Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

今さらながら、「カツマー vs カヤマー」論争に感じたこと

2010年01月04日 | 一般

 

 

 

昨年の10月以降、「カツマー vs カヤマー」論争が話題になっていたそうだ。本業は会計士の勝間和代さんと、精神科医であり、カウンターカルチャーの論評でも有名な香山リカ(←ペンネームです。本名は明らかにされておられません)との「生きかた論争」ということになっていますが…。

わたしは、この論争の核は「生きかた論争」ではない、と思っています。

この論争はもともと、香山さんが幻冬舎新書から「しがみつかない生き方」を出版したことに始まります。わたしは香山さんの論理的な思考能力にあこがれてきましたし、香山さんの主張にも共感できますので、香山さんの本は、すべてではありませんが、よく購入するほうです。

「しがみつかない生き方」は購入しました。帯のキャッチコピーが気に入ったからです。わたしが購入したのは第一刷で、そのコピーは「勝間和代を目指さない」というものでした。その後、どういうわけか、そのコピーは変更されました。変更後のコピーはよく覚えていませんが、「なんでだろう」とは思っていました。「ちょっと刺激的すぎたのかな、勝間さんからクレームでもついたのかな」などと想像はしていましたが。

でもその背景には、「カツマー vs カヤマー」論争が話題になったことがあったんですね。いまでは「勝間和代を目指さない」のコピーが堂々と復活しています。

二つ三つの、論争への感想を述べたブログをチェックしてみましたが、どちらかに軍配を挙げるのではなく、「カツマーvsカヤマーではなく、カツマー&カヤマーとすればいいのに」というようなご意見でした。

勝間さんの支持者はたいへん多いのだそうです。やはり、「勝ち組」「負け組」というマスコミのコピーが小泉政策とともに国民に刷り込まれてきたせいもあると、わたしは思います。勝間さんは「自己責任」ということばを直接的には使いませんが、自分のようにがんばれば必ず成果はついてくる、という言い方によって、暗に、あるいは良く言えば、ご本人の思うところとは無関係に「自己責任」という偏向的な切り捨てを浮き上がらせている、と思います。

わたしは勝間さんの本は購入はしていませんが、何冊か立ち読みはしたことがあります。感想は「自慢たらしくて鼻につく」です。勝間さんはご自分の成功や有能さを露骨なくらい自賛的に書くのです。勝間さんご本人もそれは意識されているようで、そういう反応への封じ込めとして、妬む、愚痴る、怒る、の「三毒」を避ければ、自然と評価がついてくる、と書き込んでおられます。つまり、勝間さんの成果の羅列を、「自慢たらしい」と解釈するのは、みっともない妬みであり、だからわたしみたいなのはうだつが上がらないんだ、というわけです。

香山さんが「しがみつかない生き方」でほんとうに言おうとしたのは生きかた論争についてではないとわたしは思います。がんばれば必ず成功すると思ってがんばっても、人間にはどうしようもない事情で不遇に陥ることがある、たとえば統合失調症のように、原因がはっきりわからない病気に見舞われてしまうことだってあるし、そうなったのは本人の努力が足りないのではない、同じようなことは貧困のような問題にも当てはまるのだ、現代の貧困は社会の仕組みの問題で、個人の努力不足ではない、などと香山さんは主張するでしょうが、それは表面上のことだと思います。

香山さんが本当に言おうとしたのは、「しがみつかない生き方」の本当に最後のほうの部分の2~3ページに書かれています。

 

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つまり、努力できないひとや失敗して窮地に陥っているひとがいることなど、世の中には最初から存在するはずがないかのように扱うのだ。精神分析の用語では、この「なかったように扱うこと」を「否認」と呼ぶ。

…(中略)…

しかし、わたしが病院での診療経験から気づいたように、人生が思うように展開していない人の多くは、努力が足りないわけではなくて、病気になったり、勤めていた会社が倒産したり、という “不運なひと” なのだ。たとえ、努力不足が挫折や失敗の原因であったとしても、丹念にその人生をふり返ると、そもそも家庭環境などに恵まれず、努力しようにもできる状態になかった、という場合が多い。そして一見うまく行っているように見える人も、じつはそういう人生との差は、実は紙一重なのだ。なぜなら、いくら食べ物に気をつけていても重篤な生習慣病に罹るときは罹ってしまうものだからだ。

それなのに、いくら成功者であっても、というより、成功者であればあるほど、「わたしが今あるのは幸運と偶然の結果であって、一歩間違えれば、わたしも重い病気になったり、家族に虐待されたりして、今頃孤独な失敗者だったかもしれない」と思うことができなくなるのだ。

彼らは、「わたしの成功は努力の成果だ。たとえ恵まれない状況に生まれていても、わたしの場合は努力で今日の成功を勝ち取っていただろう」と考えることで、自分の成功は必然であり、不動なものであることを、ほかならぬ自分自身に納得させようとしているのだ。

そうやって失敗と偶然の幸運の可能性を「否認」し、失敗者など自己責任だというふうに「否認」しなければ、「明日はわたしも孤独と絶望の側に回ってしまうかも…」という不安がむくむくと膨らみ、いてもたってもいられなくなるからである。

 


(「しがみつかない生き方」/ 香山リカ・著)

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実は、引用文でいわれている、「成功者」と「負け組」の差が「紙一重」であり、能力だけで成功は得られるのではなく、そこには人間の力ではおよそどうすることもできない「偶然の幸運」というものに左右される、ということのほうが真実なのです。そして、この真実がある人々にとっては恐怖なのです。「ある人々」とは成功者になったものの、いつそれを失うかわからないという可能性に漠とした不安を持っている人です。成功したのに漠とした不安を感じるのは、その成功が自分の努力だけで達成したのではなく、なにか「情勢の流れ」のようなものに乗った面もあるということを心の隅で感じているからでしょう。そのうえでその「成功」にしがみついていたい人です。自分のアイデンティティのすべてを、その「成功」の上に置こうという人が、いまここでいう「ある人々」です。

香山さんがおっしゃろうとしているのは、
◎ 「この方法でがんばれば成功する、失敗なんてするはずがない、失敗するのはその人のせい」という白か黒かの両極端しかない考えかたの中で生きていると、そのひとを神経症などの病的な状態に追い込む原因になることがある、
◎ 「わたしも変われる」「成功者の道へ」という一時的な高揚感を得るために、自分を不自然な常態にまで追い込んでいっても、結局は自分のためにも社会のためにもならないはずだ、
◎ じつはたいていの人は、巻き返し不可能な状態にまで陥った失敗者でもない代わり、勝間和代さん級のようなマスコミでもてはやされる大成功者でもない、ほどほど、そこそこの人だといえる、それでいいのだ、その状態を冷静に見てみれば、満足できるものはいっぱいあるのだ、
…ということです。

だから、

 

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「わたしだって、一歩間違えればたいへんな失敗者になるかもしれない」「いまうまくいっているのは運がよかったから」という紛れもない事実をしっかり認められる力を身につけることができたら、そのほうがずっと自分のためにも人のためにもなるはずだと思う。

 

(上掲書より)

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弱い人間がつくる社会のこと、なんでも自分の思うとおりに完全にコントロールできないもの。そんな社会でそこそこ必要なものに困らないでいられるのは、運がよかったせいというのが大きい。それを認められるなら、困っている人、身動きが取れないほど切羽詰っている人を「自己責任」などと切り捨てられないでしょう。だって、何か不運があると自分もいつ何時そういう境遇に落ち込むかわからないからです。自分が弱い人間であると認められたなら、そう、福祉社会への構想を持てるようになるのです。それが当たり前のことだと考えることができるようになるでしょう。

それができないのは、自分が弱いことを認められないからです。「勝たなければ、勝たなければ」、「追いつかれたらおしまい」、という考えに取り付かれることを「強迫」されるといいます。「脅迫」ではありません。

さて、「追いつかれたらおしまい」って、なぜ「おしまい」なのでしょうか。それは人に負けたりすると、親や周囲の大人たちに勇気づけられたり、慰められたりされなくって、逆に責められたり、不機嫌な表情で冷淡にされる、ほかの方法によって、とっても寂しい思いをさせられてきたからであり、それゆえに、「負ける」ことに恐怖感が反射的に感じられるように育ったからです。

たとえば、お母さん、お父さんが、その子どもさんがちっちゃい時分から、親の思うとおりの成果を挙げたときだけほめて、思うとおりに行動しないときには怒鳴ったり、不機嫌な表情を作り口をきかなくなったりして、子どもに強い恐怖を与えたりして育てると、「強迫」的に「いい子になる」ことにしがみつく大人になる可能性が高くなるそうです。勝つこと、勝負の結果だけにこだわる性癖も同様のことが関係しています。この辺のことはまた別の機会に書くとしましょう。

自己責任を主張したりするひと、匿名の嫌がらせをするひとたち、あとどうしても言っておきたいんですが、明確な思想を持っておられて、なお且つあまり強く反論しないブロガーのコメント欄に寄生して、数人でそのブロガーに難癖をつけ、言いがかりのような議論を吹っかけ、答えられないことを確かめ、それを理由に相手を辱める、それに類するような行為言動によって、その数人が互いにつながりを確認しようとする、いまふうの中学生のいじめと同じことをしている人たちも、実は自分のすぐ後ろに、自分がやっきになって「否認」している不幸が、ぱっくり口を開けているという事実を恐怖しているのです。恐怖するのは、どう対処していいかわからないし、「わからない」ということを認めることができないからです。彼らはいつも人より「上」でないと気がすまないのです。つまり、人より「上」でなければならない、と「強迫」されているのです。この場合、強迫しているのはほかの誰でもない、自分自身です。

事実、わたしたちがいま、むかしよりずっと強く病気や失業を怖れなければならないことには理由があります。セーフティーネットが壊滅的にはずされているから、むかしよりも怖れなければならないのです。ガンを患えば破産する、治療すれば治るガンなのに、貧困のために治療ができない、貧困なのはセーフティーネットがはずされたからなのです。「すべり台社会」といわれ、いちど失業したら住む場所すら失い、路上暮らし、ネットカフェ暮らしを強いられる…。橋本政権による改革以降、アメリカ流の、人種差別、階級差別を容認する文化に基づく弱肉強食の排除型社会を導入てきた結果なのです。そしてその「ドツボ」は、今自分んちはお父さんも元気で働いてくれているし、自分の会社も何とか持ちこたえているから大丈夫、だからそんな「暗いこと」なんか考えないようにしようと、つまりはそういう現実を否認して、それで無関係でいられる、というものものではありません。

否認ではなく、直視し、調査し、そして対処法を見いだす、という方法で、その恐怖を小さくすることが実際にできるのです。そういう方法で、わたしたちは安心を確立することができるのです。それができないのはなぜでしょうか。

香山さんの「しがみつかない生き方」の冒頭のほうで、フィンランド(持続可能な福祉社会を作っている国)、韓国(格差の程度は日本以上)、日本の三つの国での「対人信頼度の比較」をJFK大学で行った調査の結果が引用されています。それによると、日本は、フィンランドはもとより、格差と貧困の程度が日本より深刻な韓国に比してさえ、他の人への不信感が強く、信頼感は低いことが判明した、というのです。結果の数字だけを書き写すと、



「ほとんどの人は他人を信頼している」
フィンランド
 そう思う 16.8% ややそう思う 56.8%、
韓国
 そう思う 7.4%  ややそう思う 40.8%、
日本
 そう思う 2.7%  ややそう思う 26.5%。


「わたしは人を信頼するほうである」
フィンランド
 そう思う 28.6% ややそう思う 46.0%、
韓国
 そう思う 24.3% ややそう思う 43.1%、
日本
 そう思う 18.7% ややそう思う 40.3%。


「この社会では気をつけていないと、誰かに利用されてしまう」
フィンランド
 そう思う 3.8%  ややそう思う 21.6%、
韓国
 そう思う 23.3% ややそう思う 55.7%、
日本
 そう思う 33.5% ややそう思う 46.2%。


「ほとんどの人は基本的に善良で親切である」
フィンランド
 そう思う 27.0% ややそう思う 55.6%、
韓国
 そう思う 21.6% ややそう思う 53.1%、
日本
 そう思う  7.0% ややそう思う 30.8%。


…となっています。

韓国にはまだ儒教の影響力が強いことが、あるていど格差・貧困の具合がましな日本より信頼感が根強い理由になっているのかな、とも思ったりするのですが。でも日本の人間関係がすっかりばらばらになっているさまは明らかですよね。

日本が、草の根では小泉・竹中路線への的確な批判ができるようになっているのに、もうひとつ改善への努力で大きな盛り上がりを見せない事情がここにあるように思います。他人が信頼できないのです。下手をして自分を開示すると、「利用される」かもしれません。どんな人に、かというと、勝間さんのような目立つ成功者を目指す人たちです。彼らは本物の勝間さんとは違い、本当は自分の名声に強迫的に執着していることが動機なのに、口先で貧困問題や格差問題を語りながら、自分の成功をことさらに例として引用し、あたかもそれが努力の結果であると自分と自分の周囲の人に認めさせようとするのです。

こういうカツマータイプ(勝間さん本人とは言いません)のひとって、わたしの身の回りにもいます。いや~なひとです。もちろんつきあいでは一定の距離を置いています。向こうはやたらなれなれしくしてくるんですけどね。ヴァーチャルな場所でも、いますよね。口先だけでリベラリスト装っていて、でもなんとなく反感を感じてしまうっていうタイプ。そういうひとって、ほんとうは日和見なんだと思います。ネットの世界で、リベラリストや左翼のアバターをつくって、それに自分を重ねてナルシズムに酔っているんでしょうね。そういう人ってたいてい、自分のメンツを傷つけるような (=自分とは異なった意見や批判的な内容のコメント、まれによくわからないのに削除される場合もある) コメントや書き込みを強制削除する人です。わたしはそういうひととにはかかわりません。大嫌いです。「善良でまじめでいい人の」エホバの証人の多くはこんなひとでしたから。

人間の間に連帯を取り戻すには、ある程度の安心が必要です。そのためには、医療の安全弁、生活保障の安全弁、失業時の安全弁、そういう憲法25条で規定されている、人間として最低限必要な制度を保障しておく必要があります。「予算をどうする」なんて人間性への無知をさらけ出すようなバカな言いがかり言ってないで、いまは真剣に予算の組み方の構造を、国民のニーズに合わせて組み替えてゆくべきです。暮らしのことを真摯に考えるブロガーのみなさん、他人の気持ちに配慮する余裕のあるブロガーの皆さん、孤独なコメンターたちが予算をどうするetc.の反論を言うのは単に議論に勝ちたいからであって、何か構想なり思想があるからではありません。だから無視していいです。ほうっときましょう。そういうひとたちは家族があるのにもかかわらず、夜の時間のほとんどをコメント欄でのディベートに使っています。その人たちがそれぞれの家族のなかでの居場所がどうなっているか、だいたい予想がつきますよね。

ですから、自分の境遇が偶然に左右される脆弱なものであることを否認せずに直視できる皆さん、そんな哀れなディベーターにいちいちかかわらず無視してください。自分の意見をまとまった仕方で言えるようにする練習用のツールとしてブログを利用し、ぜひともリアルの暮らしに両足を置き、そこでの判断、行動、運動に精力の90%を使うようにしましょう。インターネットに必要以上の時間を使うと、人間の性格性向に変調をきたす可能性があるという調査や報告が出てきています。生きている身の回りの人間とのコミュニケーション能力が衰えたら、意見の主張なんてできなくなっちゃいますから。

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