Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

苦しみ、それとも怒り?

2006年03月27日 | 一般
恋愛で苦しんでいます…。
自分の部屋に戻っても、気力がわきません。
日ごろ、えらそうなことを、ブログに書いているくせにね…。

「ところがいざ、困難が自分に臨むと、あなたはもどかしくなり、
 逆境が自分に触れると、あなたはかきみだされる」。
(ヨブ記4:5)

あと数日、落ち込むところまで沈みます…。
来週は必ず記事を出しますので、
どうか、ルナのブログに、今後ともよろしくおつきあいくださいね。
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ストップ! 教育基本法改変

2006年03月19日 | 一般
ある人間が、他の人の思惑のための奉仕者である、と見なされることの意味がご理解できるでしょうか。自分が感じる自然な目標が、他の人の基準で「善悪」の二種類で振り分けられることがどれほど屈辱的か、経験されたことがありますか。わたしはエホバの証人の宗教において、そういう経験をしてきました。エホバの証人は、人間はエホバという名の、パレスチナの神の目的を遂行するための奉仕者である、それが唯一人間の生きている意味である、と教えます。

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一方,イエスについて考えてみてください。イエスは神に対して強い信仰を抱き,その教えは幾世紀にもわたって何億という人々に影響を与えてきました。イエスは人間の幸福に関心を持っていました。よく知られている山上の垂訓は,九つの幸い―「……は幸いです」で終わる九つの表現―で始まっています。(マタイ 5:1‐12)その垂訓の中でイエスは聞く人々に、思いと心を吟味し,清め,訓練すること,つまり暴力的な考えや不道徳な考え,利己的な考えの代わりに,平和で,清い,愛に富む考えで満たすことを教えておられます。(マタイ 5:21,22,27,28; 6:19‐21) 

弟子の一人が後に説き勧めたように,わたしたちは何であれ『真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,また称賛すべきことを考え続ける』べきです。―フィリピ 4:8。

真の幸福には他人との関係が含まれることをイエスは理解しておられました。わたしたち人間は本質的に仲間といるのを好むため,自分を孤立させたり絶えず周囲の人々と対立していたりすれば,真に幸福にはなれません。愛されていると感じ,また他の人を愛することによって初めて幸福になれるのです。

イエスの教えによると,そのような愛の土台となるのは神との関係です。人間は神から独立しては真に幸福になることはできないとイエスは教えました。なぜそう言えるのでしょうか。―マタイ 4:4; 22:37‐39。

九つの幸いの一つは,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」というものです。(マタイ 5:3)なぜイエスはそのように言われたのでしょうか。なぜなら,動物と違って,わたしたちには霊的な必要があるからです。神の像に創造されたわたしたちは,愛,公正,憐れみ,知恵など,神の持たれる属性をある程度培うことができます。(創世記 1:27。ミカ 6:8。ヨハネ第一 4:8)霊的な必要には,人生に意味を見いだす必要も含まれます。

どうすればそのような霊的必要を満たせるのでしょうか。むしろイエスは,「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と言われました。(マタイ 4:4)わたしたちの生活にとって肝要な「すべてのことば」の源は神である,とイエスが語られていることに注目してください。ある種の疑問に対する答えは,神の助けなくしては得られません。


(「ものみの塔」2001年 3月1日号 4ページ  どうすれば真の幸福を見いだせますか より)

 人類に関するエホバの目的に調和して生きるとは,真の神を知り,聖書に示されている神のご要求に従うことを意味します。もし今それを行なうなら,地上の楽園で永遠の命を享受するという希望を持つことができます。楽園では,神と神のすばらしい創造物について際限なく学べることでしょう。(ルカ 23:43)何と喜ばしい,胸の躍るような見込みなのでしょう。

(「ものみの塔」1999年 11月15日号 6‐7ページ  聖書は今日の重要な質問に答える より )

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心を豊かにすること、他人とのよい関係、愛し愛されることに人間の幸福があること。これはその通りです。ところが次に、いきなりこのような陳述が出てくるのです。

「イエスの教えによると,そのような愛の土台となるのは神との関係です。人間は神から独立しては真に幸福になることはできないとイエスは教えました。なぜそう言えるのでしょうか」。

どうして聖書の神の「臣民」になることにのみ幸福の土台はないのでしょうか。宗教の支配下に自分を置かなければ幸福は得られないのでしょうか。このものみの塔の記事では、「どうしてでしょうか」と自問して、その理由をこのように言っていますね。

「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです、と聖書に書かれています」。

この聖句はマタイ伝5章3節の、「心の貧しい人たちは幸いです」の超意訳です。「心の貧しい人たち」を「宗教心の乏しい人たち、あるいは神のことばについての正確な理解を十分には教えられていない人たち」と解釈し、「人間は神による指導を必要としている」という意味の訳文に、一気に持っていった迷訳です。「霊的な必要」とは、神による指導、あるいは単に、宗教的な、と受けとっていただいて結構かと思います。エホバの証人にとっては、「真の」宗教はただ一つしかないので、「宗教的な指導」というと自分たちの宗教しかないのです。しかも地上においては、神は「指導すること」を、「忠実で思慮深い家令」と称する身分を持つという統治体を中心とする中央集権的な組織に委ねている、ということなので、上記の聖句の意味は「人間は統治体の指導に無条件、無批判に服従する必要がある」という意味に等しいわけです。こんな訳文の聖書はおそらくエホバの証人による翻訳の新世界訳だけでしょう。聖書は造物主によって著された書物なので、人間の生活全般を導くことができる、事実「ある種の疑問に対する答えは、神の助けなくしては得られない」と言い切ります。

もちろん、そんなことはありません。「神の助け=ものみの塔協会による聖書の独自の解釈」がなければ得られない「疑問への答え」など、わからないままでも生きてゆくのに困ることはないのです。ものみの塔協会の独善的な解釈を押しつけられるほうが、暮らしに困難を招くことがある、とは言えるでしょう。

この種の飛躍やすり替えはナショナリストの常套手段です。学校教育の混乱を、教育基本法体制のせいにしようという議論もそうです。事実は、教育基本法の理念を無効にしてしまうような行政措置を次々に打ってきた保守政党の政策に責任があるのです。教育基本法の理念は十分に実行されてこなかったのです。

教育基本法の改正がいよいよ政治日程に上ろうとしています。いまのところ、公明党が「国を愛する」という文言を入れることにかろうじて抵抗しています。わたしは、他人の目的のために、自分の人生を強制的に献呈させようという考え方に、生理的に反発を感じます。このたび、教育基本法「改正」を批判する二つの著書をがんばって読みました。数回にわたって、みなさんにご紹介しようと思います。良心の自由、思想の自由を尊重したいとお考えのかたがたは、ぜひご自分でお読みになっていただきたい本とブックレットです。

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【教育基本法の意義・特徴】

敗戦後の1947年3月31日に公布施行された教育基本法は、戦後教育の成立において画期的な意味があった。教育基本法の意義・特徴はまず、戦前の天皇制教育と超国家主義・軍国主義の教育を基本理念とした教育勅語の否定、という意味を持っているということである。

1890年に公布された教育勅語は、正式には「教育ニ関スル勅語」といい、戦前の教育理念の中心に位置づいていた。日本における教育が根本的に目ざすのは、天皇の徳化と臣民の忠孝を基礎とする国体にあるとして、次に「臣民」の遵守すべき徳目を列挙している。その徳目の中心は、

「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運を扶翼スヘシ」

というところにあらわれている。そこには、国民は天皇の臣民として国家に忠実に奉仕すべきものという考え方が明確に示されていた。

(「教育基本法改正論批判・新自由主義、国家主義を超えて」/ 大内裕和・著)



この時代、国民は国の主権者ではなく、あくまで天皇の「赤子(せきし)」として保護の対象とされ、その見返りとして、天皇への無条件の忠誠を要求された「臣民」でした。「赤子である臣民」という意味で国民は、自分自身で決断することもできない、半人前の存在とされていたのです。その半人前の存在である国民に「道」を説く天皇の言葉が、教育勅語でした。そのため、教育勅語の内容は、最終的には天皇に対する絶対的な忠誠に集約する形になっていました。

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることが求められていたのです。この時代のキーワードであった「滅私奉公」、つまり自分の人権のことなど一切捨て去って、「公」に身を挺して尽くす、ということが理念として掲げられていました。ここでいう「公」とは、天皇のため=お国のためということになります。そして最終的には、「天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」、訳すると、天地と同様に果てしのない皇室の運勢を助けなさい、という意です。(ルナ註:エホバの証人の言う、エホバと信者の「契約」と全く同じでしょ?)この点が全ての価値の根本、源とされていました。

もっとも、この教育勅語で語られていたことの全部が全部、反人権擁護的であるわけではありません。というのも、人間が生きてゆく上で、「私」よりも大事な何かを探すことに意味がないわけではありません。意義ある人生を送ろうと思ったとき、自分が邁進できる理想、自分が尽くすことのできる何か、あるいは誰かを意識することに意味がある、という考え方も成り立ちます。そのため、「滅私奉公」そのものが排斥すべきものだということにはならないでしょう。

ただ、ここでの問題の核心は、「私」以上に大切なものを、自分で選び取っていけるのか、それとも権力によって与えられたものを選択の余地なく受けとめさせられているのか、という点にあります。

天皇への無条件の献身が中心にあったわけですから、教育勅語体制が、戦時中に行われた軍国主義教育において、その力を最大限に発揮していったのは必然的でした。そこでは、天皇のために死地に赴き、立派に戦い、美しく散る(命を投げ出して戦う、生き残ることを望まずに…)ということが、日本人としての生きる目的だと教えられました。また女の子は、戦死して「英霊」となる道が閉ざされていたため、選挙権もない二級の国民扱いのまま、優秀な兵士を産む生産機械として生きてゆくことが強制的に求められたのです。

こうした軍国主義教育は、いずれにしても、子どもを死をも怖れぬ兵士に作り変え、消費してゆくためのものでした。子どもひとりひとりの生命や、さまざまな個人的な思いに価値はなく、ただただお国のため、天皇のために死んでゆく瞬間に真の日本人として輝ける、という考え方です。これは子どもを生かすための教育ではありませんでした。子どもはあくまで、国家のために役立つべき存在であって、それ以外では生きている値打ちなどない、この意味で国家の道具にほかならず、子どもを国家の道具として洗練させていくプロセスが、教育の役割だったと言えるでしょう。こういう考え方を「子どもの道具化」と名づけて呼びたいと思います。

(「教育基本法『改正』・私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)



この教育勅語に対する否定を意味するものとして教育基本法は成立するようになったのである。そのことはまずその前文から読み取ることができる。



われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。



また第一条、「教育の目的」に掲げられた条文も重要である。



第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。



教育勅語が前提としていた天皇制国家から「民主的で文化的な国家」を建設することへと、国家像が変化していることがまずわかるだろう。「個人の尊厳」や「個人の価値」、「普遍的で個性的な文化」、「自主的精神」などの言葉にも見られるように、教育勅語において、教育が国家・皇運に対する忠誠として位置づけられていたのに対して、教育基本法においては、教育を個人にとっての権利として捉えるという画期的な意味転換が行われていることがわかる。

またこの意味転換が、1946年に設置された内閣総理大臣所轄の教育政策審議機関である、教育刷新委員会の議論を経て行われた、ということにも注目する必要がある。

教育基本法の制定に中心的な役割を果たした教育刷新委員会において、天野貞祐委員から「奉公」、羽渓了諦委員から「忠孝」といった伝統的価値を入れようという意見が出されたが、務台理作委員や森戸辰男委員による批判によって削除された。教育基本法の作成においては教育刷新委員会は強い決定権と独立性をもっていたのであり、したがって教育基本法が占領軍の「押しつけ」であるという一部の「改正」論者によって出されている議論は誤りである。

もうひとつ、この関わりで重要なのは、教育勅語がイデオロギーとしてそれ(教育勅語)をささえていた天皇制国家が、アジア・太平洋戦争という惨劇をもたらしたことに対する反省として、教育の目的に「平和な国家及び社会の形成者」が明記されていることである。これは戦前の教育が目ざした国家像からの明確な転換を示している。(八紘一宇 [世界は天皇を首長とする家族。神の国である日本の天皇を崇敬するよう周りの国々に教えましょう、というような意] などと言って、帝国主義的侵略の理由づける教育が行われていた)

しかし、中央教育審議会(以降、中教審と略)答申では、教育基本法前文の「平和的な国家及び社会の形成者」は今後とも大切にしていくとされているものの、つけ加える理念としては、「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神」となっており、「平和的な」という言葉が削除されている。「伝統」という言葉の導入や、「平和的な」という文言の削除など、今回の(H.15 3月20日付け)中教審答申において、教育勅語から教育基本法へ転換した理念を否定する方向で「改正」なるものが行われていることがわかる。

(「教育基本法改正論批判・新自由主義、国家主義を超えて」/ 大内裕和・著)

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教育勅語は、明治時代に盛り上がりを見せ始めた自由民権運動を抑え込む目的で、法律としてではなく天皇の言葉として発せられたものです。当時、天皇の言葉は「神の声」でしたから、人民主権という思想を抑え込もうとする伊藤博文、山県有朋らの決意の程が伺えます。明治天皇自身も、学校で西洋知識を教えることに危惧をおぼえたらしく、教育勅語の前に、教学聖旨という教育方針を出しました。授業ではいたずらに「高尚の空論」が説かれており、此れでは農家・商家のこどもは本業に就けず、役人になる者にとっても無用であるばかりか、長上をあなどる人間になってしまう、と憂えられた、というのです。

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教学聖旨は、五箇条の誓文の用語を使い、学制には「陋習(ろうしゅう;知識・思想が狭いこと、そういうならわしの意)を破り智識を世界に広むる」点で意義があったとしながら、その教育が知識才芸の「末」に走って、人間形成にとっての「本」であるべき徳育をないがしろにしたと批判し、その徳の中心には孔子の教えに由来する仁義忠孝を据えるべきだとした。提案はきわめて具体的であった。仁義忠孝を、他の考えが入る前に、子どもの「脳髄に感覚せしめて培養する」必要があり、そのため忠臣・義士・孝子・節婦の画像・写真を掲げてその業績を子どもに説くという、視覚に訴える方法を取ろうというのである。

ここには自由民権思想の芽を、小学校という思想形成の出発点においてつみとり、批判精神の成長を抑えてしまおうという意図がある。その後も、体制への批判が強まったり、戦争遂行など国策を強力に推進しようとするとき、繰り返し、政府とその周辺の人たちから知育偏重批判が叫ばれるようになる。

(「日本教育小史」/ 山住正巳・著)

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孔子の教えというのは、徳川時代から重宝されてきた儒教の精神を指して言っているのだと思います。天が地より高いように、身分の上下は自然の摂理に等しい、だから自分の身分と境遇を全うせよ、かたがたお上に向かって逆らうなどということはないように、という教えです。自分の境遇に、他者による恣意的で不公正な扱いがあるなら、団結し、声を上げて変えてゆこうという、自発的な向上心は死罪でした。ところが人民主権はこれが生命線なのです。そういうことを脳から抹消するために、子どものころから、視覚に訴える仕方で「脳髄に感覚せしめて培養」しようというのですから、マインド・コントロールの手法って歴史があるんですねー。エホバの証人は何十年も前から、「心のノート」に匹敵する教材で子どもにマインド・コントロールを施してきてますしね。

教育基本法を変えようとする人たちにも同じような考えがあるようです。教育の機会均等を破棄し、エリート偏重教育に切り替えようとしています。これは主に財界からの要求です。これからのグローバル競争社会を日本が生き抜いてゆくためには、アメリカのビル・ゲイツなどのような超エリートを育てなければならない、そのためにはこれまでの教育基本法に基づく、平等教育、底に力を注ぐ教育ではなく、学年の早いうちから経済発展に役立つ才能を拾い上げ、選別して、そこに重点的にカネをかけて教育し、あとは予算を削減する、というのです。これではきちんと教えられる学校と、そうでない学校というように格差ができてしまいます。実を言うと格差は覚悟の上なのです、中教審としても。教育内容に格差を作ってしまってもよいというのです。「ゆとり教育」というのは非エリート学校から労力を間引いてしまおうという政策なのです。

経済発展に直接役立つものでなくても、自分のユニークな才能を生かして、人生をゆたかに生きてゆきたいという願いが踏みつけられたら、不満が蓄積してゆきます。そこで国家主義を教え込んで、国の発展を願う心を植えつけて、不満をそらせようというのが意図です。

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三浦朱門・前教育課程審議会会長の証言を紹介しよう。

「学力低下は予測し得る不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、今度はできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張って行きます。限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。

トップになる人間だけが幸福とは限りませんよ。わたしが子どものころ、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えていますよ。息子を大学になんかやるものじゃない、おかげで生活が離れてしまった。行商もやめさせられてぜんぜん楽しくない。魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の八っつあんも熊さんも、貧しいけれど腕には自信を持って生きていたわけでしょう。

今まで、中程度以上の生徒を放置しすぎていた。中以下なら、「どうせオレなんか」で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の17歳問題は、そういうところも原因なのです。

(日本の)平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民のお尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になってゆかなければなりません。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」。

インタビュアー:それは三浦先生個人の考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか?

「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見は皆同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も…。教課審では江崎玲於奈さんのような遺伝子判断の話は出なかったが、当然そういうことになってゆくでしょうね」

(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)

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江崎玲於奈博士の「遺伝子の話」というのは以下の通りです。

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人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやってゆく必要があるんです。

ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子どもの遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。

遺伝的な資質と、生まれた後の環境や教育とでは、人間にとってどちらが重要か。優生学者は天性のほうだといい、社会学者は育成のほうだという。共産主義者も後者で、だから戦後の学校は平等というコンセプトを追い求めてきたわけだけれど、僕は遺伝だと思っています。これだけ科学技術にお金を投じてきたにもかかわらず、ノーベル賞を獲った日本人は僕を含めてたった5人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。

(「機会不平等」/斉藤貴男・著)

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このように、今日の教育基本法改正論が現実味を帯びてきたのは、教育勅語復古を希望する人たちに、財界の要求が加わったことによります。江崎玲於奈さんの話のように、日本は今、経済発展を果たせる能力だけを評価し、ほかのものは見下します。人間をたった一つの枠組みの中に押し込もうとしています。次に、教育基本法改正論浮上までの流れを見て行きます。


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天皇再浮上

2006年03月12日 | 一般
徳川家にとって、天皇は「カード」でした。軍事力と経済力で幕府は天皇・公家衆をはるかに凌いでいたようです。それでも幕府は天皇・公家を日本から除き去ることはしませんでした。むしろ利用したのでした。

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近世において、徳川幕府は強大な軍事力と経済力を背景に、超越的な権力=「公儀」として君臨していた。大名のなかには、「領地は、陪臣はいうに及ばず、大名共に時の将軍より預かり物と心得、然るべき事なり(紀州政事鏡より)」という観念すら存在したのである。

だが、各大名はそれぞれ独立の経営体をもつ藩として存在しており、条件と力いかんでは、幕府の支配から離脱することも不可能ではなかった。事実、幕末に長州藩また薩摩藩などの雄藩では独立化の動きが現実化する。

一般に、権力は実力(軍事力=暴力)のみでは長続きせず、自らの支配の正当性を証明する必要がある。

諸大名の幕府への従属関係を安定化させるため、幕府は、徳川家→大名の私的関係である主従性を、朝廷の法、すなわち国家法にもとづく公的上下関係である、「征夷大将軍→守護職」に形態に編成し、一種の官僚的関係に擬制(法的に同一のものであるように見せかけること)した。つまり幕府は、古代以来最高の権威として存在し続けてきた朝廷の権威を、独占的に利用したのであった。

このことは、実質的には朝廷が幕府の権威の下にありながらも、名目上は朝廷が幕府の上位に位置するという観念を、世間が受け容れざるをえないようにした。

(「皇室制度」/ 鈴木正幸・著)

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家康は、力では他を圧倒していたけれども、支配を安定的に継続させるためには、力にのみ頼る以上のことが必要であるのを、経験から学んだのでした。だから大名や天皇・公家衆が力をつけてゆくことのないように、周到な体制を整えました。しかもその上に、天皇の権威を利用したのです。これは今日の心理学の知見からみても的を得た手法でした。「人間関係」を研究する心理学の分野を「対人社会心理学」といいますが、ちょっと脱線して、その分野から、「社会的勢力」の知見を見ておきましょう。わたしたちの実生活でも役に立つと思うからです。

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人間関係には力の関係があります。人間関係における力とは、相手を自分の思い通りに動かす力です。これを社会的勢力と呼びます。人はどのようなとき、この力を持ち、相手を思い通りに動かすことができるのでしょうか。たとえば銃で脅かして服従させることができます。これも一つの力といえるでしょう。カネで人を動かすこともできます。

しかし、銃をつきつけられても、カネを積まれても、動かない人はたくさんいます。また殉教者のように、殺されても服従しない人もいます。この場合は、「相手の人に対して社会的勢力がない」ということになります。武器やカネはオールマイティの社会的勢力ではない、ということです。なぜかというと、ある人が力を持っているかどうかは、相手の人がその人の思うとおりに行動するかどうか、によって決まるからです。命令なり指示なり暗示なり(暗示:示唆、教唆、場の雰囲気を操作して相手を思い通りに動かそうとすること)をした人に対して受け手のほうが勢力を認めるかどうかで決まるからです。(ここ重要→)従う側が最終的に決めるのです。

このように考えますと、社会的勢力の問題は、勢力を振るう側よりも勢力を認める方から考えたほうが分かりやすいといえるでしょう。レイブンという心理学者は、この観点に立って、人はどのようなときに相手の影響を受け容れるか、どのようなときに相手の命令に従うかを研究し、社会的勢力を、次の6つに分類しました。

1.強制的勢力。
暴力や脅迫などによって、相手の言うとおりの行動をすることです。武力や権力をかさに着た圧力のために相手の意図に服従します。しかし、この場合、表向きは服従していても内面的には服従していない場合が多く見受けられます。むしろ心の中では反感や復讐心が高められる場合が多いでしょう。強制的勢力の場合は、監視者がいなくなると、服従は守られないでしょう。強制的勢力の行使は、相手を強引にねじ伏せるのに日常でも頻繁に用いられる方法です。しかし内心と外面に矛盾を多く含むやり方です。

2.報酬的勢力。
相手の思惑通りに行動すると、自分の望んでいるものが得られるので、たとえ自分の気持ちとは裏腹であっても服従することがあります。このときの勢力が報酬的勢力です。報酬は必ずしもおカネだけとは限りません。役職や地位、賞賛、など人々の間で高められること、高められなくても認められることももちろん含まれます。日常生活ではおカネよりも評価されること、賞賛されることの方が多いでしょう。この場合も監視がなければ本音を表し易いでしょう。

3.専門的勢力。

4.正当的勢力。
工事中の道路では作業員の指示に従います。授業中は教師の指導どおりに勉強を進めます。電車の中では車掌の指示に従います。このように、わたしたちはある状況下で、「この人の指示に従うことが正当である」と思ったとき、その人の言うとおりに行動します。これが正当的勢力です。

5.準拠的勢力。
わたしたちは人格的に優れていて、自分も将来その人のようになりたいと思うような人を尊敬します。その人を師と崇め、その人に一体感を感じます。そしてその人の指示には自ら進んで従おうとしますし、指導に沿った行動をしようと心がけます。心理学では、このような尊敬的一体感を「同一視」と呼んでいます。この場合は監視者がいなくても従うことが多いのです。
(ルナ註:必ずしも勢力を送り出す人が優れているとは限りません。欺いて尊敬を買う場合もあるからです。ファシストや一部の宗教指導者、エホバの証人の宗教など)。

6.情報的勢力。
わたしたちは人の話を聞いたり、本を読むなど、いろいろなメディアから新しい知識を得て、それにもとづいて行動することがあります。これが情報的勢力です。情報を与えた人は情報を受けた人に、自分の思っている方向へ動かそうとしているわけで、その人に対して社会的勢力を有している、と見なすのです。

準拠的勢力と情報的勢力は表面的な服従だけでなく、内心から受容しており、監視者の有無にかかわらず、そのとおりに行動しようとさせるものです。その意味でこれらの勢力は効果的な勢力だといえるでしょう。

(「人間関係の分解図」/ 齊藤勇・著)

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家康は「強制的勢力」だけでは徳川家による支配を長い期間にわたって磐石にできないことを知っていました。軍事力と経済力で圧倒しているとはいえ、同時代に生きている大将のひとりですから、諸大名にとってはライバルの一人でもあるのです。その点、天皇は古代から権威づけられてきた存在です。しかももはや軍事的な脅威ではなく、政治的にも脅威ではなくなっています。徳川時代には「禁中並公家諸法度」によって、政治的勢力とならないように慎重に束縛されていました。家康は、この時代からすでに「正当的勢力」であった天皇を、自らの権威づけのためのカードとして利用したのでした。諸大名は徳川に従わせられているのではなく、朝廷に対して、徳川が征夷大将軍であり、諸大名は朝廷の守護職であると、朝廷方の中における同じ官僚の立場にある、形式的ですがそのような体勢を整えたのでした。これは、エホバの証人が、実際は支部委員やべテルの長老たちによる支配であるにもかかわらず、エホバに「お仕え」する奉仕者という同じ立場にある、と擬するのと同様です。天皇もエホバも反感の出にくい「正当的勢力」であるのです。

でもこの方法は、名目上は天皇が公儀に対して上位にあっても、実力は徳川幕府の方が圧倒的に強く、それゆえ事実上は幕府が最高権力なわけですよネ。ということは、天皇がそれなりに力をつけるか、あるいは時代の変化が天皇の立場に有利になるかすると、名目は最高権威になっている分、幕府の権威は危険な状況に陥る危険があることになります。事実、そのとおりに歴史は展開してゆくことになりました。

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幕藩体制の危機があらゆる方面で深まりつつあるとき、西からはイギリス・フランスが、東からはアメリカが、北からはロシアが、日本の開国をもとめて、ひしひしとせまってきた。この時の欧米諸国は、もはや15,16世紀に日本に来た西洋人社会とは発達段階が違っていた。

15,16世紀の西洋は、まだ資本主義の確立以前の状態であり、その東洋貿易は、東洋から金銀香料や珍奇の品をもとめ、主に東洋各地の特産物の仲介貿易をおこない、部分的に西洋の工芸的製品を売るものであった。したがってその貿易は、東洋の封建社会の生産関係の内部に食いこむ力をもたず、またその植民地政策も、領土を拡張してそこの金銀特産物を掠奪するものであって、それゆえ植民地を荒廃させるが、植民地域従来の社会構造と生産構造をつくり変えようとするものではなかった。

ところがいま19世紀に東洋へ押しよせた欧米諸国は、自国資本主義の工業製品を売りさばき、自国工業のための原料あるいは食料を持ち去り、さらにそこの社会経済構造を自国資本主義の従属物につくり変えねばやまないものに変わっていた。たとえばインド封建社会の木綿手工業はイギリス資本主義の機械制大工業の製品に滅ぼされ、インドはイギリス資本のための原料綿花や食糧の生産地につくりかえられた。

資本主義は不断の拡大再生産を生命とする。そしてブルジョアジーは、その不断に増大する生産力にかりたてられ、販売市場と原料をもとめて地球のいたるところに航路を拓き、根拠地をもうけ、その行きつく先に通商条約を強制し、可能ならばその領土をも奪いとり、植民地とする。資本主義国との交渉にひきずりこまれた民族は、自分も急速に資本主義化するか、さもなくば植民地・半植民地とされてしまう。

要するに、ブルジョアジーは全世界を従属させようとする。現に19世紀の中ごろには、西部アジア、中部アジア、東南アジアも、アフリカ大陸の北部と南部も、南アメリカもすでに欧米資本主義の植民地・半植民地とさせられていた。残るはアフリカ中央部と中部太平洋の島々、そして東アジアのみとなっていた。しかも中国は南京条約以来、すでに急速に半植民地化されつつあった。この時期に欧米列強が日本に押しよせてきたのも、世界史的必然であった。

(「日本の歴史・中巻」/井上清・著)

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外国商人が密輸入している麻薬が国内に蔓延している。麻薬の密貿易のために国の経済が逼迫するようになってきた。だから、外国人の商人を摘発し、麻薬を没収して廃棄した。ところが外国商人の国が破棄した「商品」の損害を補償せよという。それだけでなく、自国の貿易を安定的に行えるようにするため、軍隊を送って戦争を仕掛ける。

これがアヘン戦争でした。現代人の感覚からすればメチャクチャな話ですが、当時は産業資本主義の「青年期」、原料と市場を求めて異民族の土地へ進出するという帝国主義の時代だったのです。もちろん、アヘン戦争を仕掛けたイギリス国家に良心がなかったわけではありません。

「1840年4月、イギリス議会はアヘンを契機とする汚れた戦争に反対した国教徒やクエーカー教徒、コブデン、グラッドストーンらのリベラル派議員の反対を、9票差で否決して、20隻の艦船、4千余名の遠征軍派遣を承認した (「中国近現代史」/ 小島晋治・丸山松幸・著)」。

議会のおよそ半分は反対だったのです。それでも議会制度である以上、9票差とはいえ、開戦派が多数だったのなら戦争になるのです。この戦争は技術力に圧倒的に差があり、清帝国は抵抗さえ起こせない状態でした。国軍よりも武装決起した農民のほうが成果を上げました。しかし、清国の抵抗は脆く、南京陥落目前にして、1842年8月、清朝はイギリスの要求を全面的に受け容れ、清国国土における清の主権を部分的に放棄することになる内容の不平等条約をイギリスと結びます。2年後にフランスとアメリカがそれに乗じてきました。肥大するヨーロッパとアメリカの資本主義はついに東アジアにのびてきたのです。アジアの雄、清帝国の一方的な敗戦は衝撃的なニュースとしてもちろん日本にも伝わりました。

幕府は長崎の町年寄、高島秋帆(たかしましゅうはん)が研究していた西洋流砲術を急遽採用して、江川太郎左衛門という人にこれを学ばせ日本国内諸藩に軍備強化を指示したのです。清国で著された、「海国図志」という西洋研究論文が日本に輸入され、西洋のすぐれた軍事技術を学び、それをもって夷狄(いてき)を排除しようという訴えは、当時の日本の支配層だけでなく、豪商豪農の人々にも読まれ、共感を得たようです。一方で、近代的な思想に目覚める人もいて、佐久間象山(さくましょうざん)という人は、儒教的な中華擁護、外夷排除の儒教の思想を絶対視するのをやめ、外国から学ぶことを主張しました。洋学といって、西洋の知識の摂取の学問の道を広げました。当時の日本人にも、事実から目を逸らさない人たちは、危機は国内だけでなく、海の向こう、大陸の方面からも迫ってきていることを知っていたのです。

1844年に出島で交流のあったオランダの国王は、徳川将軍に親書を送りました。それには、蒸気船の発明によって世界情勢が一変していることを説き、日本に開国を忠言していました。1846年4月には琉球にイギリス商船とフランス軍艦が渡来しましたし、同年閏5月にアメリカ軍艦二隻が浦賀に来て貿易を求めたのです。1850年には長崎のオランダ商館長によって、近くアメリカが日本に艦隊を送る準備をしていると警告していました。そして1852年には、オランダ人のバタビヤ総督によって、ついに来年アメリカが大艦隊を日本に差し向けて、通商を要求していることを幕府に知らせ、もはや鎖国は維持できないことを忠告されたのです。ペリー提督の艦隊のことです。

徳川幕府はどう対応したのでしょうか。1841年に先の高島秋帆がアヘン戦争の教訓から、西洋流の砲術の採用を幕府に建白したときに、その優秀性を認めはしたものの、最初はそれを普及させようとはしませんでした。それどころか町年寄として不正があったという冤罪で、秋帆を1846年に投獄しました。すぐれた砲術が諸藩に広まるのを怖れたようです。また幕府は洋学、蘭学の迫害にも厳しく取り締まるようになりました。新しい知識の普及を阻止しようとしたのでした。1850年には蘭書の翻訳を禁じ、すでに世上に出回っているものについては探し出して焚書しました。西洋諸国の東アジア進出の知らせをオランダ人から聞かせられても、老中たちが握りつぶして外交担当の役人に見せなかったこともしばしばだったようです。こういった幕府の対応に下級武士層や豪商豪農たちは「うろたえ」と見るようになりました。幕府の「公儀」としての威光が急速に褪せてゆくのです。事実、徳川政権は開国してからわずか8年で倒れるのでした。1853年(嘉永6年)、日本とは圧倒的に技術力に差を持つアメリカ海軍の軍艦4隻の威容に圧倒されて、開国を要求する国書を受け取ります。ただ回答だけは翌年に引き延ばしました。

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幕府は、これまで外交のことは大名にも天皇にも知らせず、完全に独裁してきたが、ペリー艦隊に脅迫されると、すっかり自信を失い、諸大名と幕府役人に対策を諮問し、また天皇にも報告した。のみならず、広く一般人民にも意見を述べさせた。人民が国家の基本方針について意見を問われたのは、日本の歴史においてこれがはじめてである。

ここにいたって幕府独裁は完全に破綻した。これを機会に、徳川斉昭(とくがわなりあき)のほか、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)、土佐藩主山内豊信、宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)ら、これまでまったく幕政の外におかれていた外様の有力大名が、幕政に発言権を持ってきた。幕府の親藩である越前の松平慶永(よしなが)も進出してきた。彼らは開国・鎖国については必ずしも同意権ではなく、斉昭は人も知る極右攘夷(じょうい;外国人は夷狄=野蛮人なのでことごとく討ち攘う〔うちはらう〕の意)主義者、斉彬や慶永は開国論に傾いており、このふたりを斉昭に対して「左側」とみなせば、豊信や宗城は中間の位置にいた。だが、彼らはみな、幕府独裁を改革し、彼らの幕政参加を求める線で一致していた。

天皇と公卿たちも政争に引きいれられた。幕府はにわかの軍備強化のため、諸国寺院の梵鐘を大砲に鋳替えようとし、寺院に対して権威のある天皇に「太政官符(だじょうかんぷ)」という、古代天皇制政府(太政官)の法令形式による命令を出させた(1854年末)。こうしてそろそろ、天皇の半宗教的権威に政治的意味が加わりはじめ、「朝廷(天皇政府)」が復活しはじめた。幕府と同様に改革派大名も、天皇に幕政改革を命令してもらおうとして、さかんに宮廷工作をするようになっていった。

この時の老中主席阿部正弘は諸大名の意見を重んじ、オランダ人教官を雇って、近代海軍学の講習を始め、それには幕臣にみでなく、諸藩士にも学ばせて、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)をもうけて諸藩の新知識人を登用するなど、諸藩と一致協力の政策を取ったので、阿部正弘の在職中は改革派大名たちも幕府に期待していた。しかし、1857年に阿部正弘が病死すると、彦根藩主井伊直弼ら保守派の譜代大名の勢力が強くなり、改革派との対立が激化した。

この間に、1856年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任し、通商航海条約の締結を幕府にせまった。ハリスは世界の体勢の抗しがたいことを説くとともに、もし日本が要求に応じなければ、「かねておことわり申し置き候通り戦争に及び勝敗一時に相決し申すべし」と脅迫して、1858年1月、「日米修好通商航海条約」案を幕府役人との間に議定した。

幕府はそれに全責任を持って調印する自信はなく、諸大名の意見を問い、また勅許(ちょっきょ;天皇の許可)を得ようとした。幕府に比べて、政治にも世界情勢にも疎かった天皇や廷臣は、条約調印を許したくなかったので、改革派大名の働きかけをさいわいに、条約のことは諸大名の衆議を尽くせと答えるのみである。そして改革派大名の方では、調印にはかならず勅許を得よと主張した。彼らのねらいはまず第一に、彼らの幕政参加の保障を勝ち取ろうというところにあった。

(「日本の歴史・中巻」/井上清・著 より)

外国の圧力を武力で排除できないことが分かったとき、せめてもの残された道は挙国一致の体制を急いで築いて、万一の際に備えることであった。ペリー来航の約一ヵ月後、水戸藩主徳川斉昭は老中阿部正弘に「海防愚存」と題した意見書を呈したが、そこでは次のように述べていた。

「和」ではなく「戦」を国家の基本方針として定めるべきである。戦うという心がまえを固めて、開国の要求を拒絶するべきだ。ただし「武家はもちろん百姓町人までも覚悟を決めて、神国総体の人力一致を実現することが肝要である。

また1853年8月末に彦根藩主井伊直弼が老中に提出した意見書「別段存寄書」では、将来の富国強兵を実現するための手段として、開国を選ぶほうがよい、と述べていたが、同時にいま重要なのは「人心を一致させること」であると述べていた。

政策として開国もやむなしとした直弼も、攘夷強行論の斉昭も、日本にとっての緊急の課題は、「人心一致」による挙国一致の体制を構築することであると主張していたのである。直弼も斉昭も、直接には天皇と朝廷に言及しないが、挙国一致には天皇が不可欠の存在であるという意識のもとで主張していた。

こうして1854年(嘉永7年)3月3日、日米和親条約が結ばれた。斉昭と直弼は朝廷・公卿と直接接触できるルートを持っていたから、彼らの意見は何らかの形で公卿に知らされたことであろう。そして日本の軍事力の現状も報告されたはずである。頑迷固陋(がんめいころう:固陋;見聞が狭く、古い考えの枠にとらわれ、新しいものを受けつけないこと)の朝廷ではあったが、日本が直面している現実は、自覚せざるを得なかったのである。

1857年(安政4年)10月21日、アメリカ駐日総領事ハリスが江戸城に登城、将軍に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書(和親条約を改訂し、通商条約を締結することを求め、ハリスに全権を委任するという内容)を呈し、12月11日から、日米全権委員による通商条約の実務交渉が開始され、翌安政5年1月12日に日米間の交渉が妥結した。日本側の全権委員は井上清直(いのうえきよなお)と岩瀬忠震(いわせただなり)であったが、交渉が開始された翌日、ふたりの名前でつぎのような上申書が老中に提出されていた。

天下の大事は天下とともに議論し、同心一致の力を尽くし、末々にいたるまで異論がないように衆議一定で国是を定めるべきである。そのために将軍が臨席し、御三家・譜代・外様の諸大名を召し出して、隔意なく評論をいたさせた上で一決する。ここで議決されたものを速やかに天皇に奏聞(天皇に報告すること)し、叡聞を経て(天皇の許可を得て、の意)、その上で天下に令すべし(全国に布告する、の意)」(「大日本古文書 幕末外国関係文書」十八)。

もっとも注目すべきは、日本国家における天皇の位置、政治的役割が明快に示されていることである。国家の最高基本方針である「国是」は、武家(政治の実権者)の衆議で「一決(多数決ではなく、近世における慣行であった全体合意方式)」し、それを関白職を経て天皇に報告、そして天皇の許可を得て(天皇は独断で採可することはないから、朝議を経る)、そして全国に、そのあたらしい国是を布告する、という意見である。

通商条約を結ぶこと、つまり開国は単に鎖国という幕府の法を改めるのではなく、新しく国是を定めることであるという解釈であり、そういう新しい国是は将軍ではなく天皇が全国に布告するべきだという主張であった。

(「幕末の天皇・明治の天皇」/ 佐々木克・著)

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このように対外問題が新展開を見せ、重大問題に発展してゆく中で、幕府により抑え込まれてきた天皇が久しく政治の舞台で発言するようになりました。また幕府に不満を持つ下級武士層も天皇に期待をかけるようになってきました。ここでも天皇はやはり「カード」として利用されてゆくのです。開国派にとっても、幕府改革派にとっても、天皇は「正当的勢力」だったからです。

ここまでのところでは、人民への関心がまるで払われていません。封建時代ですから当然ですね。日本史上初めて幕府は人民の意見を聞こうとはしました。倒幕を志した下級武士も人民の権利を主張はしましたが、実際は口実でした。明治になると人民のパワーを抑え込む政策が取られるようになります。日本人の精神構造を理解するためにも、人権感覚を理解するためにも、キーワードとなるのは、天皇制だったんです。

最後にひとこと。こういうパワーゲームの話を読むと、思うんですけれどね、巨大な権力を持つ人たちって自分を信じる力が弱いんだなって。心理学の知見なんかを持ち出して、話を飾ってみたけれど、要するに「虎の威を借るキツネ」ってことですよね。
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アサーティブな生き方

2006年03月02日 | 一般
日本の人間関係というのは、儒教の影響がいまだに幅を利かせていて、上下関係には一線があって絶対に下が上に逆らえないという雰囲気がありますよね。逆らうと、イジメや辱めという心理的な制裁を受けることも少なくありません。このような事情で、ひたすら我慢、控えめ、自己抑制が強いられます。それが美徳とみなされることもしばしば。でも、こういうのってほんとうに美徳だったのでしょうか。結局、我慢、自己抑制した感情のエネルギーは八つ当たりや家庭で発散させられて、家族の絆が壊れてしまう、など、周囲の人に恨みが向かうというようなことになりがち。なんとか、言いたいことをうまく言える方法がないのでしょうか。また、侮辱されたときとか、気落ちしたときに、無理して強がる以上のことはできないのでしょうか。

できるのです。それが、アメリカの精神科医、カウンセラーのアルベルティによって開発された、「アサーティブネス・トレーニング」です。「アサーティブ」とはハキハキ主張する、というような意味です。

「早くから心理カウンセリングが広まったアメリカでは、クライアントの話を受容的に聞き続ける『傾聴一辺倒型カウンセリング』について、効果があらわれるにしても、それまで時間がかかりすぎるという反省が行われました。カウンセリングを受けると確かに気持ちは楽になるけれど、生き方や心のあり方そのものはなかなか変化しない。したがって同じ苦しみや失敗が反復されてしまう。そんなカウンセリングは無効にひとしいではないか。そうした反省の結果、40年ほど前から盛んに行われるようになったのがアサーティブネス・トレーニングです。現在、もっとも広く行われている心理カウンセリングの理論的、方法論的土台である、認知行動療法において、もっとも即効性が期待でき、しかもとても分かりやすい手順、方法であるといってもいいでしょう。

カウンセリングにおけるごく一般的な見方として、“アサーティブ・トレーニングを行ったらよいと思われる人”の条件は、次の3項目に整理されています。
1)相手の顔色や立場が気になって、いつも自分の思いは後まわしにする。
2)自分の考えや気持ちや好き嫌いを相手に伝えるよりも、『わたしさえ我慢すれば』とか『自分の意見を言ったら疎ましがられるんじゃないか』とか『どうせ言っても聞いてもらえない』と考える。
3)『わたしはいつだってすごく我慢してみんなに合わせているのに、みんなはなぜあんなに身勝手にふるまえるのだろう』と、恨めしく腹立たしく思うことが多い(「『未熟な夫』に、ホトホト困っているあなたへ」/ 山崎雅保・著)」。

では今回は、まずアサーティブがなぜ必要なのかを紹介します。

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本来、気持ちとか感情に善悪はなく、どんな感情も健全なものです。人間は、喜怒哀楽などバラエティに富んだ、微妙で繊細な感じを持つことができ、それが人間を人間たらしめているといっても過言ではありません。一般にうれしいとか楽しい気持ちは味わいたいと思い、そのような気持ちになるような状況や場面を好ましいと思います。しかし、腹が立つとか、恥ずかしいとか、不安な気持ちを起こさせる場面は敬遠されますし、嫌がられます。

つまり、感じの中には好きとか満足など、どちらかというと「快」の系統に属し、積極的に味わいたいものがあると同時に、嫌悪、不満など、どちらかというと不快の系統に属する避けたいものがあります。だから、感情には善悪があるように勘違いしてしまうのでしょう。

また、「殺したいほどの憎悪」とか、「はらわたが煮えくり返るような恨み」など、ひとりでは対応し切れない感情もありえます。このような感情は「悪」であると決めつけたい気持ちにもなるでしょう。

しかし、このような激しい、破壊的ともいえる感情は、実はもっと早くに気づいているべき自分の中のマイナス感情に気づかず、逆に抑圧したり、目をそむけていたり、などで溜めこんでしまった後で、溢れでてくるもので、実は、もともとは「好きでない感じ」や「困った感じ」、「疎外されたような寂しさ」などであったことが多いのです。

どんな感情も、基本的には、人間のあり方に広がりや、深まり、まとまりを与える機能を持っていて、体験や成長の重要な要素になります。どの感情は持ってもよいとか、どの感情は持ってはいけないということはないのです。

現実には、さまざまな場面でさまざまなことが起こっていて、いつも良い気持ちだけを味わえるわけではありません。人生にはさまざまなことが起こりますし、そこに生きる人間は、微妙な違いのある、さまざまな感情を持つことができます。人が生きていく上では、良い感じだけを味わっているというわけにはいかないのです。むしろ、さまざまな感じを味わうことが人間らしいことであり、その体験によって自分の内面が豊かになり、他の人の気持ちが分かるようになる、と考えることが大切でしょう。

問題は、人間が感情を持つことではなく、感情がきちんと捉えられなかったり、抑圧されたり、歪曲されたり、悪用されたりすることです。

(「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」/ 平木典子・著)

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感情は「善悪」の問題ではなく、「快-不快」という問題である、ということですね。そして、わたしたちが生きてゆく上で「不快」を避けて通ろうとすれば、引きこもるしかないということです。それで、人間関係に対処してゆくには、人とのつき合いを避けるよりも、不快な感情を抱かされたときに対処するスキルを培っておくのが現実的だということになります。そして、不快な感情を抱かされたときに対処するスキル、というのがアサーションです。自分自身を主張する、ということです。

また、上記の文章からの感想ですが、大切な人はもちろん、日頃おつきあいする人が、こちらに「不快」系の感情を持たせるグチや怒りや吐露を表現したときに、「そんな考え方は間違っているよ」とか「見苦しいからやめてよ」、「消極的な考え方の人って、好きじゃないな」etc.など、道徳的な判断で突き放してしまうと、関係が保てない、ということになります。そんなふうに反応すれば、「お高くとまっている」、「自分の気持ちを理解してくれない」、というものから、「自分を見下している」、「自分への攻撃だ」というものまで、ふたりの間に亀裂を走らせる感情を相手の人に持たせてしまいます。マイナスの感情が表明されたときには、それを「善悪、常識-非常識」の基準で量りだすのは誤った対応である、ということ。ここを押さえておくと、懐の深い人、器量の大きい人としての、大人の対応ができるようになるのではないかと思いました。

むしろ危険なのは、マイナスの感情を素直に表現しようとしないで、
○それを抑え込んでしまうこと
(本人自身が、マイナスの感情をはしたないこと、悪いことと受け止めているからかもしれません)、
○歪曲すること
(平気を装う、自分を責める、マイナスの感情を起こさせた相手を美化する、など)、
○悪用されること
(ユダヤ人は悪臭を放つ、というような宣伝によって、ユダヤ人排斥を推し進めたナチス・ドイツ、
中国は野蛮な非近代国家と認識することを選択して、国際法違反の都市空爆を国際連盟結成後、世界で最初に行い、焼夷弾まで使用して非戦闘員である市民の虐殺を行った日本軍〔やがてその戦法はひるがえって日本の諸都市を襲った。東京大空襲の凄惨さは多くの記録が出版されているし、原爆も非戦闘員である数十万の市井の人々の命を奪った〕、
『油まみれの水鳥』の映像をTVで放映して、油田を爆破して環境破壊を起こしたイラクの仕業という印象を植え込んで、湾岸戦争称揚の気分を盛り上げたアメリカ〔実際は戦争による環境破壊とは無関係だった〕…のように、不快を引き起こさせる感情を植え込んで、人間をコントロールしようとすることなど)
…であるようですね。

マイナスの感情を感じることは「悪」ではなく、マイナスの感情を押さえ込むことが「善」であるわけでもない、ただマイナス感情は人にとって「不快」なものであるということです。そこでマイナス感情への対処の心がまえです。

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《嫌な感情への対処法》

自分の気持ちに気づくことは、自分のものの見方や対人関係の持ち方などを知るチャンスになります。また、正直な気持ちに気づくことができれば、怒りや腹立たしさの中には思いこみにもとづいたものがあることがわかったり、本心を正直にとらえると、実は、困惑や落胆、好ましくない気持ちだったことがわかります。そして、好ましくない気持ちとは、相手のせいではなく、自分が好ましくないと思いこんでいることを示しているだけであって、本来、相手に文句をつけたり、相手に怒りをぶつけたりするべきことではありません。むしろ相手には、自分が好ましく思っていないことの内容を伝えてみることが大切です。

嫌な気持ちは攻撃によって発散させるだけでは、人間関係を解消に向かわせる以上の意味はないのです。まずは、自分の正直な気持ちに気づき、次にそれをどうしたいかを考えてみましょう。もし、その後も嫌な気持ちを味わいたくないのであれば、嫌な気持ちになったことを相手に伝え、相手に違う行動をとってくれるように頼むことができます。そんな対策をとることができれば、その結果、いい気分でつきあうこともできるのです。自分の気持ちに気づくことに失敗すると、つまり一例として、困惑や失意などをそのまま感じ取らず、「相手は自分の意向をまず汲むべきだ」という思い込みにとらわれて、相手を非難、攻撃するという行動に出ると、関係が緊張するだけで、場合によっては遺恨を残し、かえって悪い気分や悪い事態になることもあるわけです。

「感情を抜きにして話し合おう」などといいますが、それはコンピューターのようになることではなく、思い込みから起こる感情をぶちまけるのでもなく、「今、ここ」でのありのままの感情を相手にわかるように表現することを意味しているのです。冷静に話すということは、感情を除去して話すのではなく、自分の感情だけにとらわれたり、過剰な感情表現で相手を脅し、それによって相手をコントロールあるいは支配しようとはしない話しかたです。むしろ、話し合いには、自分の感情をきちんと把握し、大切にすることが不可欠です。そうすることで、いわゆる「感情的」にならず、有効な話し合いができるのです。

(「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」/ 平木典子・著)

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自分のかんじている不快感をはっきりことばにして伝え、不快な感情を起こさせる行動を変えてもらうよう要求するほうが、不快な感情をためこむよりはずっといい方法だということです。また上司の立場にあるなら、感情は、相手を支配するために暴発させるよりは、ことばに表現して伝えるのが、人間関係を深める方法なので、人材を有効活用できるようになる、といいます。どう思いますか?

感情はそのまま受けとめ、そのまま伝える、これって、好きな人に告白するのと同じですよね。感情表現はああいうふうに行うものだと心得ておけばいいわけです。


思い通りにいかないと腹が立って、感情を発散させずにおれないのは、自分の人生経験から出来上がった「思い込み」を他の人を見るときにもあてはめようとするからです。でも他の人には他の人の経験から来る経験則があって、それに則って行動するのです。しかも経験から人が受け止める教訓などというものは、人の数だけ異なったものとなります。自分の経験則は決して「一般化」することのできないものなのです。

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部下が命令に従わないとき、すぐ腹を立てる上司とそうでない上司がいます。腹を立てる上司は、「部下は自分の命令に従うべきだ」と思っていることが多いものです。それを守らないのは悪いことで、そんな部下に対しては腹を立てて当たり前、怒ってよいと思っている可能性もあります。相手を自分の思い通りに動かそうとする攻撃的な上司でもあります。

いきなり腹を立てない上司は、命令は守ってほしいのですが、「従うべきだ」とは思っていません。だから、「命令に従わなかったことには何かわけがあるのだろうか」、「どうしたんだろう」と考え、がっかりしたり、困惑することはあっても、すぐ怒る気にはなりません。命令が守られなかったわけを理解しようとするので、その結果、部下の状況や自分の命令の仕方の不十分さなどがはっきりしてくるかもしれません。それに対応しようとすれば、怒ることだけにはならないのです。

もし部下が命令を無視して怠けていた場合は、叱ることもあるでしょう。つまり、叱ることは、相手が仕事に無関心であったり無責任であったりすることに対して、職業人としてのあり方、自覚を問うことであって、自分の怒りの感情をぶつけることではありません。もし、部下が不注意だったことがわかったときは、そのことを指摘し、今後のための指導をすることになるでしょう。

つまり、すぐ腹を立てる上司は、自分の思い込みによって感情を起こし、その感情で相手を操作しようとしている可能性があります。しかし、すぐ腹を立てない上司はまず、命令を守ってほしい気持ち、守られなかったときのがっかりした気持ちを正直に受け取ります。その気持ちに気づくことで、そうならないためにはどうしたらよいか、そうなったのはなぜなのかを考えようとします。すぐ怒る上司の、思い込みから来る怒りの感情と、すぐに腹を立てない上司が抱く、「いま、ここ」での率直な困惑の気持ちには大きな違いがあります。したがって、過去に起因する「思い込み」に汚されていない、今現在の率直な勘定に気づくことは、よりよい人間関係をつくることに発展するわけです。

(「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」/ 平木典子・著)

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人を使う立場の方々にはきっと納得していただける話だと思います。
「叱ることは、相手が仕事に無関心であったり無責任であったりすることに対して、職業人としてのあり方、自覚を問うことであって、自分の怒りの感情をぶつけることではありません。もし、部下が不注意だったことがわかったときは、そのことを指摘し、今後のための指導をすることになるでしょう」。

攻撃的な方法、つまり感情をぶつけて、萎縮させるのは決して良い方法ではありません。そんなことを続けていたら、部下は失敗しないことを仕事の方針とするようになるでしょう。そうすると創造的な仕事はできなくなるのです。とくに営業職、商品開発職なんかにはそのまんま当てはまります。ちょっと前にアップした「人を育てるコツ」なんかも参考にしてもらえたらうれしいです。


さて、アサーションは、自分の感情や考えを率直に伝えるもの、ということでした。
ただ、「そのまま伝える」って言っても、アサーションに関心を持つ人って、「相手の顔色や立場が気になって、いつも自分の思いは後まわしにする」とか、「自分の考えや気持ちや好き嫌いを相手に伝えるよりも、『わたしさえ我慢すれば』とか『自分の意見を言ったら疎ましがられるんじゃないか』とか『どうせ言っても聞いてもらえない』と考える」とかいう性質の人ですよね。だから、言いたいことも言えずに、悶々とするうち、ついにキレて、口撃、あるいは攻撃に出て、相手を傷つけてしまう。傷つけられた相手はさらに報復攻撃・口撃に出てくる…。最初に遠慮してしまうところに、傷つけあいのおおもとがあるわけです。

“激しい、破壊的ともいえる感情は、実はもっと早くに気づいているべき自分の中のマイナス感情に気づかず、逆に抑圧したり、目をそむけていたり、などで溜めこんでしまった後で、溢れでてくるもので、実は、もともとは「好きでない感じ」や「困った感じ」、「疎外されたような寂しさ」などであったことが多いのです(上記引用文から)”。こういった性質は、言いたいことを言うと、はしたないと評価されて、抑え込まれてきたとか、女は男に口答えするべからずとかの宗教的、道徳的な躾を受けてきた場合にはなおいっそう染みついているものです。

だから、まず自分の「権利」を自覚します。自分の尊厳は保護されているということを知るようにします。そのために今、道徳的・宗教的な教条から離れて、人間のために用意された思考の枠組みがあります。それが世界人権宣言です。アサーションはこの人権宣言に明示された、基本的人権を中心に持っています。

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わたしたちには、生まれつき基本的人権が賦与されています。世界人権宣言には、30条にも及ぶ「基本と気人権」に関する項目があります。わたしたちは、自分がこの人権によって、どのように守られているかを知ることで、アサーションの知識を思い切って使えるようになれるのです。基本的人権を理解し、そこに依って立つことにより、自分を尊重し、他人に支配されない生き方を獲得することができるのです。

こういった経緯から、アルベルティ博士は、アサーティブ行動の中心に基本的人権という、近代社会の根幹理念であるデモクラシーの概念を導入しました。デモクラシーとは、絶対専制権力を有する法王や国王などが統治するのではなく、人民が権力を所有し、その権力を自らが行使する国政への参加のスタイル。基本的人権の遵守や自由権、平等権、多数決原理や法治主義の導入は、デモクラシーの具体的な施策であるわけです。

デモクラシーの概念のもとに、アルベルティ博士は、他の人を意図的に傷つけようとしない限り、だれもが以下の三つの権利、すなわち、「アサーション権」を持っているといいます。

1.自分自身である権利。
仮に著者が講師を頼まれているのに、風邪熱をおこしたとします。しかも、研修が終了するまでは講師役を務めなければならない。そこでカラ元気を出したり、肩ひじを張って講師役を務めていたら、終了前に倒れて救急車で病院に運ばれてしまうかもしれません。しかし、そういう精神主義、自己犠牲主義の思考を変えて、開口一番、こう言って、弱みを伝えたらどうでしょう。「実はわたし、昨日風邪をひきましてね。体調が悪く、熱があるのです」。このように、つらい状態であることを、素直に自覚することがアサーションは大切にします。これが自分自身である、ということです。自分自身である、というのは、このように、「自分に素である」ということです。

2.自分を表現する権利。
風邪をひいている、エホバの証人の組織のやり方にはホントのところ、納得できない。こうしたことは実際に言っても言わなくてもどちらでもいいのです。「権利」ですから、行使するかしないかの選択肢は自分自身が持っている、ということです。

3.以上の二つの権利を行使するときに、罪悪感や無力感を感じなくてもいい権利。
ですから、他人に自分の弱みを見せても、「弱虫だ」とか「愚痴をこぼしてしまった」、「他の人はどう思うだろう」などと思い悩むことはありません。むしろ、そういう自分に、つまり上記の二つの権利を行使することに決めた自分に、誇りを持っていい、という権利です。

またアサーションのトレーナーである、M.J.スミス博士は、個人が他者に操作されることを防ぐために、「自分で自分の行動を選択できる権利」を10項目にまとめて提唱しました。それが「アサーション宣言」です。なお、著者である菅沼憲治が独自にもう一項目加えて、ここでは11項目紹介します。


アサーション宣言
1.だれでも、自分の行動・感情・思考は自分で決めることができて、しかも自分で起こしているものである。
  だから、人はだれでも、その結果が自分に及ぼす影響について責任を取ってよい。
2.だれでも、自分の行いたいことは、理由を言ったり、いいわけをしないで行ってもよい。
3.だれでも、他人の状況や問題を解決するために、もしも協力したいと思うならすればよいし、
  したくなければしなくてもよい。
4.だれでも人は、「一度言ったからそれを変えてはいけない」ということはない。
  自分の気持ちが変わったら変えてよい。
5.だれでも人は、間違いをしてしまってもよい。そしてそのことに責任を取ってもよい。
6.だれでも人は、「わたしは知りません」と言うことができる。
7.だれでも人は、他人の善意に応じる際に、自分独自の決断をしてよい。
8.だれでも人は、決断するにあたって論理的でなくてよい。
9.だれでも人は、「わかりません」と言うことができる。
10.だれでも人は、「わたしには関心がありません」と言うことができる。
11.だれでも人は、アサーティブになることから降りる権利がある。

(「セルフ・アサーション・トレーニング」/ 菅沼憲治・著)

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アサーションは、人間は環境に左右されるとは言いません。自分で選択すると言います。今日こそ、エホバの証人の活動をやめる、と親、長老に宣告するぞ、と思っていても、その日にかぎってどういうわけか、長老の気分がよくて、自分のことをほめてくれた、会衆の人たちもなんだかいつもよりは優しかった、だから鼻先を挫かれたから、とうとう言いだせなかった…。アサーションではこういうのを、機会に恵まれずに言えなかったとは見なしません。それは、自分で心地よいほうを、つまり現状維持を選択したので、「言わなかった」のだとみなします。

なぜなら、等しく人間には自分を尊重し、自分の尊厳を誇りにする権利が保障されているのだから、自分の尊厳を主張する権利を行使しなかった、とみなすわけです。自分の思うところとはうらはらに、無意識のレベルでは、自分は今、変化を望んでいない、現状維持を強く望んでいるので、不満や不信はあっても、新しい生き方を選択しなかった、とみなすのです。アサーション宣言の第11条は、人はアサーティブでなければならないわけではなく、いつでもアサーティブな生き方から降りることができると保障しています。ただその場合でも、会衆から正規開拓を再開するようにとか、全時間の就労を辞めるようにというような圧力がかかってきたときに、アサーション宣言の第8条、第10条を適用して、はっきり断ることができます。現状維持を選択したからといって、まったくアサーティブに生きることを放棄しなくてもよいのです。もちろん、そうすると、会衆内で肩身の狭い思いをすることになるかもしれません。そんなときにどうやって自分の自尊心を守れるでしょうか。それは「境界線を引く」ことです。

この話、もうちょっと続けます。境界線を引くことと、アサーションのテクニックのいくつかを次の機会にまた書いてみます。とにかく、感情は自分のうちに密かにしまいこんでおくよりは、それを表現した方が、人間関係を上手に運営してゆくことができるので、アサーションは有効だということです。
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