Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

医療制度改革の欺瞞(2)

2007年07月29日 | 一般
わたしが勤めている会社の取引先の会社の社長さんがおっしゃっていたんですが、その社長さんのお住まいに非常に近い病院では、もう小児科がないのだそうです。社長さんにとっては非常に納得のいかないことなのだそうです。なぜって、社長さんの感覚で言えば、病院から医者がいなくなる、ということが非常識のように思えるのだそうです。「何のための病院だ」とおっしゃっていました。二世帯住宅にお住まいで、娘さん夫婦と同居しておられるのですが、お孫さんの診療のために通院がかなり遠くなって、憤懣やるかたないといった風でした。みなさんのご近所でも、小児科や産婦人科がなくなった病院があると思います。今、医師、看護師の不足は非常に深刻で、もはや「医療崩壊」ということばが現実になっているからです。なぜこんなことが起こるのかといえば、小泉内閣による「構造改革」に原因があるのです。医療費抑制政策です。

昨年夏に「全日本民主医療機関連合会」がこのような抗議声明を厚労省に提出しました。

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医師の需給に関する検討会」報告書に抗議する



2006年8月18日
全日本民主医療機関連合会
会 長 肥田 泰


 7月28日、厚生労働省の「医師の需給に関する検討会」は最終報告をまとめた。


 今回は、統計的手法も駆使して16年後には必要な医師が供給される見込みであるとし、現在の医師偏在による困難については、行政、大学、学会、医師会などが協力して努力するべきこととした。そして、さすがに現場に近い委員の発言を無視できず、病院勤務医の負担や地域格差、小児科、産婦人科等の問題に言及したものの、今後とも医学部定員増という施策はとらないし、有効でもないと結論付けた。これまでの検討会報告に見られたような「医師の過剰問題」に対する執拗なまでの危機感の表明は影を潜めたものの、結論は従前のものと同じであった。


 前回の検討会報告(平成10年10月)は、新規参入医師を削減するために、入学定員のさらなる10%削減にはじまり、国家試験受験回数制限、卒前教育での不適格者の進路変更、保険医の定年制の検討まで提案していた。そして8年後の今日、医師不足によって全国各地で地域医療の崩壊と言われるような事態が多発している。今回これらに対して踏み込んだ提起をしたというものの、前回報告書の提起した新規参入医師削減の方針への反省が一言もないのはなぜなのか。わずか8年まえの過去に責任をもたないような「検討会」の提案をまともに受け止める関係者がいるのであろうか、あらためて厚生労働省に問い質したい。


 また、医師の勤務状況を調査して医師の需要と必要数を導いたとしているが、現場の実態や実感からは大きくかけ離れている。病院に滞在している時間がすべて勤務時間でないとしたり、病院勤務医の大きな負担となっている当直を勤務時間から除外するなど、必要医師数の算定根拠に疑問を持たざるを得ない。そして、必要医師数の算出を客観的にしたといいながら、簡単にできる人口当たりの医師数の国際比較にはまったく見向きもしないのはなぜか。人口あたりの医師数で見ると、日本はOECD加盟国平均の70%に満たず、平均に追いつくためにはあと12万人が必要で、今のペースなら40年以上かかる計算になる。


 安全で、質の高い医療を求める国民の声、身をすり減らしながら現場を守る医師や看護師の悲鳴を無視するのか。厚生労働省の本音は、中小病院つぶしによる病床の大幅削減によって、医師を増やさず医療給付費も削減できるということではないのか。全日本民医連は、地域医療を守る立場からこの最終報告に抗議するとともに、病院勤務医が将来に希望を持って働き続けられるよう医師の絶対数増加をふくめた施策を要求する。


 公的医療給付費削減の流れの中での医師需給計画ではなく、せめて国際社会並に医療費を増やし、医師、看護師増員はじめ安全安心の医療が実現できるよう厚生労働省は全力を尽くすよう強く要請する。

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医師はどのていど不足しているのかということについては、冒頭に書いた社長さんの近所の病院から小児科がなくなったという出来事に見られるとおり、すでにわたしたちの身近に見られるようになっているのです。小児科消滅については、2002年にこんな事件がありました。

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2002年(平成14年)9月、岩手県一関市で、生後8ヶ月の乳児が4軒の救急病院に連絡を取ったが小児科医がいないことを理由に断られ、最終的に5軒目の病院の当直だった眼科医の診療を受けることになりましたが、容態が急変、眼科医は泣きながら心臓マッサージを行いましたが、死亡しました。

子どもを持つ親にとって、症状を訴えられない乳幼児が急にぐったりしたとき、異物を飲み込んだときに小児科医がいる救急病院が近くにあれば安心です。しかし小児科医不足から小児救急医療ができないのです。都心部の大病院では常勤医師による24時間体制が取れますが、日本では8割の子どもが小児科医のいない救急病院で治療を受けているのです。

子どもの治療には専門的な知識と経験が必要です。厚生労働省は全国を360の医療圏に分け、小児科医が当直できる病院を確保すると宣言しましたが、その体制ができたのは全国で51箇所だけでした。


(「崩壊する日本の医療」/ 鈴木厚・著)

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この事件はたしかにうっすら覚えています。たしかマスコミの反応は、特にテレビでは受け入れを断った4軒の病院のほうを責め立てていたように記憶しています。しかし、実際に責められなければならないのは行政のほうなのです。みんな「改革」というキャッチフレーズにやすやすと欺かれて小泉さんは支持するのですが、責められなければならないのはその小泉さんと、彼のバックボーンである財界なのです。

以下、上掲書より、現在の医療の現場の問題をきちんと書いておこうと思います。このブログを訪れてくださる方に、もう欺かれないように、そして真に糾弾しなければならない人たちに目を向けてもらいたいのです。もし、この記事をご覧になってくださったのであれば、そのあとご自分でインターネットなどで調べていただき、行政にどんどん声をあげていってもらえれば、と願っています。

まず、医療現場から医師たちが逃げ出す、という現状があるそうです。

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日本の小児科医は約1万8千人ですが、小児科医を希望する医学生の数はピーク時の6割になっています。

小児科では女性医師の比率が高く、小児科医の32%が女性、30歳以下では40%が女性です。女性医師の場合は、出産や育児で休むことがあります。また小児科医の高齢化が進み、医療現場で働ける医師数は実数よりはるかに少ないのです。

夜間の救急外来が多いのが小児科医の特徴ですが、家庭のある女性医師や高齢の医師に徹夜の当直はきつすぎます。24時間体制の小児科医は多忙で責任が重く、それでいて給料が安いのです。割に合わない、という理由で逃げ出すのは仕方のないことです。

小児科医不足は小児科の診療報酬が低いことが原因です。子どもの診療には多くの時間とエネルギーがかかります。点滴を刺すだけでも数人がかりの修羅場となります。大人のように検査はできず、投薬も少なく、診療に手間と時間がかかるのに、小児科の診療報酬は低いのです。

厚労省は小児科の診療報酬を優遇するとしていますが、100円上げれば、「優遇した」というのが役人の常套手段であり、また感覚なのです。救急現場では小児科医の労力に見合った診療報酬には至っていません。平成17年の子育て支援は1兆774億円ですが、小児救急の整備予算は16億円にすぎないのです。



母親は万が一のことを考え、子どもを救急病院に連れてきます。しかし実際には大学病院などの小児救急でも、コンビニ感覚で受診する患者が急増しています。小児救急病院を受診する患者の9割以上は緊急処置の必要のない軽症患者です。また、ワクチンを打って欲しい、診断書が欲しいなどの救急には不適切な要求をする例が増えています。

親は救急病院を24時間利用できるコンビニと考え、日中につれてこないで、自分たちに都合のいい夜間に子どもをつれてきます。しかも救急車はただですから、こんなに都合の良いことはありません。また自治体の公的援助により小児医療が無料の自治体がほとんどです。その制度があるために、診療してもらって、薬をもらわなければ損、という感覚が生じています。

小児医療ではこのような多くの軽症患者に時間を取られ、重症患者への対応が遅れるという弊害をもたらしています。



勤務医は激務なのに、収入は開業医より少なく、そのため勤務医は病院をやめ、残された勤務医の労働条件が悪化するという悪循環を生んでいます。開業医の診療所は、医師の住んでいる自宅と違うところが多く、小児科の診療所での夜間診療はまれです。

大学病院の小児科では100円の収入を得るのに、人件費や医薬品などの費用が120円かかっています。中小病院では小児医療をやればやるだけ赤字となるため、次々に小児科の看板を下ろしています。東京都内でも公的病院である青山病院(東京都渋谷区)では小児科を廃止、多摩南部地域病院(多摩市)と中野総合病院(東京都中野区)では入院患者や急患の受け入れをやめています。小児患者が外来に溢れていても、病院が赤字になる診療報酬体系になっているからです。

小児救急を担えるのは、補助金をもらえる自治体病院ばかりで、自治体病院の小児救急医は溢れる患者を前に悲鳴をあげています。将来を担う大切な子どもを守るためには、子育て支援以前の問題として、小児医療を充実させることです。



1999年(平成11年)8月16日、小児科医の中原利郎医師(44)が勤務先の都内の佼成病院の屋上から飛び降り自殺しました。中原利郎医師は便箋3枚に次のような遺書を残しています。


「小児科の消滅は、医療費抑制政策による病院経営の悪化が要因と考えられます、生き残りをかける病院は経営効率の悪い小児科を切り捨てます。現行の医療保険制度では、手間も人手もかかる小児医療に十分な配慮を払っているとは言えません。

わが病院も常勤医6名で小児科を運営してきましたが、現在は常勤4名体制です。私のような44歳の身には、月5回から8回の当直勤務はつらすぎます。スタッフには疲労蓄積のようすが見てとれ、これが医療ミスの原因になってはと、ハラハラの毎日です。

まもなく21世紀を迎えます。経済大国日本の首都で行われるあまりに貧弱な小児医療が、不十分な人員と陳腐化した設備の下で行われています。その場しのぎの救急、災害医療。この閉塞感の中で、私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」。


遺書には、小児医療に十分な配慮がなされていないこと、医療費抑制政策が病院経営を悪化させ、病院が経営効率の悪い小児科を切り捨て、病院では相次いで小児科が廃止されていることを訴えていました。

中原医師は部長代行という激務の中で、日本の小児医療を嘆いての自殺でした。中原医師の気持ちは彼だけのものではなく、小児科の勤務医はみな同じような思いをしているのです。これだけの激務に(月5回から8回の当直勤務など)耐えながら、中原医師は労災の認定を受けられませんでした。自殺当時、中原医師は月8回の徹夜の当直を行っていましたが、「当直は通常勤務であり、時間外労働には値しない。月8回の当直は激務ではなかった」というのが労災認定却下の理由でした。

このような馬鹿げた理屈に対し、医師たちはなぜ反発しないのでしょうか。日本小児科学会、日本医師会、日本弁護士連合会はなぜ黙っているのでしょうか。佼成病院は宗教団体の付属の病院です。宗教は人々の幸せのためにあるのです。なぜ人々の幸せのために闘わないのでしょうか。中原医師の成仏だけを祈る宗教団体ならば、宗教団体の看板を下ろすべきです。

年間90人以上の医師が自殺しているのです。どうでもよい研究を学会で議論するよりも、医師の過重労働は数百倍大きな問題です。これでは医師は、行政に飼いならされた奴隷以下です。筆者は中原医師の死を無駄にしたくありません。


(上掲書より)

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医師の増加を抑えること、安く叩かれた診療報酬、そのために医療現場では医師や看護師の労働に過重がかかってしまっていること、引用文中の中原医師の遺書には、現場のスタッフは疲弊しきっている、そのために医療ミスがあってはとハラハラしている、と訴えておられますが、事実、医療ミスは増加しています。それらには単純ミスが多いのです。単純なミスが増えるというのはそれだけ疲労していることが十分うかがえるのです。

この根本にあるのが、「医療費抑制政策」です。上掲書によれば、日本の医療はかつてWHOによって、世界第1位と評価したそうです。医療機関へのアクセスのよさ、高度な医療と安い診療費、平均寿命の高さと、乳児死亡率の低さ、という点が世界第1位なのです。これは素晴らしいことではないでしょうか。一方アメリカ合衆国はといえば、37位でした。アメリカは医療も「産業」なので、市場原理の下に運営されています。医療は「商品」であり、患者は「消費者」なのです。ですから貧しい人はまともな医療を受けることができません。市場原理主義のアメリカの考え方によると、「貧乏なのは本人の責任なのだから、医療を受けられないのは本人の責任」なのです。

そして日本は、小泉元首相以来、このアメリカ型の市場原理主義を導入しつつあります。まさにそれは進行しているのです。安倍首相も「改革を止めるな」という小泉キャッチフレーズを継承しています。さらに憲法の改正により、国民の権利を縮小し、国家という抽象的な概念への義務を押しつけて、アメリカと経団連の意向ばかり推し進めます。今、参院選の開票結果を見ながらこれを書いているのですが、自民党は27議席、公明党が6議席、民主党は55議席となっていて、自民党は大敗のようすなのですが、中川さんも石原さんも、これは安倍首相への不信任とは受け止めていないということを言っています。つまり安倍政権続投の意思を表明しているのです。それはつまり日本のアメリカへの属国化政治をこれからも続ける、という意味です。国民の生活を犠牲にして、経団連に迎合し、アメリカ防衛のための軍事力強化を推進し続けなければならない、という…なんでしょう、この信念は!強迫観念なのか、財界に完全に牛耳られているのか。

みなさん、年金問題に収束させようとする自民党とマスコミにだまされないでください。自民党支配には、私たちの未来を豊かにする意図がないのです。このシリーズはもう少し続けたいです。暗い話題ですが、それはつまり現実というものが暗いのです。暗いのが今の事実なんです。明るく前向き思考でいきたいのであれば、今はこの暗さを直視する必要があると思います。「医療制度改革の欺瞞(3)」では医療ミスと医療事故を書きます。みなさんが読んで下さることを強く希望します。医療は憲法で保障されたわたしたちの「生存権」の問題なのですから。


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医療制度改革の欺瞞(1)

2007年07月22日 | 一般
日本の借金というのは半端じゃなく、およそ800兆円あります。地方自治体はまた別におよそ200兆円の借金を抱えています。あわせて1000兆円です。この借金の返済はどうするかといえば、もちろん国と地方自治体の歳入から支払わなければならないのですが、現在の一般歳入会計では、何度年度の歳入のうち、3分の1以上を国債が占めています。国債とはつまり借金です。日本は今借金を返すのに借金を繰り返すという自転車操業をしているわけです。

個人でこんなことをしている人にはよほどタチの悪い業者でないかぎり、ふつうのマチ金(消費者金融業者)ではもうお金を貸してくれません。金融屋ではブラックリストに載るようなタイプの債務者なのです、今の日本は。こんな借金をつくった歴代の自民党政府の責任は決して忘れられてはならないと思います、返済を終えるまでは。

小泉首相が掲げた骨太の方針では財政再建のための「痛みを伴う改革」が次々と打ち出されてきたわけです。自民党の経済政策の失敗、経済感覚の幼稚さのためにできあがった天文学的な数字の借金を返してゆくのに、自民党は何の責任も取らず、一方的に国民に痛みを強要するのです。なぜこんな自民党にみんな投票するのでしょうか。わたしは日本国民の脳みそのおめでたさに愕然とします。

国民に押しつけられている「痛み」に、医療費抑制政策があります。

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わが国は国民皆保険のもと、保険証一枚で誰もが安心して医療を受けることができる医療制度を実現し、世界最長の平均寿命や高い保健医療水準を達成してきました。

しかしながら、急速な高齢化の進展、経済の低成長への移行、国民生活や意識の変化など、医療を取り巻く環境は大きく変化してきており、医療保険財政は厳しい状況が続いています。

このような状況の下、将来にわたり、安定的で持続可能な医療制度を堅持していくためには、医療の質の確保を図りつつ、制度全般にわたる構造改革を行ってゆくことが必要となっています。

こうしたことから、医療制度改革の実現が社会保障分野における今年の(2006年)最重要課題となっており、その改革を政府与党一体で成し遂げるため、昨年(2005年)12月に政府与党医療改革協議会において「医療制度改革大綱」が取りまとめられました。

【基本的な考え方】

1.安心・信頼の医療の確保と予防の重視。
 …(後述)…

2.医療費適正化の総合的な推進。

急速な少子高齢化の進展の中で、国民の安心の基盤である皆保険制度を維持し、将来にわたり持続可能とするため、医療費について過度の増大を招かないよう、経済財政と均衡が取れたものとしていく必要がある。

このため、医療給付費の伸びについて、その実績を検証する際の目安となる指標を策定するなど、国民が負担可能な範囲とする仕組みを導入する。

医療費の伸びが過大とならないよう、糖尿病等の患者・予備軍の減少、平均在院日数の短縮を図るなど、計画的な医療費の適正化を推進する。

医療費の無駄を常に点検するとともに、国民的な合意を得て、公的保険給付の内容・範囲の見直しを行う。

(厚生労働省大臣官房総務課広報室/ 「厚生労働」平成18年2月号より)

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上記引用で、「安定的で持続可能な医療制度を堅持していくために」と言われているのは、医療費の国庫負担を減らしてもやっていけるように、医療制度を「改革」することにした、という意味です。決して国民にとって、また病気、負傷、障害をわずらった人々にとって十分な医療を提供しようという意味ではありません。なぜそんなことが言えるかというと、患者負担の引き上げ、長期入院患者の療養削減、生活習慣病予防などに見られるように、医療制度改革の内容そのものが言外に明確に物語っているからです。

たとえば、「医療費について過度の増大を招かないよう、経済財政との均衡をとる」とありますが、これは景気の悪かった年度には、医療費が予算の重荷にならないよう、「均衡をとる」、つまりそれだけ減らすということです。医療というのはお金で買える商品ではなく、また商業サービスでもないのです。「医療は国民の安全保障です」(鈴木厚/ 「日本の医療に将来はあるか」)。医療は一国の防衛と同様の安全保障です。

軍隊が守るのは天皇や政治家・官僚やメジャー企業のトップなどの国家機構です(ここ、注意。「国民」ではない!)が、医療が防衛するのはまさに国民の生命なのです。医療はわたしたち国民の生命の安全保障なのです。それを削減し、軍備費については増額ができるよう防衛「省」昇格を強行採決するのが小泉=安倍路線の自民党です。現在の政権がどこを向いて政治を行っているかがはっきり分かるではないですか。

また、「糖尿病等の患者・予備軍の減少を図る」とあるのもまた無慈悲な考えにもとづいています。それは糖尿病をわざわざ持ち出していることです。糖尿病は生活習慣病です。つまり、病気というものは生活の仕方で防げるものだ、というわけです。ニッポン人なら病気にならないよう努めよ、お国に負担をかけることを恥と知れ、というわけです。病気になるのは自分の責任だと言いたいのです。株式の世界で使われていた「自己責任」という用語が、国民の生命の安全保障の次元にまでむりやり適用されるのです。

みなさんまでここは誤解しないでくださいよ、病気になるのは、突発的事故で負傷するのは、決して自己責任ではないのです。病気は何が原因で罹患するのか分かりません。健康に注意していたからと言って絶対病気にならないというわけではありません。こんなこと子どもでもわかることではないでしょうか。

平均在院日数削減もそうです。病気は何日経ったら治るというものではありません。患者によっては施療後一週間ほどで退院できる人もいますし、逆に何週間も入院したほうがいい場合もあるのです。それを「長期入院こそ医療費の無駄遣い」と決めつける厚労省官僚の幼稚な思考はどうでしょう。彼らこそまず、心療内科で自己愛製人格障害だの境界性人格障害だの反社会性人格障害だのの治療をするべきではないでしょうか。

母校の北里大学医学部非常勤講師をも兼任される医師、鈴木厚さんはこのように言われています。

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政府の仕事は国民から集めた委託金(税金)を国民の幸せのために再配分することです。しかし政府は借金地獄を招いた無駄遣いの自覚もなければ反省もありません。政府は国の借金を国民の増税で返そうとしています。しかし国民は政府に借金をした覚えも、借金を頼んだ覚えもないのです。それなのにある日突然、増税という借金取りがやってくるのです。国民は身に覚えのない借金をなぜ払わなければならないのでしょうか。

国民医療費のうち、国が負担している国庫負担は8兆円ですが、この「8兆円」という額は国の借金の1%にすぎません。国は経済政策の失敗のために約800兆円の借金を作りましたが、借金総額の1%にすぎない医療費の国の負担をさらに減額しようとしているのです。借金の1%を抑制しても、99%以上の借金は残るのです。医療費を削減しても、財政再建の効果は微々たるものです。つまり医療費削減は財政改革の見せしめにすぎないのです。

国民医療費の財源は本人負担、保険料、国の負担、地方の負担に分かれていますが、これらはみな国民の財布から出てきたものなのです。わたしたちの税金です。公共のお金の使い道に、国民の同意を十分得ずに強行採決という方法で、一部の世襲議員と、世襲議員を取り込む財界の意向に任せてしまっていいのでしょうか。

医療費削減の強行の動機は「財政改革」です。こういうと聞こえはいいですが、要するに自民党の経済政策の失敗とムダのツケを国民に押しつけて片づけようということです。政府の経済財政諮問会議は5年後に財政収支を健全化しようとしています。そのため14兆円の歳出を削減し、5兆円を増税で補おうとしています。社会保障費を約5兆円削減し、公共事業を年間3%削減するとしていますが、公共事業の削減は3%程度でいいのでしょうか。公共事業は利便性を高めてくれますが、利便性よりは生命を優先するべきです。地元が反対している新幹線や飛行場などの公共事業を半分にして国民医療費へ財源をまわすべきです。

政府は「5年後の基礎的財政収支の黒字化」と言っていますが、それは単年度の黒字であって、過去の借金の元利支払い800兆円以上は残るのです。この膨大な借金をどのように返すかについては、政府は何の説明もしていないのです。「団塊の世代」が高齢となる時期になぜ社会保障費を5兆円も削減するという発想ができるのでしょうか?


(「崩壊する日本の医療」/ 鈴木厚・著)

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医療制度改革は国民不在の、いや国民排除の財政改革政策です。政府も厚労省も、自分たちの間違いはまったく棚に上げて、医療にカネがかかりすぎるのは、国民の側にもムダがあるといい抜けて、医療費削減という文明国の資格を放棄するような政策を強行するのです。ごまかしとウソの宣伝でまずマスコミを煙にまき、それによって国民を欺くのです。医療費抑制政策の理由となっている、医療費増大というのもそうです。厚労省の情報操作が行われました。

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国民医療費は平成元年から平成11年まで毎年1兆円ずつ増え続けてきました。しかし翌平成12年(小泉政権になってから)に国民医療費は減り、平成14年には31.1兆円に確定しています。

老人人口が増え、医学が進歩し、新しい医療機器が開発されているのに、なぜ国民医療費は増加ではなく、減少なのでしょうか。この国民医療費の減少が日本の医療の根本的歪みを生じさせています。

平成9年、当時の厚生省は、平成12年の国民医療費は38兆円になると宣伝しました。さらに平成22年には68兆円になると国民医療費の予測値を出しました。この医療費高騰の予測値にマスコミも便乗し、医療亡国論などとさかんに宣伝しました。しかし、平成12年の医療費は実際には30.4兆円だったのです。つまり厚生省は8兆円もサバを読み医療費高騰を宣伝したのです。

これは国民医療費を抑制するための厚生省の情報操作でした。さすがに平成12年の予測値38兆円は無言のまま引っ込めましたが、このようにウソのデータを示し、国民の将来不安をあおり、厚労省は医療費抑制政策を遂行しているのです。厚労省は医療費の予測値が間違いであることを認めず、また新たな予測値を出してきました。

医療費から患者の自己負担を除いた医療給付費が現行制度のままならば、平成17年度の27兆5000億円が平成37年には56兆円になるとしています。現行制度のままでは国民医療費は30年後には2倍に膨れ上がると脅しています。

しかし、この予想が仮に正しいとしても、なぜ2倍程度の医療費を抑制するのでしょうか。平成37年度に56兆円に仮になったとしても、それは現在のアメリカの医療費より低いレベルなのです。それがなぜいけないのでしょうか。

団塊の世代の高齢者が急増することは20年前、30年前から分かっていたことです。もし厚労省の医療費の総額が正しいとして、医療費給付を抑制すれば、窓口で払う自己負担金は5割になるのです。これでは国民会保険制度は崩壊、日本人の生存権は奪われることになります。

老人が増えれば医療費が増加するのは当然のことです。医療費が増えるから自己負担増は仕方ない、という考えが間違っているのです。


(上掲書)

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自民党はアメリカのMDを半分肩代わりできるように、集団的自衛権の行使を可能にしようとして、解釈改憲や憲法9条改正に躍起になっています。軍備を増強しようとすればお金が必要です。このたびの増税はあきらかに米軍共同防衛に加わるためにお金集めのごく序の口なのでしょう。増税だけではお金を集めるのは不足があります。そのために歳出削減、とくに医療費や社会保障のためのお金を減らそうというのです。

わたしたちが生きているのは、大日本帝国なのでしょうか。そこでは国民に主権などなく、生存権も保障されていませんでした。わたしたちは誰のために生きているのですか。アメリカの産軍官のエリートの金儲けのためだったのですか。アメリカの忠犬自民党にもうこれ以上政治を任せたくない、わたしは切に切にそう思うのです。
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6カ国協議で浮く日本

2007年07月18日 | 一般
こんなニュースがありました…。

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【拉致家族会:週刊文春に抗議「記事は大誤報」】
 

北朝鮮による拉致被害者家族会(横田滋代表)は16日、「週刊文春」が7月19日号(12日発売)で報じた「『拉致を政治利用するな!』中山恭子へ家族会の大ブーイング」の記事に対する抗議声明を発表した。

 記事は、中山首相補佐官の参院選立候補について、「家族会や支援団体・救う会の中に出馬を厳しく批判する声が多い」などとし、匿名の家族会関係者とする人物のコメントを掲載した。声明は「記事は大誤報。家族会は中山補佐官を心から信頼しており、今回の立候補も拉致問題解決に大いに助けになると考え、できうる限りの支援をしている」などとしている。

週刊文春編集部のコメント :
記事は確かな証言に基づいて執筆したものです。抗議については真摯(しんし)に対応したいと思います。

毎日新聞 2007年7月16日 19時19分

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横田さんをはじめ、拉致被害者たちがバッシングされたことがありましたよね?
覚えておられるでしょうか。わたしはうろ覚えなんですが(笑)…。

わたしはね、本音を言いますとね…。

横田さんの言動の中に、共感できないものがあるんですよ。それは、経済制裁を要求する言動です。子どもさんを拉致されて離れ離れになったまま一生を終える、それは親として悲劇です。これは深刻な人権問題です。

でもね、経済制裁を行うというのは、戦争を仕掛ける一歩手前の政策なんですよ。とくに北朝鮮のような国に対して行うとなるとね…。当然そうなると北朝鮮の市民にまず甚大な被害が及びます。これもやはり人権問題なのではないでしょうか。

拉致を行ったのはまず北朝鮮の政府です。金日成です。あるいはその配下の官僚たちです。拉致問題の解決交渉はあくまで北朝鮮の政府に対して行うべきで、威嚇の目的で市民を飢えさせる、という手段を取るべきじゃないと思います。

蓮池さんたちが行方不明になった時代のニュースをわたしははっきり覚えています。わたしが高校生のときで、大阪のローカルラジオ番組の「サタデー・バチョン」という番組で、怖ろしげに取り上げられていました。その当時はその事件は「ミステリー」でした。

その後、警察は「外国機関に拉致された」という結論に達したのですが、そのことは新聞などで大々的には取り上げられなかったのです。横田さんたちは何とか取り返せないものかと、80年代初期から外務省にかけあったのですが、横田さんの言葉によると、「けんもほろろ」の対応だったそうです。その当時に積極的に北朝鮮に掛け合っていれば…。少なくともその頃は、横田めぐみさんが確実に生きていたということが分かっていた時期なのです。そのときには日本政府はそんな対応だったのに、今になって6カ国協議の中で、他の国々から孤立してまで強硬策を主張するのです。ですから、わたしは安倍自民党政権は拉致問題を利用していると思います。

どういうふうにかというと、危機感をあおり、軍備増強に共感的な世論をつくりあげるために。防衛庁も「省」に昇格しました。大臣たちはこぞって「北の脅威」を口上に述べ、核武装容認論まで飛び出し、けっこう国民の間に共感を得てさえいるのです。この宣伝手法はアメリカがイラク参戦に際し行ってきた、そう、「政策」と同じです。

わたしは日本国民の中にも、拉致被害者たちが経済制裁を要求することには、なんとなくイヤな気分になる人たちがいるのではないかと思います。やはりどこかになんだか無理があるような、行き過ぎがあるような、あるいは政府の作為がじつは透けて見えているからなのでしょうか、違和感を覚えているのではないかと思うのです。だから週刊文春のような記事が出るのではないでしょうか。

事実、加藤紘一さんはこんな風に発言しているそうです。2007年7月17日付毎日新聞朝刊からです。

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自民党の加藤紘一元幹事長は17日、東京都内の講演で、18日に始まる北朝鮮の核問題に関する6カ国協議の政府対応について、
「日本の対朝鮮半島外交は韓国とも中国とも米国とも齟齬(そご)をきたしている」と指摘、拉致問題を優先する安倍晋三首相らの対応に懸念を示した。

安倍首相と麻生太郎外相の外交路線に関しても「イデオロギーで進めており、柔軟な道がとれない」と批判した。

 加藤氏は「米国と北朝鮮が、かなりやる気でお互いに近寄っている」と述べ、近い将来、米朝の国交樹立もあり得るとの見方を示した。

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完全に日本は他の五カ国から浮いているわけです。柔軟な対応が取れないからです。なぜでしょうか。それは無理があるからです。どんな無理かと言うと、安倍・麻生は拉致問題の解決を目指しているんじゃなくて、拉致問題を利用して、つまり拉致問題を道具に使って、別の目的を成し遂げようとしているのではないか、ということです。

別の目的とは何か。

「戦後レジーム」からの脱却です。教育基本法強行改正から今日まで、安倍政権の舵取りを追ってゆけば、その「目的」ははっきり見えてくると思います。拉致被害者の方々には、ぜひ冷静で実際的な活動を行ってほしいです。今、安倍政権が行ってきている方針は効果がないのです。自民党内部からそういう声が聞こえてきているのです。被害者の方々のご家族はもう高齢の方々がおり、蓮池さんら帰ってきた人たちを見れば、自分たちも子どもの顔を見たいという気持ちにもなるでしょう。

でも、方法を間違えると、日本国民全体を不幸にする政治体制に持っていかれかねないのです。無理を承知でお願いしたいです。皆さんのような不幸が日本国民全体に広がってしまうことのないように、広い視野を持っていただきたいと思うのです…。現に自衛隊は米軍と共同作戦に従事しているのです。いつ、隊員のご家族が未亡人や父親を失った子ども、子どもを失った親になるかもしれないのです。自民党とのつき合いにはくれぐれも慎重になって頂きたいのです…。
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全国学力テスト政策のゆがみ

2007年07月16日 | 一般
「統一学力テスト」の目的は、子どもたちの学力を国家全体で向上させようということらしいです。学校にそれぞれ校内児童の成績を競わせることで、子どもたちの学力の向上を図ろうということです。しかも、それと同時に「学校選択制」もセットで導入します。つまり、これまでのような学区制に束縛されず、親は成績のよい学校に子どもをやることができる、という制度です。さらに安倍総理が構想しているのは、成績のよい学校には予算をつぎ込み、成績の悪い学校からは予算を減らす、ということです。こうして競争を煽るわけです。

これは「教育への市場原理の導入」と呼ばれています。つまり、消費者がより良い商品を買おうとするように、より成績の良い子に指導してくれる学校を選んで子どもをやることができるのです。この制度はまずサッチャー政権下のイギリスで始められました。四半世紀を経た今日、イギリスの教育は非常に荒廃しています。

その理由のひとつは各学校が、自分の学校に児童をより多く集めようとして、不正が行われることです。教師たちが統一学力テスト実施以前に、答案用紙を盗み見し、それを児童たちに教えたり、答案が終わってから答案用紙をまた児童に返却し、間違えたところを書き直させるというような不正が後を絶たないのです。日本でも早々に同様の事件が起きました。毎日新聞からふたつの記事をご紹介します。

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東京都足立区教育委員会は7日、昨年4月に区が独自に実施した学力調査(テスト)で、トップの成績の小学校が、保護者の了解を得ずに情緒障害などのある児童3人の答案を採点対象から除外していた、と発表した。区教委は「保護者に説明せずに不適切だった。申し訳ない」とコメントした。

 区教委によると、学力調査は、小学2年~中学3年生を対象に04年度から区が独自に実施し、各学校ごとの順位を公表している。この学校は、05年度は44位だったが、06年度はトップになった。

 3人はいずれも6年生(当時)で、情緒障害などが見られる。普通学級に在籍しているが、週に何回かは別の学校の特別なクラスに通っていたという。

 3人はテストは受けたものの、「文章を理解する力が通常より難しい」などの理由から、校長の判断で採点対象から除外した。区教委は事前相談や保護者の了解があれば、問題の理解が難しい児童の採点除外を認めているが、この学校はその手続きをしなかった。校長は「怠った」と説明しているという。3人の児童の親のうち2人は校長の説明に納得していない。

 同区では、学校選択制を02年度から実施しており、成績の上位校に入学希望者が集まる傾向にある。この学校は、誤答している児童の机を教師がたたくなどの疑惑も指摘されているといい、区教委は、さらに調べる。区教委は「児童に対する配慮」を理由に、学校名は明らかにしなかった。

【吉永磨美】

毎日新聞 2007年7月7日




東京都足立区が実施した06年度の区学力テストで不適切な行為が疑われていた問題で、区教委が16日会見し、区立小1校で校長と5人の教員がクラスを見回り、誤答していた児童の問題個所を指さし再考を促していた不正があった、と発表した。区教委は校長の任命権がある東京都教委に処分を求める方針だ。

 区教委によると、校長は「普段から指で問題をなぞりながら読むよう指導している」と話し、教員に指さしを命じたことは否定。しかし、テストを受けた2~6年の全クラスの担任は、校長や副校長による指さしの指示があったと証言した。

 また、同じ小学校で、テスト前に前年のテストをコピーし、児童に2~3回にわたり練習させていたことも判明。05年と06年はテスト作成業者が同じで、ほぼ同じ問題が出題されたという。同校では、情緒障害児ら3人の答案を採点から除外したことが既に判明。同校は05年に区内全72小学校中44位だったが、翌年1位にはね上がった。

 さらに、区が全小中学校を調べたところ、小学校3校、中学校1校で前年のテストをコピーして問題を解かせていた。また、小中学校17校で、やる気がなくテスト用紙に絵を描いた▽外国籍で日本語が未習得--などの小学生16人と中学生5人計21人をテストの調査対象からはずしていた。21人中、1人の親から了解を得ず「不適切だった」という。

 足立区は学力テストの各校順位をホームページで発表し、学校ごとに予算を傾斜配分している。区教委は今後、順位の公表を見直す方針。【山本紀子】

 


▽学力テスト問題に詳しい藤田英典・国際基督教大教授(教育社会学専攻)の話:
起こるべくして起こった問題。45年前に実施されていた全国学力テストでも、誤答を指さして教えるなどの問題行為があった。基礎学力をつけることは大事だが、テスト学力を過度に重視し、学校間で序列をつけて競い合う傾向が強まる中で起こったことで政策のゆがみの表れといえる。

毎日新聞 2007年7月16日



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成績を上げて、自分の学校に多くの生徒を集めようという目的だけがギラギラとしていて、子どもたちに真の理解を与えようとはしないのです。これで学力が向上するのでしょうか。するはずがありません。教育から子どもが押しのけられているのです。

押しのけられる子どもには情緒障害者がいたようです。つまり、学校の成績を上げるためには、点数の取れない子どもを排除しようとしたのです。成績を上げないと予算が削られますし、親たちも自分の学校を選んでくれないからです。

記事には藤田英典教育学教授のコメントが載せられていますが、はっきり、教育の市場化の生み出したひずみである、と述べておられます。




教育の市場化がもたらすひずみはそれだけではありません。イギリスにおいて、教育への市場原理導入は学校間格差を生みました。テストの点数のよい学校とそうでない学校。するとお金に余裕のある家庭は、成績のよい学校の近くに引っ越すのです。これがまた学校間格差を広げ、また成績のよい学校のある地域の不動産価格を引き上げる結果をさえ生みました。

また学校では、点数至上主義が蔓延するようになり、体系的・根本的な理解に導くカリキュラムより、日本の受験勉強のような「解法」の要領を教えるものになったのです。これでは学力は真に身につかないのです。日本の学生が、受験問題はよく解けるのに、大学の授業に入ると抽象的な論理が展開される授業についてゆけなくなる学生が多いのは、問題の解きかたの勉強をしてきたために、理論の流れ、ある定理にいたる論考がすっぽり抜け落ちていたからです。学校教育から教育が脱落しているのです。

日本ではほかにこんな問題も生じています。

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非常識なクレームをつける親に教育現場が手を焼いている。「モンスターペアレント」と呼ばれ、離婚調停中の父母が学校で子供を奪い合ったり、親が教師に2時間を超える抗議電話をかけたり……。

教員が対応に苦慮する抗議や苦情はここ数年、目立ち始めた。離婚調停で子の親権を争っている父母のケースでは、学校で母親に子供を引き渡した教師の対応に、父親が不満を持ち内容証明書付きの文書を送ってきたこともあった。また、校外で起きた生徒同士のけんかでけがをした子の親が、学校に慰謝料を求めたり、けんか相手の転校を要求されたこともあった。執拗(しつよう)な抗議でうつ状態になった教師もいるという。

教育評論家の尾木直樹さんに、保護者と教師が理解する方法について尋ねた。

 --理不尽な抗議をする親が目立つようになった背景は。

 ◆かつて学校は絶対的な存在だったが、今その地位は低くなった。一つは学校選択制の広がりがある。学校が「商品」化され、「言いたいことを言う」ムードが広がった。リンゴが腐っていれば消費者は文句を言う。親も先生の対応がまずいと思えば抗議する。親が学校を選べるようになり、力関係がひっくり返った。ただ、執拗な抗議は学校だけに集中しているのではない。今は企業も官庁も、王様のような消費者との対応に悩んでいることを、教育委員会は認識すべきだ。




毎日新聞 2007年7月9日付 社説

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学校選択制のため、親が「消費者」の立場に立ち、学校に対して権力を持つようになったのです。そのため学校は消費者である親の目を怖れて、思うとおりの指導・教育ができなくなっているのです。

結果はすでに、「教育に市場原理はそぐわない」という意味の事件をもたらしているのです。藤田教授が述べておられるように、小泉-安倍路線の新自由主義構造改革がゆがんだ事態を国民生活にもたらしているということなのです。

今度の選挙ではこういう現実も考慮して一票を使いたいと思われませんか。効率ばかりを追い求めていると、人間の暮らしが押しつぶされていくのです…。
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小泉 ‐ 安倍政治の危険な特徴

2007年07月15日 | 一般
今回の選挙の意味について、わたしが感じたことを書きます。

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3倍速で走るヤツら



週刊誌二本文くらいの漫画連載をしていたころ、時間がビュンビュン飛んでいくような感じだった。

家に帰って風呂に入ってパジャマに着替えて布団で寝る、という生活をした覚えがない。仕事場でジャージ服でバタンキューと仮眠をとって、起きたらそのまま机に向かう。

世の中の人が、どうして美容院にいく時間があるのだろうと不思議だった。

友人から「いま飲んでいるから出てくれば?」と電話で誘われても、行けるわけないじゃんと、スタッフに囲まれ殺気立っていた。

縄跳びでいうとずっと二重とび、三重とびを続けているようなもの。普通の速度で跳んでいる人が超ゆっくりに見える。

しかし、ひとたび縄から降りると、あのせわしさは何だったのだろうと呆然となる。猛スピードのランニングマシンにいきなり飛び乗ることができないみたいに、三重とびの人をハタから見ている気分になる。




このところの国会のあわただしさときたら、漫画家ですらついていくのがむつかしい。

数があるうちにやっておけとばかりに好き勝手な暴走ぶり。漫画のネタになるなあと政治家のセリフをメモしておいても、雑誌が出るころにはその政治家が消えている。一ヶ月前に何があったか思い出せないくらいに、目の前の舞台は3倍速の早さでコトが進んでいる。

でも大事なのはこのあとだ。これから3年間はまちがいなく、これまでとは比較にならない速度でシナリオが進められる。3年後、わたしたちは呆然としながら、「アッという間だった」という感想を持つだろう。憲法を変えるため、「敵」は死にもの狂いでかかってくるはずだ。

カッコいい自衛隊員を主人公にしたドラマが出てくる。戦争を美化したアニメを学校で上映する。逆らう教師は免許剥奪、見せしめに何人か逮捕者を出す。カネをバンバン使ってコマーシャルを出す。「電球を換えよう」くらいの軽いノリで「憲法をかえよう」と繰り返す。「護憲派」はダサくて古くて頭が固くて、時代の流れにとり残された気の毒な人たちである、と。

3倍速で殺気立っている連中に、速度を合わせて走る必要はない。しかし、彼らに見えている景色が、われわれとどう違うのかを想像しておく必要はある。

(石坂啓・漫画家・「週刊金曜日」編集委員/ コラム「風速計」より・週刊金曜日07年7月13日号)

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「彼ら(安倍一派)に見えている景色がわれわれの思い描く将来像とどう違うのかを想像しておく必要はある」。

わたしたちが政府に期待するのはなんと言っても老後の生活の安心、子どもたちの学校における安心といった、生活そのものについての関心です。しかし、今の経団連とつるんでいる政府が目指すのは、徹底した企業経営の合理化と飽くなき企業成長です。ホワイトカラーエグゼンプションに垣間見たように、労働者の奴隷化、物品化、国民のための公共経済の超ケチりまくり、医療、年金、介護の安たたき。国際市場での企業活動を潤滑に行えるように、アメリカの傘に入ろうとする。そのための義理立てに、アメリカ軍とともに軍事行動によって経営の安全を確保していこうとする、そのための改憲、自衛軍強化、国民の基本的権利の縮小…。書いていると肌寒くなってきます。

そしてご丁寧に、すでに搾り取られはじめているわれわれ国民はもろ手を上げて、憲法改正に賛成しようとしているのです。「東アジアになめられないため」に、日本の伝統的な(懐古的な)アイデンティティを憲法にしっかり書き記せという論法で、安倍政権に操られているのです。そういうマインド・コントロールのための方法が、「カッコいい自衛隊員を主人公にしたドラマが出てくる。戦争を美化したアニメを学校で上映する。逆らう教師は免許剥奪、見せしめに何人か逮捕者を出す。カネをバンバン使ってコマーシャルを出す。『電球を換えよう』くらいの軽いノリで『憲法をかえよう』と繰り返す。『護憲派』はダサくて古くて頭が固くて、時代の流れにとり残された気の毒な人たちである」、という刷り込みです。

これらはすでに行われているのです。「男たちの大和」を見た観客の一人の女性は、「日本軍のやってきたことは悪かったかもしれないが、兵士の一人ひとりは純粋な動機で戦ってきたんだと胸が熱くなりました」と言いました。兵士の一人ひとりは悪い人ではなかったかもしれないが、そういうふつうの人々が、普段の行動からは想像もできないような残忍な行為を、あるときは命令で、あるときは精神の異常な高揚のために、あるときは追い詰められて行ってしまうのが戦争なのに。

政治と軍部が、経団連の配下に完全に収まってしまったら、もう元には戻れない。以前のように、国民生活の完全な荒廃に達するまでは、決してもとどおりになることはないでしょう。そのころには共謀罪も成立していることでしょうから。だからいま、わたしたちは強いて理性的でなければならないのです。いまは自分のこと、自分の都合を多少後まわしにしてでも、国の行方のために一汗かかなければならないときです。

いまの政治は完全な独裁政治です。議論などまったく行わずに、森をはじめ、安倍・中川とその組の者たちの思い通りにことが運ばれているのです。ここまで議会民主制が蔑ろにされていて、まだ夢を見ていられるでしょうか。安倍さんは大勢の人の意見を汲み取ろうという気持ちがありません。自分の恨みを晴らそうとする人のように、自分個人の思い入れを独断で強行してゆくのです。憲法を改正するなら、国民を巻き込んだ議論を徹底的に行うべきではありませんか。改憲賛成派の方々もこの点には同意されることと思います。自分の思い通りのことを数を頼んで強行する特徴は小泉前首相によって慣例化されたものでした。

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今回の参院選で憲法問題が争点化されていることに関しては、安倍首相の個人的な「思い入れ」の突出振りが目立つ。しかしながら、安倍首相のこの「思い入れ」には奇妙な特徴がある。すなわち、『美しい国へ』において特徴的に現れているように、彼は憲法問題に対する自らのコミットメントの理由を説明する際に、まず何よりも、自分の祖父、岸信介元首相の無念をはらしたいという、きわめてパーソナルな理由づけをあげていることである。

つまり、首相という公職につこうとする政治家が、自らの政治的課題を設定する際に、自分の親族に対する私的な思いを最大の根拠にしているのである。ここには独特な「私」と「公」の無媒介な接合が見られる(=公私混同の領域にとどまっている、という意。個人的信念を政策に反映させようとするなら、十分な説明を行い、それについて十分な議論がなされていなければならない)。教育を通じての「公共心」の寛容を訴える安倍首相だけに、この特徴は興味深いといえる(=言うこととすることとが矛盾している、の意)。

思えばこのような特徴は、小泉前首相にも見られたものであった。小泉前首相は、その在任中、靖国神社に参拝して中国や韓国から批判を受けた際、「これは心の問題である」という言葉によって反論を試みた。

しかしこのような弁明は、いささか奇妙なものであったといえるだろう。なぜなら、問われていたのは、現在の日中・日韓関係の基礎にある、先の戦争についての日本政府の責任者としての見解だったからである。これに対し、小泉前首相は「これは(個人の)心の問題である」と答えたのである。

いわば、一国の政府の責任者がその資格において取った行動に対する批判について、個人の信念の問題として、他のいかなる政治的・法的批判も拒んだに等しいのである。

ここには小泉政治を特徴付ける一つの鍵がある。この例にも見られるように、彼の発言の一つの特徴は、自らの個人的な信念や感情と、首相としての政治的行為とをストレートに結びつけるスタイルにあった。個人的信念と政治的行為との間にあってしかるべき、さまざまな法的・政治的説明を放棄するスタイルが、小泉政治によって慣例化されたのである。


(宇野重規/ 「争点の<脈絡のなさ>、それが問題である」/ 「世界」2007年8月号より)

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政治は国民全体の生活の関心のために行われる、高度に公共的な行為です。一部のカネを持った企業の思い通りに、また支持基盤を親から受け継いだ2世議員が、自分のうっ憤をはらすために政治的行為を行うとき、そこには「公共心」というものが欠けているのではないでしょうか。教育基本法を暴力的な独断で強行採決した安倍さんにまず「公共心教育」が行われなければならないみたいですネ。

とにかく、国民であるわたしたちとしては、政治を私たちに取り戻さなければならない、今回の選挙はまさにそういう選挙だとわたしは思います。キャッチフレーズをつくらせてもらえるなら、ズバリ「政治を議会に返そう!」

もし、今度も自民党が安定議席を獲得するなら、そのときは、石坂さんの戯画的コラムで書かれたような、そう、ディスとピア小説の「1984年」や「われら」のような世の中が現実になるでしょう。かなりの確率で、ね。これは笑いごとではありません。

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トリビア 8

2007年07月10日 | トリビア
今日こそやめよう、そう思いながら、朝起きぬけに煙草を探す自分がいる。

中学校のころお世話になった先生のご主人さまは49歳で亡くなりました。肺ガンでした。エホバの証人をやめて煙草を吸うようになると、私の心の奥底に「私も先生の旦那さんのように、49歳で死ぬのでは」という薄気味悪い考えにとりつかれるようになりました。



多くの臨床経験から、土橋重隆という外科医の先生はこのような考えを持っておられます。

「病気の中には、患者さんの生活史の結果として発症する病気もある。ガンもそのひとつではないか」。


そういう信念から土橋先生は、末期ガンの患者さんにいつもこのように質問されるのです。

「なぜ、あなたはガンになったと思いますか」

このようにほとんどすべての、受け持ちのガン患者にこの質問を投げかけていったところ、

「こうして入院している患者さんに訊いていった結果、何となく患者さんの答えの中にガンの原因を解明するヒントが見えてきたのです」という確信をお持ちになったというのです。「そこには心の深いところでガンと関係がありそうなものを含んだライフスタイルが見えてきた」のだそうです。

というのは、「多くの患者さんから話を聞くうちに、不思議なことに気がつき始め」た、それは、「似たような内容の答えをしてきた患者さんには、やはり同じガンが発生しているということ」なのだそうです。

つまり、肺ガンになった人が打ち明けた、ガンになる前のストレスにはどれにも共通点があり、胃ガンになった人が打ち明けた、ガンになる前のストレスのどれにも共通点があり、乳がんの場合には、家庭内の問題を抱えてきた人は右乳がん、肉体の酷使を続けてきた人は左乳がんに罹っていた、というのです。



では肺ガンはどんなストレスを抱えてきた人が多かったのでしょうか。

「肺ガンと診断された患者さんの心理的ストレスにはどんな傾向があったかというと、肺ガンの種類にかかわらず、その多くは病気とりわけガンに対して、他のがん患者さんとは比較にならないほどの強い恐怖心を持っていることでした」。



ある男性は、日ごろから健康に強い関心を持つようになり、自分でいろいろ勉強して健康にいい食事や生活を続けてきたのだそうです。家族の人からは、「お父さんは長生きするわ」と言われていたのですが、ところが肺ガンに見舞われたのです。

土橋先生はその患者さんに、どうしてそんなに健康のことに興味を持ったのか訊かれたそうです。その答えは、その患者さんのお兄さまが肺がんで亡くなられたのだそうです。その際の、お兄さまの苦しむようすや治療のようすを見ていて、肺ガンという病気がすっかり怖くなったのだそうです。それがきっかけで健康生活に強迫されるようになったのだそうです。



土橋先生はこのようにおっしゃいます。「ガンに対して恐怖心を持っているのは肺がん患者さんだけではありませんが、肺ガン患者さんは生真面目な人が多く、人一倍謙虚な姿勢でガンの治療を受けるという傾向がありました。健康には過敏といえるほど神経質な人が受けるストレスが肺ガンをつくるのではないか」と、「経験から」考えるようになったのだそうです。


これらのことは科学的に検証されたものではない、と何度も口をすっぱくして言われていますが、ガンも「心身症」の延長上にある病気ではないかということは、がん治療に当たっている多くの医師が内心で思っていることなのだそうです。



そうすると、ガンになるのではないか、49歳に肺がんで死ぬかもしれない、そんな恐怖にとりつかれることこそ、ガンを招いてしまうということですネ。



さあ、みなさんはこんな話、どう思われるでしょうか。

「がんをつくる心 治す心」 土橋重隆・著

主婦と生活社発行、税別1300円。

興味があるようでしたら、お読みになるのはいかがですか?

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ジェンダーという視点の意義

2007年07月08日 | 一般

いいかげん前のテンプレートにも飽いたので、ちょっと涼しげなのに変えてみました。ルナはますます絶好調! 今回も元気にいきます。さー、はじめよう!

*** *** ***





右を向いても行き止まり、左を向いても行き詰まり。にっちもさっちも行かない。そういうときにはいままで自分が立脚してきた土台あるいは拠って立ってきた前提を見直します。それまで常識だと考えていたものを見直すのです。

これがむずかしいのです。自分がいままで立脚してきた常識を批判するとなると、それは自分のアイデンティティを批判する必要に迫られるからです。ワシントン・ポスト紙に従軍慰安婦問題への反論を載せた人たち、「日本のアイデンティティ」なるもの、「戦後レジーム」を嫌い、憎む人たちは、それぞれ戦前の教育によって教え込まれた価値観や常識を棄て切れなかったのでしょう。それが彼らのアイデンティティであるからです。

また戦前の教育を受けていない人たちが「戦後レジーム」という戦後民主主義(結局未成熟なまま今日まできたのですが)の原理を憎むのは、戦後教育が真に民主主義と社会を作り上げてゆく責任を教えることを怠り、経済成長のために国家総動員体制という「戦前レジーム」を引きずってきたせいです。個人の気持ちを踏みにじり、過激な受験競争体制を生み出し、人間を心理的に孤立させてきた教育・しつけが、社会への憎しみ、反感として「投射」されたのでしょう。

わたしたちが、あたりまえだとして受けとめてきた価値観、思考のパターンを見直すための考え方に「ジェンダー」があります。ジェンダーという視点について簡潔に述べた一文を紹介します。

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「ジェンダー」とは「社会的・文化的に形成される性別」として定義されます。すなわち生まれつきである「性別」とは違い、私たちの社会にある諸々の条件、たとえば文化・宗教・民族・経済状況等によって私たちのジェンダーは形成されている、と考えます。

例をあげると、出産や授乳は(少なくとも今は)女性でないとできませんが、子守や育児は男性でもできます。しかし多くの場合、家事や育児は女性の仕事として捉えられています。つまり、家事や育児は何も女性でないとできないわけではないのに、ジェンダーという社会的な役割分担によって女性の仕事として決められているわけです。同時にたとえば「主婦」ならぬ「主夫」という用語が昨今一般的になってきたことから分かるように、ジェンダーというものは時代や場所によっても変化するのです。



ジェンダーを理解するためのもう一つの例として「女らしさ」「男らしさ」という概念について考えてみましょう。

たとえば結婚するまで処女でいることや、イスラム圏で女性が顔を隠すベールをかぶること、あるいは北アフリカで頻繁に行われる女子性器切除(女性の割礼)はそれぞれの文化で女性が「女らしい」ことであるために従うべきルールなのです。

もちろん男性に対しても同様に「男らしい」として認められるためにさまざまな儀式や生活スタイルが求められます。たとえば一家の大黒柱であること、台所に入らないこと、割礼を受けていること等があげられるでしょう。

そしてこの規範を拒否することはその社会における理想の男・女・妻・夫・母親・父親像、すなわちその社会の価値観を否定することにもつながり、その社会に受け入れられないことにもなりかねないのです。



もちろんこれだけであれば「ジェンダー」は社会を見るときに学問的な視点で終わってしまいます。問題になるのはこの視点をとおして社会を見ると、実は私たちも意識していなかったジェンダーに基づいた規範が存在していて、それが片方の性別に構造的に不利に働いているということなのです。

たとえば今は看護師や保育士といわれる「看護婦」「保母」という仕事はひと昔前の「女性らしい」仕事の代表格でした。最近はこれを職業として選ぶ男性も増えたこともあってそれぞれ「看護師」「保育士」と改称されましたが、それまでは男性が「看護婦」や「保母」を職業として選ぶのは異常なこととみなされ、結果、男性の職業選択を狭めるような社会のシステムが成立していた、と考えることができます。

このような、それまで暗黙の了解だった社会システムをジェンダーという視点は明らかにすることができ、それを改善するような制度の変更を促すことができるのです。


さて、このようにジェンダーは性別というよりも格差を生み出す社会構造に焦点を当てています。ということはジェンダーに起因する問題は理論的には同性間でも起こりうるのです。たとえば嫁と姑という役割から起因する軋轢もそれに当たります。

「ジェンダー」が男女の違いのみに焦点を当てているように見られるのは、社会制度や構造上、いちばん目立つ不平等な力関係が男女間にあるからです。そしてその力関係は多くの場合、女性に不利に働いています。そのためその不均衡を是正するために、男性の地位を落とすのではなく女性の地位を底上げするような政策・制度を整備する、というのが「ジェンダー平等」の発想です


(寺園京子/ 「国際協力の現場から」/ 山本一巳・山形辰史・編)

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いじめ自殺する子は、その子に問題があるからでしょうか。少年による「凶悪犯罪が増えた」のは愛国心がないからなのでしょうか。「モラルが低下」したのは教育基本法のせいだったのでしょうか。その「モラル」自身に人を抑圧するものはなかったのでしょうか。親が所帯を持った子どもの家庭に「親」として介入するのは「愛」なのでしょうか。女は社会で働くためのスキルが男よりも劣っているのでしょうか。家庭などのようにプライベートな人間関係にも「規律」は必要なのでしょうか。軍隊を持たないのは「普通の国」じゃないのでしょうか。

人間の良心は憲法に書き込むことによって国家統制されなければならないのでしょうか。攻撃力を持たないから日本はいまだにアジア諸国から戦争責任を問われるのでしょうか。会社のために人間の尊厳を投げ捨てるのは美徳なのでしょうか。命懸けで国家・天皇を守るのは美徳なのでしょうか、家族の精神的な必要は何ひとつ満たしてあげられなくとも、戦いで勝つことができるから好戦的な男は偉大なのでしょうか。喧嘩で相手を倒せるから男は偉いのでしょうか。上流階級の男性と結婚できたから女はグレードが上がったのでしょうか。親はなくとも子は育つのでしょうか、食べてさえいたら子どもは立派な大人になるのでしょうか。だから子どもが非行に走ったりするのは親に責任があるのではなくて、子ども自身が甘えているからなのでしょうか。

教育基本法を改訂し、さらに憲法を改訂すれば日本は住みやすくなるのでしょうか。一部の企業が十分儲けられる世の中が豊かな社会なのでしょうか。

日本を覆う閉塞状況と将来への不安にまっすぐ立ち向かってゆくためには、わたしたちがこれまで大前提としてきた価値観そのものを見直す必要があるのだとわたしは思うのです。ジェンダーという視点は今本当に必要です。食うか食われるかと言った闘争的な男性の価値観ではなく、異種の価値観と共存を図ろうとする女性的な視点、フェミニズムを政策や政治理念に導入する、定常化社会という考え方があります。あくことなく経済成長を追い求めるのではなく、人間が生きていくのに必要な経済をつくる、持続可能な社会をつくりあげてゆく、いま資本主義世界は、常識そのものを転換する必要に迫られているのだと、わたしは本当にそう思うのです。



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「選挙とは、税金の取りかた、使いかたを考えること」

2007年07月01日 | 一般

6月から地方住民税が上がりました。「上がった」なんてものじゃないですね。上がった原因は定率減税の廃止と地方住民税が増えたこと。定率減税は給与所得から一定の額を引き算して、課税対象額を低くするしくみでした。控除にはそのほか、家族を扶養する所帯の家計を助けるための扶養控除や、配偶者控除、医療にお金をかけた場合には、医療にかかった費用を給与所得から引き算して、課税対象額を減らします。こうしてさまざまな控除が行われるのは、憲法で生存権が保障されているからです。国民一人ひとりが人間らしい暮らしができるように、徳川時代のような「生かさず殺さず」という権力による、文字通りの「搾取」されないように、という思想があって生存権は保証されているのです。

ここには国民のための権力行使を義務づける思想があるのです。いいですか、国民に義務づけるのではありません。憲法は国家権力や企業のような社会権力に義務づけているのです。これが憲法の意義です。自民党の改憲案と、それに沿った方針で改憲を主張する一部国民は、この点を誤解しているのです。憲法学者によると、もっとも基本的な点での誤解であり、こういう誤解をするのは教養の完全な欠落である、ということになるのです。

政治家や官僚の多くは、東京大学の法学部や経済学部を卒業したりっぱな経歴を持っているはずなのに、こういう誤解を主張するのはあきらかに無知ではなく、意図的に国民を反動潮流に乗せようとしている、ということなのです。国民の暮らしと豊かな人生のための施政ではなく、国民の大多数はあくまでも企業利益のための奴隷に甘んじてもらおうという意図があります。憲法の改正はそんなに急いで行うことではないはずです。国民レベルの改憲論者たちもこの点には同意できるはずです。このまま自民党とその基盤である経団連に日本の舵取りを任せていては、わたしたちの暮らしは封建時代レベルにまで下がるでしょう。

今度の選挙では、一人でも多くの人たちに、冷静に考えて、自分のこととして真剣に考えて、そう、テレビや新聞に記事に踊らされることなく、自分の手で情報を集め、自分で考えて一票を投じてほしいです。

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斉藤貴男:
納税者意識というのはどうあるべきでしょうか。

浦野広明:
たとえば今回の選挙(2005年9月11日の自民党大勝選挙)で圧倒的に庶民増税をやる、という人たちが選ばれましたね。これは、選挙民が自ら不利益になることに選挙権を行使している、というところに深刻な問題点があると思います。

私が今いろんなところで申し上げていることは、とにかく選挙は税金の取り方と使い方を決めることだ、365日それを頭に叩き込んで行動していかなければ日本は変わらない、そうしなければ苦しみだけが多くなる、ということです。

考える人が少しでも増えていけば、必ず今のようなインチキな政治が大手を振るというようなことはなくなると思います。それから新自由主義を簡単に遂行させないような、国民レベルでの行動がなければ、やりたい放題されてしまうと思うんです。

そういうことを、どういうふうに国民の皆さんに伝えて、行動としてその意志を示していくか、ひとりひとりが真剣に考えなければならないところに来ています。日本国憲法は、福祉や応能負担原則などを導き出すことができる法典ですから、憲法を守るだけでなくて、それ以上に憲法を使って攻めていくレベルにならなければ駄目じゃないか、と。


(「大増税のカラクリ」/ 斉藤貴男・著)

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応能負担原則というのは累進税制を支える思想で、それぞれ収入に応じて税を負担する、収入の少ない人はそれに応じて、収入の多い人はその能力に応じて多く負担する、というのが累進税制ですが、わたしたち国民がこういう税制に応じる基本理念は、社会はわたしたちひとりひとりが築き上げていくものであり、わたしたちは社会があって生きていくことができるものだから、社会に積極的に参加しなければならない、ということです。

お金を多く稼ぐと人は、自分で自分をカリスマ視するようになります。多く稼いだ人の取り巻きやマスコミがまたそういう人たちを必要以上に持ち上げるのです。企業体として儲けを多くするのには、自社の社員一人ひとりだけでなく、下請け会社の人びとの努力がなければ達成できないものなのです。人間一人がどれほど有能であっても一大企業に育て上げるためには大勢の人びとの協力と、社会の安定がなければできないものです。そういう名もない大勢の人びとを切り捨て、虐げ、使い捨てることで利益をあげようとすれば社会そのものが弱体化します。国民が衰弱したら、国家も衰弱します。国民を犠牲にして一部の人びとだけを優遇しようとするのは、戦争末期の日本陸軍の思考からまったく進歩していませんよね、今の政治経済の有力者たちって。

こんなコラムがありました。

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問題は、増税の理由に挙げられた「税源移譲と定率減税の廃止」だ。税源移譲では、地方税(住民税)は増えるが、国税(所得税)は減税となるので、税負担は全体として大きく変わることはない、と政府は説明していた。

しかし、それは真っ赤な嘘。定率減税廃止だけで、約10万円の増税となる家庭もある。影響を受ける人は100万人にもおよび、しかも対象が低所得者に集中しているため、事態は深刻だ。定率減税の廃止は要するに国税の増税とまったく同じ効果をもたらしている。国税+地方税のダブルショック大負担増となったわけだ。

税の基本は「適応原則」だ。つまり、所得配分機能を期待しつつ、累進負担が大前提として税制度は組まれる。すなわち、勤労者所得は軽減し、不労所得や資産所得は重くし、低所得者は非課税とするのが原則だった。

だが一連の「制度改革」でこの原則は大きく崩れ始めている。まず所得税は最高税率を70%から40%に引き下げられ、地方税では10%のフラットな税率になっているため、所得の多い人ほど減税効果が大きくなるしくみだ。キャピタルゲイン(利子・配当・地代)については、定率の分離課税となるため、ここでも「持てる者」が優遇される。一方で非課税最高限度が引き上げられ、これが低所得者層を直撃する格好になった。

参院選挙を前に表立った議論はないようだが、税調は消費税の税率引き上げを検討している。警戒しなければならないのは参院選挙後の動きだ。

所得が急減する中での増税ラッシュ。住民税は国民健康保険にも連動するため、負担はさらに増える。


(「杉田望の経済私考」/週刊金曜日2007年6月22日号より)

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最高税率が引き下げられると、高所得者層の支払いが低くなります。フラット税制は累進税制と反対で、一定の率が決められる制度です。年収300万であろうと3億であろうと、一律10%であれば、3億稼ぐ人にとっては300万の人ほど痛くはないのです。分離課税は減税策のひとつで、他の所得とは別計算で行われる課税です。山林所得などで行われてきましたが、土地持ちや金貸しや株主が分離課税でいい思いをしているのが現状なわけです。一方、ふつうの国民はといえば年金からさえ税金が取られる。労働破壊のため非正規労働のために収入が下がる。年金受給年齢が引き上げられる。

みなさん、これが自民党政治です。もう、ホントに気がつきましょう。自民党に投票しようとしているわたしたちは、自分の将来の暮らしに止めを刺しているのだ、と。

今、こうして企業ファシズムがのさばるようになったのは、彼ら企業人に「自分たちは社会の一員であり、社会を築き上げてゆく責任がある」ということを考えないからです。ここにも日本人の幼児化現象が顕著に見られるのです。
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