日本では、特に男性では、失業するということは社会人としての不適格者としての烙印を押されるというせっぱ詰まった心理状態に追い込まれることに、自殺の増加の大きな原因があるようです。こういうのって、「社会ダーウィニズム」と共通しているように思いません?
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一方、2003年のアメリカの失業率は6.0パーセントで、日本より高値だ。EU諸国においては、ドイツ10.3%、フランス9.5%など、日本よりずっと高い値を出している。しかし、こうした国々の自殺率は日本よりも低い。日本は、失業率はアメリカやEU諸国よりも同程度かそれより低いのに、自殺率ははるかに高い。ここに日本社会の持つ特殊な病理が存在している。つまり、日本においては、失業の持つ心理的な意味あいが、他の国々と比べてきわだって大きいのである。
日本においては、「失業」が意味するのは、男性にとって単に収入がなくなるという不安だけに留まらない、重要な社会的要因が存在している。すなわち男性の失業者は、社会的な不適格者とみなされる、ということだ。これが日本社会における暗黙のルールである。きちんとした正業を持たない男性は、「真っ当な人間」として認められないのである。
このような心理的風土は、失業と自殺の問題だけに限らない。最近の20年あまりの日本においては、「いじめ」、「不登校」、「ひきこもり」、「家庭内暴力」などの、他国にはほとんど見られない独特の心理と、そこから生じる、社会的な諸問題が多発している。これらは自殺の問題と共通の社会病理にもとづくものであろう。
日本経済を支えた終身雇用制も過去のものとなりつつある。代わって登場したのが「成果主義」とは名ばかりのリストラ社会だ。いまや中高年の首切りが日常茶飯事となっている。多くの会社では社員のリストラのために陰湿な方法が取られている。これはきわめて日本的な現象である。次に引用するのは、リストラのために社内で「隔離」され、うつ病を発症した、ある化粧品会社の社員の例である(朝日新聞、2003年、11月18日 夕刊)。
01年4月。当初「出向」と聞いていた子会社への辞令が、いつのまにか「転籍」という話に変わっていた。ちょうどゲーム会社「セガ」で、転籍を断った社員が窓のない小部屋に隔離された問題がニュースになっていたころだ。夜、インターネットで調べると、「法律的には本人の同意が必要」とあった。妻も「会社がおかしい」と言ってくれた。「この話は断ろう」と決めた。…(中略)…だが、副社長らの態度は違った。「社長から、天から、神さまから、与えられた条件の中で生きていくしかない。君の考え方は100万人に一人」。こんな言い方
をされても、それでも会社に残れるなら、と思い、5月に「人事部付」の移動を受け入れた。
出社してあぜんとした。転籍を断った別の社員と二人分の机は人事部ではなく、別棟の部屋の(外?)通路にあった。目の前はトイレ。社内連絡はメールが主なのに、机の上に電話もパソコンもない。上司はこういった。「君たちは読書をしてもらう。成果は問わないし、リポートもいらない。とにかく、朝から晩まで本を読んでくれ」。
さらし者の生活を強いられたこの社員は、数ヵ月後頭痛、吐き気などの症状に襲われ、いくら読んでも本の内容が頭に入らなくなる。その後さらに症状は悪化し、「朝、目がさめても起きられない」、「水が呑みたいのに目の前のコップを取る気力がない」という状態になり、死ぬことばかり考えるようになる。うつ病の典型的な症状である。
このような陰湿なリストラは珍しいケースではない。
自殺に関連する日本型の病理現象の例として、引責自殺がある。これは他国ではほとんど見られない現象である。前述したうつ病の発症と心理的に共通する点は多い。
2004年11月末、西武鉄道の筆頭株主であるコクドの総務部次長の遺体が山形県の海岸で発見された。自殺した故人は株式事務を担当しており、西武鉄道の大株主保有比率の虚偽記載問題に関し、事情聴取の最中であった。さらには西武鉄道の前社長も2005年2月、不祥事の責任を取り自殺している。このようにスキャンダルや汚職事件において、しばしば関係者の自殺がみられる。自殺するのは事件の中心人物より、中堅の管理職などの場合が多い。通常、引責自殺はスキャンダルを自ら恥じ、組織のために自分を犠牲にするものであると考えられている。
しかしこれには重大な誤解がある。自殺する本人の責任感や罪悪感は、マスコミによって実際の何倍にも増幅されているのだ。さらに組織によって彼は有言無言のうちに自殺する方向へと追いつめられている。引責自殺は自殺といいつつも、むしろ殺人に近いものなのである。決して潔く責任を取るというようなものではない点をよく理解しておく必要がある。
欧米では自殺を予防する取り組みが、1980年代から国家的な規模で行われている。その内容はうつ病に対する教育・啓蒙事業、マスメディアを用いた情報の提供、市民に対する冊子の配布、教師・生徒を対象にした自殺予防教育、一般開業医への教育、自殺未遂者への支援などである。しかし奇妙なことだが日本においては、実効のある自殺防止の取り組みがこれまでほとんど見られていない。むしろ自殺を助長する傾向さえある。
自殺者たちは黙殺され、見捨てられ、見殺しにされているのだ。自殺とは人生からのリストラである。会社でのリストラが容易になされているように、「人生からのリストラ」に関しても日本の社会は冷淡である。会社から、あるいは人生からリストラされようとしている人、またはされようとしている人は、多数からはみ出した者である。彼らに対しては冷淡に振る舞ってもかまわない。リストラされるくらいだから何か落ち度があったに違いない。「安全な立場にいる」日本人の多くはそう考えるわけである。
(ルナ註:フラッシュバックが…。わたしも会衆の長老とそのお局姉妹によって、これとおなじ辛酸を舐めさせられたのです…。涙が出てきました)
日本人一人一人は温厚な人々である。しかし、日本人が集団で行動するとき、彼らはしばしば考えられない無慈悲な行動をとる。集団となった日本人は、はじき出された者をゴミのように扱う。実際に暴力を振るわないまでも、「不祥事」を起こしたものに対して精神的に陰湿なプレッシャーをかけ続け、しばしば相手が自殺するまで続ける。これは報道の問題だけではない。多くの日本国民がそのような人物に対して、まるで日ごろのうっ憤をぶつけるかのように襲いかかる。こう言えば、2004年4月にイラクで起きた人質事件の被害者に対するバッシングを思い出す方も少なくないだろう。また、2004年3月、京都府で起きた養鶏場会社の会長夫妻の自殺も、このような例の典型である。彼らが鳥インフルエンザを放置したことは、非難されてもしょうがない。しかし、マスコミがよってたかって糾弾し、死に追いやるこの国の人情は異常というほかない。会長夫妻の自殺が報道されても、マスコミ報道の論調は「死んで当然」というものであった。しかし、冷静に考えれば、鳥インフルエンザによって多くの鶏は死んだが、日本で人間はひとりも感染していないし、もちろん死者も出ていないのである。
このように、多発する自殺者の背景には、日本型の統制社会、監視社会の存在がある。個人が突出することを嫌い、周囲の人々の生活や信条の個人的部分までチェックしないと安心できないという風潮は根強く残っている。この風潮は突出した者や、世間に「迷惑をかけた」者への「悪人情」へとつながってゆく。失業者に対する視線もこれに似たものがある。職を失った男性は、失業したというだけで、周囲からも家族からも、白い目を向けられる存在となる。失業すること自体が、社会の規範からはずれた「よくないこと」なのだ。人間としての価値観もゼロどころか、マイナスとなる。彼はいてはいけない存在となる。そして彼を守るべき家族や友人も、逆に叱責や非難を向けてくる。彼らが自殺を選んでも何の不思議もない。
(「人生からのリストラ」/ 岩波明/ 「世界」2005年9月号より)
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日本はもともと「統制社会」、「監視社会」だったのです。そこへなお一層、経済成長のための統制が強められれば、わたしたちの暮らしに希望は持てるでしょうか。上記の「人生からのリストラ」で紹介されている事件に対する日本人の仕打ちは、エホバの証人の諸会衆で起きている、長老などの権力者が行う陰湿ないじめに対する、「善良な」クリスチャンたちが示す反応と同じなのです。波風を立てるようなことをするから、ああなるんだ、でみんな無視を決め込みます。桑田けいすけ(字を忘れました)の自作自演曲に「真夜中のダンディー」という曲があります。その一節に、こういう詩があるのを今思い出しました。
♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
身を守ること、知らぬそぶりと、悪魔の魂、
隣の空は灰色なのに、(自分が)幸せならば顔をそむけてる…
後になってから反省しても、死に追いやられた人はもう帰ってきません。岩波教授は上記の記事の終わりをこのように結んでおられます。
「安定した雇用」、「安定した生活」が簡単に得られないものとなった今、豊かな生活への幻想を捨てるだけでなく、「悪感情、悪人情」をやめ、個性や自由を認める社会に日本を変えてゆくことが求められている。そのためには政治や行政が変わる必要があるのはもちろんだが、日本人自身の意識の変革が必要である。
日本の将来を本当に考えるのなら、今経済の成長に躍起になるよりも、日本人ひとりひとりの心理的成長を考えるべきではないかと、個人的に強く思っているのです。富や名声に執着し、競争に勝つために野蛮な哲学を大名義分に立てて、人間を踏みつけてのしあがって、そこに何を見いだすのでしょうか。「富を愛する者は収入に満ち足りることはない」のです。心が傷ついており、親に否定され続けたゆえの獏とした不安、孤独を埋め合わせようとして富や名声を追い求めるにしても、そこに求める愛と信頼のフィードバックを得られるのでしょうか。むしろ多くの人々を無慈悲に切り捨ててきたゆえの恨みと敵意に満ちているのを知り、ますます孤独を覚え、自分を守るためにさらに富と名声をふやそうとして、戦いは終わることがないのです。心理療法はアメリカで繚乱と咲き誇るように発達しました。治療を必要とする人々がそれだけ増えたからです。社会ダーウィニズムなどという独りよがりな哲学をあたかも真理であると思いこむようすはエホバの証人そっくりです。もっとも社会的ダーウィニズムはキリスト教と融合した創作物ですが。
私たち日本人がする贅沢ってせいぜい高級な電化製品を揃えることくらいでしょう。あと広い土地に豪勢なお屋敷を建てるとか…。それがほんとに豊かな暮らしなのでしょうか。わたしたちはバブルの時代にそのことを味わったのではないでしょうか。人間の愛情以上に自分の人生を豊かにするものはないのです。加藤先生がおっしゃるとおりです。人と人とのふれあいが人生を充足させるのです。岩波教授がおっしゃるように、「個性や自由を認める社会へと、日本人自身の意識改革が必要なのです」。でも小泉首相の思うことは違います。小泉首相は人間との付き合いの上手くできない人なのではないでしょうか。派閥政治を打倒すると演説をぶてたのは、人と協調できない性質であるように見受けられると、元民主党衆議院議員水島広子氏は書いておられます。だとすれば、小泉首相が弱者切り捨ての「小さな政府」による経済統制社会へと舵を向ける理由もわかるように思えます。つまり、彼は孤独で、「自分」というものを持っていない人なんです。三男にあんなに無慈悲に振る舞えるのも、人の心の機微、ふれあいというものを理解できず、ただ、自分の気持ちを分かれ、理解せよ、さもないと絶交だというアダルトチルドレンタイプの人柄なんじゃないでしょうか。でもこんな人に、わたしたちの生活や将来を委ねていてはならない。わたしたち国民は自分の生きることについて、他人任せにしていてはならないのです。もっと自分と、自分に関わることになるかも知れない多くの人々に関心を持ちましょう。他人の不幸が自分のしあわせというような生き方はもう終わりにしましょう。他人をしあわせにできて初めて自分にもしあわせがフィードバックしてくるんじゃないかと思います。平和とかしあわせとかは政治や宗教団体から与えられるものじゃなく、ひとりひとりが自分で創ってゆくものだと思います。そのようにして、個人から家族へ、家族から地域へ、地域から社会へと、根っこの方から広がって行くものではないでしょうか。
さいごに、こんなエピソードをご紹介します。
「99年の夏、アメリカから『経済と教育研究所』の所長という方が、大統領秘書官も経験した方だそうですが、その方が来日してこられ、道徳教育について教えてほしいと言うので、ホテルニューオータニで会い、3時間ほど話し込みました。話題は日本の教育改革にも及んだのですが、日本の改革を説明すると、彼は肩をすくめたのです。
『合衆国が以前にやって失敗したのと同じ “改革” を日本はこれから進めるのですね。いまさら、なぜ?』」。
(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)
幼いうちから、人間を選別しようという教育改革は、単に企業の側にとって利益を生み出せる人材を集めようというもので、平凡な人間には多くの教育を与えないでおこうという思想があるのです、その「教育改革」には。このことも必ず書きます。社会ダーウィニズムは行き詰りました。結局一部の人だけが生存権を豊かにできても、不満を持った人間が大勢になると、もう抑えきれなくなるのです。結局社会を不安定にしてしまいます。だから、すべての人に豊かさがめぐるよう、福祉の充実した社会を建てるためにも、企業活動は自由放任されていては失敗するのです。もっとも共産主義のような完全統制は問題外ですが。
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一方、2003年のアメリカの失業率は6.0パーセントで、日本より高値だ。EU諸国においては、ドイツ10.3%、フランス9.5%など、日本よりずっと高い値を出している。しかし、こうした国々の自殺率は日本よりも低い。日本は、失業率はアメリカやEU諸国よりも同程度かそれより低いのに、自殺率ははるかに高い。ここに日本社会の持つ特殊な病理が存在している。つまり、日本においては、失業の持つ心理的な意味あいが、他の国々と比べてきわだって大きいのである。
日本においては、「失業」が意味するのは、男性にとって単に収入がなくなるという不安だけに留まらない、重要な社会的要因が存在している。すなわち男性の失業者は、社会的な不適格者とみなされる、ということだ。これが日本社会における暗黙のルールである。きちんとした正業を持たない男性は、「真っ当な人間」として認められないのである。
このような心理的風土は、失業と自殺の問題だけに限らない。最近の20年あまりの日本においては、「いじめ」、「不登校」、「ひきこもり」、「家庭内暴力」などの、他国にはほとんど見られない独特の心理と、そこから生じる、社会的な諸問題が多発している。これらは自殺の問題と共通の社会病理にもとづくものであろう。
日本経済を支えた終身雇用制も過去のものとなりつつある。代わって登場したのが「成果主義」とは名ばかりのリストラ社会だ。いまや中高年の首切りが日常茶飯事となっている。多くの会社では社員のリストラのために陰湿な方法が取られている。これはきわめて日本的な現象である。次に引用するのは、リストラのために社内で「隔離」され、うつ病を発症した、ある化粧品会社の社員の例である(朝日新聞、2003年、11月18日 夕刊)。
01年4月。当初「出向」と聞いていた子会社への辞令が、いつのまにか「転籍」という話に変わっていた。ちょうどゲーム会社「セガ」で、転籍を断った社員が窓のない小部屋に隔離された問題がニュースになっていたころだ。夜、インターネットで調べると、「法律的には本人の同意が必要」とあった。妻も「会社がおかしい」と言ってくれた。「この話は断ろう」と決めた。…(中略)…だが、副社長らの態度は違った。「社長から、天から、神さまから、与えられた条件の中で生きていくしかない。君の考え方は100万人に一人」。こんな言い方
をされても、それでも会社に残れるなら、と思い、5月に「人事部付」の移動を受け入れた。
出社してあぜんとした。転籍を断った別の社員と二人分の机は人事部ではなく、別棟の部屋の(外?)通路にあった。目の前はトイレ。社内連絡はメールが主なのに、机の上に電話もパソコンもない。上司はこういった。「君たちは読書をしてもらう。成果は問わないし、リポートもいらない。とにかく、朝から晩まで本を読んでくれ」。
さらし者の生活を強いられたこの社員は、数ヵ月後頭痛、吐き気などの症状に襲われ、いくら読んでも本の内容が頭に入らなくなる。その後さらに症状は悪化し、「朝、目がさめても起きられない」、「水が呑みたいのに目の前のコップを取る気力がない」という状態になり、死ぬことばかり考えるようになる。うつ病の典型的な症状である。
このような陰湿なリストラは珍しいケースではない。
自殺に関連する日本型の病理現象の例として、引責自殺がある。これは他国ではほとんど見られない現象である。前述したうつ病の発症と心理的に共通する点は多い。
2004年11月末、西武鉄道の筆頭株主であるコクドの総務部次長の遺体が山形県の海岸で発見された。自殺した故人は株式事務を担当しており、西武鉄道の大株主保有比率の虚偽記載問題に関し、事情聴取の最中であった。さらには西武鉄道の前社長も2005年2月、不祥事の責任を取り自殺している。このようにスキャンダルや汚職事件において、しばしば関係者の自殺がみられる。自殺するのは事件の中心人物より、中堅の管理職などの場合が多い。通常、引責自殺はスキャンダルを自ら恥じ、組織のために自分を犠牲にするものであると考えられている。
しかしこれには重大な誤解がある。自殺する本人の責任感や罪悪感は、マスコミによって実際の何倍にも増幅されているのだ。さらに組織によって彼は有言無言のうちに自殺する方向へと追いつめられている。引責自殺は自殺といいつつも、むしろ殺人に近いものなのである。決して潔く責任を取るというようなものではない点をよく理解しておく必要がある。
欧米では自殺を予防する取り組みが、1980年代から国家的な規模で行われている。その内容はうつ病に対する教育・啓蒙事業、マスメディアを用いた情報の提供、市民に対する冊子の配布、教師・生徒を対象にした自殺予防教育、一般開業医への教育、自殺未遂者への支援などである。しかし奇妙なことだが日本においては、実効のある自殺防止の取り組みがこれまでほとんど見られていない。むしろ自殺を助長する傾向さえある。
自殺者たちは黙殺され、見捨てられ、見殺しにされているのだ。自殺とは人生からのリストラである。会社でのリストラが容易になされているように、「人生からのリストラ」に関しても日本の社会は冷淡である。会社から、あるいは人生からリストラされようとしている人、またはされようとしている人は、多数からはみ出した者である。彼らに対しては冷淡に振る舞ってもかまわない。リストラされるくらいだから何か落ち度があったに違いない。「安全な立場にいる」日本人の多くはそう考えるわけである。
(ルナ註:フラッシュバックが…。わたしも会衆の長老とそのお局姉妹によって、これとおなじ辛酸を舐めさせられたのです…。涙が出てきました)
日本人一人一人は温厚な人々である。しかし、日本人が集団で行動するとき、彼らはしばしば考えられない無慈悲な行動をとる。集団となった日本人は、はじき出された者をゴミのように扱う。実際に暴力を振るわないまでも、「不祥事」を起こしたものに対して精神的に陰湿なプレッシャーをかけ続け、しばしば相手が自殺するまで続ける。これは報道の問題だけではない。多くの日本国民がそのような人物に対して、まるで日ごろのうっ憤をぶつけるかのように襲いかかる。こう言えば、2004年4月にイラクで起きた人質事件の被害者に対するバッシングを思い出す方も少なくないだろう。また、2004年3月、京都府で起きた養鶏場会社の会長夫妻の自殺も、このような例の典型である。彼らが鳥インフルエンザを放置したことは、非難されてもしょうがない。しかし、マスコミがよってたかって糾弾し、死に追いやるこの国の人情は異常というほかない。会長夫妻の自殺が報道されても、マスコミ報道の論調は「死んで当然」というものであった。しかし、冷静に考えれば、鳥インフルエンザによって多くの鶏は死んだが、日本で人間はひとりも感染していないし、もちろん死者も出ていないのである。
このように、多発する自殺者の背景には、日本型の統制社会、監視社会の存在がある。個人が突出することを嫌い、周囲の人々の生活や信条の個人的部分までチェックしないと安心できないという風潮は根強く残っている。この風潮は突出した者や、世間に「迷惑をかけた」者への「悪人情」へとつながってゆく。失業者に対する視線もこれに似たものがある。職を失った男性は、失業したというだけで、周囲からも家族からも、白い目を向けられる存在となる。失業すること自体が、社会の規範からはずれた「よくないこと」なのだ。人間としての価値観もゼロどころか、マイナスとなる。彼はいてはいけない存在となる。そして彼を守るべき家族や友人も、逆に叱責や非難を向けてくる。彼らが自殺を選んでも何の不思議もない。
(「人生からのリストラ」/ 岩波明/ 「世界」2005年9月号より)
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日本はもともと「統制社会」、「監視社会」だったのです。そこへなお一層、経済成長のための統制が強められれば、わたしたちの暮らしに希望は持てるでしょうか。上記の「人生からのリストラ」で紹介されている事件に対する日本人の仕打ちは、エホバの証人の諸会衆で起きている、長老などの権力者が行う陰湿ないじめに対する、「善良な」クリスチャンたちが示す反応と同じなのです。波風を立てるようなことをするから、ああなるんだ、でみんな無視を決め込みます。桑田けいすけ(字を忘れました)の自作自演曲に「真夜中のダンディー」という曲があります。その一節に、こういう詩があるのを今思い出しました。
♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
身を守ること、知らぬそぶりと、悪魔の魂、
隣の空は灰色なのに、(自分が)幸せならば顔をそむけてる…
後になってから反省しても、死に追いやられた人はもう帰ってきません。岩波教授は上記の記事の終わりをこのように結んでおられます。
「安定した雇用」、「安定した生活」が簡単に得られないものとなった今、豊かな生活への幻想を捨てるだけでなく、「悪感情、悪人情」をやめ、個性や自由を認める社会に日本を変えてゆくことが求められている。そのためには政治や行政が変わる必要があるのはもちろんだが、日本人自身の意識の変革が必要である。
日本の将来を本当に考えるのなら、今経済の成長に躍起になるよりも、日本人ひとりひとりの心理的成長を考えるべきではないかと、個人的に強く思っているのです。富や名声に執着し、競争に勝つために野蛮な哲学を大名義分に立てて、人間を踏みつけてのしあがって、そこに何を見いだすのでしょうか。「富を愛する者は収入に満ち足りることはない」のです。心が傷ついており、親に否定され続けたゆえの獏とした不安、孤独を埋め合わせようとして富や名声を追い求めるにしても、そこに求める愛と信頼のフィードバックを得られるのでしょうか。むしろ多くの人々を無慈悲に切り捨ててきたゆえの恨みと敵意に満ちているのを知り、ますます孤独を覚え、自分を守るためにさらに富と名声をふやそうとして、戦いは終わることがないのです。心理療法はアメリカで繚乱と咲き誇るように発達しました。治療を必要とする人々がそれだけ増えたからです。社会ダーウィニズムなどという独りよがりな哲学をあたかも真理であると思いこむようすはエホバの証人そっくりです。もっとも社会的ダーウィニズムはキリスト教と融合した創作物ですが。
私たち日本人がする贅沢ってせいぜい高級な電化製品を揃えることくらいでしょう。あと広い土地に豪勢なお屋敷を建てるとか…。それがほんとに豊かな暮らしなのでしょうか。わたしたちはバブルの時代にそのことを味わったのではないでしょうか。人間の愛情以上に自分の人生を豊かにするものはないのです。加藤先生がおっしゃるとおりです。人と人とのふれあいが人生を充足させるのです。岩波教授がおっしゃるように、「個性や自由を認める社会へと、日本人自身の意識改革が必要なのです」。でも小泉首相の思うことは違います。小泉首相は人間との付き合いの上手くできない人なのではないでしょうか。派閥政治を打倒すると演説をぶてたのは、人と協調できない性質であるように見受けられると、元民主党衆議院議員水島広子氏は書いておられます。だとすれば、小泉首相が弱者切り捨ての「小さな政府」による経済統制社会へと舵を向ける理由もわかるように思えます。つまり、彼は孤独で、「自分」というものを持っていない人なんです。三男にあんなに無慈悲に振る舞えるのも、人の心の機微、ふれあいというものを理解できず、ただ、自分の気持ちを分かれ、理解せよ、さもないと絶交だというアダルトチルドレンタイプの人柄なんじゃないでしょうか。でもこんな人に、わたしたちの生活や将来を委ねていてはならない。わたしたち国民は自分の生きることについて、他人任せにしていてはならないのです。もっと自分と、自分に関わることになるかも知れない多くの人々に関心を持ちましょう。他人の不幸が自分のしあわせというような生き方はもう終わりにしましょう。他人をしあわせにできて初めて自分にもしあわせがフィードバックしてくるんじゃないかと思います。平和とかしあわせとかは政治や宗教団体から与えられるものじゃなく、ひとりひとりが自分で創ってゆくものだと思います。そのようにして、個人から家族へ、家族から地域へ、地域から社会へと、根っこの方から広がって行くものではないでしょうか。
さいごに、こんなエピソードをご紹介します。
「99年の夏、アメリカから『経済と教育研究所』の所長という方が、大統領秘書官も経験した方だそうですが、その方が来日してこられ、道徳教育について教えてほしいと言うので、ホテルニューオータニで会い、3時間ほど話し込みました。話題は日本の教育改革にも及んだのですが、日本の改革を説明すると、彼は肩をすくめたのです。
『合衆国が以前にやって失敗したのと同じ “改革” を日本はこれから進めるのですね。いまさら、なぜ?』」。
(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)
幼いうちから、人間を選別しようという教育改革は、単に企業の側にとって利益を生み出せる人材を集めようというもので、平凡な人間には多くの教育を与えないでおこうという思想があるのです、その「教育改革」には。このことも必ず書きます。社会ダーウィニズムは行き詰りました。結局一部の人だけが生存権を豊かにできても、不満を持った人間が大勢になると、もう抑えきれなくなるのです。結局社会を不安定にしてしまいます。だから、すべての人に豊かさがめぐるよう、福祉の充実した社会を建てるためにも、企業活動は自由放任されていては失敗するのです。もっとも共産主義のような完全統制は問題外ですが。