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その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

安倍政権の裏の顔~『攻防・集団的自衛権』ドキュメント 1.ことの起こり

2015年09月20日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

 

 

2001年初夏、元駐タイ大使岡崎久彦は、安全保障研究の第一人者である佐瀬昌盛・現防衛大学名誉教授の自宅に電話した。佐瀬は、「集団的自衛権(PHP新書)」を出版したばかりだった。

 

集団的自衛権は、自分の国が攻撃を受けていなくても、密接な他国が攻撃を受けた場合、いっしょになって反撃できる権利のことだ。憲法9条を持つ日本では、日本に直接攻撃があった場合にのみ反撃できる個別的自衛権しか認められていない。当時は集団的自衛権が政治課題にまったく上がっていなかったこともあり、専門的に扱った本は少なかった。

 

岡崎は電話で佐瀬にこう伝える。 「この本は最高の教科書だ。これで政治家を教育しよう」。 その後二人は作戦を練るために会った。佐瀬は尋ねた。 「どうやって政治家を教育するんだ」。 岡崎は、 「各個撃破だ。ひとりひとり教育していこう」、と答えた。 「だれからやるんだ?」 佐瀬の問いに岡崎は、まだ衆院当選三回にすぎなかった若手議員の名を即答した。 「安倍晋三だ。あれはぶれない」。

 

 

 

1980年ごろ、外務省から防衛庁に出向していた岡崎のもとを、米海軍の司令官が訪ねてきた。中東ではイラン・イラク戦争が起きていた。米海軍司令官は、在日米軍横須賀基地からペルシャ湾のホルムズ海峡までパトロールする任務のつらさを語った。

 

米艦船の甲板は、夏場にはセ氏50度にもなる。船内に冷房はなく、夜でも温度は下がらない。石油運搬の要衝海域であるホルムズ海峡を通るのは、「〇〇丸」という名前がついた日本のタンカーが多かった。それを守る米海軍の水兵たちは司令官を、「どうして日本の自衛隊が守らないのか。どうして、俺たちだけがつらい任務をしないといけないんだ」と突きあげていた。

 

司令官は岡崎にこう告げた。 「私は日本の政治の都合上、自衛隊がタンカーを守れないことは分かっているつもりだ。しかし、水兵たちには分からないんだ。わたしはただ、水兵たちが怒っているということだけでも、岡崎に理解していてほしい」。

 

日本に原油を運ぶタンカーのほとんどは、パナマ船籍かリベリア船籍だった。日本の海運業者は、税金や人件費を節約するため、経費が安い国に便宜上、船を登録する。自衛隊は日本船籍のタンカーなら守れるが、外国船籍を守ると集団的自衛権の行使にあたり、憲法違反になる恐れがあった。

 

岡崎は司令官の愚痴を聞き、「こんなばかばかしい話はない」と憤る。集団的自衛権の行使を認めるべきだと思った瞬間だった。

 

 

 

それから約10年後、岡崎の憤りは、外務省の怨念へと変わっていく。 イラクがクウェートに侵攻したことを機に勃発した湾岸戦争。当時の外務省条約局(現・国際法局)は、憲法の解釈をつかさどる内閣法制局に対して、 「自衛隊に多国籍軍の負傷兵の治療をさせたいが可能か?」と問い合わせた。しかし、返ってきた答えは、 「憲法9条が禁じる武力行使の一体化にあたる」と、派遣を否定するものだった。結局、日本は130億ドルを拠出したが、「カネしか出さないのか」と、米国を中心とした国際社会から強い批判を浴びた。それはやがて外務省内で「湾岸戦争トラウマ」と言われるようになった。

 

 

■「日本は禁治産者だ」

 

2000年5月の衆院憲法調査会。安倍は、「日本は持っているが、使えない」とい集団的自衛権についての政府見解を激しく批判した。

「かつてあった禁治産者は、財産の権利はあるけれども行使できなかった。まさにわが国が禁治産者であることを宣言するようなきわめて恥ずかしい政府見解ではないか」。

 

日本の安全を考えたうえでの政策的な必要性よりも、国家が当然、持つべきものを持っていないのはおかしいという観念が優先しているようだった。そこには、祖父・岸信介の考えが見える。岸は、日本での内乱を米軍が鎮圧することを許した旧日米安全保障条約を「不平等だ」と考え、安保改定に踏み切った。集団的自衛権を行使できるようになると、日本も米国を守ることができる。日米同盟がより対等な関係となり、真の「独立国家」へと一歩近づく。

 

安倍が強烈に意識する岸の答弁がある。

「外国に出て他国を防衛することは憲法が禁止しておる。その意味で集団的自衛権の最も典型的なものは持たない。しかし、集団的自衛権がそれに尽きるかというと、学説上、一致した議論とは考えない」

1960年の参院予算委。首相だった岸は、憲法9条のもとでは、外国まで自衛隊を派遣して、その国を守る典型的な集団的自衛権を持つことはできないが、そうでない限定的な集団的自衛権ならば、行使できる可能性を示唆していた。

 

当時、集団的自衛権を行使できるかどうか、政府の憲法解釈は固まりきっていなかった。

「国際法上は保有するが、憲法上、行使できない」

という憲法解釈が次第に固まってくるきっかけは、ベトナム戦争だった。1965年に米軍が北ベトナムを爆撃して以降、戦争は泥沼化する。

「米国の戦争に巻き込まれるのではないか」という世論の不安を背景に、野党が自民党政権を追求した。

政権は、「集団的自衛権が行使できないため、ベトナム戦争に参戦できない」という理屈で、野党の批判をかわす答弁が1970年代にかけて積み重ねられた。そして、

「持ってはいるが、使えない」

という憲法解釈が1972年の政府見解、1981年の答弁書で固まる。

 

1960年の岸の答弁は、安倍にとって、まるで「遺言」のようなものだった。「持っているが、使えない」という憲法解釈を忌み嫌い、それを変える推進力になったと同時に、

「限定的にしか使えない」という理屈にもつながってゆく。

 

 

■小泉内閣で共闘した旧友

 

安倍は、衆院憲法調査会で集団的自衛権の行使容認を訴えてから二か月後の2000年7月、第二次森内閣で内閣官房副長官に就任した。首相官邸で執務する官房副長官は、将来有望とされる中堅議員の登竜門だ。安倍が権力の中心に近づいたことは、岡崎ら集団的自衛権の行使を求める勢力にとって、大きな好機だった。
「一緒に相談してやろう」
岡崎は安倍に集団的自衛権の行使容認に向けて動き出すよう促した。翌年、小泉純一郎に首相が代わったが、安倍は副長官に留任した。安倍と岡崎は、集団的自衛権を使えるよう憲法解釈を変えることを小泉に働きかけ続けた。

2001年5月の国会答弁で、小泉はついに踏み込む。
「憲法に関する問題について、世の中の変化も踏まえつつ、幅広い議論が行われることは重要であり、集団的自衛権の問題について、さまざまの角度から研究してもいいのではないか」。
しかし、9月、米国で同時多発テロが発生し、集団的自衛権を使えるように憲法解釈を見直してゆくという動きはとん挫した。岡崎は当時をこう振り返った。
「この最中に、集団的自衛権を持ち出すと混乱する。遠慮して引っ込めた」。

 

 

 

■官房長官時代から準備

 

安倍は2005年10月、官房長官として初入閣した。ポスト小泉を見据えながら、集団的自衛権の行使容認への動きを加速させる。
「集団的自衛権行使容認に向けて、官房長官のころから綿密に検討していた」。
第一次政権で首相秘書官を務めた井上義行(後、参院議員、現在は落選)は明かす。
井上は官房副長官、官房長官時代も安倍の秘書官を務めた。安倍の知恵袋になっていたのは、当時、外務事務次官の谷内だった。安倍と谷内は、北朝鮮による拉致問題をめぐり、北朝鮮に対して強硬姿勢をとる方針でも一致し、気脈を通じていた。

 

そして、安倍は2006年9月、首相に就任する。
満を持して2007年、有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を立ち上げた。
谷内は、後輩で国際法に詳しい外務省国際法局長の小松一郎と二人で、
「米艦船が攻撃された場合に自衛隊が応戦できるか」
「米国に向かう弾道ミサイルを撃ち落とすことができるのか」
など、「憲法上できない」とされてきた4つの類型を練り上げ、集団的自衛権の行使容認について、議論の流れを作り出した。
しかし、安倍は約1年で退陣、安保法制懇の議論は宙に浮いた。

 

憲法解釈の見直し議論は雲散霧消したかに見えた。
だが、安倍は2012年12月、民主党から政権を奪い返し、首相に返り咲く。
解釈変更に向けて、外務省との二人三脚の関係をさらに強め、外務省出身者を要路に配置して突き進むことになる。

 

「集団的自衛権を持たない国家は禁治産者だ」
という安倍の観念と、外務省の「湾岸トラウマ」の怨念。二つの「念」は集団的自衛権の行使容認に向けた大きなエネルギーとして結びついた。

 

 

 

「安倍政権の裏の顔~『攻防・集団的自衛権』ドキュメント」/ 朝日新聞政治部取材班・著 より

 

 

 

 

 

 

 

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