教育基本法前文: われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第1条(教育の目的): 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
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教育基本法は、日本国憲法と密接につながった法律であることが、前文で明らかにされています。日本国憲法の理念の実現は「教育の力にまつべきもの」であるので、制定されたのです。
「しかし本来、教育というものは法律がなくても始められるものです。子どもが大人から何かを学び取ろうとし、大人が子どものことを大切に思ってかかわろうとする瞬間に、人格的な出会い、双方向的な学びの過程としての教育というものが動き出します。そこには法律の出る幕はありません。何を教えなさい、どんな教え方をしてはいけません、というような国のルールは、教育という営みにとって、基本的には無縁です。それにもかかわらず、1947年の日本は、教育の基本的なあり方について、教育基本法という法律を定める道を選びました。それには理由がありました(「教育基本法『改正』;私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)。
それでも教育に法が関わるとき、そこには法という手段を通してでなければ確保できない何らかの目的があると考えるべきであろう。(現在の)教育論が“あるべき教育”を探っていることと比べていうと、教育に法が関わるとき、そこには“あってはならない教育”を排除するという目的がある。教育基本法が上位の法律として確定しておかなければならないと考えた“あってはならない教育”とは何か(「学校が愛国心を教えるとき」/ 西原博史・著)」。
本来、教育に国家・法律の入り込む余地があるものでないのに、あえて教育基本法が制定されたのはなぜでしょうか。「あってはならない教育」ってなんなのでしょうか。それは、上記前文の写しの2段落目にある、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければ」という条文と、第1条の条文が示唆しています。キーワードは、「個人の尊厳を重んじ」「個人の価値を尊び」「自主的精神に充ちた」ということばです。西原教授のことばで示しましょう。
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教育基本法を必要としていた最大の理由は、戦前・戦中の教育に対する反省でした。教育基本法に先だつ時代、大日本帝国憲法の下では、教育は、教育勅語という天皇の言葉によって根本的なあり方が定められていました。1890年発布のこの勅語は、天皇が「爾(なんじ)臣民」に向けて、道徳原理を説く形で、よき「臣民」としてのあり方を指し示すものでした。
この時代、国民は国の主権者ではなく、あくまで天皇の「赤子(せきし)」として保護の対象とされ、その見返りとして無条件の忠誠を要求された「臣民」でした。国民はその意味で、自分自身で(自分のこと全般を)決断することも出来ない、半人前の存在とされていたのです。その半人前の存在(=国民)に対して道を説く天皇の言葉が、教育勅語でした。
そのため、教育勅語の内容は、最終的には天皇に対する絶対的な忠誠に集約する形になっていました。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ」ることが求められたのです。この時代のキーワードであった「滅私奉公」、つまり「私」的なことは一切捨て去って、「公」に尽くすことが理念として掲げられていました。そこでいう「公」は、天皇のため=お国のため、ということになります。そして最終的には、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(天地のように果てしのない皇室の繁栄を助けなさい、の意)」という点が、すべての価値の源とされていました。
もっとも、この教育勅語で語られていたことの全部が全部、排除すべきものだったわけではないでしょう。というのも、人間が生きていく上で、「私」よりも大事な何かを探すことに、意味がないわけではありません。意義ある人生を送ろうと思ったとき、自分が邁進できる理想、自分が尽くすことのできる何かあるいは誰かを意識することに意味があるという考え方も成り立ちます。そのため、「滅私奉公」という考えかたそのものが排斥されるべきものだということには必ずしもならないと思います。ただここでの問題の
核心は、自分にとって大切なものを自分で選び取ってゆけるのか、それとも権力によって与えられたものを選択の余地のないものとして受けとめるのか、という点にあります。
天皇への献身が中心にあったわけですから、教育勅語体制が、戦時中に行われた軍国主義教育において、その力を最大限に発揮していったのは必然的でした。そこでは、天皇のために死地に赴き、立派に戦い美しく散る(=死ぬ)ことが、日本人として生きる目的だと教えられました。また女の子は、戦死して「英霊」となる道が閉ざされていたため、選挙権もない二級の国民の立場に追いやられ、優秀な兵士を産む生産機械として生きていくことが求められたのです。
こうした軍国主義下での教育は、いずれにしても、子どもを死を怖れぬ兵士に作り変え、消費していくためのものでした。こどもひとりひとりの生命やさまざまな個人的な思いに価値はなく、ただお国のため、天皇のために死んでいく瞬間に真の日本人として輝く、という考え方です。これは子どもを生かすための教育ではありませんでした。子どもはあくまで、国家のために役立つべき存在であって、その意味では国家のための道具にほかならず、子どもを道具として洗練させてゆくプロセスが教育だったといえるでしょう。こういう考え方を、「子どもの道具化」と呼びたいと思います。
敗戦のとき、多くの国民は「「だまされていた」という感覚をもったと伝えられています(西原教授は戦後生まれ)。もちろん、この「だまされていた」という感覚は、情報操作によっていつわりの戦況報告を聞かされていたことに気づき、国際関係について基礎的な知識が伝えられていなかったことに気づき、浮かび上がってくるものでした。しかし、それと同時に、軍国主義による洗脳から解放されたとき、人生の根本的な意味についても、別の次元で「だまされていた」という感覚を抱かざるを得なかったことと思います。
そのため、戦後に再出発するときには、教育のあり方を根本的に考え直すことが必要でした。日本国憲法を作り、国民個人の基本的人権を保障していく国家のなかでは、ひとりひとりの子どもが大切にされ、尊重される教育を行っていかなければなりません。そうした反省をもって過去の教育勅語体制を見つめなおした場合、具体的な反省点が二つ浮かび上がってきました。
1. ひとつは、教育のあり方がすべて、天皇が上から定めた勅語によって律せられ、国民の意思が入り込めなかったことです。そこに組み込まれていた、天皇の側の絶対性と国民の側の無能力に基づく服従という関係こそが、誤りであったということになります。
そこで、その過ちを繰り返さないために、国民全体が、自分たちの問題として教育の根本的なあり方を決めてゆくことが必要になりました。法律という形で-しかも単なる法律よりは一段上の「基本法」として-どのような教育を行ってゆくのかを定める手法は、国民のこの決断を表現するための手続きとして選択されたものです。
2. もうひとつの誤りは、教育が目指す方向にありました。教育勅語体制のなかで、教育は、子どもを社会にとって便利な道具に改造してゆくためのプロセスでした。それに対して、個人の基本的人権を保障し、国民主権の原理を採用した日本国憲法は、ひとりひとりの子どもを、単なる支配の客体ではなく、主権者に育ててゆくべきかけがえのない個人であると認めていきます。
日本国憲法は26条で、「教育を受ける権利」を保障しています。子どもが権利として、国家や社会に対して教育を行うよう要求できるとする考え方が取られたのです。その際、権利として保障される教育は、子どもを、未完成ながらも成長途上の大切な人格と考え、子どもが発達し、自分らしく生きていくことを支援できる教育でなければなりません。
また憲法19条が基本的人権として思想・良心の自由を認めています。それを前提にした教育ですから、学校で一つの考え方だけを注入し、子どもの人格的な発達を国家によって都合のいい方向へとねじ曲げることは許されません。こうしたことを考えたとき、子どもを便利な国家権力の道具へと作り変えようとする教育は、あきらかに「あってはならない教育」として排除されなければならないものでした。
(「教育基本法『改正』;私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)
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今、日本が舵を切っている方向は、戦前・戦中のような軍国主義国家ではありません。帝国主義的覇権国家でもありませんが、「覇権」という面では似たようなところはあります。日本の戦後の外交はアメリカの手助けによって進められてきました。戦後の賠償もアメリカの梃入れで安上がりに上げてきましたし、経済の奇跡的な復興も、もとはといえば朝鮮戦争に「お陰」があるのです。日本が自由貿易によって成長してきた影にはアメリカの「援助・協力」があったのです。ですから日本は今でも相も変わらず、戦前同様の外交下手です。
北朝鮮との6カ国協議再開の問題でも、日本の参加は望ましくないと北朝鮮に言われます。北朝鮮は、「協議の結果はアメリカから聞けばいいではないか」と言いましたが、これは戦後日本の外交を喝破した、文字通りの「名言」でしょう。国防力を強化し、国民総動員体制へと引っぱってゆこうと主張する、教育基本法「改正」論者たちは、中国や韓国、北朝鮮からこういう言い方をされることに屈辱を覚えるのです。だから、日本は発言力を増すために、マッチョになろうといいます。みなさんならどうでしょう。個人的に反目しあっている誰かが力ずくの姿勢を見せたら、みなさんならおずおずと引き下がりますか。そうではないでしょう。向こうが腕まくりをするなら、こっちもファイティング・ポーズを取るのです。外交手腕がないからこういう短絡的な手法に訴えるのです。暴力沙汰になれば、その時は国民の安全を守ることは出来なくなります。戦争になれば、日本だけが無傷でいることなどできないのです。誰かが被害を受けます。あなたはその「誰か」になりたいですか。わたしはゴメンです。ですから、国民の安全のために憲法の9条を改正しようという議論は欺瞞です。
「そんなことではどうする、日本国の危機に際したなら、命を捨ててでも戦うのが道理というものだ」という反論が聞こえてきそうですが、まさにそういう考え方に素直に同調する人間にならせるために、教育基本法を「改正」しようとしているのです。日本は外交ができないので、全面的にアメリカに頼っています。安倍総理のコメントにはアメリカべったりの考えが露骨に表れています。アメリカは世界で唯一、戦争に積極的な国です。そのアメリカと共に戦闘に従事できるようにしたいのです、今、日本の舵取りをしている事業家たちは! すべては日本の経済活動を潤滑に行えるようにするための手段なのです。そのために国民の福祉を切り捨て、労働者を奴隷状態におき、一部のエリートのための体制にしたいのです。その流れに、政界、官僚界に復帰してきた、戦前教育に染まった人たちが乗っかっているのが、今現在の日本の潮流です。
教育基本法はまさに、そういう人間がふたたび日本国民を支配してしまわないようにという目的で制定されたのでした。教育基本法は前文によると、日本国憲法の「理想」を実現すべく定められた、憲法と同じく「基本法」です。すべての法律は基本法の範囲内でしか制定されず、執行されえません。教育基本法を変えるということはそのまま憲法を変えるということに直結します。いい方に変えるならともかく、今向かっているのは反動的な方向なのです。かつて反省した考え方の方向なのです。この流れは日本を豊かにはしません。国民の生活を向上させることはできません。日本が目指す経済格差社会というのは、封建時代の身分制のような社会です。そういうのをアリストクラシーと言います。貴族政治という意味です。新たに「貴族」の椅子に座るのは産業資本家たち、皇族、政治家や高級官僚たちです。
子どもたちの荒廃、学校の荒廃、家庭の崩壊、これらに責任があるのは教育基本法体制ではありません。教育基本法は、こんな社会にならないように権力側にタガをかける基本法です。戦後の行政が教育基本法の理念に逆らってきた結果なのです。ですから教育基本法を変えても子どもたちの救いにはなりません。それどころか、子どもたち、国民の精神をさらに追いつめてゆくでしょう。今、子どもたちを追いつめているのは、まさに、子ども個人の意思、個性が尊重されず、体制の要求する枠型にはまるのでなければきちんと評価してもらえない風潮なのです。それは教育勅語体制の重要な特徴でした。子どもたちのことを考えるというのであれば、また日本のことを考えるというのであれば、むしろ教育基本法の理念にいま一度立ち返るべきなのです。教育基本法が排除しようとしたものを再び法制化することでは決してないのです。
ところで、西原教授のお話を読んでいると、まざまざと思いこされるのがエホバの証人のありかたです。エホバの証人はほんとうに教育勅語体制に酷似しているなあと思われませんでしたか。国民を「臣民」と呼び、自己決定権を行使すると「まちがいを犯す」というので、道徳を上から押しつけること、子どもを生かすための教育ではなく、組織の看板のためなら輸血を拒否して死んでゆくことを選ぶようしつけること…。まさにエホバの証人の子どもたちは、組織の道具として洗練されるような教育を受けています。エホバへの献身を中心に据えた教育もそうです。組織によって生活のあらゆる面が監視され、指導される。70年代においては、夫婦の寝室の問題まで講演で話されていました。ほんとうのことですが「体位」の指示まであったのです。そのほか、観る映画、聴く音楽、娯楽、趣味、男女交際の細則…。あげればきりがありません。エホバの証人に嫌気がさしたみなさん、そのような暮らしは息がつまるものではありませんでしたか。自分のほんとうにやりたいことが否定され、ひたすら組織の「牧者たち」に気に入られるための人生、漠然としたいら立ちに苦しみませんでしたか。日本は今、ああいう社会になろうとしているのです。
逆に、西原教授のお話は、エホバの証人のマインド・コントロールをどのように脱ぎ捨てるかという重要なヒントも与えています。「個人の尊厳を重んじ」、「個人の価値を尊び」、「自主的精神を育む」ということが、目指すべき方向であるということです。人間は誰か他人の満足のための道具になってはならないのです。自分の人生は自分のものです。他人が変わって自分を操作してよいはずはないのです。「滅私奉公」は上から強要されるものではありません。自分で選んだものを理想として掲げ、追求してゆくべきものなのです。人生の目的は、他人に評価されることではありません。それは自分が満たされるものを選ぶものです。教育基本法は、その意味で、エホバの証人の救済のための重要な示唆を与えている法でもあるのです。
追記:東京在住の方、こんな運動があります。
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