自己犠牲は落とし穴です。それは決して美徳ではありません。大切な人から愛されなかった過去を取り戻そうとする、一種の執着であり、また自分の劣等感や無価値観を正当化しようとする、人間心理の不思議で、不可解な、歪んだ衝動なのです。カウンセラーによるこんな文章があります。
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【愛の返ってこない人を愛さないで】
愛の返ってこない人を愛してしまっていませんか。
夫や妻のある人を愛してしまうと、愛は返ってきません。
忙しすぎて自分と一緒に過ごす時間のない人を愛してしまうと、愛は返ってきません。
感情の冷たい人を愛してしまうと、愛は返ってきません。
利己的で、自己中心の人を愛してしまうと、愛は返ってきません。
アルコール、ギャンブル、セックス、ショッピング、食べ物などに依存、嗜癖しているを愛すると、愛は返ってきません。
子どもっぽい未熟な人を愛すると、愛は返ってきません。
怒りを爆発させたり、暴力を振るう人を愛してしまうと、愛は返ってきません。
手に入らない不倫の愛はますます魅力的に感じられ、
自分と一緒の時間が取れない人は得がたい大切な人に感じられ、
自分のことしか考えられない利己的な人は偉く見え、
依存症になっている人は助けてあげなければと思い、
子どもっぽい未熟な人はチャーミングに見えて、
父親代わりや母親代わりになってあげたいという気持ちになり、
暴力を振るう人には、自分が悪いから相手は怒って暴力を振るう、
だから怒らせないようにしなくてはなどと、どんどん相手に引き込まれるように愛してしまいます。
こういう愛は、いくら時間を費やしても、努力をしても、お金を使っても、満足のゆくような愛は返ってきません。愛が返ってこないというのはつまり、愛されないということです。愛の返ってこない人を愛するのはもうやめましょう。なぜなら、なぜなら「あなたは愛されるのに値する人間」なのですから。
(「心の傷を癒すカウンセリング366日」/ 西尾和美・著)
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愛されなくても、自分はあの人を愛し続ける…、あの人しか考えられない…、愛してしまったらもう終わりよ…。こういう「自己犠牲的」な愛は決して高貴なものではありません。わたしたちは哺乳類です。ヒトはコミュニケーションを与え、そして与えられることで、自分が相手から承認されることを識ります。誰かから愛されるということは、自分の存在が尊重されていると確認できることです。そういうときにわたしたちは生きがいを実感し、しあわせを実感できるのだと、わたしは思います。
だから、実らない関係は清算しよう。愛することのできない人は、人間のできそこないなのです。ロボットと似たようなものなのです。そういう人に愛情をいくら注ぎ込んでも、自分の全身全霊を注ぎ込んでも、何ひとつ自分自身は満たされないのです。相手の人は自分の満足しか求めない自己中心的な人、したがって残酷な人なのです。情緒的な成長が幼児の段階で止まったままなのです。そういう人は他人の愛情を簒奪して生きてゆく吸血鬼のような人です。ひとりを吸い尽くすとこんどは別の餌食を求めてゆくのです。
そう、西尾先生のおっしゃるとおり、「わたし自身は愛されるのに値する」人間なのです。自分も愛されることを求めてもよいのです。いいえ、求めなければなりません。わたしは人間として生まれてきた以上、しあわせになる権利があるからです。「自己犠牲的な愛」は愛ではない。愚かな浪費です。
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・利己的で、自己中心の人
・子どもっぽい未熟な人
・暴力を振るう人
の3つを併せ持ってるようなダンナさまがいる人がいるの。
いつもため息だし、疲れきってすさんでるように見えるの。
この人にとって「切る」ってことは
離婚するってことでしょ?
でも、それは出来ないんだって。
その人はね、もうダンナのことは全然愛してないんだって。
で、愛されても困るんだって。
でも子供がいるから運命共同体なんだから
子供の親として夫としての役割は果たしてもらうんだって。
自分も親と妻の役割は果たすんだって。
だから子供に執着するんだって。
でもねー・・・私から見てると
子供に対して、とっても過酷な扱いしてるように見えるの。
子供から何かの用事で電話があったりすると
「○○やっとけ!!」とか
「いいか?わかったか!?」とか
すべて命令口調で言ってるのが聞こえるの。
私が子供だったらすごくイヤだな~って思うの。
こういう人はどうなってるの?
見ていて全然幸せじゃなくみえるの。
確かに離婚って簡単じゃないと思うし
この人が言うことも仕方がないと思うんだけど・・・。
なんだか見ていて“こんな結婚イヤだなぁ~・・・”
って思わされます
スゴイ夫婦ですね…。
確かに子どもがかわいそうですね…。
なんだか、自分のうっ憤晴らしのために
子どもに八つ当たりしているような…。
ホントに嫌な結婚関係ですね…。
女性が離婚後に、子どもと生きてゆくって、
たしかにやさしいことじゃないとは聴きますが…。
でもこんなふうになるんなら、なんだかなあって思います。
子どもを巻き込んじゃダメですよね。
紛れもない、「自己犠牲」です。
筆者さん言うの愛は自己愛。仏教的愛に近い、不浄の概念です。こうすれば、確かに自分に帰ってこない事への不条理は説けます。与えたのに、帰ってこないなら意味がない。仏教はこれも最後は廻り廻って帰ってくると言っていますが余談ですね。
日本において、愛という概念が多様化している事は、是非知っておいて下さい。
「愛」ということばにきちんと定義を与えていないことが、この記事の欠点ですね。加賀さんがおっしゃる「愛」は宗教的、道徳的な意味でしょうか。
西尾先生がおっしゃる「愛」は人間同士のコミュニケーションにおいて「相手を認めること」という意味です。
見返りを求めないという種類のコミュニケーションは重要です。
それは特に、親が子どもに示すべき態度です。
家の名を継がねばならぬ、
親の職を継がねばならぬ、
親の宗教を、子も内面化させねばならぬ…
というような極端な例はもちろん、子どもの心のなかに、気持ちに重い不満を生じさせます。
間もなくその重い不満は「やり場のない怒り」といわれているものに変わります。
ごくまれにその怒りは世間に向けられることがあり、面識のない人々への攻撃として表現されることがあります。
こんな極端でなくても、見返りを暗に求めるコミュニケーションは、暗に見返りを求められた人の側に重苦しい気分を与えます。
こういう人間関係は長続きしません。暗に見返りを求めるコミュニケーションを行う人はやがて捨てられるでしょう。
恋人という交際でも、夫婦という暮らしでも、人間はコミュニケーションを交わさなければ気持ちをつなげていくことはできません。コミュニケーションは、相手への肯定的な関心を具体的に示すものでなければ心地よい関係は織り上げられません。
いま述べた、「相手への肯定的な関心」が西尾先生がおっしゃられているところの「愛」の意味です。
抽象的な意味での愛の思想の現代的意味についてはわたしは不勉強で何とも言えませんが、親しい付き合いを続けていくのに、相手を肯定的に受容していく、というコミュニケーションは不可欠だという考え、いえ、欲求については西尾先生のおっしゃるとおりであり、わたしもまったく同意しています。これからもそうでしょう。
DVに苦しむ女性たちは、DV夫が「優しいモード」の周期に入ると、夫は変わってくれるという幻想を信じて、戻ってゆくのです。エホバの証人の上層部に不満いっぱいの人々も、たまに自分の気持ちを代弁してくれるような研究記事が書かれたり、ハラスメント長老が長老職削除になったりしたときに、「エホバ神が行動してくださる」という盲信を固めて、宗教にとどまり続けるのです。
自分が耐えていればいつかは報われる、という種類の愛こそ、自分の弱さをごまかす種類の自己愛ではないでしょうか。わたしはそう思います。
それにわたしは、愛についての考え方ではキリスト教より仏教のほうがすぐれていると確信しています。
仏教では「愛」は執着であり、執着を捨てて初めて苦難から抜け出ることができるといいます。正確ではないかもしれませんが。
事実、愛は客観的にいえば「執着する力」です。愛が国家や民族主義に結びつけば、エスニック・クレンジング(民族浄化)というような大量の流血を伴う排撃主義に陥るのです。いま、日本がこういう状況に徐々に毒されています。
DV男も専制的宗教指導者も、加賀さんがおっしゃるように、愛が自分に結びついているのです。彼らは自分を愛するよう相手に強要するのです。そのくせ自分のほうでは相手の心の必要、「肯定的な関心を具体的に示してほしい」というパートナー関係なら当然に要求する心の必要にはまったく無関心で、無関心どころか意図的にそれをはく奪するのです。
つまり、肯定的とは逆の、否定的な言動、罵倒、人格否定、人格への中傷、思考否定、趣味否定、行動規制などを加えます。とくに、身体的暴力を加えながらこれらの心理的攻撃が加えられると、人間は自分がそれまで信じてきたものの考え方、自分についての感じ方などを捨ててしまい、相手の言うとおりの考え方、相手の言うとおりの自己評価を受け入れてしまうようになります。これは中国共産党が捕虜を使って行われた思想改造、共産主義への転向を図って行われた思想改造を研究したひとによって明らかにされました。その思想改造は、あるイギリス人ジャーナリストによってこう名づけられました。「Brain Washinng」つまり「洗脳」です。
人間同士のコミュニケーションでは「対等」と「肯定的受容」が必要不可欠なのです。そしてそれらがここで言われている意味での「愛」です。
西尾先生のカウンセリング料はとても高額ですね。
ご主旨への感想は、加賀さんへのお返事で間に合うと思います。