Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

人を育てるコツ

2006年01月30日 | 一般
ここのところ、いろいろ用事ができて、なかなか思うように更新できません。ちょっと不満が高まっています。かなり楽しんでブログ書いているんです…。今回、予定を変更して、人間関係のスキル系の話をひとつ引用します。きっとお役に立てる内容です。

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人を育てるには、ほめることだといわれる。しかし一方、叱ることも時に応じて必要だ。だが、侮辱の言葉は絶対に控えよう。なぜなら、「侮辱」というのは相手の人間性を否定することであり、つまりは相手という存在への攻撃であるからだ。攻撃すれば必ず攻撃されることを思いに留めておこう。たとえ上司・部下という上下関係であっても、人間としての価値が否定されるなら、人は自分を防衛しようとするからだ。仕事のミス、相手の失敗はその人の人間としての価値とは関係ないのである。能力をあげつらうのも同じだ。
「新入社員だってこんなミスはしないぞ」
「お前にいくら給料払っていると思うんだ」
ミスは誰でもおかすものだが、部下のミスは上司が責任を負わなければならない。他人の失敗のために自分がまた責められる立場に立つのだから、腹が立ちもしよう。だが自分の腹立ち紛れに、部下を侮辱し、無能呼ばわりしていれば、部下の意欲は失われ、上司への反感をつのらせ、したがって生産性も衰えてゆく。部下は生産的に働こうとはしないで、ミスのないように働こうとする。すると創意も工夫も行われず、ただただ無難に無難に仕事を片付けようとするだろう。こうして会社組織は衰退してゆくのである。



《叱りのテクニック》

叱り叱られる関係はたいてい上下関係で行われる。だが最近では、話のわかる人と思われたいために、叱ることを放棄する傾向が強まりつつあるようだ。前述したように、叱りかたは難しい。無防備なひと言が、それまでの信頼関係を一瞬にして壊してしまうこともあるからだ。そこでテクニックを伝授しよう。

1)プライドを傷つけない。
2)ネチネチと引きずらない。
3)感情的にならない。

これが叱りかたの3原則である。

人前で叱り飛ばせばプライドが傷つく。ネチネチ叱ればうんざりさせられる。理由の分からない感情的な怒りは反感を招く。だからすべてこの反対を叱りかたの基本とすればよいのである。

中でも、もっとも大切なのが相手の立つ瀬を確保しておくことだ。「君らしくもない」と、信頼のニュアンスを加えよう。そして自分を叱るときにも「わたしらしくなかった」…これが自分の成長によく効くのだ。



《ほめことばを絶対ケチらない》

ほめられてうれしいと思わない人はいない。誰にも自分の価値を認めてもらいたい欲求がある。ほめられることは、すなわち自分が他者に認められた証しなのだ。認められれば、やる気もみなぎってくる。「いい企画じゃないか」とほめられれば、仕事に取り組む姿勢も変わってくるだろう。「きれいになったね」と言われ続けてこそ、ほんとうに魅力的になってゆくのだ。

褒めることの効用は、相手をいい気にさせ、意欲を奮い立たせて、力を引き出すことにある。またほめることは子どもの成長にも大きく貢献する。適切にほめられて子どもは創造的なひととなりを育んでゆくのだ。ほめられるということは、その人に伸びる力を与えるのだ。一方、子どもを弱気にさせたり、引っ込み思案にさせたりすることばは、非難のことば、責めたてることば、ののしり、侮辱することばである。子どもが悪い点数のテストを持って返ってきたときに、「ほら、ごらん! あれほど勉強しなさいと言ったのに!」というのと、「あんまり勉強しなかった割には、そこそこの成績だったのね。あんたなら、もうちょっと勉強したら成績上がるよ」と言うことばの違いである。

つきっきりで相手に精力を注ぐ人、ほめて相手の力を引き出す人。どちらがラクかは言うまでもない。



《お世辞はさじ加減を見きわめて》

ほめことばは信頼関係をつくるが、これが「お世辞、おべっか」となると、あまり好意を持って受けとられない。背後に「気に入られたい」など、何らかの作為を感じさせるからだ。では「ほめる」と「へつらう」はどう違うのだろうか。

最大の違いは、何を賛美するかだ。

個人的な部分についての賛辞は、ふつうはほめことばと受け取られるが、肩書きや社会的なステイタスをほめちぎるのは「お世辞」である。「○○社の部長職といえば、もう業界の名士でいらっしゃる」などというのは見え透いているではないか。下手なおべっかは、まともな神経の持ち主に対しては、かえって侮辱に受け取られる。

人を動かそうと思うなら、相手のファッションや相手の趣味、相手の家族のことなどをほめるべきだ。「部長のアイアンはプロ並みですね」。ゴルフが趣味の人なら、こんなことばは大歓迎のはずである。

ただし、さじ加減は厳守しよう。相手が気をよくしたからといって、調子にのってはいけない。「ドライバーの距離もプロ顔負け、バッティング・ラインの読みはタイガー・ウッズ!」。これでは興ざめである。やはり、バカにしてるのか、と思われるであろう。お世辞は一点に集中してこそ光るのだ。また本人でも思ってもいないところまで言われれば、かえっていやな気分になるであろう。自分に取り入ろうとしている、とい魂胆が透けて見えるからである。

(「心をリセットしたいときに読む本」/ 斉藤茂太・著)

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いかがでしたか。やる気を奮起させるのに、よく侮辱する光景をみることがあります。屈辱に思うなら反発心を起こしてはりきるだろう、という気持ちなのかもしれません。が、それはプロ級の人たちのこと。ふつうの人は自分に絶対的な自信を持っているわけではないのです。ですから、自信を失わせないように励ますことが、愛情あるサポートと言えるでしょう。つまり、適切にほめることです。劣等感の強い人って、絶対にほめません。自分の劣等感をあらためて確認してしまうからです。劣等感の強い人は、自分より未熟な人はほめます。内心では、自分のほうが熟練度は高い、と思っているからです。その人には劣等感を感じないのです。イジワルなひとですよね、こういう人って。また劣等感の強い人は、相手の人のミスを見つけたら、鬼の首を取ったみたいに、意気高々と叱り飛ばします。今までの不満、それまでのいろんな人への劣等感を、たまたまミスをおかした当該の人をスケープ・ゴートにして、人前で延々と叱り飛ばし、過去のことも引っぱりだしてきてネチネチ責めたてます。こうして自分で自分をさらに孤立させてゆくのです。

こんな生き方はもうイヤでしょ? エホバの証人時代に懲りてますよね。今回の記事、ぜひ明日からでも実践してみてくださいね。わたしも毎朝、意識して出社します。
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ある「ポジティブ・シンキング」考

2006年01月19日 | 一般






「スィング・ガールズ」っていう映画をごらんになられましたか。



あの映画で面白いことを言うキャラクターがいました。名言ふうのセリフを語るヒトです。「すべての人間は二種類に分けられる…」って言うんです。野球部員だったかな…。最初の方で、「…やり遂げる者とあきらめる者だ」、ラストの方で、「スィングする者としない者だ」、中ほどにもあったような記憶があります。エホバの証人を批判する人々を非難する人なら、「ほら、すぐそんなふうにものごとを一般化する…」ってイヤミを言うかもしれませんが、これは要点を際立たせるための効果的な言い回しです。往年の米欧映画や小説などで、よくありそうなセリフっぽいですよね。でもあまりにも使われすぎて、もう賞味期限切れの言い回しではありますが…。




でも今、わたしはあえてこの言い回しを使います。すなわち、

「プラス思考しよう、と言う者は二種類に分けられる」。

そのココロは…
「困難に対処しようとする者と、困難を回避しようとする者だ」。




反エホバの証人系の掲示板に、ツライ気持ちや激しい感情を書き込むと、中には拒否反応を示す人がいて、マイナスの感情を吐露した人を責めたり、説教したり、ひどい場合は攻撃したりしちゃいます。「見苦しいな」などの評論はザラ、強制的に書き込みを削除されたりされる場合もあります。傷つきますよ、これって。


だれでも他人の悩みを聞かされたり、激しい感情を聞かされたり、あげくの果てに、復讐だの、殺害だのと言われるのは見苦しく思います。実際、そういうマイナスの感情に囚われている人は、自分のことしか考えられない状態にいます。とにかく、自分の悔しさ、情けなさをわかってちょうだい!…っていう叫びのような気持ちを押し出すので精いっぱいです。他人の気持ちにまで頭がまわらない状況です。侮辱や裏切りや利用されて棄てられたり…で、ズタズタに傷ついていて、「自分は価値があって、尊厳ある存在だ」っていう大切な自信を粉砕されている状況にあるので、自暴自棄になっていたり、攻撃的になっているのでしょう。

その気持ちはわたしにはよーっく理解できます。「アメリカン・コンサーヴァティズム(下)」で引用した、セガで実際に行われた虐めのような圧力が人間をそのような心理状態に追い込みます。エホバの証人の社会で、同じような虐めが行われた場合、圧力はもっと重いものになります。なぜなら、神の名によって行われるので、落ち目の人を罰するのが神への神聖な奉仕である、という信念をさえ持って行われる可能性があるからです。


そういう状況にある人の吐露話をじっと聞くのはつらいものがありますし、どう答えていいかわからないし、こっちの気分も重苦しくなるし、で、いいことは何もありません。人と人がつき合うんなら、たとえネットの書き込みをあいだにはさんだものであっても、さわやかな気持ちになれるようでいたい、そういうのが思いやりであると言うのは「正しい」です。だから、思わず知らず、わたしたちは「人生って悪いことばかりじゃないよ、そのうちいいことだってあるよ。もっと積極的な見方を持って!」と言ってしまいます。そう言うときの人間には、二種類ある、とわたしは今、発言します。ものごとを二極的に捉えようと言うんじゃありません。「義に過ぎる人は、実は未熟な人間である可能性が高い」ということを強調しようとして、こういう言い回しを使うのです。


次の一文をちょっと読んで、考えていただけませんか。






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【前向きに、の正しい活用法とは】



「ポジティブ・シンキング」という言葉が流行して以来(ルナ註:この本の初刊行は1999年8月)、やたら「ポジティブ」を乱発する人がいる。あまりの乱発ぶりに、その価値もぐっと下がったようだ。私の若い知人もそういう人物である。

彼の言う「ポジティブ」とはこういうことだ。
たとえば来週までに、ある仕事を片づけなければならなかったとしよう。時間と必要な人手を考えると、状況は厳しい。そこで誰かが「ほかの部署から応援を頼もう」と言い出す。「無理して大急ぎでやっても手抜きになるといけないし、途中で何かあって順調にいかなくなることも考えられるから」と。

ここでその若い知人は口を挟む。
「どうして、できないかもしれないことを想定するわけ? 問題が起きてもいないのに、途中で何か問題が起きたらなんて、今から考えるのはネガティブだよ。もっと前向きに、ポジティブに考えようよ」。

彼はほんとうに「ポジティブ」なのだろうか。むしろうまくいかなかった場合の対策も立てて、うまくいくように労力を惜しまずに最大限のことをする。私はこの場合の「ポジティブ」とはそういうことだと思う。

うまくいかなかった場合も彼は独自の「ポジティブ」理論を振りかざす。
「失敗をきれいさっぱり忘れようよ。ポジティブにいかなくちゃ」。
過去の失敗をくよくよ思い悩んでいてもしかたがない。早く忘れて立ち直ったほうがいい…というのは一面では正しい。しかしそれは、その失敗から「学習する」ことがあってはじめて言い得ることであろう。嫌なことはさっさと忘れて、楽しくやろうよというのとは話が違う。

彼は万事にこんな調子なので、まわりの人たちは不安になる。また同じ失敗をするのではないか…と、すっかり職場のお荷物だ。

ポジティブ、ポジティブ…と口にする人には、ネガティブな面を見たくない、ネガティブな現実に直面するのが怖い、という気持ちが強い場合が多い。現実の社会や人生には、いい面だけではなく悪い面もあるのに、いい面だけしか見ようとしない。要するに現実が見えていない、現実を把握することができない。

こういう「ポジティブ」な人は、立ち直りは早い。そのかわり、学習していないので何度も転ぶ。転んで「すり傷」を負っている程度のうちはまだいい。しかし「大けが」をしそうになったら、どうするのか。現実を把握することができなければ、状況判断もできない。失敗したときに、「ポジティブにいけよ」といわれるばかりで、痛みをわかってもらえなかったまわりの人たちが、そのときに助けてくれるかどうか。心配である。




(「なぜか人に好かれる人」の共通点/ 斉藤茂太・著)




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安易に「プラス思考」を口にして他の人のマイナスの感情の表出を責める人たちは、実際にポジティブな人柄なのでしょうか。この一文は、必ずしもそういうわけではない、と主張する根拠として、書かれました。


「ポジティブ、ポジティブ…と口にする人には、ネガティブな面を見たくない、ネガティブな現実に直面するのが怖い、という気持ちが強い場合が多い。現実の社会や人生には、いい面だけではなく悪い面もあるのに、いい面だけしか見ようとしない。要するに現実が見えていない、現実を把握することができない」

ネガティブな面を直視できないのは、それを「怖れて」いるからだと斉藤先生(精神科医)は観察されました。この観点に立つと、ネガティブな面を怖れるのは、なによりもそういう状況への対処スキルが培われていないからだと言えるのではないでしょうか。「不安」に対処できない、対処する自信がない。もちろんそれは誰でもそうでしょうけれど、不安な状況に陥ると混乱して、思考が働かなくなるという人は、もう少しスキルアップの必要があるのではないでしょうか。それをする代わりに、不安な気持ちを起こさせる他人を責め、非難し、排除しようとするのは、決して人となりが成長した人の行動とは言えないのです。つまり、「困難な状況に対処するスキルが十分に培われていない、それゆえ困難を避けようとする」人が「ポジティブ・シンキング」を理由にして相手を責める、というわけです。この「ココロ」、なんとなくわかっていただけたでしょうか。


ちょっと個人的な思い出話をします。現役証人だったころのことです。


ちょうどわたしがムラハチ・プレッシャーに苦しんでいたとき、奉仕でいっしょに働く人たちはよくわたしに説教や忠告、訓示などをしてくれたものです。思い出すとむかっ腹が立ってくるのですが…。

ちょっとわたしが一息ついて、「ああ、疲れた」というと、「しんどいとか疲れてるとか口にすると疲れるもの。仕事は意欲的に取り組みましょう」だの、抗議すると「ほんとうに消極的ですね。教訓を得ようという謙虚さを培われたら…」などなど、正論を使って説教するのです…。でもその「ココロ」は…。

私がこのような憂き目に遭うはめに陥ったのは、長老の妻姉妹のプライドを潰したことが原因だったのです。というのは、たまたま巡り合えた研究生の方が、そのお局姉妹の昔の研究生だったのです。お局は数年その研究生の方と研究していたのですが、目だった進歩はなく、研究は立ち消えになりました。ところがわたしと再会したころには、意欲的に研究に取り組まれました。お局は、はじめのうちは「時期があったのね」とか言っていたのですが、その研究生の方は年齢がわたしと近かったせいもあり、ついわたしの司会のほうが分かりやすいみたいなことを言ったのが、わたしの運の尽きとなりました。女の妬みですね、醜いですねー…。結局お局の指令の下での虐めのために、その研究生の方も躓いてゆきました。

こういう状況下での、「ポジティブであれ、自分をわきまえろ」式の内容の説教、訓話、忠告の「ココロ」は、わたしが間違いであり、自分たちのほうに正当性があるんだぞ、自分たちのほうが「上」で、おまえは「下」だという、いら立ちから来るメッセージなわけです。

何が言いたいかというと、ポジティブ・シンキングを説くとき、それは婉曲的な攻撃である場合があるのです。率直に攻撃すると、第三者の目には「大人げない」と映ります。でも道義や倫理を説けば、自分のほうができた人間であることをアピールできるのです。自分のほうが「できた人間」であるということは、暗に攻撃の対象となっている人々は「できていない」ということになります。美しいことばで攻撃を加えることができるのです。

わたしは上記の斉藤先生のお話の中に登場する「若い知人」の方は、周囲に反感や敵意や不信感を持っていて、攻撃していたのかもしれないなあと想像などしてみました。若い人が早く出世したときに見られるノイローゼの一種で、自分は見くびられているのではないかという不安から、周囲に不信感を抱き、不信感は敵意となって攻撃的になる、あのパターンなどでも、この「若い知人」のようになったりするだろうなあ、などと想像したのです。劣等感の強い人ってとかく、一生懸命努力している人を貶めたがる傾向があるってこと、見聞きされませんでした?

だから、だれかが自分、あるいは自分たちの方向に、一般的に正論とみなされている説教や批判を向けてきたとき、その説教、批判の矛先が仕事や業績や思想などに向かうのではなく、相手の人自身、その考え方やその人の個性、特徴、体のこと、能力のこと、資格、学歴、社会的地位などへの見下しであった場合は、きっとそこには攻撃を受けている人たちへの劣等感のようなそれこそ「ネガティブ」な感情があるからではないか、という観点から眺めてみる視点も重要だと思うのです。自分のほうに劣等感があるということは、人間にとってかなりツライ「不安」の原因です。自分が何か新しく目標を見つけて、それに挑戦して、まず自分の自尊心を立て直そうとするのなら、その人は劣等感を感じる状況という「ネガティブな現実」を直視できる人です。ところが、ネガティブな現実を認めることができない人なら、自分を向上させるという時間と努力を要することをせず、相手を自分より貶めることで劣等感を解消しようとします。だから、「ポジティブ・シンキング」を主張して説教や批判、評論する人の中には「未熟な人であるかもしれない」場合がある、と言うのです。「義に過ぎる」というのは、自分にとっての常識は相手にとっても常識であると考えて、自分の価値観で相手を裁いてしまうような人です。一生懸命なのに、「なぜか人に好かれない人」に見られる共通点、ということができる人かもしれません。


次回は、本物のポジティブ・シンキングについて、事例を探してきます。次回もせひお読みいただければうれしいです。




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究極の恋愛術

2006年01月15日 | 一般
わたしはブログの記事のために、もちろん自分磨きのためにも、ポップ・サイコロジーといわれているハウツーものの、手ごろな値段の本を買い置いているのですが、最近、あるブログのコメントで紹介した本がたいへん感謝されて、とてもうれしく感じました。で、今日はその本の著者が著わされた別の本から、ひとつふたつ、内容を抜粋したいと思います。その本のタイトルはズバリ、

「ひと言」で相手の心をつかむ恋愛術

…というものです。「究極」といっていいでしょう、このタイトル。そのサブタイトルも凄い。「恋が思いどおりになる16の心理テクニック」です。およそ関心を示さない人はいないのではないかと思われます。自分の限界に挑戦している人や、仕事や興味をまっしぐらに追及している人などは除いて…。でも、人間関係は最大の宝。決してバカにしないで、ちょっと息抜きにでもご覧になってみてくださいな。

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では、突然にクイズから。今、あなたは大学受験生。

さて、そろそろ受験する大学を決めなければなりません。模擬テストから、それぞれの大学の合格率はこのように出ました。

超有名なA大学            合格率 10%
かなり有名なB大学         合格率 70%
まあまあ有名なC大学        合格率100%
かなり楽勝なD大学         合格率150%

このうち、今年は「1校しか受けられない」とするなら、あなたはどの大学を受けますか? 考えてから続きを読んでくださいね。

さて、では本題の前に、一般的な「口説きの場所」とはどこかを考えてみましょう。

たとえば彼の部屋、あなたの部屋、バー、公園などはお約束な場所ですが、「カラオケ」などは意外な穴場。
人間は「暗くて」「狭い」場所にいると、つい相手に親近感を感じてしまうものといわれています。また歌による熱狂も、気持ちを盛り上げる作用があるので、まさに「いい雰囲気にならない方がおかしい」場所なのですね。

すなわち男性があなたをカラオケに誘ったら、それこそ何らかの意図があると思って間違いありません。(ルナ註:ホンマかいな?)そんなときにはとにかく座ったときに、意図的に近くに寄ってあげると、展開も早いかもしれませんね。

さて、そしてここからが本題。
このような「いい雰囲気になりそうな場所」に、うまく誘われる人と、なぜか誘われない人がいます。この違いはいったい何なのでしょうか?

恋愛も受験と同じです。

ほら、先ほどの問題を見てください。ほとんどの方が、ちょうどいい合格率のBかCの大学を選んだのではないでしょうか。志望校のレベルが高いのに、あえてそれに挑もうという受験生は少ないものです。また明らかに自分よりレベルが下の学校をわざわざ受験しようとする人も、あまり多くはいません。それとおなじで、「レベルが高すぎる」もしくは「低すぎる」と感じている相手を、わざわざ誘おうとする男性は少ないものです。

男性にとってベストな相手こそが、「自分よりも少しだけ上」の女性。

大半の受験生が合格率70~80%台の学校をねらうように、男性も「誘いの成功率が70~80%台の相手」を誘うことが多いのです。

でも、多くの女性はそのことを忘れています(ルナ註:とくにエホバの証人の熱心な姉妹たちは…)。すなわち無意識のうちに「高飛車」な態度を取ったり、もしくは逆に「いつでも誘ってくださいね! すぐ行きますから!」というようにあえて「自分は下」だとアピールしたりしてしまいます。これでは、相手はいつまでたっても誘ってはくれないでしょう。

では、うまく相手にそう思わせるには、具体的にはどうすればいいのでしょうか?




《相手を誘う、そのスマイル》

その答えこそが「笑顔」です。

好きな人と、その日にはじめて顔を合わせたとき。そして相手が目の前で何かを話しているときは、とにかく「笑顔」を心がけてください。

このときに大切なのは、「ニコッ」という音を意識して、口を中心に動かすこと。これこそがもっとも自然なほほえみになります。

特にセリフとして、相手が何かを言ってきたら、元気よく「はいっ♪」と返事をすることが大切です。実際に「目の前の相手が笑ってくれている」というのは、相手にとって何より嬉しいことになります。

「自分に会うことを喜んでくれているんだ」
「ぼくの話を楽しんでくれているんだ」

そう思った男性は、「じゃあ、もしかしてぼくの誘いにちょうど乗ってくれるのでは…?」
と感じるものです。

実際にセリフとして「いつでも誘っていいのよ」と言うわけではなく、笑顔で示していることが重要です。そしてもし、相手が誘ってきて、万が一その日の都合が悪かったり、誘いの内容がちょっと趣味でなかったとしても、決して「イヤな顔」をしてはいけません。

断るときも、とにかく「笑顔」。「わあ…(ニコッ)。嬉しいです。でも、その日はちょっと都合が悪くて…。ごめんなさい…」。

こう言えば、相手だって決して気を悪くしないでしょうし、何よりプライドだって保てます。受験で言えば、「今年は不合格だけれど、点としてはギリギリ惜しい!」という状態。これによって次にまた誘う勇気も湧いてくるものでしょう。




《相手を誉めて上げること》

また単純ですが、相手のことをほめてあげることも重要。男性は自分のことを評価してくれる人に、より強い感謝の気持ちを抱くもの。それによって、「あ、この人はぼくのことを好意的に受けとってくれている。もしかして誘ったら、来てくれるかも…」というような、過度な期待を生むことになります。

笑顔とプラスの言葉。
そのことを覚えておきましょうね。



よって話をまとめるなら、誰かと接したときは、とにかく「笑顔」を見せること。とくに相手が何かを話しているときは、にこやかにほほ笑んで聞いてあげること。いろいろな笑顔を見せてあげることは、確実にあなたのファンを増やすことになるのですよ。




《今、この瞬間》

男性は、あなたが思っているほど強い生きものではありません。相手を動かしたければ、まずはあなたの笑顔でやさしく包んであげることが大切なんです。

ほら、この瞬間、ほほ笑んでみてください。あなたの気持ちも、晴れやかになるのに気がつくはずですから。




2 成功率93%以上の「男の誘い方」




心理学者のランガーによって、こんな実験が行われました。

コピーを取っている人に近づいて、以下のA~Cのことばをかけながら、先にコピーをさせてくれるように頼んだのです。

A 「先にコピーをとらせてくれませんか?」と普通に頼む。
B 「急いでいるので、先にコピーを取らせてくれませんか?」と、理由を言いながら頼む。
C 「コピーを取らなければいけないので、先にコピーを取らせてくれませんか?」と、ぜんぜん理由になっていない理由を言いながら頼む。

…するとその結果、承諾率は、Aが60%で、Bが94%でした。これは納得ができるはず。でもここからがこの実験の面白いトコ。

なんと、C の承諾率は「93%」で、ほとんどBの場合と変わらなかったのです。すなわち…、

「大切なのは、理由をつけること」。

この実験の結果はとてもシンプル。

理由なんてどうでもいいから、とにかく「…だから」ということばをくっつけちゃえ!
…ということ。

この実験でも示されているとおり、たとえちょっとヘンな理由であっても、「その理由はよくよく考えるとおかしくない?」なんて考える余裕は、ふつうの人にはありません。もちろん、理由になっているに越したことはないですが。

繰り返しになりますが、とにかく大切なのは「…だから」、「…なので」ということばを添えること。
「観たい映画があるから、いっしょに行こうよ」
「一度話したかったから、飲みに行こう」
「時間が空いたから、ちょっとご飯でも食べない?」
…こう言うだけで、誘いの成功率は格段に変わるのです。


また可能であれば、「…しませんか?」というよりは、「…しましょう」というような、「やろう」「しましょう」という言い方のほうが、相手の承諾率はあがるものです。英語で言うなら、「レッツ」ということば。これを使うと、無意識に二人のあいだに連帯感を生むセリフになります。

覚えておいて下さいね。

よって、ここまでの話をまとめるなら、
相手に誘いをかけるときには、とにかく「理由」を添えること。それだけで誘いの成功率はぐっとあがる、ということです。


《あなたの存在が、「理由」になる》

繰り返しになりますが、このように人間は「理由」があると、つい気持ちが動いてしまうもの。

これはもっと広い意味で、一般的な誘い全般でも同じです。

あなたは無意識のうちに、
「女性から男性を誘うなんてイヤだ…」
「相手から電話もないのに、私からかけてもいいの…?」
なんて迷ってしまうことはありませんか?

それは無意識のうちに、
「誘いは男性からするもの」
「誘われない女性は悲しい」
という一般常識的な考え方があるからです。

でも実際、男性の気持ちがそうそう燃え上がって、それこそエキサイティングにアプローチをかけてくることって、ないものです。

実際に今はまだ不況の時代。

仕事などで自信にあふれている男性はそんなに多くはありません。とくに男性は、普段の生活に自信があって初めて女性にアプローチをしようという気持ちが湧いてくるものなのです。

もしあなたが誘うことをためらっているなら、こう思ってください。

今は「逆」なんです。
とにかく理由をつけて、誘ってみてください。
「この子が、行きたいっていうから…」
「誘われたから、遊びに行くんだ…」

そんな「あなたの気持ち」という理由は、彼にとって喜びの感情を湧かせます。「自分はそれだけモテているんだ」ということは、仕事への自信にもつながります。その気持ちが湧いてくれば、あなたに対してもプラスの感情が生じ、それこそ男性からも誘ってくれるはず。

あなたのひと言、彼のすべての「理由」になるんです。

いっしょに遊びに行きたい。
ご飯を食べたい。
大切な時間を過ごしたい。

小さくてもいいので、その気持ちをことばにしてください。

みんな、そうなんです。
ほとんど99%の女性が、誘われず、そして迷っているんです。

いちばん悲しいのは、あなたの想いをためこんで、そして忘れてしまうこと。
今、感じていることが消えてしまう前に、ことばにしてください。
ことばにしてみれば、不思議なほどに気持ちが楽になるはずですよ。

(「ひと言で相手の心をつかむ恋愛術」/ ゆうきゆう・著)

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こういうポップ・サイコロジーの本って、たいてい見開き1ページほどに、一項目がまとめられていて、文章も少なく、エッセンスだけが記述されているので、わたしはカバンに二、三冊入れておいて、朝、通勤電車の中で数項目読みます。ちょうど、エホバの証人の使っている「日々の聖句」のように、ね。すると朝から元気になれるんです。気分や感情って、結局自分の考え方次第です。ダメだって自分にたがをはめてしまえば、人生を護りの姿勢で縮こまって生きていくことになります。そんな人生って、もったいないじゃないですか。朝に元気な考えを自分に吹き込んで、毎日を新しい気持ちで生きていけます。

みなさんもお試しあれ。「日々の聖句」ならぬ、「日々のポップ・サイコロジー」として、いちばんオススメは「小さいことにくよくよするな」です。みんなご存知ですよね。130万部を売り切った、スーパー・ベストセラーです。今は500円足らずの文庫本になっています。

人生の現実は、今日この日、この一瞬だけ。この一秒を丁寧に生きてゆけば、面倒な事態を招くこともなし、あのときああしていればなあ…、なんて後悔をすることもなし。わたしは、エホバの証人時代のように、他の人の目を気にしてビクビク生きていくことだけはしたくないって、毎日そう決意しなおして、この先も生きていきます。

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明けましておめでとうございます '06

2006年01月04日 | 一般
明けましておめでとうございます。

旧年中は訪問してくださってありがとうございました。
本年もかわらぬご支持を賜りくださいますようお願いいたします。

年始にあたり、一篇の詩をご紹介いたします。

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生を選び取る。

ただひたすら
どんなときも
なんとしても。

無駄多く
締まりなく
ただ時に流されて
誰にも与えず
どこにも広めない生なら
何ひとつ選んだことにはならない。

-メアリー・コリタ・ケン・作

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過干渉や、ハラスメントや、虐待や、ネグレクト、条件つきの愛などによって、人とのコミュニケーションが人並みにできないで苦しんできた方々、立ち向かうことをあきらめないで。愛を育むあこがれの関係を持とうとすることを、追い求めてください。

コミュニケーションはスキルの問題です。素質の問題ではありません。スキルは学んで身につけることができるものです。それはたとえ親兄弟であっても、だれか他の人に遠慮したり、義理に配慮したりして、生きかたを選ぶことではない。自分の希望、自分の願望、自分の意欲を見分けて、それを成しとげてみようとして、選択することから始まるのです。自分の選択であるなら、思うように成果を上げられなくても、理想的な評価を得られなくても、自分で納得できるところまですすめれれば、そのときいいようのない充実感を得られるでしょう。

エホバの証人のように、他人が決めた目標なら、それを選択しても充実は得られないでしょう。せいぜい、信者から表面的な賞賛を受けるだけです。そのような賞賛が自分自身にほんとうに充足を与えるのかどうか、エホバの証人を続けてみてください。鬱に陥ったら、そのときには、ほんとうに人生を満足させるものが何かを理解できるでしょう。

自分の人生です。親の人生ではない。親に孝行しなければならないからと、親を喜ばせなければならないからと、そういう理由で本意ではない生きかたに理屈をつけてしがみついている人は、他人に対して厳しい要求を押しつけがちです。他人を「裁き」ます。自分ができないでいること、自分が得られないでいること、それを神聖なものと見なします。子どもというものはそれほどまでに親の愛を求めるものなのです。それは成長の過程において、親から肯定されることが、人生全体、社会全体への「実存的」な安心感を造り出すものだからだそうです。親から、あるいは親代わりの人から無条件の肯定を与えられることによって、積極的で、楽天的で、逆境にめげない、強い精神性は育まれるのだそうです。

でも、自分はそういう無条件の肯定を得られずに育ってきた、だから…。
いえ、心配しないで。わたしたちは人間です。人間には理知があります。人間は分析し、評価し、創造に向けて計画し、実行に移す能力があります。だから、自分で自分を救うことができます。自分で自分を築き上げることができます。自分で自分を立て直すことができます。

人間にとって最上の生って何でしょう。人間と愛情で関係を営むことです。愛し合いされることが人間の生に充足を与えるのです。愛し愛してくれる人間がいれば、人間はどんな状況でも生き抜いていける。どんな困難でも乗り越えられる。だから、自分のしている事業、研究、勉学、これらのどれにも優先させて、愛する人を獲得しましょう。愛は称賛することではない。目立った褒賞を持たなくても、際立った地位・名誉を持たなくても、欠点があっても、健康じゃなくても、その存在全体を受容することです。受容されることを要求するのは、自分の愛を与えるのに条件をつけていることになります。そういうのは幼い子どものパターンです。大人となった今、まず自分のほうから受容するのです。そうしていけば、無条件に自分自身を受容してくれる人に、必ず出逢えるでしょう。人間が生きること、それは一人のパートナーを愛すること。だから、「なんとしても、ただひたすら」愛するパートナーを、異性なら配偶者、同性なら親友を見出すことを、まず求めましょう。それが生を選択するということだと、わたしは解釈しています。

おそらく全生物史においても、わたしたち人間のような生物は地上に現れないでしょう。環境が厳しくなり、現在の形態の生物が生存できないようになれば、わたしたちのようなきわだった精神性と知性を有する生物はもう姿を消すでしょう。生存できる必要最小限のポテンシャルを残して、生物は理知を捨てるかもしれません。太陽が膨張すれば地上の環境は生物の生存にとっては厳しいものになるからです。灼熱の地球で、凍結した地球で生き延びたのが、原始的な形態の生物であったように。人間としての生を享けたのは、宇宙の歴史上きわだった幸運です。意識できる、こんな生物は滅多に進化してくるものじゃありません。人類の亜種ともいうべき他の種はほんの数万年前に絶滅してしまいました。わたしたち現生人類は生き延びています。それは知性が優れており、言葉を話し、文字を考案して知識を後世に残し、子孫に分け与えてきたからです。人間として生を享けた幸運に感謝し、人生を精いっぱい楽しみましょう。

世間のしがらみや、伝統の制約や、宗教の制約や、ナショナリズムの制約のために、自分を全体の部品のようにして生きてはあまりにももったいないのです。わたしたち人間にはもっと多くのことができる、そんな可能性があるのです。お金をいくら積んでも得られないもの、それは自分の興味を追求することから来る充実感です。自分の興味は自分のうちから出てくるものであって、国家や宗教団体や親兄弟や地域の伝統に与えられるものではないのです。国家や伝統や神や先祖を愛するより前に、まず生きている自分のパートナーを愛しましょう。そしてそこにこそ人間の生きがいがあることを、パートナーとの間に生まれた子どもに伝えるのです。これは人間が後世に残せる最大の遺物です。クリスチャンの内村鑑三さんは、後世に残させる最大の遺物は、自分の高尚なる生涯である、と講演されたそうです。これは事実です。高尚とは他人の評価を追い求めることではありません。自分の喜びが、パートナーと子どもと隣人にとっても幸せと思えるような、そんな生涯です。不満ながらも、自信のなさや傷つくことを怖れてエホバの証人にしがみつく人たち、人から評価されることが、世間並みに暮らすことが人生の価値だと思っているから、うまくやれないことに臆病になるのです。人が評価するかどうかではありません、あなた自身が後悔しないかどうかが問題なのです。

時に流されるままに収入を得て食べて性関係にのめり、愛してもらうこと、保護してもらうこと、賞賛してもらうことばかり要求して、だれにもそれらを与えず、喜びも幸福感をも人々と社会に広めないなら、何も選択せずに生きているのです。そんな生は無駄で締まりのないものです。そんな風に生きようとするのは、責任を負うことから逃げるからなのです。自分で選択することには責任が生じます。でも自己肯定感が育まれていれば、自分の選択したことについての責任を負うことはできるのです。失敗しても自尊心が破壊されてしまうことがないからです。そういう自己肯定感や強靭な自尊心は、愛されることで育まれます。愛されることは、無条件に受容すること、自分のほうからまず愛することから育まれてゆくのです。だから、現役の方々、やめた方々、勇気を持って愛することを行いましょう、勇気を持たなければならないのは、愛することには「傷つけられても」あきらめずに愛し続けることが必要だから…。でも、大丈夫、愛されるときにその傷は必ず癒されるから。
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