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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

ことばづかいで探るブロガー&コメンターの深層心理(上)

2009年07月26日 | トリビア

今日はちょっと軽めの話題…のつもりでしたが、書き終わってみるとけっこう重くなった部分もありました。

「話し方で相手の心の9割がわかる」と題する、自己啓発系? ポップサイコロジー系? の本を購入して、帰りの電車内で読みきりました。面白かったのでご紹介します。

ネトウヨ系の粗暴なコメント、高圧的なコメント分析、ブロガー分析などにも使ってみたら楽しいと思います。ちょっと息抜きに、まあ、ご覧になってみてください。


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【口ぐせ編】

■「ここだけの話だけど…」という口ぐせのひとは…

①自己顕示欲の強い人。自分に注目を集めたい人。
  「ここだけの話」とことわることで、情報の価値を高めて、自分が人に教える立場、助言や忠告をたれる立場であることを顕示しようとする。

②小心で責任逃れタイプのひと。
  自分がしゃべったことで、あとで問題(あるいは「騒ぎ」)になったらどうしよう、とビクビクしている人。「ここだけの話」とことわることで、ほかに広げたりしないでよと念押しのセリフ。

 

▽「ここだけの話だけど…」の有効利用する。
 「ここだけの話だけど…」ということで、その場にいる人との連帯感を強める作用があり、「秘密を守ってくれるよね」というこちらの信頼を表明することにもなり、信頼関係を一歩強めることができる。

 ただし、やたらめったら「ここだけの話」を連発すると、軽い人間、週刊誌人間のレッテルを貼られてしまうかも。

 「ここだけの話」はここぞ、というときにするからこそ信頼関係につながるもの。

 

 

■「キミだけに言うけど…」と内緒話をしたがるひとは…

男性からこのように言われるのは、言われたほうに気がある証拠。
 自分の秘密やプライベートなことを思い切って打ち明けるのは、相手を信頼している証拠、好意を寄せている証しです。あるいは、もっと親しくなりたいというサインを送っている可能性もあり。

女性の場合、周囲とコミュニケーションを深め、調和しようとする傾向が男性よりずっと強い。だから「打ち明け話」の回数が増える。内緒話は信頼と親和意欲の表明ですから。ですから、女性から男性への「あなただけに言うことだけど」ということばを特別な好意だと思い込むと、じつはほかの人にも同じように言っていた、ということもあるかも。

 


▽反対に、自分のことは一切話さないひとは…
 自己防御に一生けんめいなタイプ。相手と深く関わりたくないという気持ちの表れ。傷つくことへの怖れのために心理的に引きこもってしまっているとか、他人を信用できず、「どうせ自分のいうことなどちゃんと聞いてもらえない」とスネているか、強い劣等感の埋め合わせのため、「おまえらなんかとまともにつき合えるか」という見下しのサインの表明である場合。

 

 

■「今だから言うけど…」と言わなきゃ気がすまないひとは…

①サービス精神旺盛なひとで、おしゃべりの場を盛り上げたいひと。
  
②優越感を得たいひと、自慢したいひと。
  他人が知らないことを知っているというのは気持ちがいいもの。大したことではなくても、相手が知らないことを自分が知っていると、自分の方が偉くなったような気になれる。他人より一歩リードしているんだぞ、という優越感を味わえる。

 

 

■「こんなことは言いたくないけど…」と言うひとは…

相手を見下していることを言外にあらわしている。あるいは相手は自分より下であるということを思い知らせ(または、認めさせ)ようとしている。攻撃的な言いかた。聞かされるほうを確実に怒らせる言いかたで、また怒らせて=あいての感情をかく乱させて、自分は冷静に振る舞うことで、周囲にも自分の優越性を演出してみせることができる。

「言いたくないけど」ということばは「言われたくない」の裏返し。「オレも言われるのはイヤだから、おまえも言われたくないという気持ちは分かる。だからホントは言いたくないが、それでも言わずにはおれない。おまえがそれだけだめなヤツだ」という意味合いを多分に含んでいる言いかた。

「じゃあ、聞きたくないね」
「聞きたくないが、そこでしゃべっているのは勝手だよ」と応えるのもひとつの手。ただしケンカになる可能性大。その点要注意。でもそもそも「こんなことは言いたくないけれど」という言いかたで攻撃を仕かけてくることのほうが失礼なこと。相手を下に置こうという企ては失礼千万。下手(したで)にでる必要はなし。

 

 


【とっさの返答編】

■「はい、検討します」でお茶をにごすひとは…。

相手に賛成ではないが、あからさまにそうは言えないときの逃げ口上のことば。
 そう言うひとは、検討はするでしょうが、それは相手の意見を取り入れようというのではなく、自分の意見をどう通すか、という方向での仕切りなおしでしょう。したがって、「はい、検討します」ということばが出たときは、相手はこちらのいうことを聞くつもりはないと覚悟したほうがいい。

 

 

■「いまやるところです」と調子のいい返事をするひとは…。

プライドばかりが高いひとです。

プライドが高いひとは、自主性を軽んじられ、人から命令されると、やる気を失う。人に命令されてやったのでは、相手の言いなりになった=相手に従属したということになる。それがイヤだから、あくまでも自分で進んでやったと思いたいがため、本当は言われなくてもやった、命令に服したのではなく、いままさにやろうとしていたということにしたいがために、「いまやるところです」と答えるのです。

 

 

■「しかし」「だから」「つまり」「すごく」「しょせん」のひとことが多いひとは…。

①「しかしですね…」とことあるごとに連発するひとは…
 相手に対し、否定的な態度だが、相手を否定するニュアンスよりも自分に注目を集めようとするニュアンスの方が強い。自分を目立たせるために相手を押しのけるっていう感じ。

②「だから」の口ぐせは、自己主張が強いタイプ。「だから私が言ったでしょう」というニュアンスを強調したい言いかた。上から目線のことば遣いではある。

③「つまり」で話をまとめようとするひとは、話に論理的道すじをつけたい人ではあるが、中には話の展開が苦手で、論理的表現が練習不足で不得手であるため、それをカバーするために頻繁に使う場合がある。

④「すごく」をよくつかうひとは、感情的なタイプ。感情の起伏が激しく、しゃべっているうちに(あるいは、ブログなどを書いているうちに)自己コントロールがきかなくなる人に多い。
(ルナ註: わたしはこのタイプです^^)。

⑤「しょせん」をよくつかうひとは、皮肉屋さん。世の中のことは相手よりもより多く知り尽くしている、という態度を顕示しようとしている。このタイプはほかに、老人を装ってみたり、達観している風なことば遣い、枯れたようなことば遣いなどをよくつかう。相手をとかく批判はするが自分では責任を取ろうとはしない。議論が自分の手に負えなくなってくると「熱く議論する若さはいいものだが、世の中は熱情では動かないものだよ、ふう」などというようなことを言って逃げる。

 

 

【露骨な上から目線の言いかた集編】

■「だから言ったじゃない」と言ってくるひとは…

優越することへの欲求がたいへんに強いタイプ。
この言いかたは、「あなたのやり方では失敗するということがわかっていた」ということを言いたい、また、「私のやり方ならもっとうまくやれた」ということを強調したい言いかたです。

しかし、これを言われるほうの側に立ってみると、このことばはこれ以上なく不快で屈辱的。それでなくとも失敗を自覚していて、「自尊感情」が低下しているのです。「オレってドジだなあ」、「あたしってダメだなあ」と、自分の価値が低く感じられるときなのです。平たく言えば、思い切りへこんでいるときなのです。

そんなときに「だから言ったじゃない」と追い打ちをかけて言うひとは、さらに相手の自尊心を低めようとしているのです。これはもう攻撃です。相手の自尊心を殲滅しようとする「攻撃」です。この目的は、そのことばを言われる人に自分が優越していることを徹底的に見せつけ、思い知らせようとすることです。まったく思いやりのかけらもない行為です。

 

(「話し方で相手の心の9割がわかる!」/ 渋谷昌三・著)

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その「思いやりのなさ」の根っこにあるのは、「自分の忠告を無視するから失敗した→自分の思い通りに動かなかったことへの意趣返し→自分はあなたを支配し、援助し、従わせていたい」という怖ろしい動機です。

過干渉して子どものコミュニケーション能力を萎えさせてしまう「毒になる親」の動機であり、パートナーを共依存に巻き込む人格障害系の人物の精神的性向なのです。またカルト宗教の教祖の取り巻き連中の腹の底にある動機もこれです。彼らは失敗を成長の貴重な機会とはみなしません。ほんとうはひとは失敗経験から成功への知恵やコツを学んでゆくものです。ですから、失敗したときにこそ、そのひとの自尊感情をなだめて上げなければならないのです。それが相手を愛するということです。相手の人が自分の足で立ち上がり、失敗経験から教訓を得、再び挑戦していけるように、「あなたは大丈夫」のメッセージを、信頼に基づく肯定的なことばでたゆまず与えるのが思いやりであり、また「愛」なのです。

ところが「だから言ったじゃない」というひとは相手の失敗のときを、相手を潰し、自分の必要性を認識させ、従わせる絶好の機会とみなすのです。「それみなさい、だからあたしのいうことにしたがってればよかったのよ」という恋人の女性や妻は、自分がいなければあなたは一人前にやっていけないんだよというメッセージを思い知らせるチャンスとみなします。ただ妻がこのような思いを抱くのは、夫の方が日頃から妻に「愛されている」「必要とされている」という実感を感じさせない、愛情表現の少なさに原因があるのかもしれません。親が子どもにこの仕打ちを与えるのは、愛を十分に実感できていない妻の場合とは異なり、ひたすら悪辣です。そのひとは子どもに自分を認めてもらいたいのです。子どもから評価と賛辞を受けたいのです。これを親子逆転現象と言います。いえ、私が勝手に名づけたんですけれどね。

つまり、本来、親が子どもを励まし、一生けんめいやったことを素直に賞賛してあげることによって、「じぶんはやれるんだ」という自信を育んでゆけるのですが、「だからいったじゃない」といって子どもを攻撃する親は、子どもから賛辞と評価を受けて自分に自信を生じさせたいのです。本来、親である自分が子どものためにやってあげなければいけないことを、子どもにしてもらいたいのです。子どもが親の心理的必要の世話をするよう求められるのです。「ぼくが、あたしが親の言うことに服従すればものごとはうまくいくんだ、親ってすごいなあ」という視線、態度の表明を親が、子どもに暗に要求するのです。子どもの役割と親の役割が逆転しています。

こうして育った子どもは、自分で目標を見つけてそれを達成することで人生から充足を得るということができない大人になってしまいます。そのうちに、だれかに生きる意味や目的を与えられないと何をしても一生けんめいになれない、というそんな人生にやがて空虚を覚えるようになります。こういうひとはカルト宗教やかつて日本を席巻した「超国家主義」などというものににハマります。

なぜなら、カルト宗教では神あるいは教祖の与えた使命を果たすことが人間の本分であるということが教え込まれます。つまり自分でやりたいことが見つけられず、探す術も知らず(親のいうとおりに従うことを調教されてきたため)、そこへ人生の意味、また達成感ある仕事を教団から教えられることに自己実現の機会を見いだすのです。超国家主義も同じです。そこでは天皇のために一命を捧げて靖国神社で祀られる生きかたこそ、日本人の本分であると教えられます。つまりひとがひとり、どう生きるべきかということを国が教え、指図し、強要するのです。意識下のレベルでの実存的な自信を育み損ねた多くの現代人のなかで、カルトにさらわれるのは少数派です。が、国家を神格化し、国家への帰依を求める人、国家主義にハマるひとは大勢いるのです。


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自己価値観(意識下のレベルでの自信のこと)は民主主義の心理的基盤であり、民主主義の心理的目標でもあります。

逆に自己無価値観はファシズムの温床になります。独裁者になるのは自己無価値観型の人間である場合が多く、自己無価値観人間が束になって独裁者を支持しやすいからです。

独裁者は、強力な権力欲、支配欲、顕示欲を持ちますが、いずれの欲求も、自己無価値観人間が事故価値観を得ようとして希求するものなのです。独裁者の心の底には深い自己無価値観が横たわっているのです。

独裁者の多くは、虐待されたり、それに近い形の養育を受けています。

たとえばヒットラーは、父親から鞭で打ちのめされ、犬のように口笛で呼ばれたりするなかで育ちました。スターリンも、酒に酔った父親に厳しく鞭打たれ続け、サダム・フセインは異母兄弟とともに、母親の再婚相手であり継父に虐待されて育ったと言われています。いずれの仕打ちも、基本的な自己無価値観を人の心の奥底に生み出してしまう養育環境でした。

 

一般大衆としての自己無価値観人間は、自由な場面に立たされると戸惑ってしまいます。自分の感覚、感情、欲求、判断、意見を信じられないために、内的判断基準がないからです(自分で価値判断ができない、という意。そうなったのは親から言われることに無批判に、自動的に服従して育ってきたため。自分の体験から自分独自の教訓や方針、知恵などを発見することが許されなかったから。「毒になる親」参照)。だからむしろ、権力者が決定してくれて、権力によって強制的に行動させられる方が安心なのです。

また、自己無価値観人間は、独裁者と心理的に一体化することで、自分が力を得たかのような高揚感を得るのです。それは一種の麻薬の陶酔状態に似ています。このために、容易に独裁者を支持してしまうのです。

 

支配者が国民を支配する手法はむかしから変わりません。「分断し、孤立させよ」です。これにより、国民は無力感に貶められ(人間同士の協力が奪われ、破壊されるということだから)、自己無価値観を刷り込まれるよう親子関係など人間関係を操作し、自己無価値観を刷り込まれた人間たちはまさに、その無価値観から逃避するために、理性的な民主主義指導者よりも、情緒に訴えかけてくるわかりやすいメッセージを送り出すやはり情緒的な独裁者を受け入れてしまうのです。

しかしこのことは、自由で闊達な欲求を抑えつけることでもありますので、国民の側に不満・敵意が蓄積することになります。この不満・敵意が独裁者に向かわないように、独裁者は敵をつくりだし、この敵と戦うことこそ聖戦なんだ、という幻想を演出します。さらに、この敵と戦うことは、民衆が共同で闘うという連帯意識を生み出し、民衆の自己価値観の高揚をもたらす、という作用があります。こうして独裁政権を支持する回路のようなものができあがり、それは国家の壊滅に至るまで続くのです。

 


(「なぜ自信が持てないのか」/ 根本橘夫・著)

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これが今の日本で起きていることです。またエホバの証人の社会を支える原理でもあります。エホバの証人の「教育」は屈辱を与えることによって、個性を摘み取り、他者とは異なるユニークであるゆえ貴重な個人、という意識を抹消させてしまうものです。そうすることによって、信者のひとりひとりは、教団指導部によって与えられる評価、地位や役職、大会でステージで目立たせてもらえること、などによってでしか自分を評価できず、だから必死で評価されようとして、他人に気に入られるような生き方に没頭してゆきます。自分の本当の欲求を自分で抹殺して、上層部からの地位と名声を必死に得ようとするのです。その結果自分の本当の気持ちを殺してしまうため、つまり個性的な自分を認めない生き方をしてきたので、他者をも大切に思えず、互いが互いを監視して、だれも人間らしい幸せを抜け駆けで、得ることがないようにする、という息苦しい社会を作り出してゆくのです。







(下)へつづく

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ことばづかいで探る、ブロガー&コメンターの深層心理(下)

2009年07月26日 | トリビア

(承前)



エホバの証人じゃない人たちは、彼らエホバの証人を笑うことはできません。いまや日本人はまったく同じことをやっているからです。国旗国歌への崇拝行為の強要、個々人の個人的理念をつぶすことによって少数の人びとの旧態依然たる価値観への統一を実行しようとしています。

カルト宗教信者を嗤うひとたちは、自分たちがまったく同じことをやっている、ということにさあ、気づけるでしょうか。その根本的な原因である「自己無価値観の消失」は、ひとがまだ幼児だった時代にすでに親をはじめ、周囲の人間関係という「環境」によって始められている場合が多いのです。

親はなくとも子は育つ、というのは正確ではありません。親の役割は血がつながっていなくてもできる、という意味を言おうとしているのなら、それは正しいです。しかし、飯さえ食わせておけば子どもは勝手に育つものだと言う意味で言われるのであれば、それはとんでもない間違いです。

子どもが大人になるというのには、心理的な面が一番重要なのです。コミュニケーションによって相互理解をはかり、種の保存に貢献できるような生き方を、つまり共同生活を上手にこなす能力は、親が子どもにどれだけ肯定的に接して、子ども自身に自分は大丈夫、やっていける、という、ことばにも考えにもならない、深層意識レベルでの「自信」を育めるかにかかっているのです。公共心や道徳心というのは、そういう、「自分は大丈夫であり、自分は貴重な存在であり、だけど自分ひとりじゃ生きていけるものではない、だから他者とも共同して生きていかなきゃならないから、他者も自分と同じく大切な人だ」という無意識の感覚がその(道徳心・公共心の)源泉なのです。道徳や公共心というのはナショナリズム教育によって涵養されるものでは決してないのです。

あと、横道に逸れたついでにもうひとつ。

根本さんの著作の引用文で、「また、自己無価値観人間は、独裁者と心理的に一体化することで、自分が力を得たかのような高揚感を得るのです」という部分がありました。

昨今の日本社会では、立場の低い側がバッシングされることが多いですよね。沖縄県で少女が米兵にレイプされれば、少女側に問題があったといい、漁船が海自の艦船に衝突されれば、漁船の方が悪い、非正規の労働に落ち込んだら自己責任だから政府にモノを言い立てるのは悪いともいう。名声を獲得してゆく経済学者が、消費税の逆進性を十分知っていながら、会社ばかりに法人税の負担を強いるのは不公平だが、所得の低い人に負担が重くなる消費税は、広く薄く取れるので公平だとヌケヌケという。

こうした「自己責任」論者の動機もまさにこれです。権力への迎合、権力との一体化が動機なのです。そして権力の側に立って国民を見下し、被害者や犠牲者の方をバッシングすることは、それで自分が権力者になったかのような優越感を得ることができるからなのです。それで何を達成するのか。まさに「自己無価値観」を埋め合わせることを達成できたかのような錯覚を味わうことができるということだけなのです。

まさか一流大学の有名教授までがそんなバカな動機を、と思うかもしれませんが、団塊の世代やその子どもたちの世代は、過剰な競争を勝ち抜くために、子ども時代に、無邪気に遊ぶ機会が奪われ、評価という「椅子」が公正に用意されているような、互いに向上させるようなポジティブな競争ではなく、椅子を限定させられる椅子取りゲームを強要される競争、そう、足の引っ張り合いというネガティブな競争を強いられてきたため、心を許せる友人もなく、家父長制的な歪んだ自意識のために配偶者にも甘えることができない、そんな貧しい人間関係のなかで生きてきた人たちなのです。名声を博し、業績を残したとしても、「自己無価値観」は名声や財産では埋め合わせることができないのです。これは古代から賢人たちの指摘する点です。「銀を愛する者は決して銀に満ち足りることはない(聖書/ 伝道の書)」。

「自己無価値観」を埋め合わせるために、彼らはいつも「自分は上である」ということを確認していなければならないのです。この点はまた詳しく書きましょう。とにかく、権力側にたって国民をバッシングするネトウヨ連中の動機は、「自己無価値観」が原因であり、それゆえ彼らは人格的成長が子どものまま止まってしまった人たちなのです。高遠菜穂子さんたちが捕われとなったイラク人質事件の自己責任バッシングを、超保守系の哲学者さえこのように総括しています。

「結局あのバッシング騒ぎにあったのは、次のような感情以外の何ものでもなかった。テロリストとは交渉せず、という政府の主張を貫くことによって、仮に人質が殺害された場合、それは『彼らの自己責任』であるのだから、政府および政府の強硬姿勢を主張し、支持する人びとは責任を負わなくていい、ということだ。つまり、自己免責のための予防線を張っていたのである」(「自由とは何か」/ 佐伯啓思・著)。

つまり、小泉純一郎はアメリカという権力に自らを同一化させて他の自民党勢力に差をつけ、バッシングした市井の人びとは、強そうな姿勢の権力に自らを一体化させていたのです。少なくとも市井のバッシングした人びとの場合は、そうすることによって他の市井の人びとより優越感を得ようとしたのです。自分は彼らとは違い、優越した人間であり、彼らのような不幸な目に遭うことはない、という見かけの安心感を得たいがための騒動だったのです。これらも根元を見れば、自己無価値観の埋め合わせのための行動なのです。



…って、またまたコントロール不能のルナの暴走ですが、話を元に戻します。



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もっとも、思いやりがないひとといっても、そのひとにすれば、自分の忠告を無視して失敗する道を選んだ、ということを認識させたいのかもしれません。

しかし、失敗した側のひとにしてみれば、予告されたとおりであるかのように失敗を指摘されて立つ瀬がない。忠告した人に対して、自分の立場も価値も低くなっていることはわかりすぎるほどわかる。それだけに、「だから言ったじゃない」は、死者に鞭打つような効果を持つことばなのです。

 

また、このことばには、「ほ~ら、ざまあ見ろ」とあざけるようなニュアンスも含まれていますから、まったく愉快ではありません。

もっと腹立たしいのは、実際には事前になにも忠告されていなかった場合です。
「だから言ったじゃない」と言った人は内心、「あんなふうにやったら失敗するに違いない」と思っていたのかもしれません。しかしそれを口には出さなかった。ところが、いざ失敗したのを見ると、自分の予想通りだったので、ついつい、「だから言ったじゃない」と言ってしまう。自分でも前もって忠告したような気になっているのです。忠告された覚えもないのに、「だから言ったじゃない」といきなり偉そうにされた方はたまったものではありません。

 


(「話し方で相手の心の9割がわかり!」/ 渋谷昌三・著)

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「だから言ったじゃない」は、相手をただただやっつけるためだけの攻撃用のことば。教育のつもりで子どもに使っても、教育効果はまったくありません。ただただ屈辱を味わうだけの、ひたすらに攻撃のことばでしかないのです。このように失敗に対して侮辱で応答していると、子どもは失敗を怖れて積極的に何かをしようという気概を失ってしまうかもしれません。このことばは使ってはならないのです。このことばを使いたくてしようがない人は、あきらかに同じようにして傷つけられてきた人です。まず、自分のトラウマを癒すことから始めるべきです。

子どもが悪さばかりする時に、悪さで子どもがいたい思いをして泣くと、「だから言ったでしょ」と言いたくなるのは人情ですが、子どもはいたずらをするもの。いたずらや遊びが子どもの情操を育てるのです。よく遊んだ子どものほうが塾通いをしてきた子どもより活発で賢いです。「ほらほら、何やったの? ここか~、痛いのは。そっか~痛いね~、痛いね~」とまず子どもの痛みに共感してあげて、その後、「どこでどうしたの、そっかー、これからこれをするときは気をつけようね~、よしよし~」っていうように、イタズラの結果痛い思いをしても、それを非難しないのがベストなのだそうです(「子育てハッピーアドバイス」ほか~より)。わたしは子どもを持った経験がないので偉そうには言えないのですが。

話を元に戻します。


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失敗して自尊の感情が低下しているときに慰めてくれて、自尊心をいつものラインまで引き上げる手助けをしてくれるひとには、とても好意を感じるものです。いい人間関係をつくるには、「だから言ったじゃない」は封印すべきことばです。

 

なお、このことばは責任を回避したいときにも使われることが多いのです。

たとえば、部下のミスが発覚したときに、「だからオレは言っただろう、これじゃダメだって。それを聞かないからこんなことになるんだ」などという上司がいるものです。上司である自分の責任がないかのようにアピールする。そういう上司に限って、部下がうまくやった時には、「あ、やっぱりね。オレが言ってたとおりだろう? そうやればうまくいくって」と調子よく言ったりするものです。

 



■「ある意味ではキミの言うとおりだ」と、スッキリ賛同しないひと…

①まず、負けず嫌いのタイプです。
 「ある意味ではキミの言うとおりだ」は「別の意味ではぼくの言うとおりで、キミは間違っている」ということをいいたいわけです。議論や会議で形勢が不利になってきたときなどに口にする人が多いのではないでしょうか。相手の論理がしっかりしていて、とても太刀打ちできない。しかし素直に「キミが言うとおりだ。ぼくが間違っていた」とは口が裂けても言いたくないタイプです。そこで「ある意味では…」と全面的な敗北を回避しているのです。

②優柔不断なタイプも。
「こういう点から見ればいいと言えるし、別の点からは賛成できない」
「ある意味ではこうであり、別の意味ではこうである」といったように、結論をなかなか出せない。はっきり白黒をつけるのを避け、つまるところ、「この件については保留にしておこう」としてしまうわけです。

 

 

■「キミのためを思うから」ではじめる恩着せがましいひと…

これは恩着せがましい独善タイプ。

このタイプの人はたいてい、確固とした人生哲学を持っているものです。仕事のやり方もしっかり決めていて曲げようとしません。そしてそれを正しいものと確信しているのです。したがって、自分のやり方から外れている人を見ると、「そんなふうにしないほうがいいのに」と感じてしまうし、そう教えたくなるタイプです。他人の生き方ややり方が気になってしようがない。それでついつい口を挟みたくなる、というわけです。

しかし、こういうひとは疎まれるものです。「教えてやる」という高圧的な態度や、「自分のやり方がいちばん正しい」と思っているところが、他人にはムカツクところです。たしかに、そのひとが言っていることは正しい。正しいとわかっていても、聞きたくないという気にさせられるのです。

人間というものは他人に従属したがらないということを理解できていないのでしょう。偉そうにする人の偉そうな言葉はあまり聞きたくない、という人間心理の機微がわからないのでしょう。

この手のタイプの人は、せっかく “自分” が、役に立つ素晴らしいことを「教えてあげている」のに、相手が聞きたくない素振りをしているのを見てますます高圧的になったりします。「年上の者のいうことは聞くもんだ」などと説教をはじめ、よけいに嫌がられます。

本当に相手のためを思っているひとというのは、自分の考えは自分の考えとして主張する一方で、相手のやり方を尊重するものです。そして相手が本当に困っているときにこそ、援助の手を差しのべるのです。それも恩着せがましさなど一片も見せずに。なぜかというと、相手の自尊心に敬意を払うからです。相手の人の自尊感情を守ろうとするからです。

多くの場合、「キミのためを思うから」というひとに、ほんとうに相手のためを思っているひとはいないと考えてよさそうです。やはり、「だから言ったじゃない」というひと同様、相手に自分の重要性をむりやり見せつけ、認めさせようとしているだけなのでしょう。

 

 

■「オレの若いころは…」を連発するひとは…

現状への不満があり、かつ、向上心を失っている。

過去というのはとかく美化して記憶されているもの。美化して記憶されている「過去」の自分は当然輝いている。それを思い出して、「オレ(アタシ)の若いころは」と口に出してしまうその裏には、現状に対する不満があります。

それは、昔に比較して色あせてしまった自分自身に対する不満かもしれませんし、世の中全般に対するものかもしれません。とにかく「いま」に対していら立っているわけです。

また向上心を失ってしまっている場合にも「若いころは」と言いたがるものです。がんばっていたころの自分を振り返っているのでしょう。

「いまこのとき」をいきいきと何かに打ち込んでいるなら、昔など振り返ったりしないのです。

明確な目標を見失っている、会社や家庭での役割が見あたらなくなっている…。こうした喪失感がこのことばとなって出ることもあります。あるいは実年齢に関係なく、精神的な老化現象なのかもしれません。ものごとを柔軟に考えることができず、自己中心的でわがままになり、頑迷になったひとほど「オレは昔はなあ、…」というようなことを言いたがるものです。

 

 

■「悪いようにはしないから」となだめるひと…

親分肌の自信家。他人の能力を信用せず、“自分がいちばん” と思っている。相手にとっても悪いようにするつもりはないが、何よりもまず自分にとっていちばんいいようにしたい、という魂胆がある。

「悪いようにしないから」というひとは「わるいようにはしないから、とにかく自分の勧めに従いなさい、わたしの言うとおりに動きなさい」という意味をこめています。これこれこういう理由があるので、という説明を省いて「悪いようにはしないから」のひと言ですませてしまう。

ひとは、対等の相手に対しては、きちんとした説明をしようとするもの。それを省くというのはやはり、「こいつに詳しいことを言ってもわからんだろう、いうことを聞かんだろう」とタカをくくっているのです。なぜ「いうことを聞かせ」ようとするのかというと、やはり、まず第一に自分にとってよいことが及ぶようにする、ということを目論むからです。相手を単に利用するだけでは恨まれてしまいますから、相手に損をさせることは確かにないでしょうが、あくまでもそれは自分によっての利得の次の関心でしかない、ということは覚えておいた方がいいようです。

 

 

(「話し方で相手の心の9割がわかる!」/ 渋谷昌三・著)

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小型文庫本のポップサイコロジー系の本ですが、けっこう深いことが書いてあるじゃありませんか。いちがいにバカにはできないですよね。わたしは活字派の人間ですので、つまり、インターネットはまだまだ活字には及ばないと考えている人間ですので、本はどんなものでも敬意を表します。エログロ暴力系はもちろん除外されますが。体裁の軽さでランク付けしたりはしません。現にこのようなハウツー系の本でしたが、おもいきり深いものがあったことですしね。

ネトウヨ系の “論客” 分析に、また身近な人間との付き合いの “戦略” に活用できるようでしたら活用なさってみてください。また一生けんめい意見をコメントしたのに無情に削除されたというような屈辱を味わったときにも、その人間性分析で、傷ついたプライドの回復を試みられてはいかがでしょうか。そのブロガーのエントリーしている文章のくせを調べるんです。ここでは本の一部分しか紹介できませんでしたが、この本は600円です。本の体裁からするとちょっと高いかな、と思うかもしれませんが、内容は深いです。600円以上の価値はあります。どこかで一杯引っかけて帰るのを一日だけ我慢すれば、あるいはタバコ二箱分を減らせれば、買える本です。タバコ二箱はちょっとキツイかもしれませんけどね^^。

 




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視線で相手の気持ちを推し量る

2009年07月21日 | トリビア

 

 

 

 

■あいさつのとき、ジッと見つめてくる人

 

目を見つめてあいさつをしてくる人は、そうするとあなたが落ち着かなくなることを知っている人です。不安な気持ちにさせておいて、自分が優位に立ちたい、自分のペースに持っていこう、というわけです。

 

 

 

■よく視線を合わせてくる人

 

支配欲求が強い、 外交的、 親和欲求が高い、 他人指向的  (他人の動向を気にしたり、他人のことをあてにする傾向) のいずれかだと考えてよいでしょう。

 

 

 

■遠くから視線を送ってくる人

 

たとえば、パーティ会場などで遠くから視線を送ってくる人は、あなたと話したい、話のきっかけを作りたいと思っています。

 

 

 

■自分が話している間中、視線を送ってくる人

 

自分の行動に自信が持てないタイプか、あなたを支配したいと考えているかのいずれかです。前者であれば、あなたがどんな反応を示すかが心配なのです。後者であれば、あなたを説得したいと思っています。

 

 

 

■自分が話している間中、視線を左右にキョロキョロと向ける人

 

落ち着きを失って、不安を感じている証拠。神経質で不安感が強いタイプです。 あるいは、いろいろと考えをめぐらしているのかもしれません。この場合は、考えをまとめようとしている段階では、視線を落としたり、目をつむったり、遠くを見つめたりしますが、考えがまとまったら、また視線を合わせてくるものです。

 

 

 

■すぐに視線をはずす人

 

なにか強いコンプレックスを持っています。自分が他人にどう思われているかを非常に気にしています。そういう意味で、人の視線を怖れています。

 

 

 

■自然な会話をしている途中、急に視線をはずす人

 

「話を切り上げたい」「あなたの意見には賛成しかねる」というサインです。こんなときは話題を切り替えるのが賢明です。

 

 

 

■視線を下にそらす人

 

気が弱い人です。

 

 

 

■視線を左か右にスッとそらす人

 

好意を感じていないという心理の表れ。あなたを拒否しているサインです。

 

 

 

■上目づかいの視線を送ってくる人

 

あなたに対してへりくだっているサインです。他力本願の甘えん坊タイプ。自分の力で物事を収めることが苦手な人でしょう。女性であれば、「リードはあなた任せで、自分は受け身。甘えたい、頼りたい」と思っている時です。

 

しかし、部下や子どもを叱ったときに、相手がこの上目づかいをしているようであれば、それは反抗心をアピールしていることになります。叱ることは自分の日頃のうっ憤を晴らすことでも相手を従わせるために人格破壊をすることでもありませんので、言葉が過ぎたのならすぐに謝って訂正しましょう。

 

 

 

■見下ろすような視線を送ってくる人

 

他人に対して支配的なタイプ。あなたより偉い、優位にいるぞとアピールしています。リードしたい、仕切りたいというサインです。

 

 

 

■視線が不自然な人

 

視線の合わせ方、はずし方が不自然な人は、対人関係に強い不安を感じているとみてよいでしょう。

 

 

 

■パチパチとしきりにまばたきする人

 

本心は気の弱い人です。あるいは、相手より自分の方が立場が不利なことで戸惑っているのかもしれません。目を合わせるのが怖くて、その緊張がまばたきに表れてしまうのです。

 

 

 

 

「話し方で相手の心の9割がわかる!」/ 渋谷昌三・著

 

 

 

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臓器移植法改定A案の基礎知識とその本質(上)

2009年07月21日 | 「世界」を読む
 

現行の臓器移植法は平成9年に施行されました。心臓死をもって人間の死とする、という判定基準は以前のままですが、本人の生前の意思表明が確認されていれば、臓器移植の局面に限り、脳死をもって当人は死んだとみなせるようになりました。また臓器移植ができる年齢制限を設け、それを15歳以上と定められています。この規定は遺言が可能な年齢というのが民法で決められており、それが15歳以上となっているのだそうです。

もともと、現行の臓器移植法は3年後にいちど見直しを検討してみることも定めていましたが、放置されていました。でも、移植が必要な患者が治療のために海外へ渡航するケースが相次ぎました。日本では提供者が少ないからです。そこへもってきて、マスコミから、「WHO(世界保健機関)が、臓器提供を受けるのは自国でするべしとの方針を打ち出そうとしている」というニュースが流されるようになりました。こうした報道の影響もあって、今回の改正議論に至ったようです。

 


そも「脳死」とはなんでしょうか。脳死は植物状態とは別の状態です。日経新聞09年6月4日付囲み記事によると、脳死とは、
「脳幹を含むすべての脳の機能が完全に止まり、回復する可能性がゼロである状態」です。専門的には「全脳の機能の不可逆的停止」と表記されているそうです。

脳幹は呼吸などをつかさどっていて、ですから脳死状態では、脳幹の機能が完全に失われたまま二度と回復しない状態なので、自発的に呼吸することができません。人工呼吸器を使わないと呼吸を維持できず、それを外すと確実に心停止に至る、という状態が脳死です。

この点で、人間の「植物状態」は異なっています。植物状態では脳幹の機能は全部または一部残存しているので、多くの場合、自発的に呼吸できますし、しています。「多くは」というのはたぶん、脳幹の損傷している部分によっては自発的呼吸が出来ないケースもある、という含みではないでしょうか。

脳死をどのように判定するかは法で定められていて、複数の医師が、人工呼吸器を止めて、自発的呼吸があるかないかを調べる「無呼吸テスト」など5項目の検査を6時間あけて2回行うのだそうです。

ただこれは、子どもの場合は判定が難しいのだそうです。というのは、「子どもの脳は回復力が強い(朝日新聞09年6月19日付)」のだそうです。だから、「脳死判定検査項目は大人と同じだが、生後12週間未満の乳児は判定から除外し、また6歳未満なら、大人の場合に6時間あけて2回検査を実施としているその間隔を24時間以上にする」という基準を別に設けているのです。

 

ニュースでは「A案」参院本会議通過、などと言われますが、ではB案とかもあるはずですよね。あります。D案まであります。とくにD案は、A案に反対する側が作成した法案です。以下、毎日新聞の09年6月10日付けの表から、現行法とほかの法案の特徴を書き写しておきます。

 


■死の定義

①臓器移植法現行法
  心臓死。
 ただし、本人が生前に脳死で死と判断されてもいいという意思表明があれば、脳死をもって死とみなせる。

②臓器移植改正A案
 一律に脳死をもって死とする。

③臓器移植改正B案
 心臓死。本人の合意があれば、脳死をもって死、とすることができる。現行法と同じ内容。

④臓器移植改正C案
 死と判定するのは、心臓死に限る。
 また脳死の定義を現行法より厳格に定めている。

⑤臓器移植改正D案
 心臓死。
 ただし、本人の合意があれば、脳死をもって死とみなせる。現行法と同じ内容。

 

■提供の条件

①現行法
 臓器提供に際し、本人による書面での同意とともに、家族の同意が必要。

②A案
 必要なのは家族の同意だけ。ただし、本人による生前の臓器提供拒否の意志が確認されていれば、その体からの臓器提供はされない。

③B案
 現行法と同じ。

④C案
 現行法と同じ。

⑤D案
 15歳以上は現行法と同じ。
 14歳以下は家族の同意でOK。ただし、本人の拒否の意志があればそれが最優先される。

 

■提供できる年齢制限

①現行法  15歳以上。

②A案    制限なし。

③B案    12歳以上。

④C案    現行法と同じ。

⑤D案    制限なし。

 

 

A案は脳死状態の家族を持つ人よりも移植を待つ患者さんに焦点を合わせた法律ですね。臓器移植法は1997年施行ですから、もう12年になります。その間、法に則って臓器提供があったのは81例だそうです。それに対して、移植を待つひとは圧倒的に多い。

日本臓器移植ネットワークに移植希望の登録をしているひとは2009年6月1日現在で、
 心臓 … 138人
 肝臓 … 254人
このふたつは脳死の人からの提供でしか移植されません。心停止後の提供でも移植手術ができるのは腎臓で、1万1695人が提供を待っています。

日本では臓器提供が少なく、なかなか手術ができないのが現状のようです。年間心臓提供者数の国際比較したリサーチがあるのですが、それによると、
 日本が(年間)0.05人、
 スペインが  12.5人、
 アメリカが   10.1人と、先進国の中でも際立って低い。

そのため、日本の移植希望患者は海外へ渡って移植治療を受けるケースが多いのです。ところがそれが、現地の患者の移植の機会を奪っている、という批判をもたらしました。そこへ、「2008年、国債移植学会はは渡航移植の規制強化と臓器提供の自給自足を求めるイスタンブール宣言を発表し、世界保健機関(WHO)理事会も今年一月、渡航移植を制限する決議案をまとめた(朝日09・06・19付け)」というニュースが入ってきました。そこでわずか8時間の審理で、少ない審議参加者(議員の多くはおしゃべりや居眠りしていた)という条件にもかかわらず、決議されたのでした。

 

■A案の問題点

まず、審議の時間があまりに短かったこと、しかも真剣さが欠けていたことが挙げられるでしょう。こういう重要な問題はもっと国民的な議論が尽くされるべきです。「そうやっているあいだにも、移植で救える命が機会を得られないまま死んで行く」という焦燥があるのは承知で、もっと議論を尽くすべきだというのです。

二つ目は、A案は移植に優先順位を設け、親族への移植が優先されていて、それが現行法に比較して不公平だという批判。現行法では、移植先の人については一切知らされません。移植された人も、どこの誰からだとは知らされないことになっています。また、子どもの脳死判定の難しさという点もあります。

もうひとつ見逃せない点として、「WHOが渡航移植を制限しようとしている」という報道ですが、これが虚報だという指摘があります。


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WHOの新指針の実際の内容は、生体移植のドナーの保護と移植ツーリズム(臓器売買旅行)への対策である。「正式な」渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も、ひと言も述べられていないのだ。しかし、A案提案者、日本移植学会、日本移植者協議会などは虚報を喧伝し、マスメディアの多くも執拗に(虚報を)報道し、法改定に向けた社会と国会の気運を醸成した。

もし、こうした発信者が、新指針をきちんと読まずに誤報を流していたのなら、社会的責任が問われるべきだろうし、意図的に情報操作をしていたのなら、倫理的責任が問われるだけではすまされないだろう。


…(中略)…


ちなみに、衆院採決のあった6月18日、「A案提出者一同」の名による「A案支持者と投票先を決めかねている方へのお願い」という簡略文書が、衆院本会議の各議員の席上に配布されたという。

全体の主旨は、「なぜA案なのか」という理由説明と投票の戦術的方法の提起であるが、前者の第二項目には、「A案は、WHOが推奨する臓器移植法案です」とある。WHOそのものが日本のA案を推奨していたとは寡聞にして知らないが、もしそれがWHOの新指針を意味しているのだとしたら、前述のように、そこには渡航移植の制限も臓器移植の「自給自足」の方針も一切、書かれていない。

それどころか、逆にA案こそが、WHO新指針がドナーに関して、明確に書き記して、求めている「未成年の保護」や「法的に無能力な人の保護」に反するのではないか。

たとえば、近年の日本でとみに問題視されている児童の虐待と虐待死を、A案の提案者と投票者はいかほどに勘案したのだろうか。親に虐待されて脳死に至った子どもをドナーとすることは(ルナ註:A案なら子ども本人の同意がなくても、親の意向だけで臓器提供できるので)、格好の隠蔽工作になるうえに、A案のように親の判断だけでドナーにできるなら、子どもは二重の意味で蹂躙されるのである。このことはドメスティック・バイオレンスに関しても同様である。

 

 

(「臓器移植法改定・A案の本質とは何か」/ 小松美彦・著/ 東京海洋大学教授/ 「世界」2009・8月号より)

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これが事実ならたしかに大問題ですが、この記事にはWHOの新指針の内容がぜんぜん紹介されていないのです。せめて当該部分だけでも引用してほしいですよね。わざわざ「WHO新指針に関する虚報を喧伝」と副見出しを掲げていながら、「虚報を喧伝」の内容は上記引用文だけで、ほかはA案の特徴の説明になっています。ちょっと不満が残ります。

ただ、「中略」以降で指摘されている点は重大です。この記事でも、新聞報道のうち良心的な記事でも、人権侵害の問題に十分審議が及んでいない点がA案への改定の重大な欠陥なのです。

前半に書き写したとおり、A案では本人の合意がなくても臓器提供できる点がA案の特徴でしたが、これが人権侵害に当たるのではないかという問題に十分議論されていないのです。というか、現行法に見られるように、人権への配慮のために臓器提供者数の低迷を招いた、だからA案へ改定だ、という流れになっているのです。







(下)へつづく

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臓器移植法改定A案の基礎知識とその本質(下)

2009年07月21日 | 「世界」を読む

(承前)



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現行法の核心は、「脳死者から臓器を摘出できる条件」(第6条)にある。

その条件とは、「脳死判定と臓器提供を患者本人と家族がともに同意していること」である。換言するなら、現行法では、本人と家族がともに臓器提供に同意した場合に限って、脳死は本人の死とみなしてよい、ということになっているのである。

このように、日本の臓器移植法では、本人と家族の同意という二重の縛りがかけられており、世界各国の法律と比較して「相対的には」、臓器提供条件が厳しくなっている。

 

そこでA案は
①一律に、脳死でもって人の死と規定し(あるいは、脳死をもって死とすることを前提に据え)、
②臓器提供の年齢制限を取り払ってゼロ歳にまで拡大し、
さらに
③臓器提供を事前に拒否していない限り、家族の意思だけで摘出可能とした。

こうして「臓器不足」を一挙に打開しようとするのである。

 


(上掲同記事)

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事前に拒否していれば、摘出はされないといいますが、乳幼児や児童は臓器提供へ拒否の意思表示などできるはずがないのです。ここに低年齢者たちへの人権保護が蔑ろにされる抜け穴があるのです。

 


脳死がほんとうに人の死なのかどうか、科学はまだ答えを出せていません。脳死の定義は前半に挙げたとおり、自発的に呼吸ができないetc...などの要件がありますが、では脳死は本当に人の死なのかどうか、死の定義として脳死は確実な要件なのかどうかは、まだ十分に答えを出せていません。

ふつうは脳死するとまもなく心停止に至る、とされていますが、90年代以降、脳死状態で長く生命反応を示す例の存在が多くでてきました。


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1981年に「米国大統領委員会」で脳死判定の基準として捻出されたのが、「有機的統合性」を基盤とする次の論理である。
まず、①死を「有機的統合性(体内環境の恒常性、怪我の自然治癒、免疫拒絶反応など)の消失」と定義し、
②有機的統合性の無二の司令塔は脳であるから、
③脳死した者は死んだことになる。

これは世界で唯一、公認されてきた「脳死=人の死」の論理であり、日本も追随した。ところが90年代に入ってこの論理がさまざまな科学的証拠や臨床例から破綻したのである。「米国大統領生命倫理委員会」ですら、その破綻を認めざるを得なくなっている。

例えば、脳死状態のままいき続ける長期脳死者が数多く存在する、という事実である。驚くことに、世界の最長記録は、脳死状態から心停止に至るまで21年、という例です。

4歳のときに脳死と診断された幼児が、多くの感染症を克服しつつ、身長150センチメートル、体重60キログラムにまで成長し、第二次性徴も現れ、大人になったのである。

しかも、心停止後にその脳を解剖したところ、脳神経細胞は全て失われており、生命活動の源とされる脳幹はわずかに残っていたが、石灰化していた。つまり、脳がこのような状態になっても、その脳死者は有機的統合性を維持して成長したのである。

ということは脳は「有機的統合性の無二の司令塔」ではないことになり、上記の論理の②が事実と異なる。したがって世界で唯一の論理は成り立たないことになり、「脳死=人の死」とはもはや科学的に言えないのである。

 

脳死状態のまま生き続ける長期脳死者は日本にも少なからず存在する。

筆者自身も面会したが、脳死者には確かな脈拍があり、触れると暖かく、汗や涙を流し、排便もする。さらには妊娠していれば自然分娩も可能で、ラザロ徴候という四肢の滑らかな動きを見せることもある。

脳死者はこのような生理状態にあるため、臓器摘出手術でメスを入れると、血圧や脈拍が急上昇し、暴れだすゆえ、麻酔や筋肉弛緩剤で沈静化されている。

さらに08年の米国の例だが、脳死判定が行われて臓器摘出の準備に入ったあとに、意識を「回復」した者まで存在する。そればかりか、その元脳死者は社会復帰したあとにインタビュアーと次のようにやりとりし、「脳死確定=死亡宣言」時にも意識があったことを明言しているのだ。

「医師が何と言ったか覚えていますか」
「自分が死んだと言っていました」
「聞こえていたのですか」
「聞こえていました。心は狂わんばかりでした」
(NBC News, 2008.3.23)


以上が脳死の実態なのであり、A案とはこうした脳死を国会議員の多数決によって、一律に人の死と規定するものなのである。

 


(上掲同記事)

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わたしは、脳死者の家族と移植待ちの患者とのどちらに共感するかと聞かれれば、「患者」と答えます。これは、かつてわたしがエホバの証人だった経験があるからです。科学的な根拠もなく、聖書学的な根拠もないのに、祭壇の上で動物をする、という古代のユダヤ教の宗教儀式において、される動物の肉は食べていいが、血は捨てるように、という聖書の記述を、輸血にも当てはまると決めつけた1950年代以降のものみの塔協の指導部の恣意的な解釈を無批判に受け入れて、多くの信者やその子どもたちを死なせてきた、そんな宗教団体に染まっていた経験があるので、それへの反省と後悔から、助けられる命があるのなら助けてあげたいと思うのです。

しかし同時に、基本的人権はどんな事情があっても蹂躙されてはならないというのも、動かしたくないわたしの信念です。A案のように、患者本人の意向が軽んじられるような条項は気に入らないです。

しかも、前半に紹介したように、改定案はA案だけではないのです。なぜA案なのでしょうか。小松美彦さんはひとつの怖ろしい推測を書いています。


---------------------------


A案への拘泥のなぞを解くカギは、A案と現行法との違いである、「臓器提供する場合に限って、脳死を人の死とする」という主旨の文言が、A案では第6条第2項から削除されていることにある。

唐突に感じられるだろうが、A案の本質は単なる「臓器移植法」の改定ではない。表看板がそうであろうと、提案議員の中に本質を把握していない者がいようと、A案の本質とは、医療費の縮減を目的とした「尊厳死法」制定の布石にある、と考える。

なぜA案か。それはたとえ「臓器移植法」の枠内であっても、臓器提供とは無関係に「脳死=人の死」と一律に規定することこそが肝要なのである。だからこそ、「臓器提供する場合に限って、脳死を人の死とする」という主旨の文言は削除しなければならなかったのである。

臓器提供の場面とは無関係に、一律に「脳死=人の死」と規定することの効果を考えてみよう。

(1)
長期に及ぶ可能性のあった脳死者からの臓器摘出が正当化され、さらに長期に亘った場合の医療費を抑制できる。

最近、家族が意を決して、長期脳死者がマスメディアに頻繁に登場するようになり、その存在はもはや公然の事実となった。それゆえ今後、法的脳死判定で脳死が確定しても、長期脳死になる可能性があることは想像されよう。

だが生き続ける可能性のあった脳死者が臓器摘出によって死んだとなると、ことは重大である。したがって、「脳死=人の死」と一律に規定しておけば、問題を回避できる。このことは裏返してみれば、長期脳死者にかかる医療費を事前に抑制したことになる。

(2)
脳死者に対する保険治療の打ち切りを正当化できる。

目下のところA案提案者は、法的に脳死が確定しても臓器提供を拒否した場合には、脳死者への保険治療は継続されると述べている。だが、法的脳死判定後の脳死が死であるなら、死者に対する医療など元来ありえない以上、やがては保険治療は打ち切られるだろう。

ここにおいて、臓器提供とは無関係に一律に「脳死=人の死」とするなら、打ち切りは正当化される。人工呼吸器が断たれれば脳死者は心停止するのだから、脳死者にかかる医療費を実際に抑制できるのである。

(3)
脳死状態での尊厳死を保証できる。

本年6月9日の衆院本会議で、A案の提案者代表として登壇した中山太郎議員(医師)は、発言を次のように結び、まさにA案と尊厳死との関係を公言したのである。

「A案のように法的脳死をすべて人の死とする場合にあっても、家族の同意がなければ判定作業そのものがなされないので、法的に脳死の診断が下されることはないことは強調されるべきである。

逆に、尊厳死を求める人たちにとって、脳死判定はその意思の具現化の手段でもある。

したがって、脳死は人の死であるとすることによって、脳死を人の死と認める人たちにとっても、認めない人たちにとっても、リヴィング・ウィルを尊重できるシステムをつくることができると考える」(衆院本会議第37号速記録、6ページ)。

なお、尊厳死によって脳死者に対する医療費をカットできることは言うまでもない。

(4)
ここでは尊厳死の対象は脳死状態に限られているが、A案は対象の拡大に途を拓き、「尊厳死法」制定の布石となっている。

長期脳死になる可能性があるにもかかわらず、法的脳死判定をもって脳死者が死亡したとすることは、医師による回復不能診断を死亡診断と同一視することにほかならない。なれば、医師が回復不能診断さえ行えば死亡診断しえたことになり、脳死に留まらず対象は拡大可能なのである。

一方、07年11月、日本救急医学会は「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」を公表し、脳死をはじめとした4種類の治療停止可能な対象を定めている。

こうして、尊厳死ないしは治療停止が半ば既成事実化した暁に、尊厳死法案が上程されるのであろう。

 

(上掲同記事)

---------------------------


…ということです。さあ、みなさんはどう感じたでしょう。またみなさんは臓器移植法案A案についてどう思いますか。まだ参院での審議が残されており、参院では新案提出の動きもあるようすですので、このA案がそのまま通るかどうかは不透明です。解散もあることですし、今国会で可決するかどうかさえ不明となりました。わたしはもっと議論するべきで、可決を急ぐべきじゃないと思います。とくに、最後に指摘されているような思惑があるのならなおさら、ね。

って、わたしは「尊厳死法」の予定すら知りませんでしたけれども^^。また調べてみましょう。


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近代国家におけるアイデンティティの「素」ってなに?

2009年07月12日 | 「市民」のための基礎知識

おひさしぶりで~す。ずいぶんさぼっちゃってますね~。でも放置していても訪問してくださる方々がいらっしゃって、胸にじーんとくるものがあります。気まぐれにしか更新しないブログですが、これからも時々でも覗いてやってくださいませ。

 



さて、ひさしぶりにエントリーするに当たって、最近話題になった国旗国歌への態度の問題に関連して、「『国』とは? 『愛する』とは?」という憲法研究者の樋口陽一さんの記事をご紹介しようと思います。これは月刊誌「世界」の2006年6月号で特集された「憲法にとって『国』とは何か」というテーマの特集記事群の中の一本です。改憲の動きに対して、近代民主主義の原則をもう一度考え直そうという特集です。教育基本法改訂以前の考察です。

教基法改訂への動きがうねり始めた時代背景に、日本人なら国旗を崇拝するべきだの、君が代斉唱時に伴奏・斉唱拒否するなら日本を出て行け、など、「国」や「日本人」といったことばが多用された流れがあります。それは改訂された現在、裁判所が堂々と憲法にそぐわない判決を出してきている状態へと発展してきています。

改訂教基法の中の「愛国心」の表記を問題の俎上にのせて、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできたわが国と郷土を愛する…態度を養う」という文言ですが、そもそも近代国家における国民の結合は、文化とか伝統で結びつけるものではないのではないか、そういう考察を述べている記事です。

改訂教基法は憲法と明らかにそぐわないものになりました。自民党の眼目は、かねてよりアメリカから要求されてきた改憲です。改訂教基法の精神を憲法にも書き込もうと言うものです。

樋口さんはかつて対談されたある作家の考えを引き合いに出されます。その作家は「ネーション」と「ステート」をしっかり区別するべきと提案されたのだそうです。

「ネーション」による結びつきというのはまさに改訂教基法が「愛国心」について言うところの、「伝統と文化」を生来的に共有する民族の集まりが国家である、とする考え方です。しかし、近代国家とは、「ステート」である、ということを強調しておられるのです、樋口さんは。「ステート」は法体系によって結びつけられるもので、それはさまざまにユニークな個々人による「社会契約」という新しい概念によってつくられるものが近代国家だ、とおっしゃられます。

ややこしいですね。「ネーション」は、血のつながり、民族という括りで結び付けられた集まりであり、近代国家はそのようなものではないのです。この説明を、「ネーション」と「ステート」の類似概念である、「エトノス」と「デモス」をつかったこういうたとえ話を述べられます。

「エトノス」というのは、民族、血のつながり、ナショナル・アイデンティティという意味であり、「デモス」は人為、民主主義、制度、の意味です。「ネイション」、「ステート」の概念との類似が感覚的にわかっていただけるでしょうか。

 

---------------------------


デモスとしての国民国家は、人びとの生活実感としては、何でまとまろうとするのか。

井上ひさしさんの芝居に、『兄おとうと』という、吉野作造を取り上げたものがありますが、劇中、主人公の作造に言わせているこんな言葉があります。

ナショナリストの若者が斬奸状(悪者=奸を切り殺す趣意を書いた書状)を持って糾弾に来るのに対して、「このおにぎり(国民の集まりである国家を、米粒を集めたおにぎりに喩えている)の『芯』になっているのはなんだろう」と問いかけながら、吉野が応える場面です。

 

国の素(もと)は何か。

若者はまず、「民族だ」という。吉野は、「ちがうな。民族も種族も国の素にはならない」と言う。なぜなら、「世界のどこを探しても純血な民族など存在しない。わが国もまたしかり」と。

つぎにナショナリストの若者が、「国語を話すから日本人、それで決まりだ」と言う。吉野は「それもちがう。多言語国家もあれば、ひとつの言語を使ういろいろの国があり、その逆もある」と応える。

さらに、「この日の本の国をひとつに束ねているのは国家神道に決まっている」と若者が言うと、吉野は「それでもない。明治以前にはそんなものはなかった。宗教が国の素というのなら、イランもイラクもイエメンも、コーランの教えのもとにひとつの国になっていてもよいはずだが、そうはなっていない」と応える。

結局、「民族、ことば、宗教、文化、歴史、全部だめ。なら『芯』は何か」。吉野が言うのは、「ここでともに生活しようという意志だな。ここでともにより良い生活をめざそうという願い、それが国のもとになる。そして人びとのその意志と願いを文章にまとめたものが憲法なんだ」というわけです。

つまり、ある時代以前から人びとの前にヌっと当然のように横たわってきた何かではなくて、今その時代に生きている人々の意志の力でひとつの公共社会をつくってゆく、ということです。

 

ナショナリストの若者が主張するのが「エトノス」で、括弧つきですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなものです。それに対して吉野の主張するのが「デモス」としての国民で、それは(ひとりひとりユニークな個々人がユニークなままでひとつに)まとまろうとする意志だ。だからこそ、近代国家に値する公共社会をつくっていくためには、「ネーション」と「ステート」という仕分けをしっかりしなければならない、と言うのです。

 


(「『国』とは? 『愛する』とは?」/ 樋口陽一・談/ 「世界」2006年6月号より)

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最後の段落で、“括弧つきのですが「自然」のもの、言葉とか文化とか伝統とか、そういうネイティブなもの” とあるのは、伝統、文化 etc... というものも人間の手によるものですが、リアルタイムに生きている人びとが自分で選んだり、つくったりしたものではありません。たいていの場合、伝統・しきたりだから従え、というような強制的に、あるいは伝統・しきたりなんだから従うしかない、というような選択の余地のないものとして受けとめられるものです。自分で選び取ったり、新たにつくってゆくということができないもの、と意味で「人為の及ばないもの」→「受け入れなければならないものとして自ずと存在してきたもの」→「自然と存在するもの」となっています。

つまり近代民主主義国家は、国民が、リアルタイムに生きている人びとが自分で選び、自分でつくってゆくものであり、またそうでなければならないということです、樋口さんが訴えておられるのは。「国の素、国民を統合するもの」は、天皇制をも含む伝統でもなく、まして在りもしない「(純血)日本人のDNA」などではないのです。今、リアルタイムに生きている人びとが、自分の暮らし、自分の人生を目いっぱい良くしてゆこうという「意志」こそ国の素、国民を結びつけるもの、なのだということです。わたしもまったく同感です。「ネーション」、そして「エトノス」によって国家を定義することを否定するところから、近代民主主義国家は始まるものなのです。

しかし、教育基本法はむりやり強硬改訂され、改憲の動きでも「国柄」だの、「日本人のDNA」という強烈なナショナリズム色のことばさえ飛び交うのです。つまり今わたしたち日本を覆う雰囲気は、事実上近代国家の否定であるといえるでしょう。

 

樋口さんは続けて、「エトノス」そして「ネーション」の意味で国をまとめようとすることの危険を述べてこう書かれます。


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ただ、国をエトノスの意味でまとめようというのも、ある局面では意義をもちます。たとえば民族自決ということばは、大帝国の支配を解体させて、新しい状況をつくり出して行く起爆剤になることがある。

しかし、多民族帝国を解体させた瞬間に次の局面で現れてくるものはなにか、とりわけ90年代以降、われわれはそれをいやというほど目にしてきました。つまり、本当に民族自決しようとすれば、ひとつの地域の中に実際には入り組んでいるわけですから、それはやがて「民族浄化」に至ったのでした。「出て行け」「出て行かなければ殺す」ということになる。

だからこそ、エトノスという意味での国民、民族、それにつながるようなシンボルをたてる時には、近代国家はいつも非常に慎重だったのです。とりわけ「先進国」や「民主主義国」を標榜する国々では、「民族」ということばが出てくる場合には必ず複数で出てきている。ところが、日本の場合には、公式、非公式を含めて改憲案の下で「民族」ということばが、なんと単数で表記されている。このエトノスの単数表記にこめられている意図には非常に恐ろしい内容を含んでいるということを、わたしたちはもっと自覚する必要があると思います。

 

(上掲書より)

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この記事が出されて3年後のわたしたちは、「民族」単数表記の「改憲案にこめられている非常に怖ろしい意図」というのを目撃しましたよね。

カルデロンのり子さんの通う学校に出かけて行き、罵倒、脅迫を行った団体がなんの処分もされずのさばっているのです。わたしがもしのり子さんだったら、恐怖で登校拒否になったかもしれません。立川ビラ事件や麻生総理宅デモ・洞爺湖サミットのデモでの公安の謀略によるデモ参加者逮捕がある一方で、あんな怖ろしい脅迫的デモが容認されるのです、今の日本は。死者こそ出なかったものの、そこにこめられていた意図は、民族浄化の論理に通底するものなのです。

日の丸・君が代への個人的な態度表明の強制排除にもその論理は通底しています。そこにあるのは個々人の意志の自由、表現の自由を否定し、過去の人々が、とくに日本の場合、国を誤らせて、破壊に導いた人びとが作りあげてきた伝統や慣習、しきたりを無批判・無条件に受け入れ、服従せよという暗黙のメッセージが大手をふってまかり通りだしたのです。

 


わたしたちに対抗する術はないのでしょうか。まだ何とかなる道筋が残されています。いま、通読中なのですが、今年の3月に刊行された本に、このようなことが書かれていました。


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さらに日本の場合、1955年以来50年以上にわたって、短い例外期間を除き、自民党が一貫して権力の座にあったことによって、権力の融合と集中が一層強化されるという事情があった。

ふつうの近代民主主義国家なら、立法府による抑制均衡のほかにも、権力分立の原理の下で、司法による行政府へのチェックが存在する。さらに言論の自由の下で、メディアによる批判という事実上のチェックも存在する。

しかし、特定の政党が半永久的に権力を保持することが自明の前提となれば、これらのチェック機能も機能不全を起こすのである。

裁判所は憲法上、独立を保障されている。しかし、最高裁判所の長官は内閣が指名することになっており、そのほかの判事も内閣が任命することになっている。したがって、裁判所といえどもその時の内閣の動向、政治の動きとは無縁ではない。

実際、1960年代から1970年代初めにかけて、裁判所が労働事件などで比較的自由主義的な見地からの判決を出すことが多かった時には、その時の自民党政権が司法の左傾化に対して批判的な動きを起こし、最高裁判所判事の傾向が変化した。法廷の入れ替え(court packing)が事実上行われたと言うことができる。

この時以来、政府に批判的な判決を多発すると、人事の面で介入を受ける、ということを裁判所は思い知ったのである。それ以後、政治的な意味を含む事件について、裁判所は積極的に政府権力を批判したり、チェックするような判決を出すことを控えるようになった。

たとえば近年の例として、自衛隊のイラクへの派遣に反対するビラを自衛隊員の宿舎に配布したことが住居侵入に問われた事件でも、一審では無罪とされたにもかかわらず、最高裁は検察の主張をすべて是認し、被告人を有罪とした。これが示す意味は、自民党の永続政権下にあっては、権力の暴走により個人の権利を侵害することについて、積極的にチェックしようという姿勢を、もはや裁判所は放棄したということである。

 


(「政権交代論」/ 山口二郎・著)

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息をのみますよね、この文章。でもこれが現実なのです。根津先生やほかの先生方が裁判所によって憲法に反して退けられる背景には、こういうそら怖ろしい仕組みが働いていたのです。

これではもう日本には、近代社会の保障する人権は潰えるのも時間の問題じゃないか、と気分が沈みそうですよね。

でもあとひとつ、方法は残っています。この本のタイトルが示すとおり、「政権交代」です。上記の文章はまさに「なぜ政権交代が必要か」という章にあるのです。

民主党、社民党、共産党、どれも万全の選択肢ではない、それは事実です。しかし、自民党による単独永久支配が続くと、ほんとうにわたしたち、リアルタイムに生きているこのわたしたちの人生が、暮らしがアメリカの投機的野心家や富裕層の使い捨ての道具となってしまうのです。

ひとつの政党が半永久的に政権党に居座り続けることで裁判所が丸め込まれてしまうのであれば、権力の分立が消滅し、事実上独裁政権に堕してしまうのであれば、時折政権交代は起こすべきなのです。決めるのはわたしたちです。わたしたちにはまだ、自分たちの人生をコントロールできる機会が残されています。

わたしは、ものごとには臨界点があると思うのです。それを超えると、もう元には戻れない、という限界がある。

たとえば個人の場合、レイプなどされようものなら、女はもうレイプされる以前の自分には戻れない、一生トラウマを抱えて生きるのです。

また人権を尊重する社会を享受することについても臨界点があります。ある一線を超えるともう失った人権を取り戻せなくなる限界がある。戦前で言えば、それは1928年(昭和3年)の治安維持法「改正」がそうでした。それ以後、多数の人権派の人びと、また多数の共産党員が拷問に遭って、転向を強要され、事実、主義主張を放棄しました。わたしはそのひとたちを責めたりするつもりは毛頭ありません。拷問に耐えうる人間など存在しないからです。ひとえに、治安維持法改正を許した国民に責任があり、それ以後、もう以前の状態には戻れなくなったからです。

現代、2009年、わたしはそういう種類の臨界点はすぐそばまで来ていると感じています。すでに教育基本法が「改正」されましたし、ね。憲法ももう風前の灯です。あと残された希望は、政権交代を地道に支持し続けることだけです。わたしは、まだかろうじて言論がそこそこ自由にできる機会を利用して、人権の本当の意味を調べ、それをブログなどで公開するという手だても、ささやかながら、超ささやかながら、自分にできることかな、と勝手に思いこんでもいるのです。「人権」はいま、誤解を受けて敵意の的になっているからです。

きれいに締めくくれないのですが、今感じたことをここで終わることにします。「世間交代論」は教科書的な内容ですが、わかりやすくまとめられていますので、基礎教養書として、一度読んでおくことをお奨めします。いままで自分言葉でうまくいえなかったことが、言えるようになる気がする本です。

 

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