Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

ひとの健康と社会の健康 (上)

2009年08月17日 | 一般

健康ってなんだと思われますか?

健康は個々人の体の問題以上の意味が付与されています。それは社会全般に関わることのようです。こんな一文をご覧になってみてください。

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1946年、世界保健機構(WHO)の保健憲章では、

「健康とは、肉体的、精神的、ならびに社会的に完全に良好(well-being)な状態であって、単に疾病や病弱ではない、というだけではない」

…と、健康について定義している。

 

これは、それまでは身体疾患への罹患の対語として、あるいは個人レベルで個人の責任としてしか捉えられていなかった健康という概念を、心の健康や社会で人間らしく生きるということまで含めるようになった、画期的な試みだった。

ここでは、健康を享受することが基本的人権であり、それを守るためには、国や社会の協力が必要である、ということを意味するのである。

 


(「メンタルヘルス入門・第3版」/ 藤本修・藤井久和・監修)

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先の世界大戦が終結した時期というのは、人権意識が一気に高揚した時期のようですね。無理もないでしょう。膨大な人命と財産とインフラが損失を被ったのです。その時期には日本国憲法も作成、公布されました。日本国憲法はその時期の空気をいっぱいに吸収してつくられた憲法だったのです。

それだけではなく、WHOは「健康」という概念をファシズムが席巻した第二次大戦気以前の経験を汲み、もっと社会性を持たせるような定義を採択しました。

甚だしい貧困や情報操作によるマインドコントロールや暴力による洗脳などによって、一定の精神状態、ある決定を下すような思考誘導されたりするような状況を「健康でない」と断定できるようになったのです。

単に肉体的に生きるというだけでなく、意思の自由が保証され、良好な環境で生きることを楽しめるようになることが「健康」なのであり、この新しい定義による「健康」を実現させるためには、単に病原菌への感染予防などの努力だけでなく、政策や教育などにより、社会的公共心の定着が求められるのです。

なぜなら、新しい定義によるところの「健康」は、基本的人権であるからです。

日本国憲法はこんな開明的な思想という空気をふんだんに採取した世界最高レベルの理念を表明する基本法なのです。

 

こういう憲法が改変に向けて着々と攻略されているのはなぜか。こういう憲法が非難されるようになった社会の変化はどういうことなのか。

ひとえに、「健康」がはなはだしく損なわれたからです。「精神的、また社会的な良好」性が損なわれたのです。

そうなった原因の一つには、日本の精神風土に憲法の理念が根づかなかったことがあげられます。日本の家父長制的な支配関係が昭和40年代くらいまではまだまだ根強く働いていたのです。それは親の都合に合わせて子どもがしつけられる、という「教育」に見られます。

たとえば、日本人の教育観には「ほめるのはいけない」という考えがあります。ひとは謙虚でなければならず、自分の功績や成功を素直に喜ぶのはひけらかしにつながるので、謙虚という「徳」にそぐわない。とくに若者の成功や功績は年長者の顔を潰すので絶対に評価してはならない、というような暗黙の了解がありますよね。

でもこれは大きな間違いです。ほめるというのはお追従を言うことではありません。お追従、つまりべんちゃらはおおむね「ウソ」をいいますよね。こちらのこころにないことを言うのです。これではたしかに相手はいい気になって、つけあがるでしょう。なぜなら、べんちゃらをいうのはつまり、「わたしはあなたの下に入りますよ、そのかわりあなたの権力や権威でわたしを大勢の人の前で高めてくださいよ」、という暗黙の要求があるのです。この要求はことばに出して言明せずとも、十分相手に伝わります。べんちゃらをいう、という行為によってそれは伝わるのです。ですから相手は確かにつけあがります。

しかし「ほめる」というのは、相手を正当に承認していますよ、という意思表明です。「正当に」承認するには、それなりの根拠があります。ほめようとする対象の子が実際に達成した成果にきちんと注目するのです。その子の成果を注目して、さらにそれを肯定するのです。

「子育てハッピーアドバイス」にはこんな漫画が紹介されています。漫画は引用できませんので、会話を書き写します。


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(太字は怒鳴っているようすを表します)

1.大人の論理を子どもに押しつける親。

こども: わー、寝坊した~。
親:   もう! だめね。
      15分も遅れているじゃないの!
      もっとがんばって起きなさいよッ!
こども: (半分泣きながら、とぼとぼ学校へ行く。)
      (心の中で)ぼくってほんとうにだめなんだ…

こども: ただいまー。今日、テスト返されたー。
親:   なにっ!? 50点?
こども: (親の強い調子にびくっとなっている)
親:   ちゃんと勉強してるの?
      もー! がんばりなさいよッ!!
こども: (しょんぼり)
      (心の中で)どーせ、ぼくはだめだよッ

 

2.子どもの側に立って、子どもに共感的な親。

こども: わー、寝坊した~。
親:   でも昨日よりは5分早かったじゃない。がんばってるじゃん。
こども: (心の中で) えへっ、よーし。明日は寝坊しないようにがんばろう!

こども: ただいまー。今日テスト返されたー。
親:   あら、50点。この前は30点だったから、20点もアップしたんだね。
      ちゃんと勉強してるんだ(^^) がんばってるね。
こども: うんっ! こんどはぼく、もっといい点取るからねー。

 

 


解説

わたしたちは、よく子どもに「がんばれ」と言います。
先生が連絡帳に、最後に赤ペンで書くのも、
たいてい「がんばりましょう」とか、
「今度からもっとがんばりましょう」ですね。

確かに「がんばれ」と言われて、
がんばろうと思えるときもありますが、
よけいつらくなるときもありますので、
気をつけなければなりません。

どんな時かというとそれは、
これ以上がんばれないくらいがんばっているのに、
さらに「がんばれ」と言われたときです。
「じゃあ、これ以上どうすればいいの」という気持ちになってしまいます。

お母さんにしても、朝から晩まで、家事、育児に追われて、その上仕事もして、くたくたになっているところに、夫から、「もっとがんばれよ」といわれたらどういう気持ちになるでしょうか。

お父さんも、会社で同じようなことがありませんか。
「今月はたいへんだから、日中は一件でも多く営業に回ろう」と自分でモチベーションをあげて出かけようとしたところへ、上司に呼び止められて、「今月は成績が上がっとらんッ! 営業しっかりがんばらんかいッ」と言われたら、ムカッときませんか。

そういうときに上司から、「厳しい景気だが、それでもこの件数までがんばったのか。よくやってるな」と言われると、その上司に器の大きさを感じませんか。夫からでも、「たいへんなのによくやってくれてるな、ありがとう」とか言われると、ちょっとは胸のつかえが下ります。

子どもも同じなのです。

「いやあ、うちのこどもは、ちっともがんばってませんわ。
毎日ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゲームばっかりして、
宿題もしないで、どっこもがんばってません」

と言われるかもしれませんが、
子どもは子どもなりに、いろいろ苦労しているところがあるのです。

学校に行ったら、
いじめにあわないかと思って人に気を遣っていますし、
家に帰ったら、ガミガミ言われるのを一生けんめい耐えている。

子どもなりにがんばっているところがあるのです。

そういう子どもに、「がんばれ、がんばれ」だけじゃなく、
「おまえもけっこうがんばってるな、ご苦労さん」と言ったほうが、かえって元気が出てきます。

「がんばれ」ということばは相手を選ぶ。
言っていい人と、そう言ってはいけない人がいる。

だけど「がんばってるね」「よくがんばったね」
ということばを言ってはいけないひとは
ほとんどありません。

「がんばれ」よりも「がんばってるね」、
相手のがんばりをねぎらうことばを
よく使うようにしてはどうでしょうか。

 

(「子育てハッピーアドバイス」/ 明橋大二・著)

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「がんばれ」というのは要求です。こちらの思惑にかなうような結果を出せ、という要求です。一方、「がんばってるね」「よくがんばったね」は承認です。相手の努力を肯定的に承認する行為です。両者の違いは、明治憲法と現行憲法の違いと言ってもいいと思います。

明治憲法はひとりひとりの国民の都合は二の次三の次に置かれていました。一番重要なのは、明治政府の構想どおりの「国家」でした。この場合、「国家」というのは、政府を構成する人たちとそのひとたちの理念、その人たちの権益でした。個々人の命より国家のメンツが大切と定めていました。それへの反省から現行憲法は、国家という、一部の特別な権力を有する人たちの都合ばかり優先させるのはいけない、国民ひとりひとりの都合を最大限に守るようにしよう、という理念が現行憲法です。

子どもへの接し方と同じです。親の考え方、親の都合、親のメンツを第一に立てようとすると、子どもの事情への理解がおろそかになり、どうしても押しつけになってしまいます。しかし、子どもは親とは異なる人格者である以上、子どもには子どもの事情・言い分があるだろう、と考えるようにすると、肯定的承認を与える心の余裕も出てこようというものです。

相手への配慮をおろそかにしない、相手の事情を思い図ろうと優先的に努める、相手のひとの尊厳を尊重する、といった考え方は日本国憲法に反映された理念です。そしてそういう態度を示すときに、「精神的・社会的健康」は達成されてゆくのです。1946年にWHOが定義しなおした「健康」の概念には民主主義の理念が必要不可欠となっています。

 


ところが、いまやこの憲法は改廃の危機に立たされています。一部の企業だけに儲けが上がるように仕組まれたしくみができあがり、そのために多くの人びとが排除されてゆくのです。経済的に「勝者」と「敗者」が決められ、経済競争に敗れた者はのたれ死ね、と言わんばかりの世相になりました。障害者や老人など、経済的に不利な立場にいる人たちにも、公的扶助が減らされます。自分で金を稼げない人間は生きる資格がない、と言わんばかりの政策が実行に移されてきました。老人であろうと障害者であろうと、自分の命は自分の責任で看ろ、というのです。労働者も長時間労働に追いやられます。抗議すれば解雇されるので、泣き寝入りしている場合が多いのです。そのため、うつ病を発症させたり、極限まで追いつめられ、自殺するひとが一年に3万人以上出ているのです。もう21世紀に入ってずっとです。それでも、「弱いことが悪い、自己責任」ということで、そういう事態は放置されるのです。

「身体的、精神的、社会的に良好な状態」に達しない人々が増えても、国も社会も何の協力もしません。WHOの「健康」の定義からすると、これは「不健康」です。どうして国も社会もこんな状態を無視するのでしょうか。明橋先生は別の著書でこんなことを書かれています。


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「今の子どもは恵まれすぎている」と言うひとがいます。ですがほんとうに恵まれた子どもは、ひとを大切にできるはずです。

ひとを大切にできない子どもがいるとすれば、それはたいてい、その子自身が、大切にされた経験がない、ということです。

非行に走る子どもの中には、父母がいつも仕事で家にいない、その代わりに置いてあるのが一万円札。子どもはそれで欲しいモノはなんでも買い、部屋にはゲームやお菓子があふれている、という子どもがいます。そういう子は果たして恵まれているのでしょうか。

確かに、食べることには不足はなかったようですが、でも本当に大切なものには決して恵まれてこなかった、という気がします。

 

(「輝ける子」/ 明橋大二・著)





(下)につづく

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ひとの健康と社会の健康 (下)

2009年08月17日 | 一般

(承前)



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それは国政に当たる人たち、国の経済規模を大きくしている企業などのひとびとに、他者への考慮を払うという態度が欠落しているからです。こういう人たちは経済的には恵まれてはいたものの、人間のつながり、他者とのかかわり、社会性、つまり公共心という資質が育っていないのではないか。それは何かに恵まれなかったからだ、とわたしは言いたいのです。

それは温かく育ててくれる「ひと」に恵まれなかったのです。高度成長期には、家庭はほうったらかしにされ、椅子の数が極端に少ない受験競争を強いられた結果、子どもらしく遊ぶ機会を奪われ、親あるいは親代わりの大人に十分甘える機会を奪われてきた子どもたちが、大人になったときに、他者への共感性という資質をまったく欠落させていたのでしょう。さらにいえば…、


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フランクル(名著「夜と霧」の著作者。精神科医)の指摘をまつまでもなく、人間は皆、自分の生きていることに意味や価値を求める。

ひとがおカネに狂奔するとしたらそれは、自分の人生の空虚に対する不安があるからではないか。

 

(「無名兵士の言葉」/ 加藤諦三・著)

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「自分の人生の空虚」とはなにか。それは「自己肯定感」のことです。


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自殺、引きこもり、少年犯罪、家庭内暴力、心身症、非行、キレやすさ、人格障害…。

今の子どもは、昔に比べて悪くなる一方では決してありません。
子育ての状況も必ずしも悪くなる一方とは思いません。
そうはいっても子どもの中には、心配な症状を出したり、
気になる行動を取ったりする子も確かにいます。

それでは何が問題になって、このようなことが起きるのでしょうか。
よくいわれるのは、
「ちゃんとしつけがなされていない」
「わがままに育てられたから」と、
今の子どもたちを否定的に見るようなことばです。

しかし、これは決して本当の問題ではありません。
問題の本質は、もっと別のところにある、と筆者は考えています。

それはひとことでいうと、
「子どもの自己評価の、極端な低さ」です。

「自己評価」とは、
「自己肯定感」
「自尊感情」ともいいます。

ひらたくいうと、「自信」ですが、
単に自信が持てない、ということではありません。
勉強がよくできる、スポーツに秀でている、
そういう自信ではありません。

「自己評価」とは、
自分は生きている意味がある、
存在価値がある、
大切な存在だ、
必要とされている、
…という感覚、安心感のことです。

これが、人間が生きていくうえで、
いちばん大切なのです。

この安心感が育めないと、
子どもは心配な症状をだしたり、
気になる行動をとったりするようになります。

 


(「子育てハッピーアドバイス」/ 明橋大二・著)

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「自己評価」の高いひとは積極的な生き方をするひとです。失敗を怖れません。失敗しても、「自分は大切な存在」なので、それでダメだ~という気持ちに圧倒され、へこんでしまったり、拗ねたりすることはないのです。、何かをなしとげたから親をはじめ周囲のみんなから受け容れられ、それが「自己肯定感=高い自己評価」を子どものうちに育てていったのではありません。それは実はマインド・コントロールです。親の気に入ることをしなければ評価しないということとおなじだからです。そうではなく、無条件に肯定すること、見返りを期待せずに評価すること、ただ自分の子どもとして生まれてくれたということそれだけで愛していることを言葉と態度と振る舞いで実際に示し、そのようにしてどんなに小さなことでも子どもが喜びそうな、子どもの自己評価を高めるのに役立つことなら何でも、ほめたり共感したりして子どもを評価する、そうすることによって子どもは自分という存在が他の人に喜んでもらえていること→自分という人間には価値があること→自分は世界に受け入れられていることを無意識に確信するようになっていくのです。それが自己肯定感であり、根源的な意味での「自信」なのです。

その自己肯定感はまた、「自分が大切な存在」だという無意識の感覚がしっかり育っていれば、自分はひとりで生きているのではないことにも気づかせます。それは、高い「自己評価」は他者によって共感され、肯定的に承認されてきたからです。他者がいてはじめて自分があるということに気づいていますから、当然、他者への配慮や関心を持っています。こういう子が大人になれば、他者を犠牲にしてまで経済効率を優先させようなどという動機は持たないでしょう。

 


しかし、親からうっぷんばらしに怒鳴られ、侮辱的なことばにやっつけられ続け、体罰をあいさつ代わりに受け、こづかれ、さらし者にされ、押しつけられ、本当の気持ちを抑えこまれ、馬のように同世代の子らと競走させられ、そのため心を許せる友だちができず、そんなふうにして育ってきた子どもは、生きているということで肯定されてきたのではなく、親の都合にかなった時に、あるいは成績のような業績を上げたときにだけ肯定的評価を受けたのです。つまり、その子らにとっては、自己肯定の評価は、周りの人たちの要求に応えたときだけ認められる、という教育を受けてきたことになります。これはコントロールです。親による子どもという人格への侵害です。



くどいようですが、子どもは精神的にも成長しようとして、親にかまわれることや、親の承認(交流分析ではストロークともいう)を貪欲に求めます。「成長しようとする」というのはつまり自分自身を肯定しようとするのです。子どもはどうやって自分自身を肯定し=自信を持つことができるようになるか。親によって肯定的に承認されることによってです。親によって共感的にかまわれることによって、です。

そうされることによって子どもは自己肯定感を育み、その自己肯定感は将来に生じるどんな困難にもへこまずに立ち向かってゆける「自信」やポジティブな考え方の素地を形づくれるのです。

だから子どもは親にかまってもらい、自己肯定感を得ようとするのです、それこそ乳児期から、おっぱいを求めるのと同じくらい貪欲に。それなのに、肯定的で共感的なストロークを与えずに、邪険に追い払ったり、おざなりな対応をしたり、ましてイジワルなストロークを持って応報したりしていると、子どもは自己肯定感を育てられません。自分への自信を持てなくなると、残酷で意地悪で、攻撃的で排他的に大人になってしまいます。コミュニケーションのとり方がわからなくなるのです。



また過激な競争にさらされてきたので、「他の人たちの要求」とはおおぜいの人を蹴落として勝ちあがってくることだ、という認識も生育環境から学んできています。こういう人たちにとっては、少数の勝者が多数の敗者の犠牲の血のうえに繁栄を築くということはしごく当然のことなのです。もしこれらのひとが、カネ儲けや名声への飽くなき追求をやめたら、「自己評価」を高める術を失ってしまうことになります。自分の価値は何か分からない、という心理状況というのは人間にとってこれ以上ない孤独です。これは耐え切れません。こういう状況に置かれたとき人間は異常な犯罪に走るようになる、ということです。多くの人はそこまで追いつめられることはありません。「自己評価」を育まれなかったひとは代わりに、競争を勝ち抜いて財産を大きくしたり、競争を勝ち抜いて名声を得ようとしたりします。


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1980年代、日本はバブル景気に湧いた。わたしたちはおカネ儲けに狂奔した。あのバブル時代に分かったことは、わたしたち日本人はみな、心が満たされていないということであった。

心が満たされていれば、カネ儲けに狂奔しない。

第二次大戦後、国全体が経済的繁栄を求めたが、同時に個人も経済的成功を求めて血迷ってしまった。 …(中略)… そして経済的に成功した人を尊敬し、持ち上げ、崇拝すらした。経済的敗者は絶望に追いやられ、無気力になった。

この原稿を書いている今(2005年6月ころ)でも、新聞記事の報道の価値観は同じである。マネーゲームの成功者を大きく報道する。まるで英雄である。しかもこのマネーゲームをしている話題の人を若者たちは憧れているという。この原稿を書きながら、日本がこれ以上おかしくならないようにと願うばかりである。

 


(「無名兵士の言葉」/ 加藤諦三・著)

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マネーゲームはクラッシュしましたね。2007年に米国サブプライム破綻、2008年9月リーマン・ショック、2009年8月、そろそろ零細製造業者に倒産が出始めました。わたしたち製造業者はわきの下に生ぬるい汗をかいています。もういまさら心配してもしょうがないですけれどね。なるようになれ、です。これでも、「自己評価」の低い人たちは、規制緩和で競争力をつけ、経済成長アップだーって言っています。彼らにとって、倒れていくひとを何とも思わないのです。それが当然なのです、かれらには。そういうティーンエイジを送らされてきたんですから。また子どもらしい時代を送らせてもらえなかったために、他者への配慮とか、公共心というものを育めていないのです。

つまり、彼らも、彼らによって建てられている日本という社会も、1946年にWHOによって定義された「健康」ではありません。

そもそも日本の60年代の高度成長は何をもたらしたのか。あの時代は黄金時代だったのか。いえ、水俣病やイタイイタイ病、四日市喘息、最近では、尼崎市のアスベスト汚染など、公害病で多くの犠牲者がでているのです。日本の高度経済成長は今から振り返って考えてみると、それは成功だったのでしょうか。わたしには人間らしさ、あるいは社会の健康という軌道から大きく外れてしまった過誤だったのではないかと思うのです。

そして経済に失敗、つまり公害の被害者については、企業も国もそれら犠牲者を救済するよりも企業のほうを助けるのです。こういうジコチューというのは、自己評価の低いひとたちの、まさに自己評価獲得のためのひっしの努力だったのです。60年代、経済的高度成長のために身命を捧げた人たち、家族とのコミュニケーションを犠牲にして、子どもたちに自己評価を育めなかった男たち、彼らはどんな成育歴だったか。そう、戦前の家父長制的な圧力の下で自分らしさを押し殺すことをよしとされたひとたちであり、また、戦災孤児、親の愛を知らずに育った子どもたちだったのです。戦争はここでもまだ傷跡を生々しく残しているのです。

わたしたちは今、経済学の教科書どおりのことをもう一度繰り返すのではなく、いま、新しいビジョンを打ち出す必要があるのではないかと、わたしはそう思えてならないのです。

 

例のごとく、話はあっちへ行ったりこっちへ来たりになりましたが、さいごに、「心の健康」とはなにか、大阪府立広州衛生研究所に勤めていらっしゃった藤井久和先生の臨床経験から導き出したご意見をご紹介しましょう。


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1.自分の役割を十分に果たせている。

職業人、家庭人、あるいは学生などの、自分の役割を積極的、建設的に果たしていることが、わたしたちが生きていく上での基礎であり、精神安定の基礎になる。修養書をいくら読んでも、知能レベルがいくら高くても、自分の役割が充分に果たせなければ、心の健康にはつながらない。

もちろん、社会の中での自分の役割は、自分の環境や立場、自分の特性によってそれぞれ異なるものであり、また流動的なものである。現時点での自己の役割に応じた仕事を充分にすることにより、そういう役割を果たすことを通して、気持ちに「ゆとり」や「はり」もできてくる。それが自尊感情を高めて行くのである。

 

2.自分を知っている。

自分のことは自分がいちばんよく知っていると思うものであろうが、「現代人はどんなことでも知っている。ただ自分のことだけをよく知ってはいない」とある哲学者は指摘したという。

自分の性格や能力を他者と比較しながら、より客観的に把握するように努め、しかも、自分の諸特性を肯定的に受け入れようとすることが「健康」の条件である。

たとえば、自分が神経質すぎると考えるひとは、のんきになろうと焦る必要はない。問題はどのような面に神経質になるか、である。机の上のホコリや、自分の体調面にただ神経質になるよりも、一杯のコーヒーの味わいに神経質になって楽しみ、仕事の面でミスをしないように神経質になるほうが賢明であろう。このように考えると、自分の神経質さが、ありがたい性質として受けとめられることになる。

 

3.人と共感できる。

家族や自分とかかわりのあるひと、さらに人類全てのひとに、人間的立場から共感と理解をもって接することのできる特性。他人の幸福を喜び、他者の不幸を悲しめるひとは、ほんとうに友情や愛情を育めるひととなる。

 

4.人と仲良くできる。

人間は動物的な側面を持つばかりか、それぞれの欲望や野心もある。しかしそれなのに、人間はひとりでは生きてゆけない。共同して生活や労働を維持するために、いろいろな規約や法律をつくって社会生活をしているのが現状である。

したがって、人間は社会人として自分の行動に責任を持つとともに、ひとと強調するために自分の欲望や野心をコントロールする必要がある。

それには、日常の些細なことにこだわらず、我慢をする練習や、幼い頃から友人と仲良く遊べる機会や場を持っていることも必要である。そしてひととの交わりの中で、ユーモアを理解し、人生を楽しむ心を持つ必要があると思うのである。

 

5.自分の持ち味を充分に生かす。

ひとの個性なり持ち味はそれぞれに異なるが、どんなひとでも自分の一回限りの人生を生き抜くことになる。自分でつくった小さな目標を次々に達成していくのもよいし、大きな自分の生きがいを持つこともよい。ともかく、自分の持ち味を一生涯かけて充分に生かし、開花させていくのが人間の自然なのである。


以上は、私たちの臨床ケースから学んだ「心の健康」像である。

臨床ケースではこれらのリストのうち一部だけを過剰にあるいは脅迫的に追い求めていたり、いずれかの面がすっかり萎縮して不十分すぎたりする場合が多い。

もちろん、これらのすべての面で優れ、完全といえるひとはいないだろう。事実、どんなに身体的に健康な人でも、時には風邪をひいたり、下痢をしたりするのと同様に、どんなに精神的に成熟した人でも、時には悩みのために眠れなかったり、気分が落ち込んだり、不安になったりするものである。

いずれにしても、わたしたちが社会の中で生きてゆくためには、人間としての共感性・社会性を働かせながら、自分の役割を充分に果たし、その過程にあって、自己洞察にもとづいた自分の持ち味を開花させる努力が大切なのである。

 

(「メンタルヘルス入門」/藤井久和・監修)

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ここではひとと仲良くできることと、ひとと共感できるということが「健康」の条件であるということになっています。自己責任者論たちに見事に欠落している考え方、精神態度ですね。自分の利益のためなら他者が脱落する必要がある、というまるで社会的ダーウィニズムの復興であるかのような考え方が今の日本を席巻していますが、それは成熟しそびれた未熟な大人たちがこの社会を指導しているからです。彼らには権力が集められていて、抗議するのに引け目を感じてしまうことがあるかもしれませんが、WHOの健康の定義によると、彼らの方に問題があることがわかるでしょう?

恥ずかしく思うことはありません。引け目を感じることもありません。堂々と、健康な人間の健康な主張を通そうではありませんか。



こういうメンヘル系の話は個人的なこととして、日本人は考えるのを避けてきました。経済活動は社会の大きなまた重大な問題であるのに対し、メンヘルなどということは個人の責任で片付ける問題だ、という感じで捉えてきました。

でもそれは単なる逃避でしかなかったと、わたしは思います。メンヘルの場面にこそ、日本の、個人を尊重しない全体主義体質の証拠が集まってきていたのです。メンヘルの視点にこそ、日本の抱えている心の問題点がはっきり映っていたのです。

うつ病者や、心身症のひと、人格障害という概念から見た権力行使者たち、みな、大人=伝統維持者=伝統を押しつけるあまり、子ども個人の意志、尊厳が摘み取られてきた教育体質、しつけの方法の犠牲者だった。問題の解決策は、日本国憲法の理念である、個人の尊重と平和主義の徹底にある、というのがメンヘルの視点から提出される意見なのです。

 

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明治時代のような現代労働事情

2009年08月02日 | 歴史

ひとつ、新聞記事をご紹介しましょう。新聞といってもずっとずっとむかしの新聞記事です。明治時代の記事です。でもこの記事を読むと、労働者と国民の暮らしの様相はおどろくほど似ているのです。まあ、ご覧になってみてくださいな。


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産業の発達には、資本と労働の精鋭活発なるを要す、而して資本の運用をして活発機敏に且つ効力あらしむる者は労働なり、東洋の実業家が労働賃金の廉き(安き)を頼んで事業の成功を望む所以(ゆえん)も、亦(また)同じく労働其者(そのもの)が産業に最大必要なることを認むる故なり。

 


…(中略)…

 


今や労働者は生活難の為に如何ともする能はざる(あたわざる=cannot)に至れり、之に加ふるに失業者は各業の労働者間に続出して益々困難を感ずるに至る、労働問題の起こるは当然の結果と云わざるべからず。

然るに労働問題は萎靡(いび=なえしおれること。萎縮しているさま)として振るはず、一時隆盛を極めたる労働組合も今や全然沈衰して其活動を見ず、事実起こらざるべからざる (《労働組合による争議が》起こってもいいはずの) 社会に於いて斯く(かく=このように、の意)寂寞たるは如何なる理由あって存するか、余の見解よりせば今や労働問題は実に激烈なる状態を呈せり、外形上寂寥たるは労働者の境遇止むを得ざる故なり (=労働問題は深刻な事態にあるが、労働争議がまったく盛り上がっていないのは労働者のおかれている環境がとても不利な状況のため、やむをえない)、

彼らは虐待され居れり、圧制の取扱ひを蒙れり (=被っている)、工場規約は残酷なり、賃金は安く時間は長し、加之 (しかのみならず) 工場は不潔なり、労働者は不平満々たり、然り而して (しかして) 彼らは工場雇主に圧迫さるるのみならず、更に社会より圧迫され経済上よりも苦しめらるるなり、彼らはひたすら職業を失はんことを恐れ、解雇を恐怖する実に甚だし、餓死するよりは優れりという感念は、今日の労働者が切歯扼腕 (せっしやくわん=歯を食いしばり拳を握りしめるさま。怒りなどの感情表明を食いしばっているようす) して守り且つ忍耐する所なり、

然り、彼らは之が為めに豚同様の生活も、心身を害するも、病気になるも、敢えてする所なり、彼らは権利を要求する声をも発する能はざる (声をあげることもできないでいる)、恰も(あたかも)奴隷の如し、そも斯くあらしむる者は何ぞや、固より(もとより)労働者は無教育なり、無気力なり、而して実際活動の余裕なきまでに圧迫され居り、地平線以下の (=置かれている立場が低い) 者なり、然りと雖も(言えども)其直接間接に労働者を斯くあらしむる者は治安警察法是なり。

そも治安警察法が労働者の束縛法たることは実に明確なる事実にして、資本家の為めには労働者圧制の唯一の武器なり、然り、労働者は治安警察法の為めに自由を剥奪されたり、彼らは憲法治下の臣民として其保証を得ざる者なり、集会結社の自由も其死活問題に関しては奪はれたり、

是れ彼ら労働者が斯く意気地なき所以なり、堕落腐敗せる所以なり、ヤケになりたる所以なり、労働運動は治安警察法に依って殆ど死刑の宣告を与へられたるなり、労働運動は為めに活動する能はず、労働者は運動の自由を奪はれたり、

労働問題の解決は先づ治安警察法を廃止して労働者に自由を与へ、自治の民なるの本分を以って自ら解決せしむるに在り、故に余は云ふ、労働問題焦眉の急務は治安警察法の廃止運動に在りと。

 

 

(「労働問題の将来」/ 片山潜・著/ 「週刊平民新聞」第二号 明治36年11月22日付け 3ページ)

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ことば
■治安警察法■
 集会・結社・言論の制限と社会・労働運動の取締法。資本主義発展に伴う労働運動の勃興に対して、山県有朋内閣が1900年3月10日に公布した。
 政治結社や屋外大衆運動の届出制、女子の政治結社加入や政談集会参加の禁止、秘密結社の禁止とともに、労働者の団結や同盟罷業(どうめいひぎょう=ストライキのこと)を禁止する規定があり、労働運動抑圧の効果は大きかった。
 1901年の社会民主党や1925年の農民労働党、1928年の労農党の結社禁止などの社会主義運動の抑圧にも威力を発揮。
 敗戦後も日本政府によって存続が図られたが、GHQの指令で1945年11月21日に廃止された。(「岩波日本史辞典」/永原慶二・監修)

 

 

こういう新聞記事を回顧してみると、いかに現代日本が、21世紀の日本社会が逆流してきたかがまざまざと見て取れますよね。愕然とします。「治安警察法」こそないものの、事実上、労働デモは弾圧に等しい扱いを受けています。

 

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宇部興産の子会社で、六つの工場を持つ生コン業界大手企業が27500円の「損害」だけで「威力業務妨害」の被害届を出し、それを口実に本来管轄外の公安が10ヶ所も家宅捜索して計5人を逮捕する…。

こんな首を傾げるような事件が、この2月12日に起きた。しかも5月25日現在に至るまで3人が拘留され、接見禁止処分すら解けていない。

 

この企業は、大阪市に本社がある関西宇部。事の発端は08年の春闘期間中、同社も加盟する「大阪兵庫生コン経営者会」が関西労組との集団交渉において、月6500円の賃上げや輸送運賃引き上げ等を認めた「08年春闘協定」を同年4月に交わしたことから始まる。

ところが業界で指導的立場にありながら、関西宇部は、本来なら加盟会社を拘束するはずの協定を履行拒否してしまう。このため08年7月2日、組合側が同社の吹田工場で抗議行動に取り組み、その際に構内で他社の生コン用ミキサー車運転手に対し、「運賃引き上げを協定どおりに実施するよう要求している」と説明した。

この行為に対して「発進を妨害した」というのが警察側の言い分だが、どう考えても会社側に協定遵守を求めただけの組合による正当な活動だった。

 

ところがそれから7ヶ月以上も経って、突如、大阪府警公安は抗議行動に取り組んだ「全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部・関西地区生コン支部」の執行委員二人と組合員3人を逮捕。そのうち組合員の一人は、出頭要請に応じて指定された場所におもむいたところ、いきなり公安刑事から羽交い絞めにされた上に、公衆の面前で手錠をかけられるという、凶悪犯まがいの扱いを受けた。

さらに同支部の事務所をはじめ、逮捕された5人の自宅、役員宅のみならず、何の必要あってか「経営者会」加盟社の役員宅まで家宅捜索が入った。そして09年3月2日になって、執行委員一人、組合員2人の計3名が起訴されてしまう。

 

「今回、家宅捜索を受けた会社幹部は、協定を結んだ際の経営者側交渉団の一人でした。個別企業が互いにダンピングをやるよりも団結して協同組合を組織し、品質と適正価格を維持すべきだ、という組合側の考えに理解を示していたので、(その理解ある態度に対する)まったくの嫌がらせとしか思えません」 と憤るのは、同生コン支部の高英男副委員長。

「そもそも労使関係のある職場で組合活動を行ったことが『威力業務妨害』とされるなら、労働運動が否定されたに等しい。公安の狙いは、どんな口実でもいいから逮捕や家宅捜索を繰り返し、組合の足を止めるつもりなのです」。

 

実際、同生コン支部はこの間じゅう、府警察公安によって、繰り返し「ここまでやるのか(高副委員長)」というほどの組み合いつぶしを狙ったと思われる捜査を波状的に受けてきた。以下はその一例だ。

①府内の生コン業2社に協同組合への加盟を働きかけたことが「強要未遂」などとされ、3回もの強制捜査が繰り返され、武建一委員長ら計8名が逮捕(05年1月)。委員長の拘留期間は1年2ヶ月、他の役員は9ヶ月にも及んだ。

②上の①の事件で起訴者の保釈許可決定が出る二日前に、ありもしない「政治資金規正法違反容疑」で武委員長と組合員の戸田ひさよし前門真市市議が逮捕(05年12月)。

③暴力団員を役員に雇って同生コン支部に加盟した組合員の脱退工作を仕掛けた斉藤建材(大阪府高槻市)に対し、団体交渉を申し入れようとした役員ら4名を、その際に社内で起きたもみ合いを口実に逮捕し、計17箇所を家宅捜査(07年5月)。

 

05年に逮捕された執行委員の一人に対し、公安の取調官はいみじくもこう言い放ったという。

「裁判が有罪だろうが無罪だろうが関係ない。お前らを一年ほど社会から切り離しておけたらそれでいい」。

 

公安にとって、法律など最初から眼中にない。組み合いつぶし、運動つぶしという政治警察の目的が達成されるなら、どんな口実を使っても逮捕を繰り返す。それがどれだけ民主主義にとって危険なことか、指摘する声はあまりにも今の日本社会ではか細いのだ。

 

 

(「繰り返される特定労組への弾圧」/ 「週刊金曜日」09年5月25日号より)


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同じですよね、片山潜の時代も、この関西宇部と公安の結託による組合つぶしも。労働者、国民の暮らしが逼迫し、過労事故、過労自殺、年間3万人以上という自殺者、非正規労働という貧困、過労劇労によるうつ病の蔓延…。

それなのに、運動が警察沙汰になったという理由で、組合運動のほうをバッシングする国民…。これはいったいなぜかというと、片山潜のことばを借りていえば、

「彼らは之が為めに豚同様の生活も、心身を害するも、病気になるも、敢えてする所なり、彼らは権利を要求する声をも発する能はざる 、恰も(あたかも)奴隷の如し、そも斯くあらしむる者は何ぞや、固より(もとより)労働者は無教育なり、無気力なり、而して実際活動の余裕なきまでに圧迫され居り、地平線以下の者なり、然りと雖も(言えども)其直接間接に労働者を斯くあらしむる者は治安警察法是なり」、

そう、つまり「無教育」と「無気力」です。学校教育を受けてはいても、人権、社会権というものについてはまったく無知無理解であり、騒ぎを起こす方が悪いという前近代的な社会感覚=無気力、無関心というエゴイズムなのです。これはつまり、権力に与していれば自分は「勝ち組」の気分を味わえる、という先回の記事に書いたこととも関連があるに違いありません。

それにしても、この無気力・無関心、寄らば大樹の陰というエゴイズムはなんなのでしょうか。それはやがて自分たちの首をも絞めることになるものなのに。それを「不安型ナショナリズム」という概念で説明した学者がいます。これについては近々ご紹介します。

さあ、みなさん。そしてことばじりを捉えて声をあげようとしているブロガーに噛み付くことで、自分の心の空虚を埋め合わせようとする人たち。権力に踏みにじられる方をたたいていい気になれる無教養さを、これでも誇りにしたいですか。そうでしょう。あなたたちには怒りがある。恨みがある。それは親御さんかもしれないし、あなたたちを認めようとしなかった世間というものかもしれない。しかし堂々とそういう者と対峙するのではなく、むしろそういうものに踏みにじられる方を一緒にたたく転移行動をとる卑怯者たち、自分も滅びていいから、自分たち同様の無名の存在のくせに生意気な行動をとる連中とともに地獄落ちなら本望、という動機を持つ人たち。今がチャンスです。ここでもう一度自民党が勝利すれば、それは決定的な影響を及ぼすことができるでしょう。間違いなく憲法は改正に向けて大きく動き出すでしょうし、念願の北朝鮮先制攻撃もできる。なによりもわたしたち「生意気な」ブロガーに一泡も二泡も吹かせてやれる。でもそのかわりあなたたちの子どもも孫も危険にさらされることになるのです。上記のような国家権力の靴の裏がわたしたちの頭と顔を容赦なく踏みにじることになるでしょう。

そんなことが起こるはずはないって?
だって、すでに起きているじゃないですか、上で紹介したとおりに。現に、永原慶二先生の監修による日本史辞典には、治安警察法も治安維持法も、戦後も引き続き残そうとしていたのです、日本政府は。わたしはつくづくアメリカが介入してくれてよかったとほんとうにそう思います。


さあ、大したことができるわけではないが、それでも無気力や無関心そして権力に媚びるということには反対できるみなさん。わたしたちにはいまできることがあります。とにかく自民党を引き下ろすことです。この流れに「NO」を突きつけることです。民主党もうさんくさい、それはわかる。民主党に諸手をあげて支持を表明する必要はないです。とにかく自民党の圧制にはNOを言える、いまがチャンスです。

 

コメント (7)
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