Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

震災の悟り

2011年03月13日 | 一般

わたしは兵庫県出身なので、神戸の震災を経験しました。あのときも、「予想を超えた大地震」とマスコミは言っていました。当然、阪神淡路大震災の180倍とも言われるM9.0の東北沖大地震も「予想できない」とマスコミは言っています。

 
神戸の地震が都市直下型だったのに対し、今回は近海の浅いところで起きた地震で津波が主な脅威でした。宮城県では、わたしが生まれた1960年にも南米チリでのM9クラスの大地震が引き起こした大津波があって、定期的に防災訓練が行われていたそうです。だから、津波の警報に割合に敏感に反応されたのだろうと思います。しかしいかんせん、急な地震と津波が30分程度と早いうちにやってきたことが災いして、神戸の震災の数倍の生命が失われた予想が報道されています。

神戸の震災ごろから、日本は地震の活動期に入っていると言われるようになりました。それはほんとうなのだそうです。


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敗戦後の50年間が地震列島(日本)の一瞬の静穏期だったこと、この期間に戦後の復興と高度経済成長を経て日本の繁栄がもたらされた反面、本質的に地震に弱い国土と社会をつくってしまったこと、そしてこれから (この記述は1997年のもの) 地震活動期を迎える可能性が高いことを、はっきり認識する必要があります。この最悪のめぐり合わせは世界史的に皮肉と言ってもよいほどで、日本人の試練だと思います。




(「阪神・淡路大震災の教訓」/ 石橋克彦・著)

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…ということだそうです。このブックレットには「自然の摂理に逆らわない文化を築く必要がある」と説いています。これはたいへんに傾聴すべき意見なので、このブックレットは是非皆さんに読んでいただきたいのですが、どうも、マスコミはもちろん、日本の役人も政治家も、そしてわたしたち国民も、喉もとすぎれば忘れてしまうようです。

神戸の被害者であるわたしたちも、震災があった日はいっせいに黙祷などしますが、それは自分や同胞の、震災で亡くなった家族の回想に費やされてしまい、口先で「二度とこのようなことのないように」と言いながら、毎日の忙しさに流されてしまって、地震に強い文化を築こうという運動が行われているわけではありませんし、そんな意欲もありませんでした。

経済危機でニッチもサッチも行かなくなっているこの日本、経済的に行き詰っているのはむしろチャンスではないだろうかとも思ってしまいます。このまま一気に、「経済大国」の看板を下ろし、本気で「生活大国」の方向へ舵を切ることを、この際本気で考えましょうよ、みなさん。ベルギーやオランダやデンマーク、スエーデン、ノルウエー、フィンランドなどは決して経済大国ではありませんし、軍事大国でもありません。しかし、国民生活はとくに貧窮しているわけでもないのです。生活不安は日本や韓国ほど深刻ではないのです。これは21世紀の社会のあり方のひとつのモデルとなると思います。





神戸での震災の経験は、わたしの人生に大きな影響を与えました。宗教団体「エホバの証人」によるマインド・コントロールを脱することができたのは、「量子論」の一般向け啓蒙書によるカルチャー・ショックと、大地震の経験から悟ったことがあったからです。

神戸の地震で悟ったこととは、
 「人間の愚かさ」とは、変化を受け入れようとしないこと、
 とくにものごとはすべからく「無」へ向かって変化している、
  …ということから目を背けようとすることだ。

わたしたちの今生きている「生」、生活、食べることや働くこと、楽しむことなどの命の営みはいつまでも続くものじゃないということ、いつもわたしたちの後ろには、「死」が大口を開けているということから目をそらしてはならないのです。

わたしたちの今生きているこの命、今楽しんでいるセックス、食事、会話、スポーツ、遊興のすべては不確実なのです。ですから楽しんでいる今この一瞬を精いっぱい楽しむべきなのです。エホバの証人が軽蔑していた生き方、「食べたり飲んだりしよう、明日は死ぬのだから」という気持ちで、今この一瞬を邪心なく、無邪気に楽しみ、楽しむことに専念すること、それが人間の人生の意味のすべてなのだということです。

わたしは聖書という本では、二つの書だけは今でも評価しています、ひとつはヨブ記、もうひとつは「伝道の書」です。伝道の書にこう書かれていることこそ、人間が生きることの意味に関して「真理」だと、あえて断言します。

さあ、歓んであなたのパンを食べ、
 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れてくださる。
 どのようなときも純白の衣を着て(=神に対して後ろ暗さのない道徳的ふるまいを保て、くらいの意)、
 頭には香油を絶やすな(=神への崇拝を忘れないように、ていどの意)、
太陽の下、与えられたむなしい人生 (=いつかは死ななければならないから、という意味で「むなしい」) の日々、
 愛する妻とともに楽しく生きるがよい。
それが人生と、太陽の下で労苦するあなたのその労苦に対する報酬なのだ。
(伝道の書9:7-9/ 新共同訳)

さあ、なんとなく生きているそこのあなた、インターネットでウヨクサヨクしているそこのキミ。ほんとうにやりたいことは、ネットで暴れることかな?



好きなカレシ・カノジョに告白しようと思うがなかなかできない?
明日に後回ししようって?
明日はもうないかもよ。
ぐずぐずするな。
人生を楽しむことに関しては、遠慮も要らない、大胆に追い求めなさい。
そして、人生を楽しませるものは、ずるいことではなく、人を蹴落とすことでもなく、
人と共存共栄することなのだ…!

これが、震災を経験したわたしの「悟り」なのです。
そしてこれは、お釈迦さまの前でも、イエスの前でも、マリアさまの前でも、アラーの前でも、
堂々と胸を張って言える、わたしの「悟り」です。



コメント (1)
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