Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「水が顔を映すように、心も…」(箴言27:19/新共同訳)

2007年03月25日 | 一般

 人の心は合わせ鏡

  館 有紀 (たて ゆき) 医師・作家・エッセイスト
  
  「あなたの心を守りたい」/ 館有紀・著

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「肺炎なので入院のほう、お願いします」

土曜日の夕方に、五十代の男性が近くの外科系の病院から紹介されてきました。その男性は、グループホーム(認知症対応型共同生活介護。障害を持つ人または高齢者が、自宅と同様の環境の中で、少人数で共同生活を送る介護施設)に入所したばかりで、医学的な理由で通常のコミュニケーションがとれず、徘徊もひどい方でした。とにかくいっときも落ち着くことなく、どこかに歩いていこうとされるのです。

外来での印象としては、誰かつきそいがいないかぎり、うちの病院で入院治療を続けるのはむずかしいと思いました。おそらく紹介してきた医師も、自らの病院での入院治療は困難だと思ったのでしょう。

「困ったな…」と思いましたが、熱も高く、帰宅できる状態ではありません。グループホームの職員さんも、ホームで看ていくのはお手上げのようでしたので、結局、入院していただきました。

ちょうど日勤と夜勤の看護師さんの交替の時間帯にさしかかっていました。内科病棟に電話し、主任に事情を伝えたところ、困惑している様子がありありと伝わってきます。しかし、基本的に、うちの病院では、よほどのことがない限り入院は快く受けるということをモットーとしていますので、最終的には(内科病棟の主任さんも)承諾してくれました。

外来での検査や指示書きが終わり、外来の看護師さんといっしょに男性を病棟に上げました。すでに時間は夜勤帯です。夜勤の看護師さんは、落ち着きのない彼を見るなり、「うちでどうやって見るんですか!」とボールペンを壁に投げつけ、強い口調で抗議してきました (これまでの、この病院側での「困惑」は、病院とグループホームは異なっていて、グループホームのようなサービスは病院ではできないからだと思われます)。

申し送りをしていた外来の看護師さんが、彼女のその言動に対して怒っているのが横で見ていて明らかにわかりました。しかし、それ以上に私自身が、激しい感情のほとばしるのを抑えることができなくなっていたのです。

「何を考えているの!」

そうどなりつけたい衝動を何とかかんとか押し殺すのに必死でした。それほどまでに自分の感情をコントロールできなくなったのは何年ぶりだったでしょう。私のようすが異常におかしいことに気づいた外来の看護師さんは、(そんな私のようすに)驚いて、怒るのをやめたほどでした。




【問題はどこに?】
この事件は私にとって、衝撃的ともいえる出来事だったのです。激しい怒りをコントロールできなかったこと。またそのような言動をとる看護師さんをまったく理解できず、強い拒絶感を抱いたこと。自分の心というものがこれほどまでに思いどおりにならないとは…。

「怒ることがなぜいけないの?」と思われる方もいるかもしれませんが、感情的におおきくブレると、いい医療ができませんし、判断ミスが起こり、それが患者さんの命にかかわる事態を招きかねないのです。

それに怒りという感情は、相手だけでなく自分自身も傷つけてしまいます。怒りによって心に余裕がなくなると、人をサポートする余裕もなくなります。そうすると自己嫌悪に陥りやすく、それが大きなストレスになります。ですから、怒りの心をコントロールする方法を知っておくことが、ストレスに負けない心をつくるために大切なのです。

なのになぜあのとき、感情が高ぶり、制御不能になってしまったのか…。この問題ときちんと直面しなければ、前に進めない気がして、それから数日間考え続けました。

そしてあるとき、あっと思ったのです。

それは、まさしく私自身の中に、その男性患者さんを排除しようとする気持ちがあったことに気づいたからです!

やっかいな患者さんを紹介されたことに対する無意識の領域の奥に隠された不満。「次の医師と交代するぎりぎりの時間に来なくてもいいのに。この入院のために何時間も帰宅が遅れてしまう」という不愉快さ。

そうしたマイナスの心に直面するのが怖くて、気づかないふりをしていたのです。私の中にある真実の感情、真実の思いを偽っていたのです。心の奥では不満が強いのに、表面上だけ、その患者さんのために行動していたわけです。

そのため、私と同じ気持ちでいた看護師さんに、激しい怒りを覚えたのです。なぜなら、彼女を通して、決して見たくない自分自身の醜い姿を見てしまったからです。

この事実に気づいた瞬間に、不思議なことに、怒りがスッと消えてしまいました。



この経験で、なるほどと腑に落ちたことがありました。

「人の心は合わせ鏡 (聖書をお持ちの方は、箴言27:19もご覧になってみてください) 」という法則があります。相手の反応は自分の心の反映であるという意味です。なぜ自分は怒っているのか、本音を見つめていったときに、この法則が言うように、その原因は、相手ではなく自分自身の心の中にあることも多いのです。これに気づけば、相手に原因がないとわかるため、その人に対する怒りは収まってゆくわけです。


(上掲書より)

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この本について注意しておきたいことがあります。この本は、表紙のタイトルを見て、最初のページから立ち読みを始めて、ずーっと第2章まで読んでいて、「あ、もうこんな時間だあ」というので、とりあえず買っったんですけれどもね…。電車の中で、あらためて目次を見ると、最後の章「6」が、「死を怖れなくなるスピリチュアルな視点」とあるんです…。

「ありゃ~??」と思って、著者の紹介を見ようと最後の方のページをパラパラとめくると、出版案内に5ページほど割いてありまして、そこに「大川隆法」という名前があるじゃありませんか…。出版社の名もズバリ「幸福の科学出版株式会社」…。

「やられたー」と思いました。こんな内省的なエッセイを書かれるお医者さまがまさか、幸福の科学の信者さんなの? ウッソーって感じですが。いえ、幸福の科学に何か思うことがあるわけじゃないですけれどもね、わたしはキライなんですよ、スピリチュアルだの、新興宗教だのが。

そんなわけで、ここではっきりさせておきたいのですが、

ルナは、幸福の科学を宣伝するつもりは毛頭ありません。まして入信を勧めたりは絶対にしません。

むしろ、新興宗教には入信しない方がいいと主張しますし、スピリチュアルなんてものにハマってはならない、と声を大にして主張いたします。



ただ、このお医者さまは、「うちの病院では、よほどのことがない限り入院は快く受けるということをモットーとしています」とかおっしゃるところをみれば、良心的で使命感をお持ちの方のようですし、ご自分の内面への率直な反省、ネガティブな感情をコントロールしようとする謙虚さには十分勉強させていただきました。ですから、あえてこの一文はご紹介したいのです。幸福の科学に入信するかしないかは、読んでくださるみなさまがたがお決めになることです。ですが、わたし個人としては新興宗教に入信することには賛成できません。




わたし自身は、

「怒りという感情は、相手だけでなく自分自身も傷つけてしまいます。怒りによって心に余裕がなくなると、人をサポートする余裕もなくなります。そうすると自己嫌悪に陥りやすく、それが大きなストレスになります。ですから、怒りの心をコントロールする方法を知っておくことが、ストレスに負けない心をつくるために大切なのです」

ということには教えられましたし、現実問題として感情のコントロールは意識して実践していこうと決意しています(実際の方法などはまたご紹介してみたいと思います)。

また、

「まさしく私自身の中に、その男性患者さんを排除しようとする気持ちがあったことに気づいたからです! やっかいな患者さんを紹介されたことに対する無意識の領域の奥に隠された不満。「次の医師と交代するぎりぎりの時間に来なくてもいいのに。この入院のために何時間も帰宅が遅れてしまう」という不愉快さ。そうしたマイナスの心に直面するのが怖くて、気づかないふりをしていたのです。私の中にある真実の感情、真実の思いを偽っていたのです。心の奥では不満が強いのに、表面上だけ、その患者さんのために行動していたわけです。そのため、私と同じ気持ちでいた看護師さんに、激しい怒りを覚えたのです。なぜなら、彼女を通して、決して見たくない自分自身の醜い姿を見てしまったからです。この事実に気づいた瞬間に、不思議なことに、怒りがスッと消えてしまいました」

…のくだりには人間心理の陥穽を見せつけられた思いです。精神分析でいう「防衛機制」としてあげられている、「投影」や「反動形成」というところでしょうか。元エホバの証人系の掲示板や、日記形式のブログなどでは、傷つくことへの異常な恐怖心を書き込まれる方々がままおられましたが、そういう中にはむしろ異常に強く攻撃心が内在している場合もあるそうなのです。自分のうちにある攻撃的な傾向を抑えこもうとすると、人はえてして反対の態度をこれ見よがしにアピールしたりするものなのだそうです。

現役の人の異常に執拗な人格攻撃には、その裏に自分への不信感や深い劣等感がうかがえますし、傷ついた元信者による掲示板に書き込む人への攻撃傾向には、エホバの証人信者である家族の誰かや、会衆の誰かへの果たされなかった恨みや復讐があるのかもしれません。本来ならそれらの人へ向けられるはずの怒りが、代わりに掲示板の誰かに向けられるのです。あるいはあえて「身代わり」の者を探してその人のプライドを傷つけてやろうとして、掲示板にやってくる場合もあるでしょう。

さらに大胆に広げていくと、安倍総理の戦後日本の不完全だったとはいえ「戦後民主主義」への破壊的行動・政策、福祉後退政策、教育基本法改正や憲法改正への執念にも、岸信介の孫であったことで、ひょっとしたらそれを理由に人格を否定されたかもしれないことや、また、岸に向かって言われるべきことを、国民のうちの一部の無思慮な人々やチンピラ・ジャーナリストたちなどが、彼らの側の「投影」によって、自分自身に向けられてきたかもしれないこと…などへの恨みなどが、密かにその動機を形成しているのかもしれません。

ではこういう傾向を乗りこえるにはどうすればいいか。館医師はこのように書いておられます。

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激しい言葉や態度をぶつけられても、冷静に受け答えすることは、慣れてくればそれほどむずかしいことではありません。けれども、どうもそこにはふたつのタイプがあるように思うのです。

ひとつは、本当は心の中は怒りに満ちているのに表面上は冷静に対応している場合。もうひとつは、どんなことばを投げかけられても、ほんとうに動揺していない場合、です。

通常は、内心で腹を立ててはいても、顔には出さず、耐えて対応していることが多いでしょう。しかし、理想としては、プライドを傷つけ、自分自身を否定されるような言動を受けたとしても、心そのものが揺るがないことを目標にしたいなと思います。心に中に怒りをためると、必ず相手に伝わってしまうからです。

その意味で、無理に自分の感情を抑えこむことはよくありません。無理が続くと、ある限界を超えたときに「逆ギレ」してしまうこともあるでしょう。滅多に怒ったことなどないような人(子どもなら、「いい子でしたよ~」という評判の子が)が、手をつけられないほど感情的になったり、取り返しのつかないような攻撃行動に出たりすることをたまに聞きます。自分の感情を無理に抑えこんできた結果、そうなってしまうのでしょう。


(上掲書より)

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不満があるときには、ふさわしい方法で抗議・主張すべきです。自分のうちに押し殺すのは決して美徳ではありません。上記のようなことがあるのなら、むしろ周りの人々に迷惑が及びます。エホバの証人が問題なのは、横暴な組織や長老への反感や批判を、恐怖と心理的暴力によって抑えこもうとするからです。抗議や批判には上手に行う技術が開発されています。有名なのは「アサーション」です。これについては一度、いずれ本格的に紹介してみようと思っています。


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ペリー艦隊日本遠征の背景

2007年03月21日 | 日本のアイデンティティー
捕鯨反対運動の先鋭的な国はというと、まずアメリカですよね。鯨は実は十分に数が増えているという報道も散見します。エホバの証人は昔、鯨肉は十分に血抜きがされていないからというので、「血を食べてはならない」という聖書の記述を字義通りに解釈しているため、鯨の肉を食べなかったのです。「食べてはいけない」という暗黙の了承がありました。わたしは、たしか機関紙にも記述があったように思うのですが、今はもうエホバの証人関係の文書はすべて処分してしまって、残っていないので証拠として示すことができません。「まいけるのおうち」というブログの管理人さんがどこかで書いておられたのですが、鰹も血抜きが不十分なのに、それは咎められない、それは矛盾だと言っておられました。とにかくエホバの証人というのは教理も信者の信条と行動も、ほんとにちぐはぐなのです。

ところで、明治維新をもたらしたアメリカ軍の1853年の来航ですが、アメリカが日本に開国を強行しようとした背景には、その捕鯨業の上げる利益があったのです。

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アメリカでは、1850年代初頭に、議会でアジアへの遠征と日本開国要求の決議が行われた。開国要求の主な理由として挙げられていたのは、①日本近海で操業している捕鯨業者の安全確保と、②アジア諸国と交易する(ルナ註:特に人口の多い大国、中国との交易)貿易船の燃料・食料品の供給ということであった。

1851年12月に、アメリカ海軍から議会上院へ、日本遠征計画についての報告が提出されている。それによると、アメリカにとって捕鯨業は非常に重要である、たとえば、1849~50年の二年間で、この地域(日本近海)での捕鯨から得る収益は1741万ドルを超え、出航した船は299隻、乗組員数8970人に及んだ。以上のほかにも、多数の漁民がこの地域で捕鯨業に携わっており、アメリカの東洋との貿易はこの捕鯨収益に比べるとそれほど大きくない…という。

アメリカが日本開国を企てたのには、主に日本近海やオホーツク海での捕鯨業者の安全と利益を守り、さらに日本との通商をも求めてのことだった。イギリスの新聞、「ザ・タイムス」はこのことをアメリカからの通信として1852年3月26日付でこう報じている。

「日本の海岸線の長さはアメリカの東海岸より長い。日本はアメリカ東海岸の正反対側にあるだけでなく、“ 本州 ”と“ 北海道 ”のふたつの島の間に“ 津軽海峡 ”があり、わが国(アメリカ合衆国)の捕鯨船は毎年そこを通過し、また木材や生活必需品の調達をはじめ、悪天候のために非難を余儀なくされることもある。

「しかし、日本は外国と通商関係を結ぶことを拒否しているだけでなく、外国の船舶が遭難したときにすら港に入ることをも拒否し、海岸に近づくと砲撃する。そして、暴風のために、海岸に漂着すると乗組員を捕虜にし、投獄して、実際に殺してしまうこともある。

「世界の海岸の一部分を占有しているどの国も、他の国とあらゆる通商関係を拒否する権利は有しない。このような権利を侵害する野蛮国を排撃することは、文明国およびキリスト教の任務である。日本はこのような権利を否定している国である。アメリカの多くの捕鯨業者がその犠牲になっている。アメリカ政府はヒューマニティの立場からも日本のこの態度をやめさせるべきである」。


(「『ザ・タイムス』にみる幕末維新」/ 皆村武一・著)

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こうした日本への見方には、幕府の鎖国・幕藩体制の徹底維持という強硬な対外姿勢が事実ありました。

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1783年、カムチャッカに漂流していた伊勢の船頭幸太夫ら数名の漁民を、ロシア政府使節ラックスマンが北海道根室に送り届け、ついでに幕府に通商を求めたが、幕府役人は、外交交渉は長崎のみで扱うといって、これを追い返した。

1804年、ふたたびロシア使節レザノフが漂流日本漁民を送り返しに、今度は長崎に来て、通商を求めたが、幕府は鎖国という「祖法(先祖代々の基本法)」があるということを理由に、にべもなく追い返した。

1808年、オランダと戦争をしていたイギリスが、軍艦フェートン号を長崎に派遣し、出島のオランダ商館を襲撃した。

その後にも、日本近海に出没するイギリスその他のヨーロッパ諸国の商戦や捕鯨船は次第に多くなり、時には薪水を求めて上陸もした。

幕府はこうした時流に対しても、鎖国政策を強硬に守ることをはかり、1825年には、たとえ薪水を求めるものであっても(つまり侵略行為ではなくても)二念無く打ち払えと全大名に令(異国船打ち払い令)を下した。


(「日本の歴史」/ 井上清・著)

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幕府の開国への忌避の強硬さは蛮社の獄といわれる蘭学・洋学への弾圧姿勢にはっきりと伺えます。オランダ商館付き医師として日本に滞在したドイツ人医学者シーボルトが1829年に帰国するときに、日本の天文学者の高橋景保(かげやす)がシーボルトの持っていた「ナポレオン戦記」を求めました。景保は自分の持っていた伊能忠敬が作成した日本地図を交換にしようとしたのです。これが幕府の知るところとなり、景保は売国奴として死刑に処されました。これをきっかけとして蘭学・洋学への弾圧が強硬に行われるようになり、1839年の蛮社の獄へと発展したのでした。ただ、この景保は異国船打ち払い令を提唱した人です。

景保は1824年に、このような提案を幕府に上げています。
「近年イギリスの捕鯨船が浦賀その他にたびたび上陸するが、それは日本への軍事行為ではなく、 《 異人共本国を出候て数十ヶ月洋中に罷在、食物ハ野菜物乏く魚肉計多く相用、土を踏み申さず、潮の気にのみ包まれ居候故、皆腫れ病(ビタミンC不足から来る壊血病など)を受候間、当国地方へ来着仕候ハ、皆其薬用之野菜・果実を乞ヒ候為而巳(のみ) 》、 
 つまり壊血病などを病んでいるので、薬用としての不足する野菜や果物を求めるだけであった。(「日本史史料3 近世」/ 歴史学研究会・編)」

しかし、

「《 我国之漁人に親しみ度存候処より、自然彼国之教法(キリスト教のこと)を勧メ□誘可仕義も難計候、既に去年松平右京太夫領分之漁船江(=へ)異国船より教法之書一冊投げ込み、同年、松平陸奥守領分漁船江教法之蛮書一冊投げ込み、又候(またぞろ)五月にも同所漁船江投げ込み候事も有之候、然ハ愈(いよいよ)其意有之証拠に御座候… 》、
 つまり、異国人が漁民と親しく交易などするようになれば、キリスト教が布教される可能性がある、現に異国船が松平領(どこかルナは知らない。歴史に詳しい方ご存知ですか?)で漁民の船にキリスト教の書物を投げ込むという事件が起きている、これがその証拠だ」。(同上書)

そこで

「欧羅巴之法にては、海辺所々に大筒台場を備へ有之、…通信不仕国之舶地方近く相見え候得者、其最寄之台場(から)玉込無之空砲を放し候、来舶之者是を見候て、船を寄せ間敷処なるを知り候て、其処を去り候事通例に御座候由、…
 ヨーロッパの習慣では海辺に砲台を築いて、協定を持たない国の意図の不明な船舶に対して空砲を撃って追い払っている…(同上書)」

だから日本もそれにならって威嚇攻撃を行って、外国船が寄り付かないようにしよう、と提案したわけです。この間に、アメリカ船に対してモリソン号事件が起きています。異国船打ち払い令に従い、1837年、日本人漂流民7名を送還することを名目に、通商と布教を目的に浦賀港に来航したインガソル船長のモリソン号が砲撃を受けて退去させられました。モリソン号はその後、琉球を経由して清国と密貿易を大々的に展開していた薩摩藩山川港に入稿しようとしますが、ここでも砲撃を受けて空しくマカオに戻りました。この事件における幕府の排外政策を批判した高野長英や渡辺崋山が投獄され処刑されますが、これが蛮社の獄です。

しかし、オランダを通じてヨーロッパ諸国の軍事力、科学力、工業力の大いさを知らしめるニュースが入り込みました。アヘン戦争において中国(清帝国)がイギリスに大敗して、植民地化されたのでした。その方法は、「南京条約によって香港島をイギリス直轄領として割き取り、広州、上海など五港を開港させ、治外法権・関税協定権、一方的な最恵国待遇を受ける権利などを押しつける(「日本の歴史」/ 井上清・著)」というものでした。

幕府は異国船打ち払い令を急遽廃止し、薪水を求めるなら給与するように言い渡します。しかし、冒頭で「ザ・タイムズ」紙の記事を紹介したように、アメリカの捕鯨業は日本近海で大きな利益をあげるようになってゆきます。そこでついに日本の門を半ば強制的にこじ開けようという機運が高まってきたのです。

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捕鯨業者の要請や議会での討議をうけて、アメリカ大統領フィルモアは日本の幕府に向けて次のような親書をペリーに持たせた。




大統領が貴国に派遣するのは宣教師ではなく、大統領自ら指名した高級役人である。彼らに命じて貴下に対する挨拶と希望を託し、両国の友好と通商を促進するために赴かせる。…カリフォルニアはアメリカ合衆国の一部であり、そこから貴国まで蒸気船で20日以内に到着することができる。わが国の船舶が毎年、いや毎週カリフォルニアと中国の間を航海している。これらの船は貴国の海岸を通過しなければならず、暴風の際には貴国の港に避難しなければならない。

それゆえ、わが国の船に対して(日本の側の)友情、寛大、懇切とアメリカ国民の財産の保護を期待しなければならない。アメリカ国民が貴国民と交易することを許可されることを願う。しかしながら、アメリカ政府は彼ら(アメリカの船舶のクルーたち)が貴国の法律を犯すことを許すものではない。

われわれの目的は、友好的な交易であり、それ以外の何ものでもない。貴国はわれわれが喜んで購入する商品を生産することができ、われわれは貴国の国民に適した商品を生産し、供給するであろう。貴国には豊富な石炭が産出する。これはわれわれの船がカリフォルニアから中国に航海する際に必要なものである。われわれは貴国の指定された港でいつでも石炭を購入することができればたいへんしあわせである。

そのほかのいろいろな点において貴国とわが国の交易は、両国に多くの利益をもたらすであろう。近年における両国の接近によってどのような新たな利益が生じているか、そしてまた友好関係と交易の目的は何であったか、このことは両国の統治者が肝に銘じておかなければならないことである。


(「『ザ・タイムズ』にみる幕末維新/ 皆村武一・著)

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これだけみれば平和的ですが、ペリーには別にアメリカの決然たる命令が与えられていたのです。

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あらゆる議論と説得をしても、日本政府から鎖国政策の緩和や捕鯨船の避難・遭難の際における人道的取り扱いについての保証を確保することができない場合には、語調を変えて、アメリカ政府は、目的達成のために断固たる態度をとる、ということが決定している旨を日本政府に知らせるべきである。

もし上述の点に関して何らかの譲歩が得られたならば、条約という形に持っていくことが望ましい。…(しかし)大統領には戦争を宣言する権利はないこと、この使節団は平和的な性格のものであり、艦船および乗組員の保護という自己防衛以外の場合に武力を行使してはならないということを、司令官は肝に銘じておかなければならない…という議会と大統領の意思が命令として与えられていた。

(上掲書)

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ここから伺えるように、アメリカの来航は強い意志を持ったものでした。ペリーは、アメリカ合衆国大統領の親書を日本の「皇帝」に直接手渡したい、それを拒否するなら武力行使に訴えて日本に上陸し、直接捧呈(ほうてい:手で差し出す、の意)すると脅迫し、当時の国際法である「万国公法」を破って、領海と定められる30カイリを侵し、江戸湾に測量船を侵入させます。それでもペリーの要求が叶わないときには、来年にもっと大規模な艦隊を率いて来る、と威しつけたのでした。

で、幕府の側はアメリカ人をどう受けとめていたかというと、当時の兵学者、また吉田松陰の教師でもあった佐久間象山はそのようすを、浦賀奉行所の役人から詳細に聞き出して、嘉永六年6月6日(旧暦)に、同士に書簡を書き送っています。それによると…。

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是迄渡来の船と総て品替り候て、乗組居候者共も殊の外驕傲の体にて、是までは異船渡来の度ごと与力同心乗入れ見分すること旧例に候処、此度は同心与力の類身分軽きもの一切登ることを許さず、奉行に候はゞ登せ可申との事にて、其船の側へ参り候をも、手まねにて去らしめ候由、夫(それ)を強いて近寄り候へば鉄砲を出し打ち放し候べき勢に御座候、…(中略)…夷人申候は、若(もし)此度国書受け取らず候など申事に候はゞ、屹度(きっと:厳重に、きっぱりと、といった意味合いで、相手のつけいる隙もないほど厳しいさまを表現することば)乱妨(らんぼう:荒れまわること、荒らすこと。掠奪すること/ 広辞苑第5版)致し候て引取可申と打出し候由…(後略)。

いづれにも此度は容易に事済み申まじく被相考候(あいかんがえられそうろう…と読むんだと思う…)、渠(かれ:かしら、首領、の意)の申に任せ願ひ筋御許容候義御座候はゞ、それを例として其他の国よりも兵威を盛にして請ふ所可有之(これあるべく、と読むんだと思う…。←こればっか(^^)ゞ…)夫をも夫をも御許容御座候はゞ、本邦はやがて四分五裂可仕候(つかまつりそうろうべし、と読むんだと…)、其事目前に有之事に候へば、よも此度御許容は有之まじく、去りとて軍艦を四艘も八艘も致用意、渡来の上、品次第は乱妨も致し候はんと打出し申程に候へば、御許容無之候はゞ唯は得帰り申間敷(←読めない…、たぶん、そんなことあるまじきことだ、という表現の「まじき」に当たるのではないかと思うのですが…)、

畢竟此度様の事出来たり候は、全く真の御武備無之、近年江戸近海新規御台場(砲台を設置するための更地)等御取立御座候へども、かねても申上候通、一つとして法に叶ひ、異船の防禦に聢と(しかと)成候もの無之、事を弁え(わきまえ)候ものよりは一見して其伎倆の程を知られ候義に御座候故の事にも可有之、且大船も無之、砲道も極めて疎く候と見候て仕候事と被存候へば、如何様の乱妨に及び候はんも難計、浦賀の地等の乱妨は如何程の事にても高の知れたる事に候へども、自然内海に乗入、御膝元へ一発も弾丸を放ち候事御座候はゞ大変申ばかりも無之候、…(後略)



(松代藩士佐久間象山書簡 望月主水宛/ 「日本史史料 4 近代」/ 歴史学研究会・編)

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この報告によれば、これまで時々日本に立ち寄ったときには、地元の与力が対応していたようですが、このたびはアメリカはもっと身分の高い役人でなければ会わない、と要求していたようです。それを無視して乗船しようとすると発砲して、日本人役人を追い返したようです。そして与えられていた命令どおり、大統領親書を幕府が直接受け取らないのであれば、実力行使の挙に出ると宣告しています。

象山は、今度は容易には事態は収まるまい、しかもこのたびの要求をのむなら、他の国々も同様に武威を強力にして通商を要求してくるだろう、と見ています。事実アメリカの次はロシアが、イギリスが、フランスが和親条約締結を要求してきました。それらを次々にのんでいたら、日本は分裂するだろう、そういう事態が目前に迫っている、だから自分としては要求をのむべきではないと思うが、だからといって軍事力が押し出されてきたら、要求をのまない限り、彼らは帰らないだろう、という心配を象山は述べています。そして、そもそもこんなことになったのは日ごろの武装防禦の施策が十分でなかったからだ、西洋式戦術の研究も、洋学・蘭学の弾圧で遅れてしまっている、戦闘が浦賀あたりなら幕府そのものには深刻な打撃を与えないだろうが、もし江戸湾に乗入れてきたなら、軍艦の砲弾は江戸城まで一発で届く、そうなったら幕府はおしまいだ、と幕府の対策の遅れを非難しています。

権力の座を安泰にしていたいからと言って、現実逃避していては時代の流れにのみこまれてしまうだけです。やたらと強権を発動して、変化をとどめようとするのは自滅を速めているようなものです。こんなことは実は子どもにもわかることなのですが、危機に際して権力の座にいる人たちは問題対処を後回しにしがちです。エホバの証人など、長老の権力の乱用の問題、レイプの問題、児童への性的・身体的暴力による虐待の問題などが公になりそうになったとき、正面から対処するのではなく、隠蔽しようと一生懸命になります。信者が減ってゆくのは、そういう頑迷固陋な体質、責任逃れの体質に原因しているのですが、信者の側に「エホバの介入を待て」と、犠牲を強いて隠蔽します。これも根っこにあるものは同じなのです。

さてペリー来航直後は、どこの大名たちも封建的絶対権力者としての本能から排外主義、つまり攘夷を主張しますが、アメリカ軍の進んだ科学的テクノロジーの前には戦争は国土の荒廃しか結果はないと感じるようになります。近代的な思考ができる開明的な大名たちの考えには、開国したほうが日本のためになると考えを変えるようになります。多くは幕政から遠ざけられていた外様大名に多かったのですが、徳川氏や松平氏を名乗る大名たちにも、目の黒い人たちはいました。そうした人たちは幕政を血筋から開放し、外様大名や下級武士からも有能な人材を登用し、幕政を官僚合議制のような体質に改革して、欧米世界の圧力から日本の独立性を守り抜いてゆこうとします。一方で、この困難な状況にあっても、あくまでこれまでの「祖法」に従って、徳川氏幕府を強化して乗り切ろうという保守派も改革派とせめぎあいます。

そのせめぎあいの象徴が、家慶亡き後の「無能な」将軍家定の後継者選びでした。改革派は聡明と評判の慶喜を推しますが、保守派は血筋が家康に近い慶福(よしとみ)を推挙します。結果は井伊直弼の登場により、保守派がいったん競り勝ちます。朝廷内の開明派であった三条実万(さねつむ)などを宮廷から追放させ、改革派の大名たちを処分し、有能な人材を処刑しました。安政の大獄です。この政争にあって天皇本人は「玉(ぎょく)」という暗語で呼ばれ、あくまで道具として利用されるものでした。「天皇制」という形而上の概念が高く掲げられてはいましたが、それはあくまでイデオロギーとしての「天皇」であって、人間個人としての天皇はあくまで手駒だったのです…。

以下、来月に続きます。


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戦争という現実

2007年03月10日 | 一般
絵本のテキストの部分だけをご紹介します。

これは有事法制が審議されていた2004年に製作されました。

多くの人は、いまどき日本が戦争することなどありえない、
防衛力強化の一環でしかないだろう、というような考えしか持っていないようです。

中には、積極的に国防力強化を主張する人もいるでしょう。
国家意識を高く持ち、「国際的な発言力を高めたい」という気持ちを持つ人もいるでしょう。

そんな人でも、戦争を現実感をもって考える人がどれほどいるでしょうか。
戦争は現実です。

現に日本は今でも中東に駐留しています。
イラクからは撤退しましたが、クェートには航空自衛隊が派兵されていて、
何をしているのかの記録が、黒塗りされて、わたしたちに知らされていません。

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政府による「イラク人道復興支援特措法における実績要項」では、空自の業務は「人道復興支援活動としての輸送およびこれに影響をおよぼさない範囲での安全確保支援活動としての輸送」と説明してある。だがそこでの「人道復興支援活動」と「安全確保支援活動」の割合ですら、政府側は「治安というか航空輸送の安全を考えてゆく上で、これを明らかにすることは…控えさせていただきたい」(2006年8月11日、衆院における額賀防衛庁長官・当時の答弁)という姿勢だ。

いったい、割合ですら「明らかにする」と「安全」に影響が出るような「人道復興支援活動」とは何なのか。だが内容以前に、政府がいくら「人道」を云々しても空自のイラクにおける本質的役割については米軍が雄弁に説明している。米空軍の公式ウェブサイトである「Air Force Link」の昨年(2006年)8月9日版には、空自が同年9月から開始した国連の現地活動支援に関する記事が掲載されているが、そこには次のような記述がある。

☆ 航空自衛隊のC130輸送機が「イラクの自由作戦」を支援するフライトの大半を継続する一方で、C130による活動は国連の人員と貨物についても捧げられる任務を負うことになった。
☆ 現地の米統合軍空軍副司令官であるウィリアム・ホーランド将軍は、「空自の新たな任務は…(略)…イラクの未来の安定確保と対テロ戦争の勝利に役立つ」と語る。
☆ 空自は陸自の輸送を担ったのみならず、CAOC(合同航空作戦センター:イラクにおける戦争作戦全般を指揮する現地司令部)と調整して他の多国籍軍の兵員と貨物を安全に輸送する任務も続けてきた。

この「イラクの自由作戦」、そして「対テロ戦争」とは米軍が2003年3月20日に「フセインの大量破壊兵器」などといったありもしないウソの名目を口実にして開始し、現在も拡大させている侵略戦争そのものにほかならない。「人道復興」などとは無縁な侵略において、その活動が「支援」と見なされ、「勝利に役立つ」と評価されるのは、空自の活動が公表できないのとは無縁ではないだろう。

(「イラクで航空自衛隊は何をしているか」/ 成澤宗男/ 「週刊金曜日」2007年2月2日号より)

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戦争など実際には起こされない、などといって教育基本法「改正」に賛成した人こそ世間知らずで、甘ちゃんではないでしょうか。日本が独自に侵略戦争をすることはなくても、アメリカは独断で侵略戦争を行います。そしていまや日本は、アメリカが要請すれば軍事活動=戦闘ができるように憲法を変えようと着々と法整備が進められているのです。こういう現実を踏まえた上で、「戦争のつくりかた」という絵本のテキストの部分だけご紹介します。

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あなたは戦争がどういうものか、知っていますか?

むかしのことを聞いたことが
あるかもしれません。
学校の先生が、戦争の話を
してくれたかもしれません。

話に聞いたことはなくても、
テレビで、戦争している国を見たことなら、
あるでしょう。




わたしたちの国は、60年ちかくまえに、
「戦争しない」と決めました。
だからあなたは、戦争のために
なにかをしたことがありません。

でも、国のしくみや決まりをすこしずつ変えてゆけば、
戦争しないと決めた国も、戦争できる国になります。

そのあいだには、
たとえば、こんなことがおこります。




わたしたちの国を守るだけだった自衛隊が、
武器を持ってよその国にでかけるようになります。

世界の平和を守るため、
戦争で困っている人びとを助けるため、と言って。

せめられそうだと思ったら、先にこっちからせめる、
とも言うようになります。




戦争のことは、
ほんの何人かの政府の人たちで決めていい、
というきまりを作ります。

ほかの人には、
「戦争することにしたよ」と言います。
時間がなければ、あとで。




政府が、
戦争するとか、戦争するかもしれない、と決めると、
テレビやラジオや新聞は、
政府が発表したとおりのことを言うようになります。

政府につごうのわるいことは言わない、
というきまりも作ります。




みんなで、ふだんから、
戦争のときのための練習をします。

なんかへんだな、と思っても、
「どうして?」と聞けません。

聞けるような感じじゃありません。




学校では、
いい国民はなにをしなければならないか、
を教わります。

どんな国やどんな人が悪者か、も教わります。




町のあちこちに、カメラがつけられます。
いい国民ではない人を見つけるために。

わたしたちも、おたがいを見張ります。
いい国民ではない人がまわりにいないかと。

だれかのことを、
いい国民ではない人かも、と思ったら、
おまわりさんに知らせます。

おまわりさんは、
いい国民ではないかもしれない人を
つかまえます。




戦争が起こったり、起こりそうなときは、
お店の品物や、あなたの家や土地を、
軍隊が自由に使える、
というきまりをつくります。

いろんな人が軍隊の仕事を手伝う、というきまりも。

たとえば、飛行機のパイロット、
お医者さん、看護師さん、
トラックの運転手さん、ガソリンスタンドの人、
建設会社の人などです。




戦争には、お金がたくさんかかります。

そこで政府は、税金をふやしたり、
わたしたちのくらしのために、
使うはずのお金をへらしたり、
わたしたちからも借りたりして、
お金を集めます。

みかたの国が戦争をするときには、
お金をあげたりもします。




わたしたちの国の「憲法」は、
「戦争しない」と決めています。

「憲法」は、
政府がやるべきことと、
(政府が)やってはいけないことを
わたしたちが決めた、
国のおおもとのきまりです。

戦争をしたい人たちには、つごうのわるいきまりです。

そこで、
「わたしたちの国は、戦争に参加できる」と、
「憲法」を書きかえます。




さあ、これで、わたしたちの国は、
戦争できる国になりました。

政府が戦争すると決めたら、
あなたは、国のために命を捨てることができます。

政府が、「これは国際貢献だ」と言えば、
あなたは、そのために命を捨てることができます。

戦争で人を殺すこともできます。

おとうさんやおかあさんや、
学校の友だちや先生や、近所の人たちが、
戦争のために死んでも、悲しむことはありません。

政府はほめてくれるのです。
国や「国際貢献」のために、いいことをしたのですから。




人のいのちが世の中で一番たいせつだと、
今までおそわってきたのは「間違い」になりました。




一番たいせつなのは、「国」になったのです。




もしあなたが、「そんなのはいやだ」と思ったら、
お願いがあります。

ここに書いてあることが
ひとつでもおこっていると気づいたら、
おとなたちに、
「たいへんだよ、なんとかしようよ」と
言ってください。

おとなは「いそがしい」とか言って、
こういうことになかなか気づこうとしませんから。




わたしたちは、未来をつくりだすことができます。

戦争しない方法を、えらびとることも。


(「戦争のつくりかた」/ りぼん・ぷろじぇくと・文)

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この本は、ぜひお子さんとともに、また家族とともに読んでほしいです。定価630円(税込み)、マガジンハウスから発行されています。
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人権格差が生みだす時代の空気

2007年03月10日 | 一般
今この時代の雰囲気、流行りの言葉を使えば「空気を読む」ヒントとなるニュース解説をご紹介したいと思います。

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私は2001~03年にかけて労働問題を取材してきたが、その取材を通して、雇用破壊によって「もの言えぬ社会」がつくられていることを感じていた。それがなぜかといえば、いま増えている有期雇用も派遣も下請けも、全部共通の構造を持つからである。それは「自分の意見をいえない」「意見を言えば仕事を失う」という構造である。

たとえば、有期雇用(契約社員制)。有期雇用とはあらかじめ契約期間を決めてそれを更新していく雇用スタイルだが、期間満了時に契約を更新するかどうかは経営側の裁量となる。だから有期雇用で働く人たちは常に「満了時に更新してもらえるだろうか」「続けて雇ってもらえるだろうか」という不安を抱えている。そんな状態ではあれこれ権利を主張することはむずかしい。それを押して権利を主張すれば暮らしを奪われる。あるパートタイマーは、時間給の「切り下げ」に抗議したために、契約解除でクビになっていた。

派遣労働についていえば、派遣社員は派遣会社に雇われ、そこからどこかの会社へ派遣される。直接の雇用主である派遣会社にとって派遣先はお得意様だから、そのお得意様と悶着を起こせばトラブルメーカーとしてブラックリストに載せられ、仕事を回してもらえなくなる。「ですから派遣先で理不尽なことをされても、なかなか抗議することができない」と派遣労働者は訴える。

また官民ともにコスト削減を目的としてアウトソーシング(外部委託)が進められ、それによって下請け業者が激増しているが、この人たちも発注元にはさからえない。これは関西で実際にあった事件だが、下請け会社の人たちが「長時間労働」「連続夜勤」のシステムを変えようとして労働組合を結成し、活発に組合活動をおこなったところ、発注元は業務委託を打ち切ってしまった。仕事を打ち切られたので、その下請け会社は倒産し、従業員は全員解雇されてしまった。




働く人ひとりひとりは弱いものだ。従業員が個人として組織と談判し、連続夜勤にストップをかけるなど不可能なことである。この事実を踏まえて、憲法第28条には勤労者の団結権と団体行動権(労働組合をつくって使用者と交渉する権利)が明記されているわけだが、いまや下請け労働者は憲法上の権利を行使することさえむずかしい。だからこそ、それを見透かしているからこそ、怒涛のようにアウトソーシングが進む。あるアウトソーシング会社は堂々と「組合対策として」と自社を宣伝していた。そのココロは「仕事をアウトソーシングしてしまえば、下請けの連中はクビを怖れて組合をつくりませんから、気を使わずに安く使えますよ」ということである。

最近は格差を取り上げることが流行しているが、格差の問題とはおカネのことだけではない。「収入格差」と連動して、こういう「人権格差」が生まれていることこそ深刻な問題であり、そのことが社会の公正をいちじるしくゆがめている。

そしてそういう弱い立場の人が増えることは、正社員にとっても大きな圧力となる。いま多くの正社員が、「自分の職場をアウトソーシングされるのではないか」「いつか派遣会社や契約社員に自分の仕事を奪われるのではないか」という恐怖心を抱いている。ある会社では頭角をあらわした契約社員に正社員たちが脅威を感じ、集団イジメでその人を追い出してしまった。仕事を取られたら怖いから会社の命じるまま必死で働く。仕事量そのものが過重で長時間労働になっても文句をいわずに黙って働く。ある正社員は「サービス残業をするなんてあたりまえの話です。法律違反? そんなことを会社に言えるわけがないじゃないですか」と言った。

つまり正規・非正規を問わず、「食べてゆくためには上に逆らってはいけない」という状況が現実に生まれているのだ。民主主義に根っこは職場にあるというが、根っこがこの状態になったとき、はたして民主主義を守っていけるのか。労働現場を取材しながら、私はその危惧を深めていったが、それが「やはり的外れではない」と感じたのは2003年、自衛隊のイラク派遣が問題になっていたときである。

あるテレビ局の番組で、街頭インタビューのシーンを見た。そこでは若い男性が「自衛隊のイラク派遣をどう思いますか」と訊かれて、こう答えていた。「総理大臣が決めたことだから仕方ないでしょう。会社だって、社長が決めたら、それに従うしかないじゃないですか」。 その時はあまりの率直さに笑ってしまったが、笑いながらも「ついに来るべきものが来た」と感じた。「私企業の内部のことを、民主主義の政治に当てはめるのは、根本的におかしいだろう」なんて理屈はもう通用しない。勤め人は一日の大半を会社の中で過ごしている。会社の中で黙っている人が、会社から一歩でたとたんに「(抗議・主張する人に)変身」だなんて、そんなウルトラマンみたいなことはまず起こらないのだ。

労働が壊れるとき、民主主義は根腐れを始める。国民主権が根腐れした社会は乱暴な大声を持つ者に流されてゆき、流された果てに、必ず弱い者が泣きを見る。仙台市で講演したあと、ひとりの大学生がこんな感想を書いてくれた。

「モノ言えぬ社会が労働現場からつくられているという点に共感しました。それはモノ言えぬ構造が精神的につくられるということだけでなく、戦争に行かなくては生きてゆけない社会構造が労働現場からつくられるからだと思います。イラクで死んでいる米兵の多くが貧困層の若者なのだから」。

新たに生み出されている貧困層にとって、軍隊は魅力的な職場に見えるだろう。雇用破壊の時代は戦争をとめる力を失い、やがて戦争状態への依存を始める。暴力へとひた走る流れを食い止めることができるかどうか。それは人々がどれだけ「事実を知るか」にかかっている。



(「破壊される雇用、根腐れる民主主義」/ 島本滋子/ 「世界」2007年3月号より)

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生計手段を盾にとって人権を剥奪する、これは破壊的カルトの宗教団体が、信者を社会から隔離させるのと同様のやり方です。社会での居場所と生計の手段を奪われると、その宗教に疑問を持つようになっても、もう抜け出ようとは思わなくなるからです。戻る場所はもうない、と思わせられるからです。わたしたちが政治を他人まかせにしているあいだに、わたしたちの人間性はここまで奪われてしまっているのです。格差社会はいまどこまで進んでいるのでしょうか。早稲田大学アジア太平洋研究センター客員教授の寺島実朗さんは労働統計を示して、論文を書いておられます。

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あらためて労働統計を見てみよう。2006年の「労働力調査(総務省発行)」において、年間収入が200万円未満で働いている人は、自営業者とその家族従業員で443万人、雇用者のうち正規の雇用者447万人、非正規の雇用者(パート、アルバイト、派遣、契約、嘱託、その他)で1284万人となり、その合計は2174万人となる。労働力総数が6384万人だから、実に三分の一が「200万円未満の所得」ということになる。

これらの人たちを単純に「貧困」と決めつけるわけにはいかないが、目安として「年収200万円未満の所得者」を、米国でいう「ワーキング・プア」に相当する存在としておく。理由は、失業者(2006年現在、294万人)が得られる失業保険の上限が年約200万円、生活保護世帯(2006年現在、106万世帯)への生活保護の上限が同じく約200万円であり、それと同等以下の収入で働いている人を「貧困」とイメージする、ということである。


(「今ここにある格差社会の性格」/ 寺島実朗/ 「世界」2007年4月号より)

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こういう実情は、社会とひとりひとりの国民にどんな影響を与えているか、ということが重要です。特に心理もしくは精神面に寒くなるような影響を与えています。

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不安定で、将来への希望の薄いこれらの人々は、特権に対してきわめて強い反応を示す。「郵政職員がなぜ公務員でなければならないのか」と絶叫し続けた小泉首相が2005年総選挙で圧勝したのは、公務員が特権層に見えたからです。また、数々の暴言や乱暴な施政では揺るがなかった石原都知事への支持率も、豪華な海外視察や四男への利益供与疑惑で下がり始めた。

「下流」に押し込められた人々のルサンチマン(怨恨、嫉妬、憎悪)はマグマのように不気味に溜まり、噴出する機会を窺っている。それはある場合には北朝鮮、中国、韓国バッシングになり、ある場合には官僚、公務員叩きになる。特権には、官僚、銀行だけでなく、教師を含んだ公務員、テレビ・雑誌などのマスコミ、大学、労働組合も入るだろう。現実に、そこから発せられるリベラルな言説は、内容にかかわらず、現状を肯定し、保守するものとして、嫌悪と反発の対象となる。現実世界の複雑さや問題を粘り強く解いてゆくリアリズムの手法に耐えられない「破壊衝動」が事態をさらに悪化させ混迷させる。

イラクの戦争に参加し、殺し殺されている米軍兵士の多くは、貧しさから必死に抜け出ようとする若者たちである。懸念されるのは、米国を追いかけて格差社会になった日本で、若者たちが同様な形で活路を見出そうとするのではないか、ということである。

日本は今、海外派兵を積極的に行おうとしている。目指されるのは、米国、NATOなどと一体になったグローバルな介入部隊であろう。「自衛隊海外派遣も躊躇しない(1月12日)」という安倍発言と、「日本の改憲論議に勇気づけられる」という新アーミテージ報告(2月16日)、そして格差社会の現実が交差したとき、何が起きるか。わたしたちはもっと深刻に考えるべきではないか。


(岡本厚/「世界」 /2007年4月号/ 編集後記より)

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> 「下流」に押し込められた人々のルサンチマン(怨恨、嫉妬、憎悪)はマグマのように不気味に溜まり、噴出する機会を窺っている…。

イラク人質事件の人質3名に対する異常なバッシング、とくにネットで見られたような中傷的・脅迫的なバッシングや、学校での日の丸掲揚、君が代斉唱をしない教師に対する脅迫や悪意のある偏向報道などを生みだす土壌となっているもののひとつには、現状の生活で不満をためこむよう強いられている人々の不満があると、わたしは考えています。教育基本法や日本国憲法は、「自分たちに不遇な状況をもたらしたもの」と見なされるのです。180度の誤解なのですが。むしろ戦中・戦前の精神教育への真摯な批判と反省、新憲法の理念を熟慮してこなかったために、戦後民主主義の理念が実践されずにきたことが、今日のわたしたちの暮らしを生み出したのです。

ところが、世の中の志向は反動向きになっています。統制と弾圧、兵器を使った打破というものにカタルシスを見出させるようなハリウッド映画のイメージを内面化した世代が、力によって自分たちにのしかかる「得体の知れない仕組み」を粉砕できる、という期待があるのでしょうか。まさにその「力による支配」が自分達にのしかかる「得体の知れない仕組み」の正体なのに…。

反動化の背後には増し加わる生活の難渋さがあり、反動化は労働や雇用を破壊してゆき、それがまた暮らしを困難にする、そこへ軍隊という雇用が差し出される…。聖書の中の「伝道の書」には、「人が人を支配してこれを害を及ぼした(8章9節)」という一句があります。エホバの証人はこれを根拠に、人間の支配者は神であるのが望ましいと主張するのですが、こういう与太話はさておき、力による圧制的な支配はたしかに人間の暮らしを破壊します。

糾弾すべき本当の「敵」は何か、そういうものをしっかり見定める分別は失いたくありませんし、ささやかながらこの小さな小さなブログで、訴えかけてゆきたいと希望しています。
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「すべて国民は、個人として尊重される」

2007年03月04日 | 一般
上川あやさんという現東京都世田谷区議会議員の方が著された、「変えてゆく勇気」という新刊書を読みました。サブタイトルは「性同一性障害の私から」…です。「普通」であることを強要することの暴力性、そしてもうひとつ、マイノリティーを尊重することこそが民主主義の本質であること、そういったことを感想として持ちました。

上川さんが政界に打って出ようと決意された直接の動機は、戸籍の性別変更を可能にする道を拓きたい、というものでした。「性同一性障害」の当事者は「身体の性と心の性の不一致に苦しむ状態のことで、WHO(世界保健機関)などの分類にもある疾患名である」(「変えてゆく勇気」より)。日本における「性同一性障害」の受けとめ方はというと、「異常」「変態」、また反道徳的という意味をこめて言われる「同性愛性向」などでしょう。そこには宗教的イデオロギーや伝統的な道徳観を基準とする思考があるのです。

しかし現実には、「性」というものはわたしたちが思ってきたのとは違って、ずっとずっと曖昧なものであるようです。

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赤ちゃんが産声を上げて、最初に発せられる質問の多くはきっと次のようなものだろう。
「赤ちゃんは元気? 男の子? 女の子? どっち?」

現在の日本では、新生児が生まれて二週間以内に、性別記載を含めた出生届を提出することと定められている。ペニスがあったら男の子、ワレメがあったら女の子。一般にはそう考えられていて、疑う人はまれだ。しかし実際には、脚の間を見ただけでは判断の難しい子どもたちが、一説には2000人に一人の割合で生まれてくる、とされている。これを日本の出生数に当てはめれば一年間に600人ほどの赤ちゃんが中性的な性器の形状をもって生まれてくることになる。さらに日本の総人口に当てはめると、その数は約6万人にも及ぶことになる。このような人々のことを一般に「インターセックス」という。

意外に思うかもしれないが、もともと男性の性器と女性の性器は同じ組織から分かれて発達したものだ。男の子のペニスと女の子のクリトリスは同じ組織から生まれ、同様に男の子の陰嚢と女の子の陰唇も同じ組織から生まれてくる。

子どもは、誰もが母親のお腹に命として宿ってからの七週間を「性的両能期」として過ごす。この時期は文字通り、身体的には男とも女ともはっきりせず、まだまだ未分化な状態なのだ。では、そもそも男と女はどうやって分かれるのか。

一般的な学校教育の中では、性染色体がXXなら女の子、XYとY染色体があれば男の子が生まれる-という限定的な情報でしか教わるだろう。しかし実際にはさまざまなバリエーションがあって、性染色体ひとつをとってもXが一つの女性もいれば、XXXという人もいる。XXXYという男性もいれば、XYYとYが二つある男性もいる。学校教育の中で教えられることは、典型的なものについてだけであって、決して「すべて」ではない。

男女の形状がはっきりしない性的両能期から、男女が分かれてゆくには三つのステップを必要とする。まず基本として男性性器は女性性器の改造型である。典型的な男性の性器が形成される第一のステップはY染色体の存在。さらにいうとY染色体上にある睾丸決定遺伝子の存在である。これによって睾丸が形作られる。

次に男性ホルモンが適切な時期に適切な量、出されること。このことが、同じ組織だったものを男性型に改造するプロモーターとなる。最後にホルモンを受け止める受容体の存在。睾丸というピッチャーがホルモンという球を投げたとしても、それを受けとめるキャッチャーミット、受容体がないことには、効果は発揮できないのだ。以上のすべての連携プレーが上手くいくことでようやく典型的な男性性器が形作られる。

Y染色体上の睾丸決定遺伝子がない場合や、XXという本来女性の性染色体に睾丸決定遺伝子がくっついている場合、睾丸が十分にホルモンを出さない場合、十分出たとしても先天的に受容体がない場合、またその機能が十分でない場合などがあって、(性器)改造が中途で終わり、中間的な性器となる場合があることがわかってきた。それらが、はじめに書いた判別の難しい子どもたちにつながっている。このほかにも、外見上の性器は典型的に見えても、精巣、卵巣といった性腺が逆の人、まれには精巣と卵巣の両方を持つ人、精巣も卵巣もない人もそれぞれいる。

非典型的な性器は「異常」なものとして本人の同意もなく手術されるケースが跡を絶たない。他人の決めた性器と戸籍上の性別をもってその子は生きていくことになるが、実は出生届で性別記載を保留する道があることはほとんど知られていない。

私たちの身体は一見、男女にきれいに二分できるように見えて、その実、典型的な女から典型的な男までのずらりと並ぶ座標軸のどこか一点に位置するに過ぎない。そしてどこに位置していようとも、それはみな、等価値な存在だ。社会の制度も、人々の認識も、男女は明確に二分できると考えられているけれど、本来、人間はもっとずっと多様な存在なのだ。


(「変えてゆく勇気」/ 上川あや・著)

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「典型的な女から典型的な男までのずらりとならぶ座標軸のどこか一点」という数学様の表現にアレルギー反応を起こしてしまわれる方もおられるかもしれません。これは、男と女というものはまるで別個の存在ではなくて、虹のグラデーションのようにつながっているものだ、なぜなら男性性器はもともとは女性性器の素から変化したものだからであり、変化の度合いは人によってさまざまに異なっている、ということです。虹のグラデーションの赤が典型的な女性、青が典型的な男性だと仮に決めると、中間の緑や黄色の状態の人もけっこうな割合で存在するのです。人間というもの、いえ、生物というものはそれほどに多様なものなのです。

だからこそ環境の激変にも適応できる個体が存在していて、それらが適者として種は存続してきたのです。もし生物の種が一様に規格化されているとしたら、環境の変化に種全体が適応できずに、いち早く淘汰されてしまったでしょう。以前に、どこかでエイズウィルスの抗体を持った人がいる、という記事を読んだことがあります。それがもし事実なら、HIV禍をもヒトは切り抜けられることになります。生物の種はそのようにして生存し、また適応できる適性が選抜されて、進化へとつながってきたのです。多様性を認める、または受容するということこそが自然の摂理にかなったことなのです。

そういう自然の摂理に真っ向から敵対するのが「道徳」であり、道徳に権威を付与する主だったものはまず、「宗教イデオロギー」です。道徳は「あるべき姿」を画一的に強要し、信心深い集団は神の名の下にそれを人々に強要します。キリスト教圏では中世から近世初期に至るまで、同性愛性向は「逸脱」した「罪」であり、それは背徳であり、忌まわしい行為であり、死刑に値する行為でした(*)。




(*)「イスラエルの息子たちのだれも神殿男娼となってはならない。いかなる誓約のためにせよ、娼婦の賃金や犬(肛門交接者=男性の同性愛者、という説があるそうです、ものみの塔聖書冊子協会の解説ですが…)の代価を、あなたの神エホバの家に携えてきてはならない。それらは、そのどちらも、あなたの神エホバにとって忌むべきものである(申命記23:17-18)」。

「あなたがたは、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者(エホバの証人によると、姦淫は婚姻関係外交渉を特に指す、とのことです)、不自然な目的のために囲われた男、男同士で寝る者…はいずれも神の王国を受け継がないのです(コリント第一6:9-10)」。

「睾丸を打ち砕いて去勢された者、また陰茎を切り取った者はエホバの会衆に入ることは許されない。庶出(妾腹の生まれ)の子はエホバの会衆に入ることを許されない。庶出に属するものは十代目に至るまでもエホバの会衆に入ることを許されない(申命記23:1-2)」。

死刑に処すべし、という聖句は見つけ出せませんでした。確かあったと記憶しているんですが…。聖書の解説については、ブックマークにある「ジャガーの夢現(ゆめうつつ)」というブログの発信者にお尋ねになってみてください。聖書に精通されている方です。



わたしは一神教の宗教が嫌いです。たいてい、「鉄の規律」を強要するからです。人間を画一的な基準で「裁きだす」傾向が強いからです。自然界にはもともと「絶対」というものなどない、と強く強く信じています。絶対というものを固く信じる人は必ずといっていいほど、人間を選別します。個性や違いを容認しないのです。日本人は「普通」であることに強迫的にこだわる傾向が強いですが、それも個性や違いを容認しない考え方だと思います。上川議員は「フツウ」という基準なんて、それこそ移ろいやすいものだと主張されています。ご自分がマイノリティなので、自らも経験をふまえてこう訴えかけておられます。

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現代の性をめぐる価値観も国によってさまざまだ。

同性愛者の過激な排除が続いている社会がある一方で、異性間に限られていた婚姻制度を同性間にも拡大した社会もある。2001年、オランダで初めて同性間の婚姻ができるようになった。男性同士でも女性同士でも結婚できるように法が整備され、二年後、隣国ベルギーでも同じ法改正がなされた。さらに2005年夏、カナダとスペインがこれに続いた。スペインは同性愛に否定的なカソリックの国だが、サパテロ首相は同性婚の実現を公約の一つに掲げて当選し、その公約を守ったのである。

社会の中で何を「フツウ」とするのか、当たり前とするのかという規範は非常に多様で、同じ行為で死刑にされる国もあれば、認められ、祝福される国もある。平等な権利・尊厳とは何なのか、社会のルールはどうあるべきかという議論は、国や社会によってまったく異なるものなのだ。

オランダ、ベルギー、スペインなどのように制度を変える国がある一方で、同じ時代にあっても、日本ではそのような変化の兆しは見られない。だから多くの当事者たちは、自分のほんとうの気持ちを誰にも言えず、職場でも、家族や友達の前でも、常に嘘をつきつづけなければいけないというストレスを抱えて生きている。

「同性愛者同士、結婚しなくても一緒に暮らしていけるじゃないの」と思う人もいるかもしれない。たとえば日本では、年長者が親になり、年下が子になる養子縁組の手続きはとても簡単だ。書類一つで家族になれて、財産分与などの権利も保障される。それを婚姻の代わりに解決策とする同性愛者がいるのも確かだ。しかし、それはあくまでも代替策であって、ほんとうの解決策ではないはずだ。既存の異性愛だけを前提とした婚姻制度では平等な権利は保障されない。長年連れ添ってパートナーとしての関係を築いていても、同性間には何の権利もない。財産分与といった家族の権利もなければ、パートナーとしての社会的な認知も得られない。それがどんなに残酷なことか、わかってほしい。



私たちの人生の選択は、多様であるべきだ。婚姻という形を認められないのであれば、そのパートナーシップを保障する次善の策があってもいい選択肢の幅を広げていきたい。それには、社会の仕組みを知ることが必要だし、どう表現して働きかけるかによって結果はずいぶん違ってくる。

意識してつながって、社会の中にうねりをつくっていこう。


(上掲書より)

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上川さんは性転換手術によって女性になった人です。この本の第1章の扉に、選挙演説をする上川さんの写真がありますが、どうみても女性です。性転換手術は、性同一性障害の人のための治療法なのです。なぜ性を移行するのでしょうか。それは憲法学的には「幸福追求権」の範囲で考えられる人権問題である、ということです。

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性科学の村瀬幸治一橋大学講師は、「性転換手術は、人間の性は男女という単純な二分論では割り切れないものであって、従来の範疇に入りきらない子どもたちがいることを、教師が認識するきっかけにもなり朗報だ。…(略)…性の問題は、人間のアイデンティティーの、そして人権の問題である。手術を興味本位でとらえるのではなく、具体的な悩みを相談されることが多い保健室の養護教諭、教師らが生徒と共に学びあってゆく姿勢が必要だ」。

毎日新聞は、国内初の手術を受けたN氏が、支持グループを通じてマスコミ各社に寄せた手記を『 “心の性” -尊重して』という見出しをつけて、掲載した。

「…しかし、沖縄から北海道まで全国に私と同じ悩みを抱える当事者は数多くなり、その数は数千人と言われています。私たちが将来に希望をもって生きていけるようになるには、さまざまな問題の一刻も早い解決が必要です。

…法律面では、トランスセクシャル(性転換希望者)にとって、戸籍の性別の変更が認められないことが就職や結婚など、生活上の大きな壁になっています。不当解雇や昇進差別にあう人もいます。これらのことは日本国憲法が定める『幸福追求権(13条)』をはじめとする基本的人権を脅かすものです。性転換法の制定の検討も含めて、法的な整備が必要です。

教育面では、無理解や偏見から性的少数者である子どもたちが不登校になったり、いじめなどに苦しんでいます。多様な性の人がいることを授業で取り上げ、正しい知識を普及してほしいと思います。『心の性』を『身体の性』へ合わせることはできません。性同一性障害の子どもたちに男らしさ、女らしさを強いることは、精神的な虐待に等しいことです。どうか『心の性』を尊重してください。

そして最も望むことは、差異のある各々が互いに人格を認め合い、活かすことができる、多様性の共存が可能な社会が実現することです。これからのために私たちも努力しますが、多くの方々の協力を願ってやみません。

最後に報道関係者の方々も、長い間あたたかく見守ってくださり、ありがとうございました。今後も社会的な理解が深まるようご協力をお願いします」。


(「性同一性障害」/ 吉永みち子・著)

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これは、平成10年10月16日に行われた国内初の性転換手術に際しての、患者のコメントです。ここから伺えることは、もはや「性同一性障害」は「性的倒錯」ではないことが医学的、科学的に明らかになった以上、常識的な道徳観で偏見の対象にしてほしくない、するべきじゃない、という人権救済の訴えです。少数者であるという理由で、あるいはそれまでの科学的な根拠のない道徳観によって排除されたくない、排除してはならないという訴えです。わたしもそう思います。

日本は今、教育基本法「改正」に見られるように、道徳の国家による強制という反動潮流にありますが、さらに憲法改正に向けて、国民投票法の審議が大詰めに入っていますが、それは人の生き方の多様性を認めること、違いを受容するのではなく、違いを平定しようとするエホバの証人思考への舵取りとなっていますが、そんな潮流への強力な「抵抗勢力」としての主張ともなっていると思います。

上川さんの政治姿勢は、「小さな声、社会にとどけ!」というものです。上川さんが取り組んでおられるのは、役所の案内の表示が日本語だけなので、外国人の利用が困難になっていること、点字ブロックの不備、ひとり親対策の基本方針の実採用など、生活に密着した、しかも社会的にマイノリティーの立場にあって、しかも声を上げづらく感じている人たちの側に立った活動です。ご自身が性的マイノリティーであるという自覚と経験から、このような活動を行っておられるのです。これこそが政治ではないでしょうか。国民の生活のための政治ではないでしょうか。国家経済の成長神話という時代遅れの夢を追いかけるために、労働者をモノ扱いにして切り捨て、国民の生活も切り捨ててゆく、小泉-安倍路線の誇大妄想的で空想的な政治とはまったく精神態度が逆です。わたしたちのための国家であり、政治なのです。わたしたちは企業のための捨て駒として生まれてきたのではないのです。こんな時代に、上川さんのような方が政治の世界に身を投じられたのは、希望を持たせてくれます。わたしも、傍観者でいたくはありません。「変えてゆく勇気」には、政治参加のための効果的なノウハウが詳しく説明されています。ぜひ、みなさんに一読をお勧めしたいです。


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