Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

愚か者の終わりなき遊戯

2007年02月25日 | 一般
「欧州の外交官らは、米国政府がイランに対し、核開発計画を阻止するため空爆を行うのではないかと懸念している」(英『ガーディアン』紙 07年1月31日付)

また戦争の機運が現実味を帯びてきてます。仕掛人は言うまでもなく、アメリカ合衆国です。先週の「週刊金曜日」に、ルポライターの成澤宗男さんが、ブッシュ政権の動向をレポートした記事を投稿しておられます。

---------------------------------

このところ世界の主要紙・誌では、こうしたきな臭い観測に満ちた記事が目立つ。きっかけとなったのは、07年1月10日のブッシュ米大統領による対イラク「新方針」発表の演説であり、焦点だったイラクへの増派以上に力点を置いてイランを批判した。

「イランはイラクで(反米勢力が)米軍を攻撃する物質的な支援を与えている。…われわれは支援の流れを阻止する。イラクの我々の敵に先端兵器を供与し、訓練を施す組織網を見つけ出し、粉砕する。…われわれは他の諸国と共に、イランが核兵器を入手したり、地域を支配するのを阻止するために働く」。

この演説と同時に、ペルシャ湾に展開中の原子力空母アイゼンハワーに加え、二隻目の同型艦ステニスの投入と、米軍基地を抱えた湾岸諸国に敵のミサイルを打ち落とすパトリオット地対空ミサイルの配備も発表した。

さらにその後、「もしイランがイラクでの軍事行動をエスカレートさせて、わが軍とイラクの市民に危害を及ぼすなら、断固反撃する」と述べたのに続き、1月26日にはイラクの米軍に対し「米軍やイラク国民に脅威と見なされたイラン人の拘束・殺害」を命令。同時期に「武装勢力が道路爆弾に使う簡易爆発装置(IED)をイランが供与している」(国家安全保障会議広報官)といった政府高官の批判もいっせいに噴き出した。

このIEDはイラクにおける米軍兵士死者の約4割を生む強力な兵器となっており、あたかもイラクにおける米軍の苦戦はイランのせいであるかのようなブッシュ政権の宣伝にいまや欠かせない「材料」となっている。

だが米『ロサンゼルス・タイムズ』紙1月23日付が報じているように、「政府の『イランの関与』についての主張を裏付けるような証拠は乏しく、シーア派が多数の南部に駐留する英国軍も、イラン製の武器を発見したことはまったくない」というのが実情だ。もっともブッシュ政権はイラク戦争も「大量破壊兵器」といったウソの口実で仕掛けており、裏を返せばそれだけ事態は切迫している。



イラン包囲網の増強の動きが新たな戦争に直結するのかどうかはまだ未知数な面は残るが、冷戦時代は対ソ連タカ派としてならしたZ・ブレジンスキー元大統領補佐官は先月末、上院外交委員会で証言に立ち、「ブッシュ政権はイラクでの失敗をイランのせいにし、対イラン攻撃の口実を捏造している」と批判。陸海の退役将軍3人も連名で2月4日、「イランへの武力攻撃は中東とイラク駐留米軍に破局的な結果をもたらす」と警告し、外交による問題解決を求める異例の声明を発表するなど、開戦をめぐって緊迫感が高まっているのも確かだ。すでにホワイトハウスは、国内外の目をイラクからイランにそらすだけでなく、「イランの体制打倒なくしてイラク戦争の解決はないとの認識に傾いている」(JJ Steinberg “War Plans Versus Iran Updated”)とされ、今後不測の事態が懸念される。


(「週刊金曜日」2007年2月16日号)

---------------------------------

「他の諸国と共に」って、それに日本も含めてるつもり? (^^; 冗談じゃないですよ。ああ、でも安倍さんなら、アメリカに忠実に従うのかなあ…。もう、防衛庁ではなく、「省」ですもんね。「ついにアメリカ陛下に貢献できるときが来た」っていう感じ?

さて、話を戻しますが、イラクにおけるアメリカの「民主化安定」工作は逆に中東地域の情勢を混迷させるという皮肉な結果をもたらしているようです。というのは、こういう事情があるようです。

---------------------------------

ブッシュ政権は「イラクの民主化」という思い入れで作り出したシーア派主導のマリキ政権の「弱者の恫喝」に揺さぶられて撤退さえままならず、スンニ派を抑圧し、「シーア派のイラク」を作り上げることに力を貸しているにすぎない。

イラク戦争後の中東で、もっとも力を得たのはシーア派イスラム、もっといえばシーア派のイランであった。何よりも、イラン・イラク戦争で血みどろの戦いを続けてきたサダム・フセインを米国が排除し、シーア派主導のイラクを「作ってくれた」。つまり、米軍撤退後は「イランの影響力を限りなく高められるイラク」が作り出されたのである。

しかも、米国のイラクにおける「反イスラム的行為」、つまり刑務所での虐待、住民虐殺などがイラン国民の感情に影響を与え、イラン国民は2005年秋、反米・反イスラエル強硬派を標榜する「革命原理派」のアフマディネジャド大統領を選出した。こうして米国にとって「もっとも危険で過激なイラン」が生まれた。核開発疑惑に関しても国際社会の懸念をよそに、いっさいの妥協も協調もしない強硬な姿勢をつらぬくイラクの隣国、という姿が現れたのである。


【サウジとイスラエルへ及ぼす影響】

しかもそういうイランを登場させたブッシュ政権の行動は、中東における米国の同盟国であるサウジアラビアやイスラエルにとってあまりにも愚かで危険なものである。なぜなら、サウジにとっては同胞であるスンニ派のイラクが、米国の力を借りたシーア派によって弾圧され、存在感を失うことは悪夢のような皮肉である。シーア派主導のイラクとなれば、ペルシャ湾の北側にイランの影響力が重く広がることになるからだ。そうすると、イラン・イラク戦争期に、スンニ派のサダム・フセイン政権を支援してきた努力が灰燼に帰すという、サウジの政権の基盤を揺るがしかねない事態となるのである。現に、親米派のバンダル王子(サウジ国家安全保障相)は、「イラクのスンニ派を救う」意識が強く、とりわけイランのシーア派のイラクへの影響力に強い警戒心を抱いている。

イスラエルの状況はさらに深刻である。イラク戦争については「フセインの排除はイスラエルの安全にプラス」との判断が働き「イラク戦争はイスラエルのための戦争」という言説さえ生んだ。しかしフセインを排除してみたら、その後ろから「シーア派イスラム」という「イスラエルの生存さえ否定する」もっとも怖ろしいモンスターが躍り出てきた。イスラエルはイランの支援を受けたレバノンのヒズボラの攻勢を受けてレバノン侵攻に踏み出し、消耗戦を強いられた。

またパレスチナ情勢も、米国とイスラエルの強硬路線に刺激されて武闘派のハマスが政権を掌握して混迷を深め、今となっては「対話ぐらいは成立したPLOのアラファトが懐かしい」と言われるほど血みどろの緊張関係に追い詰められている。



ブッシュ政権が本音ではイランの核施設攻撃計画を持っていることは、これまでも再三指摘されてきた。昨年4月末まではイラン中部のウラン濃縮工場への戦術核攻撃さえ検討しており、統合参謀本部の反対で断念したと言われる。しかし、この計画が息を吹き返しつつある。

イラク増派を決めた新政策でも明記しているごとく、「イラクにおけるイランとシリアの影響力排除」を実現しなければ、同盟国たるサウジ、イスラエルの離反さえ招きかねない。イランの影響力を削ぐ戦略を考えつめると、イランが国際社会を揺さぶるカードとなっている「核開発」を叩き潰すというシナリオが再浮上する。国連などを通じた制裁圧力で屈服させるのが望ましいが、軍事力でイランの野望を削ぐという選択肢も確保しておくという意思を固めつつあるといえる。


ペルシャ湾情勢は、新年に入って緊迫を高めている。米国は空母エンタープライズ、アイゼンハワーに加え、極東からステニスを2月までに配備、3空母艦隊という体制を整えつつある。潜水艦や機雷掃海艇をも配備しており、新年に起こった日本のタンカーとの衝突事故は、ペルシャ湾の緊迫を示すひとつの傍証である。

常識的には、米国がイラン攻撃に踏み込む可能性は低く、攻撃がもたらす中東情勢のさらなる混迷を考えれば、あってはならないシナリオであるが、いまやあり得ない、との断言ができない情勢である。少なくとも、航空兵力やミサイルで核施設を攻撃できる態勢を準備していることは確かである。また米国にとってイランは、1979年のホメイニ革命以来、テヘランの米大使館占拠事件をめぐる人質救出作戦の失敗など「ペンタゴンのトラウマ」ともいえ、26年間も国交断絶を続け、憎悪を蓄積してきた相手なのである。


【日本への影響は…?】

イラン攻撃がもたらす日本にとってのインパクトはイラク戦争どころではない。中東に原油供給の9割を依存する日本にとって、ペルシャ湾、ホルムズ海峡の安全は死活要素である。しかも、イランとはホメイニ革命後も断絶せず、正式の国交を保っている。積年の中東との良好な関係を活かして、米・イラン間の意思疎通に日本が果たしうる役割は小さくはない。


(「新たなる危機-イラン攻撃の可能性」/ 寺島実朗 / 「世界」2007年3月号より)

---------------------------------

終わりがない戦争の危機。終わらせるつもりもないのでしょうか。国民の求心力を維持するために、戦時下体制を続ける、というのは独裁者の手管だそうですから。そもそもアメリカはなぜ中東に手を出すのか。産業界の思惑通りに政治が操作されているのだとしたら…。商売人に政治を任せれば、市井の人々は宗教や文化が違うと言う理由で見下され、戦争に巻き込まれて命を落として行くのです。アメリカがイラン包囲網の構築のために、中東に戦力の重点を置くとしたら、たしかに東アジアの方面は、別の金持ちの国に安全保障の責任を担わせようとするのでしょうね…。外交力がないために国際関係を築けないある国なら、容易に武力に頼ろうとするでしょうから…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党の搾取支配に「ノー」を突きつけよう!

2007年02月19日 | 一般
エホバの証人の宗教伝道の訪問を、みなさんは受けたことがおありですか。ない、と言う人はほとんどいないでしょう。伝道者の中に、若い男性や、働き盛りの男性がいるのをご覧になったこともおありでしょう。とくに平日にそういう男性がいるのをみて、不思議に思われることはありませんか、「この人たちはいったいどうやって生計を立てているのだろう」と。

エホバの証人には「開拓奉仕」という制度があります。年間1000時間を伝道に費やす約束をした人たちです。一ヶ月に90時間を目標に布教活動を行います。すべてのエホバの証人は毎月「報告用紙」を提出するよう要求されます。その報告用紙によって、エホバの証人はすべて、義務づけられている伝道活動を確実に果たすよう管理されるのです。

月90時間といえば、かなりの時間です。独身の開拓者は週二日か三日のパートの仕事で生計を立てます。既婚者でも、平日に伝道をしている男性は、やはり仕事を減らして、野外奉仕(エホバの証人は戸別訪問をこう呼ぶ)に励むわけです。男性は特に、この開拓奉仕をするかしないかで、組織内での「進歩」と呼ばれる出世がかかってきます。形では強制はされませんが、出世に影響するのですから実質的には強制なのですが…。この開拓奉仕を行うために、男性、女性にかかわらず一定期間独身でいるよう強く勧められます。

最近ではこれを守る人は減ってきているそうです。若い男女が結婚してから、ふたりで協力して開拓奉仕を行い、夫がそれなりの地位に就けば子どもを生んで、「家族を養う責任が生じたので」という理由をつけて、ふつうに正規の就業を得るようになる、というのが要領のいい人たちのパターンです。要領の悪い人たちは、いつまでも出世から干されたまま、結婚の機会を逸してしまうケースも珍しくありません。一般に、男性は女性に比べて性的な衝動は強いそうなので、ほんとうにつらく、寂しいことだと思います。

さて、週に二日か三日しか働かない、ということは、では社会保障に費やすお金をどう捻出しているのでしょうか。親がエホバの証人で、生まれたときからエホバの証人教育を受けてきた「2世」といわれる人たちなら、親の援助を受けている場合があります。しかし、途中まで普通の市民として生きてきた人たちがエホバの証人になると、たいていはその親族から反対されますし、いい大人がいつまでも親の援助を受けることもできないので、経済面でもすべて自分で面倒を見なければありません。年金の支払いを免除してもらっている人が少なからずいます。

「ハルマゲドンがきて、世界が革命的な滅びを被れば、そのときキリストの支配する千年王国が政権を取ることになる、そうなればもう生活の不安は一切なくなるので、政府の社会保障に頼る必要はなくなる」、しかもハルマゲドンは「まもなく起きようとしている」ことを自分では信じているので、社会保障のための支払いをしないのはその信仰の強さの表れだ、というわけで、評価さえされるのです。健康保険にさえ入らない狂信者も稀にいました。でも、実際に大病を患ったり、大きな事故に遭って障害が残るような羽目になったときにはどうするのでしょうか。ものみの塔聖書冊子協会は「一切責任を負いません」!

そうなれば、そのエホバの証人は自分で責任を取らなければなりません。これがどんな生活になるか、想像できるでしょうか。さんざんおだてあげて、生計の手段を狭めさせ、それ(つまり生活の苦しさ、将来への不安を人工的に作ること)によって組織と宗教への求心力を生み出させようとする、この非人間的な策略。そしていざ個人が金に困ると「はい、自己責任」というわけです。怖ろしいでしょう?  

でも、今アメリカが世界中にばらまいている新自由主義という「伝染病」が目指すのは、エホバの証人の体制にある自己責任原則です。社会保障も、セーフティネットもみんなはずしてゆく。病気になれば自己責任、怪我によって障害を抱えれば自己責任、老後も自己責任、医療費は上げられる、税金も金持ちからは減税、庶民には大増税。映画「アダムス・ファミリー」のキャラクターのようなアーミテージは、日本に軍事貢献ができるよう憲法改正は望ましい、などとヌケヌケと提案したそうです。アメリカとしては石油の宝庫であるアラブに労力を集中させて、北朝鮮を中心とする東アジアの管理は「属国」日本にやらせてしまえ、という考えなのでしょう。アメリカの忠僕安倍晋三はしめしめ、という気持ちでしょう。国防費がかさめば税金もそれだけ取られることになります。

なぜ日本人はそれでも自民党に票を入れて、自分の首を絞めようとするのでしょうか。今日の日本社会の現状を説明した文章をご紹介します。

------------------------------------

現在の日本社会の息苦しさ、生きにくさは、生活における自己責任原則の浸透と、社会におけるパターナリズムの並存という、一見矛盾した現象に起因すると私は考えている。

従来の日本社会は、抱え込み社会ともいうべきもので、パターナリズムの仕組みと、個人に対するリスクからの保護の組み合わせによって、ある種の平等や安定を保ってきた。パターナリズムとは、個人の自由や自立を否定し、上下関係と権威への服従を強要する文化である。従来の日本では、会社における終身雇用制、業界における談合、中央省庁と地方自治体の関係など、パターナリズムの社会秩序があちこちに存在した。あるいは、行政指導という官僚の権威に従っていれば、業界における生存が保障された。

こうした秩序に疑問を持たず、多数派に同調していれば、雇用の確保、公共事業の受注など経済的生活に関する安定が保証された。業界における過酷な生存競争の抑止労働者に対する一定の賃金の確保などの形で、企業や人はリスクから保護された。もちろん、この秩序は自由や主体性を求める人や企業にとっては息苦しいものであり、「出る杭を打つ」制裁や抑圧が加えられた。

しかし、バブル崩壊後の日本的経営への見直しや、グローバル化にともなう競争圧力の浸透のなかで、パターナリズムのなかでも「温情主義(権威と上下関係に服従するなら、経済生活や社会保障は面倒を看よう、という社会風土)」の側面に批判が集まった。そして、この十年ほどのあいだ、雇用の流動化、地方交付税や公共事業費の削減によって、労働者や地域社会は大きな大きなリスクにさらされるようになった。しかも、増加するリスクに、人々は自己責任で対応することを強要されるようになっている。5年間の小泉時代を経て、行政は圧倒的に国民生活に対して冷淡になっている。障害者自立支援法、生活保護基準の切り下げ、医療制度改革など、その例は枚挙にいとまない。

ところがしかし、個人を縛ってきたパターナリズムの秩序は維持している(権威と上下関係には黙って従え、という見えない圧力)。その典型は教育基本法「改正」である。国を愛するということは人によってその内容が多種多様であり、およそ公定的な解釈は不可能である。それをむりやり法律に書き込み、子どもに国を愛する態度を持たせることが教育の目標になってしまった(ルナ註:エホバの証人の子どもたちは、エホバの証人組織に無条件・無批判に服従するよう教育されてきています)。教育再生会議では体罰の容認も検討されていると、首相補佐官は公言した。だとすれば、国を愛する態度が足りないので体罰を受けるという事態も、冗談ではなくなる。

それ以外にも、立川テント村事件など戦争に反対する市民の活動に警察、検察が恣意的で強権的な弾圧を加える事件が続発している。これらの事件では、特定の思想の表現し、他人に伝達したこと自体が罪に問われている。自由な個人が政治的意見を活発に表明する社会に対する嫌悪が警察、検察の行動からは伝わってくる。

いまや強者は(企業、官僚側)、自己責任とパターナリズムの結合という矛盾を平然と人々に押しつけようとしている。たとえば、ホワイトカラー・エグゼンプションに関して、「ザ・アール」という人材派遣会社の奥谷禮子(レイコ)氏は、次のように述べている。

「ホワイトカラー・エグゼンプションが過労死を招くという反発がありますが、だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だとわたしは思います。自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことはいえない、とヘンな自己規制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。挙げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人のせい。『残業が多すぎる、不当だ』と思えば、労働者が訴えれば民法で済むことではないですか」(「週刊東洋経済」2007年1月13日号)

あまりの身勝手な言い分に唖然とするばかりである。奥谷氏の会社は例外かもしれないが、今の日本のどこに、社員が自分の健康のためにいつでも時間外労働を拒否したり、休暇を取ったりできる会社があるのだろう。会社の中のパターナリズムを利用しつつ(権威には無条件・無批判に従わせる暗黙の圧力)、使用者は労働者にサービス残業を強いているのが現実ではないか。(ルナ註:これはよーく理解できます。エホバの証人は、「誰も強制はしていない」という言い分で、困窮した成員や、いじめられている成員への関心を放棄するからです。つまり、自分のほうに責任がある、というわけです。実際には服従しないと村八分にしたり、うわさのネタにされて、孤立させられ、いわゆる「パワハラ・モラハラ」を受けるのです。これでは事実上、「強制」なのです)



小泉改革のなかで、官僚の権威が攻撃され、社会の透明性や公平性が強調されたときに、従来型の日本的パターナリズムがもたらす息苦しさがなくなることを期待した人々もいたことだろう。とくに若い世代ほど、そのような理由で小泉政治に期待をかけた。実際、ある時期までのホリエモンや村上ファンドは、パターナリズムの秩序(行き過ぎた年功序列などの権威主義の圧力)を実力で突き崩したヒーローであった。しかし、小泉政治はそのときには精神的・身体的暴力をともなうパターナリズムと、冷酷な自己責任原理の組み合わせを作り出し、われわれに残したのだった。

今ほど政治家や経営者が傲慢になったことはないであろう。しかし、国民や労働者の怒りはそれほど明確には表れていない。このカラクリについては、精神分析医の香山リカ氏から聞いた分析を紹介しておきたい。

確かに今の社会ではリスクの個人化が徹底され、人は責任主体となることを求められている。しかし、そもそも人はそれほど強い存在ではない。過度な自己責任を求められた人は、むしろパターナリスティック(親分子分関係のような上意下達が強い主従関係)な関係に逃げ場を求める。若い世代を中心にいわゆるスピリチュアルな権威に帰依する人が増えているのも、そうした現象の表れであろう。教育基本法を「改正」して愛国心の注入を進めることにも、国民がまとまることは必要だという受けとめ方で受容するのだろう。

まして凶悪な犯罪が「続発」し (ルナ註:「」がつけられているのは、実際には増加しているのではなく、マスコミがセンセーショナルに、ケバケバしく取り上げるので目立つから、増加続発しているように見られている、そのことを言外に述べている。「Luna's “Tomorrow is a beautiful day”」の「カルトにハマる心の仕組み」をご覧いただければうれしいです)、北朝鮮という独裁国で核兵器を開発しているという状況で、善良な市民の生活を脅かすリスクが強調されれば、人々はむしろ強い権威にすがろうとする。

経済面では、労働コストを下げなければ国際競争に負けると脅されれば、自らの低賃金も受け入れてしまう。「サービス残業」の例が示すとおり、今の日本では自分の利益を最優先させる強い個人よりも、組織のためには多少の無理をも厭わない律儀な人間が依然として多い。

教育基本法「改正」の際に、戦後教育は権利ばかりを教えて、個人主義が行き過ぎたと保守派は主張したが、実は、社会に君臨するエリートこそもっともわがままで、もっとも私益を追求しているのである。法人税が高ければ企業は外国に逃げ出すぞ、などと国民を脅迫する経営者に「愛国心を持て」などと説教されても、誰も怪しまない。困ったときこそ「自己責任」という「期待される人間像」がそれだけ広まっているということであろうか。


(「政治の可能性を復活させよう」/ 山口二郎/ 「世界」2007年3月号より)

------------------------------------

「小泉改革のなかで、官僚の権威が攻撃され、社会の透明性や公平性が強調されたときに、従来型の日本的パターナリズムがもたらす息苦しさがなくなることを期待した人々もいたことだろう。とくに若い世代ほど、そのような理由で小泉政治に期待をかけた」…。

年功序列は若い才能を潰す傾向がありましたし、学校でも生まれつき髪の赤い子に、黒く染めて来い、などという画一化の強要があったり、「パターナリズム」はさまざまに人間を押しつぶすものでした。確かにこういった傾向は変えてゆくべき問題です。ですが、自民党がバブル崩壊以降進めてきた新自由主義化は、そういった傾向を変えるどころか、教育基本法「改正」に顕著に見られるように。法律に書き込んで権威を与えたのです。自民党が行ってきたのは、パターナリズム(個人の抑圧、強権支配、エホバの証人社会のような超権威主義)の解消ではなく、強化であり、権威づけであったのです。それをさらに確かなものにするのに、非富裕層の人権保障の縮小を行っているのです。医療制度改革しかり、障害者自立支援報しかり、生活保護法見直ししかり…。

「新」自由主義があるなら、「旧」自由主義はどうだったんでしょうか。それは19世紀後半、イギリスで産業革命が起こり、労働の機械化によって大量生産が可能になり、資本家が富を蓄積して、労働者を奴隷並みに酷使していた時代です。当時は「自由放任主義」と呼ばれていました。一日に成人男子が十時間以上も働いても、それでも生計の足しにはならなかったので、妻はもちろん、子どもまで過重労働に従事していたのです。当時、イギリスの労働者事情は惨憺たるもので、労働者の平均寿命が縮むほどでした。特に子どもが暗い工場で同じ姿勢で十数時間働かされることは、子どもの成長や健康に大きな脅威を与えました。日本でも、「女工哀史」で有名ですよね。この点は、「日本のアイデンティティー」シリーズでおいおいご紹介します。

もうひとつ指摘しておけば、共産主義というのは、こうした資本主義による労働者を人間扱いしない雇用のあり方(それを「搾取」と呼ぶ)への抗議として広まっていったのです。共産主義はもともと、労働者の基本的人権を満たせるもの、として期待されていたのでした。その期待をぶち壊しにしたのがスターリンであり、毛沢東政権時に、文化革命を行った四人組でした。共産主義を生み出したのは資本主義だといっても言いすぎではないでしょう。20世紀に入り、第二次世界大戦後、人権意識がたかまり、「社会権」と言われる、労働者保護の規定が西側諸国の法律や憲法に書き込まれるようになりました。これを「修正資本主義」といいます。日本国憲法には、そんな世界の潮流に先駆けて「社会権」が書き込まれています。生存権や労働基本権、教育を受ける権利など。社会保障などは生存権にもとづく制度なのです。

その社会保障のにはおカネがかかります。ですから税金をそれなりに払うことは避けられません。問題は私たちが払う税金が有効に使われるように見届けることです。傷病、老齢化、失業といった困難は、誰にでも起き得る事態です。こうしたリスクを個人に負わせるのではなく、社会で負担しようというのが人道にかなったことなのです。ひとりかふたりしかいないのであれば、企業&官僚に立ち向かうことは難しいでしょう。かつて共産主義者は、労働者は団結せよ、と訴えかけました。共産主義を称揚したりするのではありませんが、わたしたちは、もう少しゆっくり立ち止まって、自分の身のまわりで起きていることについて、自分の頭で考えても、「何かに乗り遅れる」ことはないと思います。わたしたちは政治に影響を与えることができます。このまま、自分と自分の家族をアメリカの思惑のための捨て駒にさせていいのでしょうか。このまま自分のたった一度の人生を、企業の捨て駒にさせてしまっていいのでしょうか。「法人税が高ければ企業は外国に逃げ出すぞ」なんて、こういう人たちこそ「愛国心」を持て、と言ってやりたいです。日本国民の益のために、どうして日本におカネを落とさないのか、それこそ忘恩亡国の振る舞いではないでしょうか。みなさん、自分の命、自分の人生を、利己的な利益追求者たちから取り返しましょう。



-働いているのに貧困であることは、互いに増幅しあう一群の困難の所産である。
 …悪いのは、搾取的な雇用主だけでなく能力を欠いている従業員であり、
 働きすぎの教師だけでなく挫折した手に負えない生徒であり、
 貧しい人たちをごまかす官僚だけでなく自分自身をごまかす貧しい人たちである。

-収入が低くなるほど投票率も低くなる。

(以上、「ワーキング・プア」/ デビッド・K・シプラー・著)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本のアイデンティティー(1)-天皇擁立

2007年02月12日 | 日本のアイデンティティー
 途中まで書いていた「倒幕に至る時代の流れ」と題する連作記事を新たに、「日本のアイデンティティー」というシリーズに編集しなおすことにしました。日本史を叙述した本をたくさん買い集めました。それらを読みながら、今日の日本人の思考、思想のルーツをまとめていこうと思います。応援してくださいね!  今回はその第1回です。





徳川時代に「国家」と言えば、それは「藩」を指して言います。藩の領主は、領民に対して王のような支配者でした。藩の領主=大名(一万石以上の領地を持つ封建的領主のこと。「石(こく)」は米の体積の単位で、1石は約180リットル)には、領地を思うままに支配することができました。幕府が支配したのは領主たちであって、領地の民衆の管理は大部分大名に委ねられていました。

たとえば、1853年にペリーの艦隊がはじめて浦賀港に到来したとき、坂本竜馬はちょうど江戸にいました。剣術の修行に出てきていたのです。今でいうところの「留学」です。江戸における土佐藩主山内家の江戸屋敷に書生として住み込み、北辰一刀流の修行に励んでいたのですが、国許から出てくるとき父親から、「修行中大意心得」という書付けを持たされています。そこには3か条の条文が書かれていました。

一、片時も忠孝を忘れず、修行第一之事。
一、諸道具に心移り、銀銭を費やさざる事。
一、色情に移り、国家之大事を忘れ、心得違有るまじき事。

此3か条胸中に染め、修行を積み、目出度く帰国専一に候。以上。

(「坂本竜馬」/ 飛鳥井雅道・著)

この3番目の、「国家之大事」とある「国家」とは、「日本」のことではなく、土佐藩のことであり、第1番目の「忠孝忘れず」の「忠孝」も、土佐藩主へのものを指しています。藩主は、家臣にとって絶対的な服従の対象でした。では「ご公儀」、つまり幕府はどうなるのかというと、藩主を治めるもっと上の存在でしたが、日ごろは公儀のことを考える機会などありませんでした。藩士は、藩主であるご主君に仕えるのが使命でした。さらに天皇となると、将軍職に任命する権威ではあるものの、この時代にはもはや天皇は政治には一切かかわりを持つことを許されていませんでしたので、遠い遠い存在だったようです。

幕府は、その権威の根拠として皇室には依存していなかったということです。むしろ、「禁中並公卿諸法度」によって皇室の権力を制限していたのでした。ここが、徳川幕府と信長や秀吉の異なる点でした。幕府はさらに、京都に「所司代」を設置して、皇室が外様諸侯と結びついて幕府にとって脅威を及ぼすようになってしまわないよう監視すらしていたのでした。また、幕府の帝王学は、京都朝廷が持つ神道の物語ではなく、もっと哲学的にも洗練された儒学の一派である朱子学に立っていました。例を挙げると、たとえば林羅山という幕府の御用学者はこのように述べています。

-----------------------------------

それ天孫、誠に若し所謂(いわゆる)天神の子たらば、何ぞ畿邦に降らしめずして西鄙蕞爾 (せいひさいじ:「鄙(ひ)」は“いなか”の意。日常よく言う “へんぴ” は「辺鄙」と書く。「蕞爾」はとても小さいさまを言い表すことば。字が潰れて読みにくいですが、草かんむりの下に「最」と書きます。江戸から見れば、出雲は西方の辺鄙な田舎町だったのでしょうね) の僻地に来るや。何ぞ早く中州の美国(関東地方のこと?)に都せざる…。天孫のオオムナヂある、ナガスネヒコある、あるいは相拒(ふせ)ぎ、あるいは相闘ふ、是亦(これまた)怪しむべし。想ふにそのオオムナヂ、ナガスネヒコは我邦古昔の酋長にして、神武は代わって立つ者か。(羅山文集;神武天皇論より)

(「吉田松陰」/奈良本辰也・著)

-----------------------------------

だいたいのところは、天神さんならどうして辺鄙な僻地に降り立ったのか、なぜ江戸に都を構えなかったのか、天孫は互いに反目し戦っている、これもおかしい、自分が思うに、朝廷神話の神さんは大昔の酋長だったものを神格化し、神武天皇はそれらを征服して取って代わった指導者ではないか、というような意味でしょう。第二次大戦中の日本でこんなことを言ったら、速攻で特高に捕まえられたでしょうし、最近はイラク反戦ビラを配布しただけで捕まって有罪にされてしまうご時世ですから、右翼に放火(加藤紘一事件のこと)されてしまうでしょう。しかし、江戸時代には神道なんて、また天皇なんて、徳川将軍家からみれば「下っ端」視されていたんですよね。こんなエピソードもあります。

-----------------------------------

松平定信が皇居(もちろん、京都のほうの御苑)の修理を行ったとき、朝廷は「関東の御威光(将軍家の威光、という意)をかたじけなく思って。上を従一位に御推叙あるべしと二たびまで御内意があったが、しかし、将軍家は「例もなきこと」として堅く辞退したという。

(上掲書より)

-----------------------------------

幕府は朝廷をそんなに大きな権威とは見なしていなかったのでした。天皇の権威は、明治政府によって作られたものだったのです。第二次世界大戦では、イデオロギーの中核として、大勢の日本国民に国家への殉死を要求し、また国民のほうでも、今日のイスラム原理主義者のように自ら進んで命をささげた天皇の神格的権威は、つい150年ほど前の政府によって創作されたものなのでした。それは日本人の忠誠を「藩」から「日本統一国家」に向けさせるためだったのです。日本統一国家の必要性を自覚させたのは、徳川政権末期のことでした。歴史的一大転換点となった、ペリー提督の率いるアメリカ海軍の来航が、国家総動員の必要性を幕府自身と、先見の明のある当時の識者に思い知らせたのでした。

現に、ペリーとの交渉に当たった日本側外交官、岩瀬忠震(いわせただなり)は老中にこのような上申書を提出しています。

-----------------------------------

「天下の大事」は「天下と共に」議論し、「同心一致」の力を尽くし、末々にいたるまで異論がないように「衆議一定」で国是を定めるべきである。そのためには、将軍が臨席し、御三家、譜代、外様の諸大名を召し出して、「隔意」なく評論をさせた上で「一決」する。ここで議決されたものを、速やかに天皇に報告し、天皇の許可を得た上で、全国に布告するべきである。(「大日本古文書 幕末外国関係文書」18巻)

(「幕末の天皇・明治の天皇」/ 佐々木克・著)

-----------------------------------

当時の幕閣は、オランダから海外事情について毎年簡略な報告書を受け取っていました。「オランダ別段風説書」といわれていたドキュメントですが、その中から、アメリカが日本に開国を要求する目的で渡航しようとしていることや、それゆえやがては来航すること、なにより東洋の雄、清国がアヘン戦争でイギリス軍によって大敗したこと、欧米列強の軍事力の強大さなどを知っていました。ですから挙国一致の必要性には目の黒い人々は気づいていたのですが、幕府は手付かずにしたまま、あと延ばしにしていたのです。そのころ幕府の財政も諸藩の財政も逼迫していて、その対策に追われていたことも原因したのでしょう。

しかし、いざ、「その時」がきた際の岩瀬忠震の上申書は、財政対策以上に緊急な事態になったことを幕閣に警告したのでした。なぜなら、清国でさえ撃ち払えなかった鉄の海軍を率いる欧米資本主義の帝国主義的侵略に対処するにはもはや幕府だけでは手に追いかねるのは明白だったからです。そのために挙国一致が求められたのですが、そこで頭をもたげてきたのが「尊王」思想でした。強力な欧米の軍の前には、どこの藩ここの藩などと言ってはいられない、自分たちはまず、日本国だという意識が起こされたのです。だから幕藩体制という封建的主従関係の社会ではなく、強力な近代的・中央集権的な統一国家を作り出すために、天皇を擁立しようというのです。もっとも最初は、幕府を倒して天皇制を樹立しようとしたのではなく、あくまで幕府の支配は維持したまま、その権威を強化改革しようとしたのです。この動きは「公武合体」と言われています。

-----------------------------------

天子(天皇のこと)は天工(天の仕業、の意)に代わりて天業(天帝政治)を改め給ふ(=吟味いたされる)。幕府は天朝(天皇政府)を佐けて(たすけて)天下を統御せらる。邦君はみな天朝の藩屏(天帝守護)にして、幕府の命令を国々に布く(しく)。是が臣民たらん者、各々其の邦君の命に従ふは、即ち幕府の政令に従ふの理にて、天朝を仰ぎ、天祖(皇統、とくにアマテラスのことをいう)に報い奉るの道なり。その理易簡にして、其道明白なり。易簡明白なるは大道なり。

(「吉田松陰」/ 奈良本辰也・著)

-----------------------------------

上記引用文は、幕末の水戸藩士、儒学者であった相沢正志斎(あいざわ-せいしさい)による名分論(儒教の哲学で、自然界に天と地があるように、人間にも上下の格差があるのはやはり自然の摂理であるから、下の者は上の者に無条件に服従しなければならない、とする思想)です。この理屈によって、同じ軍人の徳川家に屈従するのではなくて、徳川政権に服することは「天祖」に従うことなのだから、ゆめゆめ謀反を起こそうなどとは考えないように、という思考コントロールを行ったわけです。徳川家康は、武田信玄に手痛い敗北を喫した経験がありますから、優秀な武将が現れて刃向かわれることを怖れ、諸大名を封じ込めようとしたのです。武将たちにとっては「征夷大将軍」の任命は天皇だけが行うものという伝統的な思考があり、それはやはり伝統によって強固にインプットされていたものでした。

このように幕府は封建的諸侯(諸大名)たちを従わせるためには、名目上天皇の権威を利用しましたが、先に見たように実際には、軍事力によって天皇を完全に封じ込めていました。しかし、この名分論にこそ、陥穽があったのです。というのは、幕府に従うのはつまるところ、天朝に従うこと、だからおとなしく徳川家に服するのですが、もし徳川幕府の権威が失墜して救いがたいという状況になったなら、徳川幕府をはしょって、天朝と直接結びついてもいいんじゃないかという理屈があるわけです。そしてまさに、ペリー来航はその幕府の弱体化をまざまざと見せつける事件だったのです。

こうしてついに天皇がふたたび政治の舞台に引き出されたのでした。日本は中央集権的統一国家へと急進的な一歩を、アメリカによって押し出されるようにして踏み出したのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「黙って働き、笑って納税」(戦前の標語)

2007年02月04日 | 一般
司会者: 日本経団連の御手洗富士夫会長が、年末に出た税制改革大綱について、「ここまで企業のことを考えてやってくれるとは思わなかった」というような発言をするほど企業優遇が露骨にまかり通っています。さすがに2007年は、私も山口(北海道大学大学院法学研究科教授)さんのおっしゃるように、「サイレント・マジョリティ(声なき多数派)」が「もういい加減にしろ」という声を上げるのではないかと期待しているのですが。


奥村宏(経済評論家): そういう声は出ると思いますよ。でもいざ選挙になると、それがなかなか投票結果に反映されてこないわけですよね。


司会者: だとしたら、その原因は何でしょう?


奥村宏: やはり、TVなどメディアの報道の責任が非常に大きいのではないですか。私は20年来、週のうち4日か5日、プールで泳いでいるんだけど、まわりは高齢者ばかりです。

 彼らと泳いだ後、世間話をする。おばさん連中が「年寄りいじめや」と怒っているので、「あなたたちが自民党に(票を)入れるから、こうなったんじゃないか」と言うと、「でもテレビを見ていると、そこしか入れる党がないやないの」と答えるわけですよ。

 高齢者は確かに不満を持っているのですが、テレビで「自民党しかない」というように丸め込まれてしまう状況ではないか。そんな印象がありますね。


(対談;「私たちはどう生き、どう闘うか」/ 週刊金曜日2007年1月12日号より)

--------------------------------------

ほんとうでしょうか。ほんとうに自民党しかないのでしょうか。自民党にこのまま日本国民を好き勝手にさせておいていいのでしょうか。上記対談の中で、「税制改革大綱」のことが話題に上っていますが、その前に税調による「個人所得課税に関する論点整理(平成17年6月)」には、自民党の本音が露骨に表れています。今回は、市民派の旗手、斉藤貴男さんと、立正大学法学部教授の浦野広明さんとの対談から、自民党による国民奴隷化政策ともいうべき恐怖の税制改革計画をご紹介します。みなさんはこれでも「自民党しかない」と思われるでしょうか。

--------------------------------------

斉藤: 世間は「サラリーマン増税」のことばかり気にしていますが、とどのつまりは、自営業者から何から、要は権力に近くない人間は軒並み大増税、ということですね。だいたいどのようなメニューが準備されているのでしょうか。


浦野: まず、個人所得課税の増税です。課税対象となる「所得」額は、所得から諸控除を差し引いた額ですが、「個人所得課税に関する論点整理」によると、所得の計算方式を変えて、その控除額を減らすことで、所得は変わらなくても課税対象となる額を大きくする、ということを考案しています。事業所得者の場合は必要経費、給与所得者の場合は給与所得控除の額、年金生活者の場合は公的年金控除額をそれぞれ減らす、ということです。給与所得控除は、平均的なサラリーマンで約30パーセントです。つまり年間所得500万円なら、154万円です。これが多すぎるというので減らそうと言うのです。

 さらに事業所得者の場合、収入金額から必要経費を差し引いて計算するのですが、「個人所得課税に関する論点整理」では、この必要経費を、弱小な業者では引く必要はないと言っています。こうなると零細な業者なら、収入の9割以上が課税所得にされてしまいます。

 農業経営者の場合は、専業農業の人は全体の9パーセント以下です。つまりほとんどの農業経営者は兼業農家なのですが、多くは農業のほうは赤字です。ですから、農業以外の所得から、農業での赤字を差し引いて課税所得を計算する「損益通算」をこれまでは行ってきているのですが、これを今度は概算経費になり、全収入の何割かが所得だということになると、赤字がありえないようになります。そうなると損益通算ができなくなります。
 
 また、非課税対象となっている生活保護収入や遺族年金、そして失業保険までも課税するつもりです。年金は、もらった年金から公的年金控除額を差し引いて所得金額を計算します。2002年に答申された「あるべき税制の構築に向けた基本方針」では、「公的年金控除は本来不要とも考えられる」と強弁しています(ルナ: 経済発展に役に立たない人間はさっさとあの世へ行け、という意味?)。するとこれは「年金収入=課税所得の金額(つまり100パーセント課税対象)」ということもあり得る。

 次に、所得控除額そのものを廃止削減してくる、ということです。給与収入からまず給与所得控除を差し引き、残った額から、基礎控除や配偶者控除、社会保険料控除などを差し引いたあとに残る金額が、課税対象となるのですが、それら諸控除を縮小・廃止にしようとしています。

 すでに配偶者特別控除は原則廃止になっていますが、ほかに老年者控除、配偶者控除、扶養控除をも廃止していこうということです。

 これら控除の縮小・廃止により、課税対象額は大きくなります。つまりたくさん税金を取れるということです。所得そのものは増えないにもかかわらず。

 三番目に累進税率の変更です。
所得金額から所得控除額を差し引いて出てくるものが課税所得です。その課税所得に累進税率を掛け算して税額を算出します。 (「定率減税」というのは、こうして算出された税額を値引きしてくれていたわけです。所得税が20パーセント引き、住民税が15パーセント引きの税額控除でした。つまり、平均的な所得者は、所得税と住民税の両方を合わせて35パーセントを負けてくれていたわけです。これも廃止にされます。) 累進税率は所得に応じて10パーセント、20パーセント、30パーセント、37パーセントとなっていますが、この税率の変更を検討しているわけです。

 「住民税」というのは県民税と市町村民税を合わせたものです。これまでは、課税所得が200万円以下の人なら税率5パーセント、200万円超700万円以下の人なら税率10パーセント、700万円超の人は税率13パーセントとなっていましたが、これを今度は「フラット化」と称して一律10パーセントにしようとしています。課税所得200万円以下の人は民間給与所得者の6割ですから、彼らは税率5パーセントから倍の10パーセントの大増税ですが、課税所得700万円以上の人にとっては減税になるのです。


斉藤: 主に「個人所得課税に関する論点整理」と「あるべき税制の構築に向けた基本方針」をおおまかに述べてくださったわけですね。


浦野: ええ、「論点整理」では非常に簡単に言っていますから、税調が200年中期答申以降にどういうことを言っているかをわからないと、(一般の人には)読み解けないようになっているわけです。親切には言っていませんからね。


斉藤: なるほど、その中のどのメニューが2006年早々の国会で変えられるかというのはまだはっきりしないところですか。


浦野: 単年度で全部変えることはありませんが、順次改定するでしょう。まず、所得計算の仕組みと、所得控除では扶養控除・配偶者控除の廃止などと、もうすこし言いますと、生命保険料控除や損害保険料控除についても、2000年の中期答申で廃止を示唆しています。それから、まだ具体化していませんが、社会保険料控除というけっこう控除額が多いもの、勤めていれば厚生年金、健康保険料、介護保険料、雇用保険料ですね、これも2000年の中期答申で「あり方を考える」と言っています。


斉藤: 社会保険料控除まで、ですか。それをやるとますます国民年金保険料の支払いを拒否する人が増えると思います。あんまりふざけすぎてはいませんか。


浦野: そうですね。取り立ても厳しくするのでしょう。


…(中略)…


斉藤: 結局、ふつうの個人にかかる税金ばかりがあの手この手で上げられようとしている。「フラット化」は大金持ちには優遇です。その一方で法人税は大減税というシナリオですね。


浦野: そうです。消費税が実施されたのが1989年で、その後法人税引き下げと、所得税の最高税率引き下げが進んでいます。1990年1年間の税収、これは消費税が1年分入った年ですが、その年と比べて2005年は、所得税と法人税の減収が約20兆円です。消費税(地方消費税を含む)が2005年で13兆円になりました。

 消費税導入以後、個人所得課税の累進課税構造をだんだんフラット化することにより破壊してきたこと (高収入の人からは多く税率をかけ、低収入の人には税率を少なく設定するというやり方から、税率を一律にすることにより、低収入の人には課税増、高収入の人には課税減になる) と法人税引き下げが大きな要因となり、法人税・所得税という中心に位置しなければならない税収が20兆円も減収になっています。

 一方で、負担能力を考慮しない消費税 (低収入であろうと高収入であろうと、物を買えば税金が一律に3パーセント、後には5パーセントかかる) が5パーセントで13兆円ぐらいになっている。ですから、消費税以前に税体制を戻し、消費税をやめたら、20兆円の収入があり、消費税の13兆円がなくなっても7兆円のおつりがくるのです。

 最高時の1984年から1987年には、法人税の税率は43.3パーセントでした。いまは30パーセントですからね。法人税を緩やかな累進課税 (税負担を公平にする課税方式。低収入層に多く所得を残すことで、消費を活発にさせれる) に変えるだけでも、4~5兆円ぐらいの税収を見込めるのではないかと見積もられています。あの(ルナ補足:経済非情国家の)アメリカでさえ、ちゃんと累進税率にしています。


斉藤: 新自由主義の本家本元のアメリカでさえ、累進課税はちゃんとやっているわけですね?


浦野: それと(アメリカでも)消費税は、連邦税としては採用してはいません(国家としては消費税は採用しない方針。州によっては採用するかもしれない。アメリカは連邦国家なので、州は憲法の範囲内で独自に州税として税を取ると定めることができる)。 そういう意味では、アメリカは連邦税としては「消費税」がないわけです。


斉藤: 日本の法人税は、かつては累進だったんですか?


浦野: いまでも、中小企業の、800万円まで22パーセント、800万円超が30パーセントというのが定められているだけで、基本的には一律税率です。


斉藤: それが一番高いときは43.3パーセントで、いまは30パーセント。これも経団連などは、もっと下げろと言っているわけですが、どのぐらいにしろと言っているのでしょうか。


浦野: いま、法人で所得が出た場合にかかるものは、法人税、法人事業税、法人住民税で、後者二つは地方税ですが、これらを合わせて30~35パーセントにしたいと考えているのだと思います。


斉藤: いまはどのくらいですか?


浦野: 30パーセントの法人税と、事業税、法人住民税を合計した実効税率というものが約4割(40パーセント)の段階です。それを3割くらいにしたいと。

 しかし、すでに今年の(2005年)3月決算から、事業税の外形標準課税が採用されています。これは従来、事業税というものは法人税と同じように、法人の所得にかかっていましたが、それを、所得にかける部分と、資本金×何パーセントと、支払った給与の何パーセント、支払い家賃の何パーセントというように分けました。

 これは所得のほうにかける税率を低くする方策ですから、利益が出ているところはすでに事業税が安くなってしまっている形になっています。これが2005年3月期からの外形標準課税という制度です。

 それから、2年ほど前から連結納税という制度をやりまして、子会社などを持つ大企業は、子会社の赤字を、黒字の別子会社から引けますから、課税所得がめちゃくちゃ減ってしまって、法人税の負担も少なくなり、これまた減税になっています。そのうえさらに法人税減税をやるのだというのです。


斉藤: もう、表向きの数字さえ下げてしまうと。


浦野: 下げて、もっと先には、いわゆる社会保険である厚生年金と健康保険料の会社負担をなくしたいということですね。


…(中略)…


浦野: 今の税制改革というのは、「庶民の大増税」と「企業・大資産家の減税」とが常にセットになっているわけです。

 「あらゆる増税には反対です」と言う方がいますが、これはやはり、どこかで負担してもらわなければなりませんから、間違いです。私が言いたいのは負担能力に応じて払う、ということです。これは単に思いつきで言っているのではなくて、憲法の要請です。

 憲法14条「法の下の平等」は、負担能力に応じた平等(*)ですし、憲法13条「個人の尊重」や25条「生存権」、29条「財産権」等から、負担能力に応じた税金の支払い方、つまり応能負担原則というものが出てくるわけです。

(*)
憲法13条: すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

14条: すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(家柄のこと)により、政治的、経済的、社会的関係において、差別されない。

25条: すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 第2項  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

29条: 財産権はこれを侵してはならない。
 第2項 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める
 第3項 私有財産は、正当な補償のもとに、これを公共のために用いることができる。

用語解説:
「社会福祉」;生活に困っている人、身体障害者や老人が最低限度の暮らしを保障されるように生活保護や公衆衛生事業などを、国は行う義務がある。

「社会保障」;国民の生存権を保障する施策。社会保険、社会福祉事業、生活保護などの施策を国は国民に対し義務を負っている。病気や障害や失業、出産や死亡や老齢などによって起こる生活上のいろいろの問題にたいして保証する社会的責任を国も国民も負っている。


 …(中略)…


浦野: 2005年10月の自民党の新憲法草案を見ますと、結局、12条、13条、22条、29条あたりのところでは、「公益及び公の秩序」という形で言い換えていますから、(憲法が改正されれば)応能負担原則も言えなくなるような内容になっています。

 税金の使い方も、私たちは納税者の権利ということで言っています。憲法は「すべての税金は福祉のために使いなさい」と言っている、というのが私たちの主張です。その根拠は、憲法前文で平和的生存権を謳っている。なお25条では生存権を謳っていて、やはり平和と福祉の日本国憲法ですから、庶民増税と福祉というのは相反するものです。

 軍備増強というのはだいたい福祉カットの流れに呼応します。それは斉藤さんのご専門の新自由主義路線が、こういう税制でも具体化してきているわけですね。


斉藤: お金持ちや権力者なんてものはいつの時代だってこういうことを考えていると言ってしまえばそれまでですが、なぜ、いまこの時期にこれだけの増税メニューになってきたのか。

 ぼくは、新自由主義を進めてゆく過程で、良い悪いは別にすれば、必然的にトリックリング・ダウン・エフェクト(*)というか、金持ちを優遇して貧しいところから取り立てるというのは、いわば、この構造改革(小泉-安部路線)を支持する限り自然な流れであると思う。

 もうひとつ、ぼくははっきりと、軍事大国化を目指しているからカネがいるという、この大きくふたつを考えているのですが、浦野さんはどう思われますか?


浦野: 斉藤さん、そのとおりだと思いますね。


(*)トリックリング・ダウン・エフェクト:机の上に水をまく。また水をまく。すると滴が床に垂れる。机の上は大企業、床は庶民。企業が儲かれば、庶民もそこそこおこぼれをもらえて、そこそこに暮らせる。だから、企業最優先の政策を取るのが良い、という考え。竹中さんのお好みの理論。もちろん、日本国憲法に真っ向から対立する思想。


(「大増税のカラクリ」/ 斉藤貴男・著)

--------------------------------------

こういう流れを知ると、憲法改正を「最重要課題」と言う腹積もりがよくわかりますね。日本人としてのプライドを高めたいという動機で教育基本法改正・憲法改正を支持する国民たちは、自分たちの意向とはまったく異なる次元で、教育基本法改正は強行され、まもなく憲法改正も成し遂げられようとしている、ということを知っているのでしょうか。もし知っていてなおかつ、自民党の改憲路線を支持するというのであれば、その人たちこそ「非国民」です。私たち国民の生存権を奪い去ろうというのですから。いい加減、ハリウッドの戦争観映画の見過ぎによる「浮かれた」のぼせ頭を冷やしてもらいたいです。それとも自分たちは改正後の憲法の下でも企業側で「勝ち組」にあやかれると本気で信じているんでしょうか。とんでもない、真っ先にわたしたちの暮らしがいわば「直撃」されるというのに!


齊藤さんの「大増税のカラクリ」、ぜひ一読をお勧めします。ちくま文庫から出ています。税別760円です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする