Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

Interlude5

2005年04月28日 | 一般
自分の決定を信じること、
ただひたすら信じて続けること、
自分のプライドのためだからできる。

他人に認められようとか、
影響力を持とうとか、
そういう動機でいると、ひとりの時間が耐えられない。

だからエホバの証人は、
不公正であろうとなんだろうと、
集会へ行きたがるのだろう、
特に奉仕の特権という肩書きを持つ連中は。

実のある信仰でなければ、
自分に与えられた評価は、
権力者に取り入って得られたものでしかないことを
だれよりも自分がいちばんよく知っている。

だからひとりでいると、不安でしょうがない。
これがエホバの証人の管理職の「孤独」。
自分の本当の姿に向き合わなければならない「ひとりの時間」、
彼らにとって、これ以上ないくらい、みじめなひと時。

自分が本当に望むことのために、
時間と労力を費やしてごらん。
自分の望むことが目標なら、
プロセスそのものが充実するから。

それがあなたの心を、自信で満たしてくれる。
自信ができれば、人は人、自分は自分と思えるようになる。
日々生きることが楽しくなる。

だから、さあ、もう人目につくようなパフォーマンスから降りなさい。
ステージから引き返しなさい。
群集の賞賛を期待し続ける間は、あなたは群集に媚びつづけなければならない。
自分の内なる声に耳を傾けて。
自分の望みを達成してゆくスリルは、心に確信をもたらしてくれる。
確信があれば、もうだれにも媚びずに自分を主張できる。

「あなたはあなたの望むとおりに中傷するがいい。
わたしは自分がどんな者かを知っている。
あなたがわたしを非難することは、わたしについて正しい評価でないことを知っている。
だからあなたの中傷にめげたりすることはない。
あなたのどんな言葉もわたしをコントロールすることはできない。
わたしはあなたたちの賞賛がほしいのではないからだ。
わたしはわたしの喜びのために行うだけだ。
だが、あなたたちよ、あなたたちは自分がどんな者かを知っているか。
いかに心が空虚であるかを知っているか」。

‐まことにイスラエルの聖なる方、我が主なる神は言われた。
「おまえたちは立ち返って、静かにしているなら救われる。安らかに信頼していることにこそ、力がある」と。
しかし、おまえたちはそれを望まなかった。
(イザヤ30:15)

「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。
ただ会堂から追放されるのを恐れ、
ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
彼らは神からの誉れよりも、
人間からの誉れを好んだのである」。
(ヨハネ12:42-43)
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自分に正直でいるのがいちばん

2005年04月27日 | 一般
ベトナム戦争はアメリカに精神的に深い傷を負わせた。ベトナム帰還兵のかかえるメンタルな問題は、映画や文学で取り上げられているだけでなく、精神医学でもさまざまに研究されてきた。それは「心的外傷後ストレス症候群」という長ったらしい名前の心理的な障害に分類されている。

命の危険を感じるような恐怖の体験をした場合、あるいはそれに勝るとも劣らぬ深刻な体験をした場合、そこで受けた心理的な傷がずっとあとまで治らないで、いろいろな障害を引き起こすことがある。戦争。災害。強盗に襲われたとき。レイプされたとき。家族が殺されてしまったとき。家族離散。偶然目撃してしまった暴力犯罪。

こんなことが起こったとき人はどうなるか。あんまり理不尽なことが起こるとまず最初はそれを信じることができない。世界と自分が切れてしまったような状態になる。だから大事な人が死んだということは棚上げしたまま、目の前の用事をテキパキこなすということもある。

突然の事故で家族が亡くなったりしても葬式などでは案外しっかりしている遺族が多いのはこのためである。悲しみや怒りの感情がわいてこないのは冷静な人だからではない。あまりにも傷が深いために、自分自身に傷を受けたことさえ受け入れることができないのである。しばらくしてからいろんな感情がわいてくる。悲しい、腹が立つ、悔しい、ひどい…。決していい感情ばかりではない。

でもこういう気持ちになるのはごく自然なことだ。ここで十分な精神的な支えがあれば、いろんな気持ちを表すことも少しは楽になる。怒ったり、泣いたり、からんだり、めちゃくちゃなことを言ったり。そういう過程を通ってから、何とか新しい生活に向かっていける。大事なものを失ったということには変わりがなくても。さびしい気持ちや割り切れない気持ちをかかえながらも。

ところがそれがうまくいかないときもある。ベトナムでジャングルに潜む死の恐怖にさらされてきた帰還兵はまず本国で温かく迎え入れられなかった。ベトナムでの体験は無意味だとされ、戦争での記憶は一刻も早く消し去ってしまうほうがよいとされた。家族も近所の人も聞き手にはなってくれなかった。こういう中で多くの精神的な不適応状態が発生したのである。

何をしていても事件の苦痛な記憶がふっと頭に侵入してくる。繰り返して苦痛な場面の夢を見る。戦場体験のフラッシュバック。事件の起こった日の前後になると調子が悪く苦しくなる。同じような事件をニュースでやっていると、ありありと苦痛が思い出される。

こんな症状があっては日常生活もうまくいかない。そこへ「いい加減に忘れてしまいなさいよ」、「もっと前向きに生きなさい」、などという「善意」のひと言や「理性的な説諭」が胸を刺す。忘れられないからこうなっているのだ。ほんとうは忘れるよりも、話すことが必要なのである。精神医療への関心が発達したアメリカでは、心理的な傷を負った人々を理解し、受け入れ、援助するための組織がボランティアに支えられて活動している。

(おしゃべり心理学/小西聖子・著)より。
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心の傷は信頼する人から拒絶され続けたときにだって生じる。親が自分の感情の面倒を子どもを巻き込んで解消しようとあがく。親が成し遂げられなかったことを、子どもにさせる。親の気に入る言動をしなければ、やさしく接してくれない。こんなコントロールにさらされてきたわたし。あきらかにまちがっている、それが自分にはわかるのに、親は理解しようとしない。だからしまいにヒステリックになって、やけくそで親の言うことをやりつづける、自分に痛い思いさせても。これでもか、これほどやってわたしはクタクタになっている、それを見てもお前らは自分の間違いを認めないのか、わたしのほんとうの思いを悟らないのか!

悟らない。親は恨んでいるからだ。自分の押しつぶされてきた人生について、そういう運命を恨んでいるからだ。
「あたしはそうやって生きてきたんだ、人生とはそんなものなんだ。自己実現だと? 甘えるな! 人生とは痛みに耐えることだ!」
そう心に思って、親は怒っている。おそらく、夫を、親の親に訴えているのだろう。おまえが思いやりを示さないから、わたしはこんなに荒んでいるって。

歪んだ情緒の連鎖から離れても、自分で自分を認められない。どうせわたしの言うことやることは批判されるんだってすねている。そして批判されるとすごい傷つく。たとえそれが建設的な助言であっても。批判されると、自分の全人格が否定されたように感じるからだ。親や会衆が、エホバの組織にかなうものでなければ一切ダメって言って、わたしの独創や個性を否定し、そんなことをいうお前には「資格がない」と言われてきたからだ。

傷ついたエホバの証人の心的外傷をいたわるサービスってないの? ないんです。元エホバの証人のHPにさえ、模範解答を強要する過剰適応のままの人がいて、「忘れなさい、前向きに見ろ、一部で全部を批判するな」という理性的な説諭で胸を刺す。幼い頃からそういう言葉を話し、信じるよう押し込まれてきた人たち。きっと報いを受けるよ、あんたらはさ。そう、子どもにあなたたちは、よい子でいるよう強要する。本音を話すとあたまから、そんなこといっちゃダメ!って拒絶する。皮肉なものよね、エホバから逃れてきていながら、エホバと同じ方法で子どもをコントロールしようとする。そして将来こどもは、わたしと同じようにあなたたちを憎むようになるのだ。「自分のまいたもの、それをあなたたちは刈り取ることになるのです」。

おまえの子どもの行く末を予言してやろう。

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ある母親が子どもからラーメンを浴びせられたといって、某カウンセラーを訪ねてきたそうだ。深夜まで机にへばりついて勉強している高校生の息子にラーメンを運び、振り向きもしない息子の背中に「がんばってね」と声をかけたら、いきなりドンブリごとのラーメンが飛んできた。同時に「これ以上、どうがんばれっていうんだ!」という罵声も飛んできた。それから母親への暴力が始まって手がつけられないということで、「おかしくなった」息子を治療してほしいというのが親の言い分なんだが、この母親は、自分が息子にやってきた長年の暴力・虐待に気がついていない。「親の期待で子どもを縛る」という「見えない虐待」である。子どもは親の輝く顔を見たい一心で生きている。そんなふうには見えない子どもでもそうであることは、自分の子ども時代を思い出せば分かるはずなのに、親という役割に囚われた人は、このことを忘れてしまっている。子どもにとってよしと思えることは否定し、親にとってよしであることを感じ、思い、考えるよう調教するのが、この小子化時代における親の子ども虐待である。
(依存と虐待/斎藤学・編)より。
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おまえには自分の考えというものがない。人に気に入られることをもって自分の考えとしてきたからだ。そんな自分の内面の空虚を、お前は子どもに悟られたくない。だから世間体に合うことのみを考え、話し、感じるようコントロールする。エホバの証人から逃れ出た人の最大の敵は2世のエホバの証人だ。

わたしは一度だけ父親のことばに喜んだことがある。まだ小さかった頃、換気扇を指差して、「あれがくるっとこちらのほうにも向くようにしたら、扇風機になるね」って言ったら、父は、「ほんまやなあ、S子は頭ええなあ」と言ってくれた。そのときわたしはとてもうれしかったのを覚えている。子どもの考えをそのまんま受け入れ、肯定し、誉めてあげたあのときの父親は立派な父親だったのだ。

落ち込んでいるとき、現実をはっきり見定めることのできる人なら、「前向きに見ろ」といって、子どもの心の傷を軽視しないだろう。むしろ「お前が悲しみ、怒るのは当然だ。あの長老のほうが間違っている。泣いていいぞ、怒っていいぞ、お父さんのとこへきて泣きなさい」と言うだろう。こうして親子の信頼は築かれる。

だがおまえでは無理だ。おまえならただ、いつまでもめそめそするんじゃありません、と子どもを突き放すだろう。子どもはお前を憎むようになる。そのとき、お前はどうする? 助けを求めてもう一度、エホバの証人に復帰するんだね!


そうですよ、傷ついたみなさん、あなたが怒りに感じるのは当然のことです。あなたは虐待されてきたのです。言葉で傷つけられても、打撃をもって暴行されても、脳は同じ場所で痛みを感じ、体も同じ仕方で反応します。人間は暴力で顔を腫らされたから屈服するんじゃない、自尊心が貶められたから屈服するのです。侮辱のような言葉の暴力を取り締まる法律はないから、「そんなことをいちいち気にするな」で片付けられがちですが、それは違います。同じなのです。言葉による攻撃も、身体的な暴力も相手の自尊心を貶めて屈服させようとする点で同じなのです。だから、「よい子」で「ものの分かった」おりこうな2世が幅を利かせている掲示板からは去りなさい。彼らが求めているのは、自分自身への賞賛なのです。彼らはあなたの気持ちなど決して理解しません。彼らはあなたの心の怒りを拒絶するからです。それを間違いだと言って非難するでしょう。あなたのやるせない悲しみは有能なカウンセラーに話しなさい。日本には有能なカウンセラーは限られてはいるようですが…。あなたの怒り、悲しみは共感して聞いてくれる人を必要としているのです。あなたは自分に正直であってください。もうエホバの証人じゃないんですから。



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「たったひとつのことがわたしの気にかかる。
それは、どうか自分が人間の本来的な素質の要求せぬことをやったり、要求せぬ方法でやったり、現在要求せぬことをやったりすることのないように、ということである」。
‐マルクス・アウレリウス  …ローマ皇帝(AD.121-180)でストア派の哲学者。
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暮らしの中のマインド・コントロール

2005年04月26日 | 一般

マインド・コントロールという手法は時には治療の目的でも使われる「手法」です。またその方法は暮らしの中でそれと気づかないようにしかしよく使われているのです。今日はその一例をご紹介します。

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六番目には、いじめには“馴化”を目的とするものと、“排除”を目的とするものとがあります。馴化というのは、つまり馴らすこと、猛獣などを馴らすことです。爪を抜くとか、牙を折るようなことが馴化です。“排除”も最終的には同じ結果に至る時もあるのですが、しかし馴化と排除はけっして同じものではありません。いじめのプロセスをみるときに、初期の段階と最後の段階で、その使い分けが行われます。

馴化は、ある集団に共有されている規範、ルールのこと、つまり文化とか価値観を、新たに集団に参加してきた人に学習させて、新しいグループの中でうまくやってゆけるようにと「世話焼き」の形をとることがあります。一種の教化でもあります。

この教化のプロセスの中で、先に集団に身を置く者が、後から来た者に対して力を持ちます。たとえば、お母さんの公園デビューも、そのなかでの特有のルールや規範がありますし、同じアパートの住民のごみ出しの「伝統的」なルールのようなものもあるわけです。アパートの集団のなかでの住み方についても、馴化が行われます。

そのプロセスの中で、どちらが先に身を置くかで、もうすでにいじめの基本要件が皆できあがっているのです。力を持つ者が世話焼きのかたちで介入して支配してゆく。その相手方の人の持つ価値観や規範は、馴化のプロセスのなかで暴力的に剥奪されることもあります。「わたしはこう思うのだ」といっても、だめなのです。



〈カルト集団のマインド・コントロール-「私が神さま」の醍醐味〉
たとえば、カルト集団のなかでのマインド・コントロールも同じです。マインド・コントロールでは、“私”というものは徹底的に剥奪されます。“私”とか、“任意”とか、そのようなものがあってはいけない、それらを剥奪してゆくことで“新たな私”を教祖側から与えてあげます、というのがマインド・コントロールです。

じつは“新しい私”を作り、相手の人の元来の“私”を捨てさせるのが、カルトの醍醐味なのです。どうして他の人の勧誘に熱心なのかと言うと、勧誘することが報酬なのです。勧誘して、他の人が持っている“自我”とか“私”を剥奪する。それが自分の力の確認になるのです。そうすると、剥奪したほうが自分の力を確認してワンランク分、相手の人より心理的にアップする。剥奪された人は心理的立場がダウンしますが、剥奪したほうの人は(あたかも神のような)自分の影響力を確認できて、たまらなくうれしいことなのです。

******
ルナのひとこと。
これはこのブログの、「他人の目を気にしない」の記事で紹介した、「自己不在」な人の描写を敷衍しています。以下は「他人の目を気にしない」の記事からの引用です。

自己不在の人は他人にかまうことで自分の存在する意義を見出そうとします。子どもを甘やかしすぎる「過干渉」はその一例です(子どもが自分で試行錯誤して目の前の問題や興味を解決しようとするのを妨げて、親が先回りして解決してしまう、など)し、またどんなに虐待を受けても、アルコール依存症の夫の世話をかいがいしくすることで生きている実感を得ようとする妻もそうです。

…今書いているこの記事では、元来の“私”を剥奪し、新しい“私”を上書きしてゆく、という心理操作、という方式として言い表されています。よりおどろおどろしいですね。エホバの証人が、聖書から「新しい人格」、「クリスチャン人格」というキーワードを切り抜いてきて、そのキーワードを、組織への無条件の服従という指導要綱の上に貼り付けて、無批判に服従するエホバの証人人格を製作しているさまにピッタリあてはまる、とルナは思いますが、いかがでしょう?
*******

一方、剥奪されたほうはどうなるかというと、新しい世界観を持つようになります。今までそう思わなかったものを、そう思うようになるということで、巨大な神権組織の一部分になるわけです。自分を導いた人が上にいて、その導いた人の上にまた上の人が…というふうにして、ずっと階層の序列があって、最終的には神が頂上にいるという世界を拡大してゆく…、そういう階層が厳として出来上がっているのです。

この階層の一番下には“パンピー”がいるわけです。“パンピー”というのはもう死語になっているかもしれませんが、一般人、つまり“一般ピープル”の略です。(パンピー…。エホバの証人のヒラ伝道者を言い表すのにこれほどフィットする言葉をわたしは知りません)

カルト集団を説明するときに、パンピーという言葉を使うと、とても分かりやすいと思うのです。たとえば、オウム真理教の場合だと、パンピーは野ねずみに近い存在だから、焼き殺して早くポアしたほうがいいのだ、パンピーをこちら側に入れてあげるのは親切なのだと。こういう階層の序列をカルトに限定してしまえば、わたしたちには関係ないと思うかもしれません。しかし、人間というのはシンプルな世界に住んでいるとわたしは思っています。実際はみんなだいたい似たようなことしかやっていないのではないでしょうか。



〈家族の中のカルト的構造・機能不全家族の特徴〉
たとえば、家族のなかでも同じようなことが起こっています。

階層社会になっていて、自分の家の壁と家族以外の者の家との間で非常に格差を持っている。そして家族のなかで“家族教”のようなものを持っている。そういう形態を持った家族のことを、わたしは“機能不全家族”と呼んでいます。

機能不全家族の特徴は、(心理的な)壁が厚くてよそとはっきり分ける。家のなかにも階層があり、かならずそこを支配している存在者がいて、独裁者のような影響力を持っている。この序列は決して変わらない。
(エホバの証人では、男性中心の父親権力機構はエホバによって定められたおきて、とみなされている)
子どもが30歳になっても50歳になっても子どもは子どもであって、死にかけの老人が依然と力を発揮していたりする。

いちどこのなかに入ったら、出るのが大変です。早く自立しろなどと言われていても、いざそこから出ようとして、「なんとか一人暮らしができるくらいの給料はもらっているので、アパートを探すよ」などと言ったら、「出てもいいよ、そのかわり帰って来るな、何があっても知らない」というようなことを言われてしまう。

たまたま家を離れている場合でも、離れれば離れるほど、電話をかけ、元気かどうかを尋ねるような世話焼きのかたち、あるいは「お前がいなくなってから、体の具合が悪い、ちょっと見に来い」とか「入院することになったから来い」、「あるいは金をやるから来い」というつながりがずっとつづく。これが機能不全家族の特徴で、この特徴はカルトと非常に似ています。



〈アパート集団での世話焼きと馴化〉
このように馴化そのものは、自分の力を確認するのにたいへん都合がいいことなのです。

地方出身の人で東京あたりに来て、アパート暮らしだという人などは経験しているのではないかと思いますが、ゴミの出し方などで戸惑って困ってどうしていいかわからないでいると、ニタニタしながら寄ってきて、いろいろして見せてくれる人がいます。そういう人たちは困っている人を求めているのです。少し間違えただけでも、「はらほら間違えたー」と騒がれたり、アパート全体にとって不都合なことがあると、みんな新参者のせいにされてしまったりします。

わたしのクリニックに来ている人の多くがこのようなことで悩んでいて、手紙を書いてきたりします。また、アパートが同じでなくとも、近所で必ずそういう人がいて、世話焼きともイジメとも見分けのつかないようなことをされて困っている方が多いのです。


(いじめをなくす親子関係/斉藤学/
1996年9月の世田谷保健所主催、思春期講座講演の記録より)

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新刊書案内

2005年04月25日 | 一般
とても読みやすく、未熟な自分をいまからおとなに育ててゆくのに、とても助けになる本が出ました。文庫本なのでお値段も安い! 税別533円。 読書が苦にならない方にぜひお勧めします。もちろん、表題のとおり、これからお母さんになろうという方にはぴったりです。

*アドラー博士の子どもに自信をつける魔法のしつけ・星一郎・著/三笠書房*

内容を一部、かってに引用します。

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蟻が自分の体の何倍もあるような食べ物を引っぱっているのを見ると、わたしたちは思わず「すごい」と感心してしまいます。蟻にとってはきっと当たり前のことなのでしょう。しかし、その蟻の生きていくための営みそのものが、わたしたちを感動させるのです。

では、わたしたち人間はどうでしょうか。わたしたちは日々の生活の中で、大人も子どもも、それぞれに悩みや問題をかかえて生きています。でも、それに負けることなく、一生懸命に生きています。泣いたり、笑ったり、時には怒ったり、そして人を好きになったりしながら、それでもそ知らぬ顔で日々を過ごしています。このように生きていることそのものが、尊敬に値することではないでしょうか。人間は生きているだけで、人に愛される価値があり、丁寧に扱われる価値があるのです。「自尊心を持つ」とは、「自分が生きていることを尊敬する」ということです。これまでの人生や、いま、自分がここにいることそれ自体が尊敬に値するのです。

自分は歴史に名を残すような人間ではないかもしれない、たいした才能もなく欠点だらけの人間かもしれない。けれど、それでも一生懸命生きている。そんな自分を心から認めて、尊敬するのです。自分を認めることができれば、自分に自信もつき、人生を積極的に生きていくことが出来ます。

もちろん、一生懸命に生きているのは、自分ひとりだけではありません。周りにいる人々も、みんな同じように一生懸命生きているのです。ですから、自分を尊敬できる人は、周りの他人をも尊敬できる人です。言い換えると、自分が好きな人は他人も好きになれるのです。

自分を尊敬できれば、日常の中でおかした失敗さえも、いとおしく思えてきます。また、思うような結果を出せなくても、それまで一生懸命やってきたことは無駄ではないと考えられるので、自分を必要以上に責めることもありません。

きちんとした自尊心のある人は、自分を裏切ることも、自分を見捨てることもないのです。
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「絶対観」は原始的な思考です(9)

2005年04月24日 | 一般
ルソー登場


教会権力のもとでは、人間にとっての「善」というのは、神と、神が与えた権威や権力に対して、清く、正しく、潔く生きること…。だから被支配者たちが自由に意見を言い、自分の生を自由に選ぶなどというのは自分勝手なことだと信じられていました。近代になって哲学が復興し、人間はひとりひとりが自由な存在である、自由であるとは、利己心を克服して理性にもとづいて行為する能力を持っているということである、そういう意味で自由である人間は道徳的に生きることが必ずできるのだ、という理解を得たのでした。

したがって、近代哲学的には、「善」とは「神」や「神聖なる権威」に由来するものではなく、ただ人間の「理性」に由来するものである、そして社会とは、各自が自由であることを自覚したひとりひとりの人間がみな対等の存在であることを認め合い、全員の合意で作ったルールで運営すべきものだという認識に達したのです。社会を形成して、共同作業で生きてゆく際にも、共同体としての結びつきを維持したままでなおかつ、誰にも隷属せずに自由なままでいられるような社会のあり方、そういうものをルソーは考案したのでした。それが「一般意志」を根拠とする「社会契約」という概念です。

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「社会契約論」の最初のほうにこのように書かれています。

「社会秩序は神聖な正義であり、他のあらゆる正義(=法や権利)の基礎の役割がある。しかしこの正義の根拠は自然から出てくるのではなく、いくつかの約束かに基づくのである」。

法や権利は、その社会で正しいこと(=正義)として認められているものです。ではそのほうや権利の正当性はどこに由来するのでしょうか。ロックはそれを神によって賦与されたものと言いました。しかし、ルソーは神に由来するとはまったく認めませんでした。
****
ルナもまったく合点、合点! 神はもううんざり! 神はもう引っ込んでてよね!
****
ルソーは、法や権利というものはすべて、人々の取り決めであり合意にもとづくものだと考えます。もちろん、とにかく多数決などで合意があれば何でも正義というのでは、秩序は保てません。そこで、あらゆる権利や法の大前提となるような根源的な取り決め、つまり社会秩序そのものを成り立たせる根源的な取り決めがあらねばならない、それは何だろうか、とルソーは考えたのです。その答が「社会契約」と言うのです。

その際、「下記人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身の自由は失わない(社会契約論 第1篇第6章)」ような社会のあり方がなくてはならない、とルソーは言います。そういう性質を持つ「社会契約」の基本条項とは何か。それが、「われわれの各々は身体すべての能力を共同のものとして、一般意志の最高の指揮の下に置く(社会契約論 第1篇第6章)」というものでした。

「一般意志」とは、問答無用に服従すべき全体主義的な国家の意志、などというものではありません。ここで重要なのは、一般意志は各人の意志でなければならないという意味であって、「だれもが求め、だれもがそれを望む」と言う意味内容のものなのです。そしてそれは何よりも、法や政策の正当性を決定づける根拠となるものである、と言う意味なのです。

ルソーは人民主権の立場をロックよりも明確に打ち出していて、そこでは法は人民集会(議会)で議論され、最終的には多数決で決定されることになります。しかし、ルソーは「多数」が法の正しさの根拠となる、とは考えませんでした。

たとえば、多数決が絶対であるとすると、国民の9割を占める白人が団結して、「残り1割の黒人からは税金を倍額とる」というような法案を通過させてしまえば、それも正義だと言うことになります。これはどう考えても正しいことじゃないですね。法の正当性の根拠となるのは、だれもがそれを自分の利益になると認め、だれにとっても必要とされることでなければならない。一般意志であるかどうかは、社会を構成するメンバーひとりひとりの対等性をきちんと考慮して法を定めるべきだ、とルソーは言います。しかたがって、先のたとえの「黒人税金倍額法」は対等性(公正さ)を欠いているため、一般意志とはなりえず、法として正当性は認められないということになります。

人民集会(議会)での議決の際は、「この法案が“私”の得になると言う理由で判断してはいけない、それがどんな人にとっても得になるかどうか、という点から判断しなくてはならない、とルソーはいうのです。ですから、「一般意志に従え」という社会契約の条項は、「法を決める際には私だけの利益を顧慮するのではなく、各人の利益を顧慮することにします。そして各人の利益となる法には、納得して従います」という意味なのです。

著者(西研氏)のことばでかみくだいてまとめましょう。
つまり、あらゆる個別の法や権利の大前提にあるものは、その共同体のメンバー同士はみな対等であることが保障され、互いが生きられるように配慮しよう、という内容の「契約」である。だとすれば、対等な人々の誰もがそれを必要とすること(=一般意志)のみが、ルールの正しさを決める基準となる、ということです。このようにルソーの思想をまとめることができます。
*****
(ルナは言いたい!)
エホバの証人の統治体の「政策」あるいは成員管理はこれと比べてどうでしょう? 彼らはメンバーの「対等性」を認めているでしょうか? メンバーの側に立った仕方で必要を顧慮しているでしょうか?
*****

しかし、「一般意志」とは実際に全員の賛成を調達しなければならない、ということではありません。そうではなく、ひとつの法案は「ほんとうに誰にとっても必要なことかどうか」という観点から吟味されるべきことだという意味です。ルソーは強調してはいないのですが、「一般意志」は現行の法律を批判する際にも必要な概念と言えます。なぜなら、「それは一部の人を利するものでしかない、すべての人にとって利されるものでなければ一般意志とはいえない」と言うことによってのみ、批判が可能になるからです。

このことを言うのは著者が若い頃に、このルソーの考えかたに心打たれることがあったからです。というのは、民主主義が大切だ、少数意見の尊重も大切だなんて言ってても、結局は多数者や力のあるものが都合のよいようにもっていくだけじゃないのか、という思いがあったからなんです。つまり見んし主義に対する不信感を持っていたのでした。かといって、多数者を軽視しつつ、「真の正義」なるものを少数で固持しようとする前衛的な姿勢は、それはそれで独善的で非常に勝手な思い込みになりやすい(**ルナは言いたい、エホバの証人はこの手の独善主義です!**)では、正義の根拠をどう考えればいいのか、若い頃の著者は頭をひねっていたものです。

ルソーの考え方は、多数がそのまま正しさの根拠ではないことを認める。数を頼むのではなくって、さまざまな立場の人々が共存してゆく上でどういう法律あるいは取り決めが本当に必要であり、有用なのか、その観点から考えてみる、という姿勢を教えてくれる。さまざまな人々の多様性を認めつつ、誰にとっても必要かつ有用な取り決め、法を立てようとする態度、そこにしか政治の原理はありえない、と著者は思うからです。

近代の考え方では、自律、つまり自ら洞察したものに従う、ということに自由があるのでした。哲学や学問がその意味で自由な同意によって営まれるものであるように、法や諸制度が「一般意志」を体現するものになり、各人の洞察と自由な同意によって支えられるものとなるならば、国家は強制と抑圧のシステムではなくなり、われわれが自由=自律を実現する場面となるでしょう。もちろんこれは理念であって、完全に実現されることはないわけですが、近代がつくりだしたこの理念を、わたしたちはもう手放すことはできないだろうと、著者は考えます。

さて、ホッブズからルソーに至ってつくり上げられてきた社会の理念。これを対等な市民たちが取り結ぶ社会、という意味で「市民社会の理念」と呼ぶことができるでしょう。その骨格をあらためて整理しておきます。

1.出自、民族、宗教を度外視する。社会の成員であることの要件は、その社会のルールを守ることにある。
2.国家(統治組織)というものは、成員個々人が自由に幸福を追求するためのものである。
3.社会の成員はルールの下で対等である。ルール決定についても対等である。
4.社会のルールの正当性はただ「一般意志」にのみもとづく。支配者側に利するものであってはならない。
5.ルールに決められたこと以外は、すべて各人の自由に任される。
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教会の神権支配は個人の人権は認められていませんでした。個人が生まれついた階級において決められていたレールだけを生きなければなりませんでした。そこからの脱出を計ろうとして、神の手から「人権」を奪い返されたのです。それなのにどうして元通り、自らを神のくびきにつながねばならないのでしょう。そこには、自分に自信がなく、自己評価が低いため、自分で生きる道を見出せず、他人から評価されなければ自分に確信が持てない、といった事情、あるいは何か大きな力、大きな組織を「虎の威」にしなければ自信が持てないという、心理学的な事情があるからなのですが、それは進歩とは裏腹の、退歩退行現象のようにわたしには思えます。エホバの証人のような生き方や人格のあり方を上から与えられるような人間のあり方というのは、自律を放棄した逃避でしかないのではないでしょうか。自分ひとりならそれも勝手かもしれません。しかし、子どもから自律する人間性を奪ってしまうのは、はなはだしい人権侵害だとわたしは思うのです。いかがでしょう?


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人生を充実させれた三人の人

2005年04月22日 | 一般
あなたにとって大切なものは何ですか。大事なものは何ですか。

大切なものとは、自分にとって、切っても切れないものです。
「この写真は、わたしにはとても大切です」というようなものです。

一方、大事とは大義があるものです。
「会社が何よりも大事です」となります。

大切と大事の違いを理解していると、人生の選択に迷いがでません。




会社が自分のすべてだ、という人は、自分の本当の目的がわからない人です。
目的が見えなければ、人は不安になります。

その不安を打ち消そうとしているのが、会社大好き人間です。

本当に愛するものに出会えたら、その人はもっと人生が楽しくなります。


(なぜか幸せになれる女の習慣/大原敬子・著)

********************

あなたを暗にさしていってるんですよ、熱心な現役さん。
そんなに神を愛しているならどうしてもっと大胆に証言できないの?
どうしていちいちアンチョコだの出版物だのをあたふたと引っぱり出さなきゃならないの?

命をかけて信仰するというのに、
肝心の信念をまっすぐ相手の目を見て説明できないなんて。

「はい」は「はい」を、「いいえ」は「いいえ」を意味するようにしなさい…
イエスはそう言ったよね?

だったら、相手が監督だろうと委員だろうと、間違いは間違いだとはっきり言いなさい!
「そんなことしたら、どんな目にあうかわからない」ですって?
結局自分がかわいいんでしょ?
だから、今現在苦しんでいる人から目をそむけるのよね?

組織にしがみつくあなたたち、
あなたたちは、
「自分の本当の目的がわからない人です。
目的が見えないと、人というものは不安になるものです。
その不安を打ち消そうとしているのが、エホバ大好き人間です」。

自分では自分も、自分の目的も見出せないけれど、
エホバは目的を与えてくれているものね。


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人生を楽しく生きる三人の人がいます。
ひとりは、これだけはやりとげれたという達成感を知っている人です。
もうひとりは、今でもずっと続けているものがある人です。
そして最後は、やりたいことをやった人です。

(なぜか幸せになれる女の習慣/大原敬子・著)

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「名誉を愛する者は、人を愛さない」

2005年04月21日 | 一般
醲肥辛甘(じょうひしんかん)は真味にあらず、真味は只だ是淡なり。
神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。

*現代語訳***
濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味のたぐいは本ものの味では  ない。本ものの味というのは、素材そのものが自然に持っている淡白なものである。これと同じく、神業のような、たぐい稀な卓越した才能を発揮する人は、円熟した人ではない。円熟した人というのは、ただ世間並み然としていて、また平凡然としているものだ。

(「菜根譚」より)

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人より抜きんでていなければならない、成果をあげて勝ち抜いていかなければならない…、人々に認められなければ生きている意味がない…、だから勝つことに意味を見出す。勝つために必要な人間だけを選抜し、それをもって「勝ち組」とみなす。勝ち組のほうにいたいがために、自分には興味を持てないことに精力を傾け、多くの場合には自分に向いていないことにさえ一生懸命に精力を注ぎ込む。非現実的な目標を追い求めてきて、勝ち組になったはいいが、必ず満たされない。自分に合ったことでなかったし、自分が本当に望んでいたことでもなかったから。

勝ち抜くことは打ち負かすことでもありました。
勝負の世界で、足を引っ張られる危険を防ぐ方法について、マリナーズのイチロー選手はこう語っています。
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勝負の場で力の差を見せつけるのがいちばんです。
野球に限らず何でも実力の差を見せてしまえばいいと思います。
(「夢をつかむ イチロー262のメッセージ」より)
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これは「勝負の世界」でのことなのに。これは食うか食われるかの「プロ・スポーツの世界」のことなのに。プロスポーツ選手だって、人間関係の場では、たとえば奥さま子どもさま相手に引き離すか追いつかれるかの競争をしているわけではないのに。

「自己不在」な人は人間関係の場に競争を持ち込む。共同作業の場に競争を持ち込む。どうしてかっていうと、自分を認めてもらいたいから。加藤諦三先生は「愛されたいから」とおっしゃっておられます。打ち負かせばたしかに「認められる」ことは認められるだろう。でも決して「愛される」ことはない。だってあなたは、あなたに屈辱を与えるだけの人に友情は持てないでしょう? だから、人に我が実力を見せつけて生きてきた人間は孤独です。

わたしはある重篤な病に罹ったエホバの証人の信者に巡回監督といっしょに励ましに行ったことがあります。わたしは得意な気持ちでした。わたしを目の敵にするお局姉妹に差をつけてやったからです。巡回監督に同行するのは、「有能な」奉仕者である、と会衆の前で認められたことになるからです。でもその方の容貌を見て息を呑みました。父が死んだときもおなじ容貌をしていました。得意満面さはいっきに冷水を浴びせられたのでした。

その信者は輸血を拒否して亡くなられました。輸血をしても治癒は見込めなかったのです。会衆の人たちはその患者を褒め称えていました。でもわたしは気が重く感じられました。人が一人死んだのです。わたしはそのときになってようやく、自分がほんとうはエホバの証人の教えを全然信じていなかったことを思い出したのだと思います。復活があるから、という理由では自分の憂鬱がおさまらなかったからです。

わたしは何と醜い人間でしょう。治療を必要としている人間を、自分の虚栄心のために利用したのです。会衆の人たち、とくに巡回監督やお局姉妹に認めさせたいだけのために、死に直面している人を利用したのです。これで自分を会衆に認めさせたところでいったいどんな名誉だというのでしょう。

上に挙げた「菜根譚」の一文は、至人(つまり道徳を極めた人、エホバの証人用語で言うところの「円熟した人」)は、周りの人々に能力の差を見せつけるようなことはしない、と述べています。人々のあいだでとかくちやほやされる「能力」というのは、学校に通ったり師についたりして意識的な努力で身につけたものであり、いわば味付けされたもの、味の濃厚さのようなものです。一方、人間の真の価値というのは「素材そのものに備わっている淡白さ」なのです。それは人間関係を営める、ごく自然な「能力」で、子どもの頃から周囲とのコミュニケーションのなかで自然に身につける能力です。自分と自分に関わる人たちをお互いに成長させ、協調させる特質です。人を思いやるなら、人に引け目を感じさせるように能力をひけらかすようなことはしないでしょう。だから、「世間並み然、平凡然」とするのです。

わたしはかつて、時々現役さんの掲示板に書き込みをすることがありました。そんなときはいつも、これみよがしに聖書を引用し、解説してやります。わたしとしては「神も聖書も信じないわたしが聖書の話を持ちかけてやる。聖書の知識があることがご自慢なら、聖書から論じてみな」というつもりなのです。たいていのばあい彼らは「論点をずらし」ます。答えられない、ということです。なぜわたしはそんなことをするかというと、そういう掲示板にはたいてい聖書の知識をひけらかす輩が幅をきかせているからです。中には現長老もいるのです。掲示板ではさも正義に気づいた思いやりのある長老というように発言します。しかし、エホバの証人というシステムに組み込まれている以上、官僚的に振る舞わざるをえないでしょう。たとえば、審理問題でも起きれば、掲示板で見せている顔を貫くことはできないでしょう。他の長老たちといっしょになって、罪の程度を測定し、成員としての資格審査を「粛々と」進めるだけでしょう。裏表があるというにしても、あまりにもひどいと思っています、こういうのって。

ネットの現役さんたちというのは、知識やら成果やら能力やらを競う雰囲気に疲れて禁断のインターネットに逃避してくるのです。そんな人たちにあらためて差を見せつけ、「わあ~さすが○○さん、すごーい! 長老たちの世界って知りたかったんです」とちやほやされることを、自分では気づいていなくても、求めているんだとわたしは思っています。そういうふうに自己満足のために他人を利用しようという性根が気に入らないのです。また逆に、聖書のことなんて全く関心を持たないのに、自分の甘えを満たしてくれないという不満をたらたら言う性根が嫌なのです。この両者は正反対のように見えますが実は、自分が「認められたい」、「愛されたい」という欲求のために他人に犠牲を強いるという点で同じなのです。

本当に思いやりがあるなら、本人から反感を買ってでも、しばらくエホバの証人から離れるように、とか他の考え方にも触れてみるようにとか言うでしょう、JWICの管理人さんのように。でも彼らにはできません。「認められ、賞賛を受けたい」のが主な理由なので、反感を買ったり傷ついたりするのが嫌なのです。聖書にもこのように書かれています。
 愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くのキスを与える(箴言27:6)
-新共同訳-

人間関係で悩む人は、その考え方や精神態度や人生観にゆがみがあります。それを修正しないかぎりいつまでも不適応に苦しまなければなりません。人の考え方のゆがみを指摘すれば当然、軋轢は生じるのです。でもそれが相手の人にとってよいことなのです。相手の人を愛するがゆえにあえてそうするのです。ところが「自分はカウンセラーじゃない。そんなことは勝手にできない」と言って言いぬけようとします。ならせめて相手の人に偽りの肯定を与えるな、というのです。それはゆがんだ考え方を焚きつけることになるからです。それでもなお、そういう人たちに表面的な誉め言葉を与えるのは、賞賛を得ようとしてであって、自己満足を満たすためなのです。それはつまりその人たちを愛していないのです。自分を愛しているのです。 …憎む人は多くのキスを与える、ナルシストにとって愛の対象は自分だけであり、他人はそのための手段にすぎないのです。

キリスト教は能力を競う場所ではありません。おおかたの宗教もそうだといってよいでしょう。心の支え、良心の盾であればいいのではないでしょうか。宗教を現実逃避を正当化する理由にしたり、自分への賞賛を集めるために利用したり、自分の勢力を拡大したいという理由で利用したりするべきではありません。ところが昨今、新興宗教は増える一方です。それだけ「自己不在」な人が増えているのでしょう。そのような宗教にハマる人たちというのは、やはり認められたいというような動機があるのです。そういう宗教では教祖を奉れば、その度合いに応じて「評価」が与えられるからです。自分の評価というのは健全な人間関係の中のコミュニケーションから自然に出来上がってゆくものです。お互いが尊重し合い、お互いが愛し愛される関係で満たされるものです。決して、他人から授与されるものではないし、強制したり、宥めすかしたり、ライバルを打ち負かしたりすることで得られるものでもないのです。



- 金銭、快楽、あるいは名誉を愛する者は、人間を愛さない。  エピクテトス -

*エピクテトス…ローマ時代のフリギア人、ストア派の哲学者。はじめは奴隷であったが、後 
に皇帝ネロに解放され、実践本意の哲学を説く(広辞苑・第三版)。

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「謙遜」ということは勇気があること

2005年04月21日 | 一般
自分の弱みから教わること


自分の弱みについて考えてみましょう。

過去に負った心の痛手は弱みとなって、自分の心に残る場合があります。その弱みをつかれると、ガタガタと自分の自信がくずれてしまい、考えることもできず、動きがとれなくなってしまいます。あるいは、その弱い部分をさらに傷つけまいとして、むやみに相手を攻撃したり、非難したり、だれか他人のせいにしたりすることもあります。

自分はどういうところに弱みがあるのか、よく調べてみましょう。どのようにしてその弱みが発展していったのか、経過を追ってみましょう。心の痛みは、痛みとして受けとり、やさしく看護してやりましょう。こういった自分の弱みは過去のものであり、いま自分は、自分を保護するすべを知っており、回復に向かっていることを思い起こしましょう。

自分の弱みから教わることはたくさんあり、それを学ぶと、むしろ強みとなることがあります。



「心の傷を癒すカウンセリング366日/西尾和美・著」より
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自分の弱さを直視するって、ものすごいエネルギーが必要です。容易に自分をごまかします。「心は不実」なのです。論理で自分を納得させても、その論理には倫理性があるだろうか、と正直に省みることも大切です。論理は観点をずらせば、いくらでも自分の望む結論に導くことができる。現役の人は聖書の理解が偏っているので、必ず相手の人格攻撃に移動させるときのように。アメリカ大統領選挙の際のネガティブ・キャンペーンのように。自分を護るときには死に物狂いなので、頭に血が上る。アドレナリンが大量に分泌されると、人間は逃げるか戦うかの二つしか考えることができなくなるのです。そんな風に、自己防衛に入ったなって心の片隅でかろうじて悟ったら、一服吸ってクールダウンさせる。人間なんだから、思考は大脳皮質で行う。自分をごまかしているあいだは、絶対に心理的な成長も癒しも成し遂げれない。自分の弱さを見極めれれば、きっと活路は開ける。自分を自分の弱さに直面させる特質が、キリスト教で言うところの「謙遜」さなのだと思う。勇気というのはリスクを負うのを恐れないこと。弱みをさらけだしてごらん、ほら、もう自分を偽らないでもすむでしょう? もう嘘はつかなくっていい、これほど強いことはない。
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Interlude 4

2005年04月19日 | 一般
人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ。
自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる。

「柳橋物語/ 山本周五郎・著」より。

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こう考えると、エホバの証人の中で屈辱にまみれた人生も意味を持つと思う。自分の弱さというものを受け入れられたし、人間というものも見えたし、表面だけじゃなく、実のところというものを分かるようになった。

ただ、わたしはある意味、幸運もあったのだと思う。
うつ病にはならなかったし、パニック障害などにも見舞われなかった。実は現役だったころから、会社でけっこう恋愛していて、それがガス抜きになったのだと思う。世の人とちょっと打ち解けておしゃべりしていると、エホバの証人のものの考えかたがいかに偏狭か、いかによそゆきの顔でつき合いをしているかがわかります。ふれあいというのは感情を正直に言い表すときに感じるものです。建前だけのコミュニケーションを模範的とするエホバの証人たちは孤独です。

エホバの証人時代にケチョンケチョンに踏みにじられた方々、わたしもそのひとりです。でも踏みにじられたからこそ見えるようになったこと、分かるようになったことがある。これは財産よね! 無駄にはならないよ、きっと。


人を愛するため、人は生まれた
苦しみの数だけ、やさしくなれるはず…
(遥かな人へ/高橋真梨子)
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Interlude 3

2005年04月19日 | 一般
同じ出来事でも、傷つく人もいれば傷つかない人もいます。だからって傷ついた人を「未熟な人」と決めつけるのこそ未熟なことです。人の個性には遺伝の要素もあり、大胆さや繊細さもその影響があるからです。繊細で傷つきやすいのはその人の個性であり、長所なのです。大胆さもその人の個性であり、長所なのです。ただある個性がうまく活かされる局面があり、そうでない局面がある。人の特性はあるときには短所になってしまうかもしれませんが、ある局面では誰にもひけを取らない長所にもなります。だから人はひとりでは生きてゆけないのです。だから人は共同生活を営むのです。人間が生存競争を生き残るには、社会生活を営まねばならないのです。だからこそコミュニケーション能力がきわめて大切なのです。お互いがお互いを知らなければ、理解も共感もできないじゃないですか。理解しあおうとするなら、ほんとうの自分の姿を見せなければなりません。違いを見分けてこそ理解できるのです。違いを受け入れるには許すこと、裁かないことが求められるし、裁かないためには多様な価値観を受け入れなければならない、そうでしょ?

本当の自分に自信を持たせないようにする機能不全な家族の罪は重い…。人のご機嫌を伺い、自分じゃない作りものの人となりでなければ受け入れられないっていう暗黙のメッセージを植え込んじゃいけない。価値観をただひとつしか認めないなんて、対立を引き起こしているようなものです。ましてそれが宗教団体の一部の指導者たちの「自己不在感」を癒すためだけの目的だったら、人間性へのなんという冒涜!

野外奉仕などで見知らぬ人ともあっという間に打ち解けあえる人だけが会衆でちやほやされる、すると次第にしずかに観察してから要領を感覚的につかんでから、そろそろ行動する人はみそっかすのように見なされてしまうかもしれません。成果を競わせることで、組織への求心力を維持しようとすることを重要視しているから、特定の個性しか認められない雰囲気が生じます。宗教は産業じゃない! 人のあり方、生きざまの支えであれば十分じゃない!? 自分という存在に価値を見出させる、そういうものであれば十分じゃない!? 宗教のために自分をだまして生きていかなければならないなんて、間違ってる。そんなことで、どうして世を非難できるの? 

100年前には労働者は工場生産の中の部品のようだった。人間が、経営者の利益のための手段だった。60年ほど前には人間は国家の面子を立てるための兵器の一部だった。人間が、一部の支配者の意地を立てるための手段だった。そんなことへの反省の結果、今の憲法なり、法律なりがあるんでしょ? なのにどうして今あらためて神を騙る人格障害者たちの意地のための手段に成り下がろうというの? …そうよね、認められたいのよね…。受け入れられたいのよね…。愛されたいのよね…。ひどい親だったものね…。

でも気をつけて。尊敬は誠実なコミュニケーションによって築かれるもの。決して成果に対する報酬として得られるものではないし、誰かから任命されることで得られるものじゃない。相手を認め、受容するなら、心ある人はあなたを認め、あなたを受容するでしょう。その人があなたの友人です。「新しい衣」で本来の自分を隠さなければ受け入れない神は戦争の神、分裂を引き起こす神です。「原罪」なんて実際には存在しないんです! 人が傷つけ合うのは、情緒的に成長しきっていないからで、悪魔サタンがそそのかしているんじゃない! 人間は傷を癒して、成長できるんです! いくつになっても。あなたの悩みを解決するのは罪悪感を教える宗教なんかではない、絶対に! むしろ訓練された思いやりのあるカウンセラーのところへ行きなさい。そこで大人のコミュニケーションの方法を教わりなさい。ありのままの自分を受容する場所こそ、人を救える技術のあるところです。
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わたしをヘルプしてくれた本の紹介

2005年04月18日 | 一般
今回は、わたしを救ってくれた本を紹介します。
ゴードン博士の人間関係をよくする本・自分を活かす 相手を活かす/トマス・ゴードン・著
です。あの名著、「親業」をお書きになった方です。わたしはこれらの本のおかげで、会社で生きてゆけるようになりました。そこそこ「人望」なるものも年齢に応じた分は得られるようにもなりました。長いあいだ、エホバの証人によって、個性や自発性を圧殺されてきた2世のかたがたに、人間関係のスキルをわかりやすく教えてくれている本です。気持ちに余裕のあるときにいちどご覧になっていただきたい本です。

その中から、冒頭部分を紹介します。「権威」ということをゴードン流の考察が述べられています。エホバの証人でなされている教育と正反対であるのに気づかれることと思います。もっと素直に自分を表現したい、いいリレーションをつくりたいと思われる方、ちょっと目を通してみてください。



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N.Y州立大学教授のロブ・ケーゲル博士は、学生を対象に最悪と最善の人間関係についての調査をしました。調査項目のなかには、友人、パートナー、兄弟といった学生とほぼ対等の関係についてと、上司、教授、親などという自分より目上の人との関係についてのものがあり、学生はこういう関係が自分にとってどんなものであるかを描写するように求められました。結果は見事にはっきりしていました。



<人はどのような関係を最悪と感じるか>
学生が「最悪(ワースト)」に数えたのは、操作的、支配的、不公平、不平等な関係でした。学生の回答によると…、
 操作的で支配的な人はお互いの違いを、「こちら側」か「あちら側」か、
 「善」か「悪」か、
 「正しい」か「まちがい」か、
 「よりよい」か「より悪い」か…
というふうに眺め、もちろん操作的で支配的な人のほうが「いい方」だと考える、と言うのです。支配的な人の持つ自己中心性は、回答者である学生たちに、自らを無能で不適切な存在だと感じさせる結果に至らせています。自分のステータスを使って勝とうとする人、他者を犠牲にしてまで自分を立てさせようとする人は、負ける人、犠牲にされる人に、恥ずかしい思いや不安の感情を抱かせ、人間関係を築くのに必要な「信頼」の感情をもてなくしていきます。学生は「一方的」、「利用された」、「支配された」といった言葉で、こういう破壊的な関係を的確に表現してゆきます。

調査に回答した学生は、対等ではないこうした関係は、必ず不公平であるとも考えていました。そしてこういう関係には必ず「勝ち負け」が生ずると特徴づけ、支配者は、親・教師・上司といった「関係から生じる権力」を使って物事を強制し、不当な結論を押しつけて「勝つ」と答えています。負ける側は、ステータスが低く、力もないために依存せざるをえず、不本意ながらも相手を必要としていることから、こういうような一方的な関係を受け入れざるを得ないものだ、と言います。



<ベストと感じられる人間関係の特徴>
他方、「ベスト」の関係の特徴としては、尊敬、気遣いのある、信頼、正直、支えあい、開けたコミュニケーションなどを挙げ、さらにこういう関係からは、「お互いの違いを尊重すること、共感、愛情、理解」が育まれると答えています。相手がこうした特長を示すときには、お互いの間のステータスの違いの有無に関わらず、相手との関係はよいと言います。

ケーゲル博士の調査によると、ベストな関係には満足感があり、心が高揚し、幸福感が増し、自分のことをより完全に感じると学生たちは語っているのです。この関係をケーゲル博士は次のような言葉でまとめています。
「こうした関係では、お互いが感謝され、大事にされ、価値があると感じられるのです。さらには絆の深さを感じられるし、他の人を信頼できるとも感じられます。ほかのほとんどの人間関係と違って、このような相互的なつながりは、お互いを豊かにし、支えあい、力づけるのです。」

ケーゲル博士の調査は、わたしたちが日常経験することを裏づけていると思います。健康で幸福な人間関係にもっとも悪い影響を与えるのは、お互いの間やグループ内に生じる「力の差」なのです。もし、一方が、もう一方のやりたくないことをやるように無理強いしたら、その関係にトラブルが生じます。こういう不公平な関係は、ケーゲル博士の調査対象になった学生が「勝ち負けを決める関係」と名づけたものであり、彼らが一様に、無力感や利用されて支配されてしまったという感じをもたされたというものなのです。

ではいったい、人間関係を蝕む「力の差」、ステータスの違いといった事実に根拠を与えているものは何でしょうか。それこそが「権威」と言われているものなのです。人間関係を理解する上で、権威という言葉は鍵となるので、ここでその意味を確認し、人がいかにそういうものを身につけるかを検討してみましょう。



<人間関係に問題を起こす権威 起こさない権威>
まずはじめに、権威にはいくつか種類があります。ひとつは専門知識を伴い、高く評価されるものです。たとえば、自分の車が故障したら、腕のいい修理工、すなわち自動車のメカの権威に修理してほしいと思うのではありませんか。自分の主治医は健康管理と病気の治療については権威があると思っているでしょう。知識・経験・訓練・叡智・教養から来る権威は、他者から求められるものです。この種の権威が人間関係の問題を生むことはまずありません。

権威にはまた、その人の地位や互いが認めている職務に由来するものがあります。警察官には交通違反のキップを切る権威があり、委員会の議長は委員会を開会・閉会する権威があり、判事は法律について判断し、新聞社のデスクは部下に仕事を命じる権威がある、といった具合です。職務に伴う権威は、その仕事の役割が正当であるtお関係者が受け入れ、互いに認め合っている場合には、人間関係にトラブルを起こすことはありません。

人間関係に問題を起こすのは、「権力に基づく権威」です。相手のやりたくないことをやらせようとする、強制し、支配する権威です。軍隊に入った経験のある人は、この種の権力に基づいた権威を、ごく身近に体験してきたはずです。軍隊に入った経験がなくても、ケーゲル博士のところの学生のように、相手(の人権や自尊心)を犠牲にしても勝とうとする人たちの権力ゲームの負け側には、何度も立たされたことがあるはずです。

軍隊の隊員は、たとえ指令に同意できなくても、従うことが必要です。この種の絶対的な服従なしに、軍隊という組織は機能しないでしょう。しかし、そのほかの組織の場合には、こうした服従や従順さはまったく必要ありません。夫婦、家族、学校、企業などでは、ある決定に従うか従わないかについては十分に選択の余地があるのであり、その選択のなかにこそ、よりよい人間関係への希望が託されているのです。



***********
ルナの感想!
この最後の段落に注意! この点こそエホバの証人の「管理職」の人たちに知ってもらいたい! 野外奉仕の最中とか大会運営とかいう場面なら、長老たちは従わせる権威はあります。しかし趣味や進路、生活設計、あるいは医療・宗教の選択ということについては、個人の権利の領域なのです。長老という権威が個人の人権に踏み入ろうとするのは僭越な行為なのです。宗教はあくまで個人と神との関係なのです。神の組織は「世界的な伝道活動」をのみ監督すれば良いのであって、個人の感受性や感覚、判断、決定まで統率しようとしたから、カルトだと見なされるのです。これは長老や支部・本部の人々に、人権意識の未熟さがあるということの表れだとわたしは思います。
***********



<戦うか、逃げるか、従うか:権力への3つの対処法>
よくわたしに投げかけられる質問のひとつに、「権力の源は何か、それはいったいどこから来るのか」というものがあります。そういう質問をする人は、それまで負け続けてきた自らの闘いを勝ちに転ずるべく、自分だけが知らされていない、隠された権力の源を突き止めたいと思っているふしがあります。しかし、秘められし権力の源の存在を信じるのは、この世のどこかに不死の泉があると信じるのに似ています。

わたしの答えは「権力は賞罰を与える能力に由来する」です。言い換えるなら、権力とは、「喜びまた苦痛を生じさせる能力」なのです。権力を振るう者は、賞罰を操って自分の欲しいものを手に入れようとするのであり(エホバの証人ならば、服従そのもの、人権、人格を権威者に大部分あるいは全部差し出すことを求める)、もし苦痛が十分大きく、報酬が十分望ましいものであるなら(エホバの証人にとって、他人の人間性を操作できる権限というのは、自分の優越性を確認できる最高の報酬です)、相手をいともたやすく従わせることができます。

しかしながら、相手を従わせることには支払うべき対価がついてきます。相手はただ従うだけではすまないのです。自分の人間性を守るために、自分のやりたくないことをやらされることに対応するすべを身につけていきます。いわゆる対処機能と呼ばれる行動で「闘うか・逃げるか・従うか」の三つに分類できます。

「闘う型」とは、反抗、抵抗、欺く、仕返し、をもって応じることです。
「逃げる型」は、身体的に、あるいは感情的に、またはその両方ともに逃げようとします。引きこもり、逃避、幻想を抱き、アルコールやドラッグを服用してしまいには病気になってしまうこともあります。
「従う型」は、子ども、学生、従業員などが身につけることが多いのですが、三つの型のうち一番健康ではありません。権威を敬い、命令に従う、特にその内容が自分の重要な欲求と相反するような命令に従うことは、ふつう子どものときに学習し、実践する自制のメカニズムで、多くの人が成長してからも使うようになるものなのです。

しかしながら、従順さは、自己主張や、自分の能力を十分に生かすスキルを育むことにはたいへん悪い影響を与えます。考えてください、従順であることが対応パターンであるような人は受身で、自発性がなく、依存的ですから、従業員としては有能になりにくいし、どんな人間関係でもむずかしい相手となってしまいます。なぜなら、表向きはやさしくて人づきあいがよさそうでも、その下にはすさまじい怒りと敵意が隠されているのですから。

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あなたは、周りの人々に敬服されることが、成長した人間だと思っていませんか。いいえ、人間として成長したなら、すべての人と心理的には対等につきあってゆけるものなのです。地位や肩書きで人を従わせることは、自分を孤立させてしまいます。会社を辞めたりして肩書きを失うと、プライドの拠りどころを失くしてしまうことになります。丸はだかの人間性に自信があれば、人に臆することはありません。退職してもつぎの目標を見つけて、次のステージで自分の目標を実現させようと意欲的に生きてゆけるでしょう。自分で目標を立てて追求し、成し遂げる。「よし、やった!」っていう満足感・充足感が自信のブロックを積み上げることであり、そうすることが人間の生きる意味なのだとわたしは思うのです…。エホバの証人から出てきたばかりのあなた、とりあえずは、押し込められ、埋められていた「本来の自分」を救出し、引っ張りだしてあげて、元気を取り戻させることを目標にしてはいかがですか。多分、これが自分の人生で最大の難事業です。わたしにとっておおいに役に立った本をもう一冊紹介します。

「アダルト・チルドレン癒しのワークブック/西尾和美・著」 学陽書房・出版。

呪わしい「エホ証」の、情緒未熟な、そしてかわいそうなバカ親から解放されましょう! 自分は自分です。「自己不在」な親の夢を自分が代理で追求する必要なんてありません。自分は自分の欲求を求めて生きる権利をわたしたちは宗教権力から勝ち取ってきたのです。わたしたちは誰か他の人の目標の達成のための手段なんかじゃありません。自分は自分の欲求・意欲を持っていいのですから。その代わり、たとえ自分のお腹を痛めた子どもであっても、自分との違いを認めてあげて、その子の個性や権利はきちんと尊重してあげなければなりません。まして同僚や友人ならばなおのこと。でも、そうするときに初めて、友情や尊敬や信頼は得られるものです。これはわたしが偉そうに説教しているのではなくって、有能で成果を上げ、世界的に評価されているサイコセラピストや精神科医やカウンセラーがお書きになった本から引用した文章なのです。聖書に書いてありましたよね、聞くことに早く、語ることに遅くって。

自分の言いたいことをずっと押さえ込まれてきた人は、こんな説教じみた話を聞けば、とかく反論したり、ケチをつけたくなるものです。“I'm not OK, You are not OK”型の人生観を持っているはずです。でも乱暴な言葉を投げつけたり、人格攻撃をしたりして最初に傷つくのは実は自分自身なのだそうです。自分で自分の自尊感情を傷つけ、自分で自分の自己評価を貶めているのだそうです、そういう方面の先生方によると。この世ってエホバの証人が言うのとは全然違って、もっと広いです。素直になれば、ほんとうに素直に答えてくれます。この世でも人間関係で悩むのだとしたら、それはその人の働きかけ方にまだ間違いがあるからだと思います。権威には3つあるとのことでした。少なくとも、サイコセラピストの「専門知識を伴い、高く評価されてきた」意見には耳を傾ける価値はあると思います。
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お礼

2005年04月17日 | 一般
はなさん、このブログを見つけてくれてありがとう。
くつろげる場所じゃないでしょ? 
メッチャ、硬い内容だし、現役さんには悔しいことばっか書いています。

わたしは、永遠の命を信じていませんから、
だから、人生は一回きりって思っています。
だから、人生を自分のために、神のためじゃなく、
自分の意欲のために生きなきゃって思います。

元気のあるときに、たまに寄っていただけるなら、
ああ、見てくれてる方もいるんだ! って記事の出し甲斐があります。
でも、無理しないでね、
現役さんにはホント、申し訳ないくらいビシバシ書きますから…。

御礼申し上げます。
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「絶対観」は原始的な思考です(8)

2005年04月16日 | 一般
ロックの自由主義的国家、政治観はアメリカ独立宣言に結実しています。国家は自然権、後の人権を守るために建てられる、という考えが表明されたのでした。

つまり、人間は神の意思により、あるいは自然法により、他人に譲り渡すことのできない固有の権利を持っている。それは人間が、ただ人間であることにもとづいて当然に身につけているものである。しかし国家がなければその固有の権利は十分に守られない。だから、人が国家ないし政府に強力な権力を委ねるのはもっぱら「人権の保護・防衛」が目的である。したがってもし、国家なり、政府なりがその任務をじゅうぶんに果たさず、反対に国民の「人権」に干渉するような場合には、国民はそういう国家権力を倒す権利、抵抗権あるいは革命権を有する、という宣言です。当時アメリカはイギリスの「圧制」からの解放と独立を望んでいたのだそうです。もはや、体制を維持するために、人間は人権の主張を断念しなくてもいいのです。むしろ人権を守るためには、体制を覆そうという同意に達したのです。

人権は貴重なものです。自由に考え、自由に将来を設計し、自由に学校へゆく、自由に職業を選択し、自由に結婚し、そして宗教も自由に選択する。この歴史の流れを再び逆にもどしてどうしてよいでしょうか。かつてエホバの証人が進学や結婚を宣教活動の二の次に置かせたのは、あきらかに人権の蹂躙でした。そんなことを暗黙のうちに許してきたお局姉妹たち、長老たちは恥じ入るべきです。人間のための宗教です。神のために人間の自発的な意欲を圧してはならない、わたしは今ほんとうにそう思うのです。


《 1776年7月4日、13のアメリカ連合諸邦の全員一致による独立宣言 》


われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を賦与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。また、これらの権利を確保するために人類の間に政府が組織されたこと、そしてそのっ正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信じる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、彼らの安全と幸福をもたらそうとする主義を基礎とする機構を持つ、新たな政府を組織する権限を有すると信じる。

もちろん政府(統治する機構、統治体って言っていい?)を変革するということについては、慎重に思慮するべきで、永く続いてきた政府は、軽微な、一時的な原因によって変革されたりするべきではない。これまでの経験を見ても、人類が災いの堪え得るかぎり、年来従ってきた統治の形式を廃止しようとしたりせず、むしろ耐えようとしてきた。しかし、暴虐と簒奪が現実に、一貫した目的のもとに、人々を絶対主義的暴政のもとに圧倒させようという意図があきらかに見えるとき、そのような政府を廃棄し、自らの将来の保安のために、新しい保障を目的とする組織を創設することは、人民の権利であり、また義務である。

(人権宣言集/高木八尺、他・編より)


自分の権利を大切に思うというのは、他人の権利も保障しようということです。一方エホバの証人の間に見られた暗黙の雰囲気というのは、誰々兄弟たちは進学を断念して開拓奉仕に入っている、誰々姉妹は結婚を後回しにして開拓奉仕をしている、なのになぜおまえはそうしないのか。それはハルマゲドンやエホバのご意思をわきまえていないからだ、信仰の欠如だというものでした。これは自分は自分、他人は他人という考えかたができていないことを表しています。権利認識が萎縮しています。自分の意図を他人の人生を利用して果たそうとすることを家族機能研究所代表の斉藤学先生は「侵入」と呼んでいます。

神権思想は野蛮です。神権哲学から脱却した近代哲学の学者のひとり、カントという人は、「あなたの人格、そして他の人の人格は、個々人が人間性という尊厳を有している。だから決して誰かの目的のためのために個々の人間性を手段のように取り扱ってはならない」と言ったそうです(「それでも人生にイエスと言う/ヴィクトール・エミール・フランクル・著よりの孫引き)。エホバの証人は「世の哲学」を人間の知恵と言ってさげすみます。でもどう考えてもわたしには、「世の哲学」のほうが人間を尊重しているようにしか思えないのです。

わたしは自分の人権のほうを、宗教体制なんかよりずっと大切に思います。また、大切にします。宗教組織の変革をしようなどとは思いません。そんな苦労しなくても、除名してもらえばすむことですし、キリスト教に未練があるなら、他にもたくさんあるからです。イエスが今のエホバの証人を見たならきっと、「自分たちの伝統のゆえに神の掟を踏み越えている。だからあなた方の家はあなた方の下に見捨てられている」と言うでしょう。「汚れたものからは出る」のが賢い選択です。ロトの妻のように「温かい交わり」という幻想に未練を残して振り返れば塩の柱になってしまいます。心が外に開かれている人たち、人権を大切だと思う人たちと交わることで、わたしは自分を救います。
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究極の解決策など、永遠に現れない

2005年04月15日 | 一般
どんな場合でも、絶対に正しい選択などありません。その逆に、完全に間違っている選択もありません。私たちを取りまく世界は、常に曖昧さと矛盾に満ちています。よいこともあれば、悪いこともあり、得をすることもあれば、損をすることもあります。ただ心地よいだけ、あるいは辛いだけ、いつも幸運続き、あるいは不運続きということはありません。この二元説については常に存在します。

すべての選択肢が、必ずしも私たちを、絶対的な真実やゆるぎない成功、確かなしあわせへと導くわけではありません。究極の答えを望んではいけないのです。究極の解決法を望んでいると、いつまでたっても決断できません。

万が一、選択の結果がうまくいっていないようなら、まずはその現実を素直に受け止めることです。くよくよすることはありません。それはそれで仕方のないことと割り切りましょう。あなたはベストを尽くしたのです。

詩人のエミリー・ディッキンソンがかつて言いました。
「可能性に賭けよう」
そのとおりです。
時には厄介なことを解決したり、ひどい状況から立ち去る決断をしなくてはならない時もあるでしょう。私たちが選択した結果が、どうしようもなく自分をむなしくしたり、悲しくしたりする結果になることもあるかもしれません。

けれど、何も選択しなければ、わたしたちはもっと傷つくことになるでしょう。人間は太古の昔から、選択肢の迷路の中をさまよっては、どれを選ぶかで思案にくれ、よりよい選択のために苦しんできたのです。



「何かを成し遂げずにやり過ごすものではない。
 さもなくば、頭が白くなってから後悔するだろう(飛岳)」

「どんなことが起きても、自分の選択を信じることです(マリー・カサット)」


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「人生は百回でもやり直しがきく/アレクサンドラ・ストッダード・著」より
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あこがれ…

2005年04月14日 | 一般
ニュースで、コンビニが国立大学に出店するって言ってました。

大学のキャンパスのなかのロー○ン…。
キャンパスの女の子がインタビューされていました。
自分があの中にいるのを想像してしまいました…。

憧れるなあ…
キャンパスライフ…
4年間、ただただ本を読んでいられるなんて、幸せだろうなあ…
試験はあるのは当たり前だろう、
でも、今なら真剣にチャレンジできるのに…。
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