三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

メル・ギブソン『ハクソー・リッジ』

2017年07月27日 | 映画

メル・ギブソン『ハクソー・リッジ』では、主人公であるデズモンド・ドスは真珠湾攻撃に衝撃を受け、衛生兵になるために軍隊に志願します。
しかし、セブンスデー・アドベンチスト教会の忠実な信徒なので、良心的兵役拒否者として、訓練でも武器を持つことすらしません。
そんなデズモンド・ドスが前田高地をめぐる戦いで大勢の負傷兵士を救出するという感動の実話です。

しかし、『パッション』や『アポカリプト』にこめられたメル・ギブソンの意図を考えると、『ハクソー・リッジ』(2016年)も単純に反戦映画、もしくは人類愛賛歌とは言えないように思います。

ハクソー・リッジでの最後の戦いの前、兵士たちはデズモンド・ドスの祈りが終わるのを待ってから崖を登り、前田高地を占領します。

つまり、ハクソー・リッジの戦いは神のお考えだったということになります。

そして、『ハクソー・リッジ』での日本兵は、殺しても殺しても次から次へと現れるゾンビのように描かれます。

スペイン(=キリスト教徒)が新大陸を征服し、先住民を殺戮したことと重なります。

『ハクソー・リッジ』には沖縄に住む人たちは登場しませんが、岡本喜八『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)では大勢の一般人が戦闘に巻き込まれ、アメリカ兵に殺されます。

デズモンド・ドスは戦争についてはどのように考えていたのか、映画では示されていません。
自分は人を傷つけないが、アメリカ軍が日本兵を殺すこと、まして一般人を巻き添えにすることに抵抗はなかったのでしょうか。

前田高地がある浦添市のHPを見ますと、住民の44.6%、4112人が死亡、一家全滅率は22.6%で、前田地区に住んでいた201世帯、934人のうち、戦死者は549人、戦死率は58.8%です。


セブンスデー・アドベンチスト教会も終末論と関係があります。

ウィリアム・ミラーはキリストの再臨を1843年3月21日~1844年3月21日の間と予言したことで、ミラー支持者は異端として教会から追放され、エレン・ホワイトも所属していた教会から追放されます。
その後、エレン・ホワイトたちはセブンスデー・アドベンチスト教会を設立し、安息日は土曜日であって、ローマ・カトリックは間違いだったとします。

誰もが終末を生き残れるわけではなく、神の教えに従った選ばれた人だけです。

当然のことながら、異教徒の日本兵はダメです。

木谷佳楠氏は、日本においてアメリカのキリスト教と映画との関係を知ることの意味はどこにあるかを問題にします。

アメリカ映画の中にキリスト教的価値観が強く反映されているのだから、日本の観客も知らない間にアメリカ独自のキリスト教価値観の影響を受けることになる。
日本の観客が、善悪二元論や終末観、アメリカンヒーローに代表されるメシア観を取り込んでいる可能性は否定できない。

アメリカン・ヒーローはイエス・キリストがモデルとなっているそうです。

常人以上の特別な能力を持つ一方、敵から苦しみを受け、時には人々から理解されずに悩むという人間的弱さを持ち合わせている。
さらには、自己犠牲的な行為によって生死をさまよったり、死んで復活したりする。
なるほど。

だからこそ、映画に代表されるアメリカ文化の主原料であるアメリカの宗教性を知り、吟味する必要があると、木谷佳楠氏は説きます。

納得です。

それにしても、アメリカ軍は崖にかけられた網ハシゴ(?)を登っていくわけですが、この網ハシゴはいったいどのようにしてかけたのか、日本軍はなぜ切り落とさなかったのか、不思議です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

メル・ギブソン『パッション』『アポカリプト』

2017年07月20日 | 映画

ピーター・ウィアー『誓い』(1981年)でのメル・ギブソンは誠実そうで、役柄にぴったりでした。
ところが、実際はアル中の暴力男だそうです。
だからこそなのか、自分で教会を建てているぐらいの熱心な信者。

もっとも、「教皇聖座空位論(sedevacantism)」といって、第2バチカン公会議で決定されたリベラルな政策を受け入れられず、第2バチカン公会議後の教皇たちを教皇として認めない超保守的なカトリック信徒です。

でも、それなのにメル・ギブソンも父親も離婚しているのですが。
メル・ギブソン監督作品を見るときには、原理主義で、反ユダヤ主義で、妊娠中絶反対で、同性愛反対だということを頭に入れておく必要があります。

監督第3作の『パッション』(2004年)は、イエス・キリストがローマ兵に捕らえられて拷問され、十字架にかけられるまでをリアルに描いており、ローマ法王も聖書に書かれてあるとおりだと言ったそうです。


十字架をかついだイエスは、人々にあざけられ、鞭打たれ、石を投げられ、そして十字架にかけられ、全人類の罪の犠牲となって、苦しみながら死んでいく。

それにもかかわらず、イエスは人間を許してくれたことは驚きであり、喜びは深まる。
つまり、イエスの苦痛と人間の罪の重さ、そして私の救いの確かさは正比例することになるわけです。

カトリックでは、イエスが十字架にかけられたのは神のお考えで、ユダヤ人のせいではないと解釈していると、カトリックの知人が言ってました。

しかし、木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』によると、『パッション』に登場するユダヤ人は、これまでの映画の中で最も悪く描かれ、その一方でローマ総督のピラトや一部のローマ兵は好意的に描かれているために、製作制作段階から「反ユダヤ主義的」な映画との非難を受けたそうです。

グリフィス『イントレランス』は、ユダヤ教のラビが撮影現場にいたものの、イエスの死がユダヤ人によってもたらされたという描写があったため、修正を求められ、30場面あったイエス物語を7場面に縮小した。


メル・ギブソンは意外としたたかなようで、映画を公開する前に、社会的影響力のある宗教家、特に福音派の牧師を味方につける戦略をとりました。

バチカンで事前試写会を開き、アメリカ国内ではメガ・チャーチを借り、福音派の牧師約5000人を集めた試写会を開いている。
こうしたことにより、抗議や非難の声は公開後すぐに沈静化し、大ヒットした。
制作費が3千万ドルはメル・ギブソンが出したそうですが、、全世界の興行収入は約6億1100万ドル。

メル・ギブソンの描く、厳しい拷問に耐え、人々の罪の贖いとして十字架にかけられるイエスは、9.11後のアメリカで求められていた国家統合のための「国民的象徴」だった。

コーネル・ウェストは、『パッション』に代表されるキリスト教保守派の思想を文化に乗せて広めようとすることは、現代風に洗練された帝国主義的風潮であり、「コンスタンティヌス的クリスチャン」、すなわち自らが達成したいと欲する目的のためにキリスト教を利用する者の考え方であると批判していると、木谷佳楠氏は書いています。

メル・ギブソンの次の監督作品はマヤが舞台の『アポカリプト』(2006年)です。
村の人間を捕まえて生け贄にして殺したり、人間狩りをしたりと、これまた残酷な場面が続きます。

スペインの船が遠くに見えるシーンで終わりますが、これをどう解釈するか。
スペイン人によって先住民は富を奪われ、殺戮され、マヤ文明は滅亡するわけですから、主人公の救いのなさが暗示されていると思いました。

ところがネットを見ると、スペインは野蛮な新大陸に福音をもたらしてキリスト教化したということがメル・ギブソンの狙いだ、という解釈がありました。

「アポカリプト」の意味をネットで調べると、ギリシャ語で「物事をあらわにする」という動詞で、名詞だと「アポカリプス」で「黙示録」のこと。

『アポカリプト』という題名を見て、アメリカの観客は何をイメージするかというと、世界の終末とイエスの再臨でしょう。
『アメリカ映画とキリスト教』によると、アメリカは人口の約75%がクリスチャンであり、ユダヤ教徒も含めると約77%が、「世界の終わり」をユダヤ・キリスト教的価値観、聖書的終末観で捉えています。
2010年に行われた世論調査によると、アメリカ人の41%は2050年までにイエスが再臨し、終末が訪れると信じている。
プロテスタント 54%
白人福音派 58%
白人主流派 27%
カトリック 32%
終末を待ち望む人が半数近くいるわけです。

マヤ文明に代表される非人間的な世界の終わり、そしてスペイン船によってもたらされるキリスト教文明の夜明け(イエスの再臨)。
描写が残酷であればあるだけ、マヤ文明がいかに野蛮かが印象づけられ、スペインによる征服が正当化されます。
あるサイトは、アフガニスタンのタリバン政権やイラクのフセイン政権を象徴していると指摘していますが、うなずけます。
スペイン船=アメリカ=キリスト教は抑圧からの解放者です。

となると、残酷な描写はマヤ文明の非人間性を強く印象づけ、スペインは侵略ではなく、マヤの人々に救いをもたらす福音だという結論に結びつけることになります。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』(2)

2017年07月16日 | 映画

木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』で興味深いのは、60年代以降のキリスト教福音派やキリスト教右派の動きが詳しく説明されていることです。

第二次世界大戦中は連合国に対立する国を、その後は共産主義国を、「神の国アメリカ」の敵、あるいは「反キリスト」として捉えた。
しかし、「ユダヤ・キリスト教国家」としてのアメリカの伝統的価値観に対する異議申し立てとして生まれたカウンター・カルチャーが盛んになる1960年代に入ると、それまでの価値観が覆された。

このころからアメリカのキリスト教の中心は、比較的リベラルな立場の「主流派教会」から、保守的な立場をとる福音派へと移っていく。
その福音派の中から、さらに自分たちの保守的なキリスト教的価値観を政治に反映させようとする「キリスト教右派」が力を持つようになる。

1951年、ビル・ブライトキャンパス・クルセード・フォー・クライスト(CCC)を創設し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で活動を始めた。


カリフォルニア州知事だったレーガンや福音派の人々が、ヒッピーの巣窟と目されていたカリフォルニア大学バークレー校の浄化に乗り出し、ヒッピーたちをクリスチャンに転向させようとした。

1967年、CCCも「いま革命を」というキャンペーンをカリフォルニア大学バークレー校で展開する。
レーガンは自分が政治能力があることを有権者に示す必要があり、ビル・ブライトたちはレーガンに協力することで、自分たちが政治に影響を及ぼせるようになると考えた。

ヒッピーの街と化していたバークレーでは、短髪にスーツ姿では受け入れられず、キャンペーンは苦戦する。
そこで、ビル・ブライトはCCCのスタッフたちにヒッピー・スタイルを身につけるよう命じ、クリスチャン世界解放戦線という名の組織を結成し、CCCの活動の前面に発たせた。
また、社会活動家やヒッピーたちが好んで使っていた「革命」「スピリチュアル」という言葉を多用して、学生に話しかけた。
いわば異教徒の牙城であったバークレーに対する十字軍の戦いそのものだった。
ビル・ブライトはさらにCCCの活動をワシントンや軍隊の中にも広げていく。

1969年に行われたウッドストックに対抗するように、ビル・ブライトはクリスチャンのためのウッドストック・フェスティバルとして、Explo'72 をダラスで行い、75カ国から高校生や大学生8万人が集う一大イベントとなった。

クリスチャンのミュージシャンたちは、いかに過去の自分たちが麻薬に溺れて不幸であったのか、そして、イエスに出会ってことでいかに救われたのかという信仰のメッセージを若者に向かって発した。

Explo'72で演奏された曲はレコード化され、希望者はCCCに問い合わせると無料で入手できた。

この方法によってCCCは若者たちにアプローチすることができ、さらなる活動に勧誘することができた。

CCCが提唱した「ワン・ウェイ(イエスこそが唯一の救い)」というわかりやすいスローガンは、カウンター・カルチャーで何も変わらなかったことに幻滅し、喪失感を抱いた若者たちに受け入れやすいものだった。


CCCは保守的な神学を保持しながら、ホップ・ミュージックを中心としたコンテンポラリーな宣教のスタイルを伴って、カウンター・カルチャー世代の取り込みに成功した。

こうしてCCCの勢力は、YMCAなど従来からあったキリスト教系の青年団体を凌駕するようになった。

1970年代の時点で1万人のフルタイムのスタッフを抱えていたが、2005年には191カ国に活動範囲を広げ、2万6千人のフルタイム・スタッフと、55万人の訓練を受けたボランティアを有し、予算規模は4億ドルとされている。


1980~90年代に政治の表舞台に出てくるキリスト教右派グループは、ビル・ブライトがCCCを通して保守的な考え方を広めた世代を中心としている。


福音派の協力によってレーガンが大統領に選ばれたことを喜んだビル・ブライトは、1980年に開催されたイベントで、20万人もの福音派やキリスト教ファンダメンタリストたちをが集め、レーガンのために一日中祈りをささげた。

このイベントには、それまで反目しあっていた南部パブテスト連盟と福音派教会など保守派が初めて協力して一緒に参加した。

そのころの最大の宗教ロビーはモラル・マジョリティーで、かつての伝統的価値観の回復を求める政治団体である。

主な主張は次の3点
①世俗的人間中心主義への批判
②伝統的な家族を守ること
③アメリカ至上主義

「伝統的な家族を守ること」という立場から、人工妊娠中絶反対、男女同権法案反対、同性愛者の権利を認めることへの反対、家庭の教育に公権力が介入することへの反対を主張した。


1968年にプロダクション・コードが廃止された後のアメリカ映画は、キリスト教右派による「暗黙の検閲」を受けねばならなくなった。


イエスが誘惑に負けて女性と関係を持つ場面があるマーティン・スコセッシ『最後の誘惑』(1988年公開)の製作・上映は福音派の団体から妨害・抗議を受けたが、抗議運動の中心となったのがCCCだった。


ビル・ブライトは映画の配給を予定していたパラマウントにフィルムの破棄を前提に、原作の映画化権を購入したいと申し入れた。

映画化権の購入に失敗すると、上映を中止させるためにCCCのメンバー2万5千人を動員して、映画館の前でボイコット活動を展開し、映画館に入ろうとする人々を実力行使で阻止した。

しかし、主流派教会の牧師たちは、あまりに行き過ぎた抗議活動に異議を唱えた。

キリスト教的性道徳を掲げる福音派などの保守派と、言論の自由を求めるリベラル派との間にあった思想的葛藤がアメリカ社会の中で顕在化することになった。

『最後の誘惑』をめぐる一連の出来事の背後には、伝統的価値観の回復を望むキリスト教右派や新保守派と、そこから自由でありたいと願うリベラルとの対立構造があり、1990年代初頭になると、政治、社会を巻き込んだ「文化戦争」へと発展していく。

「文化戦争」で論争の的になっている主要なトピックは、人工妊娠中絶、同性婚、公立学校での祈禱の再開などである。
多様な価値観が林立することによってアメリカという国家が解体することを恐れる人々は、そこに確固たる道徳規範を求めていったのである。

以上、木谷佳楠氏の論攷を読み、CCCのやり方はまるで日本会議だと思いました。
草の根保守運動です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』(1)

2017年07月13日 | 映画

木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』は、キリスト教という切り口からのアメリカ映画批評かと思ったら、博士論文を加筆訂正したもの。
映画や映画界とキリスト教との関わりをとおしてアメリカを見ていく。
はなはだ興味深い本でした。

アメリカが排除と受容という相対する二項概念の相克によって発展してきた歴史は、アメリカ人の「我々(We)」を定義する線引きをめぐっての争いの歴史であったとも言える。
どの範囲までを「アメリカ的」と見なし、どの範囲から「非アメリカ的」だと定義するのか、その線引きは不明瞭である。

建国初期のアメリカ人にとっての「我々」とは「白人のアングロサクソン系プロテスタント信徒」(WASP)であり、「我々」を統合する宗教的価値観は、プロテスタント教会とほとんど同義だった。


1800年代中ごろ、カトリック系移民が流入してくると、プロテスタント信徒は自分たちこそが「真のアメリカ人」であると主張して、カトリック信徒を排除した。


映画産業は、1890年代から1910年にかけて、エジソンやグリフィスなどWASPを中心として開発が進められ、映画が宣教の道具として役立つと歓迎された。


やがて、当時、職業選択の自由が与えられていなかったユダヤ系移民たちが映画を大衆文化へと広めていったので、アメリカ系アメリカ人と自負する勢力から、映画業界は攻撃されやすかった。


1920年代前半から、キリスト教系団体や女性団体は、ユダヤ系映画製作者たちが作る映画によって道徳律が乱されていると非難するようになる。

恋愛映画を作ると、「ユダヤ系移民がプロテスタント信徒の風紀や道徳律を映画によって乱している」という批判が起こり、聖書に基づいたイエス物語の映画を作ると、「イエス・キリストを死に至らしめたユダヤ人が、キリストの死によって金儲けしている」と叩かれた。

アメリカにおけるイエスを描いた映画は、その製作段階から常に「反ユダヤ主義」「神への冒瀆」という批判にさらされる危険性を内包していた。


ユダヤ系映画製作者たちは「真のアメリカ人」になるためにユダヤ系であることを隠すようになり、ユダヤ系ヨーロッパ人としてのアイデンティティを捨て、同化していく道を選んだ。


1930年代、「アメリカ人」としての地位を獲得しつつあったカトリックの人々から、ハリウッドに対する抗議の声が上がると、ユダヤ系映画製作者たちは自主検閲機関を設立し、1934年、プロダクション・コード(映画製作倫理規定)を設けた(1968年に廃止)。


プロダクション・コードは12項目があるが、①神への冒瀆、②性的不品行、③殺人や窃盗行為の3点を禁じることに集約される。

根底にあるキリスト教的価値観は、結果としてアメリカ映画を観る全世界の人々に影響を与え、単なる笑いや感動を伝えるだけのものではなく、アメリカの価値観を教え、キリスト教的倫理を伝え、「アメリカ的生き方」を示すようになった。
これは2000年来、教会が担ってきた役割だった。

移民の手によって発展したハリウッド映画産業は「非アメリカ人」として攻撃される危険性を持っていた。

その最たるものが冷戦時代の赤狩りである。

1947年からの赤狩りにおいて、厳しく追及を受けたのは主に移民たちであり、アメリカ系アメリカ人は主として糾弾する側にいた。

ハリウッドの移民たちは、アメリカの成員かどうかを判断する踏み絵として赤狩りに加担し、自主的に映画の検閲を行い、共産主義者を閉め出すことを余儀なくされた。

WASPに属するセシル・B・デミル、ジョン・ウェイン、ウォルト・ディズニー、ロナルド・レーガンらは、非米活動調査委員会の調査に積極的に協力したが、ギリシャ移民のエリア・カザンのように「裏切り者」「ユダ」として扱われることはなかった。


1950年代、「神を否定する共産主義」というアメリカ人にとっての共通の「敵」を得たアメリカは、「我々」を統合するものとして、神に対する信仰をアメリカ人の最大公約数として求めた。


その「敵」に一致して対峙するための方途として、国民を「神の名の下にひとつにする」という道を歩み始める。

1956年、「我々が信じる神のもとに」を国の正式なモットーとして採用し、1ドル紙幣や硬貨に印字した。
こうして、「神の国アメリカ」という自己イメージは強固なものとされていった。

冷戦終結以降、アメリカは確固たる「敵」を失っていたが、2001年に起きた同時多発テロを契機に、イスラーム過激派、テロリストという新たな「敵」を得た。

9.11以降、宗教を軸にする対立構造は、「アメリカ対テロ組織」、あるいは「ユダヤ・キリスト教対イスラーム」という単純な対立構造を顕在化させた。
多様である国民がひとつになることが要請され、愛国心や排他的な伝統価値観を標榜する保守勢力が力を増していくことになる。

「アメリカ人」「非アメリカ人」という線引きは、人種や宗教のみならず、保守派かリベラル派かという思想的立場による対立構造の中でも規定されるものへと変化した。


保守派対リベラル派の対立は、建国時のピューリタニズムと民主主義という二つの思想が、多民族国家となった変化にいかに対応するかをめぐって生じた対立構造である。

建国の精神にあるキリスト教的道徳観に基づいた社会へと回帰するのか(保守派)、民主主義に基づく多様性を重視した社会の構築を目指していくのか(リベラル派)。

アメリカのリベラル化は、キリスト教右派と新保守主義の共闘を生み、そこから自由でありたいと願うリベラル派と主流派教会との間における対立構造を顕在化させた。


アメリカ対非アメリカの関係を「キリスト教対反キリスト」「善と悪」という単純化された二元論的構図に当てはめ、自国民のみならず世界市民に対しても、どちらに立つかの選択を迫る。


『アメリカ映画とキリスト教』を読んで思ったのは、アメリカの歴史は「敵」を見つけ出すことによって、多民族国家であるアメリカを一つにまとめようとする歴史といえるのではということです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

特攻からの生還と振武寮(2)

2017年07月06日 | 戦争

林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』によると、沖縄作戦で特攻基地を飛び立った者は、飛び立った日付で戦死公報が作成され、軍籍から抹消され、二階級特進の手続きを取っていた。
それなのに、敵艦に突っこんだはずの軍神が生きて帰ってきては、世間に説明がつかない。
軍司令部にしてみれば、いまさら生きて帰ってこられても扱いに困った。

倉澤清忠「こんなにたくさん帰ってくるとはゆめゆめ考えなかったんですが、30人、50人とだんだん増えていきました」


出撃意欲をなくした特攻隊員の処置をどうするか、第六航空軍司令部は頭を痛めた。

倉澤「最初は軍専用旅館として大盛館を指定して待機させたが、すぐ満杯になってしまったんだ。引き返してきた特攻隊員を宿泊させると、一般の目につき易い。特攻隊の性格からして、死んでいるはずの人間が、途中で帰ってきたと噂が立つと軍神に傷がつく。それを第六航空軍としては最も恐れた。大盛館には出撃前の隊員も宿泊していたし、彼らの情けない姿を見ると心理的に悪い影響を与えかねないんだ」

生還した特攻隊員の扱いに苦慮した陸軍司令部は、福岡にあった第六航空軍指令部横に造った施設に収容し、一般人や他の特攻隊員に知られないように隔離した。
およそ80名ほどの特攻隊員が収容されていたといわれるその施設は、「振武寮」と呼ばれた。
行動は制限され、外出や外部との連絡(手紙・電話)は禁じられ、再び特攻隊員として出撃するための厳しい精神教育が施された。

倉澤参謀は毎朝6時半にやってくると、酒の匂いをぷんぷんさせながら「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない」とわめき散らして、竹刀で殴りつけた。
「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者、死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」

倉澤参謀は1944年9月に飛行機が墜落して頭蓋骨骨折をし、20日間も意識不明の重体になった。
命は助かったが、頭は割れるような痛みが走り、酒を飲んでは暴れた。
普通なら除隊するが、航士第五十期はほとんどが戦死していたため復帰した。
こういう人が参謀でいること自体がおかしいです。

林えいだい氏は倉澤清忠氏から次の言葉を引き出しています。

倉澤「要するに(特攻は)あまり世間を知らないうちにやんないとダメなんですよ。法律とか政治を知っちゃって、いまの言葉でいえば、人の命は地球より思いなんてこと知っちゃうと死ぬのは怖くなる。(略)
(少年飛行兵は)12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

自爆テロとかいったことと通じる、重たい述懐です。

フィリピン特攻作戦以来、航空機による特攻の犠牲者はおよそ6千人といわれる。
目的を達することができずに引き返した隊員はほかにもかなりいるはずだ。

倉澤「出撃する特攻隊員たちの心情を汲み取ってやる思いやりがなかった。引き返せば国賊のようにののしった自分が恥ずかしい」


大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』によると、アメリカは日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きは米軍に掌握されていた。
日本軍がどこに、どれだけの数の戦闘機を保有しているか、正確に把握している。
特攻についても、攻撃の時間、規模、さらには機材が不足し、練習機が特攻に使われようとしていることまでが事前に調べつくされていた。
しかも、沖縄戦では、米軍は160km先の動体を確認できるレーダーによって、沖縄に防空警戒網を張り巡らせ、約30分前に特攻機の来襲を察知した。

沖縄作戦での特攻はほとんど無駄死というか、使い捨てにだったわけです。
戦争で多くの人が無駄に死んでいったことによって、日本人は平和主義を選んだことを肝に銘じておく必要があります。

大貫健一郎さんはこのように語っています。

喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍あわせておよろ4000人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。(略)
いまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

特攻からの生還と振武寮(1)

2017年07月02日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』に、陸軍第六航空軍は特攻から生還した者を振武寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てたことが書いてあります。
振武寮とは何かと思い、林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』と大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』を読みました。
林えいだい氏は第六航空軍編成参謀の倉澤清忠少佐(86歳)に2003年3月から7月にかけてインタビューし、それから数日後に倉澤清忠氏は亡くなっています。
大貫健一郎氏は特攻から帰還した方です。

林えいだい氏は倉澤清忠氏に、最初にまず「失礼ですが正直いってあなたのことをよくいう隊員は一人もいません。早くいえば鬼参謀と恨んでいます」と、ズケズケと言っています。
こんなんで倉澤清忠氏がよく話をしてくれたものだと思いますが、倉澤清忠氏はいつ報復されるか分からないからと、80歳までは自己防衛のためにピストルに実弾を入れて持ち歩き、家では軍刀を手放さなかったと、率直に語っています。

1944年12月26日、連合軍の日本本土上陸が目前に迫り、陸軍は沖縄戦に備えて、新しく第六航空軍を創設した。
1945年4月6日、沖縄への特攻作戦が始まると、出撃した特攻機が機体のトラブルや不時着などで引き返してくることが非常に多くなった。
菅原道大第六航空軍司令官の日記には、特攻隊の5分の1が引き返したり不出発だったとある。

代替機受領のために、福岡の第六航空軍司令部の倉澤参謀のところに行った特攻隊員に対して、倉澤少佐は引き返した理由を厳しく追及した。
・目標地点まで行ったが、敵艦を発見できなかった
・天候が悪くて引き返した
・機体が故障した、など
開聞岳を通過してまもなく海岸に不時着することもあった。
古い飛行機を寄せ集めた特攻機だから、エンジントラブルとか故障が多い。
しかし、機体には全く損傷がないものもある。
海岸か島に不時着したり、海に沈めると、証拠がないから調べようがない。

倉澤「沖縄戦の特攻では最高四回引き返した隊員がいることを、私は記憶している。知覧を飛び立つが必ず引き返してくるんだ。エンジンの調子が悪いとか、オイルが洩れて飛行不能になったとか、いろいろと理由を述べるんだ。それが一人や二人ではなく、フィリピンの特攻の時には考えられないほど多くなった。第六航空軍としてはその対策に頭を痛めて、再び出撃させることに決めたんだ。そのためには徹底した精神教育しかない。ところがだ、一度引き返した者は絶対といっていいほど出撃の意欲をなくし、また次も引き返してくるんだ。娑婆の空気を吸うと、この世に未練がでてくるのか、死ぬことが怖くなっておじけつくもんだ。いくら気合いを入れて教育しても、無駄だということが分かった」


そもそも、やっと編成することができた特攻隊は、古い機体と技術を伴わない操縦士によるというのが実情だった。

倉澤「沖縄の特攻作戦が始まるというのに、第六航空軍には手持ちの特攻機が僅かしかなかった。急遽、各戦隊や教導飛行師団から特攻用の飛行機を寄せ集めたが、これまで練習用に使用していた故障機ばかりよこした。(略)修理させたが、部品が底をついていつ終わるか目途が立たないというんだ。それじゃ特攻編成はできたもんじゃない。知覧と万世で250キロ爆弾を搭載するので、操縦者はその重さに面喰らって、機体に浮力がつかないまま墜落してしまった。
航空本部に新部品を支給するように要請した。すると敵機の東海地方の爆撃で部品工場が全滅して、再開の目途が立たないから現有部品で間に合わせて修理せよというんだ。おんぼろ飛行機に爆弾を搭載するとどうなるかを、操縦経験のない陸軍上層部は全く考えていなかったんだ」

特攻機を航空本部に請求しても、新鋭機はどの戦隊も手放さなず、ノモンハン戦に使用し、訓練で使い古したおんぼろ機を提供してきた。
そのため、航空廠で修理して、特攻機に改修しなければならなかった。

ところが小月文廠では、エンジンの修理、組み立てを、基本教育も受けていない女学校の生徒にさせている。
エンジンを分解して破損部分を発見しても、新しい部品がないために交換できない。
機体のナットがゆるんで締まらず、手でも簡単に外れる。
完全に修理したと自信を持った戦闘機が、離陸中や着陸中に墜落して、操縦士が死ぬこともあった。

知覧飛行場に集結した特攻機のうち、出撃直前になって機体の故障で中止になる特攻機もあった。
最新鋭の一式戦闘機Ⅲ型隼はエンジンが不調で、知覧航空分廠で修理することになったが、一式戦闘機Ⅲ型隼を修理できる整備係が1人もいなかった。
陸軍の最新鋭の飛行機でもこのありさまだった。

当時の戦闘機は250キロ爆弾を爆装するようには設計されていないので、改修するためには時間がかかる。
隊員は十分な編隊訓練をする時間もないまま、前進基地へ集合を命じられ、知覧基地ではじめて250キロの爆弾を爆装した隊員が大部分で、離陸中に浮力がつかず、墜落事故も起こった。
若い操縦士は技術が低く、特攻隊訓練を担当していた東郷八郎氏は「特攻の任務を果たせるか、非常に疑問を抱かせるレベルの操縦士が多かったのは事実です」と語っている。

こんなひどい状態で特攻に送り出していたとは知りませんでした。
いったい何のための特攻だったのかと、あらためて思いました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

堀川惠子『死刑の基準』

2017年06月27日 | 死刑

永山則夫事件の第二審の裁判長だった船田三雄氏が、退官後に弁護士会で行なった死刑の勉強会での話を、堀川惠子『死刑の基準』は紹介しています。

船田三雄氏は、若いころに担当した二件の裁判で、死刑事件に対する裁判所のあり方に大きな疑念を抱くという経験をしていた。

1953年に起きたバー・メッカ殺人事件の加害者は、裁判で罪を全面的に認め、キリスト教に帰依し、贖罪の日々を送るようになった。

しかし、一審で死刑、最高裁で死刑が確定した。

1954年のカービン銃事件では、会社社長を呼び出し、小切手を奪って殺害し、一審では死刑判決だったが、二審で無期懲役。


どちらの事件でも左陪席だった船田三雄氏は、バー・メッカ殺人事件は無期懲役が相当(初犯であること、被害人数が1人であること、犯行後に更生(『死刑の基準』ではすべて「更正」となっている)に向けて生きようとしている姿があること)で、カービン銃事件は死刑相当と思ったという。

船田三雄氏が疑念を抱いたのは、もし自分が裁判長であれば、それぞれの裁判は結果が逆になっただろうことにである。
つまり、裁判所で同じ事件を審議するのに、死刑になるか否かが問われるときに、裁く人(裁判官)によって結果が違うような状態でいいのか、ということだ。

船田裁判官が若き日に直面した二つの裁判は、「死刑」か「無期懲役」かを争う裁判だった。

人間の命がかかった裁判なのに、ある裁判官だと処刑、別の裁判官だったら生きることを許される。
これは、運が良いとか悪いとかで片づけられる次元の話ではない。

船田三雄氏は、永山事件控訴審で無期懲役判決を出したため、「もともと死刑廃止論者だった」「ハト派だった」と評される向きもあった。

しかし、1973年、水俣病被害の補償についてチッソ社長への面接を求めて社内に立ち入ろうとした被告人らを阻止しようとした社員に、被告人が怪我を負わせたという水俣病自主交渉チッソ本社事件で、弁護団と被告人が裁判長の命令を無視して許可なく法定外に出ていったので、船田裁判長は法廷に内側から鍵をかけ、弁護団と被告人の再入廷を認めず、弁護人と被告人が不在のまま審理を続行している。

『裁判官紳士録』(1981年刊)には、船田三雄氏について「被告人の実態像と取組もうとする姿勢がない。訴訟進行が事務処理的。(略)判決は紋切り型」と記述されている。

この船田三雄氏が、1980年から始まった控訴審の裁判長だったのである。

堀川惠子氏はなぜ永山則夫に関心を持ったのか。

2009年、光市母子殺害事件の差し戻し審の判決が出たとき、記者が大きな声で「主文は後回しです。死刑判決が濃厚です!」と繰り返したら、広島高裁の外で判決を待っていた市民たちから拍手と歓声があがった。
このことを知った堀川惠子氏は、一体どういうことかと耳を疑い、「死刑」に対して拍手と歓声があがったことに戦慄を覚えた。

二審の広島高裁(無期懲役)の判決文にも、差し戻し審の広島高裁(死刑)の判決文にも永山裁判の判決文を引用されているが、判断を分けた。

そこで、堀川惠子氏は永山則夫を調べてみようと決心したという。

こうした経緯があるためか、『死刑の基準』(2009年刊)は永山則夫のことを語りながら、光市母子殺害事件の被告と重ね合わせている部分があるように感じます。

永山事件控訴審の判決文の一部。

(被告人は)愛情面においても、経済面においても極めて貧しい環境に育つて来たのであつて、人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、右のように生育して来たことに徴すれば、被告人は本件犯行時十九歳であつたとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に十八歳未満の少年と同視し得る状況にあつたとさえ認められるのである。のみならず、かような生育史をもつ被告人に対し、その犯した犯罪の責任を問うことは当然であるとしても、そのすべての責任を被告人に帰せしめ、その生命をもって償わせることにより事足れりとすることは被告人にとって酷に過ぎはしないであろうか。かような劣悪な環境にある被告人に対し、早い機会に救助の手を差し伸べることは、国家社会の義務であつて、その福祉政策の貧困もその原因の一端というべく、これに眼をつぶって被告人にすべてを負担させることは、いかにも片手落ちの感を免れない。換言すれば、本件のごとき少年の犯行については、社会福祉の貧困も被告人とともにその責任をわかち合わなければならないと思われるのである。


永山則夫の無期懲役の判決に対し、週刊誌などは、連日、船田判決を批判したそうです。
永山裁判の一審で1976年から死刑判決が下される1979年まで右陪席を務めた豊吉彬氏は、最近の死刑判決やマスコミの動向には危惧を感じていると語っています。

最近ちょっと死刑事件が多いような気がしますね。昔はあまりアンバランスなことはなかったです。誰が裁いてもこれは死刑だというような事件が死刑になっていました。でも最近はちょっと傾向がバラバラですね。無期と思うようなものが死刑になったりしています。やはり裁判というのは制度として誰がやっても、どこで裁いても同じようにならないといけないと思うんです。今の世の中の流れでは、裁判員裁判が始まると死刑が増えるのではないかと心配しています。
マスコミにもきちんと役割を果たしてほしいですね。最近は反対のことが目立つ感じがします。刑事裁判というのはあだ討ちの場ではないのですから、被害者がこういっているから死刑というのはね、本来は正面からいうべきことじゃないと思うんです。国家が被害者に代わってあだ討ちをするようなことになってはいけないと思います。


「社会を明るくする運動」の作文コンテスト法務大臣賞の作文がすばらしいです。

柴田嘉那子さん(小学校6年)「大切な魔法の言葉」

柴田さんの両親は児童自立支援施設で寮舎運営を担当していた。
家庭環境に恵まれず、非行に走ったり、虐待を受けたりして、人間不信、大人不信をもつお兄ちゃんたちは、家庭裁判所の審判の結果、入所し、柴田さんの両親がお父さんがわり、お母さんがわりをしていた。
入所前まで、「おかえり」と言われたこともなければ、誕生日を祝ってもらったことのないお兄ちゃんもいた。
お兄ちゃんたちは、柴田さんの誕生を楽しみに待ち、成長の変化に両親よりも早く気づき、一番喜んでくれた。

退所したお兄ちゃんたちみんなに、
「おかえり。」
と言葉をかけてくれるよき理解者がいるのだろうか。安心・安全な居場所を、現在、もてているのだろうか。


金澤寿靖さん(中学校3年)「笑顔で挨拶まずはそこから」
金澤さんの祖父は農作業の帰りに、駅でタバコの吸い殻を拾い、道端におかれている空き缶やペットボトルを拾っていた。
金澤さんが小学生のとき、いつものように駅を通りかかると、タバコを吸っている茶髪の高校生たちがいた。
祖父は吸い殻を拾い、「こんにちは」と笑顔で声をかけた。
次の日、同じように駅を通りかかると、タバコを吸っていた高校生が祖父の顔を見るなり、あわててタバコを消し、吸い殻を隠した。
祖父は「こんにちは」と声をかけたら、彼らはぺこりと頭を下げた。
驚いた金澤さんが祖父にたずねると、祖父はこのように答えた。
以前はタバコを吸ったり、ゴミを平気で捨てる高校生には厳しく注意をしていたが、注意すればするほどいたずらや迷惑行為が増えていった。
祖父が保護司をしている旧友に愚痴をこぼすと、旧友はこんな話をしてくれた。

非行や犯罪に走ってしまう若者は、自分を認めてもらう方法がわからない。自分の居場所がなく、自分を表現する方法を知らないのだ。そこから生まれるいらだちが、間違った道に進ませてしまう。そして一度非行や犯罪に手を染めてしまい、悪いレッテルをはられると、ますます社会に受け入れてもらえなくなる。反対なんだよ。そういう人こそ誰かが「受け入れて」「認めて」「赦して」あげないといけないんだ。

祖父は、みんなが嫌う子たちを見たら、受け止めてあげよう、居場所を作ってあげたいと思う、と語った。
中学生になった金澤さんがあらためて考えると、居場所を作ってもらっているのは祖父のほうではないか。

二人の文章を読み、永山則夫のまわりにも、こんな人たちがいたらと思いました。
それにしても、犯罪や非行を犯した人を地域が受け入れ、立ち直りに協力するという「社会を明るくする運動」を主唱している法務省が、その一方で、社会から究極的に排除する死刑制度を維持しているのはどういうことかと思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』(2)

2017年06月22日 | 

小山聡子『親鸞の信仰と呪術』の続きです。

・親鸞
① 呪術による病気治療
親鸞は、末法の世における自力による極楽往生は否定したものの、天台宗の呪術信仰を全面的に否定してもいない。
まして、天台宗教団に対して敵対的な姿勢や排他的姿勢などとってはいない。
したがって、その信仰を天台宗の信仰と完全に異質なものであると理解することには無理がある。
親鸞は、呪術をはじめとする自力の行の効果を真っ向から否定できる社会には生きていなかった。

『恵信尼文書』に、親鸞が衆生利益のために浄土三部経の千部読誦しようとしたことが書いてある。
親鸞が経典読誦による衆生利益の効果については否定していない。
あくまでも呪術による救済の限界を指摘しているのであり、呪術の効果そのものについては否定していなかった。

つまり、親鸞の信仰を、天台宗の信仰とは全く異質なものであると見なすことは正しくないことになる。
親鸞は、比叡山での20年間の習慣(経典読誦による病気治療、自力の念仏)を完全に捨て去ることはできなかった。
習慣として、呪術による病気治療が身についてしまっていたのである。

② 臨終行義
親鸞は、信心が定まった時に往生することも定まると主張している。
極楽往生のために臨終を待つことと来迎により往生することは、自力の行者にあてはまることだと説いている。
ところが、曇鸞と法然に臨終来迎があったことを和讃に書いている。

六十有七ときいたり  浄土の往生とげたまう そのとき霊瑞不思議にて  一切道俗帰敬しき(曇鸞は67歳で死亡したが、そのとき不思議な霊瑞があったので、僧侶も俗人もすべて教えに帰した)

「霊瑞」の左注に

れいすい(霊瑞)とはやうやう(様々)のめてたきことのけん(現)し ほとけ(仏)もみ(見)えなむとしたまうほとのことなり

と書かれている。
すなわち、「霊瑞」とは、来迎を指す。
親鸞は、曇鸞の臨終には来迎があったとする和讃を詠じたのである。

本師源空のおわりには  光明紫雲のごとくなり  音楽哀婉雅亮にて 異香みぎりに暎芳す(法然の臨終には、紫雲が覆うように光明があり、来迎の音楽が聞こえ、芳しい香気がただよった)

法然の臨終時に来迎があったという和讃を作っている。
源空和讃には生まれ変わりが書かれてあり、どういうことかと思います。

親鸞は、法然の教えと自身の教えが異なるとは考えていなかった。
当然のことながら、平生念仏を行う者の臨終時には必ず来迎があり、それにより正念となって極楽往生できるとする法然の教えを、親鸞は熟知していた。
親鸞は、臨終時の来迎という奇瑞を全面的に否定したのではないと考えられる。

そもそも親鸞は、他力の行者の臨終時には来迎がないとは述べていない。
他力の信心を得た者が来迎を期待することは無意味なことだ、と主張したのである。

東国の門弟たちから多くの異義がでたのは、門弟たちの理解不足だけでなく、親鸞には病気治療や臨終来迎などに論理の揺れがあったこと、教えが難解だったということもある。

・恵信尼
『恵信尼文書』によると、晩年、恵信尼は非常に困窮した生活を送っていたにもかかわらず、五重の石塔を建立しようとした。
恵信尼は、もし生前に石塔を建立することができなければ、子どもに建ててもらいたいという希望を持っていた。
これは追善供養のためである。
石塔の建立を切望する姿からは、恵信尼が自らの極楽往生を確信することができていなかったことをうかがえる。

自身の往生極楽に不安を抱いていたので、自分の後世、すなわち極楽往生を確実なものにしようとした恵信尼は、死装束についても気に掛けていた。
確実に来迎を得るためには、穢れた衣や着古した衣は適切ではなく、念入りに洗った浄衣や新調の晴れ着、もしくは極楽往生したと推定される人物の衣を身につけなくてはいけないと考えられていたので、恵信尼は阿弥陀仏の来迎を得ることができるよう死装束を用意していた。

もし、恵信尼が他力の信心を重要視し、他力の信心を得た者は正定聚の位にあると考えていたのであれば、五重の石塔や死装束について気に掛けることは全くなかったはずである。


恵信尼は親鸞と同一の信仰を持ってはいなかった。
恵信尼の念仏は、親鸞の念仏よりもむしろ法然のそれに近いといえる。

・覚如、存覚
本願寺を建立した覚如は如信の追善供養をしているし、妻や子供の存覚夫妻とともに四天王寺、住吉社に「密々」に参詣をしている。
たとえ彼らの著作物の中で他力の信心の重要性が強調されていても、実際の信仰が他力の信心を重んじるものであったとは必ずしもいえない。

思ったのが五木寛之氏のことで、親鸞についての著書はもっともなことが書かれていますが、他の著書を読むと、なんだ、これは、というものもあります。http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d5b236b2bb76f0103f76cdd20bafcbf8
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/09f225265a27e1d7ec9721712ed4d07e覚如や存覚も教えと自分の生活とに矛盾があることを気にかけていなかったのかもしれません。

呪術による病気治療を否定した法然や親鸞でさえも、呪術を用いて病気治療を行なっていた。また、臨終行儀は不要であるとした法然が、自身の臨終時には円仁の九条の袈裟をかけ、臨終のあり方にこだわりを持っていた。法然の門弟や親鸞の家族、子孫らにも、呪術による病気治療や臨終行儀を重んじていた形跡を認めることができる。

中世という時代は、呪術による利益を得ることが一般的であり、宗教にはそれこそが求められたのだから、そのような信仰を完全に排除することは無理である。
自力信仰と完全には決別しなかったからこそ、親鸞の教えは継承され、教団の拡大が実現したのである。

現代の感覚で親鸞像を作り上げるのは間違いだと思いました。
小山聰子氏の意見についてはどういう批判がされているのでしょうか。
小谷信千代師の親鸞の往生論についてはきちんとした反論はないと聞きますが。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』(1)

2017年06月18日 | 仏教

親鸞は呪術を否定しており、呪術とは関係ないと想ってたので、小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』は題名に興味をそそられ。『浄土真宗とは何か』と合わせて読みました。
親鸞やその家族、子孫の信仰と呪術信仰との関連、特に病気治療や臨終のあり方を中心に書かれた本です。

平安時代中期から鎌倉時代は、呪術への信仰が盛んな時代で、呪術は生活と密接に結びついていた。
親鸞が生きた時代には、経典読誦や念仏は呪術であり、それによって現世利益を期待し、さらには極楽往生できると考えることが当たり前であった。
ここでいう呪術とは、仏菩薩や神に由来する超自然的な力をもとに、求める現象を引き起こそうとする行為である。

物気(もののけ)をはじめとする不可視のものが跳梁し、病気の多くが物気や呪詛、神罰などによるものであると信じられていた。
物気とは、死者の霊であることが多い。
また、臨終のあり方によって極楽往生の可否が決まると信じられ、臨終の念仏が重視されていた。

・呪術による病気治療
貴族社会では、僧侶、医師、陰陽師によって病気治療が行われていた。
病人が出ると、まず陰陽師が呼ばれ、その原因を占う。
そして、原因が何かにより、僧侶、医師、陰陽師のうちからふさわしい者が病気治療にあたることになる。
原因が物気である場合には、主に僧侶が調伏を行い、神や呪詛である場合には主に陰陽師が祭や祓(はらえ)を行い、食中毒や風邪の場合には主に医師が投薬などによる治療にあたった。
投薬は、しばしば薬に加持を加えた上で行われていた。

僧侶は、病気治療の時に護摩を焚いて加持をし、物気を憑座(よりまし)に憑け、調伏する。
物気は憑座の口を借り、病気をもたらした理由などを話す。
その後、僧侶は物気を遠方に放つことにより、病気が完全に平癒する。

なぜ憑座は物気の言葉を語ることができたか。
なぜ病人や周囲にいる者たちは物気の声を聞くことができたか。
それは、護摩修法の時に、芥子や麻、附子などの毒物が供物として投じられたからである。
毒物の中には、麻や罌粟など、陶酔作用をもたらすものも含められていた。
護摩修法を行う僧侶のそば近くに憑座が侍らされており、護摩壇からの煙を吸入して恍惚とした状態になった。
病人も護摩の煙を吸うことで幻覚を見たはずであるし、気を失うこともあったであろう。
それによって、憑座は物気の言葉を語り、病人やその周囲にいた者たちは物気の声を聞くことができた。

・法然
親鸞の師である法然は、当時の常識であった呪術による病気治療や、臨終行儀の必要性を否定し、神仏への祈禱による治病には意味がないと説いた。
それなのに、法然は貴族からの依頼により、授戒による病気治療も行なっていた。

① 呪術による病気治療
九条兼実に招かれて、九条家の人々に授戒による医療行為を行なっている、
そして、法然が病に倒れた時には、弟子たちによって祈禱、すなわち呪術による病気治療が行われていた。

『法然上人伝記』にこんな話が記されている。
法然が瘧病を患った時、九条兼実は善導の御影を病床の法然の前に置いて供養したいといった。
聖覚も瘧病を患っていたが、法然の恩に報いるために、病をおして仏事を行なった。
すると、善導の御影から異香が薫ってきて、法然と聖覚の病気が治ってしまった。

② 臨終行義
臨終行儀についても、法然は臨終行儀を必要だとは考えておらず、平生時の念仏によって極楽への往生が定まる、としていた。
法然の臨終が近づくと、仏像と結んだ五色の糸を持つように弟子から勧められても断った。
ところが法然は、円仁の九条の袈裟をかけて息を引き取っている。
法然は、極楽往生を確実にするためにこのようなことをしたのだろう。
あくまでも天台僧として息を引き取ったのである。

要するに法然は、専修念仏の重要性を説き示し、神仏への祈禱による治病を否定する一方で、貴族の邸に出入りして病気治療の祈禱に携わる、というはなはだ矛盾した行ないをしていたのである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

青草民人「一期一会 一期一別」

2017年06月14日 | 青草民人のコラム

私の大変尊敬する先生が、この春、お浄土に帰られました。厳しくもあり、やさしくもあった先生でした。私はその先生から多くの教えをいただき、また私生活でも親しくさせていただきました。

忙しいという言葉を口実に、ご機嫌伺いもせず、半年が経ちました。年始に年賀状が来ないので心配していたところ、先輩の校長先生から「入院しているからお見舞いに行ってあげて」と言われました。これは大変だと思っていましたが、またもや忙しいという言葉を口実に、行かなければと思いつつ、だらだらと日を送ってしまい、ついに訃報を聞くことになってしまいました。


一期一会という言葉があります。茶道の言葉で、一生に一度しか会えないという気持ちでお客様をおもてなししなさいという意味だと聞いたことがあります。大切な人とのお別れも一生に一回だということを改めて感じました。


一期一別、後悔先に立たず、でした。葬儀には出席できても、もう一度お言葉を聞くことできません。


以前、友を癌で亡くした時は、言葉こそ交わせませんでしたが、生前に会うことができ、心静かにお見送りすることができました。
父を送った時は、心筋梗塞だったので、言葉を交わす間もなく、やはり、普段からもっと話をしておくべきだったと後悔しました。

忙しいと自分の都合を優先させて、大切な人との別れの時を失してしまうことは、無念なことだと思い知りました。父の葬儀の時、叔父が言った言葉を思い出しました。「死んでからいくら立派な葬式を出しても何にもならない。その人が生きているときに、何をしてあげたか、それが大切だ」と。

人の死は、残された私たちに多くの示唆を与えてくれます。故人を偲ぶということは、別れを惜しむという意味もありますが、その方の死から何を学ぶかということであると知らされます。

愛別離苦、愛しい人といつか別れなければいけない日が来ます。自分が先かもしれないし、相手が先かもしれません。一期一会、一期一別なのです。葬儀での恩師の遺影から、言葉にならない最後の教えをいただきました。

先生、ありがとうございました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加