三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

悪はなぜ存在するか(1)

2024年07月24日 | キリスト教
神がいるっていうんなら、赤ん坊のエイズ患者の存在を説明させてみろ。(ジョー・R・ランズデール『テキサスの懲りない面々』)

児童虐待のニュースを見るたびに胸が痛みます。
ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』の中で、イヴァンが弟の修道僧アリョーシャに神の存在を問う場面があります。

虐待され殺される子供がいる、神が存在するなら子供への虐待をどうして許しているのか。
イヴァンは子供たちの苦しみを許す「神の創った世界を承認しない」と言います。
なぜ子どもたちは苦しまなくっちゃならなかったのか。なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のための人柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか。(略)
もしも、子どもたちの苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充にあてられるんだったら、おれは前もって言っておく、たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲に値しないとな。
https://michimasa1937.hatenablog.jp/entry/20120229/p1

ケイシー・レモンズ『ハリエット』は、ハリエット・タブマン(1820年または1821年~1913年)の伝記映画です。

黒人奴隷だったハリエットは25歳の時に北部に逃れました。
多くの奴隷を北部に逃がしましたが、一度も捕まっていません。
南北戦争にも参戦して活躍しています。
ハリエットには神の導きがあったことが描かれています。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/28142/20200611/movie-harriet-review.htm

17世紀から19世紀にかけて、アフリカから約1200万人の黒人が奴隷としてアメリカ大陸に売られました。
黒人奴隷はアフリカでキリスト教を信仰していたわけではありません。
キリスト教の信仰を押しつけられたのです。

『ハリエット』では、黒人牧師が「苦しくても、真面目に働いていたら天国に生まれることができる」みたいな説教をしていました。
今は苦しくても我慢していれば、死んでから天国に行けるというわけです。

そもそも奴隷制度という悪がなければ、奴隷が苦しむことはありませんでした。
ハリエットが神の心を体現したとして、なぜ今も人種差別があるのでしょうか。

トランプ前大統領が狙撃されたことは神と関係があると考える人がいます。
共和党支持者の66%がトランプ氏が暗殺未遂事件から生き延びたのは「神の摂理または神の意志」と答えた。民主党支持者では11%だった。(毎日新聞2024年7月19日)
https://mainichi.jp/articles/20240719/k00/00m/030/338000c
犯人や銃撃に巻き込まれて死亡した人は神の摂理・意志を実現するための道具だということでしょうか。

キリスト教の神は全知全能であり、完全な善だから、神の創造した世界や人間は完全であり、善であるはずです。
しかし、世界は完璧だとは思えません。

なぜ悪が存在するのか。
この問いを18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームはこういうふうに言っています。
神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、できないのだろうか。それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は悪を阻止することができるが、そうしようとしないのだろうか。それならば、神は悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか。でも、それならはなぜ悪が存在するのだ。

イブを誘惑した蛇がなぜ存在するのか。
災害で多くの人が死傷し、財産を失うのはなぜか。
なぜ一般人が戦争に巻き込まれて難民になるのか。
飢饉に襲われて餓死する人がなぜいるのか。
神が人間のために作った世界に、なぜ有毒植物や人間危害を加える動物がいるのか。

全知全能の神がこの世界を創造したが、その後は神は介入していないという理神論の立場なら、悪がなぜ存在するかは問題にならないでしょう。

インテリジェント・デザインは創造説が否定されたことに対する対抗策として唱えられました。
人類や生命は偶然に生じたものではなく、知性ある何かが宇宙のシステムを設計した。
設計者は設計後も介入をくり返している。

だったら、ミスは速やかに修正して、悪を未然に防いでいるはずです。
ところが、現実には様々な悪が存在します。

リン・バーバー『博物学の黄金時代』に、ヨーロッパの科学は自然を観察、研究することで神の世界創造の証拠を探ろうとし、結果的に神の存在を否定することになったとあります。

チャールズ・ダーウィンはこう書いているそうです。
生物の変異性にも、自然淘汰の作用にも、何の構想もない。(フランシス・ダーウィン『チャールズ・ダーウィンの生涯と手紙』)

進化論とは、一切は偶然だということであり、神が介在する余地はありません。
イヴァンは神を否定できたら悩むことはなかったでしょう。
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楊尚眞「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」(2)

2024年07月17日 | キリスト教
楊尚眞「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」(『歴史認識問題研究』第10号)のつづきです。
http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2022/03/47590307ea94621dbbc70c2e33f54b07.pdf

金城克哉「楊尚眞(2022)「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」への反論」「楊尚眞(2022)「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」への反論(2)」は楊尚眞さんの論の展開に問題があると指摘しています。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/CV_20240701_No30p1.pdf

同性愛は先天的なものではなく、親の影響やトラウマによって生じたものであり、治療可能という主張だけを紹介する。
先天説を支持する根拠となる学術研究には触れない。
根拠とする調査方法やデータ数に問題がある。
主張を裏付ける根拠がない。
科学的データに基づかない。
参考文献が示されていない。
誤解を与える表現がなされている。
「同性愛者たちの中に両性愛者が多い」というふうに定義矛盾の文章が散見する。
論理の飛躍(同性婚を認めたら小児性愛、近親相姦、獣姦なども認めなければいけなくなるなど)。

金城克哉さんはこのように批判します。
科学的主張にもとづかない主張のみが神道政治連盟国会議員懇談会で資料として配布され、国会議員がそれを参考にして性的マイノリティに対する差別禁止法案を論じることは大変憂慮すべきことである」
神社神道も同性愛を認めていないのでしょうか

歴史認識問題研究会の会長は西岡力麗澤大学特任教授、副会長は高橋史朗麗澤大学大学院特別教授というように麗澤大学の関係者が多く、麗澤大学内の研究会かもしれません。

麗澤大学はモラロジーの関連団体が経営しています。
モラロジーのHPを見ると「モラロジー道徳教育財団では、よき家庭人、社会人、そして国民として社会や世界の課題に進んで貢献できる人材の育成を目標としています」とあります。
ウィキペディアには「教育再生、道徳教育による「日本人の心の再生」を主張し、その出発点を家庭に置く」と書かれています。

道徳、倫理を大切にし、伝統的な家族制度を維持するために、同性婚は認められないと主張するのは統一教会も同じです。
国際勝共連合オピニオンサイトRASHINBANに「同性婚合法化には反対」という記事があります。(現在は見ることができません)
私たちは「同性愛者を尊重すべきでない」とは全く考えていません。反対しているのは、「結婚は男女でのみ認められる」という、憲法が定める日本の婚姻制度を変えようとすることに対してです。
https://www.ifvoc-rashinban.net/opinion/family03/
日本国憲法を大切に思うなら、自民党の憲法改正案にも反対してほしいものです。

松谷満「ネット右翼活動家の「リアル」な支持基盤」(『ネット右翼とは何か』)に、伝統を重んじる保守志向と排外主義志向をあわせもつというネット右翼の特徴であり、伝統的家族観は、同性愛や夫婦別姓、子どもをもたない夫婦など、多様な家族のあり方に対して否定的な態度を示すとあります。
神道とキリスト教保守派が同じ家族観を持つということは興味深いです。

1996年、夫婦別姓選択制に賛成する人類学者有志の会「日本文化の多様性と家族の多様性を尊重しましょう」という提言にこのように書かれています。
夫婦別姓に反対する人々の多くは、「夫婦同姓は伝統的な日本の文化」だと思い込み、したがって夫婦別姓は日本には馴染まない制度だと信じているようです。(略)
夫婦同姓は「伝統的な日本の文化」だという主張は、学問的に正しいものではありません。明治民法の制定までは、夫婦別姓であった地域も多いのです。(略)。
夫婦別姓に反対する人々は、長男が「跡継ぎ」として家に残り、両親と同居する「三世代同居」こそが日本の文化であり、醇風美俗だと考えていますが、これも大きな誤解です。(略)
三世代同居は理想でも美風でもない地域が、日本にもあるのです。(略)
日本の家族制度は単一で不変だというのも、思い込みに過ぎません。
https://chinjyo-action.com/wp/wp-content/uploads/2020/12/14154d43dcecf71705286626aa4cbe19.pdf

江戸時代も明治でも離婚は珍しくなかったし、バツイチということで肩身が狭くなるというわけでもなかったようです。
伝統的家族観は幻想なわけです。

同性愛行為が合意に基づく場合でも73カ国が違法とされ、スーダン、イラン、サウジアラビア、イエメンは、同性愛の性行為に対して国内全域で死刑を科しています。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/062100038/

同性婚を認めている国は22カ国。
イギリスでは、1967年にイングランドとウェールズで21歳以上の男性同士の同性愛行為を合法化しましたが、スコットランドでは1980年、北アイルランドでは1982年まで違法でしたが、現在は同性婚を認めています。
https://lgbtjapan.org/blog/information/456/

ヨーロッパで同性婚を禁じている国は14カ国。
ウィキペディアによると、ポーランドは建国以来、同性愛を犯罪としたことはないし、トルコでは1858年以来合法です。
同性愛の禁止とキリスト教やイスラム教が関係あるのでしょうか。

日本は性に寛容だったとされます。
僧侶と稚児との男色を描いた『稚児草紙』は鎌倉時代の絵巻です。
https://hatopiano.blog.fc2.com/blog-entry-401.html
『東海道中膝栗毛』の喜多さんは弥次さんのなじみの陰間でした。
それこそ同性愛は日本の文化なわけです。
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楊尚眞「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」(1)

2024年07月13日 | キリスト教
アメリカでは、同性愛や同性婚を認めないキリスト教の宗派があるようです。

ダーレン・アロノフスキー『ザ・ホエール』で、同性愛者のアパートを訪れたキリスト教系新興宗教(?)の宣教師が、同性愛では救われない、だから考えを改めるように勧めます。
カルト教団の挿話は原作の戯曲を書いたサミュエル・D・ハンターの実体験に基づくそうです。

エレガンス・ブラットン『インスペクション』は監督の自伝的映画です。
16歳の時、母親に自分はゲイだと告白したら、家を追い出されて10年間ホームレスとして生活しました。
母親の部屋はテレビの伝道番組がつけっぱなしになってたので、同性愛を否定する宗派の信者なのでしょう。
息子より信仰を選んだわけです。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_64cb148ae4b03ad2b89cbf22

ジョエル・エドガートン『ある少年の告白』の原作者ガラルド・コンリーは2004年に同性愛矯正施設に入っていました。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/deep-talk/2019-04-22/boyerased

牧師の息子が両親にゲイだとカミングアウトしたら、父から「心の底から変わりたいと思うか」と問われ、同性愛の治療施設に入ります。

「同性愛の「矯正治療」にNOを突きつけた青年 アメリカの実話をもとにした映画ジョエル・エドガートン『ある少年の告白』」に、アメリカ社会の同性愛の受容について書かれています。
アメリカでは1970年代まで同性愛は精神障害とみなされていた。
1973年にアメリカ精神医学会が精神病のカテゴリーから同性愛を外した。
1990年には世界保健機関も「国際疾病分類」から同性愛を削除した。
しかし、その後も性的指向やジェンダー・アイデンティティーを「治療」によって変更させようとする「矯正治療」が行われてきた。
これまでに約70万人の成人が矯正治療を経験したとされる。
https://www.asahi.com/dialog/articles/12279689

日本でも同性愛は治療すべきだと考える人たちがいます。
2022年6月、神道政治連盟国会議員懇談会(会長 安倍晋三)で配布された冊子に収録されていた楊尚眞弘前学院大学教授の講演録「同性愛と同性婚の真相を知る」が性的少数者に対して差別的だと問題になりました。
どんな主張かと思ってネットを調べ、楊尚眞「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」(『歴史認識問題研究』第10号)を読みました。
http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2022/03/47590307ea94621dbbc70c2e33f54b07.pdf

金城克哉「楊尚眞(2022)「日本で知られていない同性愛と同性婚の真相」への反論」(反論(2)もある)に楊尚眞さんの主張を3点あげています。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/CV_20240701_No30p1.pdf

(1)同性愛は後天的なものである。
同性愛者、両性愛、性同一性障害は先天的なものではなく、いずれも幼少期の経験、生活環境に影響された後天的な障害で、生まれつきで変わることがない性的指向ではない。
医療的治療の対象になっており、治療で治ることがあり、自然に治ることもある。
加齢によって同性愛の性的指向の比率は減少する。

弱くリーダーシップがない父親、愛がなく無関心な父親、強い男らしさを低評価する母親、夫から愛されず無視される母親が息子を過剰保護し、愛の対象者とすることが、子供を同性愛者とさせる原因である。
多くの同性愛者は幼少期に同性の大人から性的虐待を受けた。

同性愛を擁護する社会的な環境、同性愛を好感的に表現している映画や動画やBL/GL漫画に興味を抱き、同性愛行為をすることによって同性愛者になることもある。

欧米では、同性婚合法化、同性愛容認の雰囲気、性倫理の変質、社会思想 、フリーセックスの風潮、性的自己決定権、性の多様性、ポリティカル・コレクトネスというイデオロギーが、同性愛を助長させている。

同性愛を正常な性愛として擁護すべきだと主張する新マルクス主義思想や、ジェンダーイデオロギーに影響された学者たちの主張に基づいて、差別禁止法等によって同性愛を正常な性愛と認め、学校や社会で同性愛を正常な性愛として教えることで急速に、次世代での同性愛者の数が増加することが、米国やカナダや英国等で起きている。

(2)同性愛と同性婚を権利として容認することによって公共の福祉が侵される。
同性婚の合法化は単純に同性婚を容認することに留まらない。

同性婚合法化によって差別禁止法が制定されるので、同性婚や同性愛に反対する行動や言動をすれば差別行為としてみなされたり、訴えられる逆差別が生まれる。

多重婚、近親婚をする権利要求が出てくる。
同性婚が容認されたヨーロッパでは、近親相姦、少児性愛、獣姦など、極端な性行為も個人の性的指向であると容認される様相を見せている。

人工授精を通して子供をつくることで、子供は自分の片方の親を知ることもできず、愛されることもできないので、人間の根源的・精神的な問題を抱えることになる。

同性愛者が直面しているリスクとして、同性愛の性行為はエイズと密接な関係をもっている、同性愛者の自殺率は高いなどがある。

(3)LGBT を含めすべての人の尊厳性や人格は尊重されねばならないが、LGBTのライフスタイルは問題である。
性的少数者の性的ライフスタイルは問題性のないものとして正当化されるべきではないのは、それが家庭と社会を崩壊させて社会問題となるから。
LGBT人権運動家は、同性婚合法化で人権の主張を終えることはありません。次から次へと様々な権利を主張し、権利が拡大され、彼らの権利に反対する者を処罰し、社会を壊し、自分たちの理想とするジェンダーフリーの社会実現をすることにあります。これが、彼らが目論んでいる世界的な性革命です。ジェンダーフリーの社会実現は、新マルクス主義がその思想であり、権利となるものは、倫理道徳に反しない、公共の福祉を犯してはならないことが最低条件です。

同性愛と同性婚を権利として容認することよって、社会の多くの領域(教育、法律、医療等)が大きく変わることは、公共の福祉を侵すことになり。社会の混乱と対立を招き、多数の人たちのための幸福な社会形成に逆行する。
性規範を崩壊させ、家庭を解体させ、社会病理現象は深刻化し、国家は衰え、国家は存亡危機に直面することになる。

こういった主張がなされています。
楊尚眞さんは在日大韓基督教会牧師をされていました。
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障害児殺しと青い芝の会(4)

2024年07月03日 | 日記
1948年に優生保護法が施行されました。
横塚晃一『母よ!殺すな』、横田弘『障害者殺しの思想』は優生保護法、そして改正に反対しています。

谷口彌三郎参議院議員、福田昌子衆議院議員『優生保護法解説』の序文に、優生保護法案の提出理由について次のように記されている。
従来唱えられた産児制限は、優秀者の家庭に於ては容易に理解実行せらるるも、子孫の教養等については、凡そ無関心なる劣悪者すなわち低脳者のそれにおいてはこれを用いることをしないから、その結果、前者の子孫が逓減するに反して、後者のそれはますます増加の一途を辿り、あたかも放置された田畑に於ける作物と雑草との関係の如くなり、国民全体としてみるときは、素質の低下すなわち民族の逆淘汰をきたすこと火を見るより明らかである。
また最近わが国では、精神病や精神薄弱者の増加が目立って著しく、それが各種の調査や統計の上に明らかに現れてきている。メンデルの法則や最近目覚ましい人類遺伝学の展開によって、かかる者の遺伝が如何に恐るべきものであるかは疑う余地もない今日、不良な遺伝分子を有する者の子孫の出生を防止するとともに、戦時中「国力の基礎は人口に数に比例する」との考えから、母性の健康までも犠牲にして出生増加に専念した態度を改めるべきで、すなわち新憲法の精神に測り、母性の健康を保護する目的で、或る程度人工妊娠中絶の合法的適用範囲を拡大し、以って政策的に人口の急激な増加を抑えると同時に民族の逆淘汰を防ぐことは、我が国の直面する重大な問題である。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/31-N2-49.pdf

優生保護法はナチスと同じ発想で作られた法律です。
ナチスは身体障害者、精神薄弱者を民族の強化という名において虐殺したが、そのきっかけは重症児を持つ一母親の政府機関に宛てた手紙であったという。
私の子供は足も立たず両手とも利かず、長年寝たきりの生活です。この子にとって生きていることがなんになるでしょう。死んだほうがよほど幸せです。この子のために私達の将来はまっくらです。

1933年にドイツで制定された「遺伝病子孫増殖防止法」について、ドイツ議会は立法理由として次のとおり述べている。
遺伝的に健康なる家族が大部分子供一人主義または子供を持たぬ主義に傾いて行っているのに反して、無数の低脳者及び遺伝性素質者は無制限に繁殖して行き、その病的にして非社会的な子孫が社会全体の重荷となりつつある(略)のみならず、毎年数百万の全額が精神薄弱者、保護児童、精神病患者及び非社会者のために消費されているのであって、しかもこの費用は健康な子供に恵まれた家庭によってあらゆる種類の租税の形で支払われつつあるのである。(『ナチスの法律』木村亀二「ナチスの刑法」1934年)
https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/houkoku08.pdf

1972年、優生保護法一部改正の動きがあった。
改正案は現行優生保護法のうち、妊娠中絶を認める条項の中から「経済的理由」を削除して、それと入れ換える形で新たに14条4項を設けることを骨子としている。
四 その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの。

提案理由は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すると共に母性の生命・健康を保護するという目的のもとに優生手術・人工妊娠中絶・優生保護相談などに関し必要な事項を定めているものでございますが」から始まる。
近年における診断技術の向上等によりまして、胎児が心身に重度の障害をもって出生してくることを、あらかじめ出生前に診断することが可能になってまいりました。
胎児が障害児だとわかったとたん、合法的に抹殺できる改正案は障害者抹殺の思想をむき出しにしている。

横田弘さんはこのように書いています。
生産第一主義の社会においては、生産力に乏しい障害者は社会の厄介者・あってはならない存在として扱われてきたのですが、この法律は文字どおり優性(生産力のある)は保護し劣性(不良)な者は抹殺するということです。つまり生産性のないものは「悪」ときめつけるのです。

1973年、優生保護法改正案に対し、青い芝の会代表は厚生大臣にあてた抗議文を作り、厚生省に提出した。
その2日後、青い芝の会会員約50名が署名を持って国会に本法案反対の請願をした。

その直後、代表8名は厚生省で精神衛生課長以下数名の当局者に詰問した。
当局の答えはわざと的を外したような支離滅裂であったが、再三にわたる詰問に「最近サリドマイド児をはじめとする胎児性障害児が激増の傾向にある。両親に遺伝的素質がなくても障害児が発生する場合があり、それを防ぐために今度の改正案を作った」と答え、精神衛生課長は重ねて「私は医者で、つくづく思うのですが、障害者が一人もいなくなれば、この世の中がどんなに幸せになるでしょう」と言い放った。

斉藤邦吉厚生大臣は「優生保護法改定案」を国会に提出した時の説明でこのように言い切っている。
人工中絶をどうしてもやった方がいいという面もございます。たとえば妊娠中にいろいろな医学的な面から奇形児が生まれるであろう。重症の心身障害児が生まれるおそれがあるという場合には、これは、生命の尊重とはいいながら、そういう方々は一生不幸になられるわけでありますから、こういう場合には、新しく人工中絶を認める必要があるのではないか。

1974年、青い芝全国常任委員会副会長小山正義と斉藤邦吉厚生大臣とのやりとり。
斉藤厚生大臣「君たち障害者として大変な想いをして生きているのにもかかわらず君らと同じような境遇を背負った子孫を残したいのか」
小山正義「大学をでたから、大臣になったから優秀な子孫と云えるのか」
斉藤厚生大臣「そうではないが、そんなに腹をたてることではない。誰でも願うのは体が健康なことではないか。それならあなた方一人一人が国会議員に云いなさい。
優生保護法改正案は結局廃案になった。

1977年、厚生省の外郭団体として日本家族計画遺伝相談センターが設置された。
任意相談から、親族調査を行い、異状と認められた胎児を堕胎する制度である。
遺伝病の因子を持つ親が子供をつくるべきかどうか迷って相談に来ると、遺伝子カウンセラーが適切なアドバイスをするため、関係者の家系図を書いてくることが条件の一つ。
危険率が40%あって、病気も重いようなときは避妊、妊娠中絶を助言するかもしれない。
現在、出生前診断の結果で中絶する人が増えており、優生保護法改正案のようになっているわけです。

滝田洋二郎『病院に行こう』(1990年)に、足を骨折して入院した患者2人が車イスで飲みに行く場面があります。
タクシーを呼ぶわけですが、後ろの席に座っている人が「乗れるわけない」と笑ってました。
私もそう思ってたら、車椅子の人が乗れるタクシーが来たのです。
介護タクシーの存在を知りませんでした。
私は社会が障害者に考慮していないことに疑問を持っていなかったわけです。
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障害児殺しと青い芝の会(3)

2024年06月27日 | 日記
親が障害のある子供を殺す事件が起きるたびに減刑嘆願運動が行われ、事件の大きな要因として施設不足、福祉政策の貧困、国家の責任などがあげられていました。

横塚晃一『母よ!殺すな』に、1970年の横浜の障害児殺人での嘆願書が引用されています。
現在重症児(者)を受け入れる施設があまりにも不足している。毎日、施設を訪れ嘆願すれど受け入れがたく、様々な状況から発作的にやむをえずヒモで殺した。大人になっても不憫と思ってのこと。

青い芝の会が県民生部社会課、県議会の心身障害者政策懇談会、各党の県会議員と横浜市議、担当の金沢警察署などに対し、意向を話し、意見書を手渡して歩いた。
しかし、「あなた方の気持ちもわかるが、もっと多くの施設があればあのような事件は起こらないのではないか」「裁かれねばならないのは国家である」といった反発が返ってきた。
施設があれば事件は起きなかったということです。

1965年、総理大臣の諮問機関として設置された社会開発懇談会が「社会開発に関する中間報告」において、障害者への対策としてリハビリテーションとコロニーが言及された。
①心身障害者は近時その数を増加しており、障害者は多く貧困に属しているので、リハビリテーションを早期におこなって社会復帰を促進せよ。
②社会で暮らすことのむずかしい精薄については、コロニーに隔離せよ。

横田弘『障害者殺しの思想』は、障害者を施設に入れればいいという考えを批判しています。
多くの健全者が障害者の気持ちが分かるとか、障害児が殺されるのはやむを得ない、とか、施設をつくれとか、施設に入れてしまえば、とか考えるのはどうしたことだろう。
やはり、障害者(児)は悪なのだろうか。
「本来、あってはならない存在」なのだろうか。
本当に健全者は、障害者が憎いのだろうか。
障害者は殺してしまえ、という論理なのだろうか。

1972年に経済審議会は新経済五ヵ年計画の中で「重度心身障害者全員の施設収容」を謳った。
横塚晃一さんはこの計画を問題にしています。
「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません」という太田典礼の言葉こそ、「経済審議会が2月8日に答申した新経済五ヵ年計画のなかでうたっている重度心身障害者の隔離収容、そして胎児チェックを一つの柱とする優生保護法改正案を始めとするすべての障害者問題に対する基本的な姿勢であり、偽りのない感情である。

では、障害者施設はどんなところなのでしょうか。
1968年、府中療育センターが開設した。
一部屋に50人ずつ収容される。
入口は常に鍵がかけられ、職員の出入にもいちいち鍵をかけはずしする。
入口の内側に職員の詰所があり、そこから部屋が一望できるようになっている。
外来者は入口までしか行くことができない。
中にいる障害者はおそろいのパジャマ一枚で、私物はほとんど持たされない。
外泊、外出は親が二週間前に申し入れを行い、許可を得なければならず、保護者以外では許可されない。
まるで刑務所のようです。

入所者の訴えにより、青い芝の会が府中療育センターに運営方針を改めるよう再三交渉した。
しかし、いつも「私達は大事な子弟を預かっている責任上、当然のことをやっているまでだ。管理運営上これが好都合なのだ」と突っ放された。
http://www.arsvi.com/d/i051970.htm

横田弘さんは、親が障害児(者)を施設に預ける場合、最寄りの施設に入れるのではなく、なるべく遠いところへ入れようとする傾向が著しいと言っています。
施設に入れて後は知らん顔というのでは、重度者はますます疎外され、地域社会から隔離されてしまう。

横田弘さんが街を歩いていると、「どこの施設から来たのか」と言われ、ひどいのになると「どこの施設から逃げてきたのか」と言われたことがあるそうです。
親兄弟や地域社会から隔絶された施設が、障害者にとって、一般社会にとってどういう意味を持つだろうか。

私自身、正直なところ障害者は施設で生活すればいいと思っていました。
筋ジストロフィーの人が自立生活をしていると聞いて、食事から何から誰かに介助してもらわないといけないのに、それがどうして自立生活なのかと思いました。
障害者の不妊手術にしても、障害のある子供が産まれたらどうするのか、子供を育てられるのかといった、優生主義、差別偏見の気持ちもあります。

障害者の自立とはどういうことでしょうか。
大橋由香子さん。
障がいのある人がヘルパーさんに車椅子を押してもらってスーパーに行き、自分の意思で買い物をするような生活を障がい者解放運動では「自立生活」というのだと知り、人の助けを借りることと自立とは矛盾しないのかも、と発見しました。

小児科医で脳性マヒの熊谷晋一郎さん。
一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

施設よりも、親が相談できる機関、悩みを打ち明ける場所、在宅で世話ができるシステムが必要です。
ところが、今も状態は変わっていません。
障害者施設での職員による暴行、虐待が今も後を絶えません。
横田弘さんの「殺人を正当化する考えから作られた施設とは殺人の代替ではないか」という言葉はもっともだと思います。
障害者に限らず、困った時に肩身の狭い思いをせずに相談でき、助けを頼むことができる社会であるべきです。
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障害児殺しと青い芝の会(2)

2024年06月23日 | 日記
横塚晃一『母よ!殺すな』によると、1970年、母親が横浜で障害のある子供を殺した事件では、障害者本人、家族、福祉関係者からも母親への同情の声があったそうです。

脳性マヒ当事者の会である青い芝の会で、「殺した親の気持ちがよくわかり、母親がかわいそうだ」「施設がないから仕方ない」「あの子は重度だったらしいから生きているよりも死んだほうがよかった」などの意見が出された。
「殺した親に同情しなくてもよいのか。あなた達の言うことは母親を罪に突き落とそうとするものだ」という言葉も障害者の一人から出た。

新聞に掲載されたある女性の投稿。
私の妹は障害がもっとも重く施設にいる。私が週一、二回面会に行き、妹が年に一、二回帰宅するのを何よりの楽しみにしている。もし私が先に死んだら面倒をみる者がいなくなる。私は死ぬにも死ねない。自分は罪に問われてもいい。妹が一分でも先に死んでくれるのを望む。

ある福祉関係者は「数年前西ドイツでおきたサリドマイド児殺しにつき某女子大生にアンケートを求めたところ、ほとんどが殺しても仕方がない、罪ではないというように答えた」と語っていた。
「犬や猫を殺しても罪にならない。だから今度の場合も果たして罪と言えるのかどうか」と言った人もいる。

青い芝の会会員が意見書を神奈川県庁へ持って行き、県会議員などに手渡して意見を述べたが、「あなた方に母親の苦しみがわかるか」「母親をこれ以上ムチ打つべきではない」「施設が足りないのは事実ではないか」などと非難された。

青い芝の会の主張が報道されると、反発も大きかった。
新聞社への投書に「可哀そうなお母さんを罰すべきではない。君達がやっていることはお母さんを罪に突き落とすことだ。母親に同情しなくてもよいのか」などの意見があった。

横塚晃一さんによると、「今回私が会った人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった」とのことです。

思うのが、親が障害児を殺すのはやむを得ないのか、そして施設があれば問題は解決するのかということです。

横浜の事件は特殊な事例ではありません。
1967年、歯科医が重症の息子を殺した事件があった。
施設がないための悲劇といったマスコミキャンペーンとともに、身障児を持つ親の会や全国重症心身障害児を守る会を中心として減刑嘆願運動が展開され、裁判の結果は無罪だった。
重症児をもつ母親が無罪の判決を「ほんとうによかった。他人ごとではない」と言っている。

1972年、76歳の父親が37歳の脳性マヒの息子を殺した。
妻が胃病で入院し、父親が一人で息子の世話をしていた。
あまりに可哀想な老父さんです。警察署の方々にお願い致します。どうかこの老い先みじかい老人のお父さんを無罪にしてあげて下さい。私も老い先みじかい老女です。悪意でやったことではありませんから、どうか、そのへんを寛大にお許ししてあげて下さい。お願い致します。亡くなられた息子さんも父親に涙を流して感謝しておられるでしょう。お願い致します。 一老女。

親への同情論は殺した親の側に立つものであり、障害者の存在は抜け落ちている。
それらは全て殺した者(健全者)の論理であり、障害者を殺しても当然ということがまかり通るならば我々もいつ殺されるかもしれない。我々は殺される側であることを認識しなければならない。

横田弘『障害者殺しの思想』に、障害者とゴジラなど怪獣は共通すると述べられています。
あの映画の中に出てくる怪獣たちの姿、動作から来るイメージは、障害者、特に私たち脳性マヒ者に非常に似通っている。そして、その障害者に似通っている怪獣たちが行うことと言えば、平和な、人びとがおだやかな暮らしを楽しんでいる街を、ある日、突然、何処からともなく沸きだして破壊しつくして人びとの生命まで危うくさせるというパターンが常である。
しかも、そうした人びとの生活全体を危機に追い込んで行った怪獣たちは、必ず最後には、人びとの強い味方であり、正義の使者である○○マンによって亡ぼされ、この地上から消滅させられてしまうのだ。
怪獣が障害者の隠喩なら、桃太郎が退治した鬼は社会に迷惑をかける存在だということになります。

一般社会人が、重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である。

殺された重症児を自分とは別世界の者と考えている。
というのも、子供が殺された場合、その子供に同情が集まるのが常である。
それは殺された子供の中に自分を見る、つまり自分が殺されたら大変だからである。

これを障害者(児)に対する差別と簡単には片付けられない。
これが障害者に対する偏見と差別意識だということはピンとこないのは、この差別意識が現代社会において余りにも常識化しているからである。

親が障害児を殺す事件でのマスコミのとりあげ方の基本は、障害児を抱えた家庭が不幸であり、親だけが同情されるべき存在として表現される。
1978年、横浜市で脳性マヒの長男(12歳)の前途を悲観した母親が息子の首を絞めて殺し、2日後に飛び降り自殺した。

この事件を報道した新聞には、生まれつき体が不自由な重度障害児だとある。
生まれたときから右手足が不自由で、言葉がほとんど話せず、精神年齢は幼児と同程度だったという。用便の世話から食事まで生活ではすべて母親のかよの助けが必要だった。食事どき、肉類などは、かよがかみ砕いて口移しに食べさせていた。

しかし、神奈川新聞によると全く異なる。
自分で歩くことも、しゃべることもでき、音楽好きな明るい子供で、小学部の最年長で下級生の面倒もよくみていた。
下校時には「サヨナラ」と先生方と握手するなど、学校の人気者であった。

横田弘さんは批判します。
被害者である勤君が脳性マヒという身体的障害を持っていたこと、そしてそれが、現在の社会体制の中では「悪」であり「不幸」であり、その「不幸」は死ぬこと(殺されること)によってのみ救われるという位置づけをもった存在であったこと、そうした「悪」であり「不幸」な存在である脳性マヒ児を産み出した存在として、日常的に社会から疎外の対象とされたかぞという、言わば現在の社会そのものから必然的に生じた事件なのである。

横田弘さんの言葉は父親も聞きとれず、住んでいる県営住宅の人たちは「私の言葉が聞きとれるとは思われない」。
脳性マヒ者は程度の差があっても、言語障害を伴うのがほとんどなのである。そして、その言語障害の結果、精神機能に何らかの障害があると思われがちなのだ。
『障害者殺しの思想』は横田弘さんの話を筆記したものです。

横田弘さんは言い切ります。
はっきり言おう。
障害者児は生きてはいけないのである。
障害者児は殺さなければならないのである。
そして、その加害者は自殺しなければならないのである。

原一男『さようならCP』に横田弘さんが出演しています
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障害児殺しと青い芝の会(1)

2024年06月14日 | 日記
成田悠輔さんの発言が国会でも問題になりました。
どうしたら今のこの高齢化とさまざまな人生のリスクを軽減できるだろうかということを考えて、たどり着いた結論は集団自決みたいなことをするのがいいんじゃないか、特に集団切腹みたいなものをするのがいいんじゃないかということです。(略)ここで僕たちが議論すべき大義はいわば高齢化して永遠と生き続けてしまうこの世の中をどう変えて社会保障などという問題について議論しなくてもいいような世界を作り出すかということだと思います。そのためにはかつて三島由紀夫がしたとおり、ある年齢で自らの命を絶ち、高齢化し老害化することを事前に予防するというのはいい筋ではないかと。
横に座っている古川俊治さん(自民党国会議員)は成田悠輔さんの発言に笑っています。

(10分5秒のところから)
同じ趣旨の発言は他のところでもしています。

三島由紀夫は45歳で死んでいます。
1985年生まれの成田悠輔さんは10年以内に死ぬつもりなのでしょう。

成田悠輔さんは障害者について語っていませんが、主張していることは太田典礼や植松聖死刑囚と同じ社会的弱者の抹殺です。

日本安楽死協会を設立した太田典礼は、戦前から産児調節運動を行い、衆議院議員として旧優生保護法の施行(1948年)に寄与しました。
植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない。(『週刊朝日』1972年10月27日号)
太田典礼は85歳で死亡しますが、安楽死ではありません。

もっとも、太田典礼や植松聖死刑囚のような考えは私の中にもあります。
石井裕也『月』は津久井やまゆり園事件をモデルにした映画です。
主人公は小説が書けなくなり、障害者の施設で働きます。
息子は先天性の心臓病で、胃瘻をし、寝たきりのまま3歳で死亡しました。
40過ぎで妊娠した主人公は障害を持った子供が生まれるのでは、と悩みます。

犯罪白書によると、殺人事件のうち家族間によるものは2019年で54・3%と、半数以上を占め、30年前から15ポイントも増えています。

家族が加害者という殺人事件には、介護疲れによる殺人、親子心中が含まれます。
介護を理由とした家族間での殺人は厚生労働省の統計によると年間20~30件起きています。
親子心中事件は毎年少なくとも30件以上起こり、40人以上の児童が親子心中によって死亡しています。
そのうち母子心中が65.1%を占めています。
多くは母親がウツ病だったり、子供に障害があって苦にしたりといったことがあります。

障害者や認知症の人たちが殺されるのはやむを得ないと思う人(裁判官や検察官も)が多いから、被告は情状酌量され、刑期が短かくなったり執行猶予がついたりすることがあります。

1970年、横浜で2人の障害児を持つ母親が下の女の子(当時2歳)をエプロンの紐でしめ殺した事件がありました。
横塚晃一『母よ!殺すな』、横田弘『障害者殺しの思想』に、この事件について詳しく書かれています。

事件が発生するや、マスコミは「またもや起きた悲劇、福祉政策の貧困が生んだ悲劇、施設さえあれば救える」などと書き立てた。
地元町内会や障害児をもつ親の団体が減刑嘆願運動を始めた。

神奈川県心身障害者父母の会が横浜市長に提出した抗議文。
施設もなく、家庭に対する療育指導もない。生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは、やむを得ざるなり行きである、といえます。日夜泣きさけぶことしかできない子と親を放置してきた福祉行政の絶対的貧困に私たちは強く抗議するとともに、重症児対策のすみやかな確立を求めるものであります。

母親に同情が集まって減刑嘆願書が出される動きに、脳性マヒ当事者の会である青い芝の会は抗議しました。
横塚晃一さんと横田弘さんも青い芝の会の会員です。

横田弘さんはこう言います。
障害者は「殺されたほうが幸せ」という論理が、やがて、障害者は「本来あってはならない存在」という論理に変わり、そして、社会全体が障害者とその家庭を抹殺していく方向に向かって行く。

起訴までに1年1か月の時間を費やし、横浜地裁で公判が開かれるや、1か月で結審した。
起訴まで日時を費やした理由が「全国の施設の状況を調べ」ることにあった。
弁護側が情状酌量を主張するために行うのではなく、検察が起訴するか否かということで調査したという。

横浜地裁の判決は懲役2年執行猶予3年だった。
刑法に「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す」とあるのに、この裁判では検察の求刑は懲役2年だった。

横塚晃一さんはこう批判しています。
おざなりな裁判であった。検察側の被告を追及する態度がまるでなく、我々の提出した意見書、障害者としての体験文などを参考資料として裁判の席上にのせることを弁護側が拒否したのに対し、抵抗することなく従い、求刑に当たっては、殺人の場合、刑法上最低懲役3年なのに、懲役2年を求刑したことからも明らかである。
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でも今日でなくてもいい

2024年06月08日 | 日記
大内啓『医療現場は地獄の戦場だった!』に、エリザベス・ボービア裁判について書かれていました。

エリザベス・ボービアは先天性の重度の脳性四肢麻痺のため、顔や右手の数本の指を動かせるだけだった。
しかし、意思能力があり、会話や食事もできた。
右手で電動式の車いすを操作し、たばこを吸った。
結婚、妊娠するが流産する。
生計が苦しくなって父親に援助を求めたが、断られて離婚。
https://spitzibara.hatenablog.com/entry/66483624

エリザベス・ボービアは食事に吐き気を覚えるようになり、餓死するまでの疼痛緩和と必要な処置を病院に要望した。
しかし、栄養補給のための鼻腔チューブを挿入された。

28歳の時、餓死するためにチューブの撤去を求めて提訴した。
カリフォルニア州ロサンゼルス地区上位裁判所は棄却だったが、1986年、カリフォルニア州立控訴審裁判所は「意思能力があれば、ボービアは残りの人生を尊厳とともに平穏に生きる権利をもっている」と述べ、病院に経管栄養チューブを抜くように命じた。
その後、エリザベス・ボービアは治療を引き続き受け、経管栄養を続行すると決心した。

彼女は、経管栄養の中止と死ぬことをのぞんでいたわけではなく、自分の意思が尊重されることを望んでいた。もっと言えば、強制的に生かされることではなく、自分の意思で生きるという選択をすることを望んでいたということだろう。いや、裁判中に、気持ちが変わったのかもしれない。
エリザベス・ボービアは2008年の時点で生存が確認されているそうです。

ボストンの病院の救急医である大内啓さんは気管内挿管について書いています。
気管内挿管をして人工呼吸器につなぐ際、一回の挿管で成功する率は全米で97%。
しかも、65歳以上の高齢者の3分の1は、挿管後10日以内に死亡する。
2020年のコロナ死者のピーク時、ニューヨークでは挿管後の死亡率が8割以上だった。

抜管でき、退院できても、元のQOL(生活の質)には、よほどの例外を除いて戻れない。
杖を用いて歩いていた人は、車椅子が必要になる。
自分の力で車椅子を利用していた人は、押してもらわなければならなくなる。
ベッドの上で起き上がれた人が、起き上がれなくなる。
自発呼吸できた人が、呼吸器が必要になる。

私の経験では、弱りゆく人に、「呼吸器に繋がれないと息ができず、寝たきりの状態が、今後一生続くのであれば、あなたは死んだほうがマシだと思いますか」
と質問すると、50パーセント強の人が「死んだほうがマシです」と答え、50パーセント弱の人が「いいえ、生きているほうがいいです」と答える。

車にひかれて、いきなり寝たきりになったり、指ひとつ動かせず、しゃべることもできなくなったりしたら、「死んだほうがマシだ」と思うに違いない。
しかし、難病であるとか、がんであるとか、10年ほどかかって徐々にそういう状態になっていくなら、例外を除くと「死んだほうがマシだ」とは思わない。
なぜなら、不自由、苦しいと思う状態に少しずつ慣れていくからだ。
本人だけでなく、家族ら周りの人も少しずつ慣れていく。

その時は死にたいと思っても、時間とともに思いはだんだん変わるようです。
佐野洋子『今日でなくていい』にこんな話があります。
97歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう充分に生きたわ。いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」と云ったっけ。
いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外ない。生きるって何だ。そうだ、明日アライさんちに行って、でっかい蕗の根を分けてもらいに行くことだ。それで来年でっかい蕗が芽を出すか出さないか心配することだ。そして、ちょっとでかい蕗のトウが出て来たらよろこぶことだ。いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。この日本で。
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エリザベス・ボービアもいつ死んでもいいけど、今日でなくていいと思っているのではないでしょうか。
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ポール・オフェット『反ワクチン運動の真実』(6)

2024年06月03日 | 問題のある考え
ポール・オフェット『反ワクチン運動の真実』にはクリスチャン・サイエンスについても書かれています。

クリスチャン・サイエンスはメアリー・ベイカー・エディが1879年に設立した。
信仰療法を説き、一切の医療を否定している。

神は完璧だから完璧な世界を作った、痛みなどは実際は存在しない。
病気は身体の症状ではなく精神によって起こるから、信仰によって病気は消える。
天然痘のような病気はワクチンではなく、祈りによって予防することができる。
メアリー・ベイカー・エディは著書に「我々が天然痘になるのは、他の人が天然痘になるからだが、それは物質ではなく精神が病気を取り込み運ぶのだ」と書いている。

科学の特徴は再現性と反証可能性です。
再現性とは、理論で予想されたこと、実験で得られた結果を、他の人がいつでもどこでも再現できることです。
たとえば、STAP細胞は世界中の科学者は再現できませんでした。

ウィキペディアによると、反証可能性とは、自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができるということです。
それに対し、宗教や疑似科学などは「自らが誤る可能性を認めない」「誤っているかを確認するテストを考案できない」「検証不可能な説明で言い逃れする」のが特徴だそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7

では、祈りで病気が治るのでしょうか。
ポール・オフィット『代替医療の光と闇』に祈りによる病気治療について書かれています。

自分のために家族が祈ってくれることを知っている患者は、回復率がわずかに高い。
祈ってもらっていることを患者が知らなければどうだろう。
こっそり祈ってくれる人がいることが患者の回復に効果あるなら、神の介入が示唆される。
しかし、研究では祈りには効果がなく、神の癒やしが行われる可能性はない。
信仰で病気が治るとしたら、これまたプラセボ効果なわけです。

百日咳、ジフテリア、麻疹などのワクチンは効果と安全性が検証されています。
手かざしによって病気が治ると説く宗教や代替医療があります。
どのようにしたら検証できるでしょうか。

左巻健男『陰謀論とニセ科学』にエミリー・ローザの実験が紹介されています。
1996年、アメリカのコロラド州ボールダー市(人口10万人ちょっと)に住むエミリー・ローザ(9歳)は小学校のサイエンス・フェスティバルという自由研究で、セラピューティック・タッチ(手かざし療法)を検証した。

セラピューティック・タッチはニューヨーク大学看護学部の名誉教授ドロレス・クリーガーが体系化したヒーリングの一種。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%81

セラピューティック・タッチを習得したヒーラーは、患者の身体から少し離れたところに手をかざすとエネルギーの場を感じ取ることができ、その乱れを整えることで治療ができると主張している。

エミリー・ローザの呼びかけで、エネルギーの場が実在するかを検証する実験にボールダー市で開業する21人のセラピューティック・タッチのヒーラーが集まった。
ドロレス・クリーガーにも参加を呼びかけたが、時間がないとして断られた。
https://asios.org/rosa

1996年にジェイムズ・ランディがセラピューティック・タッチの検証実験を企画し、74万2千ドルの賞金を懸けた時は、60以上の団体や個人に申し込んだが、返答があったのは1人だけで、その1人は実験をクリアできなかった。

エミリー・ローザの実験は次のような手順で行われた。(材料費は10ドル)
① エミリーがヒーラーと1対1で向かい合って座る。
② テーブルにはダンボールで作った衝立を用意した。衝立にはヒーラーの左右の腕を通せるように2つの穴が開いている。穴から向こう側が見えないように布が被せられている。
③ ヒーラーは穴に手を通し、手のひらを上に向ける。
④ エミリーはヒーラーの左右どちらかの手の少し離れたところに手をかざす。左右どちらにするかは毎回コイン投げをして決める。
⑤ ヒーラーは左右どちらにエミリーの手があるのか、エネルギーの場を感じ取って当てる。
⑥ 実験の一部始終はビデオで録画する。

テストは280回行われ、当てられたのは123回、正答率は44%だった。
偶然でも半分は当たるはずなのに、それを下回る結果に終わった。

手かざしで病気が治ると主張する教団はエミリー・ローザが考案した実験を公開でしたらどうでしょうか。
信者が増えると思います。

セラピューティック・タッチやレイキは宗教ではありませんが、再現性と反証可能性に問題があるようです。
ホメオパシーやカイロプラクティックといった代替医療は一種の宗教じゃないかと思います。
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ポール・オフェット『反ワクチン運動の真実』(5)

2024年05月20日 | 問題のある考え
ポール・オフェット『反ワクチン運動の真実』によると、反ワクチン運動の源流は19世紀の種痘反対運動です。

種痘反対勢力にイングランド政府は妥協し、1898年に良心的拒否法を通過させた。
種痘を受けさせたくない親は受けさせなくてよくなった。
イングランドの種痘の接種率は急落し、天然痘感染と死亡の中心となった。
19世紀、イングランドの親たちは、種痘は純粋でも安全でもなく、自然や神に反する行為だと論じた。だが親の怒りは医師よりは政府の役人に向かった。役人は自分たちに指図する権利もないし、子どもに何を接種すべきか指図する権利などないと考えたからだ。抗議運動の参加者にとって、法定予防接種は許容しがたい自由権の侵害だった。

現代のアメリカも、行政はワクチン接種で妥協し、親の宗教、思想を理由として子供にワクチンを受けさせなくてもよくなっています。

1960年代末から1970年代にかけて、アメリカ疾病管理予防センターは小学校の入学条件として麻疹ワクチン接種を要件とし、1981年までに全ての州で入学に予防接種を義務づけた。
ところがワクチンの強制に反発する親が訴訟を起こした。

1966年、ニューヨーク州議会で入学にポリオワクチンの接種を必要とするという法案が議会を通過したが、親の宗教がワクチンを禁じている場合は免除した。
これはクリスチャン・サイエンスの陳情活動の結果だった。

アメリカではすべての州がワクチンの予防接種を受けないという宗教的免除を認めている。
さらには、2010年までに21の州が予防接種の思想的免除を許している。

クリスチャン・サイエンスはメアリー・ベイカー・エディが1879年に設立した。
信仰療法を説き、一切の医療を否定している。
神は完璧だから完璧な世界を作った、痛みなどは実際は存在しない。
病気は身体の症状ではなく精神によって起こるから、信仰によって病気は消える。
天然痘のような病気はワクチンではなく、祈りによって予防することができる。

メアリー・ベイカー・エディは著書に「我々が天然痘になるのは、他の人が天然痘になるからだが、それは物質ではなく精神が病気を取り込み運ぶのだ」と書いている。

クリスチャン・サイエンスの信者による医療ネグレクトによって死ぬ子供たちがいる。
糖尿病の子供にインスリンをやめさせて死亡させる。
定期検診のレントゲン撮影をしない。
高熱を出した子供に治療師が「神様は病気をお作りにならなかったので、病気は幻なのよ」と言う。
過失致死などで訴えても、不起訴、もしくは無罪判決になる。

信者の子どもたちに麻疹やポリオの流行が起きている。
1972年、クリスチャン・サイエンスの高校でポリオの流行が起き、11人の子どもが身体麻痺となった。
1985年、クリスチャン・サイエンスのプリンシピア大学で3人の学生が麻疹で死亡した。

ブルース・クック『トランボ』は、脚本家であり、赤狩りで刑務所に入ったドルトン・トランボの伝記です。
ドルトン・トランボの母親はクリスチャン・サイエンスの信者だったので、ドルトン・トランボたち子供は予防接種を受けなかった。
俺が言いたいのは、こうした信者たちは罪悪感を抱くことなく行動しているということなんだ。恐れをまったく感じることなく正義を追求している。宗教としてのクリスチャン・サイエンスに対する見解じゃないといわれるかもしれないが、メソジスト派やバプテスト派だけでなくて、どんな宗派についても同じようなことがいえるのだから。ただ、ひとつだけいえるのは、彼らは恐れを知らない心を持っているってことだ。

ウォーターゲート事件に関わったH・R・ハルデマン、ジョン・アーリックマンはクリスチャン・サイエンスの信者であり、ジョン・ディーン、エジル・クローはクリスチャン・サイエンスの大学であるプリンシピア大学の卒業生だった。
クリスチャン・サイエンスは信者数を公表していませんが、かなりの人数ではないかと思います。

クリスチャン・サイエンス・モニターという新聞は、クリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディによって創刊されています。
櫻井よしこさんは「ジャーナリズムの仕事に関心を持ったのは、アメリカの「クリス
チャン・サイエンス・モニター」という新聞の東京支局で助手の職を得てからのことでした」と語っています。
https://www.business-plus.net/special/1404/638001.shtml

ワクチンを否定する団体は他にもあります。
シュタイナー教育のルドルフ・シュタイナーは「予防接種はカルマの発達と輪廻転生のサイクルを妨げる」と考えた。
シュタイナーは神秘思想家、オカルティストでもあるので、やっぱりそうかと思いました。
シュタイナー教育を実践している学校もワクチンに反対しているのでしょうか。

カイロプラクティックはダニエル・D・パルマーが1895年に始めた。
背骨のずれが病気の原因だと考えるカイロプラクティックは細菌説を根拠がないと主張し、ワクチンの危険を説く。

創始者の息子バートレット・ジョシュア・パーマーはこんなことを言っている。
カイロプロクターは全ての伝染病と言われてきたものは背骨に原因があることを発見した。もし100人の天然痘患者がいたら、一人の患者のどこにサプトラクション(背骨のずれ)があるのかを見出し、他の99人の状態も同じであることを証明しよう。背骨を調整し、身体の機能が正常になる。伝染病などない。感染もないのだ。

日本カイロプラクターズ協会のHPを見ると、世界には約10万人のカイロプラクターがいて、日本には608人だそうです。
https://jac-chiro.org/aboutchiro/
会員数12000名規模のカイロプラクティック団体も日本にあります。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000027.000093169.html
背骨の矯正であらゆる病気が治るんだったら、病人はいなくなるはずですが。

新型コロナウイルス感染防止のためにマスクをすることになぜ反対するのかと不思議に思っていましたが、強制を嫌うだけでなく、宗教的信念があるのかもしれません。
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