Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

夫婦別姓こそ日本古来の伝統でした

2021年03月07日 | トリビア

 

 

 

「選択制」だと言っているのに、家族が壊れるだの意味不明なことを言って夫婦別姓制度に反対している日本会議系議員たち。しかし歴史を調べると、夫婦同姓は日本の伝統どころか、古来の日本の伝統を打ち破って、明治時代に無理くり導入されたものであることがわかります。今日日本会議系が日本の伝統だと言っていることの大半は同様に、明治時代につくり出されたものです。

 

 

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 旧(民法)法典において初めて一夫一婦と夫婦同姓の原理が明確に打ち立てられた。古来わが国では婦女は終生、生家の姓を名乗り、婚姻において特に姓を改めなかった。すなわち、夫婦は家籍を同じくしながら、その姓を異にするのが明治初中期までの日本一般の習わしであった。

 

 しかるに、重婚の排除、婚姻当事者の自由意志・自由承諾の理を法的に明確化(旧民法・人事編56条)して、法律上完全な一夫一婦制を確立した旧民法法典は、夫婦の姓の点においても伝統を破って、妻は夫の姓を名乗るべきものとした(同・人事編243条)。

 

 夫婦一体的キリスト教法理の影響を受けた新立法で、身分法上の一つの革命であったが、民法典論争(※)の当時の延期派が「耶蘇教以後の婚姻中心のヨーロッパ法制を導入したものとして、その旧法典を激しく攻撃した理由は、かかる一夫一婦制法制化・夫婦同姓原理確率の点にあったと思われる。

 

 

 

(「民法典論争資料集」/ 星野通・編著/ 松山大学法学部・松大GP推進委員会・増補より)

 

 

 

 

※民法典論争

 

法典論争の一つとして、民法相続編、親族編における「家」制度と近代法の関係をめぐって行われた論争。1891年法学者、穂積八束(ほづみやつか)が、論説「民法出でて忠孝亡ぶ」を発表。

 

わが国は祖先教=家制が国家の基礎であるという理由をもって家族関係を法律で律するということを排撃した。
これを契機に、家制度の重視、淳風美俗(じゅんぷうびぞく)維持の声が高まり、帝国議会において、家督相続や血統重視を唱える民法実施延期派と、妻や子にも一定の権利を認めることを主張する実施派・梅謙次郎らとの激しい論争となった。

 

論争は1892年11月、延期の決定により終結したが、家制度重視は明治民法のなかに色濃く盛り込まれた。

 

 

(「岩波・日本史辞典」より)

 

 

 

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空へ

2021年03月07日 | Monologues

 

 

このブログを開設してからもう15年。

 

今日、還暦になりました。還暦になって思うこと。

 

「死」を現実的に感じるようになりました。

死は怖ろしい。食べたり、読んだり、知ったりすることから永遠に断たれる。

わたしの周りの人たちは、わたしの死を見とどけた後も、それぞれの楽しみのために、自分の場所へ帰ってゆくでしょう。

しかし、死んだ者はもう何にも与ることができなくなるのです。

そう、眠るときのように、目を閉じたあと、しかし再び朝の光を見ることはない。

わたしも去ってゆく。

 

時間が惜しい。読みたかった本を、生きているうちに読んでしまいたい。

長年勤めた会社を、明日辞することになります。

 

しばらく専業主婦やってから、ふたたびアルバイトをしようと思います。

長くエホバの証人の開拓奉仕をしていたので、年金などまともにありません。

夫に申しわけないので、健康ある限り、働き続けたいと思います。

 

 

去年だったかな、エホバの証人を脱会された方が、漫画の単行本を出されていました。

立ち読みしていたんですが、印象的だったのは、辞める決意をして集会へ行くと、

みんなの表情がつくられたものに見えて怖かったというシーン。

 

あの世界では、本音を言うと、霊的に弱って危険な人物の烙印が押される。

だから集会や信仰の同士に対しては、喜ぶ表情と温和な表情をつくっていなければならない。

長老やお局姉妹になればある程度そこが自由にはなりますが。

 

人間同士の親しさというのは、ほんとうの気持ちを分かち合うこと。

気持ちに共感しあうことが「親しい」ということなのです。

本音を隠して作られた表情で交流しても、そこに友情を感じることはないのです。

集会から帰ってきて、ふと独りになると、そこはかとなく疲労と孤独感を覚えるのです。

 

 

そういえば、コロナ禍の今、彼らはどうしているんだろう。

インターネットで集会しているんだろうか。

たまに王国会館、日曜日に見ることがあるけど、車は駐車していない。

韓国で、キリスト教の集会が大クラスターになったので、集会も伝道も控えているのだろうと思う。

 

 

ま、もう関心はないけどね。

季節は春。

静かな春を、いまは満喫しよう。

 

 

かつて脱エホバの証人の掲示板にいた方々も、無理に幸福になろうとしなくていい、

ネトウヨなんかにならないで、エホバの証人の経験から、寛容な人間になっていってほしい。

今の世の中で幸福になんかなれないから。

新自由主義というのは、

労働者の人権や暮らしを守るために設けられたさまざまな規制から

企業を自由にしようというもの。

企業が自由になればなるほど、わたしたちの自由と生存権は奪われてゆくからです。

 

 

もう一つ。

日本国憲法の13条で、すべての人は個人として尊重される、と規定されているのは、

人はそれぞれ違うのだから、違いを差別や攻撃の理由にするんじゃなく、

違いを受容して、違うからこそ、協議して違ったまま共同してゆくことをめざそうということなのです。

エホバの証人みたいな宗教にハマろうとするのは、

敵を共有することでつながろうとすること。

そんなつながりのなかでは、いじめや反目、みなとちがうことに恐怖する孤独は絶えることはない。

愛はたんなる「執着する力」。

一方に執着すれば他方を排除することになる。

愛だけではしあわせになれない。

人と人との平和は、違いを受容する寛容にこそかかっている。

 

 

 

 

 

 

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