「選択制」だと言っているのに、家族が壊れるだの意味不明なことを言って夫婦別姓制度に反対している日本会議系議員たち。しかし歴史を調べると、夫婦同姓は日本の伝統どころか、古来の日本の伝統を打ち破って、明治時代に無理くり導入されたものであることがわかります。今日日本会議系が日本の伝統だと言っていることの大半は同様に、明治時代につくり出されたものです。
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旧(民法)法典において初めて一夫一婦と夫婦同姓の原理が明確に打ち立てられた。古来わが国では婦女は終生、生家の姓を名乗り、婚姻において特に姓を改めなかった。すなわち、夫婦は家籍を同じくしながら、その姓を異にするのが明治初中期までの日本一般の習わしであった。
しかるに、重婚の排除、婚姻当事者の自由意志・自由承諾の理を法的に明確化(旧民法・人事編56条)して、法律上完全な一夫一婦制を確立した旧民法法典は、夫婦の姓の点においても伝統を破って、妻は夫の姓を名乗るべきものとした(同・人事編243条)。
夫婦一体的キリスト教法理の影響を受けた新立法で、身分法上の一つの革命であったが、民法典論争(※)の当時の延期派が「耶蘇教以後の婚姻中心のヨーロッパ法制を導入したものとして、その旧法典を激しく攻撃した理由は、かかる一夫一婦制法制化・夫婦同姓原理確率の点にあったと思われる。
(「民法典論争資料集」/ 星野通・編著/ 松山大学法学部・松大GP推進委員会・増補より)
※民法典論争
法典論争の一つとして、民法相続編、親族編における「家」制度と近代法の関係をめぐって行われた論争。1891年法学者、穂積八束(ほづみやつか)が、論説「民法出でて忠孝亡ぶ」を発表。
わが国は祖先教=家制が国家の基礎であるという理由をもって家族関係を法律で律するということを排撃した。
これを契機に、家制度の重視、淳風美俗(じゅんぷうびぞく)維持の声が高まり、帝国議会において、家督相続や血統重視を唱える民法実施延期派と、妻や子にも一定の権利を認めることを主張する実施派・梅謙次郎らとの激しい論争となった。
論争は1892年11月、延期の決定により終結したが、家制度重視は明治民法のなかに色濃く盛り込まれた。
(「岩波・日本史辞典」より)