Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

教育基本法「改正」 与党協議会の内容

2006年11月30日 | 一般
今週に入って、毎日新聞では教育基本法についての詳細な記事は見ません。毎日新聞にとっては「新教育基本法」は成立しているのです。11月26日付朝刊には、次のような記事がありました。

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教育基本法改正案 今国会、成立へ

安倍政権が最重要法案と位置づける教育基本法改正案は、今国会中に成立することが確実となった。12月15日までの国会会期内の成立が濃厚だが、野党は政府のタウンミーティングの「やらせ質問」問題などで攻勢を強めており、集中審議などを通じて実態解明を迫る可能性もある。

その場合でも政府・与党は会期を小幅延長してでも成立させる方針だ。教育基本法は1947年の施行以来、初めて改正される。

改正案は、先の通常国会を含めて衆院で106時間審議され、今月16日の衆院本会議で野党4党が欠席するなか、与党の賛成多数で可決され衆院を通過。17日に参院で審議入りし、22日には野党も審議復帰した。参院では「公聴会を含め70~75時間」(参院自民党幹部)がメドとされる。

すでに参院教育基本法特別委員会で12時間を消化。政府・与党は「27日から1週間ごとに26時間審議すれば採決の要件を満たす」(同)として12月上旬の成立を狙う。

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「公聴会を含め70~75時間、審議すれば採決要件を満たす」ので「1週間に26時間審議すればいい」、すでに「12時間を消化している」のだそうです。ではどのような審議が行われているのでしょうか。元中央教育審議会臨時委員によるこのような報告があります。市川昭午さんという方で国立大学財務・経営センター名誉教授といった肩書きの人です。市川教授は、与党協議会に参考人として出席されました。審議内容の実態を明らかにする貴重な証言です。これはぜひ知っていただきたいのです。

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中央教育審議会答申(2003年3月20日)以後3年近くにわたって難航を続けていた自民党と公明党による与党協議会は2006年4月13日に最終報告をまとめた。政府は4月28日に報告をほとんどそのまま改正法案として閣議決定し、第164回国会に上程した。それを受けた衆議院は35名からなる特別委員会を設置、5月11日から6月15日にかけて委員会を計13回開催した。

審議は秋の臨時国会に持ち越されたものの、成立する可能性は高いと考えられる。というのも何しろ超党派の議員連盟である教育基本法改正促進委員会のメンバーが、衆議院248名、参議院130名といずれも過半数を超えるなど、改正派の議員が圧倒的多数を占めているからである。

委員会の審議時間は約49時間50分にも及んだが、その割には実りのある議論は乏しかった。

その理由の第一は本気で討議しようという空気が薄かったことである。私は参考人として呼ばれたが、自民党と民主党の委員から、貴方は改正不要論だから質問しないと宣告された。これでは何のための参考人なのか。そもそも自分と意見を違にする者とは議論しないというのでは国会は何のためにあるのか。考え込まざるを得なかった。

第二は教育基本法の改正とは直接関係のない議論、まったく関係のない議論が多かったことである。これは中教審の審議も同様であったが、教育の議論となると、とかく自分の教育哲学と学習体験を語る人が多いからである。

第三は同じ内容の質問と答弁が繰り返されたことである。これは民主党だけでなく自民党の中でも意見が分かれているためである。

改正派の委員は、占領軍による押し付け、社会規範の欠如、法文の不備、日本国憲法と同様に原理自体が問題などといったことを改正が必要とされる理由としたが、現行法にどのような具体的な不都合があるのかについて明確な説明はほとんどなかった。またそうした改正理由はいずれも政府が採りうるものではなかった。というのも、それは政府がこれまで嘘をついてきたことになるか、50年にわたる自民党政権の責任を問うことになるからである。したがって、中教審答申と同じく、政府の公式見解は時代対応論以外にはありえない。しかしそれは「これは時代の流れだ、ひと言でいえばそうなる」(文部科学大臣答弁、5月26日)といった漠然としたものでしかなかった。

改正案文で議論が集中したのは、
① 政府案第2条の愛国心教育、
② 第15条の宗教教育、
③ 第16条の教育行政権限の条項だった。
この三つに共通するのは、国家権力と個人の思想信条の自由との抵触が問題とされている点である。そのいずれに関しても政府は国民の内面に踏み込む意図などは毛頭ない旨を答弁していた。それ自体は結構なことであるが、そういう説明を聞けば聞くほど、なぜ改正が必要なのか、ますます分からなくなる

政府が、国民の反応や憲法との抵触を怖れて改正の意図を率直に述べなかったのか、そうでなければ今回は法案の内容よりも改正そのものに意味があると判断しているか、そのいずれかであろう。



市川昭午(いちかわしょうご)・記、06年8月 「なぜ変える? 教育基本法」より

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やはりまともな議論は尽くされていませんでしたね。町村元外相は「審議は十分尽くされてきた」といっていましたが、その内容と言うのは以上の通りです。「改正ありき」の審議だったわけですね。安倍さんが執拗に主張する改正理由はみな、「自民党政権の責任問題になるもの」です。それを回避するために「時代は変わった」と言われるのです。また、「国民の内面に踏み込む意図がない」のであればどうして「社会規範」を盛り込んだ道徳律となるのか、またそういう意図がないならなぜあえて改正しなければならないのか。

みなさんはどうお感じになったでしょうか。市川参考人は、「政府が、国民の反応や憲法との抵触を怖れて改正の意図を率直に述べなかったのか、そうでなければ今回は法案の内容よりも改正そのものに意味があると判断しているか、そのいずれかであろう」と推測されています。みなさんはどちらに思えますか。

すでに共謀罪の議論が上ってきているのですが…。
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「教育に市場原理はなじまない」

2006年11月25日 | 一般

 

 

 

安倍新総理施政方針演説の柱の一つに、教育の再生が謳われていました。「愛国心教育」を推進するために、最優先で教育基本法を「改正」し、全国テスト、教員資格の更新制度、学校選択の自由化を行う、ということでした。

「全国テスト」というのは何かというと、それを実施することにより、学校のレベルがわかるようになります。そうすると、成績の良い学校を選んで子どもをその学校へやることができる、つまり「学校選択の自由化」とセットになるものです。これは、教育を「商品」のように、家庭が選んで「購入」できるという言い方ができ、その理由で、「教育への市場原理の導入」とも呼ばれています。イギリスでサッチャー元首相以来行われてきた、イギリスの教育改革がモデルとなっています。

イギリスの教育改革では、ものみの塔協会ばりの「全国同一カリキュラム」が導入され、つまり教育を国家が管理し、競争原理が積極的に導入されてきました。雑誌「世界」の ’06年9月号に、ロンドン在住のジャーナリストによるイギリス教育改革がもたらした問題についてのレポートが掲載されました。安倍内閣が今や目指そうとする教育改革の行く末を推測するのに貴重な資料ですので、ご紹介します。

 


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イギリスの公教育は、学校が統一学力テストの成績を競い合う、厳しい体制下にある。制度の狙いは、学校間競争によって活力を引き出し、(国家)全体の学力を向上させようというもので、「市場原理」に依拠している。この制度は1980年代後半、当時のサッチャー政権が断行した教育改革で誕生し、戦後のイギリス教育を根本から変えた。この大教育改革によって、望まれる学力水準が明確になり、教師の指導も標準化したと指摘される一方、学校現場ではさまざまな弊害が生まれ、教育界では「現体制は行き詰っている」という声が日増しに大きくなっている。統一学力テストの是非を含めて、改革以来イギリス社会で途絶えることなく続いている論争は、「教育に市場原理の適用はなじむのか」という根本的な問いを内包している。

1988年教育改革法によって実現した教育改革の柱は、①全国共通のカリキュラム(ナショナル・カリキュラム)と、②統一学力テスト(ナショナル・テスト)の導入だった。

…(中略)…

ナショナル・テストの結果は公表されて親に学校選択のための情報が与えられ、学校への予算は生徒数によって配分されることになった。テスト結果は学校ごとに、生徒が到達すべきであると規定された水準に達した生徒数の割合が公表される。つまり、ナショナル・テストの成績がいい学校は親たちに選ばれて(生徒が増え、その結果)予算がきちんともらえるが、成績の悪い不人気校は定員割れとなり、予算が減らされる仕組みになったのである。親たちは市場で商品を選ぶかのように、子どもの学校を選ぶことができるようになった。

その一方で、イギリスにおけるこの改革では、学校により大きな自治権を与えた。イギリスの学校には昔から校長と親、地方教育局職員、地域の代表者らで構成する「学校理事会」があったが、この制度を強化して、学校理事会に教師の採用や予算の組み方のほか、科目の授業配分など学校運営のほぼすべてを任せ、結果のみを問うことにしたのである。こうして国家統制強化と学校への自由裁量権の付与という、一見相反する二本立ての政策で学校を相互競争させ、親に選択させるという体制が生まれた。新教育体制は、1992年の教育法で独立行政機関の教育水準局が設置され、学校の教育内容を第三者機関が査察するという仕組みが加わったことで完成した。

教育改革が実施されたのは、当時のイギリスが「英国病」のまっただ中にあり、経済再建のために教育レベルの向上が不可欠とされたことが最大の理由である。サッチャー元首相は、以前の自由な教育方法では一定の基礎学力を子どもにつけさせることはできないと認識した。実際、1970年~80年代を通じて、イギリスでは子どもたちの「学力低下」が大きな社会問題になり、「学力向上政策」を求める声が強まっていた。

…(中略)…

ブレア政権になってからは、この競争体制は継承され、国家管理はますます強められていった。この一連の教育改革は、「学校の業績が目に見える形でわかるようになった」として、親たちの間では一定の評価を得ている。教育熱心な親たちは、ナショナル・テストの成績一覧表や教育水準局の査察結果(各校ごとの詳細な報告書がインターネットで公開される)を見て、わが子をどの学校へやるかを選択する。また、現場の教師たちも「教育改革によって教え方の水準や生徒に望まれる学力水準が明確になった」と認める。

生徒の学力について政府は、11歳児テストで規定水準に達した生徒の割合は1997年には「英語」教科で63%、「算数」教科は62%にすぎなかったが、2005年にはそれぞれ79%と75%にまで上がったと発表し、「労働党政権発足以来、小学生の学力水準は飛躍的に向上した」と主張している。



しかし、このような政府の主張する「成果」の一方で、競争体制はさまざまなひずみを生んだ。

たとえば、改革で人気校と不人気校が生まれたために学校間格差が広まった。希望者の殺到した学校がその対策として、住まいが学校から近い順に生徒を採用するなどの基準を設けたところ、多くの家庭が学校周辺に引越し、不動産価格を二割も引き上げるという現象が全国で起きた。これは結果的に人気校には裕福な家庭の子どもしか通えなくなるという階層の分化を促した。

さらにナショナル・テストの重圧が点数至上主義を生み、学校の授業をゆがめることにつながった。ケンブリッジ大学教育学部のジョン・マクビース教授とモーリス・ギャルトン博士が2002年に発表した調査(小学校267校が対象)では、多くの学校でテストとは無関係の美術や音楽、情報技術などの授業数が極端に少なくなっていたことがわかった。これらの科目を昼休みや放課後のクラブ活動でカバーするだけという学校や、一週間のうち歴史・地理・美術・情報技術の授業数の合計が英語一科目の授業数と同じ、というような学校もかなりあった。また、現政権下で作成された膨大な授業指導をこなすために、多くの学校が始業時間を早めたり、昼休みを短縮するなどの措置をとっていたことも判明した。

ナショナル・テストの子どもたちへの影響も大きい。合格水準のボーダーライン付近にいる子ども(特にテストが実施される6年生児童)は毎年、「ブースター・クラス(後押し授業)」と呼ばれる補習クラスに入れられ、早朝や放課後に補習授業を受ける。小学生がテストのストレスで食欲不振や睡眠障害を起こしているケースも多数、報告されている。

イギリス中部・ウォリック大学教育研究所のショーン・ニール博士が2003年、ナショナル・テストについて教師3000人を対象に実施した調査では、85%が「テストはカリキュラムをせばめる」と答え、88%までが「テスト結果の公表に反対する」と回答。「テストは教育上、生徒のためになる」と答えたのはわずか7%だった。

学校と教師が重圧にあえぐなか、学校間の競争は激化し、不正事件が起きる土壌を作った。教師がテスト用紙を事前に見て生徒に解答を教えたり、答案用紙を試験後に生徒に返し、間違えているところを書き直させるなど、これまでにさまざまな不正が報告されている。2003年にはケント州の小学校長が11歳児テストの解答を書き換えたことで有罪判決を受け、収監される事件まで起きた。日刊紙『ザ・タイムズ』の習慣教育専門紙『TES』2006年5月19日付報道によると、2005年には600件の不正事件が報告され、2000年の147件から4倍以上に増えたという。



【学力は向上したか】
実は、イギリス政府が発表している11歳児テスト結果に関して、疑問を呈する研究結果がここ何年かの間に相次いで発表されている。

たとえば、イギリス北部・ダーラム大学教育学部の「カリキュラム評価と管理研究センター」は、独自の学力テストを毎年、5000人以上の11歳児に実施して結果を蓄積、推移を見ている。データの豊富さからもっとも権威のある調査として知られているが、その結果によると、1997年から2002年までの期間に、算数では若干の向上が見られたが、英語の「読解力」ではほとんど変化が見られなかったという。

また、教育相の外郭団体でナショナル・テスト業務を観察する「資格・カリキュラム庁」は1999年、「学力向上」に疑問を持つ世論に対応して、ケンブリッジ大学試験評議会にナショナル・テスト結果の評価を委託。同評議会が2003年に発表した調査結果では、政府が「飛躍的な学力向上が見られた」という1990年代後半に、11歳児「読解力テスト」で年々、困難な問題が姿を消し、より解答の容易な問題が増えていた、との指摘(ケンブリッジ大学教育学部教員、メアリー・ヒルトン氏の調査)もあり、「政府発表のナショナル・テストの結果は学力水準の変化を監視するデータとしては信頼できない(ダーラム大学ピーター・ティムス教授)」との見方が教育界では浸透している。

わたしは(このレポートの筆記者)今年(2006年)5月半ば、2005年の11歳児ナショナル・テストで全国トップの成績を収めたオックスフォード州のクーム小学校を訪れ、バーバラ・ジョーンズ校長から話を聞いた。同校はこのテストで、11歳児全員が政府の規定する「14歳児相当の学力水準」に達するという、並外れた業績をあげた。

ジョーンズ校長は二時間に及ぶ取材の中で、途切れることなく政府の姿勢を批判した。彼女は現行の教育制度を「ナショナル・テストで学校を不必要に競争させ、結果を公表して序列化するシステム」であるとして表現し、「確実に敗者を作る不公正な教育体制だ」と非難した。そして、「教育には市場原理はなじまないし、間違っている」と語った。ジョーンズ校長は「個々の学校の特色や規模、生徒の家庭環境などをまったく考慮せずに、どの学校にもナショナル・テストに関する非現実的な成績到達目標を課す今の教育体制は、到底正当化できるものではない」とまで言った。

ジョーンズ校長はさらに、労働党政権になってから「政府の教育への干渉が強まり、学校と教師は窒息しそうになっている」と言った。学校には政府や地方教育局から山のようにビデオやCD、パンフレットによる指導、通達が届く。eメールでの通知もある。内容は授業の仕方、授業時間の配分方法、政府の政策の変化の説明など、ありとあらゆるものだという。

ジョーンズ校長はまた、政府作成の授業プランについて「教師の独創性を殺す以外の何ものでもない。何日目に何を教えなさい、と政府が規定するのは子どもの関心、興味を無視した愚策」と手厳しく批判し、同校が全国一位の成績をあげたのは、「政府指導をすべて無視した授業をしているから」と言い切った。

…(略)…

サッチャー元首相の中央集権的な大改革から約20年。教育改革の前後20年づつを経験したジョーンズ校長は「改革前、誰もが当時の教育制度は行き詰っていると感じていた。今再び、皆がこの体制には大きな欠陥があると感じている。サイクルが一周した感がある」と言った。イギリスの教育改革は今、大きな曲がり角に来ているようだ。

(「岐路に立つイギリスの『教育改革』」/ 阿部菜穂子・著/ 「世界」2006年9月号より)

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イギリスが、教育を国家で管理しようとした状況というのは、今の日本とそっくりですね。経済拡張へのあくなき追求、と同時に学力の低下が問題になっており、経済戦略のために「有能な人材が要請されている」との理由から、教育改革が叫ばれる。そこへ、反動勢力が積年の悲願を成就させるチャンスを見いだし、財界の要請と合流して、人間育成に国家が介入することを目論む。そのために、教育への権力の不当な介入を禁じている教育基本法の改定に着手、猛スピードで制定しようと、タウン・ミーティングにおいて「やらせ」で、合意の世論形成を捏造するという挙に出る。それが発覚しても、メディアは政府側で情報操作に加担するので、社会では問題にならない。教育基本法改定に歯止めはかからない。そういう状況の背景には、「教育現場の荒廃」、若い人たちによる凶悪事件がメディアによって大げさに報道され、あたかも「歴史上にないくらい」荒廃しているようなイメージをつくり上げられてきたことがあります。実際は少年による凶悪犯罪は1950年前後に比べ、激減しているのです。それでもそういう実感がわかないのは、やはり現代日本人の「自信の喪失」があるのでしょう。このことについては機会をあらためて書きたいと思います。とにかくこれらと同じような状況による動機で教育の国家管理を実践したイギリスでは、教育の行き詰まりは何ひとつ解決できずに、けっきょくまた行き詰っているんですよね。

安倍総理の所信表明演説では、「教育再生」が何を目的にしているかを明らかにしています。

 

 

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わたしが目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会を作ることです。

家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。

まず、教育基本法案の早期成立を期し、わが国の叡智を結集して、内閣に「教育再生会議」を早急に発足させます。

 


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こうした安倍総理の目論見をわかりやすく解説する一文をご紹介しましょう。

 

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現行の憲法・教育基本法が定めた教育の目的は、ひとりひとりがかけがえのない存在=個人の尊厳の尊重であり、そうした個人のために「人格の完成」を目指すものである。ところが安部のめざす教育の目的は、所信表明にあるように、「国家、社会をつくること」であり、「国家・国益のための人材育成」「国策に従う人間」をつくるということである。安倍はその著作「美しい国へ」でも「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ」といっている。安倍の教育観は、個人よりも国家を優先させるものであり、これは政府の教育基本法案と同じように、教育の目的、あり方を根本的に転換させるものである。

(「安部晋三の本性」/ 俵義文・著 週間金曜日取材班・編)

 


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教育をなんとかしたい、という気持ちは国民全体の共通願望なのでしょう。でもその願望は誰のための願望でしょうか。ひょっとしたら自信を失った自分の慰撫のためではないでしょうか。自分に自信を取り戻させてくれるような変化を望んでいるのではないでしょうか。

子どもたちがどう感じているか、という視点に立っているでしょうか。重要なのはそういう視点なのです。いじめにあっていた子どもたちに時々新聞などが取材をしたりしますが、いつでも子どもたちは、「大人たちには自分の話を聞いてほしいと願う」と言います。わたしたちは、わたしたちの価値基準に従うよう要求するのです。子どもたちがどう感じるかに関心を払いません。それは甘えであると決めつけて退けるのです。子どもたちが社会に不信を持つのは、そういう抑圧的な態度に対して、なのです。これはつまり、「個人の尊厳の尊重」が実践されていないということです。相手の感じ方、考えかたを否定し、一般の社会のおきてを強要する、従わないのであれば社会から追放する、という考え方なのです。そしてこういう考え方によって導かれてきた結果が、今の世の中であるということです。

中央集権的な教育指導はエホバの証人の特徴です。その結果、エホバの証人の子どもたちはどうなっているかと思いますか。自発性というものを持たず、上からの評価がないと人間を受け容れることをしません。親友というのができない仕組みなのです。エホバの証人は巡回監督によって評価されるような人、長老によく用いられるような人と接するようにし、抗議を表明する人、批判をする人、盲従しない人は仲間はずれにして、それによって「懲らしめるように」と教えます。こんな指導をするのは、信者たちの求心力をエホバの証人の組織に集めておきたいからです。

教育に国家が介入するのも同じ理由です。「国家」を構成しそこから利益を享受する一部のエリートたちが、「国益」を追求するのにやりやすいような国民でいてほしいからです。そういう人たちに役に立たない人間は棄てられるのです。「自己責任」はこういう文脈で言われるのです。働けない人間は自分で何とかしろ、会社を退職したら自分で何とかしろ、病気や障害を持ったら自分で何とかしろ、老人介護は家族に押しつけておけ、国は一切介入しない、国はたくさんカネを稼ぐ企業のために役立つ施策に絞って努力する、というのが「新自由主義」です。けっして人間を心配や貧困や福利厚生上の問題から自由にするというものではないのです。

自信を回復したいという理由で、人々を日本という国家に自分を同一視させようとする安倍政権に加担する皆さんにはこの点を考慮してほしいのです。みなさんも、切り棄てられる側の人間だということです。人間を階層・格差によって分断し、一部のグループだけが人間らしく生きられる、そんな社会は必ず崩壊するのです。事実、封建制が崩壊したから、今の立憲制があるのです。目先の困難を楽なほうへ回避して片づけようとしても、それはなにひとつ解決していないのです。力ずくで相手を押さえつけていても、いつまでも押さえつけられるものではありません。経済成長を続けてゆくのに人間を奴隷化しなければならないのなら、それはもう無理をしているのです。そこまでして世界トップレベルを目指さなくてもいいのです。人間は商品じゃない、労働力も商品じゃない、教育も商品じゃない。人間のための経済を目指すべきではないでしょうか。経済のために人間を蔑ろにするのは本末転倒です。クーム小学校のジョーンズ校長が「教育に市場原理はなじまない」といった言葉には、人間は国益のための道具じゃない、人間の益のための国家だ、という民主主義の考え方を反映しているのです。

 

 

 

 

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わたしたちは、話すことができる!

2006年11月23日 | 一般
中学生や高校生は知性の面で大人より劣っているのでは決してありません。ただ親の「保護下」にある立場だから、社会的に弱い立場にあるというだけなのです。ですから学生であるということ、若いゆえに未熟であるということが問題なのではなく、一部の勢力の気に入らない意見を言う、ということに対してヒステリックな抵抗が今、生じているのです。

教育勅語体制の時代、キリスト教は弾圧の対象になっていました。天皇制を支持しない教理を持つからです。そんな時代のできごとを、東京新聞に掲載された連載記事からご紹介しようと思います。

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TVから「非国民」という言葉が聞こえてくると、石浜義信さん(71:記事掲載当時)=千葉県在住=は今もすぐにスイッチを切る。少年時代、毎日のように浴びせられたこの言葉は、60年たっても石浜さんの胸を刺し通す。

神戸から瀬戸内海の小さな島に移り住んだのは1943年春、小学3年のときだ。キリスト教グループの指導者だった父・義則さんの言動が「天皇統治の『国体』を否定する」として治安維持法違反に問われ、父は獄に下る。家族は親類を頼り、小島へ渡った。

父が獄中にあることは誰にも言わなかった。が、どこからか漏れ伝わった。非国民、スパイの子、国賊、ヤソ、売国奴…。ありとあっらゆる罵詈雑言が浴びせられ、道を歩けば石や木切れが投げつけられた。二つ年上の兄と二人で表通りを避け、山の中や海辺を歩いて学校に通った。

「わしらだって同じ日本人じゃ」
我慢できなくなって言い返したこともある。
「父が刑務所に入ったのは悪いことをしたからじゃない。神様を信じているからだ」
つらい日々を耐えられたのは、そうした思いがあったからだ。だからこそ、いじめられても、ふたりは神社や奉安殿に頭を下げずに通した。「神さま以外のものを拝まない」という父の言葉どおりに。

「校庭でみんなで『東向け東』『宮城に対し奉り、最敬礼-』ってね、ザーッと頭を下げる。そこで立っているのは子どもには本当につらいことでした」
石浜さんは振り返る。
「兄がいなかったらできなかったですよ」
いじめが高じて大けがをさせられた兄は、さらに多くの苦しい経験をしたらしい。63歳で亡くなるまで多くを語ろうとせず、戦後、一度もその島に足を踏み入れようとはしなかった。

***

村上宣道さん(71:記事掲載当時)=埼玉県在住=もそのころ、青森市で石を投げつけられる日々を送っていた。牧師をしていた父の末吉さんが特高警察に逮捕されると、担任の教師が教室で「村上のお父さんはスパイではないと思うけれど、調べられている」と言い放ったのだ。

「スパイの子には近づくな」
友だちもその親も態度を変え、村上さんは独りぽっちになった。親しくしていた教会の信徒たちでさえ「もう、うちには来ないでほしい」と顔をこわばらせた。支えとなったのは、それでも明るく賛美歌を歌う母だった。しかし、教会は解散となり、壁に掲げられていた十字架は、目の前で塗りつぶされた。「当時、スパイというのは一番怖ろしい言葉だった。父をスパイだといわれて、もう生きていけない思いでした」

父の逮捕前、サイドカー付きのオートバイに乗せてくれる私服警官がいた。オートバイの格好よさに憧れた。
「お父さんは今日、どこに行ったの」
仲良くなり、聞かれれば父のことを何でもしゃべった。自分が利用されたことを知ったときの衝撃は大きかった。だれが本当の友だちで、だれが信じられる人なのかわからない、いやな時代だった。

***

45年8月6日、広島に原爆が落とされた。
石浜義則さんが服役していたのは、爆心地からわずか2キロの広島刑務所だった。家族もあきらめかけたころ、義則さんはぼろぼろになって帰ってきた。独房の厚い壁が命を守ったのだ。終戦から二ヶ月近くたった10月11日のことだった。

その4日後。多くの人を苦しめた治安維持法が廃止される。たくさんの人がこの法律の下で命を落としたが、生きながらえた人にとっては、ようやく人と違っていることが「罪」ではなく、自分の考えを自由に表明できる時代が始まった。

「非国民」「スパイの子」と呼ばれ続けた石浜さんと村上さん。二人の少年は今、かつて獄中にあった父と同じ信仰の道を歩んでいる。

(「あの戦争を伝えたい」/ 東京新聞社会部・編)

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現実には、「人と違っていること」は、やはり格好のいじめの対象になり続けました。しかし、国の基本法である新憲法は国家と権力に対し、思想・言論・信教の自由を国民に保証しなければならないと命じるようになったのです。しかし、昭和天皇は戦争責任を逃れ、アメリカの対日本政策も反共路線に転換し、政治犯たちが釈放され、彼らは官僚の世界や政界にまで復帰するようになりました。これより反動勢力は勢いよく伸び始めたのです。

しかし、たとえどんな勢力が反動的圧力を強めようとも、またその時流にどれほど多くの人々が乗ろうとも、「ようやく人と違っていることが「罪」ではなく、自分の考えを自由に表明できる」権利は今でも保障されています。いうべきこと、自分の主張、信条は自由に表明していいのです。この権利は大切にしなければならないし、それに対して圧力を加えたり、脅しをしかけてくるような時期にはなお一層、主張しなければならないのだと、わたしは思うのです。



ちなみに、エホバの証人というキリスト教を名乗る宗教は、かつて日本人がキリスト教徒に加えたような仕打ちを、仲間の信者に対して加えます。多くは会衆の「長老」職にある人間の気に入らない人、お追従を言わない人、自分の見解を主張する人など、「羊のように」黙って服従しない人間をいじめる目的で今現在もふつうに行われているのです。上記の引用文のなかのキリスト教徒の名誉のために言っておきますが、エホバの証人はまともなキリスト教ではありません。フランスではカルトに指定されていますし、ドイツでも公共団体として認可を取り消されました。事実、カルト性がかなり強い宗教です。くわしくはBookmarkにあるHPやブログをご覧下さい。もっとも詳しいのは「エホバの証人情報センター」というHPです。

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トラック・バックされていた記事(2)・追記付き

2006年11月23日 | 一般
「松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG」というYAHOOブログがトラックバックを下さいました。内容については、トラックバックをクリックしていただいても読むことができます。北星学園の安倍総理への抗議メールは「やらせ」であるという主張です。引用しておきます。

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要は、勇気をもって自主的に(笑)内閣総理大臣等に教育基本法改正反対をアピールした純真な(innocentな、なお、ご存知の通り、innocentには「純真無垢」の他に「馬鹿」という意味もある。)中学生に対して、「匿名の大人」が誹謗中傷というか脅迫ともとれるメールを送ってきたということ。これ自体、匿名なのになぜメールの送り主が「大人」とわかるのかは別にして(教育基本法改正に賛成の小学生が自主的に送ったものかもしれないじゃないですか! 首相の名前も「安倍」ではなく「阿部」と間違っているしね)、どうも、朝鮮総連による嫌がらせ抗議と似ていると私は感じる。まあ、あれやこれやと、札幌の中学生の抗議はこんな波紋を広げている。


さて、札幌の中学生の「自主的な抗議」の実情はどうだったのか。これまた、あまりにも予想通りで、面白くともなんともない。すなわち、

(1)担任教師は共産党系
教育基本法改正反対のFaxを送ったinnocentな中学生の担任として記事に名前があがった教師(=北野聡子教諭)は、共産党系の教職員組合の全教の所属(全北海道教職員組合・略称「道教組」 )だった。これについては、以下参照。

http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50683010.html

(2)件の学校は共産党系教組の拠点
「北星女子は全教の拠点みたいになっている」ことは常識。北星女子の卒業生を持つある知人は「あぁ、恥ずかしい。北星の先生は真っ赤だからなぁ。妹が卒業生なので色々聞いてますよ(涙)。私立だから活動歴長い先生多し。若い先生はそうでもないのだけれど。子供が可哀相」というメールを送ってきてくれているくらいである。

(3)北海道は北教組王国
ご存知の方も多いと思うが、北海道は日教組(民主党系)王国。北海道の日教組(=「北教組」)は、日教組の中の最強硬派であり、その組織率も都市部と道東地域ではそれほどでもないその他の地域では優に60%を超える。つまり、県庁と日教組の長年の提携関係がある(=「癒着」とも言う!)三重・山梨・広島という組織率90%を越える県を除けば、<真水>で最高の日教組組織率を誇るのが北海道なのだ。

なんといっても、最近では、今次、教育基本法改正反対にからみ、国会前に200人を越える組合員を派遣したくらいだから。おいおい、「平日の授業はどうすんだよ」という世間の声など北教組には到底届かないらしい。蓋し、全体で見れば北海道では、共産党系の全教は比較的弱い。

(4)北教組に対する全教のローコスト戦術か?
ここで想像を逞しくすれば、「200人を東京は永田町に派遣」する体力も資金もない、北海道の全教が取ったのが、件のinnocentな中学生の抗議Faxではなかろうか。もちろん、証拠はないが、そう世間が受け止めても全教・道教組・北野聡子教諭は、あまり文句を言える立場にはないと私は思う。


以上が、取材の過程で浮かび上がった事実と事実をもとにした私の想像である。而して、更に想像を逞しくするならば、本人達は東京育ちでも、町村衆議院教育基本法改正特別委員会筆頭理事(町村派会長)も中川(酒豪)政調会長も、北海道が選挙区だから、地元のスタッフにレポート上げてもらい、「中学生が抗議Faxを送付」の報道があった夜は官邸で、安倍総理ともども大爆笑だったんじゃないか。

蓋し、代々木(=共産党)のやることは、もう国民にお見通しだから、<やらせ>にもならないということだろう(笑)。このような、innocentな中学生を利用した日教組にせよ全教にせよ教祖の政治行動に対して、どう国民は対応すればよいのか。

簡単である。今後、北星学園女子中高の卒業生が求職の履歴書を送ってきても、門前払いにする。これを国民各自が自分の影響力の範囲でやれば・・・別に、薦めているわけではないが(笑)・・・、こんな全教の拠点校など数年で倒産するだろう。そうして、それを契機にしてinnocentな中学生諸君が世間のルールを覚えていただければ、北星学園女子中高の子供達にとってもトータルではよいことではないか。私はそう考える。

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中学生たちの抗議行動は教師から教唆されたのだとしたら、これは重大な問題です。学校は特定の思想や宗教や政党の支持を生徒に強要はもちろん、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない(教育基本法第8条第2項)」からです。ほかならぬ教育基本法がそう定めています。共産党を支持する教師が、生徒たちを自分の政治活動のための道具としたのなら、事実を解明し責任を追及するべきだと思います。でも、上記の記事の(4)では、「証拠はまだない」とおっしゃっておられるようです。証拠がなければ責任は追及できないんじゃないでしょうか。

でももし、生徒たちがほんとうに自発的に行動したことであれば、ただ教師が共産党員であり、学校が全教・道教組の拠点であるからという理由で、生徒たちを侮辱し、自発的な行動を非難するのは間違いだと思います。教育基本法の第8条の第1項には、「良識ある公民たるに必要な政治的素養は、教育上これを尊重しなければならない」と規定されています。わたしは、中学生でも自発的に政府に抗議するのは「良識ある公民たるに」ふさわしい「政治的素養」であると考えます。ですからそれは尊重するべきです。あくまで「自発的」であったのであれば。

でも松尾さんが「innocent(松雄さんは『馬鹿な』という意味で使っておられるようです)な中学生諸君が世間のルールを覚えていただければ」と書いておられるところの「世間のルール」って何なのでしょう。この点はちょっと曖昧な書き方だと感じました。もしそれが、「子どもは大人の世界のことに口出しせず、黙っていうことを聞いておけ」という意味なら(この記事へのコメントにはそのような発言がありましたが)、わたしは強い嫌悪感を感じます。それは子どもたちに特定の考え方をするな、自分の頭でものを考えることをするな、という隠れたメッセージを含んでいると感じるからです。そういう態度には絶対抵抗する決意を持っています。

もう一つ、「innocentな中学生を利用した日教組にせよ全教にせよ教祖の政治行動に対して、どう国民は対応すればよいのか。簡単である。今後、北星学園女子中高の卒業生が求職の履歴書を送ってきても、門前払いにする。これを国民各自が自分の影響力の範囲でやれば・・・別に、薦めているわけではないが(笑)」とおっしゃることにも嫌悪を感じました。この出来事が学校・教師によるヤラセであったのなら、学校・教師を責めるべきです。生徒たちがなぜ処罰されなければならないのでしょうか。しかも将来の生計を立てられないようにするというようなやり方で。これは思想の強制にもつながらないでしょうか。もちろん、松尾さんは「別に薦めているわけではない」から、目くじら立ててはいけないのかもしれませんが。

「華氏451度」の発信者の方は、「それにしても……国家のやることに疑問を呈する人々が「非国民」と呼ばれ、陰に陽に嫌がらせを受け、場合によっては罪に落とされた時代がまた甦るのか」ということを危惧しておられます。自分の信条を感情的に擁護している場合、反対されたり批判されたりすると、攻撃に転じるようになります。エホバの証人は自分たちの「信仰の理由を」筋道立てて、論拠を提示しながら「弁明」することができません(引用句はペテロ第一3:15)。ですからエホバの証人の組織側は「疑問を持つな」と露骨に教えます。組織の側の教理や指導などに(もちろん、輸血拒否の教理などその典型)に疑問を感じても、それを口にすると「ヤバイ」ことになる場合があります。疑問を口にすると、「調査」されたり、会衆内での立場を落とされたりといった精神的な処罰を受けます。

わたしは、そういう思想・言論の自由を剥奪されていた経験があるので、脅迫によって黙らされるということにはものすごい反発を覚えるのです。エホバの証人だけではなく、教育勅語体制下では言論を下手にすると拷問に責めさいなまれながら徐々に殺されるというサディスティックな仕打ちを受けることになりました。異なる意見を持つということになぜそこまで怒りを表すのでしょうか。当時は戦争中であり、肉親を戦争で失った場合には、体制への批判は自分の肉親の死を冒涜されたように感じた人もいたのかもしれません。偏見や偏狭さもあるでしょう。人間には貴賎の区別があり、それは維持されなければならないと信じ込む人は、「賎民」が思想を口にするのを許さないこともあるのでしょう。そういう人にとっては、「一般人」はエリート層を養い、支持するために生まれてきた「奉仕者」であればいいと信じるのです。ですから「国民」とは言わず「臣民」と言います。自分に自信を失ってしまった人は、「公共」に自分を同一化して、自分のアイデンティティを固めようとするのかもしれません。中国や韓国に敬意を持って扱ってもらえないことに屈辱を感じるのでしょうか。それとも生活上の不安をそらすために「公共への愛」につくのでしょうか。「愛国の作法」という姜尚中さんの最近刊行書の袖にこんなことが書かれています。「『改革』で政府によって打ち捨てられた『負け組』の人々ほど『愛国』に癒しを求めるのはなぜか」。松尾さんが「負け組」ということを言っているのでは決してありません。世の中一般の傾向をさして言っているのです。


国家・公共のために自分は自分の全てを捧げるんだという信念を持つのは、個人の自由です。それが「癒し」になるのであれば、それはそれでいいことだと思います。本人が自分に関してその信条をしっかり擁護すればいいことです。でもそうは思わない人もいます。「夫を過労死で失った。一生けんめい働いてくれたのはわかるけれど、いったい何のためだったのか…。家族のためではなく会社のためにあなたは生きていたのか。家族をどうしてもっと愛してくれなかったのか。どうして、あなたにいてほしいという家族の希望を尊重してくれなかったのか」という感想を持つ人は、公共のために自分を犠牲にするという考え方には同調しない人です。個人主義の方を評価する人です。もちろん、こういう人たちが「勝ち組」であると言うのでもありません。普通の生活人たちです。そういう人たちにまで、自分の信念・信条を脅迫によって信じさせようとすることに、わたしは凄まじい反感を覚えるのです。
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民主主義を実践する中学生たち

2006年11月20日 | 一般
「華氏451度」というgooブログでこんな記事を見つけました。無理やり引用させていただきます。




「教育基本法改定に反対する」中学生に拍手


北海道新聞 ■社会 バックナンバー
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【教育基本法改正に反対 北星女子中3生、首相に意見書】  2006/11/17 07:49
 

 十六日、衆院本会議で可決された教育基本法改正案について、北星学園女子中高(浅里慎也校長、札幌市中央区)の中学三年生が同日、改正反対を訴える安倍晋三首相あての意見書を送った。同校は現行の教育基本法をつくったメンバーの一人、河井道(一八七七-一九五三年)の母校で、生徒たちは「先輩がつくった基本法の精神を曲げないで」と訴えている。

 意見書はA4サイズで四枚。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げた改正案について、「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、おしつけられるものではない」と指摘。安倍首相に「本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか? 返答をください」と求めた。

 社会科で教育勅語について学んだのがきっかけ。改正案で「愛国心」が重視されていることを知った三年生一クラスの二十七人が「戦前のように心が強制されるのは嫌」と相談。連名で意見書を作成し、安倍首相のほか各党、扇千景参院議長にファクスで送った。

 改正案に反対する声は学校全体に広がり、中学では署名活動も行い、高校も意見書を作成したほか、一人ずつ反対意見を記したカードも募集した。十七日にも安倍首相や伊吹文明文部科学相などに郵送する。

 高校三年の生徒は「国にとって好ましくない人物というだけで、仕事などに影響が出るのは怖い」と訴える。意見書を送ったクラス担任の北野聡子教諭(32)は「子どもたちの行動力に驚いた。考える力が育っている証拠で、担任として誇りに思う」と話している。

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教育基本法改正案が衆院を通過した16日、札幌市にある北星学園女子中学高等学校の中学3年生達が、安倍首相宛に「改正反対を訴える」意見書を提出した。同校は現行の教育基本法を作ったメンバーの1人である河井道の母校で、生徒達は「先輩が作った教育基本法の精神を曲げないで欲しい」と訴えている、という。改正案反対の声は学校中に広がっており、高校でも意見書を作成するなどの行動が起こされているそうだ。(詳細は北海道新聞の記事を参照)

〈匿名で学校を非難する卑劣さ〉

 この意見書提出について翌朝の新聞で報道されるや否や、匿名で「おまえたちはどういう教育をしているのか。国を愛する心を持つのはあたりまえだろう」といった類の強い「非難のメール」が何通も学校に送られたという。私はそれを「徒然気儘な綴り方帳」、「Tomorrow is Another Happy」「goo-needs' blog」などのブログからのTBで知り、呆然とした。

 むろん、何かの意見を表に出せば、それに対して反対意見を持つ人々からさまざまに言われるのは普通のことだ。意見書を提出した中学生も充分わかっているはずだし、「反対意見を述べる」こと自体は一向にかまわない。しかし匿名で「どういう教育しとるんじゃ」と噛みつくのは、「反対意見の表明」だろうか?

 この「非難メール」なるものは、学校を脅かした。札幌テレビ局の取材に応じた学校側は、生徒達の身に危険が及ぶことを懸念して、生徒へのインタビューは匿名を条件にしたという。評論家などであれば、脅迫的なメールや手紙にはある程度慣れている。少々の脅しは蚊に食われたぐらいにしか感じないかも知れない。しかし未成年や、未成年を預かっている学校にとっては、僅かな脅しにも(ぶっ殺すぞとか死ねなどというあからさまな脅しでなくても)恐怖を感じるはずだ。ましてや相手は何処の誰ともわからない。そういう相手から一方的に悪意的な、または嘲弄的な、あるいは高圧的な言葉を投げつけられれば、誰だってゾクリとする。札幌テレビ局の取材に応じた学校側は、生徒達の身に危険が及ぶことを懸念して、生徒へのインタビューは匿名を条件にしたという。

〈自主性を疑うのは10代への冒涜〉

 この問題に関して、ネット上で「生徒の自主的な行動かどうか疑わしい」といった声も出ているそうだ。教師がうまく誘導して、やらせたのではないかというわけだ。

 まさかね……。皆さんも、ちょっと考えればおわかりでしょう。中学3年生・15歳といえば、もう「お子様」ではない。特に早熟な子供でなくても、大人と同じ本も読むし、結構形而上的?なことも考える。自分の意見もしっかり持っている。親や教師の言うことを丸呑みしたりする年頃では、もう絶対にない。やれと言われたことを、ハイハイとそのままやったりはしない(むしろやるなと言われるようなことばかりやったり……あ、それは私だけか)。だいたい、100年足らず前にはこの年齢で既に社会に出ている少年の方が多かったのですよ?

「徒然気儘な……」のMcRashさんが、昨日の記事の中でこう書かれていた。

【15歳が子供から大人へと大きく踏み出し、身体のみならず心も大人たらんと必死の背伸びをして、それを自分の間尺にしようと悪戦苦闘している年頃であるということや、このネット社会にあって、教師がこう言ったから、ということを15歳にもなって全て真に受けるということがまずなかろうということに対する想像力のなさと、そうした想像力を身につけて、ひとりの市民として自己の身につけた良識に従って行動した若い芽を摘み取り、台無しにしようという醜い悪意。】

 そう。この中学生達は「考える力」を身に着けた子供達であり、私はこういう若い人達が育ったことを嬉しく思う。こういった若者を萎縮させ、つぶしてはならない。直接には何の力にもなれないことを自分でも歯がゆく思うが、せめて、今すぐ学校に激励の声を届けておくつもりだ。

◇◇◇◇◇◇◇

 それにしても……国家のやることに疑問を呈する人々が「非国民」と呼ばれ、陰に陽に嫌がらせを受け、場合によっては罪に落とされた時代がまた甦るのか。

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自分で考える力。自主的に声をあげる行動力。エホバの証人は老人でさえこのような市民意識を持ちません。 わたしたちは、ほんとうに民主主義に参加してきたでしょうか。それは自分で比較考量し、考え、そして自分で確信を得て主張するということなのです。
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「改正」教育基本法案前文を検証する

2006年11月20日 | 一般
現行教育基本法

前文: われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。



第1条(教育の目的): 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。



教育基本法「改正」法案

前文: 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

ここに、我々は、日本国憲法の精神に則り、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。


【第1章 教育の目的及び理念】
(教育の目的)第1条:
教育は人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

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まず、わたしが見た印象を述べます。前文では、「日本国憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という文章が削除されて、「民主的で文化的な国家(改正法案)」がある程度築き上げられており、それをさらに発展させることを願う、という表現になっています。以前の記事でご紹介したように、現行の教育基本法は、教育勅語体制下の教育への反省と、そういう教育の排除を期して制定されたものです。戦前は、国民ひとりひとりは自分の人生を自分のために生きるということを否定して生きていました。日本人は天皇=日本国家のために一命を捧げて献身することに価値があると幼少の頃から叩き込まれていました。

そもそも教育基本法を変えたいと切望する人々(森元首相、町村元外相といった人たち:日本国憲法の精神に則り、個人の出自などをとやかくいうのは避けたいですが、教育基本法改正にあたって、世論捏造などあまりに卑怯な手段を使うのでひと言いわせてもらいますと、町村元外相の父親は町村金吾といって、元特別高等警察官僚です。「告発! 戦後の特高官僚-戦後反動潮流の源泉」という本に、政界・財界・官僚に復帰してきた元特高官僚の名簿が掲載されています。興味のある方はぜひお読みになってください)もそういう人々の薫陶を受けて育った人々です。自分の教授されてきた価値観でしかものを考えようとしない人々なのです。

そういう考え方の人間を生まないようにと、あえて教育のための基本法、憲法のような法を制定したのでした。現行の教育基本法がいうところの「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」というのは、国民が二度と全体主義の犠牲にならないように、ひとりひとりが自分のほんとうに望む生きかたを実現してゆけるようにという願いが表現されているのです。教育勅語が押しつけてきたような、国家天皇のために自分の望むものを放棄させられることのないように、という願いです。現行教育基本法の第1条にも、「自主的精神」という文言があるように、自分の人生を自分のために追求していくことを保障しようとしています。憲法と教育基本法は「基本法」です。基本法は国家権力を拘束するための法なのです。ここでは国民の基本的人権がにどと国家によって剥奪されないように、国家を拘束することをめざすのです。

現実には、学校指導要領が国家によって一元的に管理されるようになったり、国家による教科書検定制度が定められたり、受験競争が激化させるような教育行政が行われてきたりで、自主的精神はほとんど育まれることはありませんでした。親を喜ばせるために勉強に励む「良い子」がある日突然キレて、暴力を振るうようになるのは、自分のほんとうの興味や気持ちなどを、親がまず理解しようとせず、親の希望や親の気持ちが推しつけられてきたからだということが、近年解明されてきました。ずっと以前、このブログでも、草薙厚子さんが著された「子どもが壊れる家」という本から一文をご紹介しました。教育基本法改正がらみで、またもう一度扱ってみますね。教育基本法を改正すれば子どもたちを取り巻く環境や問題が解決に向かうわけでは決してない、ということを書きます。

しかし、改正法案では明確に、「国家を発展させるため」、「我が国の未来を切り拓くため」という全体の目的に貢献できる「資質を備える」よう指導しようという意図が述べられているのです。国家を発展させるのがどこが悪いのか、とお尋ねになりますか。国が「国家の発展」を言うのは、文化の豊かさを追求するということではなく、経済力をますます高めてゆくこと、なのです。今でさえ、過労死や過労自殺が社会問題になっているのです。日本は経済大国になりましたが、それでわたしたち国民の暮らしは豊かになったでしょうか。むしろ時間に終われ、夫婦が顔を合わせる機会が減り、妻に子どものこと、同居する親のこと、さらにはこれからは介護のこともみな押しつけられ、それが不満を生み、不満は子どもとの密着度を高めて、子どもを自分の思いどおりにしようとし、子どもはそういう過干渉にキレるようになる…といった問題を生み出してきました。経済最優先の人生設計がわたしたちの暮らしを圧迫してきたのです。豊かさを実現したいのであれば、今こそ、経済最優先の方針を転換するべきなのです。教育基本法は「個性豊かな文化の創造をめざす」ように期しているのです。夫婦の気持ちの交流さえままならぬほど働かされる社会は「個性豊かな文化」を生み出したでしょうか。むしろ生きかた・考え方の画一化をもたらしたのです。

「改正」教育基本法は世界市場での競争力を高めるため、そのためにアメリカに寄生する必要があるために、そしてそういうグローバル経済の流れに乗って、教育勅語精神にしがみつく勢力が積年の目的を果たそうとする時流の上に現われたのでした。そこへ子どもの教育への自信の喪失(主にマスコミが、子どもの事件をセンセーショナルに取り上げて不安を醸造してきたからですが)が重なりました。

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高橋: 中央教育審議会の答申が出されてから3年くらいの間、わたしの印象では日本のメディアはあまりこれを取り上げてこなかったし、市民社会でもあまり関心は盛り上がらなかった。ある新聞記者に聞いたところでは、教其法の問題を取り上げてもあまり反応がない、ということでした。世論調査でも、教育基本法については改正・見直し賛成という人が結構多い。ところが教其法の中身については8割くらいの人が知らない。知らないのに、改正に賛成である、という。ここには極めて深刻で大きな問題が含まれています。

大内: 内容について知られていないのに、変えたほうがいい、という人が多いのはなぜなのか。そこには、今の教育に対する不安だけは広まっていて、なんとか教育をよくしたいという気持ちが多くの人にはある。その時に、よく知らないけれども教其法に問題がある、という宣伝がなされると、つい飛びついてしまう人も出てくる、ということでしょうね。

(「教育基本法『改正』を問う」/ 大内裕和・高橋哲哉・共著)

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わたしたちは、教育基本法がどういうものかよく知らなかったのです。わたしもそのひとりです。このブログを立ち上げ、エホバの証人の全体主義性を書いてみようという気持ちから、日本の歴史を読んでみてはじめて教育基本法や日本国憲法の制定された歴史的背景を読んだのでした。教育基本法改正は教育の問題を解決するためのものではありません。これから先日本が、日本国民の生活を犠牲にしてでも、アメリカの寵愛を得、それによって世界市場で有利に商売を拡張させ続けてゆこうというのが目的で、憲法改正のためのいわば外堀を埋める目的で教育基本法改正が議題に上ってきたのです。教育基本法は憲法と密接につながった基本法、準憲法的な法だからです。そして、引用した新教育基本法前文から、憲法とのつながりを記した文言が消えていることからわかるように、このたびの改正では、教育基本法と憲法とのつながりを絶つことが図られているのです。憲法学者の批判を少し引用してみましょう。

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法案の前文は、日本国憲法との関連を述べる現行法の規定を削除している。これは法案が憲法との関係を切断し、教育による憲法理念に実現という現行法の精神を放棄したことを意味する。ここに見られる「憲法との絶縁」という志向は法案全体の基調となっている。法案の前文が憲法に言及するのは、第3段落の「…日本国憲法の精神にのっとり、…この法律を制定する」の部分のみである。以下、条文ごとにみるように、法案の憲法適合性は相当に疑わしい。だとすれば、「日本国憲法の精神にのっとり」の文言は、「改正」教其法の違憲性を隠蔽する免罪符の役割を果たし、さらには違憲である(!)法案教基法が「合憲的準憲法」の隠れ蓑の下に、教育の実践を(政府の思いどおりに)拘束してゆくという逆説的な状況を正当化することにもなる。

(ルナ註: わたしが読んだ感じでも、現行法では日本国憲法のめざす理念が書き込まれていて、その精神にのっとって教育基本法を制定する、と述べていて、言わんとするところがよくわかります。ところが法案基本法のほうでは、日本国憲法の精神とは何かについて一言も述べられていないのです。そんなところへ一文章だけ「憲法の精神にのっとり」と書かれても、その文言の意義が曖昧になっているのではないでしょうか。この引用文を書かれた筆者におっしゃるように、単なる飾り文句、隠れ蓑だとしたら、一文だけ「憲法の精神にのっとり」と入れた理由はわかります)。

法案の前文第1段落は、「我々日本国民」という一人称表現を用い、日本国家構成員たる日本国民がこれまで築いてきた日本国家をさらに発展させるために、一種の《自己拘束》の意味を込めてこの法律を制定するのだというコンセプトを表明している。続く第2段落は、現行規定にある教育理念の表現を多少変更し、「公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成」、「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育」などの新しい理念を加えている。

前文に道徳規範を盛り込み、それを国民の自己拘束規範として提示するという手法は、昨今の改憲提案にも見られる。そこには、法文作成上のルールにそれほど拘束されない前文という形式を利用して徳目を羅列し、これを含む憲法規範全体を国民の行動規範として《再定義》するという志向が見てとれる。法案は、教育基本法についても同様の《再定義》を試みるものだが、この試みは憲法及び教育基本法の規範性質を根本的に変えてしまうことになる。

憲法とは本来、権力拘束規範であり、その名宛人は国民ではなく権力担当者である。その憲法の精神に則って制定され、準憲法的性格を有する教育基本法も、同様に権力拘束規範でなければならない。現行教育基本法は、第10条1項(教育行政: 教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである)の「不当な支配」の禁止規定に見られるように、まさしく権力拘束規範としての性格を有しているが、法案はそのような現行法の規範性質を国民拘束規範へと180度転換させてしまうのである。

(「『教育基本法案』逐条批判-《道徳律》内面化の巧妙な仕掛け」/ 成嶋隆・著/ 「世界」2006年7月号より)

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道徳というものは、国家から法律によって教えられるものではありません。というか近代の法治国家は道徳から分離・独立するのです。

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近代国家において、法規範が他の社会規範から分離・独立することの第二の意義は、国家は人間の精神内部に立ち入ってはならないという原則である。…苛烈な宗教戦争や宗教と政治権力との争いをくぐり抜けて、精神的自由が基本的人権として確立されるのは、国家が特定の精神的価値の担い手となりえず、市民の精神的価値を左右してはならないという近代市民国家の原理的要請によるものである。…およそ正義一般がそれぞれの国や民族の道徳的・宗教的その他の文化的領域の影響を受けて異なった尺度を持っている(ものである)。

(「法とは何か」/ 渡辺洋三・著)

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近代国家においては法律によって道徳規範を推しつけようとしないのです。それは道徳、正義というのは人の持つ尺度によって異なるものだからであり、たとえば宗教の違いという尺度で、正義と正義の争いは凄惨なものとなってきたヨーロッパの歴史から学ばれた教訓でした。精神的自由がどれほど認められているかということは、その国の近代性、精神的円熟性を知る定規となるでしょう。逆に精神的自由が制限されるとすれば、その国は全体主義に陥っているか、独裁者の支配下にあるかです。日本がいま教育基本法と憲法によって道徳を国民に押しつけるのであれば、日本は近代世界から大きく後退することになるでしょう。そこまでして日本は経済大国という看板にこだわるのでしょうか。

新法案の第1条の検証についてはまた機会を改めましょう。とにかく、このブログをみてくださったみなさま、教育基本法の改正は、重大な転換を日本にもたらすことになります。難しい問題を考えるのはおっくうでしょうし、法律の一つや二つ、変わったところで自分を取り巻く環境が急によくなるわけでもないさ、と思うのも理解できます。しかし、もしエホバの証人という宗教の中で、多くの屈辱を味わい、人生の貴重な時間と機会を棒に振ってきたことに怒りを覚えるのであれば、いま日本が舵を切った方向はまさに、あのエホバの証人社会の方向なのですから、少なくともそういう社会がもたらす心痛と空虚さを伝えることくらいはできるのではないでしょうか。

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教育基本法「改正」案・衆院通過:その背後にあるもの

2006年11月16日 | 一般
自民党は、教育基本法改正案について、議論は十分尽くされたと言っていますが、なんという厚かましさでしょう。つい先ごろ、タウン・ミーティングのやらせが発覚したばかりなのに。やらせの「世論捏造」なのですから、議論は何も行われていないのです。自民党が教育基本法改正案を強行採決衆で議院通過させようとすることは暴挙です。

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教育基本法改正に向けた全国64ヶ所にのぼるタウン・ミーティングで、「理解が得られた」と上程された「新教育基本法」だが、政府側の意向に沿った発言工作がなされ、タウン・ミーティング自体がやらせだったことが発覚した。

また「未履修問題」で内申書などの大量の公文書偽造も発覚。学習指導要領に基づく教育行政の破綻が明確になり、学習指導要領こそが教育の混乱と荒廃の原因であることも明確になった。「教育改革」の前提が崩れている以上、もはや、法案を撤回するしかありません。



自民・公明両党の圧倒的な国会議席の前に、国民は無力な存在なのでしょうか。わたしたち(九条の会・さいたま)はそう思いません。現憲法が規定しているように、わたしたちは国の主権者であり、具体的に国会議員を選出する立場です。その立場から、国政に送り出している国会議員の足元で、わたしたちは腹を据えて地域から闘おうとしています。



「教育基本法改正→憲法改正」の背後にあるもの;
「日本の自衛隊の艦船が(大陸から発射された)ミサイルを捕捉した場合、それが第三国に向けたものでも迎撃できるのか。そうした問題について今、すぐに答えを出したほうがいい」。
(2006年10月27日、シーファー駐日アメリカ合衆国大使の弁)

ルナ註:これはつまりアメリカへ向けたミサイルを日本の自衛隊が迎撃できるように法整備してくれという要求なのです。アメリカの世界戦略再編の一環として進んでいる事態なのです。

(以上、「九条の会・さいたま」発行のチラシより)

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日本は単に、アメリカの世界戦略に利用されているだけなのです。アメリカに協力するために、その資金を調達する必要があるので、これまでの「構造改革」は進められてきたようです。以前、このブログのコメントに、「郵政改革はアメリカを利する目的だ」と書いてくださった方がおられました。これは日本の郵便貯金のお金が自由化され、外国へも流れる道を拓いたということだったようです。アメリカの世界戦略の再編については、これから調べて、書くつもりです。こういうふうな、政府への露骨な批判を書くと、もうgooブログで検索をしてもヒットしなくなるので、どうか時々、寄っていただければと願います。そしてできる限り、このブログでご紹介する本や、ブックレットや、パンフレットをご自分で読んでいただければ、と願う次第です。わたしたちの税金は、わたしたち日本国民の福利厚生のために使ってほしいじゃないですか。アメリカ軍とアメリカの世界戦略のために、わたしたちの税金が、わたしたちの福利を削って差し出さなければならないなんて、絶対不合理です。

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20世紀の後半、米国はソ連の侵略を封じ込めることを主な目的として、海外の軍事基地の世界的なシステムを発展させた。米国の海外でのプレゼンスは、米国の国益と、国益に対して起こりうる脅威と密接に結びついていた。しかし、西ヨーロッパと東北アジアに集中したこの海外プレゼンスの態勢は、新しい戦略的環境では適切ではない。米国の国益が世界規模となり、世界の他の地域での脅威の可能性が現われつつある(「2001年版QDR=4年毎の国防政策見直し;Quadrennial Defense Review」)。

このように、米国国防総省は、西ヨーロッパと東北アジア(=韓国、とくに日本、沖縄)には過剰に米軍が配置されているという現状認識を強調した。



各国と米軍再編交渉を進めるにあたって、米国攻防総省は具体的な方針を打ち出した。その代表的なものは、2004年6月23日の米下院軍事委員会におけるファイス国防次官の証言であろう。ファイス次官は、ネオコンの論客で、米軍再編に関する理論的指導者であった。彼は次の5項目の原則を掲げた。

1. 同盟国の役割を強化する。
2. 不確実性と戦うための柔軟性を高める。
3. 地域内のみならず地域を越えた役割を持たせる。
4. 迅速に展開できる能力を発展させる。
5. 数ではなくて能力を重視する。

このうち、第一原則は中心的「再編イデオロギー」と言える。すなわち、米軍再編は、同盟国と米国の共通の利益のために行われるのだから、同盟国自身も変わってほしい、という主張である。そして、「同盟国や友好国が彼ら自身の軍隊、軍事ドクトリン、戦略を近代化するのを助ける」こと、また「彼らと共に軍事能力を転換するような方法を探究する」ことを原理として掲げた。

(「米軍再編-その狙いとは」/ 梅林宏道・著)


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この第一原則は、日米安全保障体制の転換を要求するものです。米国は日本に、軍事的により大きな役割を担わせようとしているのです。自衛隊の海外派兵はその現われです。今は特別措置法で対応していますが、安部晋三の狙いは、公言しているように、憲法の改正によって、公に対応しようとするものです。また近々、詳しく書きます。とにかく、今日本は、小泉や安倍の言うような、アメリカの同盟国というよりはほとんど属国になろうとしているようにさえ思えます。教育基本法改悪は、このアメリカの思惑の一環なのです。ぜひ、撤回に向けて声をあげましょう。インターネットが進んだ時代ですから、メールで自民党のHPに抗議を送ることができますし、社民党や民主党に応援のメールを送ることもできます。わたしたちとわたしたちの子どもの暮らしにかかわる問題でもあるのですから。

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教育基本法-なぜ護りたいのか

2006年11月12日 | 一般
教育基本法前文: われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

第1条(教育の目的): 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

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教育基本法は、日本国憲法と密接につながった法律であることが、前文で明らかにされています。日本国憲法の理念の実現は「教育の力にまつべきもの」であるので、制定されたのです。

「しかし本来、教育というものは法律がなくても始められるものです。子どもが大人から何かを学び取ろうとし、大人が子どものことを大切に思ってかかわろうとする瞬間に、人格的な出会い、双方向的な学びの過程としての教育というものが動き出します。そこには法律の出る幕はありません。何を教えなさい、どんな教え方をしてはいけません、というような国のルールは、教育という営みにとって、基本的には無縁です。それにもかかわらず、1947年の日本は、教育の基本的なあり方について、教育基本法という法律を定める道を選びました。それには理由がありました(「教育基本法『改正』;私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)。

それでも教育に法が関わるとき、そこには法という手段を通してでなければ確保できない何らかの目的があると考えるべきであろう。(現在の)教育論が“あるべき教育”を探っていることと比べていうと、教育に法が関わるとき、そこには“あってはならない教育”を排除するという目的がある。教育基本法が上位の法律として確定しておかなければならないと考えた“あってはならない教育”とは何か(「学校が愛国心を教えるとき」/ 西原博史・著)」。

本来、教育に国家・法律の入り込む余地があるものでないのに、あえて教育基本法が制定されたのはなぜでしょうか。「あってはならない教育」ってなんなのでしょうか。それは、上記前文の写しの2段落目にある、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければ」という条文と、第1条の条文が示唆しています。キーワードは、「個人の尊厳を重んじ」「個人の価値を尊び」「自主的精神に充ちた」ということばです。西原教授のことばで示しましょう。

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教育基本法を必要としていた最大の理由は、戦前・戦中の教育に対する反省でした。教育基本法に先だつ時代、大日本帝国憲法の下では、教育は、教育勅語という天皇の言葉によって根本的なあり方が定められていました。1890年発布のこの勅語は、天皇が「爾(なんじ)臣民」に向けて、道徳原理を説く形で、よき「臣民」としてのあり方を指し示すものでした。

この時代、国民は国の主権者ではなく、あくまで天皇の「赤子(せきし)」として保護の対象とされ、その見返りとして無条件の忠誠を要求された「臣民」でした。国民はその意味で、自分自身で(自分のこと全般を)決断することも出来ない、半人前の存在とされていたのです。その半人前の存在(=国民)に対して道を説く天皇の言葉が、教育勅語でした。

そのため、教育勅語の内容は、最終的には天皇に対する絶対的な忠誠に集約する形になっていました。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ」ることが求められたのです。この時代のキーワードであった「滅私奉公」、つまり「私」的なことは一切捨て去って、「公」に尽くすことが理念として掲げられていました。そこでいう「公」は、天皇のため=お国のため、ということになります。そして最終的には、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(天地のように果てしのない皇室の繁栄を助けなさい、の意)」という点が、すべての価値の源とされていました。

もっとも、この教育勅語で語られていたことの全部が全部、排除すべきものだったわけではないでしょう。というのも、人間が生きていく上で、「私」よりも大事な何かを探すことに、意味がないわけではありません。意義ある人生を送ろうと思ったとき、自分が邁進できる理想、自分が尽くすことのできる何かあるいは誰かを意識することに意味があるという考え方も成り立ちます。そのため、「滅私奉公」という考えかたそのものが排斥されるべきものだということには必ずしもならないと思います。ただここでの問題の核心は、自分にとって大切なものを自分で選び取ってゆけるのか、それとも権力によって与えられたものを選択の余地のないものとして受けとめるのか、という点にあります。

天皇への献身が中心にあったわけですから、教育勅語体制が、戦時中に行われた軍国主義教育において、その力を最大限に発揮していったのは必然的でした。そこでは、天皇のために死地に赴き、立派に戦い美しく散る(=死ぬ)ことが、日本人として生きる目的だと教えられました。また女の子は、戦死して「英霊」となる道が閉ざされていたため、選挙権もない二級の国民の立場に追いやられ、優秀な兵士を産む生産機械として生きていくことが求められたのです。

こうした軍国主義下での教育は、いずれにしても、子どもを死を怖れぬ兵士に作り変え、消費していくためのものでした。こどもひとりひとりの生命やさまざまな個人的な思いに価値はなく、ただお国のため、天皇のために死んでいく瞬間に真の日本人として輝く、という考え方です。これは子どもを生かすための教育ではありませんでした。子どもはあくまで、国家のために役立つべき存在であって、その意味では国家のための道具にほかならず、子どもを道具として洗練させてゆくプロセスが教育だったといえるでしょう。こういう考え方を、「子どもの道具化」と呼びたいと思います。

敗戦のとき、多くの国民は「「だまされていた」という感覚をもったと伝えられています(西原教授は戦後生まれ)。もちろん、この「だまされていた」という感覚は、情報操作によっていつわりの戦況報告を聞かされていたことに気づき、国際関係について基礎的な知識が伝えられていなかったことに気づき、浮かび上がってくるものでした。しかし、それと同時に、軍国主義による洗脳から解放されたとき、人生の根本的な意味についても、別の次元で「だまされていた」という感覚を抱かざるを得なかったことと思います。

そのため、戦後に再出発するときには、教育のあり方を根本的に考え直すことが必要でした。日本国憲法を作り、国民個人の基本的人権を保障していく国家のなかでは、ひとりひとりの子どもが大切にされ、尊重される教育を行っていかなければなりません。そうした反省をもって過去の教育勅語体制を見つめなおした場合、具体的な反省点が二つ浮かび上がってきました。

1. ひとつは、教育のあり方がすべて、天皇が上から定めた勅語によって律せられ、国民の意思が入り込めなかったことです。そこに組み込まれていた、天皇の側の絶対性と国民の側の無能力に基づく服従という関係こそが、誤りであったということになります。

そこで、その過ちを繰り返さないために、国民全体が、自分たちの問題として教育の根本的なあり方を決めてゆくことが必要になりました。法律という形で-しかも単なる法律よりは一段上の「基本法」として-どのような教育を行ってゆくのかを定める手法は、国民のこの決断を表現するための手続きとして選択されたものです。

2. もうひとつの誤りは、教育が目指す方向にありました。教育勅語体制のなかで、教育は、子どもを社会にとって便利な道具に改造してゆくためのプロセスでした。それに対して、個人の基本的人権を保障し、国民主権の原理を採用した日本国憲法は、ひとりひとりの子どもを、単なる支配の客体ではなく、主権者に育ててゆくべきかけがえのない個人であると認めていきます。

日本国憲法は26条で、「教育を受ける権利」を保障しています。子どもが権利として、国家や社会に対して教育を行うよう要求できるとする考え方が取られたのです。その際、権利として保障される教育は、子どもを、未完成ながらも成長途上の大切な人格と考え、子どもが発達し、自分らしく生きていくことを支援できる教育でなければなりません。

また憲法19条が基本的人権として思想・良心の自由を認めています。それを前提にした教育ですから、学校で一つの考え方だけを注入し、子どもの人格的な発達を国家によって都合のいい方向へとねじ曲げることは許されません。こうしたことを考えたとき、子どもを便利な国家権力の道具へと作り変えようとする教育は、あきらかに「あってはならない教育」として排除されなければならないものでした。

(「教育基本法『改正』;私たちは何を選択するのか」/ 西原博史・著)

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今、日本が舵を切っている方向は、戦前・戦中のような軍国主義国家ではありません。帝国主義的覇権国家でもありませんが、「覇権」という面では似たようなところはあります。日本の戦後の外交はアメリカの手助けによって進められてきました。戦後の賠償もアメリカの梃入れで安上がりに上げてきましたし、経済の奇跡的な復興も、もとはといえば朝鮮戦争に「お陰」があるのです。日本が自由貿易によって成長してきた影にはアメリカの「援助・協力」があったのです。ですから日本は今でも相も変わらず、戦前同様の外交下手です。

北朝鮮との6カ国協議再開の問題でも、日本の参加は望ましくないと北朝鮮に言われます。北朝鮮は、「協議の結果はアメリカから聞けばいいではないか」と言いましたが、これは戦後日本の外交を喝破した、文字通りの「名言」でしょう。国防力を強化し、国民総動員体制へと引っぱってゆこうと主張する、教育基本法「改正」論者たちは、中国や韓国、北朝鮮からこういう言い方をされることに屈辱を覚えるのです。だから、日本は発言力を増すために、マッチョになろうといいます。みなさんならどうでしょう。個人的に反目しあっている誰かが力ずくの姿勢を見せたら、みなさんならおずおずと引き下がりますか。そうではないでしょう。向こうが腕まくりをするなら、こっちもファイティング・ポーズを取るのです。外交手腕がないからこういう短絡的な手法に訴えるのです。暴力沙汰になれば、その時は国民の安全を守ることは出来なくなります。戦争になれば、日本だけが無傷でいることなどできないのです。誰かが被害を受けます。あなたはその「誰か」になりたいですか。わたしはゴメンです。ですから、国民の安全のために憲法の9条を改正しようという議論は欺瞞です。

「そんなことではどうする、日本国の危機に際したなら、命を捨ててでも戦うのが道理というものだ」という反論が聞こえてきそうですが、まさにそういう考え方に素直に同調する人間にならせるために、教育基本法を「改正」しようとしているのです。日本は外交ができないので、全面的にアメリカに頼っています。安倍総理のコメントにはアメリカべったりの考えが露骨に表れています。アメリカは世界で唯一、戦争に積極的な国です。そのアメリカと共に戦闘に従事できるようにしたいのです、今、日本の舵取りをしている事業家たちは! すべては日本の経済活動を潤滑に行えるようにするための手段なのです。そのために国民の福祉を切り捨て、労働者を奴隷状態におき、一部のエリートのための体制にしたいのです。その流れに、政界、官僚界に復帰してきた、戦前教育に染まった人たちが乗っかっているのが、今現在の日本の潮流です。

教育基本法はまさに、そういう人間がふたたび日本国民を支配してしまわないようにという目的で制定されたのでした。教育基本法は前文によると、日本国憲法の「理想」を実現すべく定められた、憲法と同じく「基本法」です。すべての法律は基本法の範囲内でしか制定されず、執行されえません。教育基本法を変えるということはそのまま憲法を変えるということに直結します。いい方に変えるならともかく、今向かっているのは反動的な方向なのです。かつて反省した考え方の方向なのです。この流れは日本を豊かにはしません。国民の生活を向上させることはできません。日本が目指す経済格差社会というのは、封建時代の身分制のような社会です。そういうのをアリストクラシーと言います。貴族政治という意味です。新たに「貴族」の椅子に座るのは産業資本家たち、皇族、政治家や高級官僚たちです。

子どもたちの荒廃、学校の荒廃、家庭の崩壊、これらに責任があるのは教育基本法体制ではありません。教育基本法は、こんな社会にならないように権力側にタガをかける基本法です。戦後の行政が教育基本法の理念に逆らってきた結果なのです。ですから教育基本法を変えても子どもたちの救いにはなりません。それどころか、子どもたち、国民の精神をさらに追いつめてゆくでしょう。今、子どもたちを追いつめているのは、まさに、子ども個人の意思、個性が尊重されず、体制の要求する枠型にはまるのでなければきちんと評価してもらえない風潮なのです。それは教育勅語体制の重要な特徴でした。子どもたちのことを考えるというのであれば、また日本のことを考えるというのであれば、むしろ教育基本法の理念にいま一度立ち返るべきなのです。教育基本法が排除しようとしたものを再び法制化することでは決してないのです。



ところで、西原教授のお話を読んでいると、まざまざと思いこされるのがエホバの証人のありかたです。エホバの証人はほんとうに教育勅語体制に酷似しているなあと思われませんでしたか。国民を「臣民」と呼び、自己決定権を行使すると「まちがいを犯す」というので、道徳を上から押しつけること、子どもを生かすための教育ではなく、組織の看板のためなら輸血を拒否して死んでゆくことを選ぶようしつけること…。まさにエホバの証人の子どもたちは、組織の道具として洗練されるような教育を受けています。エホバへの献身を中心に据えた教育もそうです。組織によって生活のあらゆる面が監視され、指導される。70年代においては、夫婦の寝室の問題まで講演で話されていました。ほんとうのことですが「体位」の指示まであったのです。そのほか、観る映画、聴く音楽、娯楽、趣味、男女交際の細則…。あげればきりがありません。エホバの証人に嫌気がさしたみなさん、そのような暮らしは息がつまるものではありませんでしたか。自分のほんとうにやりたいことが否定され、ひたすら組織の「牧者たち」に気に入られるための人生、漠然としたいら立ちに苦しみませんでしたか。日本は今、ああいう社会になろうとしているのです。

逆に、西原教授のお話は、エホバの証人のマインド・コントロールをどのように脱ぎ捨てるかという重要なヒントも与えています。「個人の尊厳を重んじ」、「個人の価値を尊び」、「自主的精神を育む」ということが、目指すべき方向であるということです。人間は誰か他人の満足のための道具になってはならないのです。自分の人生は自分のものです。他人が変わって自分を操作してよいはずはないのです。「滅私奉公」は上から強要されるものではありません。自分で選んだものを理想として掲げ、追求してゆくべきものなのです。人生の目的は、他人に評価されることではありません。それは自分が満たされるものを選ぶものです。教育基本法は、その意味で、エホバの証人の救済のための重要な示唆を与えている法でもあるのです。


追記:東京在住の方、こんな運動があります。
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/1c8741b5c3fd9827f7adccbc2fe7a7f6/44
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2006年11月06日 | 一般
トラックバックっていったいなんなんでしょうね? よくわからないんですが、興味深い記事がトラックバックにありました。転載自由ということですので、以下に掲載します。エホバの証人の大会での、経験談や実演のようなことを国会議員もおこなっているのです。こんなヤラセで世論が形成されてゆくのだとしたら、たいへんなことです。次の選挙のとき、こういうことがあったと、どうか思い出してくださいね。記事の中のサイトのリンクへはジャンプできません。当のブログに行ってジャンプしてください。

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【民主主義の行方に係わる重要情報。転載熱望。抗議先を説明するブログの紹介付き】
 中国新聞(といっても、中国の新聞ではないから、早とちりしないように)が11月4日付社説で、【「やらせ」質問 甘く見られている国民】とのタイトルのもと、【政府が率先して民主主義の形骸(けいがい)化を進めているようで、やりきれない】、【一般国民にも、こうした場での一種の「やらせ」を容認する空気はないか。そうした「なあなあ」が民主主義を堕落させるのである。】とタウンミーティングやらせ問題の重要性を指摘した(全文は後掲)。

私は、ここ(←クリック)でも述べたとおり、安倍は退陣すべきだ、と思う。
その理由は、次のとおりである(なお、FAXの全文は、保坂議員のブログ参照)。

①この指示は、議論の活性化のためではなく、政府が、世論を一定の方向に誘導するために行われた。なぜなら、賛成意見を述べるようにという指示だったからである。世論の活性化であれば、反対意見を述べる役割を果たす人も決めなければならない。

②しかも、この指示は、政府の指示だということを隠すようにとの演技指導までなされた。政府と一体である与党が自らの意見として、ある法案に賛成だと述べるのは当然であるが、行政府たる政府が賛成だという事自体が、出過ぎた行為であるうえ、仮に政府が賛成意見を述べることまでは許容されるとしても、その意見を政府自身の声としてでなく、専門家の声として述べるよう指示するのは、市民を愚弄する行為である。(こう言えば、分かるかな。左翼政権が発足し、自衛隊を解体するための法案を提出し、各地で行われる集会で、自衛隊幹部に、自衛隊は不要だという発言を次々とさせた…これはアリ?!今回のタウンミーティング発言を容認することはこの自衛隊解体発言やらせをも容認することになる。いわゆる市民団体主催の集会でしこみ発言がなされることとは全く次元が違うんですよ)

③安倍政権以前の行為であるとはいえ、中国新聞も指摘するように、【安倍晋三首相は当時、内閣府を統括する官房長官であり、当事者だった。】のである。また、安倍は、この問題について、【「国民と双方向で意見交換できる大切な場であり、誤解があってはならない」】としか述べず、事実関係を徹底的に追及して関係者を厳正に処分するという見解を述べなかった。これは、内閣府の行為を内閣府の長として追認することになる。安倍の責任は重大だ。(そもそも「誤解」とは何だ!やらせは事実だし、誤解するようなことはないだろう。本当はやらせはなかったが、誤解されないようにしたいとでもいいたいのか。そうだとしたら、まったく反省していないことになる!)

④中国新聞によれば、【内閣府がネットに載せたタウンミーティング議事要旨によると、ひな型に似た表現の質問がみられる。内閣府当局者も「タウンミーティングの議論の活発化のために資料を提供することもある」と答弁しており、複数の出席者に依頼した可能性はある。さらに他のタウンミーティングへの疑念も残る。】ということであり、疑惑を明らかにするためには、非常に広範な事実究明が必要だが、そのようなつもりはまったくなさそうだ。市民を軽視しているとしか思われない。

④タウンミーティングやらせ発言問題は、【民主主義の形骸(けいがい)化】、【内閣府のこうした「やらせ」は、地方の場を甘くみている表れではないか。】という中国新聞の指摘どおり、民主主義・地方自治(=民主主義の学校)の軽視の現れであり、そのような者が、行政府のトップにいるべきではないことは明白である。

⑤しかも、安倍は、情報格差による憲法改正手続きによって(ここ←参照)、民主主義の学校たる地方自治を骨抜きにする新憲法案(ここ←参照)をその任期中に成立させようといている。これは、民主主義に対する挑戦であり、このような行為を市民側が容認するわけにはいかない。

みなさん、「なあなあ」ですまさず、安倍辞任まで追いつめようではありませんか!


瀬戸智子の枕草子さんのブログ(←クリック)に掲載された次の情報を利用しましょう。

《断固たる抗議の宛先》

内閣府への意見メールは
http://www.iijnet.or.jp/cao/opinion.html

内閣府への電話は
〒100-8914 千代田区永田町1-6-1
電話番号 03-5253-2111(大代表)
内閣府大臣官房人事課任用係 03-3581-2702

官房長官
塩崎 恭久  ,しおざき やすひさ ,自民,衆議院,愛媛1 ,4(参1),,内閣官房長官 拉致問題担当
http://www.y-shiozaki.or.jp/
shiozaki@y-shiozaki.or.jp
東京都千代田区永田町2-2-1 衆議院第1議員会館 6F 619号室
TEL:03-3508-7189(直通)
TEL:03-3581-5111(内線5619)
FAX:03-3508-3619
愛媛県松山市三番町4丁目7-19 塩崎恭久松山事務所
TEL:089-941-4843
FAX:089-941-4894

また、あんち・アンチエイジング・メロディさんのブログにも本丸の攻め方が紹介してあります。安倍の地元事務所、安倍を支持する企業、安倍を批判しないメディアに対しても、市民の怒りの声を届ける必要があるのではないでしょうか!(あんち・アンチエイジング・メロディさんのこちらのブログに各テレビ局の電話番号が掲載されています。)

メール専用としては、「憲法・教育基本法改悪反対! 抗議・要請メール」(←クリック)が充実しています。

■■中国新聞引用開始■■
政府主催の「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が出席予定者に会場からの「やらせ」の質問案をあらかじめ渡していたことが分かった。今国会で継続審議中の教育基本法改正案に賛成の立場からの「やらせ」で、細かい演技指導まで付いていた。政府が率先して民主主義の形骸(けいがい)化を進めているようで、やりきれない。

 一日の衆院教育基本法特別委員会で、共産党の石井郁子議員が裏付けの文書を見せながら質問、内閣府が質問案の作成を認めた。

 問題のタウンミーティングは、九月二日、青森県八戸市で当時の小坂憲次文部科学相も出席して開かれた。石井議員の質問などによると、八月三十日に出席予定者に、地元教育事務所を通して内閣府の質問案がファクスで送られてきた。そこには教育基本法改正案に賛成の立場からの質問のひな型として(1)時代に対応して見直すべき(2)改正案の「公共の精神」に共感(3)教育の原点は家庭教育―の三つが書かれていた。

 九月一日には青森県教育庁から「内閣府からの注意事項」として「あくまで自分の意見を言っているという感じで」とか「棒読みは避けて」といった細かい演技指導まで送られてきた。当の出席予定者は当日、会場の駐車場がいっぱいのため欠席したという。

 しかし、内閣府がネットに載せたタウンミーティング議事要旨によると、ひな型に似た表現の質問がみられる。内閣府当局者も「タウンミーティングの議論の活発化のために資料を提供することもある」と答弁しており、複数の出席者に依頼した可能性はある。さらに他のタウンミーティングへの疑念も残る。

 このタウンミーティングは小泉純一郎前首相時代のことだが、安倍晋三首相は当時、内閣府を統括する官房長官であり、当事者だった。内閣府のこうした「やらせ」は、地方の場を甘くみている表れではないか。それを唯々諾々と受ける地方の教育機関や、周辺の市民にも反省すべき点があろう。さらに、一般国民にも、こうした場での一種の「やらせ」を容認する空気はないか。そうした「なあなあ」が民主主義を堕落させるのである。

 安倍首相は「国民と双方向で意見交換できる大切な場であり、誤解があってはならない」と内閣府を注意した。塩崎恭久官房長官も事実関係の調査を命じた。真の民主主義へ、きっちり見直したい。

■■中国新聞引用終了■■







また,このブログの趣旨の紹介及びTB&コメントの際のお願いはこちら(←クリック)まで。転載、引用大歓迎です。なお、安倍辞任までの間、字数が許す限り、タイトルに安倍辞任要求を盛り込むようにしています(ここ←参照下さい)。
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「キタチョーセン」ってそんなに悪い国? だったら…

2006年11月05日 | 一般
あるオピニオン誌にこんな投書が掲載されました。ちょっとみなさん、正直に考えてみてください。

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数年前にある講演会で、「日本人はなぜ北朝鮮が嫌いなんでしょうね」という素朴な質問が出た。すると講師の辛淑玉さんは、日本人があの国の体制のなかに自分たちの最も見たくないものを見てしまうからだと答えた。それがわが国の天皇制をさしていることはいうまでもない。

日本の(旧)天皇制と北朝鮮の金王朝とは、封建的な世襲制を基本とする点で外観上よく似ているように見える。また、多くの国民がこれを支持して敬い、天皇や主席を国父とする家族主義的国家の様相を呈しているところも共通している。だから日本人が北朝鮮を見るときには、あたかも自国の写し絵のようなものを相手国の姿に感じとってしまうのかもしれない。これは一種の民族的文化的な近親憎悪に近い感情ではないだろうか。

さる10月9日に北朝鮮が核爆発の実験を行ったと発表した際も、日本のテレビや新聞はひっくりかえるようなパニック報道に走った。いまから8年前にインドとパキスタンが相次いで核実験に踏み切った当時、国内のマスコミはこれほどの騒ぎはしなかったように思える。それは印パ両国が日本に対しておよそ無害な存在と考えられるのに比べて、北朝鮮は「拉致」の前例を含め、何をしでかすかわからない危険な国というイメージがあるからだろう。

まんざら理解できなくないにせよ、ここには行為の善悪を評定する上での、対外的な二重基準が見て取れる。

(「週間金曜日」/2006年11月3日号 投書欄より)

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例えばですが、わたしたち個人個人には、生理的に嫌いだという人が時々いるかもしれません。どの心理療法の書物にも、ポップサイコロジー系の自己啓発モノの本にも言われていることですが、そういう「嫌い」なひとっていうのは、実は自分とよく似た人であることが多いのだそうです。つまり、自分の嫌な面をその人を通して見せつけられるからだ、というのです。

国家と国家との関係でも同じことは言えるのでしょうか。言えると思います。所詮、人間の集まりですから。北朝鮮と似た面には、公然と皇室を評論できない雰囲気があります。昭和天皇の戦争責任を公に発言した長崎市長が暴漢に襲われた事件がありました。また国民が無気力で政治に関心を持たず、憲法の改訂や教育基本法の改訂などの重要な事態の進展にも深く考えてゆこうとはしないのです。国家の威信を上げるためには核武装をも含め、軍事力を強化しようという空気は、まず国民の側にあるのです。一方で、個人的な考えを貫いて、イラクでボランティアをしていた人たちが人質に取られると、国民の税金を無駄に使わせたと騒ぎます。日本人は人質たちを冷遇しましたが、彼らを擁護したのはアメリカの当時の国務長官コリン・パウエルでした。

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自由な民主主義国家において、自分の意志でイラクに行くということ自体をバッシングするのはおかしいというのが、国際常識である。日本で人質バッシングが拡大した時期、見かねたパウエル国務長官が世界の常識を代表する形でJNNのインタビューに対し、こう話した。

「誰もリスクを引き受けなければ、我々は前進することができない。危険を知りながら良い目的のためにイラクに入る市民がいることを、日本人は誇りに思うべきだ」。

外国の、しかも(悪名高いブッシュ政権の)政治家に指摘されること自体が情けないことだが、本来、これは小泉純一郎がまっ先にいうべき言葉だったはずだ。ところが政府がやったことは正反対で、人質とその家族のネガティブ情報を非公式にメディアにリークすることだった。

自民党の柏村武昭議員にいたっては、「人質の中には自衛隊のイラク派遣に公然と反対していた人もいるらしい。そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」とまで公言した。正直言って、このような発言がたいした問題にならないのだとすれば、日本国民は相当になめられている。意見を持つことすら許さないとは、日本はいつから北朝鮮並みの独裁国家になったのだろうか。

(「日本マスコミ『臆病』の構造」/ ベンジャミン・フルフォード・著)

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日本はいつから自由に意見を言えないようになったのでしょうか。いつから自分の意志で政府の方針に反対の運動ができないようになったのでしょうか。はっきりいいます。戦後まもなくはじまっていたのです。昭和天皇の戦争責任をうやむやにしようとしたときから、それは始まっていたのです。たしかに、日本は北朝鮮と似ている。教育に行政が介入しやすいように、そしてアメリカの軍事行動に共同参戦できるように、反対する運動や言論を抑えこむために、教育基本法の改訂、憲法の改訂、共謀罪の制定への布石が順調に順調に進んでいる…。恥ずかしいことだ、情けないことだと思う。
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