Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「超国家主義の論理と心理」の目立った点~森友学園問題に寄せて

2017年03月10日 | 平成日本の風景

 

 

 

 

 

 森友問題にはため息をつかせられる。教育勅語自体はいいものだ、という開き直りにだれも明確な反論を言わない。この問題を追及して安倍政権に打撃を与えるには、もちろん、法的に追求できる問題、払い下げの違法性を問題にするべきだ。だが、この問題は、日本人の内面の暗闇を浮き彫りにしたようにわたしには見えてならない。

 

 ここでちょっと大変なのだが、丸山眞男の名論文、「超国家主義の論理と心理」を読んで、日本の真の病理は何かを突きつけてみたい。

 

 


 

(以下引用文)--------------

 

 


 まずなにより、我が国の国家主義が「超(ウルトラ)」とか「極端(エクストリーム)」とかいう形容詞を頭につけている所以(ゆえん)はどこにあるかということが問題になる。近代国家は国民国家(ネーション・ステート)と言われているように、ナショナリズムはむしろその本質的属性であった。こうしたおよそ近代国家に共通するナショナリズムと「極端なる」それとはいかに区別されるのであろうか。

 

 ひとは直ちに帝国主義ないし軍国主義的傾向を挙げるであろう。しかしそれだけのことなら、国民国家の形成される初期の絶対主義国家からしていずれも露骨な対外的侵略戦争を行っており、いわゆる19世紀末の帝国主義時代を俟たず(またず)とも、武力的膨張の傾向は絶えずナショナリズムの内在的衝動をなしていたと言っていい。我が国家主義は単にそうした衝動がより強度であり、発現の仕方がより露骨であったという以上に、その対外膨張ないし対内抑圧の精神的起動力に質的な相違が見いだされることによってはじめて真に「ウルトラ」的性格を帯びるのである。

 

 

 

(「超国家主義の論理と心理」より第2章の転載 / 丸山眞男・著 / 「世界」1946年5月号への寄稿)

 

 

 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 日本の戦中戦前の国家主義は「超(ウルトラ)国家主義」あるいは「極端(エクストリーム)国家主義」と言われているが、そもそも近代国民国家はナショナリズムをその本質的特性としているのに、なぜ、日本の場合は「超(ウルトラ)」だの「極端(エクストリーム)」などという接頭語をつけられるのでしょうか。侵略戦争ならイギリスをはじめ、ヨーロッパ先進国だってやってきたことです。それにもかかわらず、日本のナショナリズムが「ウルトラ」呼ばわりされるのは、「対外膨張ないし対内抑圧の精神的起動力に質的な相違がある」からなのです。

 

 

 

(以下引用文)--------------


 

 

 ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットが言うように、中性国家たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、このような内容的価値から捨象された、純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。

 

 近代国家は周知のごとく、宗教改革につづく16,17世紀に亘る(わたる)長い間の宗教戦争の真っただ中から成長した。信仰と神学をめぐっての果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、他方、王権神授説をふりかざして自己の支配の内容的正当性を独占しようとした絶対君主も熾烈な抵抗に面して、漸次その支配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしむるのやむなきに至った。

 

 かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、思想信仰の道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系のなかに吸収されたのである。

 

 

 

(同上)


 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 ここの記述は重要だと思います。カール・シュミットについてはwikiで調べてください。ナチス時代のドイツの政治学者らしいです。それによれば、近代国家では、道徳や信仰などの「内容的価値」については個人の内面の問題として国家は介入せず、個人の意向に任せ、また「内容的価値」の選択も個人に委ねて尊重する、個々人が集まって社会生活を営むに必要な秩序維持という外面的な目的のために、国家権力は「法体系に従った手続き」という形式に則って執行される、ということです。

 

 このような考え方は、近代国民国家を生み出したヨーロッパの血まみれの宗教戦争への反省に由来しています。一方の信条が絶対正義で他方は悪とするような考え方で政治を行うことを断念し、思想信条に多様性を認め、尊重する寛容の精神が唱えられるようになりました。政治権力は個々人の内面の支配からはいっさい手を引き、公的秩序の維持だけを目的とする、ということで合意したのでした。

 

 だから、稲田朋美が代表を務める「道義国家云々」の会などは明らかに近代国家の定義に反しているし、塚本幼稚園で行われている「教育プログラム」は明らかに、個々人の内面を当人の自由選択に任せず、一部の大人たちの考え方を押しつけている点でも、近代主義に真っ向から反するものです。

 

 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 ところが日本は、明治以後の近代国家の形成過程においてかつて、このような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとはしなかった。その結果、日本の国家主権は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。幕末に日本に来た外国人はほとんど一様に、この国が精神的(スピリチュアル)君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)との二重統治の下に立っていることを示しているが、維新以後の(日本の)主権国家は、後者およびその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し、集中化することにおいて成立した。「政令の帰一」とか「政刑一途」とか呼ばれるこの過程において権威は権力と一体化した。しかもこれに対して内面的世界の支配を主張する教会のような勢力は存在しなかった。

 

 やがて自由民権運動が華々しく台頭したが、この民権論と、これに対して「陸軍および警視の勢威を左右にひっさげ、凛然として下に臨み、民心をして戦慄」(岩倉公実記~岩倉具視の著作物)せしめんとした在朝者との抗争は、真理や正義といったものの内容的価値の決定を争ったのではなく、「上(かみ)君権を定め、下(しも)民権を限り」といわれるように、もっぱら個人ないし国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。

 

 およそ近代的人格の前提たる、道徳の内面化の問題が自由民権論者においていかに軽々に片づけられていたかは、かの自由党の闘将河野広中(こうのひろなか;wiki参照)が自らの思想的革命の動機を語っている一文によく表れている。その際、決定的影響を与えたのはやはりミルの「自由論」であったが、彼は、

「馬上ながら之を(「自由論」を)読むに及んでこれまで漢学、国学にて養われ、ややもすれば攘夷をも唱えた従来の思想が一朝にして大革命を起こし、忠孝の道位を除いただけで、従来持っていた思想が木っ端微塵のごとく打ち壊かるると同時に、人の自由、人の権利の重んずべきを知った(河野播州伝、上巻)」
…と言っている。

 主体的自由の確立の途上において真っ先に対決されるべき「忠孝」観念が、そこでは最初からいとも簡単に除外されており、しかもそのことについて何らの問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴した「国権」論の中に埋没したのは必然であった。

 

 かくしてこの抗争を通じて個人の自由はついに良心に媒介されることなく、したがって国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至らなかった。そうして第一回帝国議会の招集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。

 

 

 

(同上)


 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 日本のナショナリズムが「ウルトラ」あるいは「エクストリーム」と呼ばれるゆえんはまさに、国家が「道義」を決めよう、国家がただ一つの道義を体現しようとするところにあるのです。明治新政権は実権を握っていた幕藩体制の支配(それが「多元的」と書かれているのは、幕府が支配したのは各藩の大名たちであり、藩の領民たちはその各大名たちが支配していたから。こういう複雑な支配のしくみを指して「多元的」と呼んでいる)を天皇のスピリチュアルな「権威」に融合することによって、つまり、「内容的価値」を個々人の内面の自由から引き離して、それを国家によって決められ、与えられるものとし、つまり人間の多様性を否定し、国家にとって都合のよい単一の「人格」を一様に国民に植えつけようとした点がまさに「質的な相違」だった、それゆえに、日本のナショナリズムは「ウルトラ」であり、「エクストリーム」だったのです。20世紀最初の軍事作戦としての自爆攻撃を組織したところまで突き進むともうそれは「エクストリーム」を越えて「エキセントリック」あるいは「ファナティック」といってもいいでしょう。そんな「質的相違」なナショナリズム涵養の意志表明がまさに、第一回の国会開催直前の、教育勅語の発布だったのです。

 

 これは現代でも同じだと、わたしは思っているのですが、自由民権を擁護する、あるいはリベラルを自称する人たちさえその点を理解していないか、実践していないことが、真の近代主義が日本で育たなかった重要な原因となっていると思います。ここに挙げられている例では、河野広中が、自由民権運動を展開しながら、実は「忠孝」といった封建日本のゆがんだ儒教風の道徳観を総括できなかった、そんな風潮がやがて、大正デモクラシーをしてやがて昭和ファシズムの前に霧消せしめた、とされています。

 

 これとまったく同様の事態がわたしたちの眼前で繰り広げられています。教育勅語のなかから、親孝行(まさに「忠孝」の道徳則)、勤勉などの項目を切り出して、「これのどこが悪い」と開き直られたときに、リベラル派コメンテーターたちはもごもごと口ごもるか、反論しても明快とは言えないくどくどしいことしか言えないでいます。戦後、リベラル全盛の時代にも日本では依然と家父長制、年齢序列、子が親に気を遣うことを美徳とする「忠孝」則、体罰美化、根性論的精神主義は称揚されてきました。スポーツやTVドラマを通して。だって、いまだに高校野球は全員丸坊主です。あれは軍隊の習慣でした。個性を忘れさせるためです。それが21世紀のいまだに暗黙の了承とされているのです。

 

 ちなみに親孝行について言えば、子が親に従わなければならないのではない、親が子に気を配り、子どもが高い自尊心を培うよう指導し、真に自立してゆけるよう育てる義務があり、子どもはそういう教育を期待する権利があるのです。「忠孝」則はこの点で主格が転倒しています。さらに、学校のこまごました校則も、生徒の精神的成長とは逆の目的があり、それは、たとえ憲法の内面の自由に抵触していようが、直近の大人たちの脳内に生き残る「子どもらしさ、若者らしさ」観に従え、とにかく直近の権威者の方に従え…という意味の、旧態道徳の押しつけであり、近代的人格の養成というよりは、旧態依然たる「年少者は年長者に文句を言わず従え」式の道徳の押しつけなのだと、わたしは思っており、かつそうした考え方に強い憤りを持って反発を覚えるのです。そんなこんなで日本では近代的自由主義はまったく根づいていなかったといっても過言ではないでしょう。

 

 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 果たして間もなく、あの明治思想界を貫流するキリスト教と国家教育との衝突問題がまさにこの教育勅語をめぐって囂々の論争を惹起したのである。「国家主義」という言葉がこのころから頻繁に登場したということは興味深い。この論争は日清・日露両役の挙国的興奮の波の中にいつしか立ち消えになったけれども、ここに潜んでいた問題は決して解決されたのではなく、それが片づいたように見えたのはキリスト教徒の側で絶えずその対決を回避したからであった。

 

 今年(1946年当時)初頭の詔勅で天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤がなかったのである。信仰のみの問題ではない。国家が「国体」において真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれなのだ。

 

 国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は、単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためかという内容的な決定をさえ「天皇陛下および天皇陛下の政府に対し(管理服務紀律)」忠勤義務を持つところの官吏が下す、という点にその核心があるのである。そこでは、「内面的に自由であり、主観のうちにその定在(ダーザイン)をもっているものは法律の中に入ってきてはならない(ヘーゲル)」という主観的内面性の尊重とは反対に、国法は絶対価値たる「国体」より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによって、いかなる精神領域にも自在に浸透しうるのである。

 

 従って、国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は、およそ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来、いっさい存在しないこととなる。わが国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことがいまだかつてないのである。この点につき「臣民の道」(wiki参照)の著者は「日常われらが『私生活』と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業(=天皇への奉仕という臣民の務め)を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。 ~中略~ かくてわれらは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」といっているが、こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行とともに現れ来ったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。したがって私的なものは、すなわち悪であるかもしくは悪に近いものとして、何ほどかのうしろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによってうしろめたさの感じから救われようとするのである。

 

 漱石の「それから」の中に、(主人公の)代助と嫂(あによめ。=兄嫁)とが、
「一体今日は何を叱られたのです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽くす、には驚いた。何でも十八の年から今日までのべつに尽くしてるんだってね」
「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」
「国家社会の為に尽くして、金がお父さん位儲かるなら、僕も尽くしても好い」
…という対話を交わすところがあるが、この代助の痛烈な皮肉を浴びた代助の父は日本の資本家のサンプルではないのか。こうして「栄え行く道(野間清治・著)」と国家主義とは手に手をつなぎ合って近代日本を「躍進」せしめ、同時に腐敗せしめた。「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存する、というこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

 

 

 

(「超国家主義の論理と心理」より第2章の転載 / 丸山眞男・著 / 「世界」1946年5月号への寄稿)

 


--------------(引用終わり)

 

 

 

 国家のために考え、国家のために自分のしたいことを抑え、国家のために服従しなければならないだけではない、内面の自由が侵食されきった社会では、「何が国家のためか」ということさえ国家が決めるのです。

 

 ここでドイツの哲学者ヘーゲルの難解な表現の文章が引用されていますが、わたしもヘーゲルが何を言ったのか詳しいことは知りません。しかしここでいわれているのは、近代国家であるなら、個々人の内面を法律で縛ってはならない、という理解でも大きく間違ってはいないでしょう。それとは反対に日本のウルトラナショナリズムは、国家が道徳的倫理的権威の体現であるため(おそらくそれが「國体」の正体だろうと想像します)、哲学、文学の人文学領域だけでなく、科学・芸術からそれこそ日常のルーティンワーク領域まで国家は干渉しうるのです。また事実干渉してきたのです。国家が道徳の体現であるなら、どんなことでも国家がよしとしたことが基準になるからです。これはまさに宗教原理主義というとらえ方が現代のわたしたちには理解しやすいでしょう。イスラム過激派と同様の性質の、そう、旧日本の「超国家主義」はまさに宗教原理主義だったのです。それゆえに「超(ウルトラ)」、「極端(エクストリーム)」だったのです。非合理的な思考、非合理的な判断、非科学的な判断が「八紘一宇」だの「一億総玉砕」だのという無内容な叫喚的スローガンで、根拠のないことを隠ぺいして、行き当たりばったりの政策・軍事作戦が推し進められたのでした。

 

 

 元エホバの証人の方々は、政府による内面干渉ないし指導要綱である「臣民の道」の上記引用文をみて気持ち悪くなったでしょう。まさにエホバの証人の「教育」内容そのものです。
「日常われらが『私生活』と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業(=天皇への奉仕という臣民の務め)を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。 ~中略~ かくてわれらは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」
エホバの証人の日本語教材では「臣民」はその通り使われていましたし、「天業」をエホバへの奉仕、「天皇」をエホバに置き換えれば、そのまんまものみの塔の研究記事かと錯覚します。エホバはいついかなる時も信者を見ている、それを意識して行動せよ、ということで、まさにフーコーのパノプティコン社会を実現させようとしていたのでした(フーコーの「監獄の誕生」についてはwikiで調べてみてください)。わたしはエホバの証人問題とは全体主義の問題だと主張していますが、その根拠は今日ここで述べたことです。だから、元エホバの証人の多くがネトウヨになるのを見るにつけ、こいつらは何にも目覚めていないな、まったく「マインドコントロールは解けて」いないな、と思うのです。

 

 

 丸山眞男に戻りますが、こうした内面の自由の浸食&支配はなにも昭和ファシズム興隆によって生み出されたものではなく、まさに明治維新の時期から日本人に刷り込まれていたものであり、その指針となっていたのが教育勅語なのです。そして内面の自由が国家によって支配されてしまっている中においては、「私的領域」というのは原理的に存在しえず、個人的な欲求についてはその一つ一つについて後ろめたさを感じなければならない、だから、なにかにつけて、「お国のため」という大義名分をこじつけるのです。その例が夏目漱石の小説から引用されていますが、うしろめたさを感じているうちはまだかわいいもので、開き直ってくると逆に「お国のために」等の大義名分で、何でも自分の好きに行おうとするのです。森友学園の園長は「強い日本を背負って立つ人材育成のために教育勅語の精神で育てる」学校開設のために、ありとあらゆるごまかし、国会議員による便宜利用などを平気で行うのです。それが「国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に侵入する結果となる」ということなのです。

 

 この論文の第3章にはもっと衝撃的なこととして、こんな一文もあります。

 


 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らのうちに、國体として持っており、したがって国家の対内および対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的基準には服しない、ということになる。

 

~(中略)~

 

 わが国家主権は決してこのような形式妥当性に甘んじようとしない(=内容的価値の独占&支配・操作をやめようとしない)。国家活動が国家を超えた道義的基準に服そうとしないのは、…主権者(=天皇の権威をかさに着る官僚)自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真善美の極致(「皇国の軍人精神」/ 荒木貞夫・著 8ページ)」とされるからである。

 

 したがってこの論理が延長されるところでは、道義(あるいは正義)は、こうした國体の精華が、中心的実体から渦紋状に世界に向かって広がってゆくところにのみ成り立つのである。「大義を世界に布く」と言われる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。大義と国家活動は常に同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それとともに、行動することがすなわち正義とされるのである。「勝った方が正義」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特性が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるがゆえに、いかなる暴虐なる振る舞いも、いかなる背信的行動も許容されるのである!

 


 

(同上3章)


 

--------------(引用終わり)

 


 

 日本自身が「真善美の極致」の体現であるがゆえに、日本を越えた倫理観道義基準に従わなくていい、だから捕虜の扱いに関する国際条約に頓着しないし、日本の行動はすべて正義の基準なので、南京事件などの戦争犯罪もも「しようがなかった」、戦争犯罪も「当時としてはほかに取るべき道はなかった」などと無責任を鼓吹し、平気で某局せしめようということができるのだと思います。そしてそれは国家による隠ぺいだけでなされるものではなく、明治より刷り込まれてきたものであるがゆえに、まさに国民自身がその無責任の遂行者として率先できるのです。

 

 日本会議も籠池園長も稲田朋美も安倍晋三も、彼ら自身だけが特異なのではない、わたしたち国民のうちに、真の近代人としての資質が十分に育っていないのではないか、だから、教育勅語のなにが悪いと開き直られてすぐに明確に反論できないのだと思います。

 

 

 

 集中力が途切れてきたので、中途半端ですが、ここでいったん、筆をおきます。時間があるときにまた、第3章も読んでみたいと思います。

 

 

 


 

 

 

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