Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

故障のため・・・

2008年06月22日 | 一般
PC故障のため、しばらくお休みします。
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違憲立法審査権、裁判所は人権保障の最後の砦…だと思う^^

2008年06月16日 | 「市民」のための基礎知識
「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する (日本国憲法前文)」。

現行憲法には「民主主義」という言葉は書かれていませんが、この文章が、日本は国民の権威によって国民の福利を達成し、増進させてゆく社会をめざしていることを表現しています。これは民主主義のエッセンスです。

ただ、日本の民主主義は「間接民主政」をとることにしました。前文に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動する」と定められているのです。国民が選挙によって代表者を選び、その代表者たちが、少数の意見をも十分に審理し、理性的な議論を尽くし、譲歩できる点は譲歩し、できるだけ多くの意見や要望を反映する結論を引き出し、最終的に多数決原理によって決定させるというのがそのやりかたです。

しかし、現実にはこのようには機能していません。1999年の国旗国家法から小泉時代のいわゆる「構造改革」路線の諸立法、安倍政権による教育基本法「改正」、テロ特措法延長と、自民党の手法は「理性的な議論を尽くす」どころか、一定の時間議論らしき茶番を演じたあと(自民党のシンパばかりを集めた審議会を組織するなどの茶番)、数の力でいやおうなく衆院通過、という、いわゆる「強行採決」を取るのです。反対意見を考慮して譲歩しようとはしないのです。しかし、このような強行採決して採択された立法も、憲法の規定を形式的に踏襲している以上、「民主的に決められた」として正当化されてしまいます。しかし、内実は民主主義の手順を無視するもので、それは単なる「暴挙」でしかないのです。


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代表者の多数が出した結論は、常に正しい内容であるという保証はありません。立憲主義の目標は、「個人の尊厳」の保障ですが、民主主義によって、個人の自由・権利を侵害する法律が制定されてしまうことも考えられます。

憲法とは、このような民主主義の暴走や誤りに一定の枠をはめようとするものなのです。国民投票も誤まる可能性がある、さらに代表者も誤まる可能性がある、ということを前提にして組み立てられたのが、憲法によって個人の尊厳を保障するという立憲主義の原理です。

民主主義と立憲主義の関係は、現実政治における「多数決原理による意思決定」と「個人の自由の尊重」との緊張関係としてとらえなければなりません。



(「憲法への招待」/ 渋谷秀樹・著)

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そこで裁判所は、多数決原理という民主主義的手順によって決められた法律を無効とする判断を下す権限を持つことになりました。国民の代表によって決められた法律をしかし、裁判所が無効にするとしたら、それは民主主義との対決的な態度ではないのでしょうか。特に日本の裁判官は民主主義的な手続きで選任されるのではないわけでもありますし。ただ日本国憲法では裁判所の違憲審査権に根拠を与えています。1945年に制定された憲法ですから、19世紀のアメリカで違憲審査権をめぐって行われた論争(*)を念頭に置いたからです。

(*)
当時アメリカ憲法には違憲審査権の規定が明文化されていなかったので、民主主義の原理によって立てられた立法を司法が無効認定することの問題性が議論されたのだそうです。事実、この問題は憲法理論上はかなりの難問であるということらしいです。



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違憲審査権の正当性は、アメリカ合衆国における理論状況を参考に、いくつかの立場から説明できます。



第一に、民主主義との矛盾はないとする立場の議論があります。

裁判所の違憲審査権によって、たとえば、政治活動の自由を制約する法律を違憲としたり、選挙権が平等になるようにしたりして、国民の意見が国政の場に正しく反映されるようにできる。つまり民主主義のプロセスが正常に機能するようにするものであるという説明です。

また、裁判所の違憲審査権の行使は、他の政治部門(=立法府と行政府)とのダイナミックな統治過程の展開の一局面であり、民主主義の究極的な理想をめざすという点で一致しているとも説明されたりします。



第二に、民主主義を統治原理として肯定しながらも、ときにはそれが正常な営みから逸脱することがあるとして、それへのブレーキの役割を裁判所に与えたという議論です。

裁判所を政治と違う「理の場」ととらえたうえで、法秩序や法原理の維持・貫徹が期待される法原理機関としての裁判所には、政治のもつ「非情さ」を法原理の枠に封じ込め、政治の「歪み」を正すことが求められます。つまり、裁判所が自由主義的性格をもつことに、違憲審査権の正統的根拠を求めようとするのです。




(「憲法への招待」/ 渋谷秀樹・著)

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民主主義が採用する多数決原理は暴走してしまうと(最近の自民党政治のように)、個人の自由、基本的人権の保護規定を蹂躙してしまう可能性があり、現代の日本人は多数決原理の暴走により、生存権さえ脅かされているのです。しかも世耕&竹中&小泉という現代のヒットラー&ゲッペルストリオの巧妙な宣伝により、国民自ら、人権を踏みにじる法律にやんやと手をたたくようにさえなって、人権蹂躙法が制定されてしまっているのです。

立憲主義というのは個人の自由と幸福に生きる権利をもっとも大切なものとみなす立場から、憲法を制定して国家権力を束縛しようとする、「人類の多年にわたる」知恵です。多数決原理が暴走すると、現在の日本やアメリカのように国民個人個人のそういう人権が蹂躙されてしまう可能性もあるのです。そこで違憲審査が振るわれるのですが、しかし民主主義の手法で採択された法律を強制的に無効にするという裁判所の行動は民主主義の原理と衝突することになります。日本国憲法は13条や25条で人権規定をおいていますから、多数決でこの人権を蹂躙する法律が通過してしまった場合には、基本的人権を守るために、立憲主義の原理のほうに重きがおかれるのです、すなわち違憲立法審査です。


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国会と内閣などは、民主主義の原理に基盤を置く機関であり、裁判所は、憲法裁判においては、立憲主義の原理にその基盤を置く機関です。違憲審査権は、民主主義によっても覆すことのできない価値を守るためにある。

つまり、憲法によって保障された権利や自由が、民主主義の原理によって侵犯されることを防ぐために、裁判所に与えられたととらえれば、民主主義的正統性を裁判所がもたなくても、その権限を行使して法律を違憲・無効とすることの正統性の基盤として説明することができるでしょう。



(上掲書より)

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もっとも、立川のビラまき裁判の結果を見れば、人権保障の最後の砦も…

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吉野弘さんの詩集から…

2008年06月08日 | 一般
岩が



岩が しぶきをあげ
流れに逆らっていた。

岩の横を 川上へ
強靭な尾を持った魚が 力強く
ひっそりと 泳いですぎた。

逆らうにしても
それぞれに特有な
そして精いっぱいな
仕方があるもの。

魚が岩を憐れんだり
岩が魚を卑しめたりしないのが
いかにも爽やかだ。

流れは豊かに
むしろ 卑屈なものたちを
押し流していた。



吉野弘・詩

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雄々しく流れに抵抗する岩と、しなやかに流れを登ってゆく魚。どちらも自分のやり方を高めて、相手を否定しない、と吉野さんは主張されました。簡潔でわかりやすく、美しい表現。でもこの主張は重厚ですね。

世の中に対して、体制に対して、権威に対して、異議を唱える人々は多い。出版物を発行する人たちはたいてい学者だったり、政治家だったり、官僚だったり…、専門家が多い。でも無名の市民も声を上げている。カルト宗教の被害者の場合などはとくにそう。精いっぱい自分にやれる仕方で声を上げる。

でも時に愚かな人たちがいて、その人たちは互いに対して競争心をあらわにする。細かなことを探し出して議論を吹っかける。本筋を読み取らないで、間違いを探し出して教え諭す。自分の崇拝する偉人をこちらも崇拝するようにコントロールしようとする、こちらの思考や信条をあからさまに否定することによって。

そういう人たちは自分のイメージや評判のために、 “抗議すること” を利用する。左翼はかっこいいとか、「抵抗」がもつそんなイメージで共産主義を称揚したりする。共産主義は個人を全体の前に押しのけさせるものなのに。左翼が人間の解放を主張するなんてとんでもない偽装だ。「サヨク」はだから欺瞞的。まだ「ウヨク」のほうが誠実だ。自分の未熟さから来る不安に忠実だから。

カルト宗教の被害者にも困った人たちがいる。傷ついたもの同志が集まって、そこでまたカルトの集会を再演する。今度は傷ついた人の中の自意識過剰な人が「長」になって、指導を行う。そこへ別の寂しい人が対抗馬としてやってきて論争を吹っかける。たいていは「ことばじりをとらえる」人格攻撃。単純に相手を否定しあうだけの不毛な口論。中には弱っている人の足元につけこんで、専門知識を持っている外部の人間がやってきて、解放者になろうとする。

みんな、自分というアイデンティティを持たない、「透明な」人たち。他人を教え諭し、他人を自分の思い通りに動かし、他人に賞賛させることで、アイデンティティを得ようとする寂しい人たち。

そういう卑屈な人たちこそ、流れに押し流されてしまって、季節が一巡りするともうどこにもいない。



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動詞「ぶつかる」





ある朝
テレビの画面に
映し出された一人の娘さん
日本で最初の盲人電話交換手

その目は
外界を吸収できず
光を 明るく反映していた
何年か前に失明したという その目は

司会者が 通勤ぶりを紹介した
「出勤第一日目だけ お母さんに付き添ってもらい
そのあとは
ずっと一人で通勤していらっしゃるそうです」

「お勤めを始められて 今日で一ヶ月
すしづめ電車で片道小一時間…」
そして聞いた
「朝夕の通勤は大変でしょう」

彼女が答えた
「ええ 大変は大変ですけれど
あっちこっちに ぶつかりながら歩きますから、
なんとか…」

「ぶつかりながら…ですか?」と司会者
彼女は ほほえんだ
「ぶつかるものがあると
かえって安心なのです」



目の見える私は
ぶつからずに歩く
人や物を
避けるべき障害として

盲人の彼女は
ぶつかりながら歩く
ぶつかってくる人や物を
世界から差しのべられる荒っぽい好意として

路上のゴミ箱や
ボルトの突き出ているガードレールや
身体を乱暴にこすって過ぎるバッグや
坐りの悪い敷石や焦々(いらいら)した車の警笛

それはむしろ
彼女を生き生きと緊張させるもの
したしい障害
存在の肌ざわり

ぶつかってくるものすべてに
自分を打ち当て
火打ち石のように爽やかに発火しながら
歩いてゆく彼女



人と物との間を
しめったマッチ棒みたいに
一度も発火せず
ただ 通り抜けてきた私

世界を避けることしか知らなかった私の
鼻先に
不意にあらわれて
したたかにぶつかってきた彼女

避けようもなく
もんどり打って尻もちついた私に
彼女は ささやいてくれたのだ
ぶつかりかた 世界の所有術を

動詞「ぶつかる」が
そこに いた
娘さんの姿をして
ほほえんで

彼女のまわりには
物たちが ひしめいていた
彼女の目配せ一つですぐにでも唱い出しそうな
したしい聖歌隊のように




吉野弘・詩

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わたしはこの詩にいちばん感動しました。

傷つくことを怖れて挑戦をやめる。
傷つくことを怖れて人を避ける。

うまい汁を吸えるから、強い方につく。
不公正なことや、権力の濫用があっても、見て見ぬふり。

カルト宗教にいたときはこんなふうにふるまっていたわたし。

優雅によけることを誇らしげに語っていた日々。
ずる賢くふるまうことが高く評価されていた日々。
「勝ち馬に乗れればそれでいいのさ」とうそぶいていた日々。
でもそんなときのわたしは いつも世の中を斜めにしか見れなかった。

きっと 相手もこんなふうに考えてるに違いない、そういうふうにしか思えなかった。



失明した彼女はぶつかることを怖がらない。
ぶつかってこけちゃうことを恥ずかしがらない。
ぶつかることから彼女は「知る」。
ぶつかることで彼女は「理解する」。

わたしは勘違いしていた。
うまくよけれるから誇れるんじゃない、失敗しなかったからかっこいいんじゃない、
そう、誇りとは知ること、理解することから生まれてくるものだった!
そしてそれは、ぶつかってゆくことからはじまるのだった!

ぶつかることは世界を所有しようとすること、
生きるということは、ぶつかってゆくということ。

よけることに上手な人にとって、世界は狭くて、危険がいっぱい。
怖れずにぶつかってゆく人にとって、世界は広く、興味にあふれてる。


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資料: EUと死刑

2008年06月01日 | 一般
以下の文章の出典はこちら


欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています



欧州連合(EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人に当てはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。


このように、死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。

人権的観点からの理由に加えて、死刑には無実の人の生命を奪ってしまう危険が内包されています。私たちの住む世界は不完全だからです。人間は間違いを犯すものです。裁判の当事者である検察官や裁判官、陪審員であっても、既決囚を赦免することのできる政治家であっても、絶対に間違いを犯さないという保証はありません。にもかかわらず、死刑はいったん執行されれば取り返しがつきません。屍を無罪とし、生還させることはできないのです。


1983年から90年にかけて、4人の日本人が冤罪により死刑判決を受け、再審の後、釈放されました。米国では過去12年間に116人の死刑囚が、累計にして1,000年を獄中で過ごした後、死刑執行を免れました。


何のために刑罰を科すのかという観点からすれば、死刑は刑罰でもなければ、明らかに再教育でもなく、復讐にすぎません。犯罪者に刑罰を科すことの目的は、その人に自らの過ちを理解させ、自責の念を育み、その人物を更生させ、最終的には社会復帰させることにあります。社会復帰がかなわない人——多くの場合、当人の精神状態のためですが——に限って社会から隔離すべきでしょう。死刑宣告では、刑罰の究極的目標が果たせないのです。


さらに、「死刑のない世界地図」で色分けされた死刑廃止国と存置国の状況を比較しても、他の刑罰に比べて死刑の犯罪抑止力が高いことは証明できません。欧州では、死刑廃止後に重大犯罪が激増したという事実はありませんでした。




■死刑廃止に向けたEUの具体的な取り組み


EUの加盟国はすべて死刑を廃止しており、死刑廃止はEU加盟の条件でもあります。2002年5月以降は全加盟国が、戦時中を含むすべての状況における死刑の完全廃止を規定した欧州人権条約の第13議定書の署名国となっています。


1998年にEUは、その人権政策の一環として、全世界で死刑制度を廃止するために死刑反対運動を強化することを決定しました。EUは死刑廃止への第一歩としてモラトリアム(死刑執行停止)を導入すること、あるいは、少なくとも死刑の適用を減らすことを求めています。また、死刑が執行される場合でも、一定の最低基準を満たし、透明性のある手続きで行われることを要請しています。この目標に向かって、EUは具体的な政策指針を作成しました。 


EUは、日本を含む、死刑制度をもつすべての国との対話において、この問題を取り上げています。こうした対話は、しばしば「デマルシュ」という外交的な働きかけを通じて、特にある国の死刑に関する政策に変化が見られる時に行われます。例えば、正式なあるいは事実上のモラトリアムが解除される可能性がある場合や、死刑制度が法的に導入または再導入される場合、あるいは、前向きな動きとして死刑制度廃止に向けた措置が取られた場合などです。相手国の政府が対話に応じようとしない場合には、対話を開始することも重要な目標となります。


次善の策としてEUは、死刑存置国に対し、次の最低基準を遵守するよう働きかけています。

  • ①死刑は、極めて重大で計画的な犯罪にのみ適用すること
  • ②死刑は、犯行の時点で死刑によって罰せられることが規定されていた犯罪に対してのみ適用し、より軽い刑罰が規定されていた場合には、その刑罰を適用すること
  • ③死刑は、犯行の時点で18歳未満の青少年、妊婦、出産後間もない母親、精神障害者には適用しないこと
  • ④死刑の適用には、明白で説得力のある証拠が必要であり、被告人が法的弁護を受けられる公正な裁判が行われること
  • ⑤死刑を宣告された者が、異議申し立ておよび減刑を求める権利を持つこと
  • ⑥死刑は、可能な限り最小限の苦痛を伴う方法で執行されること



EUは、国連人権委員会をはじめとする多国間のフォーラムでも積極的に活動しています。1999年に国連人権委員会は、EUの発議に基づき死刑問題に関する決議を採択しました。同決議は、市民的および政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書の批准を各国に呼びかけるものです。この選択議定書の目標は、死刑を廃止することであり、死刑がいまだ廃止されていない国においては、最も重大な犯罪にのみ死刑が適用されるよう、またその国の政府がモラトリアムを導入するよう導くことにあります。


1999年以来EUは、ジュネーブで開催される国連人権委員会のすべての会合で死刑に関する決議を提出してきました。直近の2005年3月の決議は、前回の決議より多くの賛成票を得て採択されました。この決議も、死刑存置国に対し、死刑の廃止または執行停止を求め、国連経済社会理事会が1984年に採択した「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する決議」を遵守するよう呼びかけています。


欧州議会もまた、長年にわたり死刑制度に反対しており、国際的な死刑反対運動に積極的に関与しています。この立場は、欧州議会の決議や人権に関する年次報告書で再確認されています。


さらに、EUは欧州民主主義・人権イニシアティブによるプロジェクト支援などを通じて、非政府組織(NGO)とも協力して活動を行っています。


死刑廃止に対するEUのコミットメントは、2000年12月のニース欧州理事会(EU首脳会議)で宣言されたEU基本権憲章でも再確認されています。EU基本権憲章には、すべての人が有する生命に対する権利と死刑の禁止が盛り込まれています。


「あらゆる人は生命に対する権利をもつ。何人も死刑を求刑され、または執行されてはならない(第II条2)。何人も、死刑、拷問又はその他の非人道的もしくは尊厳を冒すような処遇もしくは刑罰を受けるであろう重大な危険がある国へ、退去、追放または引き渡されてはならない(第II条19)」




■EUから日本へのメッセージ


EUの死刑廃止政策は、特に日本と米国に向けられています。この2大民主国家は、EUと多くの価値を共有しており、通常は国内外で人権尊重に対するコミットメントを明確に主張しています。


死刑廃止の是非は、世論調査によって決めるべき問題ではありません。凶悪犯罪の発生直後とあってはなおさらのことです。死刑制度の廃止は、国家としての主義の問題です。ひとつの社会を統括する政府には、この問題に関する議論の舵取りを行う責任があります。根強い偏見に賛同したり、死刑執行にまつわる秘密主義を助長したりすべきではありません。それより1日も早く、透明性を高めるための自由な討論を開始することが求められます。日本政府は、この問題が公開の場で偏見なしに議論されるよう、イニシアティブを取るべきです。


そのような議論を可能にするために、また、日本でも無実の人に有罪判決が下されたことがある点を考慮して、EUは日本に対し、死刑廃止への第一歩として、1993年に解除された事実上のモラトリアムを再導入するよう要請します。それがかなわなければ、少なくとも、死刑執行の際に一定の最低基準を遵守するよう求めます。死刑確定者のリストから任意に選び出し、その家族にも弁護士にも事前に通知することなく、絞首刑という残酷な方法で刑を執行することは、EUが防ぎたいと考える最低基準違反の一例です。


もし、世界で最も尊重されている人権機構のひとつである欧州評議会がかねてからの警告*を実行に移し、日本のオブザーバー資格を取り消すことになれば、とても残念なことになります。欧州評議会は正しくも「現代文明社会の刑罰制度には、死刑を合法的に位置づける場所はない」との立場をとっています。EUは、日本が今一度行動を起こし、「死刑のない世界地図」に示されている、死刑制度廃止を実現した大多数の国々の仲間入りをすることを強く願っています。






 
欧州評議会の議員会議は2001年6月、日本および米国が2003年1月までに死刑の執行を停止し、死刑廃止に向けた措置を取らない場合には、欧州評議会全体における両国のオブザーバー資格を問題にする旨の決議を採択した。欧州評議会のオブザーバー国で、死刑を存置しているのは日本と米国のみである。

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