ある人間が、他の人の思惑のための奉仕者である、と見なされることの意味がご理解できるでしょうか。自分が感じる自然な目標が、他の人の基準で「善悪」の二種類で振り分けられることがどれほど屈辱的か、経験されたことがありますか。わたしはエホバの証人の宗教において、そういう経験をしてきました。エホバの証人は、人間はエホバという名の、パレスチナの神の目的を遂行するための奉仕者である、それが唯一人間の生きている意味である、と教えます。
-------------------------------------------
一方,イエスについて考えてみてください。イエスは神に対して強い信仰を抱き,その教えは幾世紀にもわたって何億という人々に影響を与えてきました。イエスは人間の幸福に関心を持っていました。よく知られている山上の垂訓は,九つの幸い―「……は幸いです」で終わる九つの表現―で始まっています。(マタイ 5:1‐12)その垂訓の中でイエスは聞く人々に、思いと心を吟味し,清め,訓練すること,つまり暴力的な考えや不道徳な考え,利己的な考えの代わりに,平和で,清い,愛に富む考えで満たすことを教えておられます。(マタイ 5:21,22,27,28; 6:19‐21)
弟子の一人が後に説き勧めたように,わたしたちは何であれ『真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,また称賛すべきことを考え続ける』べきです。―フィリピ 4:8。
真の幸福には他人との関係が含まれることをイエスは理解しておられました。わたしたち人間は本質的に仲間といるのを好むため,自分を孤立させたり絶えず周囲の人々と対立していたりすれば,真に幸福にはなれません。愛されていると感じ,また他の人を愛することによって初めて幸福になれるのです。
イエスの教えによると,そのような愛の土台となるのは神との関係です。人間は神から独立しては真に幸福になることはできないとイエスは教えました。なぜそう言えるのでしょうか。―マタイ 4:4; 22:37‐39。
九つの幸いの一つは,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」というものです。(マタイ 5:3)なぜイエスはそのように言われたのでしょうか。なぜなら,動物と違って,わたしたちには霊的な必要があるからです。神の像に創造されたわたしたちは,愛,公正,憐れみ,知恵など,神の持たれる属性をある程度培うことができます。(創世記 1:27。ミカ 6:8。ヨハネ第一 4:8)霊的な必要には,人生に意味を見いだす必要も含まれます。
どうすればそのような霊的必要を満たせるのでしょうか。むしろイエスは,「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と言われました。(マタイ 4:4)わたしたちの生活にとって肝要な「すべてのことば」の源は神である,とイエスが語られていることに注目してください。ある種の疑問に対する答えは,神の助けなくしては得られません。
(「ものみの塔」2001年 3月1日号 4ページ どうすれば真の幸福を見いだせますか より)
人類に関するエホバの目的に調和して生きるとは,真の神を知り,聖書に示されている神のご要求に従うことを意味します。もし今それを行なうなら,地上の楽園で永遠の命を享受するという希望を持つことができます。楽園では,神と神のすばらしい創造物について際限なく学べることでしょう。(ルカ 23:43)何と喜ばしい,胸の躍るような見込みなのでしょう。
(「ものみの塔」1999年 11月15日号 6‐7ページ 聖書は今日の重要な質問に答える より )
-----------------------------------------------
心を豊かにすること、他人とのよい関係、愛し愛されることに人間の幸福があること。これはその通りです。ところが次に、いきなりこのような陳述が出てくるのです。
「イエスの教えによると,そのような愛の土台となるのは神との関係です。人間は神から独立しては真に幸福になることはできないとイエスは教えました。なぜそう言えるのでしょうか」。
どうして聖書の神の「臣民」になることにのみ幸福の土台はないのでしょうか。宗教の支配下に自分を置かなければ幸福は得られないのでしょうか。このものみの塔の記事では、「どうしてでしょうか」と自問して、その理由をこのように言っていますね。
「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです、と聖書に書かれています」。
この聖句はマタイ伝5章3節の、「心の貧しい人たちは幸いです」の超意訳です。「心の貧しい人たち」を「宗教心の乏しい人たち、あるいは神のことばについての正確な理解を十分には教えられていない人たち」と解釈し、「人間は神による指導を必要としている」という意味の訳文に、一気に持っていった迷訳です。「霊的な必要」とは、神による指導、あるいは単に、宗教的な、と受けとっていただいて結構かと思います。エホバの証人にとっては、「真の」宗教はただ一つしかないので、「宗教的な指導」というと自分たちの宗教しかないのです。しかも地上においては、神は「指導すること」を、「忠実で思慮深い家令」と称する身分を持つという統治体を中心とする中央集権的な組織に委ねている、ということなので、上記の聖句の意味は「人間は統治体の指導に無条件、無批判に服従する必要がある」という意味に等しいわけです。こんな訳文の聖書はおそらくエホバの証人による翻訳の新世界訳だけでしょう。聖書は造物主によって著された書物なので、人間の生活全般を導くことができる、事実「ある種の疑問に対する答えは、神の助けなくしては得られない」と言い切ります。
もちろん、そんなことはありません。「神の助け=ものみの塔協会による聖書の独自の解釈」がなければ得られない「疑問への答え」など、わからないままでも生きてゆくのに困ることはないのです。ものみの塔協会の独善的な解釈を押しつけられるほうが、暮らしに困難を招くことがある、とは言えるでしょう。
この種の飛躍やすり替えはナショナリストの常套手段です。学校教育の混乱を、教育基本法体制のせいにしようという議論もそうです。事実は、教育基本法の理念を無効にしてしまうような行政措置を次々に打ってきた保守政党の政策に責任があるのです。教育基本法の理念は十分に実行されてこなかったのです。
教育基本法の改正がいよいよ政治日程に上ろうとしています。いまのところ、公明党が「国を愛する」という文言を入れることにかろうじて抵抗しています。わたしは、他人の目的のために、自分の人生を強制的に献呈させようという考え方に、生理的に反発を感じます。このたび、教育基本法「改正」を批判する二つの著書をがんばって読みました。数回にわたって、みなさんにご紹介しようと思います。良心の自由、思想の自由を尊重したいとお考えのかたがたは、ぜひご自分でお読みになっていただきたい本とブックレットです。
-------------------------------------------------
【教育基本法の意義・特徴】
敗戦後の1947年3月31日に公布施行された教育基本法は、戦後教育の成立において画期的な意味があった。教育基本法の意義・特徴はまず、戦前の天皇制教育と超国家主義・軍国主義の教育を基本理念とした教育勅語の否定、という意味を持っているということである。
1890年に公布された教育勅語は、正式には「教育ニ関スル勅語」といい、戦前の教育理念の中心に位置づいていた。日本における教育が根本的に目ざすのは、天皇の徳化と臣民の忠孝を基礎とする国体にあるとして、次に「臣民」の遵守すべき徳目を列挙している。その徳目の中心は、
「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運を扶翼スヘシ」
というところにあらわれている。そこには、国民は天皇の臣民として国家に忠実に奉仕すべきものという考え方が明確に示されていた。
(「教育基本法改正論批判・新自由主義、国家主義を超えて」/ 大内裕和・著)
この時代、国民は国の主権者ではなく、あくまで天皇の「赤子(せきし)」として保護の対象とされ、その見返りとして、天皇への無条件の忠誠を要求された「臣民」でした。「赤子である臣民」という意味で国民は、自分自身で決断することもできない、半人前の存在とされていたのです。その半人前の存在である国民に「道」を説く天皇の言葉が、教育勅語でした。そのため、教育勅語の内容は、最終的には天皇に対する絶対的な忠誠に集約する形になっていました。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることが求められていたのです。この時代のキーワードであった「滅私奉公」、つまり自分の人権のことなど一切捨て去って、「公」に身を挺して尽くす、ということが理念として掲げられていました。ここでいう「公」とは、天皇のため=お国のためということになります。そして最終的には、「天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」、訳すると、天地と同様に果てしのない皇室の運勢を助けなさい、という意です。(ルナ註:エホバの証人の言う、エホバと信者の「契約」と全く同じでしょ?)この点が全ての価値の根本、源とされていました。
もっとも、この教育勅語で語られていたことの全部が全部、反人権擁護的であるわけではありません。というのも、人間が生きてゆく上で、「私」よりも大事な何かを探すことに意味がないわけではありません。意義ある人生を送ろうと思ったとき、自分が邁進できる理想、自分が尽くすことのできる何か、あるいは誰かを意識することに意味がある、という考え方も成り立ちます。そのため、「滅私奉公」そのものが排斥すべきものだということにはならないでしょう。
ただ、ここでの問題の核心は、「私」以上に大切なものを、自分で選び取っていけるのか、それとも権力によって与えられたものを選択の余地なく受けとめさせられているのか、という点にあります。
天皇への無条件の献身が中心にあったわけですから、教育勅語体制が、戦時中に行われた軍国主義教育において、その力を最大限に発揮していったのは必然的でした。そこでは、天皇のために死地に赴き、立派に戦い、美しく散る(命を投げ出して戦う、生き残ることを望まずに…)ということが、日本人としての生きる目的だと教えられました。また女の子は、戦死して「英霊」となる道が閉ざされていたため、選挙権もない二級の国民扱いのまま、優秀な兵士を産む生産機械として生きてゆくことが強制的に求められたのです。
こうした軍国主義教育は、いずれにしても、子どもを死をも怖れぬ兵士に作り変え、消費してゆくためのものでした。子どもひとりひとりの生命や、さまざまな個人的な思いに価値はなく、ただただお国のため、天皇のために死んでゆく瞬間に真の日本人として輝ける、という考え方です。これは子どもを生かすための教育ではありませんでした。子どもはあくまで、国家のために役立つべき存在であって、それ以外では生きている値打ちなどない、この意味で国家の道具にほかならず、子どもを国家の道具として洗練させていくプロセスが、教育の役割だったと言えるでしょう。こういう考え方を「子どもの道具化」と名づけて呼びたいと思います。
(「教育基本法『改正』・私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)
この教育勅語に対する否定を意味するものとして教育基本法は成立するようになったのである。そのことはまずその前文から読み取ることができる。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
また第一条、「教育の目的」に掲げられた条文も重要である。
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。
教育勅語が前提としていた天皇制国家から「民主的で文化的な国家」を建設することへと、国家像が変化していることがまずわかるだろう。「個人の尊厳」や「個人の価値」、「普遍的で個性的な文化」、「自主的精神」などの言葉にも見られるように、教育勅語において、教育が国家・皇運に対する忠誠として位置づけられていたのに対して、教育基本法においては、教育を個人にとっての権利として捉えるという画期的な意味転換が行われていることがわかる。
またこの意味転換が、1946年に設置された内閣総理大臣所轄の教育政策審議機関である、教育刷新委員会の議論を経て行われた、ということにも注目する必要がある。
教育基本法の制定に中心的な役割を果たした教育刷新委員会において、天野貞祐委員から「奉公」、羽渓了諦委員から「忠孝」といった伝統的価値を入れようという意見が出されたが、務台理作委員や森戸辰男委員による批判によって削除された。教育基本法の作成においては教育刷新委員会は強い決定権と独立性をもっていたのであり、したがって教育基本法が占領軍の「押しつけ」であるという一部の「改正」論者によって出されている議論は誤りである。
もうひとつ、この関わりで重要なのは、教育勅語がイデオロギーとしてそれ(教育勅語)をささえていた天皇制国家が、アジア・太平洋戦争という惨劇をもたらしたことに対する反省として、教育の目的に「平和な国家及び社会の形成者」が明記されていることである。これは戦前の教育が目ざした国家像からの明確な転換を示している。(八紘一宇 [世界は天皇を首長とする家族。神の国である日本の天皇を崇敬するよう周りの国々に教えましょう、というような意] などと言って、帝国主義的侵略の理由づける教育が行われていた)
しかし、中央教育審議会(以降、中教審と略)答申では、教育基本法前文の「平和的な国家及び社会の形成者」は今後とも大切にしていくとされているものの、つけ加える理念としては、「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神」となっており、「平和的な」という言葉が削除されている。「伝統」という言葉の導入や、「平和的な」という文言の削除など、今回の(H.15 3月20日付け)中教審答申において、教育勅語から教育基本法へ転換した理念を否定する方向で「改正」なるものが行われていることがわかる。
(「教育基本法改正論批判・新自由主義、国家主義を超えて」/ 大内裕和・著)
---------------------------------------------------
教育勅語は、明治時代に盛り上がりを見せ始めた自由民権運動を抑え込む目的で、法律としてではなく天皇の言葉として発せられたものです。当時、天皇の言葉は「神の声」でしたから、人民主権という思想を抑え込もうとする伊藤博文、山県有朋らの決意の程が伺えます。明治天皇自身も、学校で西洋知識を教えることに危惧をおぼえたらしく、教育勅語の前に、教学聖旨という教育方針を出しました。授業ではいたずらに「高尚の空論」が説かれており、此れでは農家・商家のこどもは本業に就けず、役人になる者にとっても無用であるばかりか、長上をあなどる人間になってしまう、と憂えられた、というのです。
------------------------------
教学聖旨は、五箇条の誓文の用語を使い、学制には「陋習(ろうしゅう;知識・思想が狭いこと、そういうならわしの意)を破り智識を世界に広むる」点で意義があったとしながら、その教育が知識才芸の「末」に走って、人間形成にとっての「本」であるべき徳育をないがしろにしたと批判し、その徳の中心には孔子の教えに由来する仁義忠孝を据えるべきだとした。提案はきわめて具体的であった。仁義忠孝を、他の考えが入る前に、子どもの「脳髄に感覚せしめて培養する」必要があり、そのため忠臣・義士・孝子・節婦の画像・写真を掲げてその業績を子どもに説くという、視覚に訴える方法を取ろうというのである。
ここには自由民権思想の芽を、小学校という思想形成の出発点においてつみとり、批判精神の成長を抑えてしまおうという意図がある。その後も、体制への批判が強まったり、戦争遂行など国策を強力に推進しようとするとき、繰り返し、政府とその周辺の人たちから知育偏重批判が叫ばれるようになる。
(「日本教育小史」/ 山住正巳・著)
------------------------------
孔子の教えというのは、徳川時代から重宝されてきた儒教の精神を指して言っているのだと思います。天が地より高いように、身分の上下は自然の摂理に等しい、だから自分の身分と境遇を全うせよ、かたがたお上に向かって逆らうなどということはないように、という教えです。自分の境遇に、他者による恣意的で不公正な扱いがあるなら、団結し、声を上げて変えてゆこうという、自発的な向上心は死罪でした。ところが人民主権はこれが生命線なのです。そういうことを脳から抹消するために、子どものころから、視覚に訴える仕方で「脳髄に感覚せしめて培養」しようというのですから、マインド・コントロールの手法って歴史があるんですねー。エホバの証人は何十年も前から、「心のノート」に匹敵する教材で子どもにマインド・コントロールを施してきてますしね。
教育基本法を変えようとする人たちにも同じような考えがあるようです。教育の機会均等を破棄し、エリート偏重教育に切り替えようとしています。これは主に財界からの要求です。これからのグローバル競争社会を日本が生き抜いてゆくためには、アメリカのビル・ゲイツなどのような超エリートを育てなければならない、そのためにはこれまでの教育基本法に基づく、平等教育、底に力を注ぐ教育ではなく、学年の早いうちから経済発展に役立つ才能を拾い上げ、選別して、そこに重点的にカネをかけて教育し、あとは予算を削減する、というのです。これではきちんと教えられる学校と、そうでない学校というように格差ができてしまいます。実を言うと格差は覚悟の上なのです、中教審としても。教育内容に格差を作ってしまってもよいというのです。「ゆとり教育」というのは非エリート学校から労力を間引いてしまおうという政策なのです。
経済発展に直接役立つものでなくても、自分のユニークな才能を生かして、人生をゆたかに生きてゆきたいという願いが踏みつけられたら、不満が蓄積してゆきます。そこで国家主義を教え込んで、国の発展を願う心を植えつけて、不満をそらせようというのが意図です。
---------------------------------
三浦朱門・前教育課程審議会会長の証言を紹介しよう。
「学力低下は予測し得る不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、今度はできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。
トップになる人間だけが幸福とは限りませんよ。わたしが子どものころ、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えていますよ。息子を大学になんかやるものじゃない、おかげで生活が離れてしまった。行商もやめさせられてぜんぜん楽しくない。魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の八っつあんも熊さんも、貧しいけれど腕には自信を持って生きていたわけでしょう。
今まで、中程度以上の生徒を放置しすぎていた。中以下なら、「どうせオレなんか」で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の17歳問題は、そういうところも原因なのです。
(日本の)平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民のお尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になってゆかなければなりません。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」。
インタビュアー:それは三浦先生個人の考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか?
「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は皆同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も…。教課審では江崎玲於奈さんのような遺伝子判断の話は出なかったが、当然そういうことになってゆくでしょうね」
(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)
--------------------------------
江崎玲於奈博士の「遺伝子の話」というのは以下の通りです。
--------------------------------
人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやってゆく必要があるんです。
ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。
遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者は天性のほうだといい、社会学者は育成のほうだという。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています。これだけ科学技術にお金を投じてきたにもかかわらず、ノーベル賞を獲った日本人は僕を含めてたった5人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。
(「機会不平等」/斉藤貴男・著)
--------------------------------
このように、今日の教育基本法改正論が現実味を帯びてきたのは、教育勅語復古を希望する人たちに、財界の要求が加わったことによります。江崎玲於奈さんの話のように、日本は今、経済発展を果たせる能力だけを評価し、ほかのものは見下します。人間をたった一つの枠組みの中に押し込もうとしています。次に、教育基本法改正論浮上までの流れを見て行きます。