Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

まず家族と結びつこうよ、新しい社会の構築に向けて (上)

2010年05月23日 | 一般
「カツマーvsカヤマー」の記事の中で引用した、日本人の信頼関係の低下などにみられるように、いまや日本では人間関係がバラバラに切れてしまっています。わたしたちの楽しみって何でしょうか。休日に家族で語らうことが楽しいって言う人がどれほどいるでしょうか。ほとんどのひとは、休日には、男性はパチンコやTVのスポーツ観戦、余裕のある人では、会社の同僚とゴルフ、家族で時間を過ごすといっても、大型ショッピングモールで過ごす、奥さまはお友だちとフィットネスクラブで過ごす、家族で行動するにしても、人がどどっと集まる行楽地へ行って疲れるなどではないでしょうか。家で家族と遊ぶ、話を楽しむって言う人はごくごく少数派だと思います。これらでも日本ではまだ健康的なほうです。

はっきりいって、もう今までどおりの大量消費型の暮らしは、これからはできないようになります。大量消費型の暮らしをするにはおカネが必要ですし、それだけのおカネを得るにはそれだけの労働が必要であり、それだけの労働のためには時間が必要ですし、そうなると家族とともに過ごす時間は減るのです。しかも経済状況は低迷を続けますし、打開するにしても石油文明と大量消費文明は捨て去らなければならないのです。

でも本来的にいうと、それであたりまえにもどるのです。大量消費を「楽しむ」生きかたこそ人間本来の自然にそむいたものだったのです。わたしたちはモノ文化、他者を出し抜くことに生きがいを求める生きかたから、今こそ降りる必要に気づくべきです。人間の人生の楽しみは、人間とのつながりにあるからです。

日本人はこれまで多く持てる階層に登ることが生きる意味だと思ってきましたが、それがもたらしたのは、このギスギスした、不安と不信でいっぱいの社会でした。人とつきあうのが苦手だということで、引きこもったり、ワーカホリック(仕事依存)になってうつ状態まで追い込まれてしまったり、自殺が毎年3万人以上になったり、こういうPC依存症になったり…。

そこで、人とのつきあい方のスキルを知ろう、ということで、とても安価ながらいい文庫本を紹介します。

「好きな人と最高にうまくいく100の秘密」というタイトルの本です。本体価格638円です。著者は、フロリダ大学で社会心理学を専攻されておられるデビッド・ニーブンという方です。以下、いくつか書き出してみますね。

 

(以下引用文)-----------------------------

 

1.平凡なことがいちばん大切。

人間の仕事や務めにはいろいろありますが、注目に値することというのは、当然ながら平凡なことの積み重ねによって築かれることが多いのです。たとえば、消防士の日々の仕事はただ訓練するだけですが、その訓練の積み重ねによって身に着けた技術が、人命救助や消防活動の任務を遂行するうえで役に立つのです。

ふたりの関係もそれとよく似ています。お互いに対して、永遠とも思えるくらい長い月日をかかわりあう努力の積み重ねなしに、しあわせな関係を保ち続けることはできません。それはもちろん簡単なことではないし、直ちにはっきりとした形で報われるとは限りません。

けれども、いますぐしたいことがあっても譲り合い、ふたりで何でも分かち合い、いたわりあい、相手の言うことに耳を傾ける…など、よく言われるようなありふれたことが、結局は長続きのするいい関係をもたらすことになるのです。

 

 

2.ふたりがうまくゆく理由にこそ意識を向ける。

どんなカップルにも、ふたりがうまくいく材料もあれば、ダメになる材料もあります。今はどんなにうまくいっているようにみえるふたりでも、将来をダメにしてしまうかもしれない出来事はいくらでも起こるし、危なっかしく見えるふたりでも、壊れずに続いていくための要素をも持っているのです。

ですから、自分たちをダメにしてしまうような要素にばかり、いつも意識を集中させ続ければ、ふたりはやはりダメになってゆくでしょうし、ふたりの結びつきを強める要素に意識を集中させ続けるなら、ふたりの結びつきは強くなっていくのです。

 

 

3.どんなひととでもしあわせな関係を築くことはできる。

「あなたは、将来、ぜったいうまくいくふたりとはどんなひとたちだと思いますか」。そう訊かれ、「そうだなあ。年齢は…、収入は…、職業は…、教育の程度は…、宗教は…」などと考えるひとも多いかもしれません。

けれどもさまざまな調査の結果によれば、事実はそれらとは無関係です。つまり、どんな年齢のひとも、どんな収入のひとも、どんな職業のひとも、どんな教育のレベルのひと、どんな宗教のひと、そのほかどのようなひとであっても、それでしあわせになるふたりもいれば、ならないふたりもいるのです。

パートナーとしあわせな関係を築くために大切なのは、そういうことではなく、あなたがいったい、どういう人間なのかということです。

 

 

4.相手に対して競争心を抱かない。

(a)だれかを好きになったとき、その相手が仕事などで成功しているひとなら、喜びもいっそう大きいに違いありません。しかし、しだいに相手の成功をねたむ気持ちが生じてくるひともなかにはいます。そういうひとは、知らず知らずのうちに相手の成功と自分を比較してしまい、劣等感を感じたり、なんとなく競争するような気分になってくるのです。

そういう気持ちを持っても、ふたりにとっていいことはひとつもありません。パートナーと競争をして、たとえ勝ったところで、得るものは何もないのです。ふたりの心安らぐ満たされた生活は、相手と競争するような愚かなことをしない人に与えられます。

(b)ふたりの人間がいっしょに暮らす以上、意見が合わないことが起こるのは避けられません。けれども、その根本部分でほんとうに大切なことはひとつしかありません。それは、
「あなたの目的は、自分がどれほど正しいかを示して言い合いに勝つことなのか、それとも懐を深くして、ふたりでいっしょにしあわせになることなのか」
…ということなのです。

もし口が達者ならば、どんな言い合いにも勝つことができていい気分がするかもしれません。でも、それではひとつもあなたのためにならないのです。言い合いで勝ったか負けたかが重要なうちは、「二人とも負け」ということです。その反対に、勝ち負けを忘れて、お互いの愛を確認することができれば、「ふたりとも勝った」ことになるのです。

 

 

5.前向きな態度がいい結果をつくりだす。

わたしたちは、望みがかなえられなかったときは当然落胆しますし、希望すら失うことがあります。けれども、すべての物事は時の流れとともに変わっていくのであって、いつ、何が起こるかを完全に、はもちろん、十分にでも予測することは不可能です。わたしたちにできることは、“続ける” ことだけです。他のひとの(とくにパートナーの)しあわせに貢献すること、周りにいる人たちのよい点を見つけてことばで伝えてあげること、愛情を惜しみなく差し出すこと、相手をサポートすること…など、すべては、“やめないで続けること” が大切なのです。

 




6.古いしきたりに縛られない。

親や祖父母や親戚をはじめとして、年長者、権威者はとかく、昔はどうだったという話をしたがるものです。もちろん、いろいろな経験をつんだ年長者の話には耳を傾けるべきことがたくさんありますが、こと男女のことに関する限り、昔と今とではふたりを取り巻く環境や社会状況はかなり異なっています。

いつの時代も変わらない「真理」みたいなものはたしかにありますが、今の時代にそぐわない考えなどを押しつけられたときには、それらに惑わされることなく、自分たちの価値観を守ることが重要です。

 

 

7.他人と比較しても何も生まれない。

あなたとあなたのパートナーとの関係をいくらほかのカップルと比較しても、あなたの人生が変わることはありません。これは当然の理屈です。とはいえ、うまくいっている人たちの姿を見て、自分たちについて顧慮するきっかけにするのなら、それによってあなたたちの人生を変えてゆくことも可能になるでしょう。

いずれにせよ、あなたと相手との関係がどうかということは、「あなたたちのニーズはなんなのか」をもとにして測られるべきであり、「他人がどうであるか」をもとにして測るべきではありません。

 

 

8.内面のバランスを保つ。

よく、妻あるいは夫や子どもとうまくいかないために、仕事などに逃げてしまう人がいます。それは、自分の家より会社のほうが居心地いいからです。またそれとは逆に、職場や仕事で問題を抱えているために、プライベートな世界に逃げ込もうとするひとがいます。

けれども人間はふつう、ひとつの分野で抱いている感情を、ほかの分野にも持ち込んでしまうものです。したがって、人生のひとつの分野で苦しみがあれば、いくら別の世界に逃げ込んでもその苦しみは持ち込まれてしまいます。

満足のいく人生とは、あるひとつの分野だけでいい気分になることによって得られるものではありません。





(下)につづく

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まず家族と結びつこうよ、新しい社会の構築に向けて (下)

2010年05月23日 | 一般


(承前)

 

9.あなたはどれくらい寂しいか?

だれでもパートナーに対しては多くを求めたがるものです。でも、ほんとうに大切なことはそんなに多くはありません。

では、いちばん大切なこととは何でしょうか。それを知るためには、こう自問してみるといいでしょう。
「わたしは寂しさを感じることがよくあるか」。

もしあなたにパートナーがいて、かつ、この質問に対する答えが「イエス」だったら、あなたとパートナーとの関係は、あなたの根元的なニーズに応えていないということになるかもしれません。

実例をあげましょう。

ある女性の打ち明け話。「夫は会社人間で、いつも家に帰ってくるのは夜遅くて、しかもろくに口もきかずに寝てしまう。休みの日も家に持ち込んだ書類に目を通したり、自分のことばかりやっていて、家族のことなどまるでおかまいなし。声をかけても、『今ちょっと忙しいんだよ』と言うばかり。つまりそれは『ほっといてくれよ。オレには何も頼まないでくれ』ってこと。わたしは妻ではなく、ただの家政婦なのよ」。

しばらくして、彼の仕事はますます忙しくなり、家にいる時間もますます少なくなってゆきました。彼女の存在などまるで眼中にないような状態です。ついに彼女は、いくら話をしようとしても応じない夫に何かを期待するのをあきらめ、家を出てしまいました。

それまで家にいるのがあたりまえだった妻がいなくなって初めて、彼は人生にぽっかりと穴があいたような気分を味わいました。そして、それまで自分がどれほど自己中心的だったかを思い知ったのです。彼は彼女に謝罪し、これからはよき夫としてふたりの将来を考えるよう努力するから帰ってくれと懇願しました。

その二年後、彼女はわたしにこういいました。「彼は人が代わったようにいい夫になりました。今ではほんとうに人生のパートナーのように感じています」。

 

 

10.対等な関係を築くことが大切。

会社でふたりの人間がひとつのプロジェクトに従事するときのことを考えてください。その場合、もし仕事を完遂することだけが目的なら、上司はそれぞれの能力に応じてふたりに異なった任務を与え、適当にどちらか一人を責任者に任命するでしょう。プロジェクトが成功裏に終了する限り、ふたりの仕事ぶりに差があってもかまわないからです。

けれども、ふたりがお互いをリスペクト(=高い価値があるものと認めて敬意を表すこと)し、チームとして仕事することが重要な目的である場合、ひとりをもう片方の上において責任者に任命すれば嫉妬を生む原因になり、チームが機能しなくなる可能性があります。それに、片方は一生懸命働いているのに、もう片方が命令ばかりしてあまりよく動かなかったりしたら、まちがいなくいがみ合いが生じるでしょう。

男女の関係はあきらかに後者の部類に入るものです。ふたりのどちらに比重がかかりすぎても、ふたりのよい関係は崩れてしまいます。ふたりのあだでは、どちらの人がより重要で、どちらが重要度が低い、というようなことはありえないからです。片方がすべてを決めたり、片方ばかりが犠牲を強いられるというような関係は破綻を免れないでしょう。

 

 

11.共通の興味のあることを育てる。

たとえふたりがともに「相手にとってポジティブなパートナーでありたい」と願っていても、お互いに仕事などのやらなくてはならないことがあって、一日の大半は離れて過ごしているというのがふつうでしょう。

ふたりが共通の興味のあることを持つ、ということの重要性はここにあります。そうすることによってふたりの良好なコミュニケーションがはかどり、離れていても心が結びついている実感が強められるからです。

 

 

12.おカネに支配されないように。

人生でほんとうに大切なものをひとつあげるとしたら、それはなんでしょうか。ひとによっていろいろあるでしょうが、それがおカネでないことは確かです。これは大昔からそうであったし、将来も変わらないでしょう。それにもかかわらず、ふたりの間におカネのことが原因で衝突が起きなかったことがあるでしょうか。何に使うのか、いくらあれば十分なのか、どっちがどれだけ使うのか…などなど。

愛しあっているふたりの間にもこの問題は常に入り込んできます。そしてこの問題がふたりの本質的な領域にまで入り込んでくると、ふたりの良好な関係を保つことがむずかしくなってきます。

もし、必要なだけのおカネがなかったら、ふたりの生活はギスギスしてくるでしょうし、その反対に、いくらおカネがあっても、それが生きる喜びや達成感をもたらしてくれなければ、やはりふたりの間は冷めてくるのです。

あなたの意識のなかで、おカネを正しく位置づけるように。すなわち、おカネはほんとうにたいせつなものの次の位置に置くように考えましょう。

 

 

13.心の支えがほしければことばにして伝える。

つらい日々を過ごしているときには、だれでも心の支えがほしいものです。そんなとき、「人生の伴侶ならば、いちいち口に出して説明しなくても、わたしの苦しさを分かってくれるはずだ」と思うひとも多いことでしょう。

でも、自分のきもちを正確に説明せずに、すべてを相手にわかってもらいたいと考えることこそ、行き違いを生むおおもとなのです。「どんな状況のもとでも相手はわかってくれている」と勝手に思うことが行き違いの原因になります。

心のサポートが必要なときには、はっきりとことばにして伝えて、ふたりの結びつきを確かなものにしてください。


(実例)
(筆者の)知り合いに、奥さんが会社の上司で夫が部下という夫婦がいます。彼が言うには、こういう状況のもとで夫婦がうまくやってゆくには、お互いに対して完全に正直であることが必要だそうです。

彼は彼女の管理職としての能力を認めているし、彼女は彼の営業の能力を高く買っています。こういう関係の持ち方は、彼らの親の世代では不可能だったことでしょう。でも、そんな彼らにも問題はあります。

彼女が言うには、彼はすべてがきちんとなっていなければ気がすまない性格で、時として上司である彼女に対して指図がましい口の利きかたをすることがあり、それが彼女をいらだたせるのだそうです。一方、彼は彼で、彼女が家に帰っても上司のような態度をすることがあるのにいらだちます。

でも彼らは、お互いにそういう感情を隠さず表すようにしています。家と職場でパッと頭を切り替えるのはたやすいことではありません。いらだちが生じたときには、そういう自分の気持ちをはっきり言うことで、彼らはお互いに対する手綱をうまくあやつることができるのだそうです。

このように、彼らのような夫婦においては、争いを起こさぬようにオープンなコミュニケーションが特に欠かせません。お互いに、言葉通りに受け取れるようなものの言い方(アサーティブな言いかた、=主張的でかつ非攻撃的な言いかた)をすること、つまり、「ほんとうの気持ちとはうらはらなことを言わない」ことや「揶揄するようなもの言い」をしないこと、「なにも隠さないこと」が必要なのです。

 

 

 

(「好きな人と最高にうまくいく100の秘密」/デビッド・ニーブン・著)


-----------------------------(引用終わり)

 

(4)の家庭でさえ競争しようとする、というのは、ありそうなことですよね。わたしがインターネットの掲示板やブログへのコメントなどを見ていて感じるのは、とにかく負けまいとする態度などにしんどいものを感じます。ある意見を主張するというのではなく、その意見を言う自分の意地を通すことに必死になるんですね。

それは(8)の「内面のバランスを保つ」に書かれていた、インターネットへの逃避なのかもしれません。あらゆる時間帯に書き込みをしていて、いったいいつ休んでいるんだろうと思うような書き込みぶりのひとっていますよね。そういうことからして、生身の人間とのつきあいが希薄なのは容易に見て取れます。

それと(13)の、オープンなコミュニケーションがなされない日本の「謙譲」「謙遜」を誤解した文化、とでもいうのでしょうか、婉曲的な言い回し。政治の世界で行われるような「口撃」ですよね。奥歯にモノがはさまったようなもの言い。攻撃して相手をやり込めれば、相手はおずおずと頭を下げてくるとでも思っているのでしょうか。現実は逆です。感情のいらだちをかきたてて、騒ぎになるだけです。

あと、エホバの証人問題にも引っかけていうと、(10)の「対等な関係を築く」ということ。エホバの証人社会が息苦しいのは、人間関係のなかに組織の原理を持ち込んだことが原因である、ということです。ひとが宗教に求めるのは、癒しや安らぎや安定感です。組織の原理は、ものごとを効率的に達成させてゆくためのものであって、軍事的な、資本主義的な発想の行動様式です。でも家族とともに過ごすとか、ひととの関係を持つとかいう場合には、ひとと認め合い、いたわりあうことが目的なのですから、組織化してはならないのです。そういう発想を捨て去ったところで、人間同士のつきあいは営まれるものだからです。

たしかに上下長幼の序列がはっきりしているところでは、安定感はあるでしょう。しかしそれは序列が下位の人々を犠牲にするうえでの安定感ですから、必ず不満や憤懣は鬱積するのです。また、安定を維持することが至上命令のようになって、新しい考え方を退けようとするので、進歩するということが困難になります。これがまた「閉塞」を深めるのです。進歩させようとする人びとを「破壊的分子」と呼び、村八分などのハラスメントによって精神的に追い詰めてしまうからです。家父長制など、序列が大事のやりかたはきっと「しあわせ」を破壊します。

その極端な例が日本におけるエホバの証人社会であり、また「サイレンと・ヒル」というホラー映画のような社会です。その映画では、古来のしきたりや伝統の枠では理解できない考えかたの人間を次々に火あぶりによって殺戮してゆくが、やがて殺された人間たちのゴーストによって復讐されるという気持ち悪いストーリーが展開されました。もう一度見たいとは思わない映画ですが、ラスト近くのヒロインのセリフが頭に刻まれています。ヒロインが敵役に向かって、「そうよ、自分に理解できないものを、あなたはみな抹殺してゆくのよ!」と非難するせりふでした。わたしにとってこのセリフは、復古的憲法改正を目指す現在の日本の勢力や、在特会のような人びと、そしてまたエホバの証人の人々、元エホバの証人で、現役信者だったころと同じ習慣や考え方を継続しようとする人びとなどに突きつけたいせりふでもあります。

そういう息苦しい社会を打破するのは、素直に気持ちを言い出せる環境を確立すること、すなわち上下長幼の序列を壊し、対等な人間関係を築くこと、そのためにコミュニケーションをオープンに開くこと、なのです。このことはエホバの証人だけのことではなく、日本の「伝統文化」(?)でもあるようですので、(6)の「古いしきたりに縛られない」という寛容で鷹揚な雰囲気への発想の転換が必要だと思います。

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憲法にとって「国家」とは?

2010年05月06日 | 日本国憲法を知る


現代の地図は精密に描かれていますが、それでも宇宙から見た地上の姿とは異なった点があります。いうまでもなく、宇宙から見ると地上・海上のどこにも「国境線」が引かれていません。あたりまえの話ですが、国境線というのは、なにか必然性があってそこに引かれているのではなく、恣意的、人為的に定められたものです。わたしたちが、国境線で区切られたある一定のエリアを、「自分の国」として意識するのは、それが自然なことだからではなく、ましてそれが必然だからでもありません。純粋にわたしたちが、国境線で区切られたエリアを「ここは自分たちの国だ」と取り決めることで「自分の国」は存在するようになるのです。その、国境線で区切られたエリアには、たとえば同じ言語を話す人たちが多く集まっている、同じ宗教、同じような習慣、伝統を共有している人たちが多く集まっている、同じような人種が多く集まっている、あるいは同じ民族が集まっている(この点は、先ほどの、「同じような宗教、伝統などを歴史を通じて共有してきた」ということとほぼ同じ意味になるかもしれませんが…)などの理由で「自分たちの領域」という共同意識が生じるのでしょう。


(以下引用文)---------------------

わたしたちは、「国」というものを、なにか所与の存在のように考えがちである。しかし、「国」とは自然的な実体として存在するものではなく、人為的に作られた「イメージ」なのである。

だがそのイメージが、自分の生まれた土地や生活の場、自分の生まれた地域への愛着、あるいはそこでともに暮らす人々・ともに暮らしている人たちをまとめている宗教や伝統、習慣への愛着というような感情と結びついて想像されるときはじめて、「国」は「わが国」として意識されるのである。

 


(「憲法学教室」/ 浦部法穂・著)

---------------------(引用終わり)

 

しかし、「憲法学」では、ここまで言われてきた「国」「わが国」とは区別して「国家」というものを考えるのです。なぜならば、「国家」の実体は「権力」だからです。一般によく言われる「国家」の定義は、「領土、国民、統治権の三要素がそろって国家というものは成立する」というものです。

でも、土地とそこに住む人々というのは国家というものがなくても存在しえます。事実、人類史という観点からすると、国家などなかった時代のほうが長かったのです。ですから、あるエリアとそこに住む人々のうえに「国家」が成立するのは、そこに住む人々を包括的に支配する統治権力が現れるようになったときなのです。したがって、


(以下引用文)---------------------


統治権こそが、国家を国家たらしめる本質的な要素なのである。国家の本質は「権力」にあり、「権力」こそが国家の実体だ、ということである。

「権力」とは、他者を支配できる力、あるいは他者に対して服従を強制しうる力であり、国家はそのための装置、つまり強制装置なのである。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)


このような強制が存在するようになるのは、ある土地に住む人々が共同生活を維持してゆくために必要なルールをみんなが守るようにするためです。ですから権力は必要なものではあるのです、共同生活を営んでゆくためには。

しかし人間の歴史は、権力が必ず乱用されるようになり、共同体を維持するという目的をはみ出して、一部の少数者が多数の人々を搾取するために使われてきたことを記録しています。一部の少数者が必要以上に利益を自分たちに蓄積しようとするからでした。こういう現象をわたしたちは「権力の暴走」または「権力の腐敗」と呼ぶようになりました。そうです、権力は暴走し、腐敗する性質があるのです。

わたしたちは歴史を顧みるときに、権力の暴走、あるいは腐敗を防ぐ取り決めが必要だということを学び知ったのです。

 

(以下引用文)---------------------


「権力」にはすべての共同体の成員に、人間らしい生活を保障すべき義務があるのだ、ということを明確にし、さらには、「(共同体の成員に服従を強制しうる)力」の発動が許される場合と、「力」の発動が許される条件とをあらかじめきちんと定め、それらを遵守することを条件に「権力」の行使を担当させる、という「権力」への縛りが不可欠である。いわば、「権力」を、権力の側にない「ふつうの人々=人民」の利益のために仕えさせるための「縛り」である。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)

 

最後の文章をご覧ください。そこでは「権力」が「権力の側にない人々=人民」と対比されています。つまり、あるエリアに住む人々にとって、「権力」は対立関係にあるものなのです。なぜって、一歩まちがえば、権力は暴走し、腐敗して人々を搾取してしまう性質があるからです。つまり、そうならないよう権力は、権力行使の対象となる共同体の人々=人民によって、縛りをかけて監視されなければならないものなのです。

このことは、ある一定の領域に住む人々、同じような伝統、習慣、宗教を共有し、生活を共にしている隣人への愛着、あるいは自分が生まれ育った地域とその地域の人々、自分という人格に影響を与えてきた伝統・慣習への愛着としての「自分の国」への愛着のような感情を、「国家」には持ち得ないものだということが浮かび上がってきます。そうです、「国家」とは「権力」であり、つまり人民に服従を強制しうる「力」であるゆえに、暴走、腐敗しないよう「監視」されなければならないものなのです。だから「愛国心」というのは「国家」にたいして抱くべきものではないのです。「愛国心」は暮らしを共にしてきた共同体の人々や、生まれ育った郷土への懐かしい愛着として抱くべきものであり、「権力を行使する装置=国家」に対して抱けるはずのないものなのです。

 

(以下引用文)---------------------


「権力」は、常に「人民」にとっては自分たちの側にあるものではなく、それはいつでも人民にとって「対立物」なのである。たとえその「権力」がいかに「人民」にやさしい態度を示すものであったとしても、ひとたび「権力」として存在した瞬間から、それは「人民」のものではなくなる。だからこそ、「権力」に対する不断の監視が必要なのである。「人民」がそれを怠ったとき、そこには暴力的支配だけが残るであろう。

 

(上掲書)

---------------------(引用終わり)


そして、権力を、暴走あるいは腐敗にいたらせないように掛ける「縛り」、それを「憲法」と名づけるのです。近代国家の場合、人間の歴史を通じて「権力」は中央集権的で排他的に割拠するような形で存在するようになった「国家」に一元的に集中してきたので、近代国家についていえば、「権力」は「国家」という単位によって、「国家権力」という形態で存在するようになってきました。(アフガニスタンなどのように、「国家権力」の統治力の弱い「国」の場合もありますが、ここではヨーロッパ型の近代国家について述べられています)ですから、憲法は、「国家権力」への「縛り」を第一義的な目的を存在意味とするようになっているのです。こういう方針を「立憲主義」といいます。

 

(以下引用文)---------------------


立憲主義とは、もともと権力者の権力行使の濫用を抑えるために憲法を制定する、という考え方のことをいい、広く「憲法による政治」のことを意味している。

したがって、立憲主義の概念は本来多義的であり、前近代の君主制のもとで、君主の権力を制限しようとする「立憲君主制」とも結びつくことができた。

一般には、近代以降に、国民主権・権力分立・基本的人権の保障という原則をともなった近代憲法が成立して立憲主義が定着したため、これを近代立憲主義の意味で用いることが多い。そしてこのような近代立憲主義は、20世紀前半以降、しだいに現代立憲主義と称すべきものに展開していった。

これに対して、同じく立憲主義の憲法でありながら、国民主権・権力分立・基本的人権の保障の原理を持たない憲法を「外見的立憲主義」と呼んで、近代立憲主義と区別している。たとえば、1871年のドイツ帝国憲法や、これを模倣した大日本帝国憲法が、君主主権・権力集中・基本的人権の否認などの特徴をもっていた点で、外見的立憲主義の憲法に分類される。

 

(「憲法」/ 辻村みよ子・著)

---------------------(引用終わり)

 

こうした憲法の基礎知識に照らして、最近の日本における「愛国心の強要」の広がりを見ると、それはほんとうの意味での「愛国心」ではなく、「国家権力=少数者の服従強制能力」への無条件服従に走っているのだ、ということが見えてきます。日本の風潮は今、少数者の搾取を容認する思考に走っており、「権力=人々に服従を強制する力」に服従する思考に順応させようとしているのです。マスコミや前近代的な縦の服従関係をいまだに持つ芸能界の影響力=国民が権力の道具になるように「愛国心」ということばで擦り替える影響力により誤導されている国民の姿が見えてくるのではないでしょうか。

いつかまた詳しく紹介したいことなのですが、こうした「権力」への服従を要求するようになってきている背景には、多国籍企業化した日本企業が、海外での企業活動を有利に行えるようになるために、日本の多国籍企業が進出した外地における、労働運動や内政不安定などの不安定要素を平定するアメリカの軍事力展開への日本の多国籍企業の期待と、それへの見返りとしての自衛隊のよりいっそうの軍事的協力を望むようになったことが第一に挙げられます。

そしてそういう日本の多国籍企業の要求を実現するのに邪魔になるのが日本国憲法なのです。今、日本国憲法改正については9条が有名ですが、実は13条や24,25条などの人権保障への「改正」も主要な対象としてもくろまれているのです。それは製品の価格を下げるという「国際競争力」を実現するためには、労働力を買い叩く必要があるからです。(「日本の大国化は何をめざすか」/ 渡辺治・著)

その目的で憲法を改正しようとして、権力へ隷属化を「愛国心」という体裁ですり替えていま教育現場でさまざまな強制が行われつつあるのです。それはまさに、「外見的立憲主義」への回帰ともいうべき現象なのです…。

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