意味のない遠慮をしていませんか?
「ご自由にどうぞ」と言われているのに、なんとなく遠慮してしまったり、他の人がそうしないので、待っているうちにチャンスを逃してしまった…など、つまらないことで遠慮したりモジモジしてしまったことはありませんか。「控えめな自分がすき。そういう生きかたがわたしのポリシー」というのなら、それは「自分と言うものがある人」と言えると思いますが、無意味な遠慮や周りの目ばかり気にするような自分がイヤだ、と思って生きている人が圧倒的に多い、というのが現状のようです。
ところで、むかし「オバタリアン」と言われていた人たちは、一般的には「図々しい」の形容詞のようになっていますが、彼女らも若いときには遠慮したり、モジモジしたりしてチャンスを逃すだけ逃した経験の持ち主なのではないかとわたしは思うのです。それで、こんな自分ではダメだと、彼女たち自身、自分を奮い立たせて、一見図々しいと思われるような行動も取れるようになったのではないか、とこっそり思ったりするのです。
つまり、オバタリアンは、あなたにこう言っているのかもしれない。
「わたしも若いときには、人目を気にして自由に振る舞えずに悩んだものよ。でも、結局は自分が変わらない限り、自分の欲しいものは手に入りはしないということなの」
オバタリアンの中には、人を平気で押しのけて電車の席を取るような人が目立つので、あんなふうにはなりたくないと思うでしょう。でもわたしはあんなふうになりましょう、と言っているのではないのです。控えめにして損をしたり、遠慮ばかりしているうちに孤独になったり、心の奥底で自由な人や活き活きとしている人などを妬むような醜い自分になってしまうくらいなら、それは理想的ではない、そこで、オバタリアンが持つ「自分の欲しいものを率直に欲するエネルギーと、得ようとする行動力」をちょっとみならって見るのも価値があるかもしれないですね、とわたしは言いたいのです。
控えめにしている理由はほんとうはない。
欲しいものを欲しいと思うことと、そう表現する権利は誰にでもある。
それをどう表現し、自分の理想を手にしてゆくか、
それが「あなたのありかた」であり、「あなたの人生」であるのです。
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「願いはぜったい叶うもの!/リズ・山崎・著」より