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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

再開・日本のアイデンティティ/揺らぐ幕府の威信と「挙国一致」の概念のはじまり

2009年11月29日 | 日本のアイデンティティー

「日本のアイデンティティ」シリーズが中断したまま長らく放置されていました。もういちど仕切りなおして(前もこんなこと書いたような記憶が^^)、再開します。まずは、ペリーを浦賀へ派遣させるに当たり、持たせた当時の合衆国大統領ミラード・フィルモアさんの新書の抜粋をご紹介します。


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私(ミラード・フィルモア合衆国大統領)はペリー提督に命じて、余が陛下と陛下の政府とに対してきわめて懇切の情を抱いていること、および私が提督を遣わしたる目的は、合衆国と日本とが友好を結び、相互に商業的交通を結ばんことを陛下に提案しようとする以外の何ものでもない、このことを陛下に確言しようとしています。

私はペリー提督に命じて、陛下に以下のことを告げさせる。われわれ合衆国の多くの船舶が、毎年カリフォルニアから中国に赴いています。また合衆国の多くの人民が日本沿岸で捕鯨に従事しています。天候が荒れた際には合衆国の船舶の一部が貴国沿岸において難破することもたびたびあるでしょう。そのような場合には合衆国の救援が派遣されるまでは、難破した船舶のクルーを親切に遇し、その財産を保護してもらうことを貴国に期待し、また願いたいのです。私はこのことを熱望しています。

私はペリー提督に命じて次のことも告げさせます。私たちは、日本帝国内に石炭及び食糧が豊富であることを聞き知っています。われわれの汽船は太平洋を航行するに当たり、多くの石炭を必要とします。それをアメリカから直接補給するのは不便ですので、どうか合衆国の汽船及び船舶が日本に寄港して石炭、食料、および水の供給をいただけるよう許可していただきたいのです。


ミラード・フィルモア合衆国大統領親書 1852年11月13日署名

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19世紀には欧米では、テクノロジーと資本主義が発達し、蒸気機関が実用化され、市場を拡大しようとして世界中の海を行き巡っていました。今日まで続く、経済のグローバル化の思潮は欧米では19世紀にすでに成熟していたのです。すなわち、自国で作られた商品を世界中で売り、開発された外国市場からその国の原料や食料を持ち出して自国での販売・生産に使う、そののために市場を開こうとする外国の社会構造を作り変えさせる、という経済グローバリズム戦略です。この時代は(今も似たようなものですが)そのやり口が露骨で、軍事力の行使をためらわず、植民地化を強制していました。中国のアヘン戦争はその露骨なやり方の典型的な実例です。

事実、ペリー提督への指令にも、日本があらゆる説得にも頑として応じないようであれば、語調を変えて、断固とした態度をとる(=軍事行動も辞さない)と議会において決定していることを日本に政府に知らせるようにと明記されていました。アメリカはこういうふうに、自分たちの行動は議会の決定であると伝えて、恫喝するのを常套手段にしてきました。現在の沖縄基地移転問題でも、同様に恫喝を与えています。


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鳩山新政権は、日米安保条約に即した政策の取りかたについて多くの情報を持っている防衛官僚の助言に聞き従うべきだと述べたという。

「もし、そうした情報なしに、民主党が『沖縄政策を変える、インド洋から撤退する』などと言ったらほんとうに後悔する。…率直に言って米国側には、海兵隊や議会には、グアム移転に反対する人が多くいる。いったん計画が止まれば、計画自体がバラバラになってしまうだろう。(鳩山)民主党にとって、沖縄に関する現行政策に実現を延期しようとしたり、あるいは中止しようとすることは、日本にとって非常に危険なことだ」(マイケル・グリーン米戦略国際問題研究所日本部長/ 「朝日新聞」09年8月28日付け)。


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そして今も、ペリーの時代も同様に、軍事力の格差は歴然たるものでした。当時の日本にとって中国(当時は清帝国)はやはり大国でした。その大国が1842年、イギリス軍に大敗したニュースは幕府も知っていました。ペリーが来航する以前から、軍事対決では当時の日本では無理であることは知っていたのです。目の黒い大名たちはうすうす幕藩体制の改変の必要性に気づいたことでしょう。


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ペリー来航の一ヵ月後、水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)は時の老中、阿部正弘に「海防愚存」と題する意見書を呈したが、そこでは次のように述べていた。

「和」ではなく、「戦」を国家の基本方針として定めるべきである。戦うという心構えを固めて、開国の要求を拒絶するべきだ、ただし「武家はもちろん百姓町人までも覚悟」を決めて「神国総体」の「心力一致」を実現することが肝要である、とこのように主張していた。

また8月末に、彦根藩主、井伊直弼が老中に提出した意見書(「別段存寄書」)では、将来の富国強兵を実現するための手段として開国を選ぶ方がよいと述べていたが、同時にいま重要なのは「人心を一致させる」ことであると述べていた。

開国をやむなしと述べていた直弼も、拒絶論の斉昭も、日本にとっての緊急の課題は「心力(=人心)一致」による挙国一致の体制を構築することであると主張していたのである。斉昭も直弼も直接には天皇と朝廷に言及しないが、挙国一致には天皇が不可欠の存在であるという意識の下で主張していた。

 

(「幕末の天皇 明治の天皇」/ 佐々木克・著)

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徳川幕府が敷いた身分制社会では、軍事は武家の仕事であり、民衆には与り知らぬこととされていました。ですからペリー来航騒動でも、民衆の方は武家方に比べややのんびりとした態度があって、わざわざ黒船を見物に来た町人の人だかりすらあったのでした。

ところが、強大な軍事大国アメリカの開国要求を突きつけられた幕府のほうは、いまや挙国一致でコトにあたらなければならぬ、挙国一致のためには天皇をかつぎ出す必要がある、と考えたのです。これまでの幕府と朝廷の力関係(幕府優位)が揺らいだので、意義の大きな出来事でした。そしてこの出来事から、「日本臣民」という概念の走りが明確に登場したのでした。

もうひとつ大きな変化は、幕府が独裁的判断をかなぐり捨て、ペリー対策について、幕府の役人や外様を含めた有力大名たち、そしてなんと一般民衆にさえ諮問したのです。もともと経済的には薩摩藩や加賀藩が富裕になって行ったのに比して、幕府財政は逼迫するようになっていました。幕府の威信はすっかり揺らいでいたのでした。この事件を機に雄藩諸大名が幕政に発言権を得るようになったのです。

諮問の結果、水戸の徳川斉昭は極右で攘夷論、薩摩の島津斉彬(なりあきら)と越前の松平慶永(春嶽・しゅんがく)は開国派、土佐の山内豊信(とよしげ)と宇和島藩の伊達宗城(むねなり)は中間派だったようです、最初のうちは。斉昭や豊信は後に開国論者に転向します。貿易から利益を上げられると踏んだからです。また、西欧列強の軍事力を取り入れたいという意図もありました。

雄藩大名やふだんは評定に加われなかった幕府役人たちに政治意識を持たせる原動力になったもうひとつの理由は、老中阿部正弘の開明さです。


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時の老中阿部正弘は、諸大名の意見を重んじ、オランダ教官を雇って、近代海軍学の講習をはじめ、それには幕臣のみならず諸藩士をも学ばせ、蕃書調所をもうけて諸藩の新知識人を登用するなど、諸藩と一致協力の政策を取ったので、彼の在職中は、改革派大名も幕府に期待した。

(「日本の歴史 中巻/ 井上清・著)


阿部老中は人材も集めた。老練な川路聖謨(としあきら)や、水野忠徳(ただのり)、岩瀬忠震(ただなり)をはじめ、多彩な能吏が下級幕臣から抜擢される。またこのころ、老中と海防掛のあいだで、(当時の習慣である身分差へのこだわりを越えて)率直な議論が交わされたという。阿部、(阿部後の)堀田という幕閣は、開明的な政権であった。

(「幕末・維新」/ 井上勝生・著)


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当時は、能力で幕僚に登用されるということはなかったのです。あくまで家系に従っていました。どんなに天然でも幕僚の家系に生まれれば、幕政を行いました。逆にどんなに有能でも、下級武士の家系なら幕政には与らなかったのです。

開明的な、目の黒い人物が指導部にいるなら、たいていの危機には対処できるのです。事実、わたしが中学生の頃は、アメリカの圧力に幕府は弱々しく振り回されるだけだったというような教えられ方をしましたが、最新の研究では幕府は大国アメリカに、小国の意地を見せた交渉を行ったという見方が主流になっているようです。この点は次の機会にご紹介しましょう。

現代日本はどうでしょうか。今も危機中の危機ですが、自民党の旧態依然とした施政にとって代わった民主党は「開明的」と評される仕事をするでしょうか。事業仕分けはたしかに画期的でした。自民党にはできないことです。さあ、では経済政策はどうでしょうか、対等な日米関係を公言しましたが、沖縄基地移転で強力なリーダーシップを取れるでしょうか。どうも鳩山さんは小沢さんに頭が上がらないようですし、政治資金疑惑でお尻に火がついているようです。あんまり頼り甲斐がないように思えてしまうのですが…。

 

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不平等条約を結ばされる日本 (中)

2008年02月03日 | 日本のアイデンティティー
ロシア、アメリカが日本に来航するようになった時期に幕政を担っていたのは、老中阿部正弘。開明的な人で、それまで徳川一門で行っていた幕政を改め、雄藩外様大名との強調を進めました。雄藩大名たちもこの機会を逃さず、幕政に食い込んでいこうと企てるようになり、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)は自分の養女篤姫を時の将軍家定の夫人として送り込むことに成功しましたが、それも阿部正弘の協力があったのです。

ヨーロッパの歴史では、封建制は諸荘園領主の割拠から国王に富と権力が集中する絶対王政へと移行するようになり、商業が十分発達するようになると、封建制が崩されてゆきました。自由に商業を行うためには、封建制のような、土地と交通を封建領主が一手に掌握するような社会の仕組みが邪魔になります。ある封建的土地所有者の領地から別の封建的土地所有者の領地へと移動するのに、いちいち関税を支払っていたのでは、高くつきます。ですから商売人たちは「自由」を求めて戦ったのでした。彼らが求めた自由は、私的所有の自由、通行の自由、ギルドなどの地元の職人組合による独占からの自由などです。自由と民主主義はもともとは資本主義の発達によって主張され、闘い取られてきたイデオロギーだったのです。

日本でも、資本主義は芽を吹き始めていました。徳川施政は各藩の経済力が幕府を圧倒しないように、参勤交代という制度を設けて、各藩にたくさんのお金を出費させていました。また、身分位階制度を徹底させることによって、武士が農業に携わることのないようにし、農業と農村から武士を切り離して、城下町に住まわせて統制しました。ところがこの身分位階制と参勤交代という制度が、逆に商業を発達させる原因になったのです。武士たちは農工業生産を行わないので、農民から農産物を年貢として取立て、それを貨幣に換え、その貨幣で必要な物資を買い入れる必要が生じたのです。これが社会的分業を生じさせ、封建制とは相容れない商品経済の必要性を、幕府の考えの及ばないところで生じさせたのでした。

幕末には、幕府の経済は疲弊しきっていましたが、薩摩藩のような先見性の高い藩は、琉球を隠れ蓑とした外国との密貿易や、大坂を通らない日本海ルートの開発による商品流通経路の新設などによって、財政を潤すようになっていたのです。そこへアメリカによる開国要求に直面した幕府から、諮問が行われました。幕府は事態に対処するに当たって、協力を要請してきたのです。金持ち藩はこの機会を捉え、幕政に参加しようと企てたのです。その政策の一環として、島津斉彬は阿部正弘の協力を得て、篤姫を将軍家定に嫁入りさせました。将軍家との縁をつくったのです。

さて、阿部正弘率いる幕府からの開国要求にどう対処するか諮問を受けた諸雄藩大名たちは、だいたい三つの意見に分かれました。強硬打ち払い派、戦争を避けようとする消極的開国派、積極的開国派です。島津斉彬は最初に積極的通商派に変わりました。すでに日本全国に大交易網を作り上げていた実績がそうさせたのでしょう。

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斉彬はハリス来日のころには、「交易が盛んになり、武備が十分になり、世界中の(つまり欧米列強に比肩できるような)強国」をめざす、と述べる。

改革派の旗頭、越前藩松平慶永(よしなが)も、鎖国し続けることができないのは「具眼のもの、瞭然、我より航海をはじめ、諸州(世界)へ交易に出る」と、日本のほうから海外へ進出する通商意見を上申した。

最後まで打ち払い策を上申した大名は少数で、徳川家門の尾張藩、水戸藩、そして鳥取藩、川越藩の4藩だったといわれている。

しかし、尾張藩は、老中の最後の諮問には、たびたびの諮問の上、「別段のご処置になったので、今更言うべきことはない。日本の難儀が予想される。十全のご処置、ご考慮を」という上申をし、条約承認に妥協する意見を出した。

攘夷論の中心であった水戸藩徳川斉昭(なりあき)すら、条約の勅許が要請されるようになってからは、「いわれなく打ち払いは不可能」という意見を朝廷に送る。「ハリスの無礼の申し立て少なからず、痛憤に堪えず」と言って、条約に批判的だった土佐藩山内豊信(とよしげ)も、翌年には「戦えないという兵」に戦争を求めるのは「無謀」であり、今は条約承認を求める、という意見を朝廷に説くのである。

戦争論も出たのだが、「衆議」を重ねて、条約はやむをえないという、大名の合意が作り出されたというのが、条約承認問題の真相である。それが大名の世論であった。通商条約の是非は、日本の「万民の生命」がかかわる現実の問題であり、尾張藩や土佐藩のような拒絶論、批判論の雄藩も、度重なる諮問の後には「衆議」に加従うのであった。



(「幕末・維新」/ 井上勝生・著)

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こうして有力大名たちの合意もおおかたでき上がったところで、安政四年10月にアメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリスが江戸城に登城し、将軍家定に謁見したのでした。ハリスは謁見のようすを日記に書き記しています。

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1857年12月7日 (安政四年10月21日)

やがて合図があると、信濃守は手をついて、膝行しはじめた。私は半ば右に向かって謁見室へ入っていった。その時、一人の侍従が高声で、「アメリカ使節!」と叫んだ。私は入り口から6尺(約1.8m)ばかりのところで立ち止まって、頭を下げた。それから室のほとんど中央まで進み、再び立ちどまって頭を下げ、又進んで、室の端から10尺(約3m)ばかり、私の右手の備中守と丁度相対するところで停止した。

そこには備中守と、他の5人の閣老とが、顔を向けて平伏していた。私の左手には大君の3人の兄弟が同様に平伏し、そして彼らのいずれも、私の方へ殆ど「真ん向き」になっていた。数秒の後、私は大君に次のような挨拶の言葉をのべた。

「陛下よ、合衆国大統領よりの私の信任状を呈するにあたり、私は陛下の健康と幸福を、また陛下の領土の繁栄を、大統領が切に希望していることを陛下に述べるように命ぜられた。私は陛下の宮廷において、合衆国の全権大使たる高く且つ重い地位を占めるために選ばれたことを、大なる光栄と考える。そして、私の熱誠な願いは、永続的な友誼(ゆうぎ)の紐によって、より親密に両国を結ばんとするにある。よって、その幸福な目的の達成のために、私は不断の努力を注ぐであろう」。

ここで、私は言葉を止めて、そして頭を下げた。短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。同時に右足を踏み鳴らした。これが3,4回くり返された。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりとした声で、次のような意味のことを言った。

「遠方の国から、使節をもって送られた書簡に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久に続くであろう」。



謁見室の入り口に立っていたヒュースケン君は、このとき大統領の書簡をささげて、三度お辞儀をしながら、前に進んだ。彼が近寄ったとき、外国事務相は起立して、私のそばに寄った。私は箱にかけた絹布の覆紗(ふくさ=袱紗)を取って、それを開いた。そして書簡の被覆(カバー)をあげて、外国事務相がその文書を見ることができるようにした。それから、私はその箱を閉じ、絹の覆紗(6,7条の紅白の縞模様があった)をかけ、そして、それを外国事務相に手渡した。

彼は両手で受け取って、彼よりも少し上座に置かれている美しい漆塗りの盆にそれを載せた。それから彼は再び元のところへ座った。

次いで私は大君の方へ向き直った。大君は丁寧に私にお辞儀をし、これによって謁見の式がおわったことを私に知らせた。私はお辞儀をして後へさがり、停止してお辞儀をし、再び退って、また停止し、またもお辞儀をして、それで終わった。


(「日本滞在記」/ T.ハリス・著)

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この日はこうして合衆国大統領の親書を手渡すだけで終わったようです。5日後、ハリスは再び「外国事務相」を訪ねて、通商条約を結びたい合衆国の意図を延々二時間に亘って述べます。12月12日に日記にはこのように記されています。

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1857年 12月12日 土曜日 (日本の当時の暦では、安政四年10月26日)

私は、スチーム(蒸気)の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるだろう。

貿易に対する適当な課税は、間もなく日本に大きな収益をもたらし、それによって立派な海軍を維持することができるようになろうし、自由な貿易の活動によって日本の資源を開発するならば、莫大な交換価値を示すに至るだろう。この生産は、国民の必要とする食料の生産を少しも阻害するものではなく、日本の現在有する過剰労働などを使用することによって振興するだろう。

日本は屈服するか、然らざれば戦争の惨苦をなめなければならない。戦争が起きないにしても、日本は絶えず外国の大艦隊の来航に脅かされるに違いない。何らかの譲歩をしようとするならば、それは適当な時期にする必要がある。

艦隊の要求するような条件は、私のような地位の者が要求するものよりも、決して温和なものではない。平和の外交使節に対して拒否したものを、艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになると述べ、この点はシナの場合、すなわち1839年から1841年に至る(阿片)戦争と、その戦争につづいた諸事件、および現在の戦争とを例にとって説明した。

私は外国事務相に、一隻の軍艦をも伴わずして、殊更に単身江戸へ乗り込んできた私と談判をすることは、日本の名誉を救うものであること。問題となる点は、いずれも慎重に討議さるべきこと。日本は漸を追うて開国を行うべきことを説き、これに附随して、次の三つの大きな問題を提出した。

1.江戸に外国の公使を迎えて居住させること。
2.幕府の役人の仲介なしに、自由に日本人と貿易させること。
3.開港場の数を増加させること。

私は更に、アメリカ人だけの特権を要求するものではなく、アメリカ大統領の満足するような条約ならば、西洋の諸大国はみな直ちに承認するだろうと附言した。

私は、外国が日本に阿片の押し売りをする危険があることを強く指摘した。そして私は、日本に阿片を持ち込むことを禁ずるようにしたいと述べた。

私の使命は、あらゆる点で友好的なものであること。私は一切の威嚇を用いないこと。大統領は単に、日本を脅かしている危険を日本人に知らせて、それらの危険を回避することができるようにするとともに、日本を繁栄な、強力な、幸福な国にするところの方法を指示するものであることを説いて、私の言葉を終わった。




私の演説は二時間以上におよんだ。外国事務相は深い注意と関心をもって傾聴した。そして、私の言うところを十分了解できぬときには、度々質問を発した。私の演説が終わったとき、外国事務相は私の通報に感謝し、これを大君(たいくん:徳川将軍のこと)に伝達し、然るべく考慮することにすると述べ、これは、これまで幕府にもたらされた問題の中で最も重大なものであると語った。

外国事務相は、これに附言して、日本人は重要な用務をアメリカ人のように迅速に処理することなく、大勢の人々に相談しなければならぬことになっているから、これらの目的のために十分な時日を与えてもらわねばならぬと述べた。これは万事延引を事とする日本人のやりかたを私に諒承させんがためであった。

私は、私の述べた一切の事について、十分な考慮を彼らに希望し、そして、質問されることがあるならば、どんな事でも喜んで詳細の説明をしようと答えた。

外国事務相は親切に私の健康をたずね、私の病気に対し篤く遺憾の意を表した。例のように茶菓のもてなしがあって、私は4時ごろ宿所へ帰った。



(「日本滞在記」/ タウンゼント・ハリス・著)

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通商条約の草案作りの実務交渉は和暦安政四年12月11日から開始されました。この内容もハリスは日記に書き記しています。この内容についてはまた別の機会に書きます。交渉が始まった日の翌日、日本側の全権委員であった岩瀬忠震(ただなり)と井上清直は二人の連名で上申書を老中に提出しています。

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「天下の大事」は「天下と共に」議論し「同心一致」の力を尽くし、末々にいたるまで異論がないように「衆議一定」で「国是」を定めるべきである。そのために将軍が臨席し、御三家・譜代・外様の諸大名を召し出して、「隔意」なく「評論」をいたさせた上で「一決」する。ここで議決されたものを、速やかに天皇に奏聞し天皇の許可を得た上で天下に令する。
(「大日本古文書 幕末外国関係文書」18)

この文書で、もっとも注目すべき点は、日本国家における天皇の位置・政治的役割が明快に示されていることである。国家の最高基本方針である「国是」を、まず武家の衆議で「一決(多数決ではなく近世的慣行である全員合意方式)」し、それを天皇に報告し、天皇が朝廷に諮り、その上で勅許を得て、さらにそれを天下に布告すべし、という意見である。

通商条約を結ぶこと(開国)は、単に幕府の鎖国の法を改めるのではなく、新しく国是を定めることである、という解釈である。したがってその新たな国是は、将軍ではなく、天皇が全国に布告するものであるべきだ、という主張であった。この意見だけでは、天皇と将軍、朝廷と幕府との、政治的位置関係が見えてこないが、天皇の政治的役割をはっきりと示した点において、画期的な主張であった。

この上申に対して老中がどのような意見を述べたのか、よくわからない。

しかしこの後、明けて安政5年正月5日に、幕府がハリスに、天皇・朝廷の承認を得てから通商条約に調印する運びにしたいことを告げ、老中堀田備中守正睦(まさよし)が21日に上京の途についたのは、幕府首脳部が上申の趣旨を受け止めたものであったことを示している。堀田は2月5日に京都に着く。彼自身は天皇と朝廷の承認を得ることは可能だと見通していた。


(「幕末の天皇・明治の天皇」/ 佐々木克・著)

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幕府にとって天皇や朝廷は法的には「下」にあるものでした。幕府は摂政や朝廷を通して天皇を監視し、封圧していたのです。しかし、いざ「国是」の大改定を前にすると、天皇という古代の権威を借りようとするのでした。征夷大将軍の承認は天皇が行っていたので、深層意識では、天皇という制度について、神がかり的な認識は受け継がれてきたのでしょう。

しかし、幕閣の説得や工作にもかかわらず、孝明天皇は拒絶し、戦争をも辞さない決意を表明するのです。そしてこのときに孝明天皇が持ち出したのが「万王一系」という概念でした。いうまでもなく、明治時代になって「万世一系」と呼ばれた考え方です。これは天皇家に代々伝わる神国思想でした。長い間幕府に封圧されていた天皇が幕末にその存在を顕示するようになります。そして天皇のこういう神国思想は、国学を重んじていた井伊直弼が大老に就任したときに、勢力を得、大名が参画し始めた幕政に粛清を生むのです。再び徳川宗家による幕政を取り戻そうという反動勢力が席巻するようになるのでした。


以下、続きます。
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不平等条約を結ばされる日本 (上)

2008年01月20日 | 日本のアイデンティティー
ペリー提督は、日本との交易を始めることには成功しませんでしたが、12条からなる日米和親条約締結にこぎつけました。

当時の合衆国大統領ミラード・フィルモアの徳川将軍宛の親書には、
「合衆国の蒸気船が毎週中国へ航海しているが、これらの船は貴国(日本)の海岸を通過しなければならず、暴風の際には貴国の港に避難しなければならない。だから、わが国の船に対して貴国の友情、寛大、懇切とアメリカ国民の財産の保護を期待する必要がある。わたしはさらに、アメリカ国民が貴国民と交易することを許可されることを願う。もちろんアメリカ政府は、彼らアメリカ国民が帰国の法律を犯すことを許したりはしない。

「われわれの目的は、友好的な交易であり、それ以外の何ものでもない。貴国はわれわれが喜んで購入する商品を生産することができ、われわれは貴国の国民に適した商品を生産し、供給するであろう。

「貴国には豊富な石炭が産出する。これはわれわれの船がカリフォルニアから中国に航海する際に必要なものである。われわれは、貴国の指定された港でいつでも石炭を購入することができればたいへん幸せである」(「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新」/ 皆村武一・著)と記されていました。

アメリカはまず、当時の中国との貿易が主な眼目であったのでした。これは日本にとってはある程度幸いしたといえるでしょう。日本が中国のように完全植民地化を意図した本格的な圧力を受けなかった理由の一つでもあったのでした。

またペリーには、このような命令も与えられていました。
「あらゆる議論と説得をしても、日本政府から鎖国政策の緩和や捕鯨船の避難・遭難の際における人道的取り扱いについての保証を確保することができない場合には、語調を変えて、アメリカ政府は、目的達成のために断固たる態度をとる、ということを決定している旨を日本政府に知らせるべきである。もし上述の点に関して何らかの譲歩がえられたならば、条約という形にもっていくことが望ましい。…大統領には戦争を宣言する権利はないこと、この使節団は平和的な性格のものであり、艦船および乗組員の保護という自己防衛以外の場合に武力を行使してはならないということを、司令官は肝に銘じておかなければならない」(上掲書)。

つまりペリーには、何が何でも通商の扉をこじ開けなければならない、という使命はありませんでした。大統領親書に明記されていた希望に関して、「何らかの譲歩を引き出す」ことができればよかったのです。それでも「アメリカの断固たる」意志を示すために、「堂々たる兵力の示威」をデモンストレーションするようにとも命ぜられていました。実際に大統領親書を日本の地で渡したいことを伝えるのに、もしそれすら拒否されるならば、「すみやかに一戦に及び勝敗相決し申すべし」と強硬な態度をも見せました。

実はこのとき、ペリーと交渉をした日本側全権大使、林大学守(はやしだいがくのかみ)の巧みな交渉術が、交易を阻み続けさせたのでした。モリソン号事件という出来事がありました。アメリカが漂流した日本人漁民を救助し、彼らを送還するついでに交易を始めようとして、モリソン号を浦賀へ送ったのですが、当時日本は「異国船打ち払い令」という法律があったので、浦賀奉行が猛撃して追い返しました。

アメリカ国務省はこの事件をネタにして、「日本は自分の国の漂流民でさえ助けない未開国、野蛮国だ、そういう「不仁の至り」を戦争で打ち凝らしてやる、というアメリカ得意の正義の戦争の論理で迫ろう、という戦略を使ったのです。しかし、ペリーが戦争の意図を辞さない意思を示したとき、林大学守はこう受け答えをしたのです。

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「時期によれば戦争にも及びましょう」と切り出した林は、日本の政治は「不仁」ではないし、万国同様人命を重んじている、だから300年に渉る太平が続いている、と述べて、ペリーの「不仁の国」発言を批判している。

日本近海で他国の船が遭難したときは薪水食料を供給している。漂流民は長崎へ護送し、オランダを通じてそれぞれの国へ返してきた。だから非道の政治ということは一切ない、と。

貴国にても「人命を重んじる」ということであれば、「さして累年の遺恨を結んでいるというのでもないところ、強いて戦争に及ばなければならないと言うほどのこととも思われない。使節にても、とくと相考えられて然るべき儀と存知そうろう」と結んだ。



「累年の遺恨」ではない、という指摘がみごとにきいている。モリソン号事件はこのときより17年前の事件であった(1837年の事件)。たしかに累年(年々、の意。漂流民をいつもいつも必ず武力で追い返してきたのではない、という意図を伝えている)の事件ではなかった。17年前の事件を戦争の理由にするのはまったく強引である。

林全権大使の応答は、人命保護を口実にする強国の「正義の武力行使」の正当性を問うものであろう。林は「累年の遺恨」ではないというペリーの言い分の弱点を見つけて、一層的確に、戦争こそが最大の非人道だということを巧みに指摘したのである。


(「幕末・維新」/ 井上勝生・著)

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わたしがここで言いたいのは、軍事力でもテクノロジーでも圧倒的に弱者の立場であった幕末の日本が、強国のアメリカに対して外交術によって独立を守ることに成功した、ということです。正義の戦争を振りかざす軍事強国アメリカにほいほい言いなりにならなかったのでした。

最近、新テロ特措法案が衆議院再議決で成立しました。福田総理は最初、新テロ特措法は廃案にして、次の通常国会で出し直そうとしていました。ところが昨年、ブッシュ米大統領との会談で給油活動の早期再開への圧力を受けたとたん、強行採決路線へ転換しました。(「週刊金曜日」2008年1月18日号より)まるで犬です。愛玩犬ですね、アメリカの。一声恫喝されればオロオロすぐ手のひらを返します。

イラク戦争は大量破壊兵器が準備されているというウソを口実に始められたのでした。そのうそが発覚しても、日本はアメリカの言いなりになっています。イラク戦争そのものが非人道的なのです。なぜ読売新聞や産経新聞は、給油した油がイラク戦争に使われていた可能性が発覚したのに、給油活動を「人道支援」と言えるのか、わたしにはさっぱり理解できません。

日本は現在、ヨーロッパ諸国以上の通常兵器を装備した軍事大国です。でも幕末の日本はそうではありませんでした。中国の外側に位置する弓なりの長い国土を持つ国、という地政学的要素に助けられたとはいえ、林大使の交渉術、西欧列強の戦争に巻き込まれまいとする意志、信念には、今日の日本の政治家はおおいに学ぶところ大だと、わたしは思います。

今の政治家や外務官僚が当時の幕閣より劣っている、というのではありません。スキルではむしろずっと優れているでしょう。でも、信念や、ヴィジョンがあやふやなのです。日本をこういうふうにしよう、という強い信条がないのではないでしょうか、今の外務官僚には。ひたすらアメリカ頼りの外交でしたから、アメリカに見放されそうになったり、アメリカから恫喝が加えられるとカメのように首をすくめます。林大学守は、アメリカから強硬な態度を示されても、引きませんでした。交渉術というようなスキル以前の、これは信念とビジョンの差だとわたしは思うのです。

ペリーはこうした日本側の巧みな外交によって、交易は結べなかったものの、日本側が譲歩できるといった条項を盛り込んだ、
①薪水食料、石炭その他の欠乏品の供給、
②漂流民の救助と保護、
③下田・函館の二港の開港、
④領事駐在、片務的最恵国待遇などを含む日米和親条約を締結させました。

いうまでもなく、「片務的最恵国待遇」というのは日本がアメリカを「最恵国待遇」するということであり、アメリカは日本を「最恵国待遇」しない、という意味です。これは不平等な条約でした。しかし、実際に戦争するとなると、日本側に多大な損害が生じることは明らかです。日本側は西欧列強に較べ、武備がお粗末でした。外国強硬排除、つまり攘夷は賢明な選択ではないということは、当時の幕閣にも明らかに理解できたのでした。理解しなかったのは、当時の天皇、孝明天皇だけでした。





長い間、放置していた「日本のアイデンティティー」シリーズですが、今年はがんばって書いてゆくつもりです。ロシアとアメリカの来航は日本に危機を生じさせ、阿部正弘、堀田正睦といった進歩的な老中や、岩瀬忠震といった開明的な下級武士が登用され、また経済力を蓄えた雄藩の外様大名も幕政に参加するようになります。幕府の伝統的体質が変わろうとしたとたん、反動保守派の井伊直弼によって潰されるのでした。NHKの今年の大河ドラマのヒロイン、篤姫もこの時期の人物です。開明的大名たちや公家が安政の大獄と京都の8.18政変によって失脚していくと、今度は藩士や浪人が倒幕の原動力を担ってゆきます。

江戸時代と明治時代、明治時代と昭和時代には「断層」があるのでしょうか。わたしはむしろ連続していると思います。経済大国を標榜しようと躍起になる日本の源流は、その精神は明治時代にあるとおもうのです。そして明治時代は決して江戸時代と断層を持った時代ではなく、武家の精神が生きたまま受け継がれ、侵略戦争へと日本を導いていったのです。わたしはそう考えています。「日本のアイデンティティー」シリーズはその辺をおってみようと考えています。近代日本史を勉強しもってなので、不定期にはなりますがお読みになっていただければうれしいです。




さて、ペリーが去って、今度はアメリカは本腰を入れて、日本と通商条約を結ぼうとします。タウンゼント・ハリスがその命を受け、来日します。これを機に、日本の政局は大きく動揺します。(下)では安政の大獄にいたる過程を調べてみます。
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「自虐史観批判」はなぜひろく受入れられたのか (上)

2007年10月08日 | 日本のアイデンティティー
集団自決で、文科省が「軍による強制」を削除しましたが、沖縄の人たちは黙っていませんでした。大きな抗議の声を上げ、示威行動を取り、文科省をはじめ政府を動揺させることを成し遂げました。しかしそれでも、「軍による強制」という文言はそのまま回復させることはむずかしいとのことです。「検定意見に政府が介入することはできない」という口上になっていますが、実際は、教科書審議会の議論はほとんど行われておらず、官僚主導で一方的に削除されていたのです。

歴史の恥部を隠蔽しようとするこの圧力はどこから出てくるのでしょうか。なぜ、本土のわたしたちは、こういうことを脅威と見なさず、醒めた目でしか眺めないのでしょうか。歴史を粉飾しようとする空気はどのようにわたしたち本土の国民に浸透したのか、その事情の根元を垣間見せる文献を見つけたので、今回はこれをご紹介します。どうやらおおもとは、アメリカによる対ソ戦略にあったようです。

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1.池田ロバートソン会談
敗戦の1945年から50年代にかけての戦後期の国民の平均的な歴史認識は、戦争とその敗北の根本原因は、結局日本の社会が全体としてまだ「『半封建制』性」「封建遺制」を克服しえていなかった後進性にあり、経済力・技術の劣勢も、戦争での軍部の独走や天皇制的な人命軽視・人権言論抑圧もすべてその社会的後進性に根を持っている、といったものだったと述べてよい。

国民が戦後の民主主義的改革を受け入れたのも、占領政策としてただおしつけられたからではなく、生活実感にもとづく国民意識がそれを必要と考えていたからである。学問・思想の分野で、マルクス主義や近代主義(*)が大きな信頼を受けたのも、その言説が、敗戦を見つめ、自国の社会改革、「近代化」を自分たちの力で進めなくてはならない、と考える人々の心に響くものがあったからである。
(*)近代主義
ヨーロッパの近代社会を「近代」という理念のモデルとして設定し、そのモデルによって日本の近代社会を批判し、日本の「近代」の後進性を浮き彫りにし、ヨーロッパ的な「近代」社会へ向けて以下に純化発展させてゆくか、ということをテーマに掲げた思想潮流。大塚久雄、丸山真男、川島武宜氏らが代表的。



この時代、多数の日本人の意識はそうした面では自省的で、アジア・太平洋戦争についても、日本の中国侵略が基本原因だという理解を共有していた。

しかし、1948年からいちはやく表面化した米ソ冷戦の激化の中で、占領政策が急激に転換されたため(*)、侵略戦争についての反省は曖昧にされ、多くは戦争被害者的記憶や戦争はこりごりといった心情だけにとどまり、アジアの民衆に対する加害者的側面についての認識は、「事実的」の面でも「理論的」の面でも深められることなく、反動的な状況に押し流されてゆく傾向が強まった。
(*)
1953年、吉田首相特使、池田勇人と米国務次官補ロバートソンの間でのMSA(相互安全保障条約)をめぐる日米会談が設けられた。文字通りに「池田・ロバートソン会談」と呼称されている。
 これによって日本は事実上の再軍備に踏み切らされたが、その「防衛力漸増政策の遂行に妨げになる空気を除去するように、教育を通じて日本の国民意識を誘導する」ことが決められた。
 これを転機に教育は反動的旋回を始め、「憂うべき教科書の問題」(1955年、「日本民主党」による、当時の自省的歴史教科書への非難・攻撃したパンフレット)が発行され、文部省(当時)による教科書検定(組織・内容)強化が進められだした。




こうした国民意識の旋回に強い影響をもたらしたのは1960年代の高度経済成長である。60年代を通じて進行したその動きの中で、日本は先進国のひとつとなり、「経済大国」といわれるようになった。それによって「半封建的後進性」は克服された、明治以来の、「欧米に追いつけ追い越せ」の目標は達成された、と多くの人が心に感じるようになった。アジアの途上国からの留学生には、日本の成功は自分たちのこれからのモデルになる、と思う人も多くなった。アメリカの日本史学者は、日本の「成功」の要因を江戸時代までを含めてとらえる「近代化論」(*)を提起した。
(*)
近代化論;
マルクス主義史観(資本主義から社会主義へ、という発展・移行・革命理論)に対し、資本主義の後進国における近代化の可能性を「離陸」「産業化」という概念をキーワードとして理論化しようとして1950年代にアメリカの学者ロストウが提唱した経済発展理論が原型。社会主義革命を相対化し、ソ連の路線に対抗するという政治性が強い。ライシャワーはそれらを背景に、日本の「近代化」の条件を江戸時代の見直しから始め、60年代には日本の歴史学会にもその影響が広まった。



60年代の終わりから70年代にかけて「戦後歴史学」への批判的検討が盛んになり、さまざまの角度からの “日本史再考” (*)が盛んになった。「戦後民主主義」や「戦後歴史学」が批判的検討の対象になったということは、時代が移ったということを意味している。その中で戦後の国民意識を広くとらえてきた(自省的な)歴史認識は揺らぎだし、歴史学でも “多様化” の時代に入った。「太平洋戦争見直し論」も、また性質はちがうが「社会史」も、そのひとつとして登場した。
(*)
日本史再考;
戦後、60年代初頭ころまでに、マルクス主義と近代主義(前出)の歴史学の主導によって展開された「戦後歴史学」の日本史認識・日本史像への批判を意図して、さまざまの立場からその見直しが開始され、60年代後半から70年代にさかんとなった。
一律にはいえないが、中世・近世については、領主-農民の封建的支配被支配関係と、階級的矛盾からその社会の基本構造をとらえるマルクス歴史学理論の視角を拒否して、民衆生活の明るさ、経済的水準の高さを強調する説もそのひとつである。
近現代史では、講座派(日本の支配構造を絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の三者によって分析する歴史学。野呂栄太郎『日本資本主義発達史講座』によって打ち出された)がその制約的側面を重視してきた明治維新の理解やそれをふまえた日本資本主義特質論の見直しなどがそれである。
アジア諸民族を解放したという見解に結びつけようとする「大東亜戦争」見直し論もそうした一連の動向の中で登場した。



一方、「戦後民主主義」の再検討とともに、太平洋戦争における日本の加害者的側面が本格的に検討されるようになり、それに関わる事実の発掘と意味を問う仕事も盛んになった。日本の台湾・朝鮮植民地支配の実態、アジア太平洋戦争における戦争犯罪的諸事実の解明などがその代表的なテーマである。併行して沖縄・アイヌなど本土から差別されがちであった弱者・マイノリティの史的研究も急速に進められていった。

こうして日本歴史への関心と研究が二極分化の色合いを濃くしてゆく。
ひとつは「近代の達成」を楽天的に受けとめ、「日本の成功と自信」を歴史の中に求め、それを明るく描こうとする方向である。もうひとつは、とくに日本の近現代史に忘れることのできない、また忘れてはならないさまざまの「負」の側面の認識を深めることを通じて歴史の展開と課題を見きわめようとする方向である。前者を東京大学教育学教授の藤岡信勝氏と西尾幹二・電気通信大学文学部教授は「自由主義史観」と名づけ、それに対照して後者を「自虐史観」と称し、ここに両者の対立構図が現れた。

ただし、「自虐史観」はこの時点で新たに登場したものでなく、戦後歴史学の一貫した基本思考のひとつであったが、「自由主義史観」側がこれを「自虐史観」と名づけたことによってこの図式がつくりだされた。

この間、1965年には家永三郎氏が「教科書検定訴訟」(「教科書裁判」と略称)を提起し、これに対する日本史研究者・教育者の強い支持運動が広い範囲に起こされた。国の行う検定が、教科書記述の細部にまで干渉して学問・思想・教育の自由を犯す危険、本来政治・権力から独立して行われるべき教育の内面にまで介入する国家の教育支配の危険を眼前にして、戦前型の教育への回帰は何としても阻止しなくてはならないというのが、広く共通する受けとめ方であった。

この「教科書裁判」はじつに32年にわたって、原告家永氏とこれを支援する歴史学・法律学・教育学などの数多くの研究者・教育者・弁護士。市民などの良心をかけた戦いとして最高裁まで争われ、重要な幾つかの争点について、原告の主張が認められた。この長い裁判期間中に、教科書の改訂は国の規定に従っていくたびも行われたが、多くの日本史教科書は「南京大虐殺」「七三一部隊」「従軍慰安婦」など、戦争犯罪の重要な事実を逐次、新たに取り上げるようになった。これに対して一部の保守党政治家や財界人などが「教科書に暗いことばかり書くな、国を愛する心が育つような教科書を」という声をだんだん大きくするようになった。

「暗い」といわれるものは、教科書筆者やそれに共感する人々の側から言えば、おおむねこれまで隠蔽されたり研究が至らなかったりして取り上げられてこなかった事実であって、戦争というものの本質や、日本の戦争責任・平和にかかわる重要な問題である。だからこそそれらは次代の記憶に残さなくてはならない、と考えたのである。

この両者の乖離と対立は、70年代末から80年代初めにかけていっそう厳しい状況を生み出してゆく。






2. 80年代、国際的圧力に屈した反動勢力
70年代は歴史認識の二極分化がはっきりとしはじめた時期であるが、中・高校用日本史教科書の内容は筆者・編集者等の努力と市民の関心の高まりによって、検定による歪曲をはねかえし改善が進んだ。「暗い」「自虐的」と攻撃する側から見ればいちだんと「悪く」なったということにもなろう。

70年代の終わりころから80年代初めにかけて、これに危機感をもった自民党は機関紙『自由新報』などに関連記事を連載し、大々的な教科書攻撃を始めた。政権を担当する政党が、教育の内面(教科書等)にまでなりふりかまわず踏み込んですでに検定済みとなっている教科書やその筆者への非難・攻撃を行うというのは異常である。

しかし、文部省(当時)はこれに力を得て、81~82年の「現代社会」(新設)や「歴史」の教科書の検定では、有名な「侵略-進出問題」からもうかがえるように、史実の正確性をねじまげても「暗い」記述をおさえこもうとする強硬姿勢をとった。

これに対して、教科書筆者はもとより、マスコミも共通に批判の姿勢を強めた。そうした中で82年、中国・韓国をはじめとするアジア諸国からの抗議の声も厳しくあげられた。歴史的事実を隠したり歪曲したりすることは有効と交流の基礎を破壊するものだというのがその趣旨である。保守党政治家の中には「内政干渉ではないか」と反発する人もいた。政府と文部省(当時)は陳弁をつづけたが、結局、検定基準に「近隣諸国への配慮」という一項を加え、以後、「侵略」の文字を使わせないとか侵略行為や戦争犯罪の事実を隠蔽したりねじまげるような検定強制はしないという譲歩を行ってひとまず落着した。

しかしこれは日本の為政者たちが国家権力による教育の内面への介入や、いわゆる「暗い」諸事実の隠蔽をほんとうに誤りとして認めたことを必ずしも意味しない。「近隣食への配慮」という言葉自体がそれを示唆するように、本音は別だが、ひとまず譲る、ということにほかならなかった。

86年には「日本を守る国民会議」という改憲派民族主義グループが『新編日本史』という教科書(高校用)を編集・発行した。そこでは、
(1)日本の伝統文化の流れと特色を重視する
(2)天皇に関する歴史的記述を充実する
(3)国家として自主独立の精神が大切であることを理解させる
(4)古代史については神話を通じて古代人の思想を明らかにする
(5)近現代については、戦争に関わる記述を極力客観的なものにする
  (=日本だけが悪いのではないということをはっきりさせる、という意)
…と編集の狙いを説明している。

これだけ(つまり、「編集のねらい」だけ)を見ると国家主義的だが、複数の検定教科書のなかのひとつとしては許容の範囲内ではないかという感じもある(筆者の「感じ」)。しかしその実際の記述は、史実を無視ないし歪曲をしていて、筆者たちの独断的な考え方があまりにも露骨だった。そのため『新編日本史』は教育現場でごくわずかしか採用されず、いくばくもなく事実上消滅した。

この『新編日本史』の編集方針は、明言されているわけではないが、西尾幹二氏の『国民の歴史』にそっくり引き継がれた。90年代の「自由主義史観」グループは80年代の「日本を守る国民会議」の主張をそのまま継承したと考えるべきところが多い。この点は「自由主義史観」の背景や根強い底流を確認するためにも重要である。



こう見ると80年代には教科書検定に対する国際的批判、日本政府の一定の譲歩があったにもかかわらず、国家主義的日本史観がいっそう根をはりだしたという側面も見逃せない。すでに70年代以降、戦争・敗戦を体験した戦後の第一世代の退場が始まり、「暗い」過去を知らない「経済大国」世代が世の中の主役に上がってきており、
「いつまで戦争責任や戦争犯罪をしつこく問題にするのか」
「『謝罪外交』のくりかえしはもうたくさんだ」
「われわれ(戦争・敗戦不体験世代)には責任はない」
…といった国民感情が次第に強まってきた。

個人に責任がないことでも国家・社会全体としては負わなければならない、というそんな種類の責任もある、ということを理屈の上では認める人でも、戦後に形づくられた自国史像のままでは何となく納得できないという気持ちを強めるようにもなっていった。学会でもこれに応ずるような形で前記のような “日本史再考” の試みが活発になった。農民闘争や労働運動への関心を失い、民衆の暮らしや経済・社会を明るく描く歴史書が人々の心をとらえだした。

「自由主義史観」は、「日本を守る国民会議」と同じ発想、論法、同根のものであるが、『新編日本史』の失敗を経て、われわれは「大東亜戦争肯定派」ではないといいながら、よりソフトなネーミングで “再考” 気流に乗って90年代に登場するのである。







3. 90年代、国民統合への不安とあせり
80年代後半から90年代にかけての世界史は激動をきわめた。ベルリンの壁が解体され、東欧諸国の社会主義体制に終止符が打たれ、91年、ソ連が崩壊した。この間に、日本はいわゆるバブル景気にわいたが、91年初めに株価・地価の暴落が始まり、経済界は泥沼の長期低迷に追い込まれた。それを横目に見るかのように、中国・韓国・ベトナム・マレーシア・タイなどのアジア諸国は経済の飛躍的発展期にはいった。

90年代初頭は20世紀の世界史を動かしつづけてきたソ連が消滅し、「冷戦」が終わったという点で、21世紀に向けての新しい歴史が動きはじめた時期といえる。しかし日本はバブル崩壊の痛手から立ち直れず、ついには金融危機、外国資本の日本企業買収、生き延びるための大リストラといった窮地に追い込まれた。

大企業の経営者たちが危機感を強め、生きのび作戦を模索し、政府は将来の国民負担をかえりみず国家資金をそれら企業の救済につぎこんでいる。90年代の日本と日本人は自信を喪失し、暗い気持ちに追い込まれている。社会面では、官・財界上層から警察官に至るまで腐敗・汚職が広まり、教育界でも問題続発である。大学生や世に出た若年世代は政治や社会への主体的関心が薄く、「私」の世界に生きがいを見いだし、「公」への目を喪失したかのようである。戦後教育の失敗がきびしく指摘されるようになった。

為政者の動揺と焦燥は深刻で、指導要綱では「国を愛する心」を強調し、カリキュラムでは「総合学習」を新設して社会・「公」への目ざめを促そうとしている。ここにきて文部省(当時)が長年にわたって「平和教育」や教育基本法に明記されている「政治的教養」のための教育を抑制してきたツケ(池田・ロバートソン会談の方針に則ってきたツケ)がどうにもならないところまで来たようである。(*)
(*)
旧教育基本法 
第8条1項
 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
 〃 2項 
 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。



「自由主義史観」グループはこうした状況に対応する形で登場した。その前提は、すでに述べてきたように、高度成長による「経済大国」化、日本社会の構造変化の中で進められてきた自国史像の “見直し” 、“再考” 気流の中に胚胎していた。それが90年代日本の経済的低迷と社会的意識における「公」の喪失という危機的状況の中で、登場を促されてきたのである。

こう見てくると、今の日本には1930年代と通底するものがあるのではないかという不吉な予感を否定することができない。昨99年(このブックレットは2000年発行)5月には安保体制=対米軍事従属の拡大を意味するガイドライン関連法が成立し、8月には国旗国歌法が成立した。日本のナショナリズムが対米軍事従属とセットで存続してきた戦後の歴史をふりかえると、このふたつの法がほとんど同時に成立した意味も見えてくる。国会の憲法調査会も改憲を意中にした与党中心に推進されはじめた。

それにつづく99年10月、西尾幹二氏の『国民の歴史』が刊行されたが、その基調は、これまでに見られなかったアメリカ非難をも辞さない独善的ナショナリズムである。「大東亜戦争」における開戦責任の「6~7割」はアメリカ側にある、日本がほんとうに敗れたのは「戦後の戦争」だ、という。「戦後の戦争」とは、日本人の常識化している「太平洋戦争」観や、それをふくむ近現代日本史像はアメリカ中心の見かたのおしつけであり、それが日本史教科書にも強烈な影響を与えている、これこそ戦後の情報戦争における日本の敗北でありアメリカの勝利を物語るものだ、というのである。





(「自由仕儀史観批判」/ 永原慶二・著)


↓(下)へつづく
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「自虐史観批判」はなぜひろく受入れられたのか (下)

2007年10月08日 | 日本のアイデンティティー
社会の底流にある不安や不満に火をつけるのは扇動者の役割である。彼らはきまって一般民衆の不満をとらえ、常識をこえた考え方をどぎつく提示し、これまでの常識は誤まった思いこみだ、今こそ考え直す時だ、という。それが共通の特徴である。第二次世界大戦前夜のドイツや日本の歴史はそれを証明している。

「自由主義史観」グループの中でも、藤岡信勝氏は当初、「東京裁判史観」は認められないが、「大東亜戦争肯定論」にも与しないといっていた。「自由主義史観」という看板の手前もあるからだろう。しかし、運動が広まりだすと、藤岡氏はたちまち日本の戦争免責・戦争肯定論に移行してしまった。

99年の西尾氏になると、さらにふみだしてアメリカ批判、自尊的ナショナリズムの論調に変わる。藤岡氏の当初の日本近現代史、戦争理解は「明治はよかった、昭和は悪い」という司馬遼太郎氏の考えに従っていたが、西尾氏は「明治・大正・昭和一貫して、日本だけが悪いということはない」、むしろ、いつも「相手の方がもっと悪い」という論調である。政治的アジテーションの性質をもつ言説は、いくら学問的装いをもっていても、状況の中でどんどんエスカレートし、変わるものである。



(「『自由主義史観』批判」/ 永原慶二・著)

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《これによって日本は事実上の再軍備に踏み切らされたが、その「防衛力漸増政策の遂行に妨げになる空気を除去するように、教育を通じて日本の国民意識を誘導する」ことが決められた。これを転機に教育は反動的旋回を始め、「憂うべき教科書の問題」(1955年、「日本民主党」による、当時の自省的歴史教科書への非難・攻撃したパンフレット)が発行され、文部省(当時)による教科書検定(組織・内容)強化が進められだした。》

戦後わずか10年もたたないうちに、いいえ、現実にはほんの数年後から(1948年ころから)、アメリカは日本の再軍備化を画策するようになっていたのでした。悔しいじゃないですか。「教育を通じて」、日本国民は歴史意識をコントロールされてきたのです。憲法についての理解がないことも、アジア諸国への共感にかける思考も、意図的につくりだされてきたものなのです。わたしたち国民の知能レベルは戦前となんら変わっていない、と言ってもいいすぎじゃないでしょう。

朝鮮戦争による特需景気をきっかけに、日本は60年代を通して驚異的な経済的発展を見るようになりました。しかしその陰で犠牲になったものもあります。「人間」です。水俣病に代表される「市場の失敗」は大きな問題ですが、個々人の家庭における「父親不在」も深刻な問題を21世紀になるまで暗い影を落としてきました。子どもの精神的な成長を阻害してきたのです。性的虐待というような事件は決してここ数年の現象ではありません。昭和30年代にはすでにぽつぽつと報告はあがってきているのです。当時は今よりずっと戦前に近い時代でしたから、「家の恥」という思考様式は色濃く残っていて、大部分は表面化しなかったものと思われます。しかし、「機能不全家族」に育った子どもたちが80年代前後に親になり、その子どもたちが今また親になってきるのです。

今日わたしたちが見聞きしている子どもへの虐待による致死、子どもたちによる凶悪犯罪などは単に学校や家庭レベルの問題ではありません。

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社会学的観点からしても、心理学的観点からしても、経団連や日経連をはじめとする経済団体と系列企業が日本にもたらした経済構造は、日本にたいへんな損害を与え続けている。戦後日本の二つの「偉業」、奇跡の経済(成長)と中産階級の抑圧(ウォルフレン教授によると、戦後の経済大国化は、労働者個々人の人間としての自然な欲求や人権を抑圧することによって、まるで機械の部品のように酷使することによって成し遂げられてきた、とされている)が、日本人の個人生活に多大な犠牲を強いていることは、何度言っても言い過ぎることはない。家庭生活の質や個人の人格形成に、日本ほど企業が大きな影響を及ぼしている国は他に見当たらないだろう。

日本の制度で、経済組織の利益とその社会的重要性に何らかの形で強い影響を受けていないものはほとんどない。たとえば日本の教育制度は、経済組織の要求にもとづいて、その利益に合致するようにつくられており、経済組織から受ける影響は欧米の教育制度よりもはるかに大きい。企業のもつ力が、ある種の社会的環境をつくりだし、そのために日本の若者が自己を確立させるのはひどく難しくなっている。

サラリーマンは会社で知的なエネルギーも気力もほとんど使い果たしてしまうため、有意義な家庭生活を営む元気を失っている。中流階級の男性社員は、目を覚ましている時間のほとんどすべてを会社に吸い取られる結果、会社以外の個人的な関係に費やす気力が残らない。そのために最悪の影響を被るのが、サラリーマンの家庭生活である。

日本人の結婚生活の多くが情緒的に空虚であることは、これまでに何度も論じられてきた。これらの問題をここで詳しく述べることはしないが、明らかな結論だけは言っておきたい。つまるところ、責任のほとんどは日本の企業にある。社員に対する精神的な要求が多すぎるのだ。

…(中略)…

サラリーマンは会社と「結婚」することを求められているので、サラリーマンの妻たちは夫の愛情不足の代償を探さなくてはならない。そのために、たいていは子どもに、特に息子に過剰な愛情を注ぐことになる。そこから生じる不健全な結果については、これまでにもいろいろと書かれている。少なくともあるTVドラマでは、十代の息子に、宿題をかたづけた褒美として、マスターベーションをしてやる母親が登場したほどだ。

母親にも会社にも抑圧され、さらには職場の同僚から幼稚な振る舞いをそそのかされるために、若いサラリーマンはしばしば女性と不器用につきあうことしかできなくなり、実りのない冷え冷えとした関係しか結べなくなる。

若者向けの漫画には性的な空想が生々しく過激に描かれ、ロープや凶器を使って女性に暴力をふるう場面がたくさんあるのを著者は(日本で暮らすうちに)見てきた。こうした驚くべき現象も、中流階級の男性が情緒的な成熟を妨げられているために生じる結果なのだ。そもそも暴力によって女性を従順に飼い馴らし、そのうえで痛めつけようと空想するのが情緒不安定であることの、そしてもちろん未成熟であることのあらわれであることは世界共通である。

つまるところ、成長過程にある人間には一定の自由が必要なのだ。その自由があってこそ、人間は成熟した「愛情に基づく人間関係」を獲得できるのだ。日本の若いサラリーマンは、そのことを悟るための自由を持っていない。そういうことを考え抜くための時間的な余裕も心理的な余裕も与えられていない。ましてや、そのような愛情関係を育んで維持していくことなどできない。


(「人間を幸福にしない日本というシステム」/ カレル・ヴァン・ウォルフレン・著 1994年刊行)

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人間性を剥奪させる大きな影響となってきたのは、企業体質であり、そういう企業体質を生み出す経済最優先の思考でした。今の若いサラリーマンはもっと過酷な状況に置かれています。家を持たずにネット喫茶をねぐらに使う、日雇い労働者たちです。企業はかつて社員たちに会社に全身全霊の献身を要求しましたが、いまや労働者を切り捨て、使い捨ての消耗品としてしか見ません。

こうして職場からも社会からも、そして親からさえ愛情を受けずに育ってきた世代が、国家主義に「母親」的抱擁感を見いだし、そこに自分の居場所を見いだすようになる構図が見いだされます。

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わたしが右翼だったころに考えていたことや活動について書きたいと思う。右翼にはさまざまな団体があり、人によっても考え方はいろいろだ。ただ90年代の後半に20歳そこそこで右翼の思想に惹かれた自分について書くことは、「右傾化」と呼ばれる現代の現象とも通じるはずだ。

右翼に入る前に、わたしがいちばん苦しかったのは、「世界は矛盾だらけなのに、自分は無力である」ということだった。「世界の矛盾」はいろいろある。たとえばアフリカなんかで植えて死んでいく子どもたち。差別や在日コリアンの人たちへの差別。自分の派閥とお金のことばかり考えて腐敗している政治家、などなど。だけど、どんなことを思おうとも、わたしにはこの世界を1ミリたりとも動かせない。そのことがどうしようもなく絶望だった。

また、自分自身のフリーターという立場も大きかったと思う。そのころのわたしはどこかに帰属したくてたまらなかった。学校も出てしまっているのに会社にも入れず、ただひとり社会の中を漂っていたからだ。就職したいと思っていても、時代は就職氷河期。なんだか出口がなかった。それまで、いい学校、いい会社という幻想に尻をたたかれ、いちおうそれなりに頑張って勉強してきた。それなのに、バブル経済の崩壊によって自分が社会に出るころには、そんな幻想はこっぱみじんに崩れていた。学校の先生も親も、多くの大人がいう「頑張れば上昇できる」ということが通用しない時代になってしまったのだ。

誰にでもできる仕事の単調なフリーター生活の中、「自分は何をしているのだろう」と思った。何か、生きる意味を見つけたかった。自分にしかできないことを見つけたかった。

だけどそんなものはなかなか見つからない。当時のわたしは貧乏な上、不安定だった。そんな中、「それでもアフリカなんかの飢えている子どもたちに比べればまだマシだ」と自分に言い聞かせていた。自分についてせめて幸せだと思えることが、先進国である日本に生まれたことくらいしかなかったのだ。

こんな状況は、わたしが右翼に入る下地になったと思う。そして今、若いフリーターに話を聞くと、当時のわたしと同じようなことを言うから時々驚く。彼らは過去のわたしのように貧しい国の子どもと自分を比べ、そして靖国神社に祀られている戦争で死んだ人たちと自分とを比べている。そして先進国の上、平和な時代に生まれた自分の幸運に感謝している。その切実さがわたしにはよくわかる。

こんなことも、右傾化と言われる背景にあるのではないかと思う。


(「右翼と左翼はどうちがう?」/ 雨宮処凛・著)

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はじめに旧帝国軍部思考とアメリカありき。

アメリカが日本を対共産圏防衛前線にすべく、「教育を通して」、再軍備に無抵抗な国民意識を醸成しようと画策した。歴史の改ざんはここから本格的に開始された。そこへ経済成長がもたらされ、豊かになり、日本人は過去の傷と過ちを乗り越えた、という意識が形づくられた。さらにさらに、戦争・敗戦を体験した世代が現役を引退し、戦争体験のない世代が世の中を背負い始めた。ちょうど高度経済成長の時代に、エコノミック・アニマルの父親を持った子どもたちだった。

その子たちは機能不全家族の中にいたため、人間らしい愛情をあまり受けてこなかった人たちで、愛情とか情緒とかいった目に見えないものよりも、「お金、結果」のような目に見えるものでしか自分の価値を信じられない人たちだった。一生懸命働いて結果を出すが、なんだか気持ちが落ち着かない。大きなものに帰属したい。そこへ反動勢力にからめ取られる。

そこで、日本の美点を主張すると、アジア諸国からたたかれ、日本は引っ込んでしまわざるを得なかった。悔しい。「連中はいつまで戦争被害にこだわるんだ。自分たちは昔の人たちのように、中国を侵略しようなんて考えていないのに。これも日本が軍備が弱いからだ。もっと主張できる日本でなければならない」。湾岸戦争が起きた。日本はお金を出すだけで、血を流さなかったので、アメリカを始め、世界から嘲笑された。「なんなんだ、憲法9条って。そんのものがいまどき通用するかっていうの」。

バブルが崩壊して、会社にも入社できない自分。日雇いの派遣労働で明日をも知れない暮らし。自分っていったい何なんだ。なにか自分にしかできないことをやってみたい。自分をもっと認めてもらいたい。

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わたしは右翼の集会に連れて行かれた。右翼の人たちの言葉はすんなりと耳に入ってきた。

「お前らが生きづらいのは、アメリカと、そして戦後日本のモノとカネだけの価値観しかないことが悪いからだ!」

その言葉は、わたしがずっと抱いてきた疑問に答えをくれた気がした。わたしはその団体に入った。


(「右翼と左翼はどうちがう?」/ 雨宮処凛・著)

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歴史改ざんは、官僚主導によって行われ、歴史の反省が国民に十分に行われないようにコントロールされ、時代の成り行きによって、家庭が崩されたサラリーマンの子どもたち世代、アイデンティティを喪失した戦後世代によって国家主義が支持されるようになり、やがて改ざんされた歴史が受入れられるようになった、というのが、まあ、おおざっぱな流れ、ということなのでしょう。

でも沖縄の人たちは騙されなかった。日本と日本軍に利用され、切り捨てられ、集団自決によって、自分の家族を自分の手で殺める、という凄惨な経験をしてきた人たちだった。

わたしもかれらに連なりたい。どこかに帰属するんなら、若かったから、とか、女だからとかいう理由で、わたしの個性も人格も努力と成果も決して認めてくれない日本という「伝統・風習」じゃなくて、ひとりひとりの人間を個別に尊重しようと宣言してくれている日本国憲法に、自分のアイデンティティを帰属させます。それと、エホバの証人というカルト宗教に逃避していた経験からも、全体主義の危険性を熟知できたので、同じ過ちを犯さないようにしたい。もう二度と、考えることを他人任せにしてしまう愚行は繰り返すまい。いま、わたしはこういう決意を決して大きくはない(笑)胸に抱いているのです。


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ペリー艦隊日本遠征の背景

2007年03月21日 | 日本のアイデンティティー
捕鯨反対運動の先鋭的な国はというと、まずアメリカですよね。鯨は実は十分に数が増えているという報道も散見します。エホバの証人は昔、鯨肉は十分に血抜きがされていないからというので、「血を食べてはならない」という聖書の記述を字義通りに解釈しているため、鯨の肉を食べなかったのです。「食べてはいけない」という暗黙の了承がありました。わたしは、たしか機関紙にも記述があったように思うのですが、今はもうエホバの証人関係の文書はすべて処分してしまって、残っていないので証拠として示すことができません。「まいけるのおうち」というブログの管理人さんがどこかで書いておられたのですが、鰹も血抜きが不十分なのに、それは咎められない、それは矛盾だと言っておられました。とにかくエホバの証人というのは教理も信者の信条と行動も、ほんとにちぐはぐなのです。

ところで、明治維新をもたらしたアメリカ軍の1853年の来航ですが、アメリカが日本に開国を強行しようとした背景には、その捕鯨業の上げる利益があったのです。

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アメリカでは、1850年代初頭に、議会でアジアへの遠征と日本開国要求の決議が行われた。開国要求の主な理由として挙げられていたのは、①日本近海で操業している捕鯨業者の安全確保と、②アジア諸国と交易する(ルナ註:特に人口の多い大国、中国との交易)貿易船の燃料・食料品の供給ということであった。

1851年12月に、アメリカ海軍から議会上院へ、日本遠征計画についての報告が提出されている。それによると、アメリカにとって捕鯨業は非常に重要である、たとえば、1849~50年の二年間で、この地域(日本近海)での捕鯨から得る収益は1741万ドルを超え、出航した船は299隻、乗組員数8970人に及んだ。以上のほかにも、多数の漁民がこの地域で捕鯨業に携わっており、アメリカの東洋との貿易はこの捕鯨収益に比べるとそれほど大きくない…という。

アメリカが日本開国を企てたのには、主に日本近海やオホーツク海での捕鯨業者の安全と利益を守り、さらに日本との通商をも求めてのことだった。イギリスの新聞、「ザ・タイムス」はこのことをアメリカからの通信として1852年3月26日付でこう報じている。

「日本の海岸線の長さはアメリカの東海岸より長い。日本はアメリカ東海岸の正反対側にあるだけでなく、“ 本州 ”と“ 北海道 ”のふたつの島の間に“ 津軽海峡 ”があり、わが国(アメリカ合衆国)の捕鯨船は毎年そこを通過し、また木材や生活必需品の調達をはじめ、悪天候のために非難を余儀なくされることもある。

「しかし、日本は外国と通商関係を結ぶことを拒否しているだけでなく、外国の船舶が遭難したときにすら港に入ることをも拒否し、海岸に近づくと砲撃する。そして、暴風のために、海岸に漂着すると乗組員を捕虜にし、投獄して、実際に殺してしまうこともある。

「世界の海岸の一部分を占有しているどの国も、他の国とあらゆる通商関係を拒否する権利は有しない。このような権利を侵害する野蛮国を排撃することは、文明国およびキリスト教の任務である。日本はこのような権利を否定している国である。アメリカの多くの捕鯨業者がその犠牲になっている。アメリカ政府はヒューマニティの立場からも日本のこの態度をやめさせるべきである」。


(「『ザ・タイムス』にみる幕末維新」/ 皆村武一・著)

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こうした日本への見方には、幕府の鎖国・幕藩体制の徹底維持という強硬な対外姿勢が事実ありました。

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1783年、カムチャッカに漂流していた伊勢の船頭幸太夫ら数名の漁民を、ロシア政府使節ラックスマンが北海道根室に送り届け、ついでに幕府に通商を求めたが、幕府役人は、外交交渉は長崎のみで扱うといって、これを追い返した。

1804年、ふたたびロシア使節レザノフが漂流日本漁民を送り返しに、今度は長崎に来て、通商を求めたが、幕府は鎖国という「祖法(先祖代々の基本法)」があるということを理由に、にべもなく追い返した。

1808年、オランダと戦争をしていたイギリスが、軍艦フェートン号を長崎に派遣し、出島のオランダ商館を襲撃した。

その後にも、日本近海に出没するイギリスその他のヨーロッパ諸国の商戦や捕鯨船は次第に多くなり、時には薪水を求めて上陸もした。

幕府はこうした時流に対しても、鎖国政策を強硬に守ることをはかり、1825年には、たとえ薪水を求めるものであっても(つまり侵略行為ではなくても)二念無く打ち払えと全大名に令(異国船打ち払い令)を下した。


(「日本の歴史」/ 井上清・著)

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幕府の開国への忌避の強硬さは蛮社の獄といわれる蘭学・洋学への弾圧姿勢にはっきりと伺えます。オランダ商館付き医師として日本に滞在したドイツ人医学者シーボルトが1829年に帰国するときに、日本の天文学者の高橋景保(かげやす)がシーボルトの持っていた「ナポレオン戦記」を求めました。景保は自分の持っていた伊能忠敬が作成した日本地図を交換にしようとしたのです。これが幕府の知るところとなり、景保は売国奴として死刑に処されました。これをきっかけとして蘭学・洋学への弾圧が強硬に行われるようになり、1839年の蛮社の獄へと発展したのでした。ただ、この景保は異国船打ち払い令を提唱した人です。

景保は1824年に、このような提案を幕府に上げています。
「近年イギリスの捕鯨船が浦賀その他にたびたび上陸するが、それは日本への軍事行為ではなく、 《 異人共本国を出候て数十ヶ月洋中に罷在、食物ハ野菜物乏く魚肉計多く相用、土を踏み申さず、潮の気にのみ包まれ居候故、皆腫れ病(ビタミンC不足から来る壊血病など)を受候間、当国地方へ来着仕候ハ、皆其薬用之野菜・果実を乞ヒ候為而巳(のみ) 》、 
 つまり壊血病などを病んでいるので、薬用としての不足する野菜や果物を求めるだけであった。(「日本史史料3 近世」/ 歴史学研究会・編)」

しかし、

「《 我国之漁人に親しみ度存候処より、自然彼国之教法(キリスト教のこと)を勧メ□誘可仕義も難計候、既に去年松平右京太夫領分之漁船江(=へ)異国船より教法之書一冊投げ込み、同年、松平陸奥守領分漁船江教法之蛮書一冊投げ込み、又候(またぞろ)五月にも同所漁船江投げ込み候事も有之候、然ハ愈(いよいよ)其意有之証拠に御座候… 》、
 つまり、異国人が漁民と親しく交易などするようになれば、キリスト教が布教される可能性がある、現に異国船が松平領(どこかルナは知らない。歴史に詳しい方ご存知ですか?)で漁民の船にキリスト教の書物を投げ込むという事件が起きている、これがその証拠だ」。(同上書)

そこで

「欧羅巴之法にては、海辺所々に大筒台場を備へ有之、…通信不仕国之舶地方近く相見え候得者、其最寄之台場(から)玉込無之空砲を放し候、来舶之者是を見候て、船を寄せ間敷処なるを知り候て、其処を去り候事通例に御座候由、…
 ヨーロッパの習慣では海辺に砲台を築いて、協定を持たない国の意図の不明な船舶に対して空砲を撃って追い払っている…(同上書)」

だから日本もそれにならって威嚇攻撃を行って、外国船が寄り付かないようにしよう、と提案したわけです。この間に、アメリカ船に対してモリソン号事件が起きています。異国船打ち払い令に従い、1837年、日本人漂流民7名を送還することを名目に、通商と布教を目的に浦賀港に来航したインガソル船長のモリソン号が砲撃を受けて退去させられました。モリソン号はその後、琉球を経由して清国と密貿易を大々的に展開していた薩摩藩山川港に入稿しようとしますが、ここでも砲撃を受けて空しくマカオに戻りました。この事件における幕府の排外政策を批判した高野長英や渡辺崋山が投獄され処刑されますが、これが蛮社の獄です。

しかし、オランダを通じてヨーロッパ諸国の軍事力、科学力、工業力の大いさを知らしめるニュースが入り込みました。アヘン戦争において中国(清帝国)がイギリスに大敗して、植民地化されたのでした。その方法は、「南京条約によって香港島をイギリス直轄領として割き取り、広州、上海など五港を開港させ、治外法権・関税協定権、一方的な最恵国待遇を受ける権利などを押しつける(「日本の歴史」/ 井上清・著)」というものでした。

幕府は異国船打ち払い令を急遽廃止し、薪水を求めるなら給与するように言い渡します。しかし、冒頭で「ザ・タイムズ」紙の記事を紹介したように、アメリカの捕鯨業は日本近海で大きな利益をあげるようになってゆきます。そこでついに日本の門を半ば強制的にこじ開けようという機運が高まってきたのです。

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捕鯨業者の要請や議会での討議をうけて、アメリカ大統領フィルモアは日本の幕府に向けて次のような親書をペリーに持たせた。




大統領が貴国に派遣するのは宣教師ではなく、大統領自ら指名した高級役人である。彼らに命じて貴下に対する挨拶と希望を託し、両国の友好と通商を促進するために赴かせる。…カリフォルニアはアメリカ合衆国の一部であり、そこから貴国まで蒸気船で20日以内に到着することができる。わが国の船舶が毎年、いや毎週カリフォルニアと中国の間を航海している。これらの船は貴国の海岸を通過しなければならず、暴風の際には貴国の港に避難しなければならない。

それゆえ、わが国の船に対して(日本の側の)友情、寛大、懇切とアメリカ国民の財産の保護を期待しなければならない。アメリカ国民が貴国民と交易することを許可されることを願う。しかしながら、アメリカ政府は彼ら(アメリカの船舶のクルーたち)が貴国の法律を犯すことを許すものではない。

われわれの目的は、友好的な交易であり、それ以外の何ものでもない。貴国はわれわれが喜んで購入する商品を生産することができ、われわれは貴国の国民に適した商品を生産し、供給するであろう。貴国には豊富な石炭が産出する。これはわれわれの船がカリフォルニアから中国に航海する際に必要なものである。われわれは貴国の指定された港でいつでも石炭を購入することができればたいへんしあわせである。

そのほかのいろいろな点において貴国とわが国の交易は、両国に多くの利益をもたらすであろう。近年における両国の接近によってどのような新たな利益が生じているか、そしてまた友好関係と交易の目的は何であったか、このことは両国の統治者が肝に銘じておかなければならないことである。


(「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新/ 皆村武一・著)

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これだけみれば平和的ですが、ペリーには別にアメリカの決然たる命令が与えられていたのです。

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あらゆる議論と説得をしても、日本政府から鎖国政策の緩和や捕鯨船の避難・遭難の際における人道的取り扱いについての保証を確保することができない場合には、語調を変えて、アメリカ政府は、目的達成のために断固たる態度をとる、ということが決定している旨を日本政府に知らせるべきである。

もし上述の点に関して何らかの譲歩が得られたならば、条約という形に持っていくことが望ましい。…(しかし)大統領には戦争を宣言する権利はないこと、この使節団は平和的な性格のものであり、艦船および乗組員の保護という自己防衛以外の場合に武力を行使してはならないということを、司令官は肝に銘じておかなければならない…という議会と大統領の意思が命令として与えられていた。

(上掲書)

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ここから伺えるように、アメリカの来航は強い意志を持ったものでした。ペリーは、アメリカ合衆国大統領の親書を日本の「皇帝」に直接手渡したい、それを拒否するなら武力行使に訴えて日本に上陸し、直接捧呈(ほうてい:手で差し出す、の意)すると脅迫し、当時の国際法である「万国公法」を破って、領海と定められる30カイリを侵し、江戸湾に測量船を侵入させます。それでもペリーの要求が叶わないときには、来年にもっと大規模な艦隊を率いて来る、と威しつけたのでした。

で、幕府の側はアメリカ人をどう受けとめていたかというと、当時の兵学者、また吉田松陰の教師でもあった佐久間象山はそのようすを、浦賀奉行所の役人から詳細に聞き出して、嘉永六年6月6日(旧暦)に、同士に書簡を書き送っています。それによると…。

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是迄渡来の船と総て品替り候て、乗組居候者共も殊の外驕傲の体にて、是までは異船渡来の度ごと与力同心乗入れ見分すること旧例に候処、此度は同心与力の類身分軽きもの一切登ることを許さず、奉行に候はゞ登せ可申との事にて、其船の側へ参り候をも、手まねにて去らしめ候由、夫(それ)を強いて近寄り候へば鉄砲を出し打ち放し候べき勢に御座候、…(中略)…夷人申候は、若(もし)此度国書受け取らず候など申事に候はゞ、屹度(きっと:厳重に、きっぱりと、といった意味合いで、相手のつけいる隙もないほど厳しいさまを表現することば)乱妨(らんぼう:荒れまわること、荒らすこと。掠奪すること/ 広辞苑第5版)致し候て引取可申と打出し候由…(後略)。

いづれにも此度は容易に事済み申まじく被相考候(あいかんがえられそうろう…と読むんだと思う…)、渠(かれ:かしら、首領、の意)の申に任せ願ひ筋御許容候義御座候はゞ、それを例として其他の国よりも兵威を盛にして請ふ所可有之(これあるべく、と読むんだと思う…。←こればっか(^^)ゞ…)夫をも夫をも御許容御座候はゞ、本邦はやがて四分五裂可仕候(つかまつりそうろうべし、と読むんだと…)、其事目前に有之事に候へば、よも此度御許容は有之まじく、去りとて軍艦を四艘も八艘も致用意、渡来の上、品次第は乱妨も致し候はんと打出し申程に候へば、御許容無之候はゞ唯は得帰り申間敷(←読めない…、たぶん、そんなことあるまじきことだ、という表現の「まじき」に当たるのではないかと思うのですが…)、

畢竟此度様の事出来たり候は、全く真の御武備無之、近年江戸近海新規御台場(砲台を設置するための更地)等御取立御座候へども、かねても申上候通、一つとして法に叶ひ、異船の防禦に聢と(しかと)成候もの無之、事を弁え(わきまえ)候ものよりは一見して其伎倆の程を知られ候義に御座候故の事にも可有之、且大船も無之、砲道も極めて疎く候と見候て仕候事と被存候へば、如何様の乱妨に及び候はんも難計、浦賀の地等の乱妨は如何程の事にても高の知れたる事に候へども、自然内海に乗入、御膝元へ一発も弾丸を放ち候事御座候はゞ大変申ばかりも無之候、…(後略)



(松代藩士佐久間象山書簡 望月主水宛/ 「日本史史料 4 近代」/ 歴史学研究会・編)

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この報告によれば、これまで時々日本に立ち寄ったときには、地元の与力が対応していたようですが、このたびはアメリカはもっと身分の高い役人でなければ会わない、と要求していたようです。それを無視して乗船しようとすると発砲して、日本人役人を追い返したようです。そして与えられていた命令どおり、大統領親書を幕府が直接受け取らないのであれば、実力行使の挙に出ると宣告しています。

象山は、今度は容易には事態は収まるまい、しかもこのたびの要求をのむなら、他の国々も同様に武威を強力にして通商を要求してくるだろう、と見ています。事実アメリカの次はロシアが、イギリスが、フランスが和親条約締結を要求してきました。それらを次々にのんでいたら、日本は分裂するだろう、そういう事態が目前に迫っている、だから自分としては要求をのむべきではないと思うが、だからといって軍事力が押し出されてきたら、要求をのまない限り、彼らは帰らないだろう、という心配を象山は述べています。そして、そもそもこんなことになったのは日ごろの武装防禦の施策が十分でなかったからだ、西洋式戦術の研究も、洋学・蘭学の弾圧で遅れてしまっている、戦闘が浦賀あたりなら幕府そのものには深刻な打撃を与えないだろうが、もし江戸湾に乗入れてきたなら、軍艦の砲弾は江戸城まで一発で届く、そうなったら幕府はおしまいだ、と幕府の対策の遅れを非難しています。

権力の座を安泰にしていたいからと言って、現実逃避していては時代の流れにのみこまれてしまうだけです。やたらと強権を発動して、変化をとどめようとするのは自滅を速めているようなものです。こんなことは実は子どもにもわかることなのですが、危機に際して権力の座にいる人たちは問題対処を後回しにしがちです。エホバの証人など、長老の権力の乱用の問題、レイプの問題、児童への性的・身体的暴力による虐待の問題などが公になりそうになったとき、正面から対処するのではなく、隠蔽しようと一生懸命になります。信者が減ってゆくのは、そういう頑迷固陋な体質、責任逃れの体質に原因しているのですが、信者の側に「エホバの介入を待て」と、犠牲を強いて隠蔽します。これも根っこにあるものは同じなのです。

さてペリー来航直後は、どこの大名たちも封建的絶対権力者としての本能から排外主義、つまり攘夷を主張しますが、アメリカ軍の進んだ科学的テクノロジーの前には戦争は国土の荒廃しか結果はないと感じるようになります。近代的な思考ができる開明的な大名たちの考えには、開国したほうが日本のためになると考えを変えるようになります。多くは幕政から遠ざけられていた外様大名に多かったのですが、徳川氏や松平氏を名乗る大名たちにも、目の黒い人たちはいました。そうした人たちは幕政を血筋から開放し、外様大名や下級武士からも有能な人材を登用し、幕政を官僚合議制のような体質に改革して、欧米世界の圧力から日本の独立性を守り抜いてゆこうとします。一方で、この困難な状況にあっても、あくまでこれまでの「祖法」に従って、徳川氏幕府を強化して乗り切ろうという保守派も改革派とせめぎあいます。

そのせめぎあいの象徴が、家慶亡き後の「無能な」将軍家定の後継者選びでした。改革派は聡明と評判の慶喜を推しますが、保守派は血筋が家康に近い慶福(よしとみ)を推挙します。結果は井伊直弼の登場により、保守派がいったん競り勝ちます。朝廷内の開明派であった三条実万(さねつむ)などを宮廷から追放させ、改革派の大名たちを処分し、有能な人材を処刑しました。安政の大獄です。この政争にあって天皇本人は「玉(ぎょく)」という暗語で呼ばれ、あくまで道具として利用されるものでした。「天皇制」という形而上の概念が高く掲げられてはいましたが、それはあくまでイデオロギーとしての「天皇」であって、人間個人としての天皇はあくまで手駒だったのです…。

以下、来月に続きます。


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日本のアイデンティティー(1)-天皇擁立

2007年02月12日 | 日本のアイデンティティー
 途中まで書いていた「倒幕に至る時代の流れ」と題する連作記事を新たに、「日本のアイデンティティー」というシリーズに編集しなおすことにしました。日本史を叙述した本をたくさん買い集めました。それらを読みながら、今日の日本人の思考、思想のルーツをまとめていこうと思います。応援してくださいね!  今回はその第1回です。





徳川時代に「国家」と言えば、それは「藩」を指して言います。藩の領主は、領民に対して王のような支配者でした。藩の領主=大名(一万石以上の領地を持つ封建的領主のこと。「石(こく)」は米の体積の単位で、1石は約180リットル)には、領地を思うままに支配することができました。幕府が支配したのは領主たちであって、領地の民衆の管理は大部分大名に委ねられていました。

たとえば、1853年にペリーの艦隊がはじめて浦賀港に到来したとき、坂本竜馬はちょうど江戸にいました。剣術の修行に出てきていたのです。今でいうところの「留学」です。江戸における土佐藩主山内家の江戸屋敷に書生として住み込み、北辰一刀流の修行に励んでいたのですが、国許から出てくるとき父親から、「修行中大意心得」という書付けを持たされています。そこには3か条の条文が書かれていました。

一、片時も忠孝を忘れず、修行第一之事。
一、諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事。
一、色情に移り、国家之大事を忘れ、心得違有るまじき事。

此3か条胸中に染め、修行を積み、目出度く帰国専一に候。以上。

(「坂本竜馬」/ 飛鳥井雅道・著)

この3番目の、「国家之大事」とある「国家」とは、「日本」のことではなく、土佐藩のことであり、第1番目の「忠孝忘れず」の「忠孝」も、土佐藩主へのものを指しています。藩主は、家臣にとって絶対的な服従の対象でした。では「ご公儀」、つまり幕府はどうなるのかというと、藩主を治めるもっと上の存在でしたが、日ごろは公儀のことを考える機会などありませんでした。藩士は、藩主であるご主君に仕えるのが使命でした。さらに天皇となると、将軍職に任命する権威ではあるものの、この時代にはもはや天皇は政治には一切かかわりを持つことを許されていませんでしたので、遠い遠い存在だったようです。

幕府は、その権威の根拠として皇室には依存していなかったということです。むしろ、「禁中並公卿諸法度」によって皇室の権力を制限していたのでした。ここが、徳川幕府と信長や秀吉の異なる点でした。幕府はさらに、京都に「所司代」を設置して、皇室が外様諸侯と結びついて幕府にとって脅威を及ぼすようになってしまわないよう監視すらしていたのでした。また、幕府の帝王学は、京都朝廷が持つ神道の物語ではなく、もっと哲学的にも洗練された儒学の一派である朱子学に立っていました。例を挙げると、たとえば林羅山という幕府の御用学者はこのように述べています。

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それ天孫、誠に若し所謂(いわゆる)天神の子たらば、何ぞ畿邦に降らしめずして西鄙蕞爾 (せいひさいじ:「鄙(ひ)」は“いなか”の意。日常よく言う “へんぴ” は「辺鄙」と書く。「蕞爾」はとても小さいさまを言い表すことば。字が潰れて読みにくいですが、草かんむりの下に「最」と書きます。江戸から見れば、出雲は西方の辺鄙な田舎町だったのでしょうね) の僻地に来るや。何ぞ早く中州の美国(関東地方のこと?)に都せざる…。天孫のオオムナヂある、ナガスネヒコある、あるいは相拒(ふせ)ぎ、あるいは相闘ふ、是亦(これまた)怪しむべし。想ふにそのオオムナヂ、ナガスネヒコは我邦古昔の酋長にして、神武は代わって立つ者か。(羅山文集;神武天皇論より)

(「吉田松陰」/奈良本辰也・著)

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だいたいのところは、天神さんならどうして辺鄙な僻地に降り立ったのか、なぜ江戸に都を構えなかったのか、天孫は互いに反目し戦っている、これもおかしい、自分が思うに、朝廷神話の神さんは大昔の酋長だったものを神格化し、神武天皇はそれらを征服して取って代わった指導者ではないか、というような意味でしょう。第二次大戦中の日本でこんなことを言ったら、速攻で特高に捕まえられたでしょうし、最近はイラク反戦ビラを配布しただけで捕まって有罪にされてしまうご時世ですから、右翼に放火(加藤紘一事件のこと)されてしまうでしょう。しかし、江戸時代には神道なんて、また天皇なんて、徳川将軍家からみれば「下っ端」視されていたんですよね。こんなエピソードもあります。

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松平定信が皇居(もちろん、京都のほうの御苑)の修理を行ったとき、朝廷は「関東の御威光(将軍家の威光、という意)をかたじけなく思って。上を従一位に御推叙あるべしと二たびまで御内意があったが、しかし、将軍家は「例もなきこと」として堅く辞退したという。

(上掲書より)

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幕府は朝廷をそんなに大きな権威とは見なしていなかったのでした。天皇の権威は、明治政府によって作られたものだったのです。第二次世界大戦では、イデオロギーの中核として、大勢の日本国民に国家への殉死を要求し、また国民のほうでも、今日のイスラム原理主義者のように自ら進んで命をささげた天皇の神格的権威は、つい150年ほど前の政府によって創作されたものなのでした。それは日本人の忠誠を「藩」から「日本統一国家」に向けさせるためだったのです。日本統一国家の必要性を自覚させたのは、徳川政権末期のことでした。歴史的一大転換点となった、ペリー提督の率いるアメリカ海軍の来航が、国家総動員の必要性を幕府自身と、先見の明のある当時の識者に思い知らせたのでした。

現に、ペリーとの交渉に当たった日本側外交官、岩瀬忠震(いわせただなり)は老中にこのような上申書を提出しています。

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「天下の大事」は「天下と共に」議論し、「同心一致」の力を尽くし、末々にいたるまで異論がないように「衆議一定」で国是を定めるべきである。そのためには、将軍が臨席し、御三家、譜代、外様の諸大名を召し出して、「隔意」なく評論をさせた上で「一決」する。ここで議決されたものを、速やかに天皇に報告し、天皇の許可を得た上で、全国に布告するべきである。(「大日本古文書 幕末外国関係文書」18巻)

(「幕末の天皇・明治の天皇」/ 佐々木克・著)

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当時の幕閣は、オランダから海外事情について毎年簡略な報告書を受け取っていました。「オランダ別段風説書」といわれていたドキュメントですが、その中から、アメリカが日本に開国を要求する目的で渡航しようとしていることや、それゆえやがては来航すること、なにより東洋の雄、清国がアヘン戦争でイギリス軍によって大敗したこと、欧米列強の軍事力の強大さなどを知っていました。ですから挙国一致の必要性には目の黒い人々は気づいていたのですが、幕府は手付かずにしたまま、あと延ばしにしていたのです。そのころ幕府の財政も諸藩の財政も逼迫していて、その対策に追われていたことも原因したのでしょう。

しかし、いざ、「その時」がきた際の岩瀬忠震の上申書は、財政対策以上に緊急な事態になったことを幕閣に警告したのでした。なぜなら、清国でさえ撃ち払えなかった鉄の海軍を率いる欧米資本主義の帝国主義的侵略に対処するにはもはや幕府だけでは手に追いかねるのは明白だったからです。そのために挙国一致が求められたのですが、そこで頭をもたげてきたのが「尊王」思想でした。強力な欧米の軍の前には、どこの藩ここの藩などと言ってはいられない、自分たちはまず、日本国だという意識が起こされたのです。だから幕藩体制という封建的主従関係の社会ではなく、強力な近代的・中央集権的な統一国家を作り出すために、天皇を擁立しようというのです。もっとも最初は、幕府を倒して天皇制を樹立しようとしたのではなく、あくまで幕府の支配は維持したまま、その権威を強化改革しようとしたのです。この動きは「公武合体」と言われています。

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天子(天皇のこと)は天工(天の仕業、の意)に代わりて天業(天帝政治)を改め給ふ(=吟味いたされる)。幕府は天朝(天皇政府)を佐けて(たすけて)天下を統御せらる。邦君はみな天朝の藩屏(天帝守護)にして、幕府の命令を国々に布く(しく)。是が臣民たらん者、各々其の邦君の命に従ふは、即ち幕府の政令に従ふの理にて、天朝を仰ぎ、天祖(皇統、とくにアマテラスのことをいう)に報い奉るの道なり。その理易簡にして、其道明白なり。易簡明白なるは大道なり。

(「吉田松陰」/ 奈良本辰也・著)

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上記引用文は、幕末の水戸藩士、儒学者であった相沢正志斎(あいざわ-せいしさい)による名分論(儒教の哲学で、自然界に天と地があるように、人間にも上下の格差があるのはやはり自然の摂理であるから、下の者は上の者に無条件に服従しなければならない、とする思想)です。この理屈によって、同じ軍人の徳川家に屈従するのではなくて、徳川政権に服することは「天祖」に従うことなのだから、ゆめゆめ謀反を起こそうなどとは考えないように、という思考コントロールを行ったわけです。徳川家康は、武田信玄に手痛い敗北を喫した経験がありますから、優秀な武将が現れて刃向かわれることを怖れ、諸大名を封じ込めようとしたのです。武将たちにとっては「征夷大将軍」の任命は天皇だけが行うものという伝統的な思考があり、それはやはり伝統によって強固にインプットされていたものでした。

このように幕府は封建的諸侯(諸大名)たちを従わせるためには、名目上天皇の権威を利用しましたが、先に見たように実際には、軍事力によって天皇を完全に封じ込めていました。しかし、この名分論にこそ、陥穽があったのです。というのは、幕府に従うのはつまるところ、天朝に従うこと、だからおとなしく徳川家に服するのですが、もし徳川幕府の権威が失墜して救いがたいという状況になったなら、徳川幕府をはしょって、天朝と直接結びついてもいいんじゃないかという理屈があるわけです。そしてまさに、ペリー来航はその幕府の弱体化をまざまざと見せつける事件だったのです。

こうしてついに天皇がふたたび政治の舞台に引き出されたのでした。日本は中央集権的統一国家へと急進的な一歩を、アメリカによって押し出されるようにして踏み出したのでした。

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