Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

Interlude 1

2005年03月31日 | 一般
ちょっとここで「哲学ってなんだ」を読んだ感想を述べます。


エホバの証人は子どもたちにもエホバの証人になるよう教育を施します。エホバの証人にとって都合の悪い情報を与えないようにし、エホバの証人サイドからの情報のみ与えます。エホバの証人の生きかたがベストであるように「宣伝」するのです。わたしはこの方法はカルト手法だと思っています。情報操作を行っているからです。このようにして育てられた子供たちは「2世」と呼ばれています。情報操作によって、ものの見かたや世界観が偏狭な人たちです。子どもといっても親とは別個の人格を持つ人間ですから、価値観や趣向、志しは親とは異なるのはあたりまえです。

ところが親がエホバの証人の中心的なメンバーであった場合、つまり熱狂的な信者であった場合、子ども自身の意向は拒絶されるのです。それはエホバへの「不従順」であり、エホバの主権への反抗的な精神態度、「悪魔的な独立の精神」であると教え込まれます。エホバの証人の教理によると、悪魔というのはエホバの「子」たちである天使たちのひとりが、エホバに対抗し、独立しようとした者なのです。エホバから自立しようとした者が悪魔サタンだといいます。エホバが定めた枠組みではなく、自分らしく生きようとした者がサタン悪魔であるのです。したがって、エホバの枠組みから自立すること、独立しようとすることは「悪魔的な反逆の精神」と呼ばれています。

こんにち、親の期待を押しつけられて育った子どもたちの中には、「アダルト・チルドレン」に当たる者がおおぜいいます。自分の本当の興味、志向を押し殺して親のために生きる子どもたち、その子どもたちが自分の内に押し殺されてきた「自分らしさ」に目覚めて、自分らしさを拒否してきた親を憎むようになり、怒りをいろんな形の行動で爆発させ、自傷行為、反社会的な行動、拒食症、過食症に走らせたり、うつやひきこもりを起こさせたりする臨床例が、一部の良心的な精神科医、カウンセラーたちによって報告されるようになりました。しかし日本のように親や会社や国家のために自分らしさを抹消するのを美徳とする文化はなかなかそれらの報告を認めようとはしません。それらはその人自身の「弱さ」とか「甘え」と見なされるのです。

エホバの証人の子どもとして自分を押し殺して生きていたわたしは、しかし日本の精神風土よりもそれら良心的な精神科医とカウンセラーたちのほうが正しいということを、自分の身を持って知ることができました。人間は社会生活を営むべき存在ではありますが、自由を求めるものであり、自分らしい仕方で、自分にあった生きかたを望むものなのです。決して親の期待や神の枠組みのために自分を押し殺すのが自然ではないのです。ジュニア向けの本ではありますが、「哲学ってなんだ」を読んだとき、近代哲学は神権支配から抜け出して、人間が自己を自由な存在として認め、神の押しつけから自己を解放しようとしてきたことを知ってとてもさわやかな感想を持ちました。そしてこれまでは哲学なんて難解な概念を創作して机上の空論をこねくりまわすものだと思っていたのですが、むしろ哲学はわたしの味方だったんだと分かって、とても身近かに感じるようになりました。


ではこれよりまた「絶対観は原始的な思考です」を続けます。特に子どもさんを持たれるエホバの証人の目に留まることを遥かな思いを抱きます。
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「絶対観」は原始的な思考です(1)

2005年03月28日 | 一般
エホバの証人だった頃は、絶対的な真理というものがあるという考えはもっともなように思っていました。なぜなら、以下のように考えていたからです。

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わたしたちは絵を見る時,それを画家がいる証拠と考えます。本を読む時は,それを著者がいる証拠と考えます。家を見る時は,建築業者がいる証拠と考えます。信号を見れば,立法府があることを理解します。こうしたものはすべて,それを作った人によって,ある目的のために作られました。わたしたちは,たとえそれを設計した人々について何もかも知っているわけではないとしても,そういう人々が存在することを疑ったりはしません。
  同様に,至高の設計者が存在する証拠は,地球上の生物の仕組みや秩序や複雑さに見られます。生物にはすべて至高の知性がはっきりと表われています。
(「人生の目的は何ですか-どうすれば見出せますか」より/ものみの塔聖書冊子協会・発行)
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「仕組みのあるものには必ず設計者がいる」というのがエホバの証人の主張です。生命のような高度な「仕組み」が偶然無作為に生じるはずがない、と主張します。もっともらしいでしょ? 次の引用文は、エホバの証人の機関紙「目ざめよ!」1997年5月8日号のものです。

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「過去に関するいかなる学問も,意図的な設計もしくは創造という可能性をあらかじめ度外視するものは,真理の探究ではなくなり,問題の多い哲学的教条の,すなわち自然主義の僕(あるいは奴隷)となってしまう」―「起源の探求」。
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エホバの証人は、絶対的な真理はあるはずで、科学とはそういう「絶対的真理」の探究を目指すものだと受け止めています。だが真理とは創造者を認めてこそ見出せるものだ、人間の研究によって見出せるものではなく、造物主によって啓示されてでなければ見出せるものではないと主張するのです。万物が創造者の意図の下に造りだされたものなら、その創造者の意図こそ万物の存在する意味であり、それゆえに創造者の意図こそが絶対的真理であると、エホバの証人は主張しているのです。ところが科学は「絶対的な真理」を探究しようとするものではなかったのです。次の引用は、「哲学ってなんだ/竹田青嗣・著/岩波ジュニア新書」からのものです。「ジュニア」っていう表記にとらわれて軽く見ないでください。ジュニア向きなのは書き方であって書かれている内容ではないからです。

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 特別に人並みはずれた知恵と人間洞察を持った賢者が、普通の生活をはなれてあちこちを巡って研鑽(けんさん)を積み、あるとき豁然(かつぜん)と世界の「真理」を悟る。そういうのが、それまでわたしの中にあった哲学のイメージだった。
 しかし、哲学がよく見えてくると、こういう哲学のイメージは、だいぶ歪んだものだということが分かる。最も重要だと思えるポイントを挙げると次のようになる。
 
 1.哲学は世界の「真理」をつかむための思考法ではなく、(世界の事象について)誰もが納得できる普遍的な理解(あるいは説明)のあり方を“作りだす”ための方法である。
 2.しかし哲学は、あくまで“自分で考える”ための方法である。
 3.哲学はまた、最終的には、自分自身を了解し、自分と他者との関係を了解するための方法である。この限りで、自分の生が困難に陥ったときに役に立つ思考方法である。

 1.について。
 哲学は、世界の「真理」を見出すための思考法である、というのは古くからある通念だが、哲学の歴史では、とくに近代哲学の歴史ではこの考えはもはやほとんど滅びかけている。哲学は人間の認識と叡智についての原理をすこしづつ推し進めてきたが、この進展の中で絶対的な「真理」という考えは、いわば天動説のようにもうそこに戻れない古い真理になっている。

 絶対的な「真理」というものはない。ただ、どんな人間にとっても共通に理解できる「事実」「事態(自然科学など)」と、多様性の存在することが当然であるさまざまな世界観や価値観、倫理観などがあるということだ。それらは具体的には必ず違っているが、しかし共通性、普遍性もある。そういう原理を哲学は長い時間をかけて少しづつ追いつめてきたのだ。
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ここでいきなり哲学のことを引用したのは、科学的思考というのは哲学思考をさらに厳密にしたもので、いわば哲学は科学の母体であるからです。さて引用した文章によると、哲学はもはや「絶対的真理」を悟ろうとするものではない、ということです。哲学的考察が進んで、世界は一式の原理、意図の下に存在し、一式の目的のために統合されているべきであるという考えは天動説のように古いものであると、今では見なされているのです。むしろ世界と万物の有りようは多様であり、人間についても世界観や価値観、倫理観などにも多様性があるのが自然なのです。しかし、共通するもの、世代が代わっても、地域が変わっても、共通するものもある(たとえば、人命は貴重なもので、人間が人間を安易に殺害するべきではない、といったような了解などでしょうか)。これは哲学が長い時間をかけて研究してきた成果であるということです。いわば研究によって明らかにされてきた処を述べると、絶対的真理が存在するという観念は世界の有りようを説明するのに、正確ではない説明であると解答されているのです。
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エホバの証人ってどんな人なの?

2005年03月27日 | 一般
エホバの証人ってどういう人たちかを説明するのにもっとも端的な回答は、絶対論者であるというものになるでしょう。エホバの証人は、世界はエホバと言う造物主によって造られた、エホバの意思によって存在するようになった、したがって世界とそこに住む人間にとってエホバは絶対者である、またエホバが世界にこめた意図は絶対的な法となる、という信条にそって生きています。人間が生きているのはエホバが創造したからであり、エホバが人間を創造によって存在させたのには理由、あるいは目的がある。その目的こそ人間が生きる意味であり、生きる目的と見なせる唯一のものである。存在しているものすべてにとってエホバの意図は唯一絶対の使命であり、その意味でエホバの意図が絶対的真理である。したがってエホバを認めず、エホバの意図を意に介しない生き方、考え方は絶対的真理に反している。それを悪と定義する…。エホバの証人の考え方の基本はこういう信条です。

エホバが万物の創造者であるので、エホバは創造された世界と人間に対して正当に主権を主張できる唯一の支配者である、とエホバの証人は信じます。世の中に悪や不幸があるのは人間が絶対者エホバの支配を受け入れないからだと言います。エホバは人間たちへの正当な支配を実際に回復する。エホバを認めない国家をすべて退けて、エホバの王国をこの地球上に樹立させる強い意図を持っている。そしてわたしたちが生きているこの時代にその交代は行われるだろう。その時にはエホバに従おうとしない人間たちは一人残らず除去されることになる。だから今聖書を学び、エホバに従う生き方をしなさい、そうすれば新しいエホバ政権での世界に生き残れるとエホバの証人は信じているのです。ですから働き盛りの男性でも、フリーターのような形態で就労し、時間を布教活動のために割きます。今の世の中は自分たちが生きている時代に滅ぼされるという前提に立って暮らしています。

エホバの証人は絶対主義者なので、従うべき信条を絶対視します。エホバの証人の定められている信条に従わなければ、教団内できちんと評価されず、冷や飯食いの待遇に甘んじなければなりません。「そんなに周囲の評価など気にせずに、自分の信じたとおりに生きればいいじゃない」というのはわたしたち一般の考え方です。わたしたちの生活環境だからこそ通用する考え方なのです。エホバの証人の社会では自己・個性を確立して生きていくというのは「かたくなな態度=従順じゃない態度=信仰の弱い態度」とみなされ、何かにつけ自尊感情を傷つけられるのです。ですから、エホバの証人は輸血を拒否すること、柔剣道の授業をボイコットすること、地域の祭りや宗教的な行事に参加しないことetc...に躍起になるのです。ひごろ穏やかな表情の人が、何かの行事に参加できないと言い出すとき、彼らの表情は能面のようにこわばっているはずです。心理的に瀬戸際に立っているからです。
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1979年

2005年03月26日 | 一般
わたしは1979年3月にエホバの証人として正式に入信しました。エホバの証人は「バプテスマ」という儀式により組織の正式な一員として登録されます。プールに水を張り、すっかり水中に浸されてしまう儀式です。あっというまに終わるものなので特別な感想は起きません。実を言うとわたしはエホバの証人にはなりたくなかったのです。しかし親が両方ともエホバの証人だし、わたしは人と上手につきあえない性質だったので、世の中から逃げたのです。エホバの証人の中でならそれまで慣れ親しんできたし、新しい挑戦に向かってゆくというような、健全な生き方をしなくてもプライドを持てるという安易な考えから入信したのでした。

エホバの証人は1975年に大きな恥をかきました。その年に「ハルマゲドン」が到来して、「キリストの支配する王国」が地上を治めるようになる、その際世界中の国家という国家は滅ぼされるという「預言」を真に受けて、仕事をやめたり、年金の支払いを止めたりしていました。もちろん世界は1975年もそれまでどおり続きましたし、12月31日が明けると1976年が到来しました。この件がもとで、かなりの人がエホバの証人の組織を離れました。当然ですよね。ちょっと知力を働かせれば、エホバの証人の主張していることって、矛盾だらけでとても人生を導く思想などにはなりえないのは分かるのです。それでも、エホバの証人を去った人と残った人とを比べると、依然として残った人のほうが多かったのです。

人間って理知ある生き物だと思いますか。人間は理性で自分と社会を啓いてゆくものだと思いますか。わたしはそうは思いません。人間はきちんと教育されないと堕落や退廃に身をゆだね、怠惰に生きようとするものなのです。そういう生き方を正当化するために、いろんな知識を動員し、理屈をこねて「教理体系」を作り上げます。とてももっともらしい理屈です。むかし、「巨人の星」っていうアニメがありました。主人公は「大リーグボール」という魔球を考案してライバルと闘うのですが、その大リーグボールの2号というのが「消える魔球」でした。その消える魔球の原理を覚えてらっしゃいますか? ボール自身の特殊な回転が砂煙を巻き込み、またバッターの寸前でグラウンドの砂煙を巻き起こすことで、カメレオン効果を生み、消えるように見えるというものでした。

エホバの証人の信じている教理とはおおかたこのような類の理屈なのです。なぜこんなばかげた話を大の大人が信じて、生活を変えてまで信心するのでしょうか。こんなばかげた教理を主張する宗教に輸血を拒否して死ぬことになってもなぜ義理立てするのでしょうか。エホバの証人はほんとうに人間を向上させるでしょうか。わたしは元エホバの証人として経験したことにもとづき、こうしたことにひとつの答えを問うてみようと思います。
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