Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

男たちへ…

2009年12月31日 | 一般



めまぐるしく変わる時代に合わせて、めまぐるしく生きなければならないのはなぜなのか。何のために自分は生きているのか。生涯に一度くらいは、そのことを考えてもよかろうかと、私は思うのです。だって、生涯は一度きりなのだから 。



(「勝っても負けても」/ 池田晶子・著)

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「人並み」であるように。「上」でなくてもいい、とにかく「下」でないように。これがわたしたちの生活の営みの原動力になってきたように思う。

高度経済成長期よりこのかた、家族のことをまったく顧みずに、仕事に没頭して生きてきたのは、「家族を養うため」という標語に飾られた逃避であった、ということが、21世紀、メンタルヘルスの知見が市民権を得る寸前まで来ているいま、広く知られるようになった。そう、それは家族という人間たちと心を開いて触れ合うことを怖れたのだ。

なぜ怖れたのか、何を怖れたのか。



自分という素の存在が見下されるのではないか、という恐怖であり、それは他人が実際にそう言うのを聞いたからではなく、自分で自分を恥じているからに他ならないのだった。自分に自信が持てないのだ。

自分を矮小に思う、「自分」という人間の誤った認識が、自分に化粧を施して人目に堪える見かけにしなければならない、そういう気持ちから経済力を大きくすることに精力のすべてを傾けてきた。

それが20世紀の終盤あたりになって、破綻が明らかとわかる現象に、日本の社会は見舞われてきた。家庭の成員の分解、少年少女たちの愛への飢餓とその発露としての暴力、自己破壊行動、などからはじまり、大人たちは自分たちの来し方を、全霊をこめて正当化しようとする。そうだ、荒れる新世代たちと離れてゆく女たちを否定するのだ、「お前たちが間違っている」!

その正当化する理由づけとして、アメリカからやってきた新しい思潮が一世を風靡した。新自由主義だ。人生とは淘汰されるか生存するかの、過酷な競争である、ひとは自己責任でその闘いを生き抜かなければならない。倒れたらそれでおしまい、老いのために力尽きてもそれでおしまい、病に倒れたらそれでおしまい、自分の死にざまも自分で責任を持て、という考え方だ。

こんな厳しい人生を生き抜くのだ、愛だの団らんだの甘ったるいことを夢見てはいられないのだ、とでもいうかのように、荒れる子どもたち、夫から逃れようとする女たち、市民として生きようとする障害者たち、そして自分でも歯がゆいほど身体を自由に動かせなくなった老人たち、もちろん、社会から排除された脱落者たちも含めて、「面倒をかけさせられる連中」はバッシングされる時代になった。

だが、とくに「老い」に関して言えば、いずれすべての人々が直面する問題なのだ。若いうちは、「そのときになりゃ、潔くこの世を去るさ」などとうそぶいていられるが、実際に老いに直面するときには、そういううそぶきのほうが「甘えた」考えだったのを知ることになる。



違う、違う。


カネと富を追い求めても、追い求めても、欲望は次から次へと膨らんでゆく。決してお前は満足することがないだろう。「自分」を大きく、美しく飾ろうとする活動の果てに「経済大国」のメンツがあり、しかし実は、それこそ夢幻のものでしかないのだ。お前たちの心を癒すのは、虚飾・虚栄ではない、そう、隣にいる人間たちだ。ひととひとの心の交流こそ、生きることに充実感を与えるものなのだ。なのにお前たちはなぜそんなに表情を尖らせて、めまぐるしく動くのだ。顔を「上」に向けるのはもうやめなさい。隣にいるひとに向き合ってごらん。

女房も恋人も子どもたちも、お前の地位や名声への執着などにはもう辟易している、「どうしてそこまでして働くのか」と。そしてお前が確立した名声のある「仕事」を子どもたちは継がない。「家族のことを放置しなければならなかったオヤジの『仕事』を好きになれない」からだ。

お前は、地位や名声や富を持たなかったころのお前でいい。夢を追うのはいい、しかし自分ひとりで達成しなければ意味を成さないという「夢」は文字通りの空想的なものでしかない。夢は共同する人間の友情の助力がなければ達成されえないものであることに気づいたとき、それは実現可能な「人生の目的」になる。

男たちよ、もう力ずくで生きるのは止めよう。いや、もうやめて。力では愛も尊敬も受けられないのだ。力と知恵は共同で生きようとするときに立ちはだかる「困難な壁」を打破するために使うもの。友情と、家族の傷間を切断するために使うものではないのだ。トーナメントを戦うかのように、人間を次々に打ちのめしてゆくお前をだれが「カッコイイ」と思っているのか。それはお前の深刻な劣等感だけだ、おまえ自身の劣等感だけがそれをカッコイイといっているに過ぎない。女たちはみな、力で言うとおりにさせてゆくしかないお前を、未熟な者、情けないヤツとしか思っていないのだから。


立ち止まれ、周りを見廻せ。社会は疲弊している。労働者を切り捨ててきたことが経済を疲弊させている、家族を犠牲にしたことが社会を殺伐とさせている。まちがっていたのだ、努力の仕方がまちがっていたのだ。お前はお前一人で生きていけると本気で思っているのか、そればらばお前はただの愚か者でしかない。肩の力を抜け、深呼吸をしろ。後ろを振むいてみろ。誰がお前を強迫しているのだ。誰もいないではないか。お前を強迫してきたのはおまえ自身なのだ、お前の心に潜む「劣等感」なのだ、それはお前のオヤジが、収入を大きくしようとして、あるいは家族と向き合うことを怖れて、お前と心の交流をしなかったために、造りだされたものだ。おまえはもう同じ過ちを犯してはならない、立ち止まれ、せかされるのを止めろ。そう、隣の人の顔をしっかり見なさい、いま…。

 

 

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