本年も、ルナのブログを訪問してくださってありがとうございました。週1回程度のノロマな更新のブログなのですが、不思議とアクセスipがゼロになったことがありません。更新のないときも訪問してくださって、ほんとうに感謝しております。書きたいテーマがたくさんあるのに、なかなかブログのための時間が取れず、もどかしい思いです。でもめげずに、日本の近代史を追い、アメリカのキリスト教原理主義を追い、そうすることによってエホバの証人のファシズム体質をあらわにし、それを一人でも多くの方々に示してゆきたいと思っています。
このブログの本質的なテーマは、個人主義をどう自分の暮らしに活かしてゆくか、ということです。初めは「人間性回復のために」というカテゴリーを考えていたのですが、今では、それはこのブログのメイン・テーマになりました。日本の近代史から、日本が国民個人から選択の自由をどのように奪ってきたか、アメリカのキリスト教原理主義が同様に、どのようにそれを蹂躙してきたかを浮き彫りにしたいと目論んでいます。
わたしは、こうした人権蹂躙の発想は、基本的な部分に、精神医学的なアンバランス、もしくは未成熟があるということに注目しています。アリス・ミラーという精神科医が「魂の殺人」という書物を書きました。アドルフ・ヒトラーは被虐待児であって、それが独裁者の行動様式になって表れたという内容です。山県有朋、伊藤博文、などの明治の元老たちから岸信介まで、覇権的な思考を実行していった人たちにも、共通する要素があると踏んでいます。そういう側面を浮き彫りにしてゆきたいのです。
何分、力量不足で思うようには書けませんが、色んな文献を紹介し、皆さまが議論するときの材料にしていただけるなら、幸甚につきます。
今年は暮れになって、個人の選択の自由にとって痛烈な一撃が加えられました。教育の憲法、教育基本法が反動的に変更されてしまいました。国民は、マスコミによる情報操作によって、ことの重大性を十分に理解していない状況に置かれています。マスコミの責任は本当に重い。新聞をはじめ、マスコミは戦前のように、大規模な国家事変が起きるとこぞって国家側の宣伝屋に成り下がりましたが、現代にも国民を無知にさせておく装置になっています。わずかに、数社の出版社が細々とリベラルな灯火をかざしています。今年の最後に、そういう出版社のひとつ、「株式会社・金曜日」発行の「週刊金曜日」に掲載された記事から、二つの文章をご紹介します。
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1.剥き出しの資本主義
今年の特徴としてまず言えるのは、「裸の資本主義」というか、「むき出しの資本主義」が露わになったように感じます。かつて米国最大の自動車会社GMの会長が、「GMにとっていいことは米国にとってもいいことだ」と発言したことがありましたが、とにかく「大企業にとっていいことは日本にとっていいことだ」式の、財界の利害追及がきわめて露骨な形で全面的に突出した年でしたね。
日本では戦後、「政・官・財」の「鉄の三角形」が高度成長期を支えてきたことは否定できないでしょう。これで70年代の石油危機も乗り切ったわけですが、バブルの崩壊によってこの構造も崩れた。ところがその後に出現したのは、日本経団連に象徴される財界が主導し、それに政治家や官僚が乗るというやり方です。小泉内閣時代から財界がバックについてこの傾向を推進してきましたが、とくに今年は顕著になった。
いま財界が推進しているのも、文字通り「赤裸々」なものでしょう。だって、金利は事実上の「ゼロ金利」のままにしろとか、消費税を上げろと主張する一方で、法人税は減税しろと要求するんですから。もう見え見えの自分本位の利益追求を正面立ててやっている。 (奥村宏・おくむらひろし・経済評論家)
私は今年を振り返ると、「人間はみんな(生きる機会、権利については)平等だ」とか、「生命や人権は誰であっても尊重されるべきだ」といった戦後日本があたりまえのこととして大前提にしていた価値観が、ついに崩れ始めたという思いが強くします。たとえば北海道では夕張市が財政再建団体になりましたが、理由はいろいろあって、日本の資本主義経済の大きな構造転換の中で置き去りになったという面が大きい。ところが「自己責任原則」を押し出してバサッと処理されてしまう。しかも、それに対し、北海道民からはそんなにはっきりした抵抗すら出ているわけではないのですから。
それと財界に関しては、奥村先生(前出の奥村宏氏)が指摘されるようにひどいと思います。日本経団連の御手洗富士夫会長が来年正月に発表する将来構想「希望の国、日本」の原案が11日の夕刊に掲載されていましたが、私は読んで本当に驚くと同時に、非常に腹が立ちましたね。「あなたたちは金儲けしていればいいんであって、なんでこんなよけいな説教を国民にするんだ」と。ほんとうにふざけるなという感じです。
「愛国心」なんてあなたたちに言われたくないよ。自分たちはいっぱい儲けながら、減税してくれなんて勝手なことばかり要求して。おまけに労働法を無視して、残業代払わないための制度改革を「労働ビッグバン」とか称して、要するに「やらずぶったくり」を合法化しようというようなことまでやろうとしているじゃないか」とね。そんな連中に教育がどうの、「愛国心」がどうのなんて言われる義理はない。こういう財界の姿勢というのは、やはり比較的最近の現象ですよね。 (山口二郎・北海道大学大学院法学研究科教授)
1990年代末以降、バブル崩壊のツケを、財界は時の政権を使って下の層に押しつけていった。その結果、格差社会化が加速し、顕在した。98年、突然、自殺率35%増という事態がそれを示した。都市部、とくに東京とか大阪では、前年比で実に50%増なんです。つまりバブルが崩壊してからごまかしごまかしやってきたが、ついにごまかしきれなくて一気に矛盾が顕在化したのが98年の自殺増だったと思います。以後、年間自殺者が3万数千を超える水準がずっと続いていて、世界でも最悪です。
同時に格差のなかで生きていけないという思いの人が非常に顕在化していますね、あらゆるところで。…たとえばフリーターとかなんとかいって、少し否定的に取り上げられることが多いですが、若い人と話すと、彼らの思いではもう日本は「奴隷社会」だと言います。仮に会社で働けても、彼らが職を得るのは営業とか流通の職ですが、そこではちょっと成績をあげると、またノルマをあげられて仕事がかぶさってくる。もう、こうなると倒れるまで「エンドレス」になる。しかも身分は常勤職じゃなくて、契約社員とかパート常勤で働かされる。「そういうところでがんばっても自分が摩滅していくだけじゃないか」という思いが伝わってくるんです。そろそろそういったサラリーマンという名の「奴隷社会」に気づいて、それについていけないという人たちが顕在化し始めている。日本のサラリーマンは「自覚なき奴隷」ですから。
-インタビュア: なぜこうした現状に対して国民は怒らないのでしょう。野田さんは、戦前国民が、死を強制する国家に抵抗することも抗議することもなく唯々諾々としてそれに従い死んでいった歴史と、今日の企業社員を中心とした自殺の異常な増加の共通点を指摘していますね。
いや、すぐれて今日的な問題だと思いますよ。団塊の世代の大部分は…会社人間として生きてきたので、自分たちが行き詰るとそれを抗議として示すチャネル(経路、手段、の意)を持っていないのです。…彼ら自身が自分の権利を主張していく、というよりも、70年代から「モーレツ社員」として会社に過剰適応して生きてきたのにもかかわらず裏切られた、そういう(恨み節、すねる)思いのほうが非常に強い。
若者を見れば、とくに団塊ジュニアになると、結局、親の後を継ぐ形で「周囲に適応する」という生きかたを子どものころから必死になってしてきている。彼らの生きかた、対人関係は「摩擦回避」なんです。他者に対し、自分の意見を本気で言って議論をしたり、思いを伝えたりしたために起こる「摩擦」を前もって避ける。共通の情報、同じ漫画を読んでいるとか、同じ店を知っているとか、同じ服を着ている、そういうことでつながってゆく。好みと情報で(人間関係が)つながる傾向が強くなったのは80年代です。
そうやって生きてきたから、「どうせ世の中に出ても、自分は抑圧されてボロボロにされる」と気づいたからといって、抗議の声をあげるような経験も訓練もまったく積んでこなかったから、できない。
-インタビュア: 団塊の世代は人数が多いから競争原理のなかで生きてきた。そこで競争に勝つために多数派につくという心理があるかもしれませんね。団塊ジュニアもそういう親の姿勢を見て、反射的に多数派につこうというようなベクトルが働くのかもしれません。
戦後の経済を担い、権力を掌握したのは教育勅語で育った世代です。彼らが戦後の復興と社会基盤の形成を成し遂げた。団塊の世代の一部は、70年の闘争の後、そうした上の世代に「ごめんなさい」と言わないと会社に雇われないからということで転向して、いかに自分が会社に忠実であるかという「忠実ゲーム」をしてきた。抗議運動に加わらなかった多数派も、もちろん忠実ゲームに加わった。
会社人間が猛烈に働くというのは表向きであって、実は「24時間会社のことを考えています」というしっぽの振り合いをやり、出世をめざした。その子どもたちも、多数派というのは始終拡がったり縮んだりして勝手に動向するから、いつも周りを見て、自分が少数派にならないよう、勘を鋭くしなければならない。これが今の子どもたちの現状です。 (野田正彰・のだまさあき・評論家、精神科医、関西学院大学教授)
上記の野田教授のコメントを受けて:山口二郎教授:
確かに国民が怒らないどころか、「弱い人間というのは、自分の側に責任があるんだ」みたいな風潮が強くなりましたね。
以前なら自民党内で主流派として力があった田中派なんかは、いろいろ評価はあっても(=評判はよくなくても)、都市から恵まれない地方にカネを持ってくるのが政治だと考えていた。やり方が汚いとか、私利私欲を追求する手段であったという側面も確かにありましたが、「自由競争の結果を是正するために再分配するのが政治なんだ」という前提だったわけです。ところが小泉時代になってそれは決定的に崩れたのですが、一方で弱くなった立場の人も、あまり要求をしない。自己主張をしないという傾向が強くなった。
教育基本法の「改正」に賛成する議論の中で、要するに「権利ばっかり主張して、個人主義が強くなっている」なんて主張をする保守派がいるけれど、まったくとんでもない事実誤認ですよ。もともと(抗議できない国民に)権利の観念なんていうのはこれっぽっちもなかったんですから。人間の尊厳や権利をきちんと主張できる人間を私たちが育ててこなかったという悲しい現実がありますね。
-インタビュア: そうした日本の企業風土の「奴隷状態」をいいことに、さらに格差拡大、不平等拡大の社会をつくろうとしているのが、財界主導の小泉-安倍政権なのですね。
2.「週刊金曜日」編集部・北村肇氏による「編集後記」
今年はたびたび、斉藤貴男さんの著作(「機会不平等」)の一節が頭をよぎった。三浦朱門氏へのインタビューだ。 「できる者は百人にひとりでいい。やがて彼らが国を引っぱってゆきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」。当時、三浦氏は教育課程審議会会長だった。1%の「エリート」と99%の実直な「その他」。この発想はもともと、財界から生まれた。企業の中枢を担う人材以外は、使い捨ての「労働力」さえあればいい…。新自由主義とは結局、一種の奴隷制に過ぎない。かくして格差は限りなく進み、日本はついに、米国に続く貧困率ワースト2の国となった。
永田町に目を向ければ、新保守主義とやらが大手を振る。市民と国家の主従関係を逆転させ、主権在国をもくろむ。それは格差拡大への不満をナショナリズムで解消させようという、悪辣な企みであることはもはや隠しようがない。
----------------------------------------
「格差拡大への不満をナショナリズムで解消させよう」というのは、「国家」に個人を同一化させ、自らは不遇であっても、抗議をしたりせずに、国家(=大企業とそこに寄生する官僚・政治家たち、マスコミ人、芸能人、そして皇室の人々)の繁栄を誇りに思わせる、ということです。具体的な例を挙げましょう。
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過般佐倉の兵営に於いて招魂祭を行いし時、招かれし遺族中一人の老翁あり。親一人、子一人の身なりしに、其一子が不幸にも戦死したりとて初めは只泣く許りなりしが、此盛典(佐倉における招魂祭)に列するの栄に感じ、一子を失うも惜しむに足らずとて、後には大に満足して帰れりと云う。今若し大元帥陛下(天皇のこと)自ら祭主と為らせられて非常の祭典を挙げ給わんか、死者は地下に天恩の難有を謝し奉り、遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀う(こいねがう・請い願う、のことと思う)可し。多少の費用は愛む(おしむ)に足らず。くれぐれも此盛典あらんことを希望するものなり。
-「時事新報」/1895年11月14日付け論説。
大意: しばらく前に、千葉県の佐倉の兵営で招魂祭を行った際、そこに招かれた遺族の中にひとりのお爺さんがいた。このお爺さんは親一人、子一人の身だったが、そのひとり息子が不幸にも戦死したといって、最初は泣いてばかりいた。そのお爺さんがこの招魂祭に参加したところ、それを名誉に思い、晴れの場に昂揚して、自分の息子を失ったことも「惜しむに足りないことだった」といって大いに満足して帰っていった。
***
米国にはアーリントンがあり、ソ連にも、あるいは外国に行っても無名戦士の墓があるなど、国のために倒れた人に対して国民が感謝を捧げる場所がある。これは当然なことであり、さもなくして誰が国に命を捧げるか。
-中曽根康弘元首相、1985年靖国神社公式参拝のときのコメント。
(「国家と犠牲」/ 高橋哲哉・著)
命をなげうってでも(国家を)守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。そういう人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということですね。
-安部晋三・著/「この国を守る決意」より。
ルナ註:つまり、国家的に顕彰すれば、国民は自分の人生を放棄して国の政策・方針のために命をなげうつようになるだろう、国民の意志というのはそのようにして操作していくべきものだ、という意。拙文「世論操作:1941年の場合」を参照なさっていただければうれしいです。
(「安倍晋三の本性」/俵義文ほか週刊金曜日取材班・著)
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一人息子を失っても、「国家主義」がこのおじいさんの悲しみを癒したのです。新自由主義というのは、経済活動に国が干渉するな、という方針のことですから、本来国家主義と新自由主義というのは相矛盾するものなのですが、今現在進行している国家主義は「財界主導」なので、財界の都合の良いような仕方で「国家主義」が利用されているのです。商売人と言うのは自分の利益のためなら何でもあり、なんですね。
わたしたちは、自分の人生を豊かに生きるため、かのお爺さんのように、思考や感情まで国家=財界に操作されないようにするため、どのように自分を守れるのでしょうか。教育基本法が改定されてしまった今、彼らの手は憲法にまで伸びるでしょう。アメリカの力の下で外交をし、商売を続けてゆくために、どうしてもアメリカに評価されねばならないのです。そのためにも、戦争を辞さない国家アメリカと共に出兵できるようにしなければならないのです、彼らにとっては。
野田正彰教授のおっしゃるように、わたしたち自身が批判能力を奪われてしまいました。ですから、まず私たちが批判能力を取り戻し、自分の人生を自分でプロデュースできるようになってゆかねばならないとわたしは思うのです。
このブログの本質的なテーマは、個人主義をどう自分の暮らしに活かしてゆくか、ということです。初めは「人間性回復のために」というカテゴリーを考えていたのですが、今では、それはこのブログのメイン・テーマになりました。日本の近代史から、日本が国民個人から選択の自由をどのように奪ってきたか、アメリカのキリスト教原理主義が同様に、どのようにそれを蹂躙してきたかを浮き彫りにしたいと目論んでいます。
わたしは、こうした人権蹂躙の発想は、基本的な部分に、精神医学的なアンバランス、もしくは未成熟があるということに注目しています。アリス・ミラーという精神科医が「魂の殺人」という書物を書きました。アドルフ・ヒトラーは被虐待児であって、それが独裁者の行動様式になって表れたという内容です。山県有朋、伊藤博文、などの明治の元老たちから岸信介まで、覇権的な思考を実行していった人たちにも、共通する要素があると踏んでいます。そういう側面を浮き彫りにしてゆきたいのです。
何分、力量不足で思うようには書けませんが、色んな文献を紹介し、皆さまが議論するときの材料にしていただけるなら、幸甚につきます。
今年は暮れになって、個人の選択の自由にとって痛烈な一撃が加えられました。教育の憲法、教育基本法が反動的に変更されてしまいました。国民は、マスコミによる情報操作によって、ことの重大性を十分に理解していない状況に置かれています。マスコミの責任は本当に重い。新聞をはじめ、マスコミは戦前のように、大規模な国家事変が起きるとこぞって国家側の宣伝屋に成り下がりましたが、現代にも国民を無知にさせておく装置になっています。わずかに、数社の出版社が細々とリベラルな灯火をかざしています。今年の最後に、そういう出版社のひとつ、「株式会社・金曜日」発行の「週刊金曜日」に掲載された記事から、二つの文章をご紹介します。
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1.剥き出しの資本主義
今年の特徴としてまず言えるのは、「裸の資本主義」というか、「むき出しの資本主義」が露わになったように感じます。かつて米国最大の自動車会社GMの会長が、「GMにとっていいことは米国にとってもいいことだ」と発言したことがありましたが、とにかく「大企業にとっていいことは日本にとっていいことだ」式の、財界の利害追及がきわめて露骨な形で全面的に突出した年でしたね。
日本では戦後、「政・官・財」の「鉄の三角形」が高度成長期を支えてきたことは否定できないでしょう。これで70年代の石油危機も乗り切ったわけですが、バブルの崩壊によってこの構造も崩れた。ところがその後に出現したのは、日本経団連に象徴される財界が主導し、それに政治家や官僚が乗るというやり方です。小泉内閣時代から財界がバックについてこの傾向を推進してきましたが、とくに今年は顕著になった。
いま財界が推進しているのも、文字通り「赤裸々」なものでしょう。だって、金利は事実上の「ゼロ金利」のままにしろとか、消費税を上げろと主張する一方で、法人税は減税しろと要求するんですから。もう見え見えの自分本位の利益追求を正面立ててやっている。 (奥村宏・おくむらひろし・経済評論家)
私は今年を振り返ると、「人間はみんな(生きる機会、権利については)平等だ」とか、「生命や人権は誰であっても尊重されるべきだ」といった戦後日本があたりまえのこととして大前提にしていた価値観が、ついに崩れ始めたという思いが強くします。たとえば北海道では夕張市が財政再建団体になりましたが、理由はいろいろあって、日本の資本主義経済の大きな構造転換の中で置き去りになったという面が大きい。ところが「自己責任原則」を押し出してバサッと処理されてしまう。しかも、それに対し、北海道民からはそんなにはっきりした抵抗すら出ているわけではないのですから。
それと財界に関しては、奥村先生(前出の奥村宏氏)が指摘されるようにひどいと思います。日本経団連の御手洗富士夫会長が来年正月に発表する将来構想「希望の国、日本」の原案が11日の夕刊に掲載されていましたが、私は読んで本当に驚くと同時に、非常に腹が立ちましたね。「あなたたちは金儲けしていればいいんであって、なんでこんなよけいな説教を国民にするんだ」と。ほんとうにふざけるなという感じです。
「愛国心」なんてあなたたちに言われたくないよ。自分たちはいっぱい儲けながら、減税してくれなんて勝手なことばかり要求して。おまけに労働法を無視して、残業代払わないための制度改革を「労働ビッグバン」とか称して、要するに「やらずぶったくり」を合法化しようというようなことまでやろうとしているじゃないか」とね。そんな連中に教育がどうの、「愛国心」がどうのなんて言われる義理はない。こういう財界の姿勢というのは、やはり比較的最近の現象ですよね。 (山口二郎・北海道大学大学院法学研究科教授)
1990年代末以降、バブル崩壊のツケを、財界は時の政権を使って下の層に押しつけていった。その結果、格差社会化が加速し、顕在した。98年、突然、自殺率35%増という事態がそれを示した。都市部、とくに東京とか大阪では、前年比で実に50%増なんです。つまりバブルが崩壊してからごまかしごまかしやってきたが、ついにごまかしきれなくて一気に矛盾が顕在化したのが98年の自殺増だったと思います。以後、年間自殺者が3万数千を超える水準がずっと続いていて、世界でも最悪です。
同時に格差のなかで生きていけないという思いの人が非常に顕在化していますね、あらゆるところで。…たとえばフリーターとかなんとかいって、少し否定的に取り上げられることが多いですが、若い人と話すと、彼らの思いではもう日本は「奴隷社会」だと言います。仮に会社で働けても、彼らが職を得るのは営業とか流通の職ですが、そこではちょっと成績をあげると、またノルマをあげられて仕事がかぶさってくる。もう、こうなると倒れるまで「エンドレス」になる。しかも身分は常勤職じゃなくて、契約社員とかパート常勤で働かされる。「そういうところでがんばっても自分が摩滅していくだけじゃないか」という思いが伝わってくるんです。そろそろそういったサラリーマンという名の「奴隷社会」に気づいて、それについていけないという人たちが顕在化し始めている。日本のサラリーマンは「自覚なき奴隷」ですから。
-インタビュア: なぜこうした現状に対して国民は怒らないのでしょう。野田さんは、戦前国民が、死を強制する国家に抵抗することも抗議することもなく唯々諾々としてそれに従い死んでいった歴史と、今日の企業社員を中心とした自殺の異常な増加の共通点を指摘していますね。
いや、すぐれて今日的な問題だと思いますよ。団塊の世代の大部分は…会社人間として生きてきたので、自分たちが行き詰るとそれを抗議として示すチャネル(経路、手段、の意)を持っていないのです。…彼ら自身が自分の権利を主張していく、というよりも、70年代から「モーレツ社員」として会社に過剰適応して生きてきたのにもかかわらず裏切られた、そういう(恨み節、すねる)思いのほうが非常に強い。
若者を見れば、とくに団塊ジュニアになると、結局、親の後を継ぐ形で「周囲に適応する」という生きかたを子どものころから必死になってしてきている。彼らの生きかた、対人関係は「摩擦回避」なんです。他者に対し、自分の意見を本気で言って議論をしたり、思いを伝えたりしたために起こる「摩擦」を前もって避ける。共通の情報、同じ漫画を読んでいるとか、同じ店を知っているとか、同じ服を着ている、そういうことでつながってゆく。好みと情報で(人間関係が)つながる傾向が強くなったのは80年代です。
そうやって生きてきたから、「どうせ世の中に出ても、自分は抑圧されてボロボロにされる」と気づいたからといって、抗議の声をあげるような経験も訓練もまったく積んでこなかったから、できない。
-インタビュア: 団塊の世代は人数が多いから競争原理のなかで生きてきた。そこで競争に勝つために多数派につくという心理があるかもしれませんね。団塊ジュニアもそういう親の姿勢を見て、反射的に多数派につこうというようなベクトルが働くのかもしれません。
戦後の経済を担い、権力を掌握したのは教育勅語で育った世代です。彼らが戦後の復興と社会基盤の形成を成し遂げた。団塊の世代の一部は、70年の闘争の後、そうした上の世代に「ごめんなさい」と言わないと会社に雇われないからということで転向して、いかに自分が会社に忠実であるかという「忠実ゲーム」をしてきた。抗議運動に加わらなかった多数派も、もちろん忠実ゲームに加わった。
会社人間が猛烈に働くというのは表向きであって、実は「24時間会社のことを考えています」というしっぽの振り合いをやり、出世をめざした。その子どもたちも、多数派というのは始終拡がったり縮んだりして勝手に動向するから、いつも周りを見て、自分が少数派にならないよう、勘を鋭くしなければならない。これが今の子どもたちの現状です。 (野田正彰・のだまさあき・評論家、精神科医、関西学院大学教授)
上記の野田教授のコメントを受けて:山口二郎教授:
確かに国民が怒らないどころか、「弱い人間というのは、自分の側に責任があるんだ」みたいな風潮が強くなりましたね。
以前なら自民党内で主流派として力があった田中派なんかは、いろいろ評価はあっても(=評判はよくなくても)、都市から恵まれない地方にカネを持ってくるのが政治だと考えていた。やり方が汚いとか、私利私欲を追求する手段であったという側面も確かにありましたが、「自由競争の結果を是正するために再分配するのが政治なんだ」という前提だったわけです。ところが小泉時代になってそれは決定的に崩れたのですが、一方で弱くなった立場の人も、あまり要求をしない。自己主張をしないという傾向が強くなった。
教育基本法の「改正」に賛成する議論の中で、要するに「権利ばっかり主張して、個人主義が強くなっている」なんて主張をする保守派がいるけれど、まったくとんでもない事実誤認ですよ。もともと(抗議できない国民に)権利の観念なんていうのはこれっぽっちもなかったんですから。人間の尊厳や権利をきちんと主張できる人間を私たちが育ててこなかったという悲しい現実がありますね。
-インタビュア: そうした日本の企業風土の「奴隷状態」をいいことに、さらに格差拡大、不平等拡大の社会をつくろうとしているのが、財界主導の小泉-安倍政権なのですね。
2.「週刊金曜日」編集部・北村肇氏による「編集後記」
今年はたびたび、斉藤貴男さんの著作(「機会不平等」)の一節が頭をよぎった。三浦朱門氏へのインタビューだ。 「できる者は百人にひとりでいい。やがて彼らが国を引っぱってゆきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」。当時、三浦氏は教育課程審議会会長だった。1%の「エリート」と99%の実直な「その他」。この発想はもともと、財界から生まれた。企業の中枢を担う人材以外は、使い捨ての「労働力」さえあればいい…。新自由主義とは結局、一種の奴隷制に過ぎない。かくして格差は限りなく進み、日本はついに、米国に続く貧困率ワースト2の国となった。
永田町に目を向ければ、新保守主義とやらが大手を振る。市民と国家の主従関係を逆転させ、主権在国をもくろむ。それは格差拡大への不満をナショナリズムで解消させようという、悪辣な企みであることはもはや隠しようがない。
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「格差拡大への不満をナショナリズムで解消させよう」というのは、「国家」に個人を同一化させ、自らは不遇であっても、抗議をしたりせずに、国家(=大企業とそこに寄生する官僚・政治家たち、マスコミ人、芸能人、そして皇室の人々)の繁栄を誇りに思わせる、ということです。具体的な例を挙げましょう。
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過般佐倉の兵営に於いて招魂祭を行いし時、招かれし遺族中一人の老翁あり。親一人、子一人の身なりしに、其一子が不幸にも戦死したりとて初めは只泣く許りなりしが、此盛典(佐倉における招魂祭)に列するの栄に感じ、一子を失うも惜しむに足らずとて、後には大に満足して帰れりと云う。今若し大元帥陛下(天皇のこと)自ら祭主と為らせられて非常の祭典を挙げ給わんか、死者は地下に天恩の難有を謝し奉り、遺族は光栄に感泣して父兄の戦死を喜び、一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを冀う(こいねがう・請い願う、のことと思う)可し。多少の費用は愛む(おしむ)に足らず。くれぐれも此盛典あらんことを希望するものなり。
-「時事新報」/1895年11月14日付け論説。
大意: しばらく前に、千葉県の佐倉の兵営で招魂祭を行った際、そこに招かれた遺族の中にひとりのお爺さんがいた。このお爺さんは親一人、子一人の身だったが、そのひとり息子が不幸にも戦死したといって、最初は泣いてばかりいた。そのお爺さんがこの招魂祭に参加したところ、それを名誉に思い、晴れの場に昂揚して、自分の息子を失ったことも「惜しむに足りないことだった」といって大いに満足して帰っていった。
***
米国にはアーリントンがあり、ソ連にも、あるいは外国に行っても無名戦士の墓があるなど、国のために倒れた人に対して国民が感謝を捧げる場所がある。これは当然なことであり、さもなくして誰が国に命を捧げるか。
-中曽根康弘元首相、1985年靖国神社公式参拝のときのコメント。
(「国家と犠牲」/ 高橋哲哉・著)
命をなげうってでも(国家を)守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。そういう人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということですね。
-安部晋三・著/「この国を守る決意」より。
ルナ註:つまり、国家的に顕彰すれば、国民は自分の人生を放棄して国の政策・方針のために命をなげうつようになるだろう、国民の意志というのはそのようにして操作していくべきものだ、という意。拙文「世論操作:1941年の場合」を参照なさっていただければうれしいです。
(「安倍晋三の本性」/俵義文ほか週刊金曜日取材班・著)
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一人息子を失っても、「国家主義」がこのおじいさんの悲しみを癒したのです。新自由主義というのは、経済活動に国が干渉するな、という方針のことですから、本来国家主義と新自由主義というのは相矛盾するものなのですが、今現在進行している国家主義は「財界主導」なので、財界の都合の良いような仕方で「国家主義」が利用されているのです。商売人と言うのは自分の利益のためなら何でもあり、なんですね。
わたしたちは、自分の人生を豊かに生きるため、かのお爺さんのように、思考や感情まで国家=財界に操作されないようにするため、どのように自分を守れるのでしょうか。教育基本法が改定されてしまった今、彼らの手は憲法にまで伸びるでしょう。アメリカの力の下で外交をし、商売を続けてゆくために、どうしてもアメリカに評価されねばならないのです。そのためにも、戦争を辞さない国家アメリカと共に出兵できるようにしなければならないのです、彼らにとっては。
野田正彰教授のおっしゃるように、わたしたち自身が批判能力を奪われてしまいました。ですから、まず私たちが批判能力を取り戻し、自分の人生を自分でプロデュースできるようになってゆかねばならないとわたしは思うのです。