Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「笑っていいとも」? 神経を疑いたくなる人びと

2009年03月15日 | 「世界」を読む

こういう時事ネタは主にヤフーのほうのブログに書こうというのが方針なんですが、ヤフーは使えないブログでして、本文5000字、コメント欄にいたっては500時しか容量がなくて、字数オーバーでエントリーできませんでした。

で、まあ、ホーム・グラウンドであるこのブログにエントリーすることにしました。こちらのブログは基礎知識的なことを自分なりに推敲して、まとまったものとしてエントリーしたいんですが、ヤフー用はとにかく思い立ったことを、まとまりを気にせずに書き綴っていく方針です。で、もうぜんぜんまとまってないんですが、ことの起こりは週刊金曜日に掲載された投書に共感したことです。

いつも以上に読みづらいとは思いますが、おやつでも食べながら、暇つぶしに読んでいただけたらうれしいです。

 


死刑にまつわる話で、週刊金曜日の投書にこんな一文が掲載されました。とても共感できたので、この投書に触発されて、感じたことをかなり脱線しつつ、つれづれ書いてみました。

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TVをはじめとしてちまたに送り出される「笑い」は非情に低俗で幼稚なものが多くなりました。日々の暮らしの中で私たち日本人はそこまでして「笑い」を取る必要があるのでしょうか。特にそう感じたのは、TVで放映されていた党員または支持者を前にしての鳩山邦夫総務大臣のことばを聞いた時でした。

「私は法務大臣の時、13人の死刑囚に…」、ここまで語ったところで会場から笑いが起こるのです。私にはにわかに信じがたい光景でした。

続けて、「死刑を執行しましたので、『朝日新聞』からは『死神』と呼ばれました。今回かんぽの宿の問題では、『かんぽの神さま』と呼ばれています」。

ここで会場は大いに沸きます。

 

大臣の口調からして多分、「笑い」を取ろうとしていることが分かり、聴衆がすばやく反応したせいなのでしょうが、なぜ彼らは「13人に死刑執行」と聞いて笑ったのでしょう。また大臣も笑いを取るための前置きとして、どうしてそのように重い事実を「枕詞」として軽々しく使ったのでしょう。

死刑囚とはいえ、鳩山さんの決断によって命が絶たれた13人です。その責任は死ぬまで大臣が心に留め置くべきものです。命に対して、これほど鈍感な人が大臣であることに私は耐え難いものを感じます。

 

先日、ニュース番組で、死刑について(執行方法など)街頭でインタビューをしていました。そのなかで、「死刑については何も知らないし、知りたくない」と答えた人がいましたが、私はそれは間違っていると思います。

裁判員制度が導入され、死刑制度があるわが国では、その極刑である死刑まで含めた量刑を念頭において裁判に参加、判決を下さねばなりません。ですから当然「知っているべきこと」。

 

私は、国家公務員死刑を執行される方の存在を認めているこの国の制度を肯定することができません。鳩山さんは、その職業の方々のことを思いやったことがおありでしょうか。「知りたくない」と答えた方もまた。

あんなに命に敬意を払えない大臣は政治家としてはもちろん、人間としても失格だと今日の姿(TV番組で、死刑執行をネタに笑いを取ったすがた)を見て私は思いました。

 


(「週刊金曜日」09年3月13日号、投書欄より)

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死刑という制度は時代錯誤であり、犯罪抑止効果もなく、人権擁護の方針に真っ向から逆らう制度です。死刑は国会での議論によって廃止に追い込むべき制度です。特に日本では冤罪が多すぎる。警察・検察・裁判所の権威ある人の下した結論を覆すのはあたかも礼を失したことでもあるかのような考え方のため、再審請求が通らず、証拠に裏づけられていない判決で人が死刑になってゆく、こんな異常な暴力があっていいはずがないのです。またマスコミの煽るままに、日頃のうっ憤に火をつけられる「国民感情」という圧力によって人が死刑にされてゆく、こんなのはただの暴力です。

罪のない人間を死に至らしめる行為が死刑にふさわしいというのであれば、冤罪で無実の人間を死に至らしめた警察官、検察官、裁判所、また死刑の国民感情を煽ったマスコミ、そして感情を煽られて無実の人間の死刑を支持した国民自身は死刑にしなくていいのでしょうか。

しかしいまのところ、法で死刑が定められ、憲法解釈でも合憲とされている以上、法務大臣が死刑執行にゴーサインを出すのを間違ったことであるかのように書いた朝日新聞はたしかに常軌を逸していたと思います。元来、刑訴法では死刑確定後6ヶ月以内に執行するように定められているのですから、何年も先延ばしにする方が、精神的苦痛を増すことにならないかとさえ思います。

法で死刑が定められており、死刑が確定した囚人が刑を執行されてゆく。しかし囚人はやはり最後まで人間なのです。人間が意図的に死に至らしめられるのですから、それはやはり厳粛に受けとめるべきです。人殺しは罪だと定める法の側が人を殺す。死刑とは人殺しなのですからそれを笑いのネタにする神経が批判されるのは当然だと思います。

なにかのネタを笑う、というのは、そのネタとなったことを受容するということなのです。元法務大臣、現役の総務大臣が笑いを取ろうとして、死刑囚の死をネタにする、それを笑った聴衆は、「人の命を終わらせる行為はおもしろい」という感覚を受容したのです。こういう人たちが、マスコミの煽るまま怒りの感情をほとばしらせ、死刑だ、死刑だ、殺せ、殺せと騒ぎ立てるのでしょう。人ひとりを殺す判定ですから、慎重に議論をつくした上で決めるべきことでしょう、死刑判決は。それなのに日頃のうっ憤をぶつける対象にしてしまうわたしたち。冤罪の人にさえ、聞く耳持たず、予断に歪んだマスコミの情報をうのみにして、まるでプロレスを見るときみたいに、倒せ倒せ、殺せ殺せと騒ぐ。死んだら今度はそれを笑いのネタにする。冤罪と分かったら、思い出さないようにする。

わたしたち国民の、この幼稚な精神構造はどうやって生み出されたのでしょうか。いえ、なぜわたしたち大の大人がこんなに幼稚な心のままなのでしょうか。とくに引用文のなかの、「死刑については知りたくない」と言う人。暗く、重たいことであるが、紛うことのない事実であることに向き合えない人たち、学校の先生はとくに80年代に入ってからは、そういう子どもが増えてきた、と指摘されています。この指摘は興味深いんです。戦争を伝える平和教育に関する発言なんですが、私たち戦後の日本人がなぜ、戦争を肯定できるのかについて一つの観察が述べられました。戦争も死刑と同じく、殺人が法によって許されるものです。ここに、死刑執行を「笑える」神経の解明があるように、私は思います。以下にその発言を引用します。


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1980年代の半ば頃から子どもたちの様子がずいぶん変わってきました。成田さん(成田龍一 日本女子大学人間科学部教授)が、歴史研究では戦争の生々しさが見えてこなかったということを先ほど言われましたが、80年代の後半から、授業において戦争の生々しさを教えると子どもたちが逆に「ひく (=引く)」という現象が出てきました。

原爆をテーマにした授業で、リアルな原爆のようすを聞かせると、「ひく」子どもたちが出始めました。日本軍が中国で何をしたのか、加害の研究が80年代には大きく解明されるようになりましたが、その成果を子どもたちに話すと、「ひく」という現象が見られるようになったんです。

 

(渡辺賢二・現明治大学非常勤講師/ 「歴史教育と歴史研究をつなぐ」・山田朗・編)

 

 


渡辺さんが、戦争の生々しさが教えにくくなっているという話、つまり平和教育が成立しにくい背景については、このように感じています。

教育の世界では最近、子どもたちの生きづらさということがよく指摘されます。それは「ゆとり教育」とは名ばかりで、学力向上への過度の競争圧力があり、あるいは管理教育が以前重くのしかかっており、あるいは暴力の(教師・生徒双方で)渦中にあり、いじめが蔓延しており…、そういう平和とは反する状況が子どもたちの生活のなかにある、ということだと思うのです。そのような状況において、子どもたちの側からすればふたつのリアクションがあると私は感じました。

ひとつは、「いい点をとれるようにがんばれ」という競争圧力のなかで勝ち残るために自分たち(子どもたち自身)も闘っているんだ、それがよくないことはわかっているけれども、自分たちが勝ち残るためにはしかたがないんだ-このような発想が子どもたちのなかに生活実感としてあり、それが日本の戦争などを肯定してしまうような背景に結びついているのではないかと思うのです。

…戦争だからいろいろあったんだ、しょうがないじゃないか、日本が生き残るためにはしかたないことだったんだ…

そういう戦争を肯定する論調に共感してしまうような実感が90年代前後から顕著になったんじゃないか。

もうひとつは、そういう過度の競争圧力や暴力・いじめが蔓延する状況のなかで、だからそういう殺伐とした社会や世の中はいただ、もっとやさしい癒しの空間にはまりたいんだ、だから戦争の話なんかごめん被る…、そういう反応です。戦争は怖ろしいからいやだ、話さないで、聞きたくない…そういう反応がもう一方で出てきているのではないかと思うのです。

先日、学校の現場の先生に社会科教育について集中講義をする機会がありました。その際、息抜きに合間合間で、沖縄戦を描いたアニメ『かんからさんしん』(小林治監督、1989年)のような戦争の映画を二、三本見せたところ、講義のあとに提出してもらった感想のなかでこのようなことを書かれた方(学校の現場で働く「先生」のこと)がいました。

「戦争のことは、わたしはほとんど授業で深く取り扱ったことはありません。わたしにとって戦争は怖ろしいものというばかりで、ビデオを見るのも怖いです。それに戦争を取り上げると思想教育だと勘違いされそうで、ずっと逃げています」。

私と同じ世代の40代の小学校の先生がすでにそういう感覚になっている。戦争は怖ろしいものだから、授業で扱うには影響が大きすぎる、そういった感覚があるのではないかと思います。

 

(久保田貢・現愛知県立大学文学部准教授/ 「歴史教育と歴史研究をつなぐ」/ 山田朗・編)

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人権を踏みにじる管理教育の重たーい圧力を耐え抜き、度を越した競争、誤まった競争を必死で生き残ろうとしてきたために、自分を守るために他人が押しのけられてゆくことはしょうがないことなんだ、という感じ方が、判断する際の基準になってしまったということです。

死刑執行というネタで笑える人、というのは、つまり人を殺すという重たい役目のまさにその重たさに耐えられない人が、軽く笑ってしまうことで、直視することを無意識に避けている、ということではないでしょうか。もちろん、あまり深く考えないで、笑いを取ろうとする「空気を読んで」、その場面にふさわしい反応である「笑う」という挙動に出ただけの人いたかもしれません。そういう人は、いつも空気を読んでその場に受け容れられる反応をすることに追われている、という意味で、やはり主体性を見失っているということができるかもしれません。

感情的に死刑を叫ぶのも、競争から追い落とされる恐怖と、自分を押し殺して生きている不満、そういう緊張状態に立脚した「平穏」な暮らしを脅かすものへのヒステリックな抵抗なのかもしれません。わたしたちはそれほどに、競争と管理のために心が押し潰されており、近隣の人びとと連帯できず、孤立してしまっているということなのでしょう。幼児虐待が行われているのはほとんどいつも孤立した家庭、孤立した親元で、ですしね。自分の周囲だけのヒーリングを守るために、とげとげしくなっているのでしょう。


カルト宗教にハマっているひとがこんな感じでした。指導部が流す情報に動かされて生きている人たちです。操作されて生きている人たちです。ある熱心なカルト信者の子どもさんが手記を残しています。そこにこのようなことが書かれていました。

 

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私も小学校高学年になるとムチで叩かれることはほとんどなくなりましたが、この頃になると私の人間としての感覚も完全に異常になっていて、2世の子供にはムチは絶対に必要で、2世の子供にムチをするからこそ正しいエホバの証人になれる。もし2世にムチをしなければ、絶対にまともなエホバの証人にはなれない。というふうに考え方が変化していきます。


集会中に子供がむずむずし出すと、その子供がどうにも許せなくなり、姉妹達は何をしているのかと2世達が姉妹達を見ます。その視線に気が付いた姉妹達は姉妹同士で目線を交わしあい、人差し指で該当する子供の母親を指さし始めます。すると、一番近くにいる姉妹がその母親の背中を軽く指でつつき、その母親は子供を引っ張ってトイレに連れ込みます。


すると、いきなり状況が変わって自分の身に起きる悲劇に気づいた子供は「ごめんなさい、ごめんなさい、おとなしくします、もうしません、もうしません」と言いながらトイレに連れ込まれ、30秒位経ってから、「ぱんぱんぱんぱん」と音が聞こえだして、「うぎゃー!」という絶叫が会場内に響き渡ります。


しかしだれもそれを止めないし、特に子供がかわいそうとも思えず、私も当然ながら顔色一つ変わらずに「がんばれよ、みんなそうやって正しいエホバの証人になって行くんだよ、エホバに感謝しなくちゃね」と思っていました。


この時代の自分の異常な考え方や感覚はうまく説明できませんね。自分がムチで叩かれたからこそ、まともなエホバの証人になれたと組織に洗脳されていたとしか言いようがありません。それが週3回の当たり前の日常でしたから、JW (エホバの証人の略称。Jehobah's Wittness )を辞めてしばらく経って気が付くまで、自分の心の中にムチのトラウマがあったなんて感覚は一切ありませんでした。

 

ホームページ 「昼寝するぶた」のコンテンツ、「なぜムチなんだ?」中編より

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「ムチ」というのは、道具を使って子どもに加えられる体罰です。体罰により屈辱と依存心を思い知らせて、親の気に入る「よい子」としてふるまわせようとするのです。エホバの証人として生きた経験から言いますが、体罰は何ひとつよい成果をもたらしません。体罰によっておとなしくなるのは、「抑えこまれている」にすぎないのです。体罰を常習的に受けていると、体罰を受けてきた子は暴力を畏怖し(畏怖するというのはただ単に恐怖するのではなく、それに敬意を持つという意味です。怖れかしこむ、と言う意味です)、暴力が恐怖を与える効果を学習し、コミュニケーションに暴力を取り入れるようになります。

暴力をコミュニケーションに取り入れる、というのはつまり、愛情の表現として殴り、要求を訴えるのに殴り、自分の不満を訴えるのに殴るのです。そして中年近くになって居場所ができると、暴力はいまの自分を形成するのに必要だったという感想をさえ持つようになります。暴力を支持、擁護するようになるのです。上記の手記の引用文は、常習的な体罰をうけることによって、暴力を容認し、賞賛さえするようになった心理を表現しているのです。

日本はアメリカと同様、伝統的に体罰を容認する傾向が強い風土でした。暴力はむしろ世直しや矯正に有用だという考え方の土壌がありましたが、それは暴力によって子育てが行われてきた結果なのでしょう。TV番組を見ていても、暴力によって善玉が悪玉を退治して正義が行き渡ったというようなストーリーの多いこと。暴力を容認する教育、精神風土が、死刑や戦争を肯定できる心理的決定要因にもなっているのだと思います。

 


えーっと、かなり話がドライブしちゃって脱線しまくりでここまできましたが、ヤフーは5000字しか書けないんですよね、大丈夫かな。

ま、とにかく、死刑を執行するというのは、人を殺すということですから、それは厳粛・深刻に受け止めるべきであり、怖ろしいことではあっても、裁判員制度が間もなく始まろうとしている以上、人を殺すという判断を自分がするかもしれないという現実を逃げずに直視しなければならない、決して笑いのネタにするようなことをすべきではないし、そんな人は人格や品性を疑われて当然だという投書に共感しました、ということです。

お粗末な文章で失礼しました。でも私が言おうとしたことは理解していただけたら幸いです。

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2 コメント

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もう少し調べてから記事書いて下さい (カナディアン)
2017-08-07 08:49:31
死刑囚をいつまでも生かしておくことが国益にならないと考え、自分の決定で命を奪うことを決意した人間を侮辱することは許されない行為だと思います。
朝日新聞に「死神」と書かれた後に国民から何万という抗議が来たことをご存知ですか?
故鳩山邦夫氏がその記事に対してどれだけの憤りを感じたかご存知ですか?
テレビでの発言は"死刑囚たち"を貶めて笑いを取ったのではなく普段から嘘八百を並べたて、あまつさえ自分を貶めるような記事を書いた"朝日新聞"に対する皮肉で笑いを取ったのです。
そのことすら知らずにこんな記事を書いて「人間失格」など片腹痛いです。
朝日新聞の死神報道事件について関連事項をいくつか調べてはいかがですか?
即刻本記事の訂正と故鳩山邦夫氏への謝罪を求めます。
己の過ちを認めることすらできず、こんな薄っぺらな記事しか書けないのならあなたこそ人間失格だと思います。
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タイムリーきわまるコメントご苦労さん (ルナ)
2017-08-07 09:38:05
アホのネトウヨの癇癪引き出せたら図星を突いたということで、たいへん光栄です。お褒めいただきありがとうございました。
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