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Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

給油活動-継続しなければ日本は重大な危機を迎えるか

2007年10月28日 | 一般
福田総理は、いえ、自民党は給油活動を続けなければ、日本は国際社会で責任ある立場を保てないから、何が何でもテロ特措法新法を通過させたいと、唾をとばして主張しています。国民の間でも一部共感を得てきているようです。でも本当に給油活動を続けなければ、日本は多大の損失を被るのでしょうか。

「世界」の最新号に「自衛隊洋上給油活動、どう考えるべきか」という特集が組まれていました。その中に視点の冷静な投稿記事がありましたので、これをご紹介します。自民党のせっぱ詰まった演出に乗せられないようにするためにも、ぜひ知っておきたい情報です。書いたのは「軍事ジャーナリスト、田岡俊次」という方です。

この投稿記事の出だしはこうなっています。

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日本の補給艦が引き上げた場合、「米国人の対日感情は悪化し、日本は国際社会から孤立、日米同盟も危うくなる」と外務省や自民党、一部の新聞は説いていた。従来も「思いやり予算」の削減などの議論が出るたび、対米追従主義者は同じことを唱えてきたが、これは「お布施をしないと地獄に落ちる」というオウム真理教のお告げに似ている。

だがもし給油新法が成立しなくても、“ハルマゲドン(終末的破局)” にいたることは以下の理由からまずありえない。


(「『給油をやめると日米同盟は危うい』は本当か?」/ 田岡俊次/ 「世界」2007年11月号より)

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その第一の理由は、日本の軍事的プレゼンスの認知度は極端に低い、ということです。田岡俊次さんはこのように指摘しておられます。「給油を受けたことのある艦のクルーや直接の担当者を除けば、アメリカでもパキスタンでも、日本の補給艦が6年間アラビア海に出ていることを知る人は稀だ」(同上記事より)。

イギリスの国際戦略研究所が刊行している『ミリタリー・バランス』という年間があるそうなんですが、それは各国の軍事力や部隊の展開状況を報告しているのだそうです。それによっても、アフガニスタンに駐屯している外国軍については「ルクセンブルグ10名」ということろまでは詳述していても、「公海上の日本艦についての記述はない(同)」のだそうです。

日本が給油を終了する可能性が上ってきてようやく、米下院は例の「感謝決議」を行いました。日本に撤退されたくなかったからです。「このときはじめて日本も参加していることを知った(米議会の)議員がほとんどだろう(同)」。

「国連安保理も9月19日にアフガニスタンの『国際治安部隊』の任務延長の決議の前文に、米国主導の対テロ作戦、『不朽の自由』作戦への多くの国々の貢献に謝意を表する文言を入れた。これは日独政府の働きかけに応じたもので、ロシアは『いくつかの国の国内事情が優先されている』と反発して棄権し、異例の形での可決となった。これは日本では大きく報道されたが、米国では右寄りの弱小紙ワシントン・タイムズ紙に小さい記事が出ただけだったようだ」。

日本の給油活動がこれほど認知度が低いのですから、アフガニスタンでの活動に日本が決定的な影響を及ぼすとは思えないでしょう。事実、そうなのです。同記事によると、「パキスタン海軍は6隻のフリゲートに対し、中国製の福清(フーチン)級補給艦(21750トン)など大型二隻と小型給油艦3隻を保有し、日本が護衛艦56隻に対し、大型補給艦5隻であるのに比較しても分かるように、十二分の給油能力がある。アメリカは20隻の補給艦を持ち、自国、他国の艦艇に給油が可能だ。油の質でも差がなく、給油能力にも不足がない以上、日本の給油活動が『不可欠』とする根拠はない」。

さらに、「主たる哨戒海域はパキスタン海軍の主要基地グワダール港の前面だが、日本の補給艦はアラビア半島の南西沖で待機しているから、(パキスタン艦艇が)給油するには母港に戻る方がずっと近いのだ。単に『日本がタダで油を入れてくれればうれしい』というにすぎない」。あきらかに日本の給油活動が重要な位置にあるとは言えない状況なのです。つまり、日本が撤退しても哨戒活動には何の影響もない、ということです。




次に、アメリカの議会でも日本の給油活動への期待はそんなに大きくないし、またアメリカでは、「政府が外国と合意したことが議会で認められないことはよくある」ということです。どういうことかというと、日本で、ブッシュ政権の意向に従って自民党が給油活動継続を図って、それが議会のねじれ状態のために不可能になっても、アメリカはそれを「裏切り行為」とは見なしたりしない、ということです。アメリカではそういうことは茶飯事だからです。実例が挙げられています。

「1997年の京都議定書が批准されなかったことや、1920年に発足した国際連盟加盟が米議会で認められず、加入しなかったことは顕著な例だが、小さい合意が議会の反対で実現されないのは日常茶飯事だ。たとえば、1980年代、日本は次期支援戦闘機(戦闘・攻撃機)FSXを国内開発しようとしたが、日本の航空技術開発を警戒する米国の圧力に屈し、87年にF16を基礎とする共同開発計画に関する覚書を結んだ。ところが米議会は『F16の技術が盗まれる』とこれにも反対、日本はさらに不利な条件を呑まされて計画は遅れ、コストも膨張した。経済交渉でも米国側が『日本の主張は理解するが議会が許さない』と一層の譲歩を求めることが多い。参議院だけの与野党逆転で、日本議会も今回珍しく “アメリカ並み” になったに過ぎない」。

自民党は「国際貢献」に参加したいと思っていても、議会の反対にあって不可能になった、でもそんなことはアメリカでは日常茶飯事に起こっていることなのです。とくに、現在のアメリカ議会では、「今年の4月にイラクからの撤退期限を定めた『イラク戦費法案』を可決し、ブッシュ大統領が拒否権を行使してこれをしのぐありさまで、米政府、議会は日本の議会の決定に文句を言える立場にない。『貴意に沿うべく努力したが、どの国でも議会は思うようにはなりません』と言えばすむ話だ(同)」。

日本はとくに安倍時代には、なんでも強行採決でアメリカ追従を選んできました。まるで民意を反映してアメリカの意向にノーを突きつけることが、大罪でもあるかのように自民党は考えているようです。ここに日本の民主主義の未熟度、また民主主義と言うものへの無理解があるようにわたしには思えます。




給油をやめても日本にとんでもない災いが臨んだりしないと言える三つ目の理由は、日本が撤退したことをアメリカの議会で騒げばブッシュ政権にとって不利なことになる、ということだそうです。記事はこう続けます。
「ブッシュ政権は『ユニラテラリズム(独善的姿勢)で、孤立化を招いた』としてアメリカの民主党から非難されている。米国人のほとんどが無関心な日本の給油活動が法律の期限終了で中止になったことを騒ぎ立てれば『孤立化』を裏づけることになり、選挙に不利だ。米政府がイラクからの各国軍の撤退を非難したことがないのもそのためだ」。




五つ目の理由が面白いのです。これは全文引用します。

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米国がわずか35億円程度の話で日米同盟をやめ、横須賀、佐世保などの基地使用権と、年間2200億円の日本からの補助金を失うことをよしとするとは思えない。

冷戦の終了で海外基地の必要性は減じたとはいえ、米国が西太平洋、インド洋での制海権を確保するためには、日本の二つの港とそれに付属する厚木、岩国飛行場は手放せない。英国は1704年、スペイン継承戦争で奪取したジブラルタルを、スペインと悶着を続けつつなお支配し、米国は1898年の米西戦争で得たキューバのゲアンタナモ港をなお保持している。

敵対してでも軍港は確保したいのだが、もちろん同盟関係を保ち、友好的に使えればはるかに好都合だ。日本は基地従業員の人件費や、光熱水道費など約2200億円を「思いやり予算」で出すほか、基地内の建設費、周辺対策費、民有地の地代、国有地の推定地代を含むと、米軍への財政支援は年間で計約6500億円に達する。

こんな気前のいい同盟国は他にない。もし35億円の燃料の件で日本と対立するなら、まるで毎年一億円の利益を得ている取引相手と、50万円の問題で争い、取引をやめるような形になる。


(同記事より)

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アメリカにとって、日本は「現金自動支払機」のような存在です。なんだか日本と言う国がほんとに情けなくなります。安倍さんは「美しい国」という構想の中に、「主張できる日本」を提唱していました。これは主に、従軍慰安婦や集団自決や南京事件といった問題での、自国中心の歴史認識の強硬な主張のためにだけ使われましたが、ほんとうに主張しなければならない相手は別にあるんですよね。日本人は傲慢なくらい強引な人を戴いて、その組織・仲間のなかに自分を組み入れようとする「寄らば大樹の陰」の精神をいまだに捨て切れませんが、国家単位でもそういう気質は見せるんですよね…。

六つ目の問題は深刻です。

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米国人は「日本は石油の90%以上を中東に依存し、中東の安定は日本に不可欠」として協力を求めるが、イラン・イラク戦争中は同じ論理でサダム・フセイン支持を求めた。伝統的に親日的で侵略の被害国だったイランに日本は同情的で、同国との国交を保ったが、他方、米国の要請に応じイラクに経済援助、融資を行った。米国のイラク制圧後、日本が放棄した対イラク債権は公的なものが3500億円に及んだが、この大部分はイラン・イラク戦争中に生じたものだ。

その後の湾岸戦争では逆にサダム・フセインの軍隊をクウエートから追い出すために、米国は同じ理屈で(日本は中東から90パーセント以上の原油輸入に依存している…)資金拠出を求め、日本は130億ドルを出した。米軍のイラク侵攻後は債権放棄を求められ、それに応じた。

見通しの悪い米国の支離滅裂な中東戦略によって日本は無益な出費、損失を強いられ続けてきた。常にその理由は「日本は石油の90%以上を中東に依存云々」だ。

石油輸入という国益だけを考えれば、いかなる体制のどの産油国も石油は輸出したいのであり、米国はイラン、イラク、リビアなどに経済制裁を課したり、軍事行動を取って、現実には石油輸出を阻害してきた側だ。米国のイスラエル支援は中東不安定化の一大要因だし、イランのパーレビ政権を支援して失敗、次いでイラクのサダム・フセイン政権を支援して失敗、イラクに侵攻してまた失敗、と錯誤を繰り返し、中東に混乱を招いてきた米国が「中東安定化のため」と称して協力を求めても説得力はない。


(同記事より)

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結論はどう導かれているでしょうか。こうです。

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こうした要素を考えれば、参議院で給油新法が否決された場合、衆議院で再可決するような非常手段を取らなくても、大事にいたることはないだろう。

米国人から「日本は便利な現金自動引き出し機」と言われ、常に言うことを聞くと思われているのはきわめて不利だ。「お布施をしないと地獄に落ちる」という心理を脱却し、ときには米国の意向に従わないこともある例を示して「普通の国」になる好機かもしれない。

冷戦時代にソ連の属国と見なされていた東欧諸国ですら、しばしばソ連に「ニエット(=ノー)」と言い、ワルシャワ条約機構はNATOのような常設部隊は結成できず、ソ連のアフガニスタン戦争にも東欧軍はほとんど協力しなかった。

日本政府が「ノー」というと対立にもなろうが、議会が認めない、となればあまり角が立たない。


(同記事より)

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今回、ブッシュ政権の意向に添えないとしても、日米同盟に亀裂は入ることはないし、日本が重大な損失を被ることもない、ということです。読者の皆さんはどう感じられたでしょうか。6番目の理由などを読むと、むしろ対米追従路線を盲目的に突き進むことこそ多大の損失を被る選択だ、ということが見えてきます。

それにしても、日本の政治家と外務省の弱腰、無知無能さはどうでしょう。日本国民の暮らしを破壊されたままにしておいてなお、主要な破壊者である経団連に顔色ばかりを伺い、対外的には財界の要請によりアメリカの傘に依存しようとする。アメリカ抜きでは何ひとつ交渉できない政府を戴く私たち国民は世界でも、北朝鮮やイスラム原理主義国のようなほんとうに不幸な状態にあるのだと思います。

政府や政府の御用経済学者、御用ノーベル賞受賞学者、御用新聞などの言い分に煽られて不安に陥らないようにしたいですね。日本には憲法9条に基づく高邁な理念があり、国際貢献もそれにふさわしい仕方で行ってゆくべきだと、わたしは声を大にして主張します。
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日本軍関与削除の内幕

2007年10月14日 | 一般
教科書検定は以下の手順で行われます。

まず、編者・出版社から「原稿本」が出され、それを文科省に提出します。教科書検定を受けるためです。

それに対して、文科省所属の教科書調査官がまず、事前調査を行います。誤記・誤植の調査です。

この事前調査を合格すると、原稿本は教科書用図書検定調査審議会による検定審査を受けます。審査の結果、不合格となったものを除き、「改善意見」かあるいは「修正意見」が出され、条件付合格とされて、出版社・編集者に通告されます。「修正意見」というのは、絶対に直さなければならない条件です。出版社の方は修正意見に対して意見申し立てを行うことができます。

それらを受けとめて、編集者の方で手直しして、今度は内閲本という形の修正本を提出します。その内閲本について、また調査官の方でクレームをつけるなどのことが繰り返され、最終的に合格となれば、出版社は今度は採択に出すための「見本本」を提出し、合格すれば採択、となるとのことです。

しかし、このたびの「集団自決」削除については、そもそも教科書用図書検定審議会により審議が行われていませんでした。文科省による半ば強制的な操作だったようです。集団自決書き換え要求を突きつけられたある教科書出版社の編集者は、「文科省の強い意思を感じた。これだけは絶対譲れないとでもいうような、文部官僚の “決断” だけは伝わってきました」と述べています。

教科書修正を強行したのは誰か、取材したレポートをご紹介します。

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実は文部科学省で教科書を担当する調査官の中には、あの「新しい教科書を作る会」と密接な関係を持つ者がいるのだ。村瀬信一氏はその一人である。全国紙の社会部記者が次のように指摘する。

「村瀬氏は『つくる会』の歴史教科書を監修した伊藤隆・東大名誉教授の弟子として知られています。東大大学院時代の指導教官が伊藤教授で、その後も共同研究を通して二人の師弟関係は続いている。2001年に『つくる会』の中学歴史教科書がはじめて文科省の検定に合格した際も、担当の調査官は村瀬氏でした」。

村瀬氏は皇學館大学、帝京平成大学の教員を経て、2000年に文科省の調査官に就任した。これは文科省に影響力を持つ伊藤教授の推薦によるものだと言われている。村瀬氏の前任の福地惇氏(現在、大正大学教授)、お伊藤教授の弟子で、今は「つくる会」の副会長を務めている。

いわば「つくる会」一派ともいうべき人物が代々、教科書検定に大きな影響を与えているのである。

「まるで出来レース。正直、そこまでするかと思いましたよ」。
呆れた表情で話すのは、民主党の川内博史代議士だ。川内氏は今年(2007年)4月25日の「教育再生に関する特別委員会」において、伊吹文明文相との間で次のようなやり取りをしている。



川内: 新しい歴史教科書を執筆した伊藤隆さんと(文科省教科書検定調査官の)村瀬信一さんは師弟関係にあるのか。

伊吹: 何を意図して(そんな)質問をしておられるのか。教科書調査官が最終的に検定意見を付せる立場にはない。

川内: 何も関係ないということか。質問をはぐらかさないでほしい。

伊吹: 師弟関係にあることが、なぜ検定意見と関係があるのか。



「まったく誠意のない答弁だった」と川内氏は振り返る。「伊藤・村瀬両氏が師弟関係にあることは明白なのに、それをはっきりと認めようとしない。しかも検定に関しては、最終的に外部の学識経験者によって組織される検定調査審議会が決めるもので、調査官をはじめとする文科省の意思など反映させることができない、口出しなどできないと言っているのです。まるで審議会がすべてを決めたかのような口ぶりでした。つまり集団自決に関する修正意見に、文科省は一切関係ないと言っているわけです」。

ところがこれが真っ赤なウソだったのだ。教科書検定の手順は、誤記や記述の是非について「調査意見書」にまとめたうえで、審議会に提出する。審議会ではこの「調査意見書」にもとづいて答申を作成、同省を通じて教科書会社に示される。

川内氏は国政調査権を使い、昨年度の文科省「調査意見書」を取り寄せた。

「驚きましたね。なんと、審議会の答申を基に作成した『検定意見書』とまるで同じ記述・内容だったのです。つまり、集団自決に関する “軍命の削除” は、審議会ではなく、文科省によって決められていたことが明確となったのです。ありていに言えば、文科省の指示によって教科書が書き換えられた、ということですよ」。



その後、さらに新事実も発覚した。審議会メンバーの中には沖縄戦の専門家は一人も存在せず、集団自決に関しては何の議論もされなかった、ということだ。この問題を報じた『沖縄タイムス』によると、審議会メンバーの一人は「専門家がいないのだから議論のしようがなかった。教科書調査官(村瀬氏ほか)の意見を聞いただけで通してしまった」と答えたという。

「早い話、『つくる会』の影響を受けた調査官の思想が、教科書に反映されたとも言える」(川内氏)。教科書という公的な存在が、これほどまでにも恣意的な段取りによってつくられていたのだ。


(「誰が教科書記述を修正させたか・沖縄『集団自決』をめぐって」/ 安田浩一/ 「世界」2007年11月号より)

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このレポートによると、教科書修正は一方的に文科省の意図の下に行われたということですね。レポート筆者の安田さんの取材によると、村瀬氏は、高校日本史を担当したある出版社の編集者と執筆者に対し、沖縄戦における集団自決の記述について、「軍隊から何らかの強制力が働いたかのような受け取られ方をしてしまう表現は避けていただけませんか」と指摘したというのです。その出版社の教科書は、自決用の手榴弾を日本軍が住民に配って、集団自決に追い込んだ、という内容の記述になっていたのだそうです。ところが、ここ20年間は同じ内容で検定をパスしてきたのです。どうして今年はダメなのか、出版社はいぶかりました。

それに対し村瀬氏が主張するには、「軍隊から集団自決の命令が出ていない、という見方が定着しつつある。要は、もう少し薄い表現にしてもらいたい」。何を根拠に「定着しつつある見方」というのかというと、村瀬氏が持ち出した事例は、関東学院大学の林博史教授が著された『沖縄戦と民衆』(大月書店)でした。「この本を読みましても、集団自決は事実であっても、軍隊からオフィシャルな命令が出たとは記されていない」と村瀬氏が力説します。

ところがその図書の著者である林教授は憤って反論しています。「わたしは個々の軍人の命令ではなく、日本軍の存在そのものが住民を集団自決に追いやった、ということを著書で表した。はっきりと軍の責任を問うているわけです。いったいどんな読み方をしたら、集団自決と日本軍を切り離すことができるのか」。

村瀬氏はこういう「読み方」をしたらしいのです。『沖縄戦と民衆』は現地調査を通して、沖縄戦の中で日本軍が住民を集団自決に追い込んだ背景を詳細に解き明かしているそうです。安田さんはお読みになったようですが、その感想は「あくまでも自決は日本軍によって強要されたものである、といった視点が貫かれており、間違っても日本軍を免罪する記述は見当たらな」かったそうです。

「ただし」と安田さんは書きます。「ただし著者の林教授は、自決命令を出したとされる特定の軍幹部(個々人)が、直接に命令を下した立場にあったかどうか、ということにのみ、疑問符をつけている。実はこの部分の表記が、まるで集団自決における軍命がなかったかのような “決定的証拠” として利用されたのだ」ということです。

つまり、文脈を無視して、文脈から一文を切り離して日本軍の名誉挽回に持ち込もうとしているわけです。こういう態度を牽強付会といいます。「自分の都合のよいように、無理に理屈をこじつけること(岩波国語辞典第4版)」という意味です。エホバの証人お得意の手法ですね。牽強付会な手段によって、学者の言葉を、その講演記録や著書などの文脈から切り離し、生物進化は創造説によって論破されてしまっているかのような文章を作り上げ、信者はそれを本気に受けとめているのです。

沖縄における9.29集会では、住民に手榴弾が手渡されていること自体が、軍の意図のもとに集団自決が行われたことの証だ、と主張されました。出版社も同じように思うわけです。「わたしたちは、集団自決に軍の手榴弾が使われたこと、さらに軍がスパイ容疑で住民を殺害したことについてはどうか、と訊きましたが、村瀬調査官は『それは構わない』というわけです。つまり、集団自決においては、主語が日本軍であっては絶対に困ると、そういうことなんですね」(前出の教科書を書いた出版社の編集者)。

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2007年3月30日、文部科学省は08年度から使用される高校教科書の検定結果を公表した。日本史教科書では「集団自決」について、「日本軍に強要された」などの記述7箇所(5社で)に、修正を求める検定意見がついたのである。

申請段階の記述が、検定によってどのように修正されたのか、代表的事例を以下に示す。



「日本軍は(中略)くばった手榴弾で集団自決と殺し合いをさせ」→「日本軍の配った手榴弾で集団自決と殺し合いがあった」(実教出版)

「日本軍に集団自決を強いられたり」→「追いつめられて『集団自決』したり」(三省堂)

「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」→「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)



いずれも「集団自決」における軍の関与がすっぽりと抜け落ちている。どうやら沖縄住民は誰からも強いられたわけではなく、勝手に望んで自決したのだ、と文科省は言いたいらしい。

「それにしても」と、前出の編集者は首を傾げる。「前回(4年前)の検定では、同じ記述であっても何の問題もなかった。あまりに唐突であることに、何か背景があるのではないかと疑いたくなる」。

確かに結果は「唐突」であった。しかし沖縄での集団自決をめぐっては、ここ数年、水面下では奇妙な動きが進行していた。


(前掲書より)

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背景は「新しい教科書をつくる会」、そして安倍首相のグループがある、と安田さんは書きます。「つくる会」の藤岡信勝拓殖大学教授が代表を務める「自由主義史観研究会」のメンバーが、2005年5月二十日から沖縄に取材に訪れました。その取材をもとにして、同年6月4日、自由主義史観研究会は東京都内で「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」と銘打った「緊急集会」を催しました(参加約80名)。

その集会で藤岡氏は「現地調査を行った結果、旧日本軍が沖縄住民に集団自決を強要したと言うのは虚構であることが判明した」と報告したのです。先ほどの林教授も現地調査をしたのに、林教授と自由主義史観研究会の結論がなぜ正反対になるのでしょう?

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「集団自決に軍命がなかった証拠」として藤岡氏らが発表したのは、集団自決を生き残った人の証言をまとめたビデオ映像である。件の沖縄取材で撮影したという「検証ビデオ」には、沖縄在住の3人の証言者が登場。それぞれ「自決の際、軍からの命令はなかった」と話した。この3人の証言をもって「画期的な成果」と強調したのである。

当時、藤岡教授は私の取材に対して次のように述べている。
「沖縄戦に関する教科書の記述は、部分的な悲劇ばかりを強調している。少なくとも集団自決に軍命があったというのは作り話だということをはっきりさせ、旧日本軍の名誉を守りたいと考えています」。

この集会では、次のような決議文が読み上げられた。
「社会科や歴史の教科書・教材には、過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて、歴史を学ぶ児童・生徒に自国の先人に対する失望感・絶望感をもたせる傾向がしばしば見受けられます。

 事例の一つに、大東亜戦争時の沖縄戦で、民間人が軍の命令で集団自決させられた、というのがあります。しかし、これは事実でないことが、関係者の証言や研究によって明らかになっています。

 私たちは、敗戦60年の今年、この『沖縄集団自決事件』の真相を改めて明らかにし、広く社会に訴える」。


(前掲書より)

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こうして、作家の曽野綾子さんたちが、「沖縄ノート」の著者である大江健三郎氏や「沖縄ノート」の出版元である岩波書店を告訴し、また、教科書修正のために、「つくる会」に関係する村瀬信一氏に影響を及ぼさせて、今回の事態となったようです。「つくる会」のかつての理事には安倍政権のブレーンである京都大学教授の中西輝政氏や高崎経済大学教授の八木秀次氏がいました。「つくる会」は分裂し、この二者は「つくる会」を去ったのですが、安倍元首相がまだ幹事長時代だったころ、つまり強気で押せ押せだった時期に、「従軍慰安婦」を取り上げたNHKの番組を改編させたなど、強気だったころに、先の自由主義史観研究会の集会が開かれていたことを考え合わせると、安田さんはこう推測します。

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いまとなってはガレキの山となった「チーム安倍」だが、往時の勢いを考えれば、それなりの影響力があったことは想像に難くない。

「今回の問題の源流には、官邸、もしくは安倍側近の意向が反映されていることは間違いない」(前出・社会部記者)。


(前掲書)

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“Luna's Scrap-book” の方のコメントにも書いたのですが、国家が歴史教科書に介入してくるときには、民主主義に反した目的を持っていることが多いのです。歴史認識は、国民として持つときには、実証的な研究によって得られた記述にもとづかなければなりません。しかし、明治以降、日本は自国絶対中心主義で大陸に進出し、現地を植民地化し、そして日本の文化を押しつけました。それには国民的な合意が必要ですが、国民がそういう国策に賛成するよう、教育を通して思想改造を施してきたわけです。歴史の実証主義的な研究者に対し、神道家であり、国体史観派の人々はこのように攻撃をしました。

「夫れ教科書は将来の国民を鋳造する所の模型なり。其の善悪によりて、将来の国民は忠誠楠公の如きものともなり、凶賊尊氏が如きものともなるべし」(「国光」4-2 明治25年5月10日)。

歴史教科書は国民を将来、国家・国策に喜んで殉ずるよう指導するものとなりうるから、実証主義的(つまり科学的歴史研究)はその邪魔になる、天皇を敬わなくなる、家族国家思考を持たなくなる、危険な学問手法だと感じたらしいのです。

今回、本土の方では、新聞をはじめ、世論はまったく盛り上がらなかったのですが、沖縄県民は目が黒かったですね。自分の手で家族を殺してしまったという罪業深い体験が、あの行動を起こさせたのだと思います。それと、多くの人が団結して運動することには、政府に対する力をもつことも目の当たりにできました。わたしも、「何か違和感を覚える」と感じたら、どんどん発言して行こうと思います。
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「自虐史観批判」はなぜひろく受入れられたのか (上)

2007年10月08日 | 日本のアイデンティティー
集団自決で、文科省が「軍による強制」を削除しましたが、沖縄の人たちは黙っていませんでした。大きな抗議の声を上げ、示威行動を取り、文科省をはじめ政府を動揺させることを成し遂げました。しかしそれでも、「軍による強制」という文言はそのまま回復させることはむずかしいとのことです。「検定意見に政府が介入することはできない」という口上になっていますが、実際は、教科書審議会の議論はほとんど行われておらず、官僚主導で一方的に削除されていたのです。

歴史の恥部を隠蔽しようとするこの圧力はどこから出てくるのでしょうか。なぜ、本土のわたしたちは、こういうことを脅威と見なさず、醒めた目でしか眺めないのでしょうか。歴史を粉飾しようとする空気はどのようにわたしたち本土の国民に浸透したのか、その事情の根元を垣間見せる文献を見つけたので、今回はこれをご紹介します。どうやらおおもとは、アメリカによる対ソ戦略にあったようです。

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1.池田ロバートソン会談
敗戦の1945年から50年代にかけての戦後期の国民の平均的な歴史認識は、戦争とその敗北の根本原因は、結局日本の社会が全体としてまだ「『半封建制』性」「封建遺制」を克服しえていなかった後進性にあり、経済力・技術の劣勢も、戦争での軍部の独走や天皇制的な人命軽視・人権言論抑圧もすべてその社会的後進性に根を持っている、といったものだったと述べてよい。

国民が戦後の民主主義的改革を受け入れたのも、占領政策としてただおしつけられたからではなく、生活実感にもとづく国民意識がそれを必要と考えていたからである。学問・思想の分野で、マルクス主義や近代主義(*)が大きな信頼を受けたのも、その言説が、敗戦を見つめ、自国の社会改革、「近代化」を自分たちの力で進めなくてはならない、と考える人々の心に響くものがあったからである。
(*)近代主義
ヨーロッパの近代社会を「近代」という理念のモデルとして設定し、そのモデルによって日本の近代社会を批判し、日本の「近代」の後進性を浮き彫りにし、ヨーロッパ的な「近代」社会へ向けて以下に純化発展させてゆくか、ということをテーマに掲げた思想潮流。大塚久雄、丸山真男、川島武宜氏らが代表的。



この時代、多数の日本人の意識はそうした面では自省的で、アジア・太平洋戦争についても、日本の中国侵略が基本原因だという理解を共有していた。

しかし、1948年からいちはやく表面化した米ソ冷戦の激化の中で、占領政策が急激に転換されたため(*)、侵略戦争についての反省は曖昧にされ、多くは戦争被害者的記憶や戦争はこりごりといった心情だけにとどまり、アジアの民衆に対する加害者的側面についての認識は、「事実的」の面でも「理論的」の面でも深められることなく、反動的な状況に押し流されてゆく傾向が強まった。
(*)
1953年、吉田首相特使、池田勇人と米国務次官補ロバートソンの間でのMSA(相互安全保障条約)をめぐる日米会談が設けられた。文字通りに「池田・ロバートソン会談」と呼称されている。
 これによって日本は事実上の再軍備に踏み切らされたが、その「防衛力漸増政策の遂行に妨げになる空気を除去するように、教育を通じて日本の国民意識を誘導する」ことが決められた。
 これを転機に教育は反動的旋回を始め、「憂うべき教科書の問題」(1955年、「日本民主党」による、当時の自省的歴史教科書への非難・攻撃したパンフレット)が発行され、文部省(当時)による教科書検定(組織・内容)強化が進められだした。




こうした国民意識の旋回に強い影響をもたらしたのは1960年代の高度経済成長である。60年代を通じて進行したその動きの中で、日本は先進国のひとつとなり、「経済大国」といわれるようになった。それによって「半封建的後進性」は克服された、明治以来の、「欧米に追いつけ追い越せ」の目標は達成された、と多くの人が心に感じるようになった。アジアの途上国からの留学生には、日本の成功は自分たちのこれからのモデルになる、と思う人も多くなった。アメリカの日本史学者は、日本の「成功」の要因を江戸時代までを含めてとらえる「近代化論」(*)を提起した。
(*)
近代化論;
マルクス主義史観(資本主義から社会主義へ、という発展・移行・革命理論)に対し、資本主義の後進国における近代化の可能性を「離陸」「産業化」という概念をキーワードとして理論化しようとして1950年代にアメリカの学者ロストウが提唱した経済発展理論が原型。社会主義革命を相対化し、ソ連の路線に対抗するという政治性が強い。ライシャワーはそれらを背景に、日本の「近代化」の条件を江戸時代の見直しから始め、60年代には日本の歴史学会にもその影響が広まった。



60年代の終わりから70年代にかけて「戦後歴史学」への批判的検討が盛んになり、さまざまの角度からの “日本史再考” (*)が盛んになった。「戦後民主主義」や「戦後歴史学」が批判的検討の対象になったということは、時代が移ったということを意味している。その中で戦後の国民意識を広くとらえてきた(自省的な)歴史認識は揺らぎだし、歴史学でも “多様化” の時代に入った。「太平洋戦争見直し論」も、また性質はちがうが「社会史」も、そのひとつとして登場した。
(*)
日本史再考;
戦後、60年代初頭ころまでに、マルクス主義と近代主義(前出)の歴史学の主導によって展開された「戦後歴史学」の日本史認識・日本史像への批判を意図して、さまざまの立場からその見直しが開始され、60年代後半から70年代にさかんとなった。
一律にはいえないが、中世・近世については、領主-農民の封建的支配被支配関係と、階級的矛盾からその社会の基本構造をとらえるマルクス歴史学理論の視角を拒否して、民衆生活の明るさ、経済的水準の高さを強調する説もそのひとつである。
近現代史では、講座派(日本の支配構造を絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の三者によって分析する歴史学。野呂栄太郎『日本資本主義発達史講座』によって打ち出された)がその制約的側面を重視してきた明治維新の理解やそれをふまえた日本資本主義特質論の見直しなどがそれである。
アジア諸民族を解放したという見解に結びつけようとする「大東亜戦争」見直し論もそうした一連の動向の中で登場した。



一方、「戦後民主主義」の再検討とともに、太平洋戦争における日本の加害者的側面が本格的に検討されるようになり、それに関わる事実の発掘と意味を問う仕事も盛んになった。日本の台湾・朝鮮植民地支配の実態、アジア太平洋戦争における戦争犯罪的諸事実の解明などがその代表的なテーマである。併行して沖縄・アイヌなど本土から差別されがちであった弱者・マイノリティの史的研究も急速に進められていった。

こうして日本歴史への関心と研究が二極分化の色合いを濃くしてゆく。
ひとつは「近代の達成」を楽天的に受けとめ、「日本の成功と自信」を歴史の中に求め、それを明るく描こうとする方向である。もうひとつは、とくに日本の近現代史に忘れることのできない、また忘れてはならないさまざまの「負」の側面の認識を深めることを通じて歴史の展開と課題を見きわめようとする方向である。前者を東京大学教育学教授の藤岡信勝氏と西尾幹二・電気通信大学文学部教授は「自由主義史観」と名づけ、それに対照して後者を「自虐史観」と称し、ここに両者の対立構図が現れた。

ただし、「自虐史観」はこの時点で新たに登場したものでなく、戦後歴史学の一貫した基本思考のひとつであったが、「自由主義史観」側がこれを「自虐史観」と名づけたことによってこの図式がつくりだされた。

この間、1965年には家永三郎氏が「教科書検定訴訟」(「教科書裁判」と略称)を提起し、これに対する日本史研究者・教育者の強い支持運動が広い範囲に起こされた。国の行う検定が、教科書記述の細部にまで干渉して学問・思想・教育の自由を犯す危険、本来政治・権力から独立して行われるべき教育の内面にまで介入する国家の教育支配の危険を眼前にして、戦前型の教育への回帰は何としても阻止しなくてはならないというのが、広く共通する受けとめ方であった。

この「教科書裁判」はじつに32年にわたって、原告家永氏とこれを支援する歴史学・法律学・教育学などの数多くの研究者・教育者・弁護士。市民などの良心をかけた戦いとして最高裁まで争われ、重要な幾つかの争点について、原告の主張が認められた。この長い裁判期間中に、教科書の改訂は国の規定に従っていくたびも行われたが、多くの日本史教科書は「南京大虐殺」「七三一部隊」「従軍慰安婦」など、戦争犯罪の重要な事実を逐次、新たに取り上げるようになった。これに対して一部の保守党政治家や財界人などが「教科書に暗いことばかり書くな、国を愛する心が育つような教科書を」という声をだんだん大きくするようになった。

「暗い」といわれるものは、教科書筆者やそれに共感する人々の側から言えば、おおむねこれまで隠蔽されたり研究が至らなかったりして取り上げられてこなかった事実であって、戦争というものの本質や、日本の戦争責任・平和にかかわる重要な問題である。だからこそそれらは次代の記憶に残さなくてはならない、と考えたのである。

この両者の乖離と対立は、70年代末から80年代初めにかけていっそう厳しい状況を生み出してゆく。






2. 80年代、国際的圧力に屈した反動勢力
70年代は歴史認識の二極分化がはっきりとしはじめた時期であるが、中・高校用日本史教科書の内容は筆者・編集者等の努力と市民の関心の高まりによって、検定による歪曲をはねかえし改善が進んだ。「暗い」「自虐的」と攻撃する側から見ればいちだんと「悪く」なったということにもなろう。

70年代の終わりころから80年代初めにかけて、これに危機感をもった自民党は機関紙『自由新報』などに関連記事を連載し、大々的な教科書攻撃を始めた。政権を担当する政党が、教育の内面(教科書等)にまでなりふりかまわず踏み込んですでに検定済みとなっている教科書やその筆者への非難・攻撃を行うというのは異常である。

しかし、文部省(当時)はこれに力を得て、81~82年の「現代社会」(新設)や「歴史」の教科書の検定では、有名な「侵略-進出問題」からもうかがえるように、史実の正確性をねじまげても「暗い」記述をおさえこもうとする強硬姿勢をとった。

これに対して、教科書筆者はもとより、マスコミも共通に批判の姿勢を強めた。そうした中で82年、中国・韓国をはじめとするアジア諸国からの抗議の声も厳しくあげられた。歴史的事実を隠したり歪曲したりすることは有効と交流の基礎を破壊するものだというのがその趣旨である。保守党政治家の中には「内政干渉ではないか」と反発する人もいた。政府と文部省(当時)は陳弁をつづけたが、結局、検定基準に「近隣諸国への配慮」という一項を加え、以後、「侵略」の文字を使わせないとか侵略行為や戦争犯罪の事実を隠蔽したりねじまげるような検定強制はしないという譲歩を行ってひとまず落着した。

しかしこれは日本の為政者たちが国家権力による教育の内面への介入や、いわゆる「暗い」諸事実の隠蔽をほんとうに誤りとして認めたことを必ずしも意味しない。「近隣食への配慮」という言葉自体がそれを示唆するように、本音は別だが、ひとまず譲る、ということにほかならなかった。

86年には「日本を守る国民会議」という改憲派民族主義グループが『新編日本史』という教科書(高校用)を編集・発行した。そこでは、
(1)日本の伝統文化の流れと特色を重視する
(2)天皇に関する歴史的記述を充実する
(3)国家として自主独立の精神が大切であることを理解させる
(4)古代史については神話を通じて古代人の思想を明らかにする
(5)近現代については、戦争に関わる記述を極力客観的なものにする
  (=日本だけが悪いのではないということをはっきりさせる、という意)
…と編集の狙いを説明している。

これだけ(つまり、「編集のねらい」だけ)を見ると国家主義的だが、複数の検定教科書のなかのひとつとしては許容の範囲内ではないかという感じもある(筆者の「感じ」)。しかしその実際の記述は、史実を無視ないし歪曲をしていて、筆者たちの独断的な考え方があまりにも露骨だった。そのため『新編日本史』は教育現場でごくわずかしか採用されず、いくばくもなく事実上消滅した。

この『新編日本史』の編集方針は、明言されているわけではないが、西尾幹二氏の『国民の歴史』にそっくり引き継がれた。90年代の「自由主義史観」グループは80年代の「日本を守る国民会議」の主張をそのまま継承したと考えるべきところが多い。この点は「自由主義史観」の背景や根強い底流を確認するためにも重要である。



こう見ると80年代には教科書検定に対する国際的批判、日本政府の一定の譲歩があったにもかかわらず、国家主義的日本史観がいっそう根をはりだしたという側面も見逃せない。すでに70年代以降、戦争・敗戦を体験した戦後の第一世代の退場が始まり、「暗い」過去を知らない「経済大国」世代が世の中の主役に上がってきており、
「いつまで戦争責任や戦争犯罪をしつこく問題にするのか」
「『謝罪外交』のくりかえしはもうたくさんだ」
「われわれ(戦争・敗戦不体験世代)には責任はない」
…といった国民感情が次第に強まってきた。

個人に責任がないことでも国家・社会全体としては負わなければならない、というそんな種類の責任もある、ということを理屈の上では認める人でも、戦後に形づくられた自国史像のままでは何となく納得できないという気持ちを強めるようにもなっていった。学会でもこれに応ずるような形で前記のような “日本史再考” の試みが活発になった。農民闘争や労働運動への関心を失い、民衆の暮らしや経済・社会を明るく描く歴史書が人々の心をとらえだした。

「自由主義史観」は、「日本を守る国民会議」と同じ発想、論法、同根のものであるが、『新編日本史』の失敗を経て、われわれは「大東亜戦争肯定派」ではないといいながら、よりソフトなネーミングで “再考” 気流に乗って90年代に登場するのである。







3. 90年代、国民統合への不安とあせり
80年代後半から90年代にかけての世界史は激動をきわめた。ベルリンの壁が解体され、東欧諸国の社会主義体制に終止符が打たれ、91年、ソ連が崩壊した。この間に、日本はいわゆるバブル景気にわいたが、91年初めに株価・地価の暴落が始まり、経済界は泥沼の長期低迷に追い込まれた。それを横目に見るかのように、中国・韓国・ベトナム・マレーシア・タイなどのアジア諸国は経済の飛躍的発展期にはいった。

90年代初頭は20世紀の世界史を動かしつづけてきたソ連が消滅し、「冷戦」が終わったという点で、21世紀に向けての新しい歴史が動きはじめた時期といえる。しかし日本はバブル崩壊の痛手から立ち直れず、ついには金融危機、外国資本の日本企業買収、生き延びるための大リストラといった窮地に追い込まれた。

大企業の経営者たちが危機感を強め、生きのび作戦を模索し、政府は将来の国民負担をかえりみず国家資金をそれら企業の救済につぎこんでいる。90年代の日本と日本人は自信を喪失し、暗い気持ちに追い込まれている。社会面では、官・財界上層から警察官に至るまで腐敗・汚職が広まり、教育界でも問題続発である。大学生や世に出た若年世代は政治や社会への主体的関心が薄く、「私」の世界に生きがいを見いだし、「公」への目を喪失したかのようである。戦後教育の失敗がきびしく指摘されるようになった。

為政者の動揺と焦燥は深刻で、指導要綱では「国を愛する心」を強調し、カリキュラムでは「総合学習」を新設して社会・「公」への目ざめを促そうとしている。ここにきて文部省(当時)が長年にわたって「平和教育」や教育基本法に明記されている「政治的教養」のための教育を抑制してきたツケ(池田・ロバートソン会談の方針に則ってきたツケ)がどうにもならないところまで来たようである。(*)
(*)
旧教育基本法 
第8条1項
 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
 〃 2項 
 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。



「自由主義史観」グループはこうした状況に対応する形で登場した。その前提は、すでに述べてきたように、高度成長による「経済大国」化、日本社会の構造変化の中で進められてきた自国史像の “見直し” 、“再考” 気流の中に胚胎していた。それが90年代日本の経済的低迷と社会的意識における「公」の喪失という危機的状況の中で、登場を促されてきたのである。

こう見てくると、今の日本には1930年代と通底するものがあるのではないかという不吉な予感を否定することができない。昨99年(このブックレットは2000年発行)5月には安保体制=対米軍事従属の拡大を意味するガイドライン関連法が成立し、8月には国旗国歌法が成立した。日本のナショナリズムが対米軍事従属とセットで存続してきた戦後の歴史をふりかえると、このふたつの法がほとんど同時に成立した意味も見えてくる。国会の憲法調査会も改憲を意中にした与党中心に推進されはじめた。

それにつづく99年10月、西尾幹二氏の『国民の歴史』が刊行されたが、その基調は、これまでに見られなかったアメリカ非難をも辞さない独善的ナショナリズムである。「大東亜戦争」における開戦責任の「6~7割」はアメリカ側にある、日本がほんとうに敗れたのは「戦後の戦争」だ、という。「戦後の戦争」とは、日本人の常識化している「太平洋戦争」観や、それをふくむ近現代日本史像はアメリカ中心の見かたのおしつけであり、それが日本史教科書にも強烈な影響を与えている、これこそ戦後の情報戦争における日本の敗北でありアメリカの勝利を物語るものだ、というのである。





(「自由仕儀史観批判」/ 永原慶二・著)


↓(下)へつづく
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「自虐史観批判」はなぜひろく受入れられたのか (下)

2007年10月08日 | 日本のアイデンティティー
社会の底流にある不安や不満に火をつけるのは扇動者の役割である。彼らはきまって一般民衆の不満をとらえ、常識をこえた考え方をどぎつく提示し、これまでの常識は誤まった思いこみだ、今こそ考え直す時だ、という。それが共通の特徴である。第二次世界大戦前夜のドイツや日本の歴史はそれを証明している。

「自由主義史観」グループの中でも、藤岡信勝氏は当初、「東京裁判史観」は認められないが、「大東亜戦争肯定論」にも与しないといっていた。「自由主義史観」という看板の手前もあるからだろう。しかし、運動が広まりだすと、藤岡氏はたちまち日本の戦争免責・戦争肯定論に移行してしまった。

99年の西尾氏になると、さらにふみだしてアメリカ批判、自尊的ナショナリズムの論調に変わる。藤岡氏の当初の日本近現代史、戦争理解は「明治はよかった、昭和は悪い」という司馬遼太郎氏の考えに従っていたが、西尾氏は「明治・大正・昭和一貫して、日本だけが悪いということはない」、むしろ、いつも「相手の方がもっと悪い」という論調である。政治的アジテーションの性質をもつ言説は、いくら学問的装いをもっていても、状況の中でどんどんエスカレートし、変わるものである。



(「『自由主義史観』批判」/ 永原慶二・著)

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《これによって日本は事実上の再軍備に踏み切らされたが、その「防衛力漸増政策の遂行に妨げになる空気を除去するように、教育を通じて日本の国民意識を誘導する」ことが決められた。これを転機に教育は反動的旋回を始め、「憂うべき教科書の問題」(1955年、「日本民主党」による、当時の自省的歴史教科書への非難・攻撃したパンフレット)が発行され、文部省(当時)による教科書検定(組織・内容)強化が進められだした。》

戦後わずか10年もたたないうちに、いいえ、現実にはほんの数年後から(1948年ころから)、アメリカは日本の再軍備化を画策するようになっていたのでした。悔しいじゃないですか。「教育を通じて」、日本国民は歴史意識をコントロールされてきたのです。憲法についての理解がないことも、アジア諸国への共感にかける思考も、意図的につくりだされてきたものなのです。わたしたち国民の知能レベルは戦前となんら変わっていない、と言ってもいいすぎじゃないでしょう。

朝鮮戦争による特需景気をきっかけに、日本は60年代を通して驚異的な経済的発展を見るようになりました。しかしその陰で犠牲になったものもあります。「人間」です。水俣病に代表される「市場の失敗」は大きな問題ですが、個々人の家庭における「父親不在」も深刻な問題を21世紀になるまで暗い影を落としてきました。子どもの精神的な成長を阻害してきたのです。性的虐待というような事件は決してここ数年の現象ではありません。昭和30年代にはすでにぽつぽつと報告はあがってきているのです。当時は今よりずっと戦前に近い時代でしたから、「家の恥」という思考様式は色濃く残っていて、大部分は表面化しなかったものと思われます。しかし、「機能不全家族」に育った子どもたちが80年代前後に親になり、その子どもたちが今また親になってきるのです。

今日わたしたちが見聞きしている子どもへの虐待による致死、子どもたちによる凶悪犯罪などは単に学校や家庭レベルの問題ではありません。

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社会学的観点からしても、心理学的観点からしても、経団連や日経連をはじめとする経済団体と系列企業が日本にもたらした経済構造は、日本にたいへんな損害を与え続けている。戦後日本の二つの「偉業」、奇跡の経済(成長)と中産階級の抑圧(ウォルフレン教授によると、戦後の経済大国化は、労働者個々人の人間としての自然な欲求や人権を抑圧することによって、まるで機械の部品のように酷使することによって成し遂げられてきた、とされている)が、日本人の個人生活に多大な犠牲を強いていることは、何度言っても言い過ぎることはない。家庭生活の質や個人の人格形成に、日本ほど企業が大きな影響を及ぼしている国は他に見当たらないだろう。

日本の制度で、経済組織の利益とその社会的重要性に何らかの形で強い影響を受けていないものはほとんどない。たとえば日本の教育制度は、経済組織の要求にもとづいて、その利益に合致するようにつくられており、経済組織から受ける影響は欧米の教育制度よりもはるかに大きい。企業のもつ力が、ある種の社会的環境をつくりだし、そのために日本の若者が自己を確立させるのはひどく難しくなっている。

サラリーマンは会社で知的なエネルギーも気力もほとんど使い果たしてしまうため、有意義な家庭生活を営む元気を失っている。中流階級の男性社員は、目を覚ましている時間のほとんどすべてを会社に吸い取られる結果、会社以外の個人的な関係に費やす気力が残らない。そのために最悪の影響を被るのが、サラリーマンの家庭生活である。

日本人の結婚生活の多くが情緒的に空虚であることは、これまでに何度も論じられてきた。これらの問題をここで詳しく述べることはしないが、明らかな結論だけは言っておきたい。つまるところ、責任のほとんどは日本の企業にある。社員に対する精神的な要求が多すぎるのだ。

…(中略)…

サラリーマンは会社と「結婚」することを求められているので、サラリーマンの妻たちは夫の愛情不足の代償を探さなくてはならない。そのために、たいていは子どもに、特に息子に過剰な愛情を注ぐことになる。そこから生じる不健全な結果については、これまでにもいろいろと書かれている。少なくともあるTVドラマでは、十代の息子に、宿題をかたづけた褒美として、マスターベーションをしてやる母親が登場したほどだ。

母親にも会社にも抑圧され、さらには職場の同僚から幼稚な振る舞いをそそのかされるために、若いサラリーマンはしばしば女性と不器用につきあうことしかできなくなり、実りのない冷え冷えとした関係しか結べなくなる。

若者向けの漫画には性的な空想が生々しく過激に描かれ、ロープや凶器を使って女性に暴力をふるう場面がたくさんあるのを著者は(日本で暮らすうちに)見てきた。こうした驚くべき現象も、中流階級の男性が情緒的な成熟を妨げられているために生じる結果なのだ。そもそも暴力によって女性を従順に飼い馴らし、そのうえで痛めつけようと空想するのが情緒不安定であることの、そしてもちろん未成熟であることのあらわれであることは世界共通である。

つまるところ、成長過程にある人間には一定の自由が必要なのだ。その自由があってこそ、人間は成熟した「愛情に基づく人間関係」を獲得できるのだ。日本の若いサラリーマンは、そのことを悟るための自由を持っていない。そういうことを考え抜くための時間的な余裕も心理的な余裕も与えられていない。ましてや、そのような愛情関係を育んで維持していくことなどできない。


(「人間を幸福にしない日本というシステム」/ カレル・ヴァン・ウォルフレン・著 1994年刊行)

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人間性を剥奪させる大きな影響となってきたのは、企業体質であり、そういう企業体質を生み出す経済最優先の思考でした。今の若いサラリーマンはもっと過酷な状況に置かれています。家を持たずにネット喫茶をねぐらに使う、日雇い労働者たちです。企業はかつて社員たちに会社に全身全霊の献身を要求しましたが、いまや労働者を切り捨て、使い捨ての消耗品としてしか見ません。

こうして職場からも社会からも、そして親からさえ愛情を受けずに育ってきた世代が、国家主義に「母親」的抱擁感を見いだし、そこに自分の居場所を見いだすようになる構図が見いだされます。

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わたしが右翼だったころに考えていたことや活動について書きたいと思う。右翼にはさまざまな団体があり、人によっても考え方はいろいろだ。ただ90年代の後半に20歳そこそこで右翼の思想に惹かれた自分について書くことは、「右傾化」と呼ばれる現代の現象とも通じるはずだ。

右翼に入る前に、わたしがいちばん苦しかったのは、「世界は矛盾だらけなのに、自分は無力である」ということだった。「世界の矛盾」はいろいろある。たとえばアフリカなんかで植えて死んでいく子どもたち。差別や在日コリアンの人たちへの差別。自分の派閥とお金のことばかり考えて腐敗している政治家、などなど。だけど、どんなことを思おうとも、わたしにはこの世界を1ミリたりとも動かせない。そのことがどうしようもなく絶望だった。

また、自分自身のフリーターという立場も大きかったと思う。そのころのわたしはどこかに帰属したくてたまらなかった。学校も出てしまっているのに会社にも入れず、ただひとり社会の中を漂っていたからだ。就職したいと思っていても、時代は就職氷河期。なんだか出口がなかった。それまで、いい学校、いい会社という幻想に尻をたたかれ、いちおうそれなりに頑張って勉強してきた。それなのに、バブル経済の崩壊によって自分が社会に出るころには、そんな幻想はこっぱみじんに崩れていた。学校の先生も親も、多くの大人がいう「頑張れば上昇できる」ということが通用しない時代になってしまったのだ。

誰にでもできる仕事の単調なフリーター生活の中、「自分は何をしているのだろう」と思った。何か、生きる意味を見つけたかった。自分にしかできないことを見つけたかった。

だけどそんなものはなかなか見つからない。当時のわたしは貧乏な上、不安定だった。そんな中、「それでもアフリカなんかの飢えている子どもたちに比べればまだマシだ」と自分に言い聞かせていた。自分についてせめて幸せだと思えることが、先進国である日本に生まれたことくらいしかなかったのだ。

こんな状況は、わたしが右翼に入る下地になったと思う。そして今、若いフリーターに話を聞くと、当時のわたしと同じようなことを言うから時々驚く。彼らは過去のわたしのように貧しい国の子どもと自分を比べ、そして靖国神社に祀られている戦争で死んだ人たちと自分とを比べている。そして先進国の上、平和な時代に生まれた自分の幸運に感謝している。その切実さがわたしにはよくわかる。

こんなことも、右傾化と言われる背景にあるのではないかと思う。


(「右翼と左翼はどうちがう?」/ 雨宮処凛・著)

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はじめに旧帝国軍部思考とアメリカありき。

アメリカが日本を対共産圏防衛前線にすべく、「教育を通して」、再軍備に無抵抗な国民意識を醸成しようと画策した。歴史の改ざんはここから本格的に開始された。そこへ経済成長がもたらされ、豊かになり、日本人は過去の傷と過ちを乗り越えた、という意識が形づくられた。さらにさらに、戦争・敗戦を体験した世代が現役を引退し、戦争体験のない世代が世の中を背負い始めた。ちょうど高度経済成長の時代に、エコノミック・アニマルの父親を持った子どもたちだった。

その子たちは機能不全家族の中にいたため、人間らしい愛情をあまり受けてこなかった人たちで、愛情とか情緒とかいった目に見えないものよりも、「お金、結果」のような目に見えるものでしか自分の価値を信じられない人たちだった。一生懸命働いて結果を出すが、なんだか気持ちが落ち着かない。大きなものに帰属したい。そこへ反動勢力にからめ取られる。

そこで、日本の美点を主張すると、アジア諸国からたたかれ、日本は引っ込んでしまわざるを得なかった。悔しい。「連中はいつまで戦争被害にこだわるんだ。自分たちは昔の人たちのように、中国を侵略しようなんて考えていないのに。これも日本が軍備が弱いからだ。もっと主張できる日本でなければならない」。湾岸戦争が起きた。日本はお金を出すだけで、血を流さなかったので、アメリカを始め、世界から嘲笑された。「なんなんだ、憲法9条って。そんのものがいまどき通用するかっていうの」。

バブルが崩壊して、会社にも入社できない自分。日雇いの派遣労働で明日をも知れない暮らし。自分っていったい何なんだ。なにか自分にしかできないことをやってみたい。自分をもっと認めてもらいたい。

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わたしは右翼の集会に連れて行かれた。右翼の人たちの言葉はすんなりと耳に入ってきた。

「お前らが生きづらいのは、アメリカと、そして戦後日本のモノとカネだけの価値観しかないことが悪いからだ!」

その言葉は、わたしがずっと抱いてきた疑問に答えをくれた気がした。わたしはその団体に入った。


(「右翼と左翼はどうちがう?」/ 雨宮処凛・著)

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歴史改ざんは、官僚主導によって行われ、歴史の反省が国民に十分に行われないようにコントロールされ、時代の成り行きによって、家庭が崩されたサラリーマンの子どもたち世代、アイデンティティを喪失した戦後世代によって国家主義が支持されるようになり、やがて改ざんされた歴史が受入れられるようになった、というのが、まあ、おおざっぱな流れ、ということなのでしょう。

でも沖縄の人たちは騙されなかった。日本と日本軍に利用され、切り捨てられ、集団自決によって、自分の家族を自分の手で殺める、という凄惨な経験をしてきた人たちだった。

わたしもかれらに連なりたい。どこかに帰属するんなら、若かったから、とか、女だからとかいう理由で、わたしの個性も人格も努力と成果も決して認めてくれない日本という「伝統・風習」じゃなくて、ひとりひとりの人間を個別に尊重しようと宣言してくれている日本国憲法に、自分のアイデンティティを帰属させます。それと、エホバの証人というカルト宗教に逃避していた経験からも、全体主義の危険性を熟知できたので、同じ過ちを犯さないようにしたい。もう二度と、考えることを他人任せにしてしまう愚行は繰り返すまい。いま、わたしはこういう決意を決して大きくはない(笑)胸に抱いているのです。


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