つ生産性・創造性があるのですが一方論理が飛躍する危険性も存在するのです。

帰納の「帰」は「万物が一つに帰する」という古代中国の文句からきたもので、「納」も「多くのものを一つに納めいれる」という場合の「納」です。そして今の場合、ここで万物とか多くのものというものは、個々のことがらについて述べた文であり、「一つ」というのは一般的にも説明できる結論として述べられた文のことです。帰納法には冒険的要素があり、したがってその結論は「~である」ではなく、「~だろう」となります。





(「論理的に考えるということ」/ 山下正男・著)


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これでもよくわからないでしょうから、実例を挙げておきます。





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「昨日は富士山がよく見えていた。そして今日はこんなによい天気になった」。この事例から、「今日も富士山がよく見えるから、明日も晴れだろう」と考えるのは、帰納的な推論によっています。しかしこれは正しい推論になってはいません。一般に、帰納的推論によって導いた結論は正しいという保証はありません。


数学では、帰納的推論を用いて、あることが成り立つだろうと予測することは、十分に慎重でなければなりません。そのような例として、たとえば、

nΛ2(nの2乗、のつもり。以下同じ)+n+41

は、すべての自然数 n に対して素数だ、と予想してみましょう。

 n に1,2,3, ... ,10を代入しても、すべて素数となっています。

1+1+41=43 素数
4+2+41=47 素数
9+3+41=53 素数

100+10+41=151 素数

n に11,12, ... ,20を代入しても、すべて素数です。もっと驚くべきことには、n に31,32,... ,40を代入してもすべて素数になっています。

これらから帰納的に推論して、予想は正しいと考えたくなります。
しかし、この予想は正しくはありません。

n=41 のとき、

nΛ2+n+41

は、1681+41+41=1763=41×43 となって素因数分解されてしまいます(つまり素数ではないということ)。

帰納法はこのように、証明するのには難しい論理なのです。





(「中高一貫数学コース2」/ 志賀浩二・著)


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戦争中、沖縄で集団自決を軍から強要されたというのは方便だったというひとりの方の告白から、歴史修正論者たちが勢いづきましたが、あれも帰納的な議論です。一人の方はそうだったかもしれませんが、アメリカ軍にとらわれになるよりは民族の誇りとなるよう死ぬことを教えられ、命令された人はほかにおおぜい存在するのです。一事例から全部が嘘だったと結論しようとするのが「帰納的飛躍」です。


元エホバの証人の掲示板にたまに書き込まれる、「自分の会衆ではそんなひどいこと起こっていなかった、自分は親に愛され、会衆の成員にも愛し愛されていた、だからあなたたちの言い分はマユツバだ」というような書き込みも「帰納的飛躍」です。これらはみな「証明」にはなりえない議論です。

「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」の著者の方々が言おうとしているのは、カルトの問題は被害者の個々の事例から法的に救済することを考えなければならない社会問題であって、演繹的に論証し、一般的な定義づけができないからといって、被害者を排除してはならない社会問題なのだ、ということです。わたしもまったく同感です。ひとりひとりの被害のケースはユニークな事例です。ですから教団そのものを即悪だとか犯罪団体だとは決めつけられないかもしれない。教団そのものを法で断罪はできないかもしれない。だからといって、被害者に責任を押し付けたり、被害者を非難したりするべきじゃありません。妙にお上品ぶって、前向き思考で生きていきましょうなどと、どうしてえらそうにお説教するのでしょう、一部の人たちは。

そういう人たちをここで暴露してみましょう。これはもうずっと以前から言いたかったのですが、掲示板の常連の方々からの総バッシングが怖くてできませんでした。でも今や自分のブログを持った以上、遠慮なく言ってやります。




--------------------------




若い人々の臨床心理学者志望は、自分自身の不安に根ざしていることが多い。自己存在、別の言葉で言えばアイデンティティが確立されていない弱さをカバーするために、「人を助ける」ことによって自分の存在価値を保証しようとしているのです。


…(中略)…

でも、自分の存在がきちんと確立されていない人、つまり自分の問題が自分で処理できない人が、相手を助けるという重い責任をちゃんとできるのでしょうか。

わたしは、そういう若い人たちに、学部生の間に自分をもういちど見つめなおしてほしいと思っています。





(「不思議現象 なぜ信じるのか」/ 菊池聡ほか・著)


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掲示板で、傷ついた人たちの吐露の言葉に食ってかかる人、矛盾点を探し出して議論を吹っかける人、お説教をする人、自分への賞賛を書き込ませるよう巧妙にまたは脅しにより操作する人、そういう人たちは「自分自身の不安」を解消しようとしているのです。他人に訓話をたれるというのはつまり自分のほうが「上」に立つということだからです。自分の存在価値をそこで証明できるのです。まして他人を真っ向から否定してやることは、どれほど自分の価値を高められることでしょう! 


いったいそんな人たちに、自分で言うほどのえらそうなお説教をするだけのどんな事実上の値打ちがあるのでしょうか。「自分の内心の不安」を他人を利用して解消することしかできない人が。

さてさて、ちょっとキツくなりましたが、本題である「カルト宗教…」の引用を続けましょう。




--------------------------




それではカルトが分類してみると、おおむね次の4つになります。

① 対社会的攻撃型
② 資金獲得型
③ 家族破壊型
④ 信者・構成員収奪型

…(中略)…

③は親子の断絶や離婚などの事件です。カルトの信者になったために、出家などで親子が断絶してしまう、夫婦が離婚に至ってしまうことが往々にして起きます。時にカルトに入信した親とともに、その子どももカルト内で生活させられるなどし、これに心配した他方の親やその両親(子どもから見れば祖父母)が、子どもをカルトから取り戻そうとして、トラブルに発展するケースもあります。

④は、信者の安全や健康を無視した無償労働、これに伴う事故や、パワーハラスメントやセクシャル・ハラスメントなど信者への虐待や性的収奪、児童虐待などがあげられます。マインド・コントロールを駆使した勧誘で、対象者を心理的な脅迫状態に置き、心をがんじがらめにして「熱心な信者」に仕立て上げます。その上で、そういった精神状態に陥った信者に対し、「労働基準法」「最低賃金法」などの労働法規の趣旨を逸脱した劣悪な信者管理を行い、信者を伝道活動の実践と称して、危険な地域に派遣したりもします。

それから施設内の子どもの人権侵害の問題もあります。カルトのなかでは、子どもも労働力のひとつとされ、カルトの歯車として、大人と同じように働かされ、教育を受ける権利が侵害されている例があります。希望した教育さえ受けさせられずに育った児童は、のちに成人してカルトを自らの意思で脱会した際にも、社会復帰の厳しさに直面して精神的に苦しむ結果となり、自殺してしまった子どももいますし、病気治療さえも受けさせられずに、施設内で死亡した例もあります




私たちは、こうした事件を継続的に引き起こす集団を、単に「カルト」、ときに法秩序、社会秩序を破壊する団体という意味で「破壊的カルト」と呼んでいます。カルトがこうした社会問題を引き起こしてきたからこそ、弁護士はカルトを法的なレベルでも問題にしてきました。ただふつうの人と違う考え方をしている、奇妙だからなどという理由で問題としてきたわけではありません。

もちろん、カルトにまつわる問題のなかには、法的な問題性が明らかなものもあれば、現状では同義的な問題にとどまるものもありますが、後者についても、道徳は法の源泉として時代のなかで次第に法として純化していくこともあります。ひと昔前までは問題とされることのなかったセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントが、今は「違法の問題」とされていますし、もちろん道義的な問題自体も、それ自身が社会問題になりうることを考えると、無視するわけにはいきません。つまりカルトの問題を考えるとき、その団体の活動がどのようなものであるか、すなわちその実態的考察が不可欠な要素となります。

ところがときに、知ったかぶりの知識人・評論家のなかには、こうしたカルトの実態を直視せず、「カルトの定義があいまいだ」などと、言葉の問題に矮小化させるような意見を言う人がいます。しかし、言葉には「水」「光」などといった、経験で理解できる帰納的言語と、物理学や数学で使われる、最初に定義ありき、の演繹的言語があります。すでに述べたように、カルトは演繹的言語ではなく、経験帰納的な概念言語です。この点を理解すれば、カルトの持つ実態こそが、この問題のいちばんの重要な問題であり、考えるべき対象であることがよくわかります。「カルト」の定義があいまいだと批判する人は、この点を大きく誤解しています。

人は、世界に存在する森羅万象のすべてを体験して知ることはできません。カルトの問題も同じです。つまり、カルトという言葉も、その実態を体験するなかで理解するか、少なくとも理解しようとする想像力がなければ、そもそも永久に理解できない言葉というよりほかありません。それはいわば「海」を見たことのない人が「海」のことを語られても、実感できない状況と似かよった心理状態といえます。



…ですから、本書を読んでいただいたみなさんには、知ったかぶりの知識人や評論家にならず、ぜひともカルトの深刻な被害の実態に、目を開いてほしいのです。国の政策は、最終的には国民が決めてゆくものです。この間、カルトの被害を実感せず放置してきたのは、実は、日本国民の問題でもあります。





(「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)


--------------------------




カルト宗教被害は、被害者個々人でそれぞれ異なっているので、それらすべてのケースを包括的に説明できる、一般的定義を定めることはできない、だからといって、カルト被害者を放置することはできない、とにかく被害者ひとりひとりを救済することを行わなければならない…と著者は訴えておられます。


いままでに経験のない病気にかかった人は、いろんな医者をまわりますが、たいていはどこでも原因不明ということで扱われます。診断基準がないからです。患者が苦しみを訴えても、医者は既成の知識で対応しようとすると、患者は理解されず、精神的にまいってしまいます。シックハウス症候群の子どもたちは最初、そのような経験をしました。身体の症状を訴えても、既成の知識ではどこも悪いところは見出せないのです。そのうち、患者の子どもたちのほうが、ふつうの子と違うということで、疎まれるようにさえなるのです。しまいには、「甘えている」、「仮病だ」などと教師にののしられるようになりました。既成の知識を大前提にして「演繹的に」症状を推論しても、新しい病気は理解できないのです。うつ病にかかった人も最初は「甘え」「がんばりが足りない」としか見られなかったではありませんか。

カルト被害者も同様です。被害者一人一人のケースを、既成の知識で対処しようとするのではなく、個々人を独自の例として、共感的に対処していかなければならない、と著者はここで強調しておられるのです。それがここでいうところの、「帰納的」言語で語るという意味です。帰納的思考はものごとを証明しようとするのには危険な思考ですが、カウンセリングの立場から見れば、既成の枠組みにとらわれない、個人を尊重した思考法として、なくてはならないものでもあるのです。

問題なのは、カルトの定義(もちろん、物事を扱うのに、定義を定めるのは大切です。そうやって新しい事情はマニュアル化されてゆくのですから)ではなく、個々人にカルトが実際に被害を及ぼしている、という実態なのです。

実態を共感的に想像し、理解しようとしなければ、人権侵害の問題は扱うことができないし、実態を知ろうとせずに、自分の賢さを印象づけるためだけに、理論的な議論をしようとする人たちには人権という問題を口にする資格さえない、という著者たちの憤りのこもった文章に、わたしはいたく感動しました。ほんとうにそのとおりだと思います。

従軍慰安婦のこと、南京での虐殺事件、靖国神社に祀られている台湾や韓国からの徴集兵たちの家族の心の痛み…。そうしたことをあたまから否定し、旧日本軍の思考と価値観をごり押しする人たち、石原都知事のように外国人差別、女性蔑視を公然と発言する人たちが、そんな人たちが、いま日本でもてはやされています。歴史の修正はこうした国民意識に支えられてもいるのでしょう。教育基本法「改正」から憲法改正に至る道筋を「順調」に進めるのは自民党だけではない、日本国民の無関心というエゴイズムに支えられているのです。

したがって、カルト宗教被害者にとって、今は逆風の時代です。日本の現状に今、国民個人個人の尊厳よりもまず国家の対面を優先、という思想が優勢になっている時代です。それはそのまま、教義や神のために個人などいくらでも犠牲になっても問題じゃないという思考とまったく同じなのです。誰か人間を神格化して、その人に威光を与え、それに評価されることで自分に自信を与えようと考える人々、それは国家に命をささげて靖国神社に行こう、という思考とまったく同じなのです。さしずめ、エホバの証人の場合は、「組織に人生を捧げつくして王国へ行こう」というものでしょうね…。

石原都知事の発言をたいしたことはないと考える人が東京都民には多いということをわたしはよく知りました。そういう人たちは、学校でのいじめの問題について発言する資格はないのです。ことばがどれほど凶器となりうるか、その実態に共感しようとしない人なのですから、そもそもいじめ問題を理解することすらできないでしょう、そう、だからこそ、東京都の教育は超反動化しているのです。

わたしは、元エホバの証人です。集団のなかで意図的に孤立させられるということがどれほど心を痛めつけることか、また言葉による表面上はそうはみえない巧妙な中傷がどれほど深刻な傷を深く刻み込むのか、わたしはよーっく実感できます。ですから、今の日本の流れには断固抵抗します。エホバの証人のような宗教には徹底的に批判を加え続けます。そうすることが、エホバの証人として過ごした人生を無駄にしない唯一の方法だと確信しています。その経験から知恵を引き出さなければ、エホバの証人時代の人生はほんとうに無意味なものになるでしょう。「知ったかぶりの知識人」タイプのご立派な元エホバの証人の方々が言うように、経験から知恵を引き出さず、ただ単に昔のことを見ないように、忘却してとにかく自分のことに没頭して生きるだけなら、ほんとうにあの時代、あの時間は無意味で無駄なものになるのです。だからわたしは、エホバの証人のような宗教によって傷つけられた人だけでなく、全体主義の犠牲にされてきたすべての人たち、切り捨てられ、排除され、バカにされ、低められてきたすべての人に、まず共感する人間でありたいと、そういう人間でありたいと、決意しているのです。

この本を、元エホバの証人の方々にはぜひお勧めします…がちょっと高めの値段なんですが…。
ISBNは、978-4-7762-0393-3です。全部読んだら、また一本記事を書きますね。今回は書きながらちょっとアツくなりました。

はー、タバコ一服吸っちゃお。






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資料:エホバの証人の輸血拒否の現場

2007年01月17日 | エホバの証人のこと、宗教の話
以前から、「エホバの証人情報センター」に投稿されたこの記事を探していたんですが、ようやく見つかりました。エホバの証人の「輸血拒否」の極端な例の資料として、ぜひ掲載したいと思っていたのです。ひとつ、注意点がありますが、元エホバの証人として見ても、これは極端なケースです。わたしの周りのエホバの証人にはここまで極端にエキセントリックな人(以下の記事の中の母親のような人)はいませんでした。しかし、輸血の必要が医師から告げられると、輸血問題専門に訓練されたエホバの証人のスタッフが、患者のもとや病院に押しかけたりするのは事実です。また、治療や患者への関心が、輸血拒否の対応の二の次になりがちなことも事実です。

また、この投稿は、「エホバの証人情報センター」の管理者により転載が許されているものです。


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エホバの証人の自殺と輸血拒否の問題-精神科医の方より
(3-7-05)


始めまして。輸血に関しての疑問を持ち、2chからここに誘導してくださった方がおりましてメールをさせていただきます。

私は某大学付属病院に勤める精神科医です。申し訳ありませんが仕事上の都合と患者様のプライバシーの為友人のアドレスから送らせていただきます。

ここ2週間ほど前でしょうか。精神科への受診をかたくなに拒否し、何度も自傷行為を繰り返しとうとう亡くなられた方がおられます。

私は精神神経科でも特に救急室勤務で勤めておりまして、希死念慮からくる自死企画、自傷行為、規定量を大幅に超えた服薬の処置等をすることが多く毎日を生と死の狭間に仕事をしております。それゆえ「死」という概念が他の方より重要視できなくなる事もしばしばだったのですが、あまりにも心残りな亡くなりようをされたある若い女性についてどうしても納得が行かず、ここ数週間考えております。

まず、その患者様の経緯からお話させて下さい。

半年前ほどからになります。必ず夜中に酷い自傷行為をしては救急隊に運ばれてくる若い女性がいらっしゃいました。主に腕を中心に一箇所に十数針も合わせなくてはいけない創傷をいくつも作っては血液まみれで運ばれ、出血とショックのため意識は混濁していました。こういう症状を良く「リストカット」というのですが、大体の患者様は傷を創り、血を有る程度流す事によって気分を落ち着かせることができます。その傷は大抵5㎝未満でしょうか。けっして死にたいが為にする行為ではなく、感情処理に対する一種の「代償行為」として行なうことが多く、その嗜癖はなかなか寛解に到ることは出来ないのですが、これによって自死を遂げるという事もありません。しかし彼女の場合は来院のたび血管、神経を損傷し、縫合以外の処置も行なわなくてはなりませんでした。

お解かりでしょう。「輸血」を提案したのです。彼女は意思表示が出来ません。この場合親族に決定権が委ねられます。この時救急車で母親が付き添ってらっしゃいました。もちろんその方にお話しするわけですが、母親は全く話にならなかったのです。なぜなら母親は救急車の中から要救助者の娘に対し、わめきちらし、罵倒の言葉を浴びせ続けていたのです(救急隊の話より)。もちろん処置室に入っても私達から見れはありえないような罵声をあびせ続け、甲高い声で「神がどうの・・・」といった発言を繰り返して治療の妨げとなったため、外へ出て行って貰って頂いたほどの状態だったのです。

もちろん母親は輸血を力強く拒否しました。そして今から牧師?(に当たるような方でしょうか)を呼ぶので絶対にするな、裁判を起こすと言われ全く面食らったのは言うまでもありません。もちろん拒否する権利は患者様にあります。緊急的な事態ではなく、血液を直接入れたほうが回復が早い旨を申し上げたのです。血液損失の際に「吹き出ている」様な状態でなければ、また患者様の身体にまだ余裕があるような状態であれば薬品を使います。なぜなら血液を媒体として入る疾病のリスクを私達は良く知っているからです。ほどなくしてその方々数名が現れ、教会指定の書類でしょうか、治療者として当然存じ上げています!というような事項を一時間以上に渡ってレクチャーされ、私は仕事になりませんでした。彼女は貧血状態のまま呼吸も浅く(つまりその間なんの処置も施せなかったのです)、入院をして頂かなくてはならない旨申し上げましたが、断固として連れて帰る、弁護士を連れてくると言い出し大騒ぎになり、私は医療保護入院の措置をとらざるをえなくなりました。こうして彼女は一日だけ入院し(措置が施せる時間が決まっているので)迎えの母親は、まったく彼女の状態を聞こうとせず、彼女に目もくれず退院しました。私は強
く精神科への受診を勧めたのですが、まったく話になりませんでした。

それから計6回にわたって来院のたび上記のような事が繰り返され、この親子は救急外来の名物となりました。まだあどけなさを残したような彼女の残忍な自傷行為と、それ以上に残忍な母親の態度にです。普段冷静な救急部のスタッフも彼女に同情し、「絶対に助けてあげるからね」とナースたちは声を掛け、医師たちは憤慨しました。私が彼女の来院を担当したのは3回でした。そしてその3回目で彼女は無念にも亡くなってしまいました。

首にある重要な血管にかみそりを思い切り突き刺し、1cmも刃の部分の無い物でそこに到達させたのです。ためらった跡はありませんでした。たったひとつ、4cm程度の傷でした。血管に傷を付けた瞬間に、血液は吹き上がり助かる見込みはほぼ無かったと言って良いでしょう。母親は救急車を要請します。しかし、助かる見込みの無い、もしくは搬送中に亡くなってしまう要救助者に対し、救急隊は応えません。それでも事情の分かっていた隊員が私がいた救急室へコールをしました。普段でしたらこのようなことはありません。ですが私も引き受けるといい、助かる見込みを信じたい気持ちでいっぱいでした。外科の医師はバタード(虐待)通報をする用意があったと教えてくれました。救急車が到着し、扉を開けたとき、無念な気持ちで一杯になりました。車中が血液で真っ赤だったのです。すでに死亡確認もされ、何分も経っていました。それでも運び込み蘇生を試みました。そこに居たすべてのスタッフは奇跡を願いました。反応が出て欲しい、必ず精神科に受診させる、彼女のこれからの人生を助けよう、そう思いました。そこへ母親は飛び込んできて、こともあろうかこう言ったのです。

「輸血しないで下さい!」

私は怒りで一杯でした。外科医は「あんたの娘さん、死んでるんだよ!」と叫びました。

医者は聖職者ではありません。死人を生き返らせることも出来ません。その人本人が生きる、その手助けをさせてもらうだけです。だからこそ生に、死に、特別な思いを持ち、それが私達の仕事の礎です。

私がこの仕事について20年以上になろうとしていますが、これだけ命というものを大切に見つめない方は初めてです。

そして我が子の命をも守ろうとしない事も。

人間には全て心があり、臓器と同じように心も壊れてしまう事があること、これはこの宗教では認められないことなのでしょうか?

精神科に通うことは罪ですか?

私は宗教の否定はしません。精神科に受診なされた方の半分ほどは何かしらの信仰や神を持っていらっしゃいます。私達におぎなえない心の満ちたりを感じていらっしゃるのでしょうと思います。ですからエホバという宗教が納得できないのです。

保護措置をとっていたら、受診をもっと強く勧めていたら、と後悔の念で一杯です。

エホバの証人という宗教の生命への理念を教えてください。
                                       
             長文失礼致しました。






《編集者より》
貴重な症例を教えていただきありがとうございました。重要な症例でありながら、お返事が遅れて申し訳ありません。同じ臨床に携わる医師として、この症例がいかに重要であるか、私も充分に理解いたします。もしまだやられていないのであれば、これは正式に症例報告を行なうべき例であると思います。

まず基本的な情報ですが、エホバの証人の輸血拒否と生命への態度はこのサイトと関連した、「エホバの証人と血の教え」にある多くの文書を参照して下さい。また、エホバの証人の精神科医に対する特別な見方は、「エホバの証人と精神疾患」のページをご覧下さい。

この症例が特に重要な理由は幾つかありますが、あなたも指摘されているように、自殺の意志が他の自殺未遂の例に比べて、自傷の方法や傷の深さから、かなりはっきりしていて強いように見えます。輸血を拒否する自殺者の輸血をどのように扱うかは、医療倫理の関係者の中で解決を見ていない問題です。事故や産科手術に伴う大量出血の場合には、輸血を拒否する意志と生存を望む意志とは一貫性がないわけで、本人の真の意志を引き出すことが常に問題になり、インフォームドコンセントや「医療に関する事前の指示および継続的委任状」の信頼性が問題になってくるわけです。しかし、自殺をはっきり表明した人間が輸血を拒否する場合、その二つの意志は一貫性があり、そこに疑問を挟む余地はなくなります。更にこれは更に大きな倫理上の問題である、自殺者の自己決定権をどのように尊重するかと言う大きな問題につながります。それはまた、全ての自殺を精神の病気として扱うのか、自己決定権としての自殺は社会として尊重されるのか、という問題があります。日本ではそのような見方はまだないと思いますが、私が診療しているアメリカ・オレゴン州では、死期が近づいている患者に限り、医師の処方による自殺が認められています。これはアメリカ50州の中で、オレゴン州だけですが、オレゴンで診療する医師として、私は精神疾患によるのではなく、自己決定権としての自殺を選択する権利を尊重しています。このような患者を扱う場合の大きな課題は、そのような自殺を望む患者の中から、精神疾患の患者を見つけ出し必要な治療を与えることと、精神疾患でない自殺志願者を見極めることです。あなたも充分経験されているように、多くの自殺志願者は、精神疾患の治療によりそのような意志はなくなり生きる希望を持つことができます。この症例も充分な精神医療の診断と治療を受けられなかったことは、ものみの塔協会の教えの影響であるにしても、残念なことだと思います。この問題を扱う多くの医療従事者への提言にもなると思いますので、是非症例報告を考えて下さい。


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Interlude 2

2005年04月03日 | エホバの証人のこと、宗教の話
ちょっといたずら心を起こして、現役さんの掲示板を覗きました。

エホバの証人のひとりひとりはやさしくっていい人なのに、組織人として振舞うようになると官僚的で人に思いやりを持てなくなる、キリストの教えを広めていながら聖書に出てくるパリサイ人のように振る舞うのは悲しいことだ、こんな矛盾があるのは組織第一にする考え方のせいだという感想を見ました。この手の人って、エホバの証人として医療拒否して死に至らせるようなこともひっくるめて、擁護しようっていう考えの人です。

所属する成員がいい人だから、欺きの教理に従わせる自分たちの宗教を擁護する。これって偏っているって思いません? だってそれじゃふつうの世の中もファシズムの国も同じだもん。ひとりひとりはあたりまえの人間よ。ふつうのお父さん、ふつうのお母さん、ふつうの男の人、ふつうの女の人よねー。それをエホバの支配を受けつけないから、裁きの日には滅ぼすっていうくせに。ファシズムの体制下にいる人たちだって、人を抑えつけることや、人を疑い見ることをほんとうはいいとは思っていません。逆らって怖い目を見るのがいやだから、しかたなく黙っているだけです。だったら「この世」の人たちをもっと寛容に包んであげればいいのに。なにも殺すことないじゃん。

エホバの保護を信じれれば勇気を持って行動できるはず(エホバに献身するという行動)だっていうエホバの証人もいます。じゃあ、自分たちも勇気を持って会衆内で発言し、行動を起こして改善するようにすればいいんです。インターネットでつらつら恨みごとを言ってないで。そういうふうに意見されると逆ギレして、あれこれ屁理屈言い立て、あげくに意見した人の人格攻撃を始めて、泥仕合にひきこんでゆく。卑怯よねー、そういうのって。ちょっとまとまってないけれど、思ったことでした。

ワタシ今、夜のアルバイトしています…。11時までだけれど。けっこう楽しいんです、これが。では、これからいってきま~す!
コメント (2)
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