Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

アメリカン・コンサーヴァティズム(下):人間性回復のために(11)

2005年12月20日 | 一般
日本では、特に男性では、失業するということは社会人としての不適格者としての烙印を押されるというせっぱ詰まった心理状態に追い込まれることに、自殺の増加の大きな原因があるようです。こういうのって、「社会ダーウィニズム」と共通しているように思いません?

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一方、2003年のアメリカの失業率は6.0パーセントで、日本より高値だ。EU諸国においては、ドイツ10.3%、フランス9.5%など、日本よりずっと高い値を出している。しかし、こうした国々の自殺率は日本よりも低い。日本は、失業率はアメリカやEU諸国よりも同程度かそれより低いのに、自殺率ははるかに高い。ここに日本社会の持つ特殊な病理が存在している。つまり、日本においては、失業の持つ心理的な意味あいが、他の国々と比べてきわだって大きいのである。

日本においては、「失業」が意味するのは、男性にとって単に収入がなくなるという不安だけに留まらない、重要な社会的要因が存在している。すなわち男性の失業者は、社会的な不適格者とみなされる、ということだ。これが日本社会における暗黙のルールである。きちんとした正業を持たない男性は、「真っ当な人間」として認められないのである。

このような心理的風土は、失業と自殺の問題だけに限らない。最近の20年あまりの日本においては、「いじめ」、「不登校」、「ひきこもり」、「家庭内暴力」などの、他国にはほとんど見られない独特の心理と、そこから生じる、社会的な諸問題が多発している。これらは自殺の問題と共通の社会病理にもとづくものであろう。

日本経済を支えた終身雇用制も過去のものとなりつつある。代わって登場したのが「成果主義」とは名ばかりのリストラ社会だ。いまや中高年の首切りが日常茶飯事となっている。多くの会社では社員のリストラのために陰湿な方法が取られている。これはきわめて日本的な現象である。次に引用するのは、リストラのために社内で「隔離」され、うつ病を発症した、ある化粧品会社の社員の例である(朝日新聞、2003年、11月18日  夕刊)。



 01年4月。当初「出向」と聞いていた子会社への辞令が、いつのまにか「転籍」という話に変わっていた。ちょうどゲーム会社「セガ」で、転籍を断った社員が窓のない小部屋に隔離された問題がニュースになっていたころだ。夜、インターネットで調べると、「法律的には本人の同意が必要」とあった。妻も「会社がおかしい」と言ってくれた。「この話は断ろう」と決めた。…(中略)…だが、副社長らの態度は違った。「社長から、天から、神さまから、与えられた条件の中で生きていくしかない。君の考え方は100万人に一人」。こんな言い方
をされても、それでも会社に残れるなら、と思い、5月に「人事部付」の移動を受け入れた。
 出社してあぜんとした。転籍を断った別の社員と二人分の机は人事部ではなく、別棟の部屋の(外?)通路にあった。目の前はトイレ。社内連絡はメールが主なのに、机の上に電話もパソコンもない。上司はこういった。「君たちは読書をしてもらう。成果は問わないし、リポートもいらない。とにかく、朝から晩まで本を読んでくれ」。
 さらし者の生活を強いられたこの社員は、数ヵ月後頭痛、吐き気などの症状に襲われ、いくら読んでも本の内容が頭に入らなくなる。その後さらに症状は悪化し、「朝、目がさめても起きられない」、「水が呑みたいのに目の前のコップを取る気力がない」という状態になり、死ぬことばかり考えるようになる。うつ病の典型的な症状である。



このような陰湿なリストラは珍しいケースではない。

自殺に関連する日本型の病理現象の例として、引責自殺がある。これは他国ではほとんど見られない現象である。前述したうつ病の発症と心理的に共通する点は多い。

2004年11月末、西武鉄道の筆頭株主であるコクドの総務部次長の遺体が山形県の海岸で発見された。自殺した故人は株式事務を担当しており、西武鉄道の大株主保有比率の虚偽記載問題に関し、事情聴取の最中であった。さらには西武鉄道の前社長も2005年2月、不祥事の責任を取り自殺している。このようにスキャンダルや汚職事件において、しばしば関係者の自殺がみられる。自殺するのは事件の中心人物より、中堅の管理職などの場合が多い。通常、引責自殺はスキャンダルを自ら恥じ、組織のために自分を犠牲にするものであると考えられている。

しかしこれには重大な誤解がある。自殺する本人の責任感や罪悪感は、マスコミによって実際の何倍にも増幅されているのだ。さらに組織によって彼は有言無言のうちに自殺する方向へと追いつめられている。引責自殺は自殺といいつつも、むしろ殺人に近いものなのである。決して潔く責任を取るというようなものではない点をよく理解しておく必要がある。

欧米では自殺を予防する取り組みが、1980年代から国家的な規模で行われている。その内容はうつ病に対する教育・啓蒙事業、マスメディアを用いた情報の提供、市民に対する冊子の配布、教師・生徒を対象にした自殺予防教育、一般開業医への教育、自殺未遂者への支援などである。しかし奇妙なことだが日本においては、実効のある自殺防止の取り組みがこれまでほとんど見られていない。むしろ自殺を助長する傾向さえある。

自殺者たちは黙殺され、見捨てられ、見殺しにされているのだ。自殺とは人生からのリストラである。会社でのリストラが容易になされているように、「人生からのリストラ」に関しても日本の社会は冷淡である。会社から、あるいは人生からリストラされようとしている人、またはされようとしている人は、多数からはみ出した者である。彼らに対しては冷淡に振る舞ってもかまわない。リストラされるくらいだから何か落ち度があったに違いない。「安全な立場にいる」日本人の多くはそう考えるわけである。
(ルナ註:フラッシュバックが…。わたしも会衆の長老とそのお局姉妹によって、これとおなじ辛酸を舐めさせられたのです…。涙が出てきました)

日本人一人一人は温厚な人々である。しかし、日本人が集団で行動するとき、彼らはしばしば考えられない無慈悲な行動をとる。集団となった日本人は、はじき出された者をゴミのように扱う。実際に暴力を振るわないまでも、「不祥事」を起こしたものに対して精神的に陰湿なプレッシャーをかけ続け、しばしば相手が自殺するまで続ける。これは報道の問題だけではない。多くの日本国民がそのような人物に対して、まるで日ごろのうっ憤をぶつけるかのように襲いかかる。こう言えば、2004年4月にイラクで起きた人質事件の被害者に対するバッシングを思い出す方も少なくないだろう。また、2004年3月、京都府で起きた養鶏場会社の会長夫妻の自殺も、このような例の典型である。彼らが鳥インフルエンザを放置したことは、非難されてもしょうがない。しかし、マスコミがよってたかって糾弾し、死に追いやるこの国の人情は異常というほかない。会長夫妻の自殺が報道されても、マスコミ報道の論調は「死んで当然」というものであった。しかし、冷静に考えれば、鳥インフルエンザによって多くの鶏は死んだが、日本で人間はひとりも感染していないし、もちろん死者も出ていないのである。

このように、多発する自殺者の背景には、日本型の統制社会、監視社会の存在がある。個人が突出することを嫌い、周囲の人々の生活や信条の個人的部分までチェックしないと安心できないという風潮は根強く残っている。この風潮は突出した者や、世間に「迷惑をかけた」者への「悪人情」へとつながってゆく。失業者に対する視線もこれに似たものがある。職を失った男性は、失業したというだけで、周囲からも家族からも、白い目を向けられる存在となる。失業すること自体が、社会の規範からはずれた「よくないこと」なのだ。人間としての価値観もゼロどころか、マイナスとなる。彼はいてはいけない存在となる。そして彼を守るべき家族や友人も、逆に叱責や非難を向けてくる。彼らが自殺を選んでも何の不思議もない。

(「人生からのリストラ」/ 岩波明/ 「世界」2005年9月号より)

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日本はもともと「統制社会」、「監視社会」だったのです。そこへなお一層、経済成長のための統制が強められれば、わたしたちの暮らしに希望は持てるでしょうか。上記の「人生からのリストラ」で紹介されている事件に対する日本人の仕打ちは、エホバの証人の諸会衆で起きている、長老などの権力者が行う陰湿ないじめに対する、「善良な」クリスチャンたちが示す反応と同じなのです。波風を立てるようなことをするから、ああなるんだ、でみんな無視を決め込みます。桑田けいすけ(字を忘れました)の自作自演曲に「真夜中のダンディー」という曲があります。その一節に、こういう詩があるのを今思い出しました。

♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
 身を守ること、知らぬそぶりと、悪魔の魂、
 隣の空は灰色なのに、(自分が)幸せならば顔をそむけてる…

後になってから反省しても、死に追いやられた人はもう帰ってきません。岩波教授は上記の記事の終わりをこのように結んでおられます。

「安定した雇用」、「安定した生活」が簡単に得られないものとなった今、豊かな生活への幻想を捨てるだけでなく、「悪感情、悪人情」をやめ、個性や自由を認める社会に日本を変えてゆくことが求められている。そのためには政治や行政が変わる必要があるのはもちろんだが、日本人自身の意識の変革が必要である。

日本の将来を本当に考えるのなら、今経済の成長に躍起になるよりも、日本人ひとりひとりの心理的成長を考えるべきではないかと、個人的に強く思っているのです。富や名声に執着し、競争に勝つために野蛮な哲学を大名義分に立てて、人間を踏みつけてのしあがって、そこに何を見いだすのでしょうか。「富を愛する者は収入に満ち足りることはない」のです。心が傷ついており、親に否定され続けたゆえの獏とした不安、孤独を埋め合わせようとして富や名声を追い求めるにしても、そこに求める愛と信頼のフィードバックを得られるのでしょうか。むしろ多くの人々を無慈悲に切り捨ててきたゆえの恨みと敵意に満ちているのを知り、ますます孤独を覚え、自分を守るためにさらに富と名声をふやそうとして、戦いは終わることがないのです。心理療法はアメリカで繚乱と咲き誇るように発達しました。治療を必要とする人々がそれだけ増えたからです。社会ダーウィニズムなどという独りよがりな哲学をあたかも真理であると思いこむようすはエホバの証人そっくりです。もっとも社会的ダーウィニズムはキリスト教と融合した創作物ですが。

私たち日本人がする贅沢ってせいぜい高級な電化製品を揃えることくらいでしょう。あと広い土地に豪勢なお屋敷を建てるとか…。それがほんとに豊かな暮らしなのでしょうか。わたしたちはバブルの時代にそのことを味わったのではないでしょうか。人間の愛情以上に自分の人生を豊かにするものはないのです。加藤先生がおっしゃるとおりです。人と人とのふれあいが人生を充足させるのです。岩波教授がおっしゃるように、「個性や自由を認める社会へと、日本人自身の意識改革が必要なのです」。でも小泉首相の思うことは違います。小泉首相は人間との付き合いの上手くできない人なのではないでしょうか。派閥政治を打倒すると演説をぶてたのは、人と協調できない性質であるように見受けられると、元民主党衆議院議員水島広子氏は書いておられます。だとすれば、小泉首相が弱者切り捨ての「小さな政府」による経済統制社会へと舵を向ける理由もわかるように思えます。つまり、彼は孤独で、「自分」というものを持っていない人なんです。三男にあんなに無慈悲に振る舞えるのも、人の心の機微、ふれあいというものを理解できず、ただ、自分の気持ちを分かれ、理解せよ、さもないと絶交だというアダルトチルドレンタイプの人柄なんじゃないでしょうか。でもこんな人に、わたしたちの生活や将来を委ねていてはならない。わたしたち国民は自分の生きることについて、他人任せにしていてはならないのです。もっと自分と、自分に関わることになるかも知れない多くの人々に関心を持ちましょう。他人の不幸が自分のしあわせというような生き方はもう終わりにしましょう。他人をしあわせにできて初めて自分にもしあわせがフィードバックしてくるんじゃないかと思います。平和とかしあわせとかは政治や宗教団体から与えられるものじゃなく、ひとりひとりが自分で創ってゆくものだと思います。そのようにして、個人から家族へ、家族から地域へ、地域から社会へと、根っこの方から広がって行くものではないでしょうか。

さいごに、こんなエピソードをご紹介します。

「99年の夏、アメリカから『経済と教育研究所』の所長という方が、大統領秘書官も経験した方だそうですが、その方が来日してこられ、道徳教育について教えてほしいと言うので、ホテルニューオータニで会い、3時間ほど話し込みました。話題は日本の教育改革にも及んだのですが、日本の改革を説明すると、彼は肩をすくめたのです。
『合衆国が以前にやって失敗したのと同じ “改革” を日本はこれから進めるのですね。いまさら、なぜ?』」。

(「機会不平等」/ 斉藤貴男・著)

幼いうちから、人間を選別しようという教育改革は、単に企業の側にとって利益を生み出せる人材を集めようというもので、平凡な人間には多くの教育を与えないでおこうという思想があるのです、その「教育改革」には。このことも必ず書きます。社会ダーウィニズムは行き詰りました。結局一部の人だけが生存権を豊かにできても、不満を持った人間が大勢になると、もう抑えきれなくなるのです。結局社会を不安定にしてしまいます。だから、すべての人に豊かさがめぐるよう、福祉の充実した社会を建てるためにも、企業活動は自由放任されていては失敗するのです。もっとも共産主義のような完全統制は問題外ですが。
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アメリカン・コンサーヴァティズム(上):人間性回復のために(11)

2005年12月20日 | 一般
エホバの証人の社会は、階級意識がかなり強い。正規開拓奉仕を降りたり、奉仕報告に数字を書けなくなったり、集会に出席できないようになると、「援助の必要な人」になります。一気に「落伍者」になってしまうのです。それはつまり、人間の価値が肩書きによって測られてしまうという意味です。現に、結婚はエホバの証人同士でしなければ、エホバの証人の社会では高く評価されませんし、結婚そのものも、会衆内におけるその人の「立場」が見られます。


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*** 「幸せな家庭」/ 第2章  22‐23ページ 実りある結婚に備える ***

クリスチャン会衆内で責任を委ねられる人は,「ふさわしいかどうかまず試(さ)」れることになっています。(テモテ第一 3:10)あなたもこの原則を取り入れることができます。例えば,女性なら次のように考えることができるでしょう。「この男性の評判はどうかしら。どんな友達がいるのかしら。自制心を示すかしら。お年寄りをどう扱うかしら。どんな家庭で育ったのかしら。家族とはどんな行き来があるかしら。お金に対する態度はどうかしら。お酒を浴びるほど飲むかしら。気難しくて,暴力を振るうこともあるかしら。会衆ではどんな責任があって,それをどう果たしているのかしら。私はこの人を深く尊敬できるかしら」。―レビ記 19:32。箴言 22:29; 31:23。エフェソス 5:3‐5,33。テモテ第一 5:8; 6:10。テトス 2:6,7。

男性なら,こう考えることができるでしょう。「この女性は神に対して愛と敬意を表わすだろうか。家事を上手に果たすだろうか。この人の家族は私たちに何を期待するだろうか。この人は賢く,勤勉で,よく節約するだろうか。どんなことを話題にするだろうか。他の人の福祉に純粋な関心を抱いているだろうか。それとも,自分勝手でおせっかいだろうか。信頼できる人だろうか。頭の権に快く服するだろうか。それとも,強情で,もしかしたら反抗的だろうか」。―箴言 31:10‐31。ルカ 6:45。エフェソス 5:22,23。テモテ第一 5:13。ペテロ第一 4:15。

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エホバの証人の女性が男性を「ふさわしいかどうかをまず試すために」、
「どんな友だちがいるか」=近隣の長老や、巡回監督から良い評判をとっているかどうか、エホバの証人じゃない人々とつき合ったりしていないだろうか、会衆内のつき合いでも、より洗脳度の高い成員とつき合っているだろうか、という意味です。
「どんな家庭で育ったか」=家族に排斥者がいるか、エホバの証人の「教育課程」を尊重しているか、家族に少なくとも一人、開拓奉仕をしている人がいるか、などの意味です。
そして、「会衆ではどんな責任があって、それをどう果たしているか」=「奉仕のしもべ」や「長老」に任じられているかどうか、ということです。ですから、エホバの証人の男性は若い頃から、せっせと奉仕(=布教活動)に励みます。少なくとも「奉仕のしもべ」に任命されていないと、結婚するのにかなり不利だからです。これは本当です。

一方、エホバの証人の女性として、「結婚の用意ができているかどうか」は、
「神に対して愛と敬意を表すだろうか」=地上における神の代理である「組織」に忠実かどうか、何を見聞きしようが、どんな不利な事実、証拠を目にしようが、ひたすら「組織」に盲従できるかどうか、「長老」などの権威に盲目的に従えるかどうかという意味です。
「他の人の福祉に純粋な関心を抱いているかどうか」=権威者の顔を立てるために、組織を正当化するために、会衆に波風を立てさせないように、自分の希望や意欲、趣向、個性を完璧に抑圧できるかどうか、という意味です。他人の理想像を熱心に演じつづけられるかどうか、あわよくば他人の理想像になりきれるかどうか、という意味です。従ってエホバの証人には、うつ病に陥る人がものすごく多いのです。
「頭の権に快く服するか」=男性の一方的な支配に文句一つ言わず、伝統的な、「女は家庭に引きこもり、家事・育児以外のことに意欲を持つな、しかし布教活動はどんどんやれ。この方針に一切首を横に振るな」という基準を鵜呑みにできるかどうかという意味です。会衆で長老による理不尽きわまるパワーハラスメントが行われていようとも、一切批判せず長老を支持し、一緒になってパワーハラスメントに加われるかどうか、という意味です。
…という諸基準に照合されたしという内容の、この記述は一般的なマニュアルとなっているのです。これらは決して大げさな話ではありません。ですから額面どおりに受けとってください。

エホバの証人の社会には、封建的な序列への回帰指向が強いのです。厳格な序列によって人間関係や社会の安定を図ろうとするのです。人間を、伝統的に受け継がれてきた決まった枠型にはめ込むことによって、社会を静的に安定させようとするのです。個々人の意欲や個性を尊重すれば、個人は活発に動くので、社会も動的になる、個人個人が動的になると「利己主義に陥る」、現代の「混乱」はそれが原因だと考えます。人間を枠型にはめ込もうとすることは、じゃ、利己主義じゃないのかと反論しようとすると、いいや、それは道徳であり、美徳であると定義を言い換えるのです、彼らは。この種の指向を「保守主義」と言います。「伝統主義」と同じ意味ではありません。

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保守主義は「中世」から「近代」への過渡期に特有の社会関係の構造から生まれた現象である。保守主義は「伝統主義」、つまり旧来の生活様式を墨守(ぼくしゅ:[意味] 頑固に守ること)し、新しいものを警戒する、人間一般の傾向とは区別されなければならない。

「伝統主義」が、時代を超え、個々人の政治的信条と関わりなく存在する、いわば心理的、生理的なレベルの性向であるのに対し、「保守主義」はあくまでも歴史的、社会的現象である。伝統主義がほとんど純粋に反射的行為であるのに対して、保守主義は、社会の構造が変動しようとするのに抵抗しようとする、「反省的」、「意味指向的行為」である。

封建社会では、身分によって人生のありようが決定されており、その意味で自己完結された社会であった。そういう身分制度や、身分制度にもとづく封建的な諸集団の障壁が破られ、身分制度によって分断されていた国家社会全体を一体化ないし統一する方向へ動こうとする社会の変動が「近代化」である。

身分制度の諸階層の中から「進歩」派、「現状維持」派、「復古」派のいづれかを指向する動きが現れ、近代化によって社会の再統合を図ろうとして政治的指向を強め、それぞれの指向する意識が社会イデオロギーとして主張されるようになる。そのような動きが身分制度を解体し、階級を形成させる過程で、保守主義と「リベラル」という対立は生じる。

(「アメリカ 過去と現在の間」/古矢旬・著)

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エホバの証人社会はだから、「保守主義」です。ほとんど封建的と言えるほどの上下意識の強さ、カースト制度並みの人権感覚の低さ、これはもう「身分」と言っても差し支えないでしょう。人間の価値は個性や才能、希望する生き方の選択によってではなく、組織から授与される「肩書き」によって評価されるのです。封建社会が身分によって人間を測定するように。そしてそういう厳格な序列制度により、人間の意識、思考、感情と行動を限定することによって、社会の安定を図ろうとする、これはもう「封建指向の保守主義」です。わたしはそう受けとめています。

レーガン時代からこんにちのブッシュまで、アメリカは「ネオコン」が優勢な時代になったと言われています。ネオコンとは「Neo-Conservatizum(ネオ・コンサーヴァティズム)」の略です。「新しい保守主義」の意味です。このネオコンは、今引用した文章で言うところの保守主義とはちょっと異なっています。自由主義的な経済体制を擁護、正当化しようとする保守主義です。生き馬の目を抜くような競争を限りなく無制限に放任しようとするもので、企業側にとってたいへん都合の良い保守主義です。

こうした競争に疲れた人や、過激な競争についていけない人は「ドロップアウト」と見なされて自尊心を傷つけられるか、自信を失って社会に敵意を持つようになるか、あるいは…エホバの証人のようなカルト宗教にのめりこむようになるか、というところまで追いつめられるでしょう。アダルト・チルドレンとしての未熟さにまとわりつかれてきたわたしは、いろいろな心理療法の本に目を通しましたが、大方の心理療法はアメリカで発達しました。フロイトの精神分析も、ヨーロッパよりもアメリカで持てはやされました。「アダルト・チルドレン」、「共依存」ということばもアメリカのカウンセラーの間で生み出されました。自由放任の経済競争は人間からコミュニケーションの能力、人間を、子どもを、家族を愛する能力を失わせたのです。

そこへ、エホバの証人の伝道者の訪問を受け、

『しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい(2 tim. 3:1-5)』

…と聖書には書かれています。「終わりの日」には世の人々の心のありようはこのようになります。この「預言」は今日に成就しています。あなたもそのように思いませんか。しかし、怖れることはありません。人間を創造した神はより良い将来を約束しておられます。

『それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,神は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」(Rev.21:1-4)』。

神は人類の必要を真に顧みる王国によって、人類から嘆きや苦しみや病気や「死」をも拭い去ってくださいます。死なないようになるんですよ、すばらしい将来だと思いませんか。あなたもこの祝福に与ることができます。この冊子を一緒に読んでみましょう…

…という布教の際の「会話する話題」の基本中の基本、もっとも幼稚な話でも、自信を失い、自尊心を傷つけられ、自分を取り巻く孤独という現実から逃れたいと思っている人は、その話に乗るのです。


今、日本が目ざすのはアメリカ型の経済体制です。日本ではすでに企業中心社会は確立されており、労働者に対してさまざまな心理的な破壊を加えてきました。ですから、幼児虐待や親子レイプなど常識はずれの事件が茶飯事になっています。企業による人権を尊重しない人間管理は行き届いてはいたものの、それでも終身雇用制のように人に優しい習慣も残されてはいたのです。ですがバブル崩壊の影響と、能力主義、成果主義も導入され始めたことなどで、それも崩れ去りました。これ以上アメリカに追従すれば、ますます人間性の破壊は進むでしょう。憲法の男女平等の規定を改定して、女性を家に押し込めようとするなら、母子密着のもたらすこどもの種々の心理的生育の阻害、児童虐待やキッチンドランクはますます増えてゆくでしょう。わたしたちは「自由」という表現に騙されているのです。自民党や官僚が「自由」と言うときに思っていることと、わたしたちが「自由」と聞いて受けとめている内容はぜんぜん違うものです。ぜんぜん違うけれども、「自由」と言われているのでそれで勝手に合点合点しているのです。今、日本で進められているのは革新的な改革ではなく、アメリカ型の「新保守」化なのです。

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南北戦争後の新しい産業主義的階級社会の登場は、それまでの保守主義とはまったく異質の、はるかに持続的なもうひとつの保守主義の伝統を創出した。それは、いうなれば新しい産業主義を生み出したダイナミズム、すなわち「競争」と「放任」そのものの維持をめざす保守主義であった。

あらゆる戦争と同じく、南北戦争も公権力による社会経済の統制強化を伴っていた。ましてやこの戦争は、南北両地域の市民社会それ自体の存亡をかけた、それゆえ市民社会全体を巻き込んで戦われた最初の「全体戦争」であった。両地域の政府はともに勝利に向けて、産業を振興し、人的、物的資源の拡大をはかり、それらの利用を統制し、可能な限り戦争目的に動員した。

戦争の終結は、そうした公権力による市民社会への統制の終結を、すなわち産業社会からの政府の撤退を意味していた。とりわけ、勝利した北部における戦後の急激な産業発展は、こうして国家統制から解き放たれた経済資源の民需への集中によって可能となった。1870年代から世紀の転換期ころまでの30年間のアメリカは「金ぴか時代」と呼ばれているが、それはまさに個人や企業の自由な競争を顕著な特色とする一時代に他ならなかった。

その時代、「自由競争」と「自由放任」は、政治が経済に従属するようになり、政治と経済の癒着をうながしつつ、企業の無際限の拡張を可能にし、貧困や格差の拡大を助長する結果となった。こうした社会における勝利者とは、いうまでもなく大企業であり、それを所有して信じられないような巨額の富を手にした「泥棒貴族」であり「百万長者」たちであった。1890年代までにアメリカの富の7割以上は、彼らを含む全人口のわずか9パーセントの手に集中するに至った。

この極端な貧富の格差を、社会の現実といして正当化し、この状況を生み出した社会的な倫理観や非情な規範を擁護したのが、新しい「保守主義」である。



1859年、チャールズ・ダーウィンは「種の起源」において、何百万年にもわたる生物界の進化を、刻々と変化する自然環境における個々の生物種の「生存競争」と、環境に不適応な種の「自然淘汰」から説明する画期的な学説を発表した。そしてイギリスの哲学者ハーバード・スペンサーは、この進化論を現実の人間社会に適用し、社会ダーウィン主義の原型を創出した。スペンサーは、人間社会もまた「生存競争」と「不適者の淘汰」という進化の法則を免れないという。しかし、彼はダーウィンから一歩踏み出し、「進化」は不適者を淘汰し、適者を生存させる結果となるのだから、単なる変化ではなく、それはより良い状態に向かう変化、すなわち「進歩」にほかならないと主張する。

進化論は、キリスト教の創造説という根本的な前提を覆す無神論の科学的根拠として、キリスト教世界を震撼させたのだが、スペンサーはこの進化論にもとづくダーウィン主義に手直しを加え、キリスト教との妥協をはかっている。つまり彼は、淘汰されるべき不適者は「邪悪かつ不道徳な人間である」と宗教的な解釈を加えた上で、神は邪悪で不道徳な人間=不適者を淘汰によって排除しておられると言うようになった。ダーウィニズムによって神の存在を示唆するという離れ業をやってのけたのである。この、生物学と社会科学と宗教を結合させたスペンサー流の社会ダーウィン主義はイギリスよりはむしろアメリカにおいて大流行するのである。それは、急速に勃興しつつあった産業社会の現状を肯定するイデオロギーとして受け入れられたからであった。

アメリカの成功したビジネスマンにとって、社会ダーウィン主義こそは「成功」のもっとも説得的な社会科学的な説明と映った。社会ダーウィン主義は、産業社会における個々人の成功と失敗を、社会環境への適応能力の有無の客観的な物差しであると示唆することによって、成功(すなわち手段を選ばない富の獲得)につきまとう後ろ暗さを払拭し、失敗(すなわち貧困)の原因を失敗者自身の無能力に帰する論理であった。

ある共通の環境内において、適者(=成功者)が生存することが社会全体の「進歩」をもたらすのであれば、淘汰の過程にはできるだけ人為や恣意の介入を排除しなければならない。
(ルナ註:社会ダーウィン主義にもとづいて考えてゆけば、財産を失った人や無産の労働者たちにふつうに暮らす機会を与えるよう、福祉政策等を充実させて救済すること、あるいは復活の機会を与えること…を排除しようという考えに至る、という意)
なぜならば、人為的介入が「不適者」をすくい上げると、結果として社会の「進歩」を妨げることになる。一時の正義感や限られた平等感覚によって貧困者を人為的に救おうとするような政策は、客観的な淘汰の原則を恣意的に(思いつきで判断して、の意)かく乱し、進歩に逆行することに等しい。しかも邪悪で不道徳な不適者を排除しようとする神のご意志にも反することになる。環境への適応競争、すなわち企業活動、経済活動は自由放任されなければならない。

こうして社会ダーウィン主義は、市場という客観的社会環境における自由競争を擁護する保守主義の中核的イデオロギーを成すに至った。そしてアメリカにおいて確立されたこの保守主義こそは、貧困対策や福祉政策というかたちをとった、公権力による市場環境への介入を原理的に退ける「小さな政府」論のさきがけとなった。それは、秩序や安定や権威や忠誠を重んじる以前の意味での保守主義とは決定的に異質なイデオロギーであった。まさに、それは野放図な自己利益の追求、不断の競争、競争者間の対立と敵意、新興成金の頻繁な交代、貧富の格差の拡大、労働者への搾取、こうした側面をすべて含めた資本主義的市場社会における「勝者」、企業側のための現状擁護論であった。

(「アメリカ 過去と現在」/ 古矢旬・著)

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この記述は、19世紀末と20世紀初頭のアメリカ社会の「保守思想」についての記述ですが、今現在の日本の政策を特徴づける要素がいくつも見出されませんか。社会で「成功」した者が生物学的に「適格」であり、しかもキリスト教の観点からも「正義」である、と20世紀初頭のアメリカ人は信じようとしていたのです。それは企業活動を妨げるあらゆる足かせを取り除く信条でもあったのです。お金を稼ぐ人たちの都合の良い信条でした。小泉首相の「構造改革」も経済成長最優先の舵取りです。最近は医療制度構造改革試案が発表され、老人医療にしわ寄せが行くというニュースが流されています。今、日本を動かしている人々にとって、国民は国家経済のための駒にしか過ぎないのでしょう。エホバの証人の組織と同じ考え方です。

聖書には、「富には人を欺く力がある」と書かれています。どんなふうに欺くのでしょうか。加藤諦三教授の著書、「無名兵士の言葉」にはこのようなことが書かれていました。

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アメリカと日本がまったくちがった国だということを理解しないで、「これからは成果主義だ」という。アメリカ人と日本人がまったくちがった人間だということを理解しないで、日本経済はグローバル化についていかなければならないという。日本も勝ち組と負け組みに分かれるという。

世界に誇れる日本文化を(ルナ註:個人的な考えですが、日本国憲法も世界に誇れる憲法だと思います。)壊してアメリカ式のビジネスをすることが、まるで先進的であるかのようなことが言われている。名馬にイノシシの生きかたを力ずくで強いて、名馬を殺そうとしている今の日本。

そうした中では、当然一方に無気力が広がり、他方で力や富や成功への願望が肥大化する。勝ち組も負け組みも不幸になる。「肥大化」というのは触れ合いがなくて欲だけがあるときの状態。欲望以外のことが欠落しているのが「欲望の肥大化」である。欲望の満足の中に人生のすべてを求めた。それが欲望の肥大化である。そのように生きれば、人々が立派だと評価、賞賛するだろうと思っているのだ。

どんなに成功しても、心が触れ合っていなければ人はしあわせにはなれない。心のふれあいが人生の価値であり、意味であり、人に充足をもたらすものなのだ。フランクル(「夜と霧」の著者。精神科医。)が「成功と絶望」は矛盾しないと言ったのは、成功したけれども、人間と人間の心のふれあいを失っている人がいる、という意味であろう。強迫的に富や名声を追及する人は、心の傷ついた孤独な人である。いつになっても人を好きになれない。傷つくのが怖くて、人を好きになれない。

(「無名兵士の言葉」/加藤諦三・著 )

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大きな財産や名声は、「傷ついて、孤独な人」のその傷の痛みを麻痺させる力がある、と言っておられます。そして今の日本はそのような人々の「富と名声の追求」に役立つような方針である、と書いておられます。しかし、「どんなに成功しても、人間との心のふれあいがなければ、人は幸せになれない」。聖書もこのような一文を掲載しています。「ただ銀を愛する者は銀に満ち足りることはなく、富を愛する者は収入に満ち足りることがない。これもまた虚しい(伝道の書 5:10)」。「お金を稼ぐことには際限がない。しかし人生の時間は限られている(「豊かさの条件」/ 暉峻淑子・著)」。人を愛し、心を通わせるための時間は無制限ではないのに…。「こうした中では、一方に無気力が広がる」。バブル崩壊以後、小泉時代の現在まで、深刻になっているのが、自殺者の増加です。

今現在、純市場原理主義のアメリカでさえ、「社会ダーウィニズム」という途方もなく野蛮なイデオロギーをそのまんま公に主張されることはありません。それどころか、アメリカの失業率は6.0パーセントで日本より高いのに、自殺者は日本に比べてずいぶん低いのです。日本の男性の自殺率は35.2パーセントで世界第11位です。日本より上位の国はスリランカを除き、みな混迷している旧社会主義国です。日本の女性の自殺率は13.4パーセントで世界第3位です。アメリカでは男性17.1パーセント、女性4.0パーセントです。日本における男性の自殺率は失業率の増加と強い相関関係にあることが明らかにされています。アメリカでこのように失業が原因での自殺が少ないのは、自殺予防の取り組みが徹底していること、それに一度失敗しても何度でもやり直しが可能であるという心理的・社会風土がしっかりしているからです。

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さあ、お葬式! どうしよう…

2005年12月04日 | 一般
エホバの証人の社会から、世間へ出て困るのが、常識知らずのこと。お葬式の手順なんて、まったく教わらなかったですよね。そこで今回は、近々エホバの証人をやめることにされた方々、やめて間もない方々のために、お葬式のマナーについて、基本的なことをご紹介します。地域によって、また家族によって多少は差異があるでしょうけれども、ごく一般的なマナーを、2冊のマナー教本から引用します。

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《訃報を受けたとき》

訃報は時間を問わず連絡されます。早朝でも夜中でも。知らせを受けたら、まず遺族の悲しみを思いやり、しめやかにお悔やみのことばを述べます。

「とても残念なことです…。お悔やみ申し上げます」

そして、以下の事項を確認します。

だれが、いつ亡くなったのか。
通夜、葬儀、告別式の日時と場所。
宗教の確認。
さらに伝えてほしい連絡先。

正確に聞き、自分の到着する時間を伝えて電話を切る。

訃報の電話で、死因や臨終の様子などをあれこれ聞くのはタブー。先方は通夜や葬儀の準備に忙しくしているはずなので、話し込んだりせず、簡単なあいさつをするだけにとどめます。




《お通夜》

通夜の服装は自由に。
「亡くなるのを待っていたみたい」という理由で、通夜に喪服を着て行くべきではない、というのが本来の考え方です。通夜は儀式ではないので、地味できちんとしたものであれば自由でいいのです。

でも、お葬式に出られないので、お通夜で個人と最後のお別れをしたいという事情であれば、喪服で参列するでしょうし、仕事先から駆けつけた人なら、外出着にならざるを得ません。

仕事が終わってからお通夜に参列しなければならないときには、地味な色のスーツにホワイトシャツを着用し、仕事が終わったら黒のネクタイにしめかえるだけでOKです。黒の腕章は遺族側がするもので、参列者がするものではありません。

服装より、気持ちや事情を尊重して、寛大な目で見てあげましょう。

近親者や、普段から身内同様のつきあいをしている友人・知人であるなら、訃報を聞いたら何をおいても、「とりあえずの弔問」にかけつけます。突然の悲しみに見舞われた遺族を慰め、通夜の準備を手伝うための訪問です。ですから女性ならエプロンを持参するなどの心配りをします。

職場関係者なら、職場からの手伝いは何人くらい必要かを尋ねておくのが、最初に弔問した人の役目です。

個人とは親しくなかったけれども、ご近所だったり、家族とも顔見知りだったという関係であるなら、玄関先でお悔やみを述べて失礼してもかまいません。日ごろから親しい間柄であったなら、お悔やみを述べた後で、手伝いを申し出るようにします。

親しい関係があるのに、訃報を受けた当人がとりあえずの弔問に行けないときには、当人に近い関係者が代理として弔問に出向き、お悔やみと代理の理由を簡単に述べておくと良いでしょう。

個人と親しかった場合は「どうぞお別れを」と、個人との対面を勧められることがあります。そんなときには「ありがとうございます。では一目だけ…」と、謹んでお受けします。自分から対面を申し出るのはマナー違反です。逆に遺族から対面を勧められても最後のお別れがつらいときには、「悲しさが増しますから遠慮させていただきます」などとその旨を述べ、最初から辞退したほうが失礼になりません。

対面の方法
1.対面を勧められたら、故人の枕もとに正座して一礼する。
2.遺族が白布を取って「どうぞ」と言ってから、対面をする。
3.故人の顔を見つめて、深く一礼し、仏式の場合には合掌する。
4.対面が終わったら、少し後ろに下がり、遺族に一礼してから席を立つ。

すぐに弔問できないときには、すぐに弔電を打ちます。ただし、弔電は略式のマナーですから、後日、本人が弔問を行うか、ていねいなお悔やみ状を出すのが礼儀です。弔電は葬儀・告別式の前日までに、喪家(そうか)、または告別式場に届くよう手配します。

弔電の申し込みは、8時から22時までなら、局番なしの115番、NTTの支所や営業所、インターネット、i モードから申し込みができます。宛名は喪主にするのが一般的ですが、喪主の名前が分からないときには「ご遺族様」としてもかまいません。差出人の名前はフルネームにするのがマナーです。電報料金は、電報料+台紙料:税別500円~税別5000円まで。

電文は例文が用意されていますが、忌み言葉を避けます。お悔やみに、遺族への慰めのことばを添えるようにします。

文例:
・生前のご厚情に深く感謝するとともに、故人のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。
・ご逝去の知らせを受け、ただただ驚いております。ご生前のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈りいたします。
・○○さまのご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
・突然の悲報に接し、驚いております。残されたご家族の皆様のご心情をお察しし、すぐにもお慰めに飛んでまいりたい気持ちですが、、遥かな地よりご冥福をお祈りいたします。etc...

お悔やみ状はやむをえない事情で通夜、葬儀、告別式に出席できないとき、弔問の代わりに書きます。初七日までに着くようにします。はがきは使いません。シンプルな白い便箋と封筒を使い、毛筆で薄墨で書くのが正式とされています。

お悔やみ状の書き方:
1.前文は省略する。「前略」などの時候のあいさつは省略し、すぐに追悼のことばを述べる。
2.驚きや悲しみの気持ちを伝える。凝った内容は避け、素直に悲しみを表し、故人の思い出、お世話になったことへの感謝のことばと、遺族へのいたわりの気持ちを伝える。
3.参列できないことへのお詫び。やむをえない事情を簡潔に述べ、お詫びのことばを添える。
4.供物(くもつ)、供花、香典を送る場合は、その旨を、同封か別送かをも含め、明記する。
5.結びのあいさつ。冥福を祈ることばを述べる。追伸はマナー違反。

文例:
「お父さまの訃報に接し、ただただ驚き、いまだに信じることができません。
 お父さまには、お酒を酌み交わしながら将来のことなどを相談したり、旅行などもご一緒し、ほんとうにかわいがっていただきました。ご持病がおありになるとは伺っておりましたが、必ずやご快復なさるものと信じておりました。いろいろお世話になりながら、ご恩返しもできないままになってしまい、まことに残念でなりません。ご遺族の皆様の悲しみもいかばかりかとお察しいたしますが、どうぞお身体だけは大切になさいますようお祈り申し上げます。
 本来ならばすぐにでもお悔やみに伺いたいところですが、なにぶん遠方ゆえ書中にて失礼いたします。
 同封いたしましたもの、心ばかりではございますが、ご霊前にお供えくださいますようお願い申し上げます。
 ご冥福をお祈り申し上げます」

《忌み言葉》
不幸をイメージするもの:苦しむ、九、浮かばれない、など。
不幸が重なることをイメージするもの:重ね重ね、たびたび、かえすがえす、など。
不幸が再び訪れるイメージのもの:再び、続いて、追って、など。
直接的なことば:死、死ぬ、死亡、死去、など。


《通夜ぶるまい》
通夜でお焼香をすませたあと、別室での通夜ぶるまいという飲食をすすめられることがあります。よほどの事情がない限り、遠慮してはいけません。通夜は故人にとってこの世での最後の夜ということになります。通夜ぶるまいを断るということは、故人との最後の食事を断ることです。わずかでも箸をつけるようにしますが、長居をしたり呑みすぎは禁物です。




《お香典》

お香典はお通夜か告別式のいずれかに参列するときに持参します。
不祝儀袋は宗旨によって違います。ですから、訃報を受けたときには必ず、宗旨を確認しておくようにします。

仏式なら蓮の花が印刷されたものを使い、
神式には水引が白黒か銀の不祝儀袋、
キリスト教の場合にはゆりの花と十字架が印刷されたもの…を使うのが決まりです。

不祝儀袋は、表書きも宗旨によって違います。

仏式では、浄土真宗を除いては、四十九日の法要までが「御霊前」、
それ以降は「御仏前」、法要のときには「御香料」と書きます。

神式では、「御榊料」や「玉串料」、
キリスト教式では「御花料」です。

しかし、無地の袋に「御供料」と書くと、「故人の好きだったものを供えて」という意味になり、仏式でもキリスト教式でも、無宗教のお別れの会や偲ぶ会でもオールマイティに使えて便利です。



仕事の都合で、どうしても通夜や葬式に参列できないときには、参列する人にお香典を預けて、代わって渡してもらっても差し支えありません。ただ、それだけではそっけないので、別途弔電を打ったり、後日遺族にお悔やみの手紙を送って、弔意を伝えてはいかがでしょう。お香典を預かった人は、預けた人の分の会葬御礼は忘れずに受けとって、あとで渡すようにします。

お香典は必ずふくさに包んで持参します。紫色のふくさなら慶弔どちらにも使えます。また挟んで入れるだけの「挟みふくさ」なら慶弔によって包み分ける面倒もないので重宝します。お香典袋を、たたんだふくさの上にのせて差し出すようにすれば、相手に対する配慮が感じられます。

受付ではまず、「このたびはご愁傷さまです」と手短にお悔やみを述べ、芳名帳に楷書で名前をフルネームで書きます。つぎにお香典を名前が先方に向くように両手で差し出し、「どうぞご霊前にお供えください」とひと言添えます。受付がない場合には、焼香前に祭壇の受付台に供えます。このときも名前が霊前に向くように差し出します。遺族側は、「お預かりいたします」、「供えさせていただきます」と答えて受け取ります。「頂戴します」、「いただきます」は礼を失しています。

お香典袋の名前は必ずフルネームで書きます。ゴム印を押したり、ボールペンで書くのはとても失礼なことです。字が下手でも、筆ペン、またはサインペンを使い、丁寧に書きます。弔辞のときには薄墨を使います。社名や肩書きは名前の右上にやや小さめに書きます。

《香典の金額の目安》

       20代   30代   40代   50代   60代以上
祖父母   1万円   1万円  1万円   3万円   サンプルなし
親             5万円  10万円  10万円  10万円
兄弟           3万円   5万円   5万円   5万円
叔父叔母  1万円   1万円  1万円    3万円   3万円
他の親戚  1万円   1万円  1万円   1万円   2万円
職場関係  5千円   5千円  5千円   5千円   1万円
社員の家族 3千円   5千円  5千円   5千円   5千円
取引先    5千円   5千円  5千円   1万円   5千円
友人関係  5千円   5千円  5千円   5千円   5千円
隣人近所  5千円   5千円  5千円   5千円   5千円

(2001年/社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会調べ)

香典は通夜、告別式で何かと負担のかかる遺族に対して、「どうぞ故人にささげるお香をお求め下さい」の意味を込めて贈るお金です。当然、故人や遺族との関係によって金額は変わってきます。迷ったときには助力の気持ちを込めて、はじめに思った額よりも少し多めに包むよう心がけるとよいでしょう。

ただ、金額は多ければいいというものではありません。先方を恐縮させてしまわないよう相応の額を考えましょう。親族への香典など、高額になるときには、親族間で相談をして周囲とのバランスを取るのが無難です。会社関係の不幸でも、上司と同額、あるいはそれ以上の金額では失礼に当たるので注意しましょう。

親しいグループや職場仲間が集まって連名で香典を出す場合もありますが、せいぜい3~4人が限度。故人と特別に親しかった場合などは、グループからはずしてもらって、個人的に香典を出してもかまいません。

金額は4と9にかかわる数字は避けます。

《代理》

夫の代わりに妻が、上司の代わりに部下が出席するときには、芳名帳には、妻は夫の、部下は上司の名前を書き、その左下に(代)と書き添えます。上司から名刺を預かってきた場合には、名刺の右上に「弔」と書き、左下を折り曲げて、お香典袋に添えて渡します。近頃は折り曲げないようですが。出席した代理人自身の名刺を渡すときには、名刺の右上に「代理」と書きます。



《遺族に会ってお悔やみを言うとき》

「さぞおつらいでしょう」、「さぞ悲しいでしょう」など、「つらい」「悲しい」ということばは絶対に使わないようにします。つらく悲しいのは当然ですから、あらためて言うと遺族のつらい思いをさらに増幅させかねません。「かえすがえすも残念です」はもちろん、忌み言葉が使われているのでダメです。

「○○さまが亡くなられて、残念なことでございます。心からお悔やみを申し上げます」と言いましょう。「ご冥福をお祈りします」は仏教のことばです。仏教徒かどうか分からないときには「お悔やみ」というのがベストです。「お悔やみ」は仏教でも使えます。

受付を済ませ、祭壇のある部屋に案内されたら、先客に会釈をして入室し、喪主や遺族にお悔やみを述べます。遺族と面識がない場合には、「仕事でお世話になっていた○○です」などと、故人との関係も簡単に説明します。先客に従って祭壇の前に進み、霊前に線香をあげて拝礼し、合掌します。僧侶が入場し、読経が始まると、まもなく焼香が開始されます。読経が終了、僧侶が退出したのち、喪主のあいさつがあり、通夜が終了します。




《式の流れ》

葬儀:
参列者入場→僧侶入場→開会の辞→読経→弔辞・弔電朗読→遺族焼香→閉会の辞

告別式:
開会の辞→一般会葬者焼香→僧侶退場→閉会の辞→喪主のあいさつ、出棺。




《焼香の仕方・仏式》

立礼焼香:
1.順番が来たら次の人に軽く一礼して前に進み、遺族と僧侶に一礼する。祭壇のほうに向き直り、遺影に一礼して合掌する。

2.抹香を右手の親指と人差し指、中指でつまみ、宗派によっては額の位置まで上げる。次に、つまんだ抹香を香炉に静かに落とす。

3.最後に合掌し、一歩下がって遺影に一礼。もう一歩下がって遺族と僧侶に一礼して下がる。

座礼焼香:
1.順番が来たら中腰で静かに前へ進み、座布団に座さない位置で、遺族と僧侶の前でいったん正座をして一礼する。

2.その位置で、祭壇のほうへ向き直り、遺影に一礼してから膝でにじるようにして座布団に座り、合掌する。

3.立礼と同様の方法で焼香し、合掌する。座布団からにじり降りて遺影に一礼、遺族と僧侶のほうに向き直って一礼し、席に戻る。

線香焼香:
1.祭壇の前に進んで、遺族と僧侶に一礼。次に遺影に一礼し、右手で線香を一本取り、火をつける。

2.左手で線香をあおって火を消し、香炉に立てる。息を吹きかけたり、線香を振って消すのは無作法。

3.鈴があれば、鳴らして合掌。遺影に一礼し、次に遺族と僧侶に一礼し、席に戻る。

回し焼香:参列者が多いときに行われるお焼香。
1.香炉が回ってきたら、次の人に「お先に失礼します」の意味で一礼する。

2.香炉を自分の正面に置いて、祭壇に向かって軽く一礼し、抹香をつまんで、立礼の方法にならって焼香する。

3.焼香が終わったら祭壇に向かって合掌。一礼してから両手で盆を持ち、次の人へ回す。

数珠について:
数珠は仏式の礼拝時につかうものです。仏式の葬儀では持っていなくても失礼には当たりません。一般的に使われているのは、108個の長い数珠か、54個の短い数珠で、黒、茶、紫の水晶珠などの地味なものであれば色も問いません。が、赤い珊瑚の数珠は日常のお経用なので葬儀に持つのはタブーです。



《出棺・精進落とし》

告別式での出棺が終わったら、一般会葬者は外へ出て、できるだけ出棺まで見送ります。見送るときは特に寒いときや雨のとき以外はコートを脱ぎ、私語を慎んで静かに出棺を待ちます。棺が霊柩車に納められるときや霊柩車が出るときは、黙とうや合掌をし、車が見えなくなってから静かに退出します。火葬場へは遺族やごく親しい人だけが行きます。

遺族が火葬場へ行っている間に、後飾りの祭壇が用意され、遺骨が戻ったら遺骨供えの法要が行われます。そのあと火葬場へ同行した人たちや葬儀を手伝ってくれた人たちの労をねぎらうための精進落としの席がもうけられます。一般会葬者は遺族から強い勧めがない限りは遠慮します。

喪主のあいさつで締めくくられたら、長居せず、遺族に慰めのことばをかけ、祭壇にお参りをして帰るようにします。


《神道の葬儀》

神道式では、通夜祭(仏式のお通夜)と葬場祭(仏式の葬儀、告別式)が執り行われます。神道では祭式の前に手水の水で身を清め、焼香の代わりに「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」が行われます。神官がお払いをしているときや、祭詞を唱えているときは、深く頭を下げているようにするのが決まりです。

手水の仕方:
1.右手でひしゃくを持ち、桶の水をすくって左手に軽くかける。

2.左手にひしゃくを持ち替えて、右手にも軽く水をかけ、両手を清める。

3.ひしゃくを再び右手に持ち替えて、左の手のひらに水を受ける。

4.左手に受けた水で口を軽くすすぎ、手の水を静かに落とす。

5.ひしゃくを立てて残った水を柄に流し、柄を清める。

6.ひしゃくはもとどおりに伏せ、備えてある白紙で手を拭く。



神式の葬儀に参列するときに気をつけなければいけないのが、お悔やみのことばです。「冥福」、「供養」、「成仏」などの仏教用語は忌み言葉となっているために使えません。代わりに使われるのは「他界」、「永別」、「帰天」などで、弔問時のときのお悔やみのことばとしては、「御霊安らかに」「謹んで御霊のご平安を」などが一般的です。また神式では線香は使わないので「焼香させていただきます」ではなく「拝礼させていただきます」と言うのが礼儀です。もちろん数珠も使いません。

玉串奉奠のしかた:
1.左右の人に会釈をしてから神前に進み、神官と遺族に一礼してから玉串を受けとる。根元を右手で、葉を左手で支えるように持つ。

2.そのまま静かに進み、玉串案(玉串をささげる台)の前に立ったら遺影を見て一礼。玉串の枝を立て起こし、左右の手を持ち替える。持ち替えたら時計回りに180度回転させる。

3.葉が手前、根元が神前に向くように、玉串案の上に供える。

4.遺影に二礼し、音を立てずに二拍手する。再び遺影に一礼して後ろに下がり、神官と遺族に一礼する。



《キリスト教式の葬儀》

キリスト教式の葬儀は、信者が通っていた教会で、牧師または神父(ルナ註:カトリックとプロテスタントでは呼び名が異なる。プロテスタントが牧師と呼び、カトリックが神父)の司式で執り行われます。一般会葬者も遺族や親族とともに葬儀の最初から参列します。

席順は、祭壇に向かって中央から右側が遺族席、左側が世話役や友人、知人席、一般会葬者は左側後方に座ります。

プロテスタントでは、オルガン演奏、聖書朗読、讃美歌、祈祷、弔辞・弔電朗読と続き、遺族代表のあいさつによって葬儀が終わります。カトリックでは、神父が入祭のことばを述べてから、葬儀ミサ、告別式と続きます。葬儀ミサでは聖書朗読、聖歌、パンとぶどう酒の奉納が行われ、告別式では司祭による散水、散香の儀式や親族代表のあいさつが行われます。

焼香や玉串奉奠の代わりに行われるのが献花です。葬儀の後に、会葬者ひとりひとりが棺の前へ行き、カーネーションなどの白い花をささげます。献花は牧師または神父、喪主、遺族へと故人と縁の深かった人から順番に行われます。


献花のしかた:
1.祭壇に用意してある花を差し出されたら、花が右に来るように受け取ります。右手は下から持ち、左手は上から軽く添えるように持ちます。

2.棺の前に進み、まず祭壇に一礼を。そして右回りに花を回し、茎のほうが霊前に向くようにしてから献花台に静かに置く。

3.花をささげたら祭壇に向かって一礼し、2~3歩下がって黙祷する。牧師または神父に、そして遺族に一礼して席に戻る。



(「失敗しないマナーの本」/ be文庫編集部・編  「マナー以前の社会人常識」/ 岩下宣子・著)
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宗教ってややこしいですね。わたしは自分の遺体がきちんと片づけられたら、それでいいと思っています。お墓にいれずに、海に散骨してもらいたいな、と希望しています。

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