Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

アメリカに押しつけられる日本の政治

2007年05月27日 | 一般
今日のニュースによると、自民党の中からも、改憲を参院選の争点にすることに慎重な発言があることが伝えられていました。しかし、国民の意識はそんなに重大なことと受けとめてはいないようです。「60年経ったからそろそろいいんじゃないか」、「古い上着は入れ替えてもいい」と歌の詩のようなことばで受け答えする人がいるのも事実です。9条を変えたからといってそれで戦争ができる国になるとは思えない、という人もいます。

牧歌的だなあ、日本人は。つくづくそう思います。今月は憲法一色のエントリーばかりでしたが、日本の政治を操作するアメリカの思惑を書いた記事を紹介したいと思います。改憲ももちろんこの「アメリカの思惑」に含まれているのです。「アメリカの日本への思惑」は「アーミテージ報告」という文書で露骨に言い表されています。引用してみます。




「『第1次アーミテージ報告(2000年10月)』では、ブッシュ政権の対日指令のほぼすべてが盛り込まれていた」(「改憲を迫る米国の強圧」/ 本山美彦/ 「自然と人間」2007年5月号より)。

具体的には以下の諸事項があげられています。

1.
政治に関しては、政・財・官を結ぶ「鉄の三角形」を打破すべきであることを強調。

2.
安全保障に関しては、集団的自衛権を認めていないのは、日米同盟にとっての制約である。「日米防衛協力指針(ガイドライン)」は上限ではなく、下限(基盤)である。そのためにも「有事法制」を完成させるべき。ほかに、防衛産業面で日米が協力すること、MD(ミサイル防衛)でも両国は協力しなければならない。

3.
沖縄については、地勢的に依然として重要である。「日米特別行動委員会」合意に基づいて米軍基地の再編、統合、縮小を行うことが打出されているが同時に、アジア・太平洋地域への迅速かつ効率的に海兵隊が展開できる体制を整備すべき。

4.
諜報については、日米間の諜報能力の統合をめざす。その際、日本は日本固有の諜報能力を強化しなければならない。具体的には、諜報活動を合法化する立法の必要性がある。諜報活動の資金分担の均衡も日本に要求する。

5.
経済協力については、市場開放、グローバル化に民間部門が対応すること、規制緩和、貿易障壁の撤廃、経済の透明性を確保すること。日本はなかなかこの問題の解決に対応してくれなかったとして、次のような裏話を『第1次報告』は漏らしていた。

---------------------------

業を煮やした歴代の米政権は、さまざまな通商政策のオプションを練り上げ、作り替え、日本政府がこれらを採択するように促してきた。(第1時アーミテージ報告)

***

何のことはない。米国の指令どおりに日本政府が動いてきたという国内からの批判に対して、日本政府は断固として否定してきた。しかし、このレポートは、米国政権がこれまでずっと日本政府に圧力をかけ続けてきたことを公然と漏らしていたのである。

ブッシュ・小泉政権下での「日米投資イニシアティブ」は、このレポートの要求の具体化であった。さらに、日本の労働者は「いごこちのよい終身雇用」の享受を止めるべきである、とまで「指令」されている。IT に関しては、それが規制緩和とビジネスの柔軟性をもたらすという位置づけが行われていた。

***

6.
外交に関しては、米国のアジアにおけるポジションを日本政府は支持すべきである、とした上で、日本が国連安保理常任理事国になる条件として、国際的な「集団安全保障上の義務を果たさねばならない」と「指令」していた。

こうした6つの分野への干渉以外に打ち出された事項を列挙しておこう。
銀行問題の処理、
財政金融刺激政策の継続、
橋・トンネル・高速鉄道建設の見直し、
会計制度の変更、
自由貿易協定をシンガポールだけでなく、韓国・カナダ・米国にも広げること、
農業保護の見直し、
ロシアの天然資源開発への協力、
インドネシア支援、等々である。


(同上)

---------------------------

どうです、21世紀に入って、日本政府が行ってきた重要政策、法制定はみなこのなかに含まれているではありませんか。ため息が出ます。わたしたちって、いったいなんなんだろう。アメリカ人は19世紀にはアフリカ人を奴隷として買い付けて、使用していました。アメリカ人の意識の最も深いところでは、異民族、異人種、異宗教の人間観はまったく変わっていないんでしょうね、きっと。現行憲法がアメリカの押しつけだと騒ぐ前に、今現在の政策自体がアメリカの押しつけなんです。どうしてこのことにみんなもっと騒ごうとしないんでしょう。日本政府の現状とアフガニスタンの政府とどこがどう違うんでしょう。アメリカの傀儡同然じゃないですか。アメリカの軍事産業と政府のコングロマリットのための、日本は下請けなのでしょうか。こんな政治を続ける安倍自民党こそ売国奴だと罵倒されるべきではないでしょうか。

2007年2月に、今度は「第2次アーミテージ報告」が発表されたそうです。引用記事によると、「元駐レバノン大使・天木直人氏がとりあえずの評価だが、と断られた上で、『第2次アーミテージ報告』は、「日米安保条約の米国からの事実上の決別宣言である、と発言された。その根拠を同氏は2つ示している」。

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ひとつは、アジアの共産主義を防ぐことが目指されていた日米安保ではなく、米・日・中の調整によるアジア安全保障の構築を米国が考え始めていること、もうひとつは、自主防衛を目指した兵力充実、憲法改正、集団的自衛権の承認に踏み込もうとしている日本政府の動きを米国が歓迎していること、がそれである。

確かに、日米同盟のみを重視すれば、日米ともにアジアで孤立するといった認識が報告では示されている。アジア全体の安全保障を確保するためにも、「日本は自主防衛に責任を持つべきだ」と報告では書かれている。そのためにも、「日本は憲法問題を解決」しなければならないと指摘されている。

天木氏も危惧されているように、この報告を日本政府は、神の座に据えるのだろうか。


(同上)

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第2次報告は、アーミテージ自身はもちろん、グリーン前国家安全保障会議アジア上級部長といった、日本の財界に太いパイプを持つ人びとが作成に関与しているので、米国は必ず、この報告の内容に沿った対日圧力をかけてくるだろう、と筆者は見ておられます。その内訳の一部を以下のように紹介しておられます。

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日本の防衛費の増額要求。
「日本の総防衛費は世界で5番目であるが、対GDP比では134番目にすぎない。米国はなるべく早く、F22のような飛行連隊を日本に配置すべきだし、日本の航空自衛隊が、米国の最新鋭の戦闘機を導入するように図るべきである(同報告より)」と書かれている。

防衛庁時代には、独自の予算編成ができなかったが、「省」に昇格した防衛省は、首相を通さずに予算要求ができる。日本の防衛予算は、増額の一途をたどるであろう。高額の米国製最新鋭戦闘機、ミサイル、艦船を買わされるために。米国の軍産複合体にとって、日本はますますおいしい市場になるのである。

これまでの日米安保体制は、日本の軍事的強化を抑制する側面を持っていた。しかし、自主防衛を促し、憲法改訂までも示唆した今回の報告によって、日本はあたかも米国第51番目の州であるかのように、軍事活動を米国のために提供する義務を負うことになるであろう。

報告が、2020年以降も朝鮮民主主義人民共和国が核兵器を開発し続けることの可能性を指摘し、「核問題は朝鮮半島の統一でしか解決できない可能性が高まっている」と叙述したことは、北東アジアでの軍事的緊張に日本の軍隊が対応すべきであることを示唆したものであろう。


(同上)

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21世紀に入ってこれまで、福祉・医療が効率重視に組み替えられ、国民の負担が増えてきていますし、増税も視野に入れられています。こうしたことが軍事費捻出を目しているとは、目の黒い多くの人びとが指摘してきたことですが、これからも確実に国民のための予算は削減され続けることが予測されます。防衛「省」昇格に見られるとおり、日本政府は確実にアメリカの要求どおりに政策を進めてきています。わたしたち国民はもはや感情にしたがって投票を行っているときではないのです。自分たちの生活が際限なく切り詰められてゆくのです。

第2次アーミテージ報告はさらに、アジアにおける市場支配をももくろみ、次のように指令を出しています。

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そうした軍事的な強化を促す一方で、報告には、APEC 重視の姿勢が見られる。2010年の日本でのAPEC 首脳会議の開催準備まで訴えているのである。これは日本やASEAN 主導下の東アジア共同体を牽制する意味である。APEC 中心のアジア編成を米国が日本に要求しているのである。おそらく米国は、中国を米国経済圏に組み込む決断をしたのであろう。就任後、まっ先に安倍首相が訪中したのは、そうした米国の対中戦略転換を反映したものだったのだろう。



この報告を梃子に、日米の「経済統合協定(EIA)」締結、憲法改訂と日本の自主的防衛力の増強を前提とした日米軍事同盟の強化が、安倍政権に突きつけられた米国の強硬な対日要求となることはまずまちがいない。


(同上)

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一般の、とくに若年層にみられる憲法改正賛成論者には、憲法に「日本の伝統色」をもっと明確に盛り込むべきといったような、牧歌的なイメージが持たれているようですが、米国が日本についてもくろんでいることは、もっと実利的で、もっと戦闘的な色合いのものです。わたしたちは今こそ、日本の自主統治、国民の真の益を考慮に入れた施政することと、国民の意識を形成を急がなければならないと、この記事を読んで、わたしはつくづくそう思いました。




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「憲法でこそ平和は守れる」

2007年05月27日 | トリビア
トリビア5




地方の「9条の会」に参加してみると、まだ年配者が優勢で、若い方々の関心が低いように感じられます。私自身も大学教員として、日本国憲法の問題が若い人たちに端的に伝わるように話しかけていく必要があると思っています。

その点で私は、「憲法守る」ではなく、「憲法守る」という言い方をしています。「憲法を守る」というと、「そんなことで日本の安全は守れるのか」と右翼的な人びとから攻撃されます。

それに対して、「日本国憲法の不戦平和主義でこそ、日本の平和と安全は豊かに守られる」と積極的に主張し、日本の安全保障政策をこの考えのもとに組み立てなおすべきだと主張しています。

最近の講演などで、もし安斎育郎(筆者)が内閣総理大臣になったらこうする、という安斎育郎の安全保障政策を「施政方針演説」として発表しています。

その内容は、今ある憲法を守れというのではなくて、憲法でこそ日本の平和と安全は守れる、我々の生きる将来が守られるというところに力点を置いて、積極的に打って出るべきだと言っています。

それが若者たちに理解してもらえていると感じています。


(「改憲論にダマされないために」/ 安斎育郎/ 「自然と人間」2007年5月号より)

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いい視点だな、とおおいにわたしは感心しました。憲法は神棚の飾りではないのです。現にこれまでは、憲法は神棚の飾りでしかなかったわけです、日本では。

たとえば、過重労働でうつ病に追い込まれ、年間何万人という人が自殺する、でも労働基準法を主張すると、クビにされるのが怖いからいいなりになっている、これは明らかに人権侵害です。憲法を活かして、労働者の人間としての尊厳を守るべく、主張するべきなのです。

たとえば、イラク人民への支援なら、なぜ自衛隊という武装した人びとが行かなければならないのか。非戦闘区域で働くというのであれば、民間の活動でも同じかそれ以上の効率でできるのです。なぜ憲法解釈を強引に変更し、または憲法にそぐわない法律をつくってまで、自衛隊が外国へ行くのか。(*1)

(*1)
日本国憲法98条:
この憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

この憲法98条を活用すれば、「改正」教育基本法もイラク特措法も無効にできるんじゃないのかなあ…。(法律に詳しい方がもしこのブログをご覧になってくださっていたら、教えていただけないものでしょうか…)

憲法はもっと活用するべきだと、断然思っちゃいます…。

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戦争責任抹消のための日本政府の工作(下)

2007年05月20日 | 一般
(つづき)


キーワードは「外国人エージェント」だった。ここから、1938年「外国人代理人登録法(略称 FARA)」と、それに基づいた登録書の記録を見つけることは難しくなかった。このFARAについては、法務省が作成したQ&Aから簡単に紹介すると次のようになる。

***

FARAの目的は、アメリカ国民とアメリカの立法者が世論、政策、そして法律を動かそうと意図した情報や(宣伝)活動の源を確実に知ることができるようにすることである。

代理人とは、外国人当事者の命令、要求、指示、管理下で行動する個人あるいは組織である。

この法は外国人当事者のすべての代理人に、司法省に登録し、外国人当事者との合意、そこからの収入と外国人当事者のための支出を概説する書式を提出することを要求する。

代理人はすべての活動の記録を取り、司法長官の検査を許可しなければならない。

これらの書式は公開文書であり、6ヵ月ごとに補足されなければならない。代理人になることに合意して10日以内、活動を始める前に登録しなければならない。成功報酬の契約をしてはならない。これに違反する者は刑事罰に処される。

***

司法省(http://www.usdoj.gov./criminal/fara/)のウェブサイトにたどり着けさえすれば記録は簡単に見つかる。1997年から2005年までの登録書が全部、そのまま保存されているからである。…最新の2005年後半の記録を検索してみると、日本国籍の外国人当事者つまり顧客は202件あり、日本大使館を顧客にしたロビイストは6社あり、日本政府を顧客にしたロビイストは14社あった。問題のボブ・ミッチェルがシニア・パートナーをしているホーガン&ハートソン社を例に書式を見てみよう。

***

ホーガン&ハートソン、LLP(有限責任事業)

登録番号:2244

555 13番通、北西 コロンビア・スクエア、ワシントンDC 20004-1109

日本政府

業務の性質:法務サービスなど / ロビイング
登録者は外国人当事者に米国の法律、規則と米政府機関の政策並びに活動で、外国人当事者の活動や利益に影響を与え、あるいは関連するかもしれないものについてアドバイスを与え、代表する。それには日本政府と、あるいは日本企業を含む日本国民に関する米政府の立場、活動並びに立法が含まれる。登録者は米日関係あるいは1951年対日サンフランシスコ平和条約に関連して米政府高官に接触する。

2005年8月31日までの6ヶ月間に受け取った額:35万8903ドル8セント(日本円で、4204万5496円)。

***

そこで(筆者は)1997年から2005年までの記録全部のなかから、業務の性質の項目にロビイングを含む登録者6社が、日本政府と日本大使館のために働いた事例をすべて集めて表をつくった。合計の報酬(あるいは支出)を数字で見ると表にするとこうなる。

***

1997年       417万3321.5 円  $35,560.00
1998年       315万1702.75円  $26,855.00 
1999年       453万1269.5 円  $38,610.00
2000年       681万3854.5 円  $58,010.00
2001年      2727万4172   円  $232,199.66
2002年    2億5273万1936   円  $2,151,642.59
2003年    1億8647万5184   円  $1,588,916.03
2004年    1億 609万8920   円  $904,046.67
2005年    1億2133万4848   円  $1,033,868.86

***

2000年から2001年にかけて約4倍に増え、2001年から2002年にかけて9倍増し、2002年がピ-クだが、数字が過去6か月分の報酬を示すので、2001年の1年間に最高額が支出されたと見るべきである。その後2005年まで1億の大台を超えた水準を維持している。

では2001年に何が起こったのか。

それはカリフォルニア州で強制労働などの戦争犯罪の時効延長に関する法律が、1999年に成立したことに伴い、フィリピン人、韓国人、中国人強制労働被害者が起こした賠償訴訟と時を同じくして、レスター・テニー氏をはじめとする「バターン死の行進」と強制労働の生存被害者が三井、三菱、日鉄などの日本企業を相手取って集団訴訟を起こした。

サンフランシスコ平和条約に関連する法律的な問題をクリアし、その訴訟を支援しようとする法案をはじめ、多数の法案が上下院に上程された。日本政府はこれを危機と受けとめ、新たに大物、また熟練のロビイストを巨額の報酬を支払って雇ったのである。

そのことはヘクト・スペンサー社の登録で明らかである。仕事の内容について同社は次のように詳細に述べている。

***

登録者は、企業を含む日本人に対する請求についての米政府の立場、アクションおよび立法に関して、外国人当事者に政府関係者並びに政治的コンサルタンティング・サービスを提供した。

登録者は「2001年米軍捕虜の正義」と呼ばれる法案 H.R.1198 と S.1154 に反対するため、政府関係者と接触した。その際、登録者はそれらに関連して S.1272 (2001年捕虜支援法)、 H.R.2835 (第二次大戦中に奴隷労働を強制された米軍兵士と民間従業員に対して補償を支払うことを許可する立法)と、 H.R.5235 (2002年元捕虜特別補償法)並びに1951年サンフランシスコ講和条約をも取り扱った。

登録者の活動は、日本政府の利益に影響するかもしれない立法と、行政機関および米政府機関のアクションに関して、現在と元政府職員、議員、議会スタッフとのコミュニケーションを含んでいた」

***

-と、2003年2月までの6ヶ月の活動で報告している。この間にホーガン&ハートソン社とヘクト・スペンサー社が申請した報酬は下記のとおりである。

***

2002年前半(02年2月28日まで)  ヘクト $200,871.00 (2350万1907円)
                      ホーガン$1,202,950.64(1億4074万5150円)

2002年後半(02年8月31日まで)  ヘクト $180,000.00 (2106万円)
                      ホーガン $471,290.10(5514万941円70銭)

2003年前半(03年2月28日まで)  ヘクト $282,810.49(3308万8827円33銭)
                      ホーガン $598,726.24(7005万970円8銭)

2003年後半(03年8月31日まで)  ヘクト $211,091.26(2469万7677円42銭)
                      ホーガン $384,258.77(4495万8276円9銭)

2004年前半(04年2月28日まで)  ヘクト $160,895.77(1882万4805円9銭)
                      ホーガン $316,585.25(3704万474円25銭)

2004年後半(04年8月31日まで)  ヘクト $151,481.43(1772万3327円31銭)
                      ホーガン$217,584.22(2545万7353円74銭)

2005年前半(05年2月28日まで)  ヘクト $150,000.00(1755万円)
                      ホーガン $373,065.78(4364万8696円26銭)

2005年後半(05年8月31日まで)  ヘクト $100,000.00(1170万円)
                      ホーガン $358,903.08(4199万1660円36銭)

***

…というわけで、ハーパーズ誌が明らかにしたことは2001年から始まった日本政府のロビイスト頼みの対米外交政策の一部に過ぎないことがわかった。しかし筆者の調査では、もう一人のロビイストであるトム・フォーリーと日本政府との記録は見つからなかった。そこでこれまたもう一つのロビー活動監視法である Lobbying Disclosure Act of 1995 にアクセスしたが、同社が多数の日本企業のロビー活動をしていることはわかったが、顧客になかに日本大使館も日本政府も見当たらなかった。それが見つかれば、日本政府がロビイストに使ったお金はもっと大きくなるかもしれない。

まだ調査が完全ではないので、結論を出すことは控えておく。またこの費用が常識的な額なのかどうかも筆者には判断ができないが、少なくとも、日本大使館が以前に雇っていた多様なエージェントに支払っていた、6ヶ月間で1万ドル内外の報酬と比較すれば非常に高額のように思える。

また他の諸外国政府がロビイストを使うやり方が観光促進、貿易促進、広告活動であるのに対し、日本政府は米国の政策に、しかも身体障害者となった元捕虜救済のための法律を潰すためにロビイストを雇ったことを知ったのは、たいへん後味が悪く、つらく、悲しいことであった。そして今、日本政府が最後の砦のようにすがっているサンフランシスコ条約の正義も、実はカネで買ったものではないのかと疑わしく思えてきた。

だが、この大物ロビイストが万能ではないことが、今回証明された。それは再び、日本国首相の言動である。安倍首相の「強制連行の証拠はない」、「決議案が可決されても絶対に謝罪しない」などの発言は、慰安婦問題をたぶん、日本と韓国の問題と思われたものから、世界の問題へと発展させ、世界各国からごうごうたる非難の声が沸き起こったのだ。ホンダ議員がサンフランシスコ紙に語ったように、「安倍首相は、矛盾している発言を通じてわれわれのために何にもまして大きな貢献をしてくれたのだ」のである。


(「『慰安婦』決議と日本の戦争責任をめぐる米議会での攻防」/ 安原桂子/ 「中帰連」2007年 40号より)

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わたしは以前、エホバの証人というカルト的な宗教で、いちおう聖書を定期的に読んでいたんですけれどね、その聖書に、こんなことばがあるんです。

「偽善者なる書士とパリサイ人たち、あなた方は杯と皿の外側は清めますが、その内側は強奪と節度のなさとに満ちています。盲目のパリサイ人たちよ、杯と皿の内側をまず清め、それによって外側も清くなるようにしなさい。

偽善者である書士とパリサイ人たち、あなた方は白く塗った墓に似ています。それは、なるほど外面はなるほど美しく見えますが、内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。

そのように、あなた方もまた、確かに外面では義にかなった人と映りますが、内側は偽善と不法でいっぱいです(マタイ伝23:25-28)」。

日本の、今主流の国粋主義者たちは、なんとかして歴史の汚点を、教科書や記録から抹消しようとしているようです。南京虐殺事件はなかったとか、慰安婦には政府と軍は関与していないとか、沖縄で、軍が住民に捕虜となるより自決するように強制した事実はないとか。彼らの言動を聞いていると、「日本」という概念を、つまり自分たちの自尊心のよりどころとして受けとめていて、そのよりどころである「日本」を神聖で汚れのないものにしたい、という動機が強いように思います。安倍首相の著作にあるように、「日本」の美しさを、歴史を修正することによって実現しようとしているのでしょう。そして、秩序の回復と人心の結束を、かつてのように強力な国家権力によって取り戻そうとしているようです。

でもね、上記のイエスのことばにあるようにね、そういうのって、外側だけ取り繕うことなんですよ。イエスはね、そうじゃなくって、まず「内側」をきれいにして、それによって外から見てきれいになるようにするのが本筋だと言うんです。わたしはいまは無神論者ですから、なにもここでキリスト教の伝道をしようというんじゃないんです。

ただ、歴史を修正しても、日本は決して「美しく」はならない、ということです。そういうごまかしでは必ずどこかにしわ寄せが集中することになります。むしろ、過去の過ちと正面から向き合い、過去から教訓を得、それを現在と将来に活かしていくことが、真に「日本」を「美しい」ものにしていくと思います、いえ、思いますじゃなく、そうなんです。以前の教訓とは、秩序は権力で押しつけることではなく、個々人の自発的な教養によって、下から築き上げてゆくものだ、ということです。憲法はそうする責任を国民一人ひとりにゆだねています。


憲法12条:
この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

同97条:
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この憲法が公布された年に、「青い山脈」という小説が発表されました。そのなかに、ヒロインによるこんなせりふがあります。

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で、雪子は、気分の転換をはかるために、チョークをとって、黒板に大きく、

国家
家    VS. 個人
学校

と書いて、生徒の目をそれにひきつけた。

「いいですか。日本人のこれまでの暮らしの中で、一番間違っていたことは、全体のために個人の自由な意志や人格を犠牲にしておったということです。

学校のためにという名目で、下級生や同級生に対して不当な圧迫干渉を加える。家のためという考え方で、家族個々の人格を束縛する。国家のためという名目で、国民をむりやりに一つの型にはめこもうとする。

それもほんとに、全体のためを考えてやるのならいいんですが、実際は一部の人びとが、自分たちの野心や利欲を満たすためにやってることが多かったのです…(以下略)…。」


(「青い山脈」/ 石坂洋次郎・作)

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今の日本の舵取りは、国民をむりやり一つの型にはめ込もうとすることです。国民の心を一致結束させなければならないどんな思惑があるというのでしょう。少なくとも、今の国民の暮らしを眺めてみると、それは個人個人の自由な意志や人格を尊重しようというものではありません。それどころか、今や「下流社会」に落とされた人々には生存権さえ剥奪されつつあるのです。そしてその「下流社会」というのは一部の人たちだけの不遇ではなく、今や大多数の人びとがそこに数えられることになる階層なのです。反動的な「識者」たちはみな、そこには無縁の人たちです。お金と地位はありますが、おそらく自己肯定感が、つまり自分自身への確信が持てない人びとです。お金や地位があるから自分には値打ちがあるとしか考えられない人たちなのです。エホバの証人の指導者と同じです。

そんな人たちの個人的な必要である「国家主義」の言説に踊らされてはならないのです。人間はみな貴重なのです。生まれてきたことで、生きていることで、尊重される理由となるのです。たとえ日本がついに倒産するとしても、それで自分自身の価値までが倒産することはないのです。しかし、「上からの押しつけ」や虐待やネグレクトなどの人格の否定などのしつけにより、現在の日本人は多くが、その「自己肯定感」が育てられませんでした。そこに最終的な問題があると、わたしは思うのです。自分自身に価値が見出せないため、代わりに財産や名声を追い求め、それらを得られなかった人たちは、国家主義によって自尊心を確立させようとします。

自分がだまされて、何百人の兵隊の性的な道具にされたことを想像してみてください。会社や学校でいじめられ、追い詰められてバカなことをするようになり、それが周囲から、「自分でやったことだから自己責任だ」と言われることの情けなさを想像してみてください。自分は巧妙に追い詰められているんだ、と主張しても、周囲はみんな権力のあるほうの側につく、そんな場面に自分を置いてみてください。「トリビア4」で書きましたが、わたしたちはいま、そういう想像力を失っているのです。でも、人間らしさは取り戻せます。なぜって、わたしたちは人間だから。

日本政府はなぜ、「また他の諸外国政府がロビイストを使うやり方が観光促進、貿易促進、広告活動であるのに対し、日本政府は米国の政策に、しかも身体障害者となった元捕虜救済のための法律を潰すためにロビイストを雇う」ようなことをするのでしょうか。高額の費用を支払ってエージェントを雇い、ここまで必死になって責任を逃れようとするのはどうしてでしょうか。聖書には「邪悪な者は追っ手がいないのに逃げる。が、義なる者は確信に満ちたライオンのようだ」という格言が載せられています(箴言28:1)。今、起きていることを率直に見てください。これはほんとうに非難されるいわれのない「確信に満ちた」「美しい」日本国民の姿に見えますか。それとも、「追っ手がいないのに逃げる」ような、後ろめたさにつきまとわれているからでしょうか。それが日本を愛することなのでしょうか。わたしには、それはむしろ「日本」を侮辱し、「日本」に恥の上塗りをしているようにしか見えません。    






(*1)バターン死の行進:
旧日本陸軍によって実行された、アメリカとフィリピン軍将兵に対する捕虜虐待事件。1942年4月に、アメリカ=フィリピン軍は日本に降伏した。両軍捕虜を捕虜収容所ね連行するのに、日本軍は捕虜たちを徒歩で移動させた。その距離おおよそ100キロメートル。日本軍は食料やトラックを用意が十分にできなかったので、アメリカ軍とフィリピン軍の捕虜たちは歩かされた。おおよそ7万人近い捕虜たちのうち、生きて捕虜収容所にたどりつけたのは5万4千人。

(*2)サンフランシスコ条約14条(b)項:
「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国およびその国民がとった行動から生じた連合国およびその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」、となっている。

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戦争責任抹消のための日本政府の工作(上)

2007年05月20日 | 一般
マイク・ホンダ下院議員による「慰安婦」補償決議案提出は、日本のマスコミに大きく取り上げられました。それをめぐって、「Will」などの超反動系雑誌などは、ホンダ議員の人格攻撃などに走りました。

中帰連」という雑誌があります。かなりマイナーな雑誌なのですが、わたしがたまたま通ったある開業医院に置いてありました。「中国帰還者連絡会」というグループがあるようでして、教科書問題に触発され、歴史改ざんへの動きに抵抗しようとして、中国における日本軍と日本政府の行ってきたことを証言すべく、1997年に創刊された雑誌である、と「発刊の趣旨」には書かれています。

わたしは医院の先生にお願いして、まだ新しい雑誌でしたが、きれいに使いますからと食い下がって、お借りしました。このなかにとても興味のある記事があったのです。例のアメリカ議会による、「慰安婦」決議案上程問題に関する記事です。

これは自分のブログでお知らせしたいと思いました。わたしは議論が下手なのですが、議論の上手な方々に重要な資料として提供したいと思いました。ぜひお読みになってください。そして、安倍内閣の本性をひろく国民に知らせていただきたいです。

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米議会では、日本の戦争責任を追及しようとする議員が長年活動している。その主流は元米兵で、フィリピンの “バターン死の行進” などを経験し、その後も日本などで過酷な強制労働の苦汁をなめた生存者たちに補償をさせよう獲得させようという、いわば主権者米国民の利益を守るための動きだ。

これに対して、米国民には直接関係ないはずの「慰安婦」問題について、その被害者たちへの補償を求める決議を上程しようと努力する議員がいる。インターネット上の法案情報THOMASによれば、現在までに6回の決議案が提出されている。(下記表を参照)

***

決議番号          提出日    共同提案議員数
1.H.CON.RES.126    7-25-1997    78名
2.H.CON.RES.195    7-24-2001    27名
3.H.CON.RES.226    6-23-2003    32名
4.H.CON.RES.68     2-16-2005    15名
5.H.RES.759       4-4-2006     58名
6.H.RES.121       1-31-2007     42名

***

リストの一番目に載せた1997年のウィリアム・リビンスキ議員が上程した決議案(H.CON.RES126: 「H.」は「House」=下院を意味し、「CON.」は「Concurrent」=意見などが一致した、という意の形容詞、「RES.」は「Resolution」=決議、決議案の意。「CON.RES.」で「同一決議」つまり上下院同一決議の意) の内容は広範に渡り、捕虜虐待、細菌戦、731部隊の生体実験、南京虐殺、性奴隷、強制連行、強制労働、グアム島占領の際の犯罪行為などの日本の戦争犯罪について曖昧でない謝罪をし、賠償せよというもので、特に「性奴隷」の被害者には少なくとも4万ドル(450万円余り)の補償をせよ、とある。

リストの2~5に挙げている2001年から2006年までの4本はすべて下院議員レーン・エヴァンスの提出したもので、「6」の最新の決議の提唱者は日系アメリカ人下院議員マイク・ホンダ議員である。

決議番号を見ると、1~4は「H.CON.RES.」だが、5と6の決議案は「H.RES.」となっていて、短い。この違いは、「CON」がつくと、下院と上院の両院の同意を得なければならないが、「H.RES.」だけだと、下院だけ通れば決議として成立するところにある。ただし、拘束力がなくて、弱い。

両院決議では3回とも小委員会レベルでの採択さえも実現できなかったエヴァンス議員は、パーキンソン病に苦しみ、目前に迫った引退前にどうしてもこの決議を成立させたくて、拘束力は弱くとも、通りやすい「決議」の形をとることにした。

その法案は、日本に対して、「慰安婦」と呼ばれる性奴隷に対する全面的な責任を正式に認め、そして受け入れるよう、またその犯罪を否定するような、たとえば学校の教科書から「慰安婦」についての言及を削除するといったことをやめるように求めたものである。




このように長年にわたって「慰安婦」決議案が上程されていたにもかかわらず、それは日本でも米国でもほとんど無視され、マスコミ報道もなかった。…(中略)…ところが、インターネット上で見つけた2006年10月5日付の『ハーパーズ・マガジン』の記事で、俄然、この決議案の人間くさい側面が見えてきた。ケン・シルバースタイン記者によると、「慰安婦」上程の背景には韓国系アメリカ人の圧力があるが、日本はこれまで決議採択の試みを阻むことに成功してきた、という。妨害できたいくつかの要因として、日本政府が豊富な資金を使って大物ロビイストを雇ったことや、ブッシュ政権が「慰安婦」決議の成立を阻むために陰で助力したことがあげられる。

アジア政策ポイント所長ミンディー・コトラー氏によれば、アメリカ政府は日本の存在を、将来的にアメリカに敵対する可能性のある中国政権への重要な防波堤と見なしていて、貿易論争であれ、「慰安婦」問題であれ、日本人が邪魔だと考える問題はなんでも、日米同盟を守るために、取り上げないことにしているという。

さらにシルバースタイン記者は続ける。

「 “H.RES.759” 決議案は国際関係委員会に送られ、すぐに共同提案者を獲得し、日本政府をあわてさせた。そこでワシントン・ロビイストでもあり、38年間のイリノイ州選出下院議員歴を持つ (共和党院内総務を14年間務めた) ホーガン&ハートソン社主席のボブ・ミッチェル氏が登場する。日本政府はこの会社に一ヶ月約6万ドルを支払って、第二次世界大戦に関連した歴史問題を専門にロビー活動をさせている。その問題には、日本軍によるアメリカ人捕虜の虐待や奴隷労働についての訴訟を含む」。

このボブ・ミッチェル氏の影響力の強さは、国際関係委員会議長ヘンリー・ハイド議員が説得されたという事実で実証される。彼の使った論理とは、「『慰安婦』決議の採択は日米関係に壊滅的影響を与える」や、「『慰安婦』問題は60年前の昔の話、過去のことは水に流そう」といったものだった。この後者の言説の変形はILO (国際労働機関) でも使われて、第二次大戦の経験のない人たちに対しては効果的だったので、筆者らもたいへんな苦労をした。そしてこの決議案をめぐる下院での動きは一時期 (ボブ・ミッチェル氏の影響力のために) ぱたりと止まった。

ハイド議員は第二次大戦をアジアで戦った退役海軍兵士で、80歳を超えた彼もまた、エヴァンス議員と同じように引退を決意していた。8月に2週間の夏休みをとって、韓国や他のアジア諸国を旅行し、昔の記憶をたどった。その直後、飛び込んできた小泉首相の靖国神社参拝のニュースは、下院最後の第二次大戦で戦った老兵である彼を大いに怒らせた。こうして小泉首相はハイド議員を奮い立たせ、この決議案の採択への第一歩を踏み出させた。

ハイド議員は国際関係小委員会の議長として、9月14日に、「過去を未来に」という題の演説をした。日本の戦争犯罪を語り、戦後日本の国際社会への貢献をたたえながらも、日本は(歴史)健忘症にかかっており、中国と韓国と常に不和な関係を続けている、とし、そのような日本と組んで米国がアジアとの将来を構築することの危険性を強く指摘した。こうして小委員会では多少の修正はあったにしても、この決議案は全会一致で採択された。

次の手続きである下院本会議での投票を妨げるため、ロビイストは下院議長デニス・ヘイスタートと投票カレンダーを管理する下院院内総務ジョン・ボーナーのもとに直行し、説得した。特にヘイスタート議員は辞任後、駐日大使に任命されたいという希望を持っていたので、この決議には不満だった。だからロビイストにとって説得は楽な仕事だっただろう。ボーナー議員事務所は、「慰安婦」決議は中間選挙前には投票に付されない、と発表した。日本は再び勝利を獲得したようだと、シルバースタイン記者は結論している。これが決議案H.RES.759のたどった軌跡である。




この記事にはきわめて刺激的な情報が含まれていた。ボブ・ミッチェル氏のロビー会社が日本の歴史問題についての活動だけで一ヶ月に6万ドル(約700万円)の報酬を受け取っている、という。

それは信頼のできる情報なのか。裏づけはないかと探し回った。日本の戦争責任に関連して、戦時中に傷ついた元捕虜への支援は、米議員の重大な関心事なので、元捕虜のウェブサイトなどを探し、ついに米軍傷痍軍人協会のサイトに、親日ロビーについての記事を見つけた。

この記事には日付がついていないが、さまざまな点から2001年7月ごろのものとされる。2001年アメリカ捕虜の正義法や、その他の元捕虜支援法案をめぐる議会での動きが書かれている。元捕虜たちがバターン死の行進(*1)と強制労働で、どれほど過酷な体験をしたかが説明され、支援法案を潰そうと活躍するロビイストに対する彼らの反応が語られている。

このロビイストのボブ・ミッチェル氏は、第二次世界大戦中、フランス、英国、ベルギー、そしてドイツ戦線で戦い、ふたつの青銅星章、名誉負傷勲章および4つの武勲章をもらった、いわゆる軍人の鑑とも言うべき人物である。だから、退役軍人仲間の多くは彼のこのロビー活動に理解しがたいと口々に言う。

トーマス・フォーリーは、ワシントン日米協会の理事で、駐日大使だった。1996年には、日米関係の促進における役割を称えられ、日本政府から旭日大綬章を与えられた。

ローラバッカー議員は、ミッチェルについて聞いたときには驚き、落胆し、ひどく(ミッチェルを)けなしたという。またマイク・ホンダ議員は、ミッチェル氏が元捕虜の苦難にもっと心を開いてくれることを期待したい、と語った。

三井鉱山での強制労働の最中に、麻酔なしで脚を切断せざるをえなかった元捕虜のフランク・ビゲロー氏は、「まあ、金のためなら、何でもするやつはいるよ」と言った。日鉄で3年間奴隷労働をさせられた元捕虜のハロルド・プール氏はこう言っている。「おそらく、そういうことをするには、彼なりの理由があるのだろう。私はお金にそれほど執着しないがね」。

当時の歳出予算案には、司法省と国務省に裁判を起こした第二次大戦米軍元捕虜に2002年予算からの支出を禁じていた項目があったのを無効にしようとして、7月、ローラバッカーとホンダのふたりの下院議員が修正条項を提案した。これが395対33で圧倒的多数で可決されたことを元捕虜たちが非常に喜んだとも報じられている。

また、この記事によれば、サンフランシスコ平和条約の法解釈について、元捕虜側と米政府側に争いがあった。簡単に言えば、元捕虜側は請求権ありと主張し、米政府側は元捕虜に請求権はないとするものだ。前述の「米捕虜の正義法」は、サンフランシスコ条約14条(b)項(*2)の請求権法規を適用しないように求めるものだった。

その代わりに同条約26条にある、「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定められるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」 を適用すべきである、としている。この法案(「米捕虜の正義法」)が成立しなかったのも、ロビイストの活躍が大きな役割を果たしているものと想像される。少なくとも日本政府はそう期待し、多額の報酬を払った。

つまり、2001年ごろから、富裕で名誉ある元軍人ロビイストが、身体障害者として戦後の人生を、重荷を負いながら生きてきたアメリカの元捕虜たちを踏みにじり、彼らに軽蔑されてまでも、日本に雇われ、日本の「利益」のために活躍していたということだ。

もっと詳しいことを調べられないだろうかと誰でも思うだろう。そこで「慰安婦」行動ネットワークでは社民党の福島瑞穂議員に頼んで、政府に訊いてもらうことにした。以下が福島議員の7つの質問を掲げた質問主意書の一部だ。なお福島議員は「ボブ・ミッチェル」を「ボブ・マイケル」と呼称している。



***

日本政府による米国議会へのロビイング活動に関する質問主意書。



中略)
1.日本政府が、米国議会でのロビイング活動のために、ボブ・マイケル氏なる人物を雇っていたというのは事実か。

2.(省略)

3.日本政府は、ボブ・マイケル氏らに、毎月6万ドル(約690万円)を支払っていたとされるが、これは事実か。事実であれば、第二次世界大戦に関連した問題について米国議会でロビイング活動をするために、日本政府は、どのような人物又は団体に対して、総額どの程度の報酬等を支払ったのか、その細目および支払い期間も含めて具体的に明らかにされたい。

4.(省略)

5.日本政府がボブ・マイケル氏らに依頼したロビイングの内容は、どのようなものだったのか、具体的に明らかにされたい。

6.…(前略)日本政府がボブ・マイケル氏に依頼したのは、強制労働を含むアメリカ人戦争捕虜問題への対策や「従軍慰安婦」問題に関して国際関係委員会に提出されていた決議を採択させないことだったとしているが、これは事実か。事実であるとすれば、安倍内閣が堅持すると表明している河野談話に明確に反する行動であると考えるが、政府の見解を示されたい。

7以下省略

***

これに対して政府からの答弁は次のとおり。

***

参議院議員福島みずほ君提出 日本政府による米国議会へのロビイング活動に関する質問に対する答弁書。


1から7までについて

外務省としては、米国議会における決議案等について、政府や議会等の関係者に働きかけを行うことがあるが、その詳細について具体的に述べることは、我が国が対外的な関係において不利益を被るおそれがあるため、答弁を差し控えたい。

***

このような答弁は予想していたので、別に驚きもしなかった。しかし、この問題は日本にとってより、アメリカ市民にとって大きな問題のはずだ。アメリカ市民の利益を損なうロビー活動が行われているのに、それに関する情報が完全に秘密であっていいはずがない。当然、これについては歯止めがあるはずで、情報は見つかると確信していた。そんなとき、「慰安婦」行動ネットワークの柴崎さんの言葉がヒントとなって、問題の核心に近づくことができた。





(下)につづく…

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トリビア 4

2007年05月19日 | トリビア
【猟奇犯罪と脳機能】





共感性(他人の気持ちになって考えたり、感じたりする心の働き)が低下した人に見られやすいのは、人間をモノのように扱う傾向である。共感性の低下をきたしてくると、それまでは愛していた存在さえ、ただ利用できる便利な道具のように扱い始める。

ここ10年ほどの研究で、人間の脳は、人を扱うときと、モノを扱うときでは、全く異なる働き方をすることがわかってきた。人とモノでは、(脳の)使われる領域さえ異なるのだ。人を扱うときだけ使われる、人専用の領域というものがある。その領域は「社会脳」と呼ばれる。

人を見るときと、車や石を見るときとでは、人を見るときだけ、社会脳が活発に働く。ある人のことを考えるのと、ある人の心臓のことを考えるのでも、同じような違いが見られる。

ある面白い実験がある。
1)顔写真を見せて、
  まず、その人の(顔写真の人の)気持ちを推測する課題をやってもらう。
2)次に、同じ顔写真を見せて、
  その人の顔が左右対称かどうかチェックするという課題に取り組んでもらう。
すると、同じ顔を見せていても、脳の使われる領域に、明白な違いが見られたのである。人の気持ちを推測しているときだけ、前頭前野の内側の領域が活発に使われたのだ。どういうことかというと、つまり、同じ顔を目にしても、心を持った人として見るか、モノとして見るかによって、脳の中での処理も異なるのである。

ロンドン大学の研究者たちは、ジャンケンをやっているときの脳の中の活動を、機能的MRIで調べてみた。すると内側前頭前野の中でも、「前部帯状回」に隣接する領域(前部傍帯状回と呼ばれる)が活発に活動していた。

ところが、同じジャンケンでも、コンピューターを相手に行うと、その領域はあまり使われなかった。この領域は「心の理論」、つまり相手の心を推測する機能に関与しているとされる部位である。他人の心の痛みを推測するときに働く「吻側前部帯状回(rACC)」もすぐ近くにあり、この周辺は共感性の中枢と考えられる。

さらに興味深いことに、コンピューターを相手にジャンンケンを行っていても、相手にしているのが人間だと思いこませると(中には実は人間が入っている、と“密告”しておく、というようにして)、「共感性の中枢」の領域が活発に使われたのである。

相手が人であるか、モノであるかは、脳にとって厳格に区別される。しかもそれは、相手が現実に人であるかモノであるか、ではなく、その人が、対象を人と思うか、モノと思うかという心のスタンスによって左右されるのである。

さまざまな研究から、内側前頭前野から前部帯状回にかけての領域が、社会脳の中枢、「心のセンター」として働いていることがわかってきている。内側前頭前野と前部帯状回は構造的にも連なっている。相手を、「モノ」ではなく、「人」つまり、「心を持った存在」だと見なしたときだけ、この「心のセンター」は活発に働くのである。

逆に言えば、モノを相手にすることにばかり熱中していると、当然、社会脳の領域は使われなくなる。人の心を思いやったり、痛みを共有する能力も低下することになる。人をモノのように扱って、平然としているということも起こりやすくなるのだ。それは仮想と現実の区別が曖昧になり、現実感を欠いた行動に走りやすくなっていることとも深く関係している。


(「脳内汚染からの脱出」/ 岡田尊志・著)

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「脳内汚染」、数年前に話題になりましたよね。大きな反響を呼びました。多くの共感が寄せられる一方で、激しい反発も呼びました。ネット依存症、ゲーム脳などのことばも生まれました。体罰は是か非かの議論まで巻き起こしました。暴力が人の、とくに子どもの心と発達に及ぼす影響に、「脳内汚染」は率直に切り込んでいたからです。体罰賛成派の人びとからは「科学的根拠が薄弱」というレッテル貼りがされたものでした。

今回、精神科医でもある岡田さんは、先の「脳内汚染」から2年ほどのあいだに欧米で著しく進んだ研究成果を紹介し、とくに幼い子どもをお持ちの方々宛に、真摯なメッセージを送っておられます。わたしも岡田さんのご意見に賛成です。体罰だけでなく、言葉や態度によるダメージでも、身体的な暴力が及ぼすダメージと脳内の同じ場所で脳は感じるのです。脳にとって、身体的攻撃であろうと、心理的攻撃であろうと、ダメージは同じなのです。

ですから、心理的攻撃のときだけ、「お前の受け止め方が悪い」で片づけられないのです。逆に体罰も、陰湿な心理的イジメと同じような結果-うつ、自尊心の低下、暴力的で攻撃的な人格の形成-を生じさせます。わたしたちは、相手に不満を述べるにしても、相手の自尊心の破壊によって行うのではなく、アサーティブに、直裁に理性的なメッセージを送ることによって、争いの種を処理するほうがよいのです。その方が人間関係は発展しやすいのです。

この本はぜひともチェックするべき一冊です。とくにお子さんをお持ちの方々、エホバの証人の親によって心理的・身体的に虐待されてきた人たちはとくに、「自分の肢体をムチ打って」でも、読んでほしい一冊です。

おわりに、「人をモノのように扱って平然としている」ということを端的に示す事件がこの本に書かれていますので、それをご紹介しておきます。

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事件は、湖に臨む風光明媚な町で起きた。現場となったのは、小学校の校庭の一部だ。被害者となったY君には、身体に重い障害があった。以前からときどきいじめをうけていたようだが、Y君はめげずに勉強に励み、高校に合格した矢先のことだった。

友だちが合格祝いにカラオケをおごってくれると信じて、Y君は出かけたという。そんなY君に対して、加害者の少年らは、数人がかりで暴行を加えた上に、バックドロップ(脳天逆落とし)というプロレスの技をくりかえし加えたのである。

Y君は最初の一撃で意識を失ったと見られている。気絶しているY君を、加害者の少年らはさらに抱え上げ、同じことをくり返す。Y君は脳出血を起こし、痙攣しながら口から泡を噴いていたが、無抵抗なY君に対して、さらにバックドロップを加えたのである。

Y君は搬送先の病院で六日後に死亡した。



弱いものいじめというのは、いつの時代にもあっただろう。だがその一方で、それに歯止めをかける者がいた。ましてや、ハンディを持ち、抵抗する力もなくしている者を攻撃することなど、卑怯で恥ずべき行為として糾弾された。ところが今日、そこに歯止めをかけるどころか、よってたかって攻撃を続けるという状況は、何か根本的なものが変質していることを感じさせる。

…(中略)…

警視庁によると、いじめた理由としてもっとも多かったのが、「力が弱い・無抵抗」というもので、46.3%を占めた。他人の痛みに対する感覚麻痺が子どもたちに広がっているのである。

(上掲書より)
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国民投票法案…

2007年05月12日 | 一般
2005年9月11日…

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「有権者の絶大な信任に、自民党内でも、驚きの声が上がった。投票終了直前の午後8時前、自民党本部のエレベーターに『なんだか、大変なことになっているみたい』と党職員が駆け込んだ。8時を過ぎ、報道各社が一斉に報じ始めた出口調査結果は、文字通り『大変なこと』になっていた」(産経新聞 2005年9月12日付)。

そして同紙面では、与謝野馨政調会長(当時)が「意外だ。厳粛な気持ちですべての投票結果を待ってる」と「喜びを通り越した戸惑い」を見せたのは与謝野氏だけではない。二階俊博総務局長(当時)は、当日のテレビ速報番組でこうまで語っているのだ。「無党派層をはじめ都会の人の支持を獲得できたことが勝因だ。だいたいの見通しは持っていたが、あまりにも、トータルすると数が多すぎる」。




マスコミがあわてふためき、自民党や当選者までが喜びを通り越すほどに驚いた選挙結果。では、一票を投じた有権者はどうであったのだろう。

「自民に入れたけど。
一票を投じた後、開票速報に注目した有権者らは、自らの選択の結果をどう受け止めたのだろうか。自民党へ投票し、圧勝を支えた人たちの思いは…。

 


 こんなにいくのか。
午後8時、神奈川県の仕事場でテレビを見ていたITコンサルタンティング会社の役員(48)は驚いた。拮抗している方が緊張感を持てるのに、これでは変な方へ行きやしないか。比例、小選挙区ともに自民に入れたが、積極的にそうしたわけじゃなかった。
 「妻と二人で会社を経営している。税務署に確定申告に行くと『税金を無駄遣いするなら払わない』と叫びたくなる。小泉首相のやり方がいいとは思わないが、行革を進める近道だと仕方なく自民に入れた。投票しても自分の思いは伝わらないかもしれないと思うと、むなしさも感じる」。

 



 開票速報を見ながら、東京都の会社員(48)は複雑な気持ちになった。二大政党制がいいと民主に投票してきたが、今回初めて小選挙区、比例区とも自民にした。郵政民営化法案に反対した民主に失望したからだ。
 
それだけじゃない。二人の子は手を離れ、年金のことが気になる年齢。年金改革の道筋も、民主よりも自民の方が現実的に感じられた。「自民250台」ぐらいが適切と思っていたが、大勝に手を貸してしまったのか。ただ、これが今の民意だとも思う。

まず郵政。そして年金。さらに景気。一票を投じた者として、小泉新政権のその3点に注目していきたい。


 

 「これで小泉さん、調子乗らへんかなあ」。
今までずっと共産党に投票してきたが、今回だけと思って自民に入れた大阪市生野区の男性(70)は自民圧勝の速報を聞いているうち、少し心配になってきた。「小泉さんが思うとおりやると、私ら庶民は困るのと違うか」と妻も言う。

 郵政民営化に賛成だ。近所の郵便局は切手シートの値段を掲示せず、客商売とは思えない。小泉さんは他の自民党の政治家と違い、きっと何か変えてくれると期待した。

だが、小泉首相のある一面が気になる…。幼い頃、米軍機の機銃掃射を受けて水田に飛び込んだことがある。「圧勝しても憲法9条改正とか消費税アップとか、暴走だけはせんといて」。


以上、朝日新聞 2005年9月12日付夕刊。




つまり、自ら自民党に投票した有権者たちもまたこの結果に驚き、「適切ではない」「大丈夫だろうか」と危惧したり心配したりしているのだ。




読売新聞が選挙直後に行った「衆院選ネットモニター」調査では、次のような結果が明らかになった。

「自民党が296議席を獲得したことについては、『もっと少ない方がよかった』が57%を占めた。今後の政治がどうなるかとの質問では、『郵政民営化などで安定した政策遂行ができる』が36%で最も高かったが、『国会運営が強引になる』も34%に上った」(読売新聞 2005年9月12日朝刊)。


(「テレビの罠」/ 香山リカ・著)

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強引になりましたよね、国会運営、予想通り。もう自民党は何でもできます。ただ、教育基本法改正をはじめ、今採決されてきている重要法案は決して「民意」ではありません。安倍首相一派の意向なのです。

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付記

最終ゲラが届く三日前、衆院選の結果が出た。自民圧勝。今日の世論調査では、「これほどに自民が勝って不安だ」との声が68%。今さら何言ってやがる。投票したのは誰だよ。

人はこうして焼野原で、呆然と空を見上げる。郵政民営化という見せかけの焦点と、刺客やマドンナなどの刺激性にメディアが酔い、大衆は見事に踊った。


(森達也/ 「ご臨終メディア」あとがきより)

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あ~あ、疲れちゃった…。さ、寝よう。もうこれからは将来のことなんて考えないようにしよう。胃に穴があくもん。
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「歴史に学ばない国民は滅ぶ」

2007年05月11日 | 一般

 

 

 

「歴史に学ばない国民は滅びる」。    吉田茂

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西暦2005年はアジア太平洋戦争の終結からちょうど60年目にあたりました。1931年の満州事変に始まるこの15年戦争では、中国、アジア、太平洋地域を戦場として中国人、韓国人、アジア人を含め合計数百万人の犠牲者を出し、日本の兵士、民間人を含めて350万人を戦死させた日本は、戦争国家として世界から厳しく断罪されました。

敗北を抱きしめて、徹底した破壊と廃墟と貧困の中から立ち上がり、180度転換して平和国家をめざし、食べるために必死で働き、生活、経済の再建から豊かな社会をめざして、こつこつと歩んで米国に次ぐ経済大国となって60年、やっと「還暦」になりました。

ところが、歴史サイクルが一回転した今、米国の対イラク戦争では、憲法での軍隊の海外派兵の禁を破って、戦後初めてイラクの戦地へ自衛隊を送り出し、次なる憲法改正を視野に入れながらの「戦争のできる国」=「ふつうの国」という解釈で、「戦後レジーム」からの脱皮が急旋回に進められています。

記念日となったこの8月15日に目にしたものは、戦後最悪に冷え込んだ日中関係であり、日韓関係も同様に、隣国との間で、真の和解ができずにいる日本の姿です。アジアの賛成が得られず、国連安全保障常任理事国への加盟問題で失敗したことも何とも象徴的でした。小泉アジア外交の完全な失敗です。

小泉首相の靖国参拝問題、教科書問題、歴史認識をめぐって日中対立がエスカレートし、国民世論で一定の反中国感情が噴出し、メディアでも中国敵視論が大きくなっています。北朝鮮、台湾問題での危機に備えた有事立法という戦争法案が着々と準備されています。戦争は世論の憤激と外交の失敗によって起こります。今再び、歴史の歯車を逆転させかねない危うい兆候を感じます。

「歴史に学ばない国民は滅びる」とは自民党を作った吉田茂の言葉ですが、「賢者は歴史の失敗を教訓として成功し、愚者は歴史の成功に酔って再び失敗する」とも言われます。これは国にも人にも当てはまります。日本をかつて壊滅させた「日本病」(民族的特性、精神病理)は還暦を迎えた今、完全に克服できたのでしょうか。その点が気になります。

その一つは「歴史健忘症」です。過去を水に流して、毎年忘年会を開いているのは日本人だけです。自分がしたこともされたことも、侵略したことも、逆に虐殺されたこともすぐ忘れ、東京大空襲を決行した米軍責任者を日本国家が表彰したり(*1)、戦争終結後に数十万人の日本人兵士を無法にもシベリアの強制収容所に送り込んで労働死亡させたソ連を、戦後は平和国家として崇拝する知識人が多くいました。

終戦直前に日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連は日本に攻めてきましたが、その直前に外務省はソ連に終戦・和平交渉を依頼するというノー天気ぶりです。スターリンはシベリア出兵(大正7年)で日本に対して恨みを抱いており、腹の中で笑いながら突然、攻撃してきて北方4島までも占領してしまいました。

昭和天皇は戦争を総括した「独白録」で、政治家、軍人が「敵を知り己を知らば」という孫子の兵法の基本をまったく知らなかったと敗因を述べています。戦った相手の中国の国土、中国人の民族性や気質、中国共産党の動向について無知で、世界に敵なしとおごった皇軍は「軟弱な中国は一撃で倒せる」と豪語して日中戦争に突入し、泥沼の長期戦に陥って二進も三進も(にっちもさっちも)いかなくなった段階で、今度は国力では日本の20倍という、勝ち目のまったく見えない米国との戦争を東条首相は「清水の舞台から飛び降りるつもり」でいちかばちかではじめたのです。

東条首相は戦陣訓を作って、兵士には「生きて虜囚の辱めは受けず」と玉砕と戦死を強制し、昭和20年の本土決戦では国民皆兵制で女性や子どもたちにまで竹やりを持たせて米軍と最後の一人まで戦うアナクロニズムの作戦をとっていました。人の命の大切さをまったく知らないのです。戦時国際法で捕虜の虐待は禁じられていましたが、日本軍は戦陣訓で捕虜になるより死ぬべきだと強制されたため、外国人捕虜を大切にするはずがありません。

この結果、BC級戦犯となった下級兵士が虐殺、捕虜虐待でたくさん死刑判決を受けることになりました。日本を占領したマッカーサーは米国議会で「日本人の精神年齢は12歳」と証言しました。思想と行動が幼稚で子どもっぽいということですが、60年たったいまの日本人は精神的に成熟して真の大人になったでしょうか。

靖国問題を見ても、この歴史健忘症ぶりが改めて示されました。中国、韓国は1985年の中曽根参拝から「A級戦犯の合祀されている靖国神社に一国の総理大臣が参ることは、先の戦争を肯定することになり、侵略されたアジアの人びとの感情を傷つけるのでやめてもらいたい」と、一般の戦没者の慰霊には異論がないが、戦争指導者のA級戦犯だけは認めないとの立場で一貫しています。侵略された側としては当然の主張です。

一方、こうした経緯を知ったうえで小泉首相は「心ならずも戦争で犠牲になった人びとを追悼し今後二度と戦争を起こさないために参拝している」、A級戦犯問題については「死ねばみな神となり、平等に扱う日本の死生観と違う。戦死者の慰霊は各国の文化で異なり、他国が批判すべき問題ではない」と反論します。しかしこれは、A級戦犯の合祀問題についての説明になっていませんし、説得力がありません。

中国側は日本との国交正常化で、先の戦争責任はA級戦犯、戦争指導者にあり、それ以外の日本人民は被害者であると両者を区分して、東京裁判を評価し、「以徳報怨」(=怨みに報いるに徳をもってせよ)の方針でのぞみ、中国人民の日本人への憎悪、復讐心を極力抑えました。このため、中国でのBC級戦犯裁判では死刑判決は少なく、寛大な判決が出されて、中国にいた多くの兵士も戦犯として追及されず、比較的早く帰国できたのです。また、「第一次世界大戦のドイツを見て、敗戦国に巨額の賠償を課することは、国際平和のために有害である。賠償はある世代の誤りを、子や孫が払うことになるので不合理だ」として戦争賠償の請求を一方的に放棄しました。A級戦犯にすべての戦争責任があるという解釈で、中国人民を説得したのです。

当時の日本は敗戦で再建途上の貧しい国でしたから、もし、この時、中国側の対日賠償請求で、500億ドルの賠償金を払うことになっていたとしますと、年に10億ドル払っても50年はかかります。当時の外資保有量はせいぜい20億ドルほどだったので、その後の経済成長は大きくブレーキがかかり、こんなに早く豊かな国になれなかったでしょう。敗者の日本にはたいへん寛大で有利な和解条件だったことを覚えておく必要があります。ODAに対して中国はもっと感謝すべきだとの声もありますが、日本側は以上の歴史的経緯を忘れてはならないでしょう。

こうして日本側は、サンフランシスコ講和条約では東京裁判のA級戦犯が戦争責任者であるという判決を国際的な合意として受け入れて国際社会に復帰したのです。つまり、対外的にはA級戦犯の戦争責任を認めながら、国内的には死刑判決を受けなかったA級戦犯はすぐ釈放され、政界などに復帰するというダブルスタンダード(二重基準)で処理し、日本人そのものが戦争責任ときちんと向き合ってこなかったのです。

小泉首相の、口で謝罪・反省の弁を述べながら、靖国神社を参拝するという言行不一致のルーツはここにあり、歴代内閣で何回も謝罪発言しながら、閣僚が侵略否定の発言をくりかえしたり、靖国神社に閣僚として参拝するという矛盾、分裂した歴史認識と行動が批判を招くのです。口で言うことと行動が一致しないこと、論理的に一貫していないことが問題です。

15年戦争での日本側の態度も、政府側の(大陸での)不拡大方針という表面的な言い分と、現地における関東軍の暴走(独断的な行動)と、言行が分裂し、バラバラの矛盾した行動が中国、国際連盟から批判され、国際社会から追及されましたが、今回も同じパターンが見られます。

多国間外交に必要なもの、国際社会にアピールするものは一貫した論理であり、理念です。小泉首相の行動は独りよがりで論理的ではなく国際的な説得力がありません。国連常任理事国への支持が得られなかったのは当然です。


(「メディアコントロール・日本の戦争報道」/ 前坂俊之・著)

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(*1)について。


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しかし、それでもまだこの戦争に直接参加した軍人、軍属の犠牲者の場合は、靖国神社へ行くこともできる。お国のために死んだということで、その個人と遺族は、政府から何らかの物質的、精神的なねぎらいを権利として受けることができる。

だが、その戦闘員よりも、さらに多い一般市民の「犠牲者」には、なにがあったろう。前述のように、社会的な保障らしきものは、見舞金以外にありはしなかった。罹災者または戦災者ということで、巷に放り出され、生活に困ったら生活保護という「お情け」にすがれということである。原爆被害者同様、空襲による犠牲者に対して、日本の政府はきわめて冷淡であり、怖ろしくケチであった。

そのような政府だからこそ、次のような、人間としての節操と尊厳を忘れたことができるのである。

「昭和39年末に、日本全土を灰燼とした責任者であるカーチス・ルメイ将軍が、日本政府から勲一等旭日大綬章を受けた。受賞の理由は『日本の航空自衛隊の育成に努力した』というのである。この記事を見たとき、私は自分がベトナム人になったごとき錯覚に陥った」。

評論家の松浦総三氏は、東京大空襲について戦後の大きな収穫ともいうべきその論文「書かれざる東京空襲」のなかで指摘する。カーチス・ルメイは…戦時中当時は米空軍第21爆撃対司令官で、東京大空襲の “皆殺し” 戦略爆撃のみならず、広島、長崎に投下した原爆の直接的な責任者である。

昭和39年12月7日付け朝日新聞の夕刊に、小さく記事が掲載されていた。

***

「旭日大綬章を受け取る ルメイ米空軍参謀長」

六日来日した米空軍参謀総長カーチス・ルメイ大将は7日朝、埼玉県の航空自衛隊入間基地を訪問、航空自衛隊、浦幕僚長から勲一等旭日大綬章を受け取った。この勲章は、ルメイ大将が「戦後、日本の航空自衛隊の育成に努力した」という理由で日本政府から贈られたもの。

これに対して、同大将は太平洋戦争末期、日本爆撃に大きな役割を果たしたグアム島駐在米爆撃隊司令をしており、原爆投下にも関係があった人だというので、社会党や原水禁団体、広島、長崎の被爆者からは「国民感情として納得できない」という反対の声が出ていた。

なお、同大将は同日午後1時半、防衛庁を訪れ、三輪事務次官にあいさつした」。


(「東京大空襲」/ 早乙女勝元・著)

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この引用元となった図書を読んでいると、わたしたち日本人は歴史について、特に近・現代史についてほんとうに無知だったなあ、とつくづく思います。無知だからこそ、韓国や中国から強硬なクレームや抗議デモなどのニュースを見て、「なんで今さら、戦争責任についてアジア諸国からとやかく言われなきゃならないんだろう」と感じるのだと思います。

オーストラリアの首相が言ったように、靖国問題その他で外交交渉を止めてしまうのも、大人げないと思います。これはほんとうです。わたしは「サヨク」のように、日本というアイデンティティを一切合切否定しようという気持ちはまったくありません。それこそ、「きけ、わだつみのこえ」第1集の冒頭を飾る、上原良司さんの「所感」にあるように、西洋諸国に引け目に思わないで、堂々と交渉を持てるような、人権意識の面で、また持続可能な文明の運営をリードしていく、「ふつうの国」以上の、先進的な指導力を発揮できる、そんな国民でありたい、と切に切に願うのです。

だからこそ、戦前と同様の自国のセンスだけを独善的に主張するのではなく、日本が行ってきた戦争のために、引き裂かれた韓国や、多大の犠牲者を出したアジア諸国への配慮を、相手の国の立場に立って払っていくようにしなければならないと思うのです。

たとえばマスコミは、猟奇的な犯罪の被害者に対しては、これでもか、これでもかと辛い心情を引き出して、視聴者の涙腺に奉仕します。少年が凶悪な犯罪を犯してなお、ひょうひょうとした、責任を感じていないかのようなフリを見せると、まるで被害者を代弁するかのように(被害者自身はマスコミに追いかけられることそのものを辞めてくれるのが一番の気遣いと思っているのですが…)、自分の犯した罪をどう思っているのかと、言い立てます。ところが先の戦争で、無残に生活や人生を破壊されたアジア諸国の人々に対しては、そのような感情移入を示さないのです。なぜでしょうか?

ひとつには、わたしたち日本人の心の奥底には、いまだにアジア諸国への蔑視が潜んでいることがあげられるでしょう。中国がデモで騒ぐと、「民度が低い」などと見下したような反応をするくせに、アメリカが日本軍による性奴隷制を糾弾し始めると、大変なことになったかのように反応します。金髪人種に媚びへつらう意識があるからではないでしょうか。

しかし、もう一つの問題も決して見逃してはならないでしょう。それが「無知」という問題です。「メディアコントロール」の前書きからの上記引用文を読むだけでも、「もう賠償問題は片づいているのに、何をあの“三国人ども(石原慎太郎氏)”はワーワー言ってるんだ。民度の低い連中だ(石原慎太郎氏)」などと一蹴できないことは理解できると思います。戦争責任をA級戦犯に特定して、一般兵士や中国在留日本人に赦免を行った政治判断は、少なくとも「12歳程度の精神年齢」ではなかったと断言できるのではないでしょうか。たとえ、その背景に、赤軍対策のために日本を責めたてる余裕が少なくなっていた、という事情があったとしても。

特に、戦後賠償の問題で、第一次大戦の経験から、多額の賠償を課すると、経済難からふたたびファッショ化が生じる可能性がある、だからそれはしないでおこう、という、いいですか、帝国日本軍に多大の蹂躙を被った国がそう判断する、というのは、当時の中国政府は、「歴史から学ぶ」という、高度の成熟した知性を示した、ということなのです。この判断を前にすると、靖国神社の強硬姿勢というのがほんとうに子どもじみて見えます。

中国や韓国の反日的反応に、まるで自分自身が否定されたかのように認知するのは、心理療法のひとつである「認知療法」でいうところの、「認知のゆがみ」だと思います。従軍慰安婦たちや強制連行された人々の訴えを取り扱うことが、なぜ「母国への侮辱」になるのでしょうか。そういう受け止めかたは間違っていると、わたしは思います。

なぜ中国や韓国は靖国問題に拒否的反応をするのでしょうか。特に中国は、一般の人々が靖国に参拝するのは問題にしていないのです、A級戦犯が祀られているにもかかわらず。まずそういう「なぜか」ということを考え、そして歴史を真っ正面から見ることが大切だと思います。中国人が、たとえば日本人であるわたし個人に憎しみを持つとは考えられません。もし、中国人の誰かがわたしにつっかかってきたとしたら、それはほんとうにつっかかりたいのはわたしではなく、別の日本人だろう、「歴史的経緯を考慮すると」と考える心の余裕と、友好への開かれた意志を持ち続けるべきだと思うのです。

これから将来のことを本気で考えるなら、日本はアメリカとの「同盟」なんかよりも、アジア諸国との連携をこそ築いていかなければならないのです。



 

 

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トリビア 3

2007年05月10日 | トリビア

【愛国者】


 部分の利害のほうが全体のそれよりも大事だと考えているらしい人。
 政治家に手もなくだまされるお人好し。
 征服者のお先鋒をかつぐ人。




【愛国心】


 自分の名声を輝かしいものにしたい野心を持った者がたいまつを近づけると、
 じきに燃え出す可燃性の屑物。

 ジョンソン博士は、あの有名な辞典の中で、愛国心を定義して、
 「無頼漢の最後の拠りどころ」
 と言っているが、
 私はむしろ、
 「最後の」ではなく、「最初の」と言いたい。


(「悪魔の辞典」/ アンブローズ・ビアス・著)

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アンブローズ・ビアスは1842年に生まれ、第一次世界大戦が勃発した1914年ごろメキシコの革命戦線に従軍して行方不明になった新聞や雑誌にニヒルなコラムを書いていた人です。いろんな職業を渡り歩いた人でしたが、今日、この「悪魔の辞典」で有名です。「悪魔の辞典」は風刺作品です。短い文章で痛烈なので、読んでいて楽しいです。風刺感覚を身につけたい人にはゼヒお読みになってください。

「愛国心」の定義をわかりやすく言うと、野心的な人は「愛国心」を理由にして騒動を実際に起こしたり、あるいは物騒な雰囲気を醸成したりするが、やがて燃え尽きるかのように消えて行く、ということです。

後半は、とにかく騒ぎを起こしたい人は、まず愛国心を理由に選びたがる、ということです。もっともルナの身近では、「愛国心」より「阪神タイガース」を理由にしてどぶ川に飛び込んだり、騒いだりする人の方が多いですが…。

生活に押しひしがられている人は、鬱積した感情を何かに理由をつけて発散させようとすることは今日よく知られていますが、自己を喪失した人も、民族主義や原理主義的な宗教またはイデオロギーをかざしたがるものですよね。民族主義や国家主義はアイデンティティ・クライシスを容易に癒すものなのでしょう。

しかしそれもやはり、「すぐに燃え尽きる屑」なのです。

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長野県の南安曇郡高穂町にある上原良司(「きけ、わだつみのこえ」第1集の冒頭に「所感」と題する、特攻出撃直前に書かれた遺書で有名な人)の実家を訪ねたときだった(昭和63年)。上原の妹、清子(医師)は、長い取材のあとで、次のような言をなにげなく漏らした。

「兄たちが特攻隊として飛びたつとき、指揮官たちは次々と、『われわれもすぐに君たちのあとを継いで飛び立つ』といって激励したそうです。でも誰もそのあと飛び立たなかったと聞いています。その言葉を信じた兄たちは、その事実がわかったとしたらどんな気持ちになるでしょう」。

私(著者)にとって、この言は今なお重く響いている。そういう指揮官たちの象徴として、マニラの死守を叫んでいた陸軍の第4航空軍司令官の富永恭次中将のように、特攻作戦を進めながら自らは勝手に台湾に “逃亡” してしまったケースがある。同じ陸軍の第6航空軍司令官・菅原道大中将のように、「自分も最後に出撃する」と約束しながら、次々と特攻隊員を送りだした指揮官もいる(彼も、結局飛び立たなかった)。

生き残ったこのような指揮官たちが、戦後になって特攻隊員たちを慰霊、追悼する側に立って、声高に国民に慰霊を要求するのは、きわめて不謹慎である。むしろ彼らは「特攻隊犬死に論」の裏返しの行動をとっているに過ぎないのだ。特攻作戦の内実をこうして詳細に見てゆくと、特攻隊員たちを二重三重に裏切る光景が顕わになる。


(「特攻と日本人」/ 保坂正康・著)

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これらの指揮官たちは、特攻から逃げました。その死に恐怖したのはなぜでしょうか。特攻という死には意味がないとその逃亡や裏切りという行動によって示しているのです。保坂氏は彼らをあたかも冒涜者であるかのように書いておられますね。たしかに自ら送りだした若い隊員たちの人生を棒にふらせ、彼らの命を冒涜しているのです。

彼らがもし、靖国崇拝を脅迫によってでも主張しているとしたら、おそらくは自らの罪悪感がその動機となっているのかもしれません。こんなものは断じて「愛国心」などと呼ぶべきものじゃないし、それをして「愛国」という単語で表現してはならないものだと、わたしは思います。

特攻隊員たちの死を無駄にしない唯一の方法は、同じ過ちを決して繰り返さないことです。歴史から謙虚に教訓を得、それを政策と生活に反映させてゆくことです。日本独自の神話的世界観というきわめて主観的な思考に埋没した昭和10年代。そこから学んだ教訓は、外国民族のアイデンティティは自分の国のそれと同様、尊重しなければならない、ということです。決して自国の利益のために、外国民族の文化を否定したり、低く評価してはならない、ということです。だからわたしはアメリカによるイラク侵攻は間違いだと思うし、そんなものに決して協力してはならないと思うのです。

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トリビア 2

2007年05月09日 | トリビア

【心にゆとりがなくなると人はどうなる?】




現代社会に生きるわたしたちは、さまざまな情報に取りまかれています。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、映画、そしてインターネット。街を歩けば、道路標識や信号機に人の波。宣伝カーからは大音響のメッセージが流れ、電信柱からビルの屋上まで、いたるところに派手なネオン広告やポスターがあります。ショーウインドウには、魅力的な商品が並び、道歩けば宣伝ティッシュが配られる…。

このように、情報が多すぎて処理できないような状況を 「過剰負荷環境」 といいます。これほどたくさんの情報を処理するには、相当のエネルギーを費やさなければなりません。すると、仕事・家庭・趣味などに余裕を持って接することができなくなってストレスがたまり、極端な場合、引きこもりや心身症といった病気に陥ることがあるのです。

この「過剰負荷環境」に陥った場合、人はどんな対処をするのでしょうか。社会心理学者のミルグラムはこう言っています。

1. まずさまざまな情報の刺激に対処する時間を短くします。そしてあまり重要でない刺激は無視するようになるのです。たとえば、パソコンを買い求めようと思っているときには、安売り店の看板は目についても、レストランやブティックの看板は目に入らない、といった具合です。

2. また、責任を他人に転嫁しようとします。
たとえば、具合の悪そうな人を見ても、自分には責任がないとして、見ぬふりをしてしまうのです。さらに、他人と直接に接触しようとせず、社会的な仲介機関を利用します。アメリカのように近所とのちょっとしたトラブルまで、弁護士に依頼するのは、このケースです。

情報過多の都会で、人間関係が殺伐としてしまう背景には、こういった要因もあるのです。


(「心理分析ができる本」/ 斉藤勇・著)


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トリビア 1

2007年05月09日 | トリビア
【日の丸】




日の丸の起源は古い。シンプルなデザインだし、武田信玄をはじめいろいろな武将が使っていた。薩摩藩では船の印に使っていた。幕府はそれを日本(徳川幕府)の旗にした。戊辰戦争(*)を描いた昔の錦絵を見ると、幕府軍は日の丸を立てている。官軍(薩長軍)は錦の御旗を立てている。彰義隊(幕府の臣下が薩長新政府軍に反抗して結成した部隊)も会津の白虎隊も日の丸を打ち立てている。函館に立てこもった幕府軍もそうだ。官軍は日の丸をめがけて銃を撃っている。

だから明治政府ができてから、本当は錦の御旗が国旗になるはずだった。ところがお雇い外国人に忠告されたのだろう。錦の御旗は天皇の旗にして、国旗は日の丸にした。自分たちが倒した賊軍の旗を国旗にしたのだ。世界史上例がない。なかなかさばけた国ではないか。寛容な国ではないか。



(*)薩摩藩、長州藩の軍を中心とする新政府軍と、徳川派幕府軍とが戦った内戦。鳥羽・伏見の戦いから、函館五稜郭での戦闘までの戊辰の年の戦争。1868~69年まで。鳥羽・伏見の戦闘で新政府軍は幕府軍を打破し、そのまま江戸へ進軍したが、徳川慶喜は戦闘を避けて、江戸城を新政府に明け渡して明治元年を迎えた。戊辰戦争そのものはさらに続き、函館で決着がついた。元新撰組の土方歳三が戦死したことで知られる。



(「愛国者は信用できるか」/ 鈴木邦男・著)

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先々回のエントリーでご紹介した「愛国者は信用できるか」の著者、鈴木邦男氏は「一水会」という新右翼の創設者で、現在顧問をしておられる、バリバリの「ウヨク」です。でも、東京都教育委員会と警察のように、抑圧的で攻撃的ではありません。どうしてこう違うのでしょうか。右翼の人って、日本の伝統と国柄を愛しているのであって、東京都教育委員会の人たちは単に日の丸・君が代を利用して、自分たちの鬱積をはらしているだけなのではないでしょうか…。

石原慎太郎の芥川賞受賞作、「太陽の季節」を読みました。石原慎太郎は既存の価値観、体制を破壊したい気質の人間ではないかと思いました。くわしくは来月くらいに書いて見たいと思います。興味のある方はお読みになってみてはいかがでしょう。短いものです。石原慎太郎という人間の内面を見るのに最適です。
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憲法へのレクイエム(1)

2007年05月07日 | 一般
足もとから鳥がたつ

自分の妻が狂気する

自分の着物がぼろになる

照尺距離三千メートル

ああこの鉄砲は長すぎる



(人生遠視 /「智恵子抄」/ 高村光太郎・作)

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壊れてゆく、ひとびとの理性が。

「自分」がわからない、ということは、自分の「誇り」が見えない、ということ。

愛を感じないということは、人間を理解できない、ということ。

だだっ広い平原にただひとりとり残されたひとたち。

それが現代人なのだろう。

愛情で人とつながることができないから、

「世間」の持つ見えない拘束力と

 イデオロギーと

 そして「力」と「規律」で結束するしかないひとたち。



まもなく深海で、人びとの知らないところで

巨大地震が起こされる、

ふつうに暮らしている人たちが気づかないうちに、

それはやってくる。

あるとき突然、大きな津波が押し寄せてくる、

暮らしを一変させる、大津波!

だれも、予想だにしなかった暮らしの変化…

大衆の期待は、いつの時代も裏切られる。

為政者が巧妙であることと、大衆が考えることをやめるから。






壊れてゆく、

戦後、ほんの一時だけ、人びとに希望の光を与えたものが。

朝鮮半島で戦争が起きた、共産党の脅威が星条旗の「ご意志」を変えた。

二度と外されないはずの閂が外された。

死に損ないどもが戻ってきた、帝国日本の亡霊どもが。

崩壊はすでにそのときに始まっていたのだ…。


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なぜ、「智恵子抄」かというと…。

愛する人が統合失調症で表情を失ってゆく様を見せつけられるような、

今はそんな気持ちがするからです…。

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愛って強制されるものじゃない

2007年05月07日 | 一般
「強制にならないようにね」。

今上天皇 (「暴走する『石原流』教育改革」/ 村上義雄・著)

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愛国心はひとりひとりが心の中に持っていればいい。口に出して言えば偽物になってしまう。そして他人を謗る(そしる)言葉になる。僕はそう思う。

慶応大学の憲法学の小林節(せつ)教授は改憲運動の先頭で闘ってきた。自民党、民主党、公明党にもよく呼ばれ、改憲の話をしている。読売新聞の改憲案の作成にも携わっている。ところが最近、「こんな改憲ではだめだ」と悲観的になっている。「こんな連中に改憲されるくらいなら、まだしも今のままがいい」とまで言っている。「裏切りではないか」と改憲論者からは言われている。

小林先生に会ったとき、聞いてみた。「自民党案の何が一番気にくわないのですか」と。即座に小林先生は言った。「愛国心を強制しようとすることだ」と。「憲法に書いたからといって国民は愛国心を持つものではない。また政治家たちがそんなことを言うのはおかしい」と言う。政治家は、国民がこの国を愛せるような国にすることが責務だ。それを忘れて、国民に対し、「この国を愛せ」というのはおこがましい、と言うのだ。

なるほどと思った。「三島由紀夫も、“愛国心という言葉は嫌いだ” と言ってますよ」と言ったら喜んでいた。愛国心は抽象的だし、人間の心の問題だ。それを憲法で規定するのはおかしい。

福岡の小学校で通信簿に「愛国心があるかどうか」の欄があり、問題になったことがある。これもひどい話だ。大人だって愛国心があるかどうかわからないのに、子どもじゃなおさら無理だ。「わたしには愛国心があります」と口頭で言ったら、それだけを信じるのか。あるいは試験をするのか。そんなことをしたら、「自分には愛国心がありますが、隣の席の○○君は自民党の悪口を言ったから、非国民です」なんて密告する生徒が増えるかもしれない。また愛国心のあるなしを競うというのも変な話だ。

平成11年、国旗・国歌が法制化された。日の丸は国旗だ。君が代は国歌だ。そう決められた。…(略)…法制化したとき、政府も文部省も、「これは強制するものではない」とコメントしていた。しかし法律はできるとひとり歩きする。またそれを「守らせよう」「押しつけよう」と思う人が出る。それで公立中学、高校では「日の丸」「君が代」を強制している。日の丸掲揚時に立たない教師はどしどし処分されている。起立しているかどうかをビデオに撮って確認する。

また保坂展人(ほさかのぶと)衆議院議員に聞いたが、君が代斉唱時、本当に声を出して歌っているかどうか音量測定器を使って計ろうとしているという。つまり、いやいや起立し、口をあけているか、歌っているフリだけで本当は声を出していない教師もいる。そうした「偽装」を見破るために使うのだという。

そこまでして「君が代」を強制する必要があるのだろうか。かわいそうだと思う。教師や生徒以上に、日の丸・君が代がかわいそうだ。こんな政争の道具にされてかわいそうだと思う。またガヤガヤとうるさい生徒に、それもイヤイヤ歌われるなんて。僕は日の丸・君が代が好きだ。だからこそそんな状態で歌ってほしくないと思う。

日教組の森越康雄委員長と『論座』(2005年6月号)で対談したとき、森越さんは「わたしもそう思います」と言っていた。「そこまでしなければ尊敬されないのか。日の丸・君が代がかわいそうだ」と。君が代にはこだわりがあるが日の丸はいい旗だと言っていた。ただ強制されるのは嫌だと。だからサッカーの応援などで自発的に日の丸を振るのはまったく気に障らないと言う。では学校では反対だがサッカー場に行って日の丸を振っている日教組の活動家はいるのだろうか。「いると思いますよ」と委員長は言っていた。いたら楽しい。しかし本当にいるのだろうか。

いや、いるかもしれないなと思った。2005年7月4日、文京シビックホールで、「おかしいぞ! 警察・検察・裁判所」という集会が開かれた。日の丸・君が代の強制に反対して処分された教師に会った。その人は実は剣道の高段者だ。剣道場には神棚があり日の丸もある。そこには礼をする。それは自発的だし、剣道を選んだのも自発的だ。ところが、学校では生徒・教師にただ強制する。だからそれには従わないのだ、と言っていた。それも一つの理屈かもしれない。思い出したが、国旗・国歌が法制化されたとき、これだけではだめだと言っていた自民党の議員がいた。「尊重する義務を加えるべきだ」と言うのだ。これはいいと僕は思った。しかし法律には入れられなかった。

でも実際にはその通りになったじゃないか、学校では強制されているし…と疑問に思うかもしれない。しかし、違う。「尊重」と「強制」とは全然違う。この話を伝えたいのだ。

例えば僕は日の丸・君が代は好きだし尊重している。だからこそ大事にしたいし、やたらに強制してほしくない。章、中、高、大学ではそれぞれ、校旗、校歌がある。それで十分だろう。「日の丸・君が代は20歳になってから」でもいい。20歳になったら初めて君が代を歌う資格を与える。権利を与える。そのくらいでいい。選挙権と同じだ。


(「愛国者は信用できるか」/ 鈴木邦夫・著)

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男女の愛情だって同じです。離れていく相手の心を、暴力やストーキングで強制しようとしてもつなぎとめられない。愛情は強制して得られるものじゃない。尊敬は勝ち取るものであって、強制して持つものじゃない。意固地に強制しなければならないのは、相手への不信感があるからです。また自分が十分に愛情を受けられていないと言う、自己不信と孤独感に苛まれているからです。

人間はどんな人を愛し、尊敬するでしょうか。それはまず第一に、自分をひとりの大人として尊重してくれる人でしょう。自分の責任能力を信頼し、失敗しても支えてくれる人(この人ならまた立ち直れる、という信頼があって初めてできること)、自発的な意欲を大切にしてくれる人です。

劣等感が強く、自分に自信のない人は、自分流を押しつけます。自分への愛情や賞賛を強要します。直接的に暴力を使うこともあるし、自分の気に入る言動をしたときだけ評価を与えるという巧みな心理操作を使う場合も多いです。いわゆる「条件つきの愛」というものです。

東京都教育委員会が懲罰をもって国歌への愛を態度で示させようとするのは、彼ら自身が、日本という国はこうまでしなければ人びとの心をつなぎとめておくことができない国だと宣伝しているようなものです。当然です。一生懸命働いても、老後の生活も保障されず、病気になっても十分な治療も受けられない、ありとあらゆるセーフティネットが外されてゆく。一部の有産階級の利益だけを保護する、今「国益」と言われているのは、彼らの利益であって、国民の福利ではないのです。それなのに「国益」という単語が使われると、もうそれ以上考えることをしなくなる国民。自分で自分の首をしめる人たち。

わたしは、日本の芸術、文化には世界に誇れるものがあると確信しています。でも、戦後の日本の行政はサイテーだとも思っています。だからわたしは「国家」を愛していません。でも「国民」を愛したいと思います。わたしも日本の国民のひとりだからです。国民は支配者の利益のための捨て駒として生まれてくるんじゃない。わたしたちの暮らしのために、国家に権能を委ねているのです。

改憲の問題は9条だけじゃない。日本国憲法は、国民の権利を保障している点では世界最高峰の憲法なのです。それをくずしちゃいけない。国民の精神の荒廃がひどくなっているからこそ、今憲法の精神が必要とされているのです。



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明仁天皇:
 教育委員、たいへんでしょう。

米長邦雄・東京都教育委員:(直立不動の姿勢で)
 ははっ。全国の学校で国旗を掲げ、国家を斉唱するようにするのが私の仕事でございます。

明仁天皇:
 やはり強制でないようにね。

米長邦雄・東京都教育委員:(かなり狼狽して)
 それはもう! ははっ、これはありがたいお言葉をいただきまして…。


2004年秋の園遊会にて。


(「暴走する『石原流』教育改革」/ 村上義雄・著)


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人間の「品質低下」

2007年05月04日 | 一般
「幻がなければ民は堕落する」。

聖書の箴言の書29章18節の言葉です。古代イスラエルは祭司が預言的な指導を与えていたのでした。適切な教育や指導がなされないと、人間は放逸に振る舞うようになる、と現代人に無理に当てはめると、こういうような言い方になるでしょうか。今回はわたしたち国民がなぜ、自分の首をしめるような政党に票を投じるようになるのかを考えるのに、ヒントを提供してくれる最新刊をご紹介します。

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「生き方論」などで定評のある雑誌から、現行の依頼があった。「ストレス解消の秘訣」といったテーマで1200字という短い分量だったので引き受けることにし、締切日に原稿をメールした。

構成は、「ストレスとは何か」という定義に続けて、
     「ストレスが生まれる理由」を簡単に説明し、
     それに続けて「解消のために気をつけること」を3点ほど書く、
というごく常識的な内容の記事のつもりだった。

ところが、すぐに編集者から「書き直し」を依頼する返信が来た。
「いただいた原稿に問題がある、というわけではありませんが、こういった構成だと全体を最初から順に読まなければならず、途中で読者が飽きてしまう可能性があります。前半の定義や解説はすべて省き、「解消法」の部分だけを箇条書きにして、ちょっとした説明とともに書いてください。なお、解消法は3つだけではなくて、6つくらいお願いします」。

私は、自分が原稿の分量を間違ったのではないかとあわてて依頼書を見直した。「解消法を6つと解説」ということは、1200字ではなくてその10倍だったのではないかと思ったのだ。ところが依頼書には、明らかに1200字と書かれている。ということは、一つの項目の解説は200字程度。200字といえば、当然のことだが400字詰めの原稿用紙の半分であり、短い文章を二つか三つ、書いただけで終わってしまう。

「それでいいのだろうか」と思いながら、もう雑誌の発売日も近づいていたので、私は言われるがままに、その原稿を「さあ、ストレスを解消する6つの方法について、教えましょう。まずその一…」と、説明はほとんどなしに具体的な解消法から書き始めた。しかも、「その一、すんだことはクヨクヨ考えない」という項目だけでも一行消費されてしまうので、説明部分には、「クヨクヨ考え込むのは、実は人間にとっての最大のストレスです。イヤなことがあっても、温かいお風呂に入って布団にもぐりこみ、楽しかった思い出などを振り返って眠るようにしましょう」程度のことしかかけない。なぜクヨクヨ考えるのがストレスになるのか、なぜお風呂に入るのがその解消に役立つのか、については、いっさい触れられていない。

「これでいいのだろうか。これじゃ原稿というよりは標語みたいではないか。さすがに読者は “こんなの信用できない” と思うのではないか」と思いながら、書き直した原稿をメール送信した。すると、今度は編集者からすぐに「こちらの意図を汲み取り、この特集にぴったりの原稿を書いていただき、ありがとうございました」というメールが送られてきたのだ。「一項目200字でほんとうにいいのだろうか」と思いながらも、編集者が言った「それ以上長い、起承転結があるような原稿は読者に読まれない」という言葉が気になった。

そのあと、女性雑誌の編集に長くかかわっている知人にこの話をしたら、「そんなの、あたりまえじゃないの」と一笑に付された。 

「私も15年間、この仕事をしているけれど、昔はライターさんに一つのテーマについてだいたい800字を目安に原稿を依頼していたんだけどね。その頃は、人がひと息に読めるのは800字と言われていたから。それが今は “ひと息は200字” が常識になってるの。それ以上長くなると、読者から『読みにくい』、『何を言ってるのかわからない』とクレームが来てたいへん。 でもたしかに200字だとほとんど何も書けないから、『この春はベージュのリップグロスが大ブレイク! ハリウッドのセレブの誰々もヨーロッパの王族の誰々も、みんなこの色に夢中!』みたいに情報を並べるだけでおしまいになっちゃう」。

私は、さらに笑われるのを覚悟で聞いてみた。 「でも、そもそもなぜベージュが流行るのか、みたいな説明もしないで、ただ “ベージュが人気” と書くだけじゃ、かえって信用してもらえないんじゃないの?」。 

するとその知人は言い切った。 「そんな背景とか理由なんて、どうでもいいの。もし書いたとしても、誰も理解しようとしないし。むずかしいことなんて、誰も考えたくないし、興味もないの。問題なのは、この春に何色の口紅を買えばいいのか、ただそのことだけなのよ」。


(「なぜ日本人は劣化したか」/ 香山リカ・著)

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わたしは数年前に、男女のことでおおきな挫折を経験し、それがきっかけであるエホバの証人批判系の掲示板への書き込みに明け暮れていたことがあったんです。でもね、その掲示板でいろいろ思うことなんかを、自分に言い聞かせるようしてつらつら書き綴っていたとき、その掲示板の隠れ常連さんらしき人からね、「なに、これ。長すぎてよくわかんないよ」という突き放すような感想をもらったことがあったんです。そのときは、わたしはその人の感じ方にふりまわされてしまってね、ながいこと、自分は文章を短くコンパクトにまとめる力が弱いんだなあと、ますます自分に自信を失ってしまっていたことがありました。

でもね、よくよく考えてみると、一つの考えを言葉のない亡羊としたイメージから、はっきりした言葉に表現しようとしたら、やっぱりあれこれ文章を書き出していかなければならないわけなんですよ。それにひとつのことで自分なりの結論を導き出そうと思ったらね、やっぱりそう言うだけの根拠と、その根拠にもとづいた論証が必要ですよね。で、そういうことを書いていたら、やっぱりそれなりの長さになってしまいます。

だから、書き込みで「長さ」を劣等感に思うことはないんじゃないだろうか、今はそう考えています。むしろ論証もせずに、「こういうことがあるから、この結論なんだ」と数行の文章で書いてしまって、それでよしとするほうが、ちょっと変ですよね。でも、香山さんのご指摘によると、今、日本人は読解力、想像力、公共力、辛抱力、配慮力、謙虚力、寛容力、ゲーム力、アニメ力、フェミニズム力、リベラル力、モラル力、身体力、生命力etc...、人間性のあらゆる方面の思考と感性と体力に「劣化」が深刻にひろがっているというのです…。劣化というのはつまり「品質低下」ということです。

香山リカさんは、わたしと同じ1960年生の精神科医です。この人はよくTVのワイドショー的なニュース番組に出演しておられますよね。だから知名度は高いと思います。わたしは、ワイドショー的なニュース番組というのに嫌悪を感じるので、そういうような番組に「コメンテイター」出演をよくする香山さんをなんとなく尊敬できないと思っていたのですが、香山さんが2006年に書かれた「テレビの罠」を読んで、「あ、けっこう鋭い」と思いました。引用文が多くて、いろんな参考文献にたどりつけるのがイイ。それ以来、香山さんの著作はどれも読むようにしています。たしかに「コメンテイター」としてお呼びがかかるのもうなずけると素直に思えました。わかりやすく話してくれますから。(「仕事の間だけうつになる人たち」はちょっと失望したけど…。)もっともTV局はまず彼女の知的な美貌に着目したんでしょうけれどもね。それでも、人目のつくところで発言できる機会を得やすいんだから、もっと香山さんご自身の思索とご意見をどんどん発言して言ってほしいな、と今では思いますけれどもね。

上記引用文の文脈では、新聞の活字が大きくなったのは、読みやすさへの配慮というのは表面的な言い分に過ぎず、活字が大きくなったのにページ数が増えていないということからして、新聞は情報量が減っているはずだ、それにもかかわらず現代人は、情報を得るのに新聞よりもネットを多く活用しているという統計調査より、活字離れが進んでいるのだ、と指摘されています。ほかに「あらすじで読む○○」といった本がよく売れること、音楽でも「さわりで聴くクラシック」、「サビで聴くモーツァルト」といったシリーズがよく売れることなどの例をあげて、「簡略化」が進んでいると喝破されています。

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答えを先に言えば、これは「長い本、字が小さい本、ちょっとむずかしい本は読めない、理解できない」という人が増えた、ということの結果なのだと言わざるをえない。日本語を読んだり、書いたりする力が、著しく低下しているのだ。

(上掲書)

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この記述のあとに、こんな例があげられています。

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日本語が満足にできない、というのは一般の若者に限ったことではない。医師向けの情報誌『週刊医学界新聞』で、ある総合病院の臨床教育部部長が、臨床研修の場で起きている恐るべき “学力低下” を報告している。

「日本語の文献を読んでも理解していない。自分で問診した患者さんの病歴をカルテに日本語で文章で記載できない。漢字も書けない。日本語もまともにできないのだから、もちろん英語の論文など読めるはずがない。…(中略)… 患者さんを診察するうえで絶対に知っていなければならない解剖・生理・薬理などの知識も当然のごとく知らない」(田中和豊「臨床医学航海術」、『週刊医学界新聞』2006年10月9日号)。

日本人に、何か重要な変化が起きているのではないだろうか。では、何が起きているのか。私は、年齢に関係なく、いま私たち日本人に起きていること、それをひとまず「劣化」と呼んでおこう。

(上掲書より)

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この本で、わたしがとくに注目した「劣化」現象は、「リベラリズムの劣化」です。香山さんはこのように指摘されています。

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しかし、さらに大きな規模で起きている劣化がある。それはひとことで言えば、「社会の劣化」である。

政治学者の姜尚中氏が、2006年に行われたある講演会のなかで、最近の政治、社会状況を指して「信じられないことばかりが起きている」と繰り返し語った。たとえば、10年前には「際物(キワモノ)」と見なされたような人物が、政治の中心に躍り出ている。声高に憲法改正が語られ、護憲派は “少数者” として白い目で見られる。講演会が行われたのは安倍晋三政権発足直後であったが、姜氏から見れば “無邪気で危険な政治家” と言える首相が、「人柄がよさそう」といった理由で当時は高い支持率を得ていた。それらは、ほんの10年前にはとても考えられなかったようなことばかり、と姜尚中氏は嘆息した。

安倍政権の支持率はその後、閣僚の相次ぐ不祥事や失言、造反議員の復党問題などで低下することになるが、それにもかかわらず、教育基本法の改正や防衛庁から防衛省への “昇格” といった大きな体制の変化が坦々と進行している。首相は国民投票法の早期成立、任期中の憲法改正にも意欲的だが、そのことは支持率にほとんど影響を及ぼしていないようだ。

ところが、そういった動きに抵抗を示すはずのリベラル派、左派と呼ばれる人たちの元気もない、と言われる。…(中略)…そのなかでもとくに目立つのが、護憲勢力の急速な失速であろう。2005年、自民党が新憲法の第一次素案を発表、これに対して「戦力の不保持」を規定している9条を守ろうとしている護憲派は反発、全国各地で「9条の会」などが結成され、その数は数千にも上るという報道もある。

しかし一方、新聞社などの世論調査では改憲賛成派が増え続け、いまやどの調査でも6割から7割が「改正は必要」「改正することがあってよい」と回答している。9条に関してはいまだに改正に対して慎重を期する声も大きいとも言われているが、そんななか、私自身も発起人のひとりとして名前を連ねているウェブサイト「マガジン9条」で、ちょっとした “事件” が起きた。06年1月に実施したアンケートで、「9条を変える」が82パーセント、「9条を変えない」が18パーセントという結果が出たのだ。

もちろんこれはウェブ上でのアンケートであり、「マガジン9条」に日ごろから批判的な若者たちが集団で「変える」に投票したことも考えられるのだが、もしそうだとしても、護憲派がネットを利用する若者たちにこれほど嫌悪されている、というのはそれはそれで重要な問題であろう。若者たちのリベラル離れについては、「ネット右翼」と称される激しい排外主義の人たちも含めてさまざまな分析が行われている。彼らの多くは、従来の保守主義者の多くがそうであったように、決していまの社会から恩恵をこうむったり、優遇されたりしているわけではない。なかにはフリーター、ニート、ワーキングプア、さらには「負け組み予備軍」などと称される、収入も地位も不安定な者までが含まれている、と考えられる。

政治学者の山口二郎氏は、2005年9月11日の自民党圧勝は、こうした「負け組み予備軍」層が小泉支持にまわったからだと説明している。それによると、「住宅面での衒示的消費(げんじてきしょうひ:衒示的とは、みせびらかせる、の意。人に見せびらかせる目的で買う、という意)の象徴である六本木ヒルズを見てもうらやましいとは感じないが、近所の公務員宿舎には腹が立つ」といったような「ゆがんだ平等主義」や「いびつな正義感」が日本に横溢しているため、負け組み予備軍ともいうべき都市の中間層やそれより待遇の悪い状態に甘んじている層が、熱狂的に小泉氏を支持した(「世界」/ 2005年12月号/ 「民主党はいま、何をなすべきか」)、という。

もちろん、「ゆがんだ平等主義」や「いびつな正義感」にもとづいて自民党に投票したからとかいっても、実際には自分が望むような「平等主義」や「正義」が実現するわけではない。それどころか小泉時代に格差がさらに拡大したことを考えると、彼らはいわば自分で自分の首を絞めたような格好になったわけだ。

しかし、いくら識者たちが「小泉や安倍の自民党は富裕者層のヒイキ的味方であって、生活も逼迫しがちなあなたを救ってくはくれない」と説明しても、彼ら「負け組み予備軍」の保守化は止まりそうもない。彼らは「自分は守られないだろう」と薄々わかっていてもあえて「リベラルよりはまし」と思って保守を支持しているのか、それともほんとうに「安倍政権が自分のようなワーキングプアの問題を解決してくれるに違いない」と思い込んでいるのか、そのあたりの見極めはむずかしい。


(上掲書より)

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わたしは、「自分は守られないだろう」とはうすうす、それこそ亡羊とした感覚として感じているが、それでもリベラルよりはまし、という考えがあるんだと思います。彼らはリベラルの人がいう意見に対し、おおかたこのように反応します。

「平和、平等などときれいごとを言うな。
この厳しい世界の現実が目に入らないのか。
自虐的なことを言って国を売るのがそんなに楽しいのか。
日本人を侮辱するつもりなら、さっさとこの国を出てゆけ」
(「いまどきの『常識』」/香山リカ・著)。

香山さんは勤めておられる大学のメールボックスに、このような手紙が投げ込まれるそうなのです。それは香山さんが新聞や雑誌に投稿した原稿を読んだ人が、抗議や批判のつもりで書くのだそうです。香山さんは一時ひどく傷つきますが、やがてこのように考え、気持ちを立て直します。

「待てよ、私は、この人たちにこれほど罵られなければならないようなことを言っただろうか。私は確かに「平和は何よりも大切だ」、「病んでいる人、弱い立場に置かれてしまった人、失敗してしまった人の身になって考えよう」、「他人を非難する前にまず自分の胸にきいてみよう」といったことは発言したが、日本や日本の国民を侮辱しよう、笑いものにしようなどと言っているわけではない。他人への配慮が欠けている人、理屈や分析よりも感情が優先されているように見える人に対して批判的なコメントをすることもあるが、それがなぜ「自虐的」「国を売ること」になるのだろうか…」。

彼らが支持する人たちを批判することは、彼らにとっては「日本という国を侮辱することであり、それはそのまま自分自身への侮辱であるので、たいへんに傷つく」ことなのです。




エホバの証人時代のことなのですが、「巡回監督」という地位の高い権力者(*)が、私のいた会衆で、ひどく身びいきで不公正な人事を行いました。有能でこちらの気持ちになって接してくれ、知識も豊かで、講演や講話も深みがあって、名演説者の評判をとる兄弟が言いがかり的な罪を着せられて、降格されました。それどころか、半年は集会の前に代表して祈ることや、ものみの塔研究で、手を上げて答えることが許されないという、ほとんど排斥者に対するのと同様の屈辱的な処分を受けました。これは実際には、彼の才能と人気を妬んだ会衆の主宰監督と、自意識の過剰な巡回監督のこれまた妬みが共同して成し遂げられた文字通りの「陰謀」でした。彼らにとって指導部の人より目立つ人物が許せないのです。

 (*)共産党で言えば「細胞」に当たる、地元のエホバの証人の単位である「会衆」を巡礼して回る監督。旅行する監督とも言われる。「巡回訪問」は中央の指示を徹底させるために取り決められた。君が代が生徒、教師の両方に指三本分入るくらい口を開けてしっかり歌っているかどうかを見届けるため、東京都の学校の卒業式に派遣される都教育委員会の人間と同じ役割をする。

会衆の姉妹たちも、さすがにこれには怒りを覚えたので、最初は降格された兄弟に同情的でした。しかし、会衆の若い人たちが動揺し始め、集会に来なくなったり、義務づけられている布教活動にも参加しないようになると、ちょっと様子が変わってきました。姉妹たちもベテランの兄弟たちも、次第にその兄弟に冷淡になっていったのです。それどころか、結局その兄弟が悪かったのだと陰で言うようになりました。やがてまったく無視、という仕打ちや、一応レクレーションに呼んでおいて、でもその兄弟が来るとあからさまにイヤ~な顔をしたりと、いわゆる「モラル・ハラスメント」を加えるようになったのです。やがてその兄弟は体調を崩し、不活発になりました。

このような状況になってしまったのは、会衆の士気に深刻なダメージを受けたとき、同時にそれは、自分たちが以前からうすうす気づいていたことがはっきり自分の脳裡に現れるようになったからです。つまり、エホバの証人の組織は決して「神の霊感」に導かれたものではなく、ただ単に権力の座にいたがる一部の人間に支配された、支配-被支配機構でしかないということを認めなければならない事態になったのです。しかしそれを認めると、エホバの証人の組織に認められるために、友人関係も、親戚関係も、人によっては家庭も犠牲にしてきた数十年の自分の人生も否定しなければならなくなるのです。

「それはできない。いまさら、エホバの証人の人生から引き返すことはできない。それが困難なほど自分はエホバの証人という宗教に入り込んでいる。もう外の世界には自分の居場所はないのだ。エホバの証人にとどまっていれば、そこそこの地位があるし、偉そうにしていられる…。いまから一から出直すとすれば、また丁稚から出直しだ、この年になって丁稚なんて…。イヤだ、自分にはできない…」。

心の中でだいたいこのような考えが走り、自分を否定してまでエホバの証人の真実の姿を認めるよりは、エホバの証人のほうが正しくて、あの兄弟が間違っているんだということにすれば、自分は守ることができる…、とこういう計算の下に、罪もないけれど権力に翻弄された兄弟のほうを憎むようになるのです。人は自分の嘘を正当化するために、他人に責任を転嫁する場合があります。「カインは自分の兄弟を打ち殺しました。何のためですか。自分の業が邪悪で、彼の兄弟の業が義にかなっていたからです(ヨハネ第一3:12)」。



香山さんに脅迫的な手紙を書く人たちも、自分の将来を不幸にする自民党に、「リベラルよりはまし」として票を投じる「負け組み予備軍」の人たちも似たようなものです。わたしは何となくですが感じているんですが、彼らは劣等感が強いのです。そしてリベラルな論客たちは理性的で、よく勉強しているので知識もそれなりに豊富です。それに対して理論を持って議論していくことができないのです。つまりより劣等感を感じさせられるのです。心理学者のテッサーは自己評価維持モデルという理論を立てました。人は自尊心を維持するために、自分より努力した人を遠ざけたり、排除しようとするのです。

また、劣等感の強い人たちは、神とか国家とかいう「強大」な存在に自分を同一化して、本来脆弱だったアイデンティティを安定させようとします。つまり、幼児にとっての母親のような存在なのです、彼らにとって国家、神は。幼い子どもは自分のお母さんの悪口を言われるとひどく怒ります。いまや国家は、日の丸は彼らのアイデンティティにとって欠くことのできない基礎=母親なのです。その「母親」が中国や北朝鮮に評価されないのが悔しい、とでも言うのでしょうか…。また自分自身を含む国民を切り捨てて、一部の人間にだけ儲けさせようとする政策を推し進めようとするのを批判することが、彼らにとっては「売国」になるのでしょうか。「お母さん」はどんなことをしようと、どんなに独善的であろうと守らなければならないもの、と彼らは解釈するのです。

だからこそいま、将来自分の生活、自分の生存を脅かすことになるであろう自民党と経団連に支持を与えるのです。ここで、将来の大きな悲劇は理屈としては理解できても、感情的に、感情的に実感できていないのです。これは人間の自然な傾向かもしれません。目先のメンツの維持のために、目先のラクのために、将来の大きな悲劇を招くかもしれない選択を、人間は極限状況ではとってしまうことがあります。それが「冤罪」を受け入れる被疑者の心理です。被疑者はなぜ、やってもいない罪を自白するのか。それは今現在の心理的極限状況から逃れることで精いっぱいで、将来の死刑という悲劇を実感し切れないことにあるのです。このことについては、「冤罪…」の「後編」で書きます。

香山さんの指摘されるわたしたち国民の「劣化」、これが現在の日本を反動的方向へ導いている原動力なのです。昨日付け(2007年5月3日)毎日新聞の全国世論調査の結果は、改憲賛成が51%にのぼったと伝えています。理由は、60年たって時代に合っていない、一度も改正されていないから、というものです。安倍さんたちが言うように、米国の押し付けだからという、もう古い理由をあげる人は少数派のようです。安倍さんの意識とは少しズレはあるものの、憲法を変えたいとは考えているというのが世論なんだそうです。

メンタルな視点をエッセイ風に語る香山流。時間に余裕のある方は、香山さんの力作「テレビの罠」とあわせて、「なぜ日本人は劣化したか」、お読みになるのはいかがでしょう? 



コメント (2)
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