今回は、わたしを救ってくれた本を紹介します。
ゴードン博士の人間関係をよくする本・自分を活かす 相手を活かす/トマス・ゴードン・著
です。あの名著、「親業」をお書きになった方です。わたしはこれらの本のおかげで、会社で生きてゆけるようになりました。そこそこ「人望」なるものも年齢に応じた分は得られるようにもなりました。長いあいだ、エホバの証人によって、個性や自発性を圧殺されてきた2世のかたがたに、人間関係のスキルをわかりやすく教えてくれている本です。気持ちに余裕のあるときにいちどご覧になっていただきたい本です。
その中から、冒頭部分を紹介します。「権威」ということをゴードン流の考察が述べられています。エホバの証人でなされている教育と正反対であるのに気づかれることと思います。もっと素直に自分を表現したい、いいリレーションをつくりたいと思われる方、ちょっと目を通してみてください。
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N.Y州立大学教授のロブ・ケーゲル博士は、学生を対象に最悪と最善の人間関係についての調査をしました。調査項目のなかには、友人、パートナー、兄弟といった学生とほぼ対等の関係についてと、上司、教授、親などという自分より目上の人との関係についてのものがあり、学生はこういう関係が自分にとってどんなものであるかを描写するように求められました。結果は見事にはっきりしていました。
<人はどのような関係を最悪と感じるか>
学生が「最悪(ワースト)」に数えたのは、操作的、支配的、不公平、不平等な関係でした。学生の回答によると…、
操作的で支配的な人はお互いの違いを、「こちら側」か「あちら側」か、
「善」か「悪」か、
「正しい」か「まちがい」か、
「よりよい」か「より悪い」か…
というふうに眺め、もちろん操作的で支配的な人のほうが「いい方」だと考える、と言うのです。支配的な人の持つ自己中心性は、回答者である学生たちに、自らを無能で不適切な存在だと感じさせる結果に至らせています。自分のステータスを使って勝とうとする人、他者を犠牲にしてまで自分を立てさせようとする人は、負ける人、犠牲にされる人に、恥ずかしい思いや不安の感情を抱かせ、人間関係を築くのに必要な「信頼」の感情をもてなくしていきます。学生は「一方的」、「利用された」、「支配された」といった言葉で、こういう破壊的な関係を的確に表現してゆきます。
調査に回答した学生は、対等ではないこうした関係は、必ず不公平であるとも考えていました。そしてこういう関係には必ず「勝ち負け」が生ずると特徴づけ、支配者は、親・教師・上司といった「関係から生じる権力」を使って物事を強制し、不当な結論を押しつけて「勝つ」と答えています。負ける側は、ステータスが低く、力もないために依存せざるをえず、不本意ながらも相手を必要としていることから、こういうような一方的な関係を受け入れざるを得ないものだ、と言います。
<ベストと感じられる人間関係の特徴>
他方、「ベスト」の関係の特徴としては、尊敬、気遣いのある、信頼、正直、支えあい、開けたコミュニケーションなどを挙げ、さらにこういう関係からは、「お互いの違いを尊重すること、共感、愛情、理解」が育まれると答えています。相手がこうした特長を示すときには、お互いの間のステータスの違いの有無に関わらず、相手との関係はよいと言います。
ケーゲル博士の調査によると、ベストな関係には満足感があり、心が高揚し、幸福感が増し、自分のことをより完全に感じると学生たちは語っているのです。この関係をケーゲル博士は次のような言葉でまとめています。
「こうした関係では、お互いが感謝され、大事にされ、価値があると感じられるのです。さらには絆の深さを感じられるし、他の人を信頼できるとも感じられます。ほかのほとんどの人間関係と違って、このような相互的なつながりは、お互いを豊かにし、支えあい、力づけるのです。」
ケーゲル博士の調査は、わたしたちが日常経験することを裏づけていると思います。健康で幸福な人間関係にもっとも悪い影響を与えるのは、お互いの間やグループ内に生じる「力の差」なのです。もし、一方が、もう一方のやりたくないことをやるように無理強いしたら、その関係にトラブルが生じます。こういう不公平な関係は、ケーゲル博士の調査対象になった学生が「勝ち負けを決める関係」と名づけたものであり、彼らが一様に、無力感や利用されて支配されてしまったという感じをもたされたというものなのです。
ではいったい、人間関係を蝕む「力の差」、ステータスの違いといった事実に根拠を与えているものは何でしょうか。それこそが「権威」と言われているものなのです。人間関係を理解する上で、権威という言葉は鍵となるので、ここでその意味を確認し、人がいかにそういうものを身につけるかを検討してみましょう。
<人間関係に問題を起こす権威 起こさない権威>
まずはじめに、権威にはいくつか種類があります。ひとつは専門知識を伴い、高く評価されるものです。たとえば、自分の車が故障したら、腕のいい修理工、すなわち自動車のメカの権威に修理してほしいと思うのではありませんか。自分の主治医は健康管理と病気の治療については権威があると思っているでしょう。知識・経験・訓練・叡智・教養から来る権威は、他者から求められるものです。この種の権威が人間関係の問題を生むことはまずありません。
権威にはまた、その人の地位や互いが認めている職務に由来するものがあります。警察官には交通違反のキップを切る権威があり、委員会の議長は委員会を開会・閉会する権威があり、判事は法律について判断し、新聞社のデスクは部下に仕事を命じる権威がある、といった具合です。職務に伴う権威は、その仕事の役割が正当であるtお関係者が受け入れ、互いに認め合っている場合には、人間関係にトラブルを起こすことはありません。
人間関係に問題を起こすのは、「権力に基づく権威」です。相手のやりたくないことをやらせようとする、強制し、支配する権威です。軍隊に入った経験のある人は、この種の権力に基づいた権威を、ごく身近に体験してきたはずです。軍隊に入った経験がなくても、ケーゲル博士のところの学生のように、相手(の人権や自尊心)を犠牲にしても勝とうとする人たちの権力ゲームの負け側には、何度も立たされたことがあるはずです。
軍隊の隊員は、たとえ指令に同意できなくても、従うことが必要です。この種の絶対的な服従なしに、軍隊という組織は機能しないでしょう。しかし、そのほかの組織の場合には、こうした服従や従順さはまったく必要ありません。夫婦、家族、学校、企業などでは、ある決定に従うか従わないかについては十分に選択の余地があるのであり、その選択のなかにこそ、よりよい人間関係への希望が託されているのです。
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ルナの感想!
この最後の段落に注意! この点こそエホバの証人の「管理職」の人たちに知ってもらいたい! 野外奉仕の最中とか大会運営とかいう場面なら、長老たちは従わせる権威はあります。しかし趣味や進路、生活設計、あるいは医療・宗教の選択ということについては、個人の権利の領域なのです。長老という権威が個人の人権に踏み入ろうとするのは僭越な行為なのです。宗教はあくまで個人と神との関係なのです。神の組織は「世界的な伝道活動」をのみ監督すれば良いのであって、個人の感受性や感覚、判断、決定まで統率しようとしたから、カルトだと見なされるのです。これは長老や支部・本部の人々に、人権意識の未熟さがあるということの表れだとわたしは思います。
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<戦うか、逃げるか、従うか:権力への3つの対処法>
よくわたしに投げかけられる質問のひとつに、「権力の源は何か、それはいったいどこから来るのか」というものがあります。そういう質問をする人は、それまで負け続けてきた自らの闘いを勝ちに転ずるべく、自分だけが知らされていない、隠された権力の源を突き止めたいと思っているふしがあります。しかし、秘められし権力の源の存在を信じるのは、この世のどこかに不死の泉があると信じるのに似ています。
わたしの答えは「権力は賞罰を与える能力に由来する」です。言い換えるなら、権力とは、「喜びまた苦痛を生じさせる能力」なのです。権力を振るう者は、賞罰を操って自分の欲しいものを手に入れようとするのであり(エホバの証人ならば、服従そのもの、人権、人格を権威者に大部分あるいは全部差し出すことを求める)、もし苦痛が十分大きく、報酬が十分望ましいものであるなら(エホバの証人にとって、他人の人間性を操作できる権限というのは、自分の優越性を確認できる最高の報酬です)、相手をいともたやすく従わせることができます。
しかしながら、相手を従わせることには支払うべき対価がついてきます。相手はただ従うだけではすまないのです。自分の人間性を守るために、自分のやりたくないことをやらされることに対応するすべを身につけていきます。いわゆる対処機能と呼ばれる行動で「闘うか・逃げるか・従うか」の三つに分類できます。
「闘う型」とは、反抗、抵抗、欺く、仕返し、をもって応じることです。
「逃げる型」は、身体的に、あるいは感情的に、またはその両方ともに逃げようとします。引きこもり、逃避、幻想を抱き、アルコールやドラッグを服用してしまいには病気になってしまうこともあります。
「従う型」は、子ども、学生、従業員などが身につけることが多いのですが、三つの型のうち一番健康ではありません。権威を敬い、命令に従う、特にその内容が自分の重要な欲求と相反するような命令に従うことは、ふつう子どものときに学習し、実践する自制のメカニズムで、多くの人が成長してからも使うようになるものなのです。
しかしながら、従順さは、自己主張や、自分の能力を十分に生かすスキルを育むことにはたいへん悪い影響を与えます。考えてください、従順であることが対応パターンであるような人は受身で、自発性がなく、依存的ですから、従業員としては有能になりにくいし、どんな人間関係でもむずかしい相手となってしまいます。なぜなら、表向きはやさしくて人づきあいがよさそうでも、その下にはすさまじい怒りと敵意が隠されているのですから。
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あなたは、周りの人々に敬服されることが、成長した人間だと思っていませんか。いいえ、人間として成長したなら、すべての人と心理的には対等につきあってゆけるものなのです。地位や肩書きで人を従わせることは、自分を孤立させてしまいます。会社を辞めたりして肩書きを失うと、プライドの拠りどころを失くしてしまうことになります。丸はだかの人間性に自信があれば、人に臆することはありません。退職してもつぎの目標を見つけて、次のステージで自分の目標を実現させようと意欲的に生きてゆけるでしょう。自分で目標を立てて追求し、成し遂げる。「よし、やった!」っていう満足感・充足感が自信のブロックを積み上げることであり、そうすることが人間の生きる意味なのだとわたしは思うのです…。エホバの証人から出てきたばかりのあなた、とりあえずは、押し込められ、埋められていた「本来の自分」を救出し、引っ張りだしてあげて、元気を取り戻させることを目標にしてはいかがですか。多分、これが自分の人生で最大の難事業です。わたしにとっておおいに役に立った本をもう一冊紹介します。
「アダルト・チルドレン癒しのワークブック/西尾和美・著」 学陽書房・出版。
呪わしい「エホ証」の、情緒未熟な、そしてかわいそうなバカ親から解放されましょう! 自分は自分です。「自己不在」な親の夢を自分が代理で追求する必要なんてありません。自分は自分の欲求を求めて生きる権利をわたしたちは宗教権力から勝ち取ってきたのです。わたしたちは誰か他の人の目標の達成のための手段なんかじゃありません。自分は自分の欲求・意欲を持っていいのですから。その代わり、たとえ自分のお腹を痛めた子どもであっても、自分との違いを認めてあげて、その子の個性や権利はきちんと尊重してあげなければなりません。まして同僚や友人ならばなおのこと。でも、そうするときに初めて、友情や尊敬や信頼は得られるものです。これはわたしが偉そうに説教しているのではなくって、有能で成果を上げ、世界的に評価されているサイコセラピストや精神科医やカウンセラーがお書きになった本から引用した文章なのです。聖書に書いてありましたよね、聞くことに早く、語ることに遅くって。
自分の言いたいことをずっと押さえ込まれてきた人は、こんな説教じみた話を聞けば、とかく反論したり、ケチをつけたくなるものです。“I'm not OK, You are not OK”型の人生観を持っているはずです。でも乱暴な言葉を投げつけたり、人格攻撃をしたりして最初に傷つくのは実は自分自身なのだそうです。自分で自分の自尊感情を傷つけ、自分で自分の自己評価を貶めているのだそうです、そういう方面の先生方によると。この世ってエホバの証人が言うのとは全然違って、もっと広いです。素直になれば、ほんとうに素直に答えてくれます。この世でも人間関係で悩むのだとしたら、それはその人の働きかけ方にまだ間違いがあるからだと思います。権威には3つあるとのことでした。少なくとも、サイコセラピストの「専門知識を伴い、高く評価されてきた」意見には耳を傾ける価値はあると思います。