Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

人間性回復のために(10)

2005年10月30日 | 一般
東京から電車で約1時間半の茨城県の桜村に、東京教育大学が名前を筑波大学に変えて1974年に移転しました。そのほか、国立の研究所のいくつかも筑波に移転し、とてもきれいな研究学園都市ができあがりました。しかし、奇妙なことに、筑波大学の教職員の半分くらいが、東京から筑波に引っ越そうとしません。子どもの学校の都合などが引越しを妨げるのでしょうが、これもまた、すぐれて特殊日本的な現象なのです。大学に限らず、会社の中間管理職の地方転勤に際しても、単身赴任ということが、この国では日常化しています。仲たがいをしたわけではないのに、家族が別々に暮らすなどというのは、海の向こうのアメリカ・西欧諸国などでは、とうてい考えられもしないことなのです。こうした日本独特の慣行もまた、東京一極集中の原因のひとつに数えておかなければなりません。
(「豊かさのゆくえ」/ 佐和隆光・著)
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この文章は、東京と地方の格差が広がる理由を解説していますが、いま、わたしが注目したいのは、「仲たがいしたわけでもないのに、家族が別々に暮らす」という「日本独特の慣行」です。わたしたちはエホバの証人の言う「世俗の仕事」のためなら、家族と過ごす時間を人権先進国に比較して平気で犠牲にします。わたしが生活する関西の男性の人びとはおおかた、「食うていくためやからしょうがない」とか「食て(くて、と読む)いくためや、あたりまえや」と、誇らしげに言うのです。ほんとうにそれは誇り高いことでしょうか。「家族」はいま、どうなっているでしょうか。「食うていくために」家族を二の次にして働く男たちはほんとうに誇り高き人生を謳歌しているのでしょうか。

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先日、子どものことで私(カウンセラーである著者)のもとに見えた父親。彼はため息混じりに、こうもらします。

「会社では、年下の上司に怒鳴られ、プライドもずたずたに引き裂かれながら、それでも我慢して働き続けなければなりません。まあ、これが仕事というものだ、と割り切れれば、まだ我慢もできるんです。
 もっとこたえるのは、家族です。からだも心も疲れきって家に帰ると、仕事仕事でほとんど家にいなかったことがたたってか、母親と子どもの間にできあがった関係の中に入れない。身の置き場がないんです。それどころか、子どもと母親の間では、ほとんど私が悪者扱いになっているようで、ふたりで一緒に攻撃してきます。
 『あなたが息子に、父親らしい姿を見せないから、学校に行けなくなっちゃったのよ』と、子どもの不登校も私のせい、ということになっているんです。
 会社でも、家でもほっとすることができません。ほっとできるのは、近所の安いスナックのママさんに、時々愚痴を聞いてもらうことくらいですよ。それなのに、最近、給料カットで小遣いもますます減って、スナック通いも難しくなっちゃったし…」

いかがでしょう、多少、未成熟なところもありますが、私の知る限り、これは、日本のごく平均的な中年男性のイメージです。
(「さみしい男」/ 諸富祥彦・著)
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こんなことはいまや、あえて言うまでもありませんね。この著者は、中年男性、約100名に「あなたが、男として生きてきて、もっとも強くさみしさを感じるのは、どんなときですか」と問いかけるアンケートをとられました(2001年8月)。回答の中で抜群に多かったのが、家族の中での孤立を訴える回答だったようです。ちょっとご覧になってみてください。

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・ この家は父親なしでも結構やっていけるんだなあと思ったとき。(40歳)
・ 子どもが「みんなでご飯を食べた」と言うとき、その「みんな」の中に自分は数えられていないことにきづいた。(42歳)
・ 中2の娘と小6の息子が、私を避けて話をしてくれない。(41歳)
・ 中3の娘から「パパはきたない」と言われた。(42歳)
・ 妻と子どもの会話に入っていけないこと。(44歳)
・ 自分の家庭の中での役割は、給料を運ぶだけだと感じたとき。ふだん、家事も育児も関わっていないので、わからない。(31歳)
・ 以前は子どもたちの前で「お父さん、ご苦労さま」と言われて小遣いを手渡されていたが、妻も働きはじめてから、給料日に黙って机の上に置かれるようになった。(41歳)
・ 仕事のことを話しても妻に理解してもらえない。(41歳)
・ 休みの日、邪魔者扱いされたとき。(30歳)
・ 家族に弱音を吐いて心配をかけたくないので、家で飼っているワンちゃんにグチを聞いてもらっている。(49歳)
・ 家に帰って、風呂のお湯が少なくなっていたとき。(42歳)
・ 男は家族を守るために生きている、という責任がある。そのプレッシャーを感じるとき、男であることがつらくなる。(43歳)

これに対する女性の反応は…
「これだけ読むと、男たちに自動的に同情がわき起こるかもしれない。でもそれは短絡的な反応。男たちがこうなったのは、自ら首をしめてきたからだ。メンツや男らしさにこだわって、苦しくても助けを求めてこない。自分はお金を入れておけば、家族の一員になれると思っているんでしょ。でも、もう遅いわ」。
(前掲書)
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会社では、部長とか課長とか呼ばれて反り返っていても、家庭ではこの体たらくです。それとも、家庭では権威も居場所も消失していても、会社では高い地位にいるから、平気なんだと言いぬけるのでしょうか。ところが、会社はその人が定年に達したら、居場所を返上するよう要求します。そのあと、その人はどこに帰るのでしょうか。家庭にはもはやとうの昔に居場所がなくなっているのです。

アンケートの回答のうち、一番最後の回答に、わたしはひとつ質問してみたいな、と思いました。
「男は家族を守るために生きている、という責任がある。そのプレッシャーを感じるとき、男であることがつらくなる」、という感想に対して、わたしが聞いてみたいのは、「あなたはほんとうに家族のためを思って生きてきたのか、それは表看板だけのことで、じつは自分のためではないのか」ということです。この人は、自分の家族の成員たちは、守られていると実感していたかどうかを確かめたのでしょうか。家族が「お父さん」に何を求めていたのかを、知っていたのでしょうか。「女性の反応」に注目してください。

「メンツや男らしさにこだわって、苦しくても助けを求めてこない。自分はお金を入れておけば、家族の一員になれると思っているんでしょ」。妻も子も、お父さんに単なるお金運搬人であることを期待していたのではないのに、もっと生身のお父さんと心でふれあいたかったのに、お父さん自ら、「単なるお金運搬人」に徹したのです。それは「父親」観について、お父さんが自分の先入観で判断したからです。女性がパートナーに何を求めるかを知ろうとしないのです。会社で出世すれば妻も子も自動的に尊敬してくれるだろうと、かってに思い込んでいるのです。やさしい妻は、夫が目標を達成できて喜んでいるのを、いっしょになって喜んであげたいと思うでしょう。でも自分や子どものことを蔑ろにしてまで、出世や金もうけに走られると、「この人はなぜあたしと結婚したのだろう、あたしを選んだ理由は何だろう、この人にとってあたしってなに?」という結婚生活への疑問が出てくるのです。

お父さんたち、ほんとうにそれでしあわせなんでしょうか…。お父さんたちにとって、「働く」って何なんでしょう…。お父さんたちはどんな「しあわせ」を追い求めているんでしょうか。



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「 わたしが行方不明になっているとの連絡が会社からあったかと思います。
この10ヶ月間は精神的、肉体的に大変疲れました。
気分転換、生活改善の為、引越しも行いました。広い部屋を借りたにも拘らず、自分の時間が取れず意味のないものになってしまいました。
 もう何もヤル気の出ない状態です。会社の仕事は放らかしで、会社の人々には大変な心配、迷惑をかけているのですから、会社のことは恨まないで下さい。
 残っている人には申しわけありませんが、もう全て放り出してしまえば何も疲れることはありません。
 そもそもこのような事態になったのは、やはり不況の影響でワリの合わない、リスクの大きいことも取り込まなければならないとの環境下で、問題を溜め込んでしまうという個人的性格が災いしたのと、仕事の処理判断のミスが精神的肉体的疲労で重なった為でしょう。
 いずれにしてもわたしはもう何もヤル気が出ませんので、ここに皆様にお別れの挨拶をさせて戴きます。
 尚諸々手続きに必要と思われる情報を同封しておきました」。

1994年4月14日、都内の化学メーカー・X社に勤めるAさん(当時39歳)が、突然行方不明となった。そして、約一ヵ月後、東北地方の山の中で自殺体として発見された。この家族あての遺書は、その遺留品の中から発見されたものである。

(「過労自殺」/ 川人博・著 )

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Aさんが自殺に至る背景は次の通りでした。
1) 高度に専門的なクロマト装置(糖の原液から有用な成分を分離する装置)を短期間で精通するように会社から要求されていたこと。かなり優秀な技術者でもそれは困難なことであるらしいです。
2) Aさんが携わっていた開発業務の予算が、発注者のほうで途中で何度も縮小されたため、発注者と下請けとの板ばさみとなり、技術的課題以上に、金銭的問題で苦労を重ねていたこと。それでもその開発プロジェクトは予算上の困難を理由に中止されなかったこと。「不況の影響でワリのあわない、リスクの大きいことも取り込まねばならないとの環境下」とはこのことを指しています。
3) 過重労働。Aさんは連日夜10時から12時頃まで残業を続け、土日の多くも出勤して、業務を遂行していた。残業が深夜に及び、電車で帰宅できない場合は、会社近くのカプセル・ホテルに宿泊し、しかもホテル内の24時間利用可能な談話室で作業を続けることもあった。こうした残業、休日労働、宿泊に見合う賃金や経費は会社から支給されていなかった。サービス残業だった。(前掲書)


労働は尊い、といいます。たしかにそうでしょう。労働によって生計を立てるのはまっとうなことです。また労働は人間に自尊心を与えます。失業しているときに心細い思いをするのは、単に収入がないことの不安だけではなく、働けないために自尊心が傷つくこともあげられます。これは専門技術を持たれる方なら特にそうでしょう。自分の関心事を生業にしてきたのですから。

でも、いかにAさんのような自分の関心あること、自分の知識・技術を生かした仕事をしていたとはいえ、「自分の時間が取れない(前掲書)」までに従業していたのでは、仕事が楽しいとは思えなかったのです。まして、自分の関心事がお金にならないことである人にとって、会社から要求される仕事のためにAさん並みに忙殺されていたとしたら、その心痛はいかばかりでしょう。どんなにやりがいのある仕事であったとしても、人間性を差し置いてまで、人間の自然な欲求を退けてまで従事していては、幸せにかんじることなどできるはずがありません。


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労働省の調査によれば、日本の年間総実労働時間(1998年)は1947時間で、旧西ドイツ地域の1517時間、フランスの1627時間に比較すると、300~400時間ほど長いが、アメリカの1991時間、イギリスの1925時間とほぼ同程度になったといわれる。しかし、日本の社会には「サービス残業」、「ふろしき残業」と呼ばれるものがあり、労働省の調査や、統計上の数値は日本の労働時間の実態を正しく反映しているとはいえない。事実、1992年の男女平均の年間総実労働時間について、労働省の行っていた毎月の勤労統計調査では1982時間だったが、総務庁(当時)が行った労働力調査では2309時間だった。327時間もの差があるのだ。これは労働省の調査が事業主に対するものであるのに対し、総務庁の調査が労働者に対するものであることに理由があると思われる。

(「人権読本」/ 鎌田慧・著)

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わたしたちはほんとうに自分のプライドのため、自分の幸せのために生きているのでしょうか。ここで紹介した2つの例の登場人物たちはしあわせで誇り高く生きたのでしょうか。エホバの証人として、ものみの塔聖書冊子協会の勢力増大のために、人生を捧げて生きていたわたしは、絶対にそうではない、と言います。無学なわたしのことばは素直には聞けないでしょうから、大学の先生のことばをお借りしましょう。

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社会学的観点からしても心理学的観点からしても、経団連や日経連をはじめとする経済団体と系列企業(ルナ補:が主導する指導方針)は、日本にたいへんな損害を与え続けている。戦後日本の経済発展が、日本人の個人生活に多大な犠牲を強いていることは、何度言っても言い過ぎることはない。家族生活の質や個人の人格形成に、日本ほど企業が大きな影響を及ぼしている国は他に見当たらないだろう。日本の制度で、経済組織の利益とその社会的重要性に何らかのかたちで影響を強く受けていないものはほとんどない。たとえば日本の教育制度は、経済組織の要求にもとづき、その利益に合致するようにつくられており、経済組織から受ける影響は欧米の教育制度よりもはるかに大きい。

・ ・・

欧米では、経済の目的が生活の向上であることはほとんど当然視されている。産業の成長を目ざす努力が支持されるのは、それによって生活が快適になり、多くの分野で消費者の選択の幅が広まるからだ。…(中略)…日本の経済戦略家たちが国民一人一人の生活環境の改善をまったく考えていないことは、すぐにわかる。戦後の日本経済を形成した主な政策決定を調べても、生活環境の向上など考慮にない。彼らが考えているのは、国家の安全、名誉なのだ。

(「人間を幸福にしない日本というシステム」/ カレル・ヴァン・ウォルフレン・著)

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今、日本の構造改革が目指しているのもやはりわたしたちの福利向上ではありません。切り捨てです。企業活動をもっと自由にすることが目的なのです。「改革」はわたしたちの生活を向上させることのために改革するのではありません。企業活動を解放するための改革なのです。指導者が国家の利益というとき、それは国民の利益という意味ではないのです。少数の人々の利益であり、国民はそのための「駒」とみなされているのです。昨今、憲法改正論議が具体性をより強く帯びてきました。改正住民基本台帳法、通信傍受法、有事法制、そして憲法そのものの改正。時代は進歩しているのではありません。かつて日本を荒廃させた選択に戻りつつあるのです。わたしたちは、いま、しあわせとはなにか、日本を富ませることか、さまざまな電化製品を高度にすることなのか、それとも人間とのつながりを取り戻すことなのか、をいま真剣に考えるべきです。わたしはエホバの証人の思考統制が大嫌いです。憎んでいます。だから出てきたのです。それなのに、日本社会がいま、エホバの証人化しつつあるのです。怖気立つ思いです…。
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貞潔さはキリストに対してのもの

2005年10月22日 | 一般
民主党における政策が形づくられる過程がわかる一文をご紹介します。エホバの証人にとっても、怖ろしいですが、組織の教理決定の過程が推測されうる情報です。

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2000年の10月に、国会では少年法の改正案が審議された。厳罰化を基軸にしたこの改正案には、わたし(著者)はとても賛成できなかった。わたしたちは、(民主党)法務部門会議などで関係者の話も十分に聞き、修正案を提出した。その修正案が否決される見通しとなり、それなら原案には当然反対するものだと思っていたし、反対集会などにも出席していた法務部門の議員もみなそう思っていた。ところが、(民主党内の)ネクストキャビネットに上げられたこの結論は、突如としてねじ曲げられてしまった。2対9で「政府案に賛成せよ」ということになったそうだ。

少年犯罪の背景はどうなっているか。自らが虐待を受けた経験を多く持つ子どもたちが他人を大切にできないのはむしろ当たり前ではないか。この法改正が、そんな子どもたちに対してどのようなメッセージになるか。そんな観点から、部門会議ではていねいに議論を積み重ねてきたし、いろいろな現場の方たちと意見交換してきた。ところが、そんなプロセスにまったく参加もしていない、基礎知識もまったく持っていない議員たちが「やはり厳罰化しないと世論の期待には応えられない」と声高に訴えたのだ。

担当部門とネクストキャビネットの結論が食い違うという異例の事態に、結論は党三役に委ねられることになったが、その結論もやはり「政府案に賛成」だった。でも、なぜなのかという根拠を問われると、とても部門会議の結論のような精緻な答えは出せない。「悪いことは悪いと教えることが大切」などという素人くさい意見しか聞こえてこないのだ。政治家の姿勢は、「実はなくともアピールが重要」というものだ。そういう姿勢では、大した知識もないまま断定的な物言いができてしまうだけではない、一度言い出したことはメンツにかけて撤回できないという結果を招いてしまうのだ。

実を伴う議論であれば軌道修正もしやすいが、そうでないと軌道修正することそのものが「メンツをつぶされる」ことになる。党の役員が安易に言ってしまった発言を守るために党の方針が決められたという経験も過去に何度かしているが、少年法改正に関しても、わたしたちがいくら実態を説明をして方針の撤回を求めても、撤回されることはなかった。実よりもメンツやアピールを優先する姿勢が、政策決定の質を低くするだけでなく、政治の軌道修正をむずかしくし、失政に対する無責任体制を作り出しているということは明白であると思う。

(「国会議員を精神分析する」/ 水島広子・著)
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注目したい点は、現場の意見・観察や、専門筋の調査でさえ、基礎的な知識をさえ持たない、しかし権威ではより上の「党三役」の「顔」、「体裁」の前では、退けられるということです。ここには少年法が対象とする人々への益がまったく考慮にいれられていないのです。精神分析医の水島広子さんは、「党の役員が安易に言ってしまった発言を守るために党の方針が決められたという経験も過去に何度かしている」と言っておられます。民主党内での出来事であったようですが、自民党でも同じなのでしょうか。もしそうだとすると、わたしたちの生活も安全も、政治家のご都合で決められているということが、わたしたちがうすうす知っていた以上に深刻であることになります。

ものみの塔協会も、おそらくこのようなものではないでしょうか。「良心の危機」ではそのことが明らかに記述されています。1975年の預言に関する会議のようすが、たしか書かれていました。このブログは現役の方も見てくださっているようです。以前に一度、直接メールをいただきました。ものみの塔協会の中ででも、個人的に「キリスト教」を実践してゆくことはできるのでしょう。わたしも、もうそういう人たちを、無反省な人たちと一緒にして言い立てたりはしません。でも、組織の間違った判断、あるいは「基礎知識」さえ持たない人たちの「顔を立てる」ためだけで下される判断に、信者の生活と命を委ねるのは大変に無謀なのです。そうした人たちは不測の事態には責任を取ろうともしません。信者個人の問題にすりかえられるのです。

兄弟たちはたしかに一致しているよう教えられているのでしょう。自分の良心の基準で他人の良心的決定を裁いてはいけない、各自がみな、自分に関してイエスに言い開きをするのだからと言いますが、それはあくまで「神の教え」に基づいて判断していることが条件です。「神の教え」のことばを誰かが解釈した、その解釈が独り歩きを始めると、みな聖書の基準よりも権威のある人の解釈のほうを気にかけるようになるのです。権威のある人は自分の下した解釈に異議を唱えられると、自分の権威=プライドへの挑戦と受けとめて、攻撃に転じる可能性が強いのです。

コリントの会衆でも同じようなことがありました。

あなた方の思いが何かのことで腐敗させられて,キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れるようなことになりはしまいかと気遣っているのです。現状では,だれかが来てわたしたちが宣べ伝えたものとは別のイエスを宣べ伝えても,あるいはあなた方が受けたものとは別の霊を受け,あなた方が受け入れたものとは別の良いたよりを[受け]ても,あなた方は[その者を]容易に忍んでしまうからです。
(コリント人への第二の手紙 11:3‐4)

一致とか裁かないこととかを字句にとらわれて考えていると、ほんとうに悪意のある人びとや、危険なほど誤った解釈をも受け入れてしまいかねません。パウロは、誠実さと貞潔さはキリストに対して示されるべきであって、決して権威ある人間を怖れかしこんではならない、と複雑な文章を駆使して諭しています。忠節は神とキリストに対して示されるべきであって、そのためには人間にどれほどの権威があろうとも、行き過ぎた行為に対しては、はっきり抗議なり抵抗なりを表明するべきなのです。コリントの人たちにとっては、それはユダヤ教の影響でしたが、今日のエホバの証人にとっては、それは時代錯誤の絶対専制的な支配を夢みる自己愛性パーソナリティー障害の気のある愚か者たちです。「良心の危機」を読む限り、彼らの教理の作成は、精緻な研究調査に基づいた判断ではなく、権威者の「顔」が立つか立たないか、あるいは金銭的損害が出るかでないかの基準によっての判断であるからです。

わたしは以前、おじいさんが犬の散歩をしているのを見たことがあります。おじいさんはひとりでよたよたと道路を横切りましたが、犬は残っていました。おじいさんは車を確認しないで犬を呼びます。あやうく犬は自動車事故に遭うところでした。犬自身はどれほど誠実で忠実であっても、ガイドが盲目だと命の危険さえ身に招くのです。神とキリストを愛するのは個人の自由ですが、教師を間違えると無駄に人生の時間を費やしてしまうのです。考えること、判断することを他人に委ねてはならないのです。
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恋愛心理学

2005年10月15日 | 一般
恋愛心理に関するトピックをいくつかご紹介します。

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【マイ・カップを持っていると恋は成就する】

最近は、結婚前に同棲しているカップルも多いようですが、もしあなたが同棲相手とそのまま結婚したいとお思いなら、お互いの「マイ・カップ」を持つことを強くお勧めします。

アメリカの心理学者ロジャー・ローゼンブラットが、同棲中のカップルと既婚のカップルに次のような内容の質問をしました。
① あなたたちはマイ・カップを持っていますか。
② あなたたちは自分だけのクローゼットを持っていますか。
③ あなたたちはベッドのどちら側で寝るかを決めていますか。
④ あなたたちは歯ブラシのような小物を置くための自分だけのプライベートな場所を持っていますか。

このアンケートの結果、結婚しているカップルほど「イエス」と答えた数が多いことが分かりました。マイ・カップや、ベッドで自分が寝る場所が決まっているというのは、犬や猫が電信柱などに自分のにおいをつけ、縄張りを示す「マーキング」と同じ行為です。ふたりでひとつのカップを使っていたほうが芯密度が高い気がしますが、それは単にお互いの縄張りをあいまいにしているだけで、相手の存在をしっかり受け入れていないということです。

「それなら、さっそく彼用のカップを買いに行かないと!」
ちょっと待ってください。自分の縄張りを主張するためですから、できれば本人が選んだカップを置くべきです。そちらの方が縄張り効果も強くなります。

ポイントは彼が選んだカップよりも小さめのものを選ぶこと。女性が使っているカップの方が大きいと男性の威厳が損なわれてしまいます。たとえ彼に従属するつもりはないと思っても、心もち小さいカップを選ぶことが家庭円満の秘訣です。

「同じデザインで揃えたほうが統一感が取れていいわ」
これも心理学的に、あまりおすすめできません。同じデザインのカップを使っていると縄張り意識が弱くなるからです。同じデザインなら違う色にしましょう。

(「必ず誰かに話したくなる心理学99題」/ 岡崎博之・著)



【電話に対する男女のとらえ方の違い】

一般にコミュニケーションには二通りの働きがあります。ひとつは特定の目標を達成するための手段や方法としてのコミュニケーションで、つまり「道具的コミュニケーション」。もうひとつは自分の気持ちや感情を表すことを目的にしたもので、「表出的コミュニケーション」と呼ばれます。

日常のコミュニケーションは、このふたつが複雑にからみ合って存在しているのですが、女性の電話での「おしゃべり」はもっぱら表出的コミュニケーションから成り立っています。一方男性は電話を、必要なことを伝える道具として捉えていて、お互いの感情を通い合わせるためのものと捉えている女性の長電話を、どうしてもたわいないものとして片づけてしまいがちです。

だから男性は、「もう用は済んだのだから、電話を切ってもいいだろう」と考え、「この電話で、あなたともっとつながっていたい」とおもっている女性の意を汲まずに、すれ違ったりしてしまいます。

このことの応用になりますが、ドライブ中のカップルが、彼女の側の「道を間違えたみたいね」というひと言でケンカになるという話を私(著者)は聞いたことがあるのですが、これも、その言葉の捉えかたが彼と彼女で違ったからです。一般にですが、女性は「会話は共通の問題を協力して解決する方法」と捉えているのに対し、一方彼にとっては「会話は勝ち負けを決する闘争の一形態」と捉えていたのです。

(「すぐに使える! 心理学」/ 渋谷昌三・著)




【男女間のあつれき】

女性が「食事をしましょう」と誘う。それに対して男性は、にやりと笑みを浮かべる。純粋に食事を楽しみたい女性と、食「後」の楽しみを期待する男性のあいだに誤解が生じる瞬間である。女性が純粋に「お茶でも飲んで行く?」と部屋に招き入れた瞬間、いきなり襲いかかられたということも少なくない。男女の心理的違いが、トラブルに発展する例である。

アメリカの大学生男女200人を対象に行った実験がある。実験は『女子学生が大学教授の部屋を訪れ、レポートの提出期限を延長してくれるように頼む』という内容を録画した10分間のビデオを見せて、「ビデオから読み取れる女子学生の意図」を200人の男女学生に判断させた。

ビデオを見た女子は、ビデオの中の登場人物である女子学生は友好的にふるまおうとしていた、という判断が多かった。一方、ビデオを見た男子は、女子学生がセクシーにふるまおうとしていたとか教授を誘惑しようとしていたとの判断が多かった。

この実験を行った学者は、
《女性が親しげにふるまったり、笑いかけたりするだけで、「彼女は何らかの性的関心をアピールしている」と男性は考えがちである》 と述べている。

(ルナ:男性の皆さん、ほんとうでしょうか…)

男性は女性の心理を読み違えるとよく言い習わされているにもかかわらず、同じような過ちを繰り返すのは、男と女の進化的メカニズムの違いによる。先史来、男は「狩り」という目的のために話しをする。会話を楽しむためではない。女は、先史来、会話自体を楽しむ、その先に何かを期待するわけではない。採集生活にはとりとめのない会話で楽しめることが大事なのである。

このメカニズムを逆手に取れば、女性は簡単に男をゲットできるだろう。何しろ、微笑みかけたりスキンシップを繰り返したりするだけで、男性は「俺に気があるな」と勝手に期待して舞い上がってしまうのである。いわゆる「ぶりっ子」がモテるのは、思わせぶりな態度でその後の性行為を期待させるからである。

(「図解雑学・恋愛心理学」/ 斎藤勇・著)

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いちばん最初の、「マイ・カップ」の話ですが、みなさん、「集合」というのを学生時代に習わなかったでしょうか。ふたつの円があって、それぞれの円を「集合A」、「集合B」とみなして、「AかつB」はふたつの円の重なった部分、「AまたはB」は一部分が重なっているふたつの円の全体、とかいう…。ド・モルガンの法則だのなんだの、やりましたよね。

人間関係が良好にいくのは、「集合」の例えで言うと、「AかつB」の状態にあるときです。ふたりの一部分は重なっているけれども、お互い、相手から独立したプライバシーの部分もある。お互いがお互いのプライバシーすべてを支配しようとしないとき、ふたりはうまくゆくのです。

これができない人がいます。アダルト・チルドレンの人、境界性人格障害の人、自己愛性人格障害の人etc...。相手のすべてを所有しなければ、自分は見捨てられたという気持ちになって、不安になる種類の人々です。妻がよその男性とおしゃべりをしていると激しく嫉妬する、妻にはパートなどの仕事をさせない、自分と一緒にいないときの彼の行動を逐一詮索する…など。

人間はときにはひとりになりたいものです。孤独にもほどほどの効用はあるのです。事実、逐一自分のすることに絡んでくる親っていらだたしいだけでしょう? 夫や妻でもそうです。自分がアダルト・チルドレン性の人間であるだけに、「マイ・カップ」の話には納得しました。
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「聞き手」になる怖さ

2005年10月08日 | 一般
親しい人と死別する悲しみを経験されたことはおありでしょうか。つい先日まではふつうにしているように思えたはずの人が自殺したという経験は、まず周囲の人びとに罪悪感を抱かせます。どうして気づいてあげれなかったのだろう、そういえばちょっとヘンなことは話していたっけ…、なんて。たいていの人は自分を責めます。そしてそういう経験をして初めて、人は自分のうちに利己的な部分を見出して二重のショックを受けるのです。

現代人は孤独です。日ごろ親しく交際しているようであっても、ほんとうは心情では何もわかりあっていない、いいえ、心情でわかりあおうとすることを避けているとさえ言えるかも知れません。自分が傷つきたくないから。争いになりたくないから。このように思う背景には、人間関係を営むスキルの低さがあるのだと思います。心から信頼しあえる、ということはこんにちではもう望めないことになったのでしょうか。おそらくエホバの証人1世の方々が、入信を選ぶ背景には、もっと人間として強い絆に憧れる気持ちがあるのかもしれません。でもエホバの証人のような宗教には断じてそのような絆はあり得ないのです。むしろ心からの結びつきを断つ力が働いています。個性を尊重できない仕組みになっているからです。人間同士の強い絆は、人間関係の問題を解決するスキルを身につけることにかかっています。とくに「聞く」スキルです。今回はこんなことについて考えてみていただければと思います。

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Sさんは、入社したときから一緒だった友人のFさんを失った。

Sさんの座っている机のそばに音もなく近づいてきて、「ちょっと具合が悪いので」と声をかけ、早めに帰途についたFさんのやせたうしろ姿が、今でもSさんの目に焼きついている。家に帰る途中、Fさんは路上で突然、心臓麻痺に襲われ亡くなったのだ。まだ52歳だった。Sさんは、Fさんと職場もずっと同じで、会社の浮き沈みや時代の変遷を共に乗り越えてきた仲である。優秀な企業戦士として互いに励ましあい、業績を上げてきたのだった。会社が引けたあと、仲間がいたりふたりだけだったりしたが、しばしば、一杯飲み屋に立ち寄った。SさんはFさんのことを、よい同僚であり、親友であり、いわゆる肝胆相照らす (註:互いにうちとけて親しく交わる、の意。岩波国語辞典第4版より) 間柄と感じていた。互いに何でも話すことができ、お互いのことを何でも知っているつもりで、長年過ごしてきたのである。ところが、Fさんの葬儀がすんだあと、Sさんは愕然とする。それは何でも知っていると思っていたFさんのことを、実は何も知らなかったという事実を思い知らされたからだ。Fさんの死後わかったのは、Fさんが、Sさんの想像もつかないような環境の中にいたことだった。葬儀のあと、Fさんの妻がSさんに話して初めてわかったのである。



「自分はFさんのことを何でも知っている。互いに腹蔵なく何でも話し合ってきた」。
この強い確信が、根底から覆されたSさんのショックっは大きかった。30年を超える年月、机を並べ、同じプロジェクトにかかわり、赤ちょうちんで気勢を上げてきた。それなのに、自分はFさんの苦悩を察してやるどころか、気づきもしなかった。彼の苦境を聞き出す糸口さえも与えてやれなかった。

「それでは、自分自身も家族のことを話していただろうか」。 Sさんは自問しつづけた。「個人的なことには触れない、会社人間としてだけのおつき合いだったのではないか」。 Fさんが胸の内に秘めて、ひとりで背負いつづけてきた苦悩の深さを、Sさんはしみじみ思うのであった。 「ほんとうに何でも話し合えていれば、少なくとも、つらい毎日のようすをきいてやれた。ただひたすら聞いてやるだけでも、多少はFの気が晴れたかもしれなかった」。 Fさんのことばに耳を傾けるというより、その日の憂さをFさんにぶつけることで、自分のほうが楽になっていたのではないだろうか…。Sさんの煩悶はつづく。

「さかのぼって考えれば、Fさんの長男が問題を起こし始めたころ、暴力がエスカレートする前に、自分がよい聞き手になっていたなら、Fさんがひとりで重荷を背負い込まず、もう少し客観的になれて、十分に対処できるようになったかもしれない。会社人間である前に、人間として何かできなかっただろうか…」。

「神は、口はひとつしかつくらなかったが、耳はふたつつくられた」という格言どおり、聞くことの重要性はよくいわれることだ。聞くことの大切さは、頭では理解している。しかし、いったいどう聞けばいいのだろう。相手がそんなせっぱつまった状況にあった場合、仮に話してくれたとしても、自分にいったい何ができただろう。何もできず、無力感を抱くか、それこそ共倒れするくらいが関の山だったかもしれない。行きつく先は、聞いたことへの後味の悪さ、聞かなければよかったという後悔、相手の苦しみに対する不安と、自分が楽な境遇にいることへのある種の罪悪感、自責の念などを感じるだけだったかもしれない。

会社人間はみな、自分の内面の話をなるべく避けて暮らしてゆくのが処世術だと考えている。自分がそうなったらどうしようという怖れが根っこにずしんと据わっていて、そんな同僚の話を聞きたくない、だから聞く態度を取ることができないのだ。結局、当たり障りのない話に終始した方が、人間関係はうまくいくのではないだろうか…、どうどう巡りをしながら考えつづけて、Sさんはしかし最後にはFさんの聞き手になれなかったことへの後悔が胸を占めてしまう。そして「聞くことを身につけることの重要性をこれほど痛感したことはありません」と言って、話の顛末を語り終えた。



【聞くのを妨げる「怖れ」】

「つらい深刻な問題を聞くと、それを自分の中に吸収してしまい、それに対する怖れに振り回されてしまう。逆に、まあまあの生活をつづけている自分に優越感を味わったりしてしまう。自分自身が直面したくない問題に対し、聞かないふりをしたり、説教してみたり、解決策を提案したり、分析や解釈することで、自分の身をかばおうとしてしまうんです。そうした行動が、ありのままに問題を受けとめることを妨げているのではないでしょうか」。 Sさんはひとり言のようにつぶやいた。

長い沈黙のあと、Sさんは再びひとり語りを始めた。
「聞き手になれないっていうことの、もうひとつの要因は、話し手(相手方)のほうに強い怖れがあって、聞く前から無意識のうちに、その強い怖れに感染してしまうことかもしれません。駆け引き第一の会社人間にとって、うっかり相手を信用して、自分の本心や内面の深いところを打ち明けたりすると、どんなことになるか空怖ろしい。聞いた胸の中に、土足でずかずか踏み込まれるかもしれない」

「言ったことを曲解されるだけならまだしも、会社中のうわさになったり、悪く利用されるかもしれないし…。あげくの果ては、会社をクビになるかも知れない。舌禍どころじゃなくて、相手への信頼が、一家を路頭に迷わせる結果を招くことだってありうるわけです」

「こう考えてくると、ひとことで聞くっていうけれど、普通に聞くこととほんとうに『聞く』ということとは、根本的に姿勢の違う、次元を異にするものかもしれません。傾聴というけれど、本当に『聞く』ということは並々ならぬ訓練、特に聞くときの『自分のあり方』が問われそうです。そして『聞く』ことに努めていくと、何だか自分の生き方まで変わりそうな気がしてくるわけです」。


(「愛と癒しのコミュニオン」/ 鈴木秀子・著)

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ここの記述の中には、わたしたちが、特にエホバの証人が「聞いて受容する」ということができない理由が如実に語られています。誰かが本音を話そうとしたとき、わたしたちは往々にして、「自分の身をかばおう」とする。話を逸らしたり、「説教してみたり、解決策を提案したり (エホバの証人なら、出版物を引きながら)、分析や解釈をする」。そうすることで相手方=話し手に、あなたは「考えるべきでないことを考え、感じるべきでないことを感じているよ」という「非難」のメッセージを送ることになるのです。これでは人間と人間との間には親しさは生じないでしょう。個々人は表面的には、同じ仕事に励み、成果をあげて、その社会の「標準」に合致していても、実生活や内面は、つまり本当の自分は孤立し、誰にも理解されず孤独のままなのです。

「駆け引き第一の会社人間にとって、うっかり相手を信用して、自分の本心や内面の深いところを打ち明けたりすると、どんなことになるか空怖ろしい。聞いた胸の中に、土足でずかずか踏み込まれるかもしれない。言ったことを曲解されるだけならまだしも、会社中のうわさになったり、悪く利用されるかもしれないし…」

この記述には眉をひそめて、心の痛みを思い出してしまいます。長老を信頼して打ち明けたのに、出版物を持ってこられて、自分の感情や考えが訂正されてしまう…。ひどい場合には「長老の集まり」で評議され、「問題のある」成員という烙印さえ押されかねません。そうなると、いきなり会衆での仕事を外される、幾つかの特権を剥奪されるなど、おおぜいの人の前で侮辱を受けなければなりません。こういう処置がふつうに取られる環境というのは、自分個人のありようが認められないのです。自分らしく、個性的であることが禁止される社会なのです。それは、エホバの証人の場合、全体の統制を維持しなければならないからです。個人の考えかたや感じかたを注意深く監視していないと、容易に疑惑に発展しかねない脆弱な宗教信条だから。つまり自分たちが信じていると公言していることは、信者たちにとってほんとうに心から信じているのではなく、信じていたいという根拠の希薄な願いでしかないからなのです。上記の引用の中のSさんはいみじくもこう語っているではありませんか。

「そして『聞く』ことに努めていくと、何だか自分の生き方まで変わりそうな気がしてくるわけです」

エホバの証人にとって、自分の人生をかけてきた宗教信条の偽りであることが自分の中で明らかにされてしまうことを何が何でも避けたいことなのです。そういう疑惑の理由が明らかにされれば、自分の理性は容易に納得するでしょうから。「心は何にも勝って不実であり、必死になる (エレミヤ7:9)」、組織への崇敬の気持ちを守るために必死なのですから。組織への愛から出た行為だとは限りません。おそらく「会衆でうわさになったり、悪い評価」につながることへの「恐怖」という動機もあるでしょう。

このことは決してエホバの証人だけの問題ではありません。そうではない一般の人にとっても同じです。会社への忠誠心の強い人たちならエホバの証人と全く同じ状況にあるでしょうし、自分のメンツを重要視する人にとっては、無力な自分と思われたくないので、人の内面の話を避けようとするでしょう。自分に自信のない人にとっても、不安な話は自分にも伝染するので、直視したくないことです。人間的に未熟な人もそうです。ただ自分が楽しければよいのなら、面倒くさいことはゴメンでしょうから。

Sさんの言葉を借りれば、
「つらい深刻な問題を聞くと、それを自分の中に吸収してしまい、それに対する怖れに振り回されてしまう。逆に、まあまあの生活をつづけている自分に優越感を味わったりしてしまう。自分自身が直面したくない問題に対し、聞かないふりをしたり、説教してみたり、解決策を提案したり、分析や解釈することで、自分の身をかばおうとしてしまうんです。そうした行動が、ありのままに問題を受けとめることを妨げているのではないでしょうか」…ということなのでしょう。

しかし、そんなふうに内面での交際を避けようとしていれば、結局人間は孤独になるだけです。夫婦であるなら気持ちがさめてゆき、すれ違いが生じるようになります。「親しさ」とは心情で、つまり本音でつき合えることだからです。過酷な競争にさらされて人間と信頼関係でつながることを経験してこなかったわたしたち。将来に確信を持てない企業中心社会のわたしたち。構造改革はさらに企業の論理を純化・強化するのでいっそうわたしたちは将来や老後に確信を持てません。こんな風潮にエホバの証人が尋ねてきて、将来の安定を話されれば、ものごとをよく調べないで判断する不安の強い人は容易に絡め取られてしまうでしょう。

でも不安を解消するのは、強固な人間関係にしかありません。人間の絆だけが孤独の唯一の解決策なのです。そして不安を避けようとしていては、そのような強固な絆は紡げないのです。不安は直視して立ち向かうこと。そのために、人間と連帯すること。わたしたち日本人は、生き方が変わることを怖れていてはならないのです。いえ、むしろ生きかたを変えなければならない、傷つくことを怖れず、本音と心情をわかちあえる連帯を生むように。そういう連帯を生む力は愛することだけにあるのです。そして「聞く」ことは愛の重要な表しかただと、いま、わたしは確信しています。エホバの証人の現在のやり方では何ひとつ解決しないどころか、不安をいっそう増幅させるだけです。
コメント (2)
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