Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

報道による “大衆煽情” の問題

2008年04月29日 | 一般
別のスクラップ・ブログにも保存しておいたのですが、こっちはわたしのホーム・ブログなので、今回の死刑判決をもたらした一要因となったマスコミのあり方を考えてもらいたいと思い、毎日新聞に掲載された記事を資料としてこちらのブログにもエントリーしておきます。

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山口・光の母子殺害:
弁護団バッシング、報道規制の懸念生む--テレビ番組の功罪





 山口県光市の母子殺害事件差し戻し控訴審で、広島高裁は22日、事件当時18歳30日だった元少年(27)に死刑判決を言い渡した。この裁判では弁護団が激しいバッシングにさらされ、放送倫理・番組向上機構(BPO)が判決前、テレビ報道を批判する意見書を出した。一連の経緯を検証した。【上村里花、安部拓輝、矢追健介】

 

◇新供述に世論反発

 「ドラえもんが何とかしてくれると思った」「精子を入れるのは生き返りの儀式」

 差し戻し控訴審で元少年は、起訴事実をほぼ認めた1、2審では語らなかった供述を始めた。新供述は即座には信じ難い内容だとして、センセーショナルに報道され世論の激しい反発を招いた。

 特に昨年5月、橋下徹弁護士(現大阪府知事)がバラエティー番組で「弁護団を許せないと思うんだったら、弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と発言したことで、弁護団に「怒りをぶつける道筋」がついた。全国で懲戒請求が相次ぎ、07年末までの請求件数は8095件に上った。昨年10月まで弁護団の一人だった今枝仁弁護士(広島弁護士会)は「夜道を一人で歩くのが怖かった」と打ち明ける。

 日本弁護士連合会によると、弁護士への懲戒請求は06年の1367件が最多。8000件超の請求は極めて異例だ。

 こうした事態を受け、大学教授らでつくる「『光市事件』報道を検証する会」は昨年11月、「一方的な弁護士批判や事実誤認、歪曲(わいきょく)などで視聴者に誤解を与えた」として、BPOに審理を申し立てた。

 懲戒請求は今年3月までに各弁護士会が「適正な刑事弁護」と結論付け、懲戒しないことを議決した。判決後の記者会見で岩井信弁護士(第二東京弁護士会)は「なぜ(被告が)供述を一変させたのかについての客観的報道がなかった」と報道に疑問を投げかけた。

 

◇積極的な遺族発言

 事件がここまで注目されたのは、赤ちゃんの命も奪われた残虐性に加え、遺族の本村洋さん(32)が積極的にメディアで発言したことが大きい。特に06年3月、交代した弁護人が最高裁の弁論を欠席し、「これほどの屈辱は初めてだ」と憤る本村さんの姿が放送されたことは、「弁護団VS遺族」の構図を生む契機の一つにもなった。

 しかし、弁護団や裁判所に脅迫状や銃弾が送りつけられたことなどに本村さん自身は戸惑い、個別取材を控えるようになった。差し戻し審判決直前の19日の記者会見では「弁護団と私(遺族)という対立軸は裁判の構図ではない。報道が(脅迫状などを)誘発したのであれば痛恨の極み」と述べた。現在は言葉を慎重に選び、意図が誤って伝わらないよう考えながら発言しているという。

 一方、従来の加害者中心の報道がこの10年で変わったとも話し、「犯罪報道が被害者の現状を照らし、被害者支援の法整備の後押しをしてくれた」と評価した。その上で「被害者と加害者・弁護側の意見を平等に伝え、社会に訴えるのは必要なこと。メディアの方も日々迷いながら報道してほしい」と求めた。

 

◇「報道、無罪の力に」

 事件報道の在り方を巡っては、09年から始まる裁判員制度への影響を懸念する声も出ている。

 昨年9月に、最高裁参事官が「事件報道が裁判員に予断を与える」と発言、報道規制の必要性を示唆した。光母子事件報道について、意見書を出した「放送倫理検証委員会」メンバーの服部孝章・立教大教授は「特にテレビは取材しやすいところだけ取材し、分かりやすい本村さんの発言は報道するが、弁護団の言い分はあまりやらない。メディア規制される余地を残した」と指摘する。

 戦後の代表的な冤罪(えんざい)事件「八海(やかい)事件」で3回の死刑判決を受け、最高裁による3度目の判決で無罪が確定した阿藤周平さん(81)=大阪市此花区=は「検察や判決の誤りを新聞が指摘してくれたことが、無罪確定の大きな力になった。報道は公正な裁判に必要だ」と事前規制に懸念を示す。それでも光母子殺害事件については「一連の報道は感情的すぎると思った。残念だ」と語る。

 

◇犯罪被害者報道に一石--元共同通信編集主幹・原寿雄氏の話

 光母子殺害事件では、被害者遺族の死刑を求める強い声にマスコミの大勢が同調し、判決も世論に逆らえなかったのでは、と感じた。この傾向が進めば裁判は、西部劇のような大衆的リンチに逆戻りしてしまいかねない。また、被害者側は被告が犯人との前提で発言するが、「判決確定まで無罪推定」という司法の原則に反することを報道陣は重く考えたい。

 被告の人権ばかり重視されるという批判も、この際再考すべきだ。強大な権力を持つ検察と立ち向かう被告・弁護人側は、決して対等ではない。その検察に被害者の声が加わり、マスコミが心情的に同調して被告・弁護団を非難攻撃することが常態化したら、裁判の公正は脅かされてしまう。 放送倫理検証委がテレビ局に出した意見は、感情的、一方的な放送を戒めるとともに、犯罪被害者に寄り添う報道が抱える課題を突きつけたと思う。



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◇BPOの意見書、報道姿勢を批判

 BPOはNHKと民放が共同で設置した放送界の第三者機関。放送倫理検証委員会は外部識者10人で構成し、放送倫理上の問題があると判断すれば勧告や見解を出す。

 光市事件については今月15日、NHKや民放などの延べ33番組について「被告や弁護人を批判するニュアンスが濃く、公平性や正確性に欠けた」と結論づける意見書を発表。「被告の一見荒唐無稽(こうとうむけい)にしか思えない発言の真意が何であるかについての取材や解説がない。被害者遺族に同情・共感するだけではすまない番組制作者の役割がある」と報道姿勢を批判した。

 

◇検証しなおす 指摘あたらない--分かれる放送局の反応

 BPOの意見書に対してテレビ各局の反応は分かれる。情報番組を含めて問題視された局が真摯(しんし)に受け止めたのに対し、報道番組だけを指摘された局は「指摘は当たらない」と否定した。

 日本テレビの久保伸太郎社長は「どうしたら社会に受け入れてもらえるか探っていく」とし、君和田正夫・テレビ朝日社長も「重い内容を含んでおり、報道局で研修会を開き、編成制作部門でも勉強会を開いた」と神妙に応じた。「これからの裁判報道のあり方の検討を進める」(井上弘・TBS社長)、「検証し直し、今後も心して裁判報道をする」(豊田皓・フジテレビ社長)と、裁判員制度開始を意識した発言をする社もあった。

 一方、報道番組のみを指摘されたテレビ東京は、「報道局で検証し勉強会も行ったが、指摘のものはなかった」(島田昌幸社長)と主張。日向英実・NHK放送総局長も「指摘は当たらない。(情報番組を含めた)総体としての意見だった」と報道番組に問題はないとの見解で、ニュース担当部署での検証も行っていないという。【丸山進、岩崎信道】

 

◇制作現場「自分の首、絞めている」

 番組制作現場にも意見書を肯定する声がある。光市事件を取材している民放番組のスタッフは「弁護団側を3カット放映しようと企画しても(上層部などの判断で)1カットに減らされることがあった。(一連の報道を)上層部は『ちゃんとやっている』と思っているから、BPOの指摘を何とも思わないでしょうけど」と現場の空気を語る。裁判員制度との関連でも「テレビ各社は自分の首を絞めているようなもの。報道規制がかかったら、困るのは自分たちなのに……」。

 一方、ある番組担当者は、コメンテーターの人選に「(弁護団サイドで語ってもらおうとしても)テレビでは勘弁してくれという感じで断られた。世論に配慮している人が多い」と回答。バランスの取り方に苦慮する様子をうかがわせた。




毎日新聞 2008年4月28日 東京朝刊

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母子殺害死刑判決 厳罰化の流れが強まるが… (加筆版)

2008年04月23日 | 一般
 山口県光市で99年に起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁は当時少年の被告に求刑通り死刑を言い渡した。最高裁が「量刑は不当で、著しく正義に反する」と、無期懲役の原判決を破棄して審理のやり直しを命じていた。

 1、2審判決は、被告の年齢が18歳30日で、母子殺害の計画性はなく、不遇な家庭環境や反省の情の芽生えなど同情すべき事情を認めた。その上で、更生の可能性を指摘して死刑を回避した。

 差し戻し裁判で被告は事実関係自体を争ったが、高裁は「罪に向き合うことなく、死刑を免れようと懸命なだけ」と退けた。

 死刑を選択すべきかどうかの指標は、4人を射殺した永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)に対する83年の最高裁判決が用いられてきた。犯行の罪質、殺害手段の残虐性、被害者の数、被告の年齢など9項目を挙げ、総合的に考慮しても、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとした。

 今回の事件で最高裁はこの基準を引用しながら「被告の責任は誠に重大で、特に酌むべき事情がない限り死刑を選択するほかない」と判断し、凶悪であれば、成人と同様に原則として死刑適用の姿勢を示した。事実上、永山判決のものさしを変えたといえる。凶悪事件が相次ぐ中、量刑が社会の変化に左右される側面は否めず、厳罰化の傾向を反映したとみていい。

 しかし、少年法は18歳未満の犯罪に死刑を科さないと規定している。永山判決以降、少年事件で死刑判決が確定したのは殺害人数が4人の場合だ。

 死刑は究極の刑罰で、執行されれば取り返しがつかない。「その適用は慎重に行われなければならない」という永山判決の指摘は重い。しかし、死刑判決は増えているのが実情だ。

 遺族は法廷の内外で、事件への憤り、無念さ、被害者・遺族の思いが直接、伝わらない理不尽さを訴えてきた。被害感情を和らげるためにも、国が総合的な視点に立った被害者対策を進めるのは当然だ。

 差し戻し裁判を扱ったテレビ番組について、NHKと民放で作る放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が「一方的で、感情的に制作された。公平性、正確性を欠く」とする意見書を出した。真実を発見する法廷が報復の場になってはならない。バランスのとれた冷静な報道こそが国民の利益につながる。メディアは自戒が求められている。

 来年5月に裁判員制度が始まる。市民が感情に流されない環境作りが急務だ。死刑か無期かの判断を迫られる以上、市民は裁判員になったつもりで今回の事件を考えてみる必要があるのではないか。

 被告は上告した。最高裁には裁判員制度を控えて、国民が納得できる丁寧な審理を求めたい。




毎日新聞 2008年4月23日 0時36分

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わたしは、現行の死刑制度は廃止した方がいいと思うのですが、それはやはり冤罪を生む構造が日本の場合特に大きいということと、いまや国民に最も嫌われることばとなった「人権」を尊重したい立場だからです。

かといって、ほとんどカルト化したような、一部の死刑廃止運動にものめりこめないものがあります。たとえば一部のイデオロギストとしかいえない弁護士のような人々、極左ネット論客のような人々には。つまりなにがなんでも「この死刑はやめさせてやる」というような反捕鯨テロのようなことには共感できないのです。というのはやはり、殺害者は殺された方々の人権を踏みにじり、生きる権利を奪ったのですから。その点から目を逸らしては決していけないと思うのです。しかも、日本では今のところ、死刑は合憲とみなされているのです。こういう国であえて人さまを死なせた以上、死刑を求刑される可能性を逃れることはできないのです。

ただし、わたしは今流の死刑存続の意見の気に入らない点は、それが報復を正当化していると思うからです。

日本では現行新憲法の下で、死刑の合憲性が公布後早くも翌年の1948年に裁定されました。その根拠は
①死刑には犯罪予防効果が期待されるということと、
②凶悪犯罪者を社会から排除して市民の生活の安全を守る、というものでした。

もうひとつ、死刑の意義として残されていた、
③「被害者によるあだ討ちを国家が肩代わりする」という理由は除外された上での、死刑合憲判決だったのです。

ところが、上記引用記事を見てもわかるように、近ごろでは週刊誌やTV番組によって感情を煽られ、不安を植え付けられた大衆が報復感情の発露として死刑を求める傾向がはっきり見受けられるのです。ネットのほうではどうかと思い、あちこちブログを当たってみましたが、死刑に賛成する人たちの意見の根底にあるのは、殺したのだから苦しめられた挙げ句に殺されるのはあたりまえ、という考え方があると見受けられました。こういうのはどうでしょう。やはり日本古来からの儒教的な思想を反映していると思うのは飛躍でしょうか、つまり宗教の影響を受けた考え方だと思うのは…。



本来、家族を失った感情というのは被害者たちが持つもので、野次馬が横からあれこれ口を出すことではないはずです。被害者感情として、報復としての死刑を望むという主張は被害者自らが、被害者個人のきもちとして訴えるものであって、マスコミが被害者感情を「その他おおぜい」の大衆にまでばらまいて、巻き込むものではないと思うのです。これは今や一種のゲームにまでなっているように思います。そう、大衆のなかの各個人の閉塞感を爆発させる機会としての死刑執行要求。公然たるうっ憤晴らし。こういうのに対して、わたしは吐き気がするほど嫌悪を覚えます。なぜならそれはまず第一に、自分たちの責任を逃れようとする態度だからです。殺人者を生み出すのは殺人者自身だけではないからです。

人間はみな犯罪者として生まれてくるのではない、ということ。殺害者を殺人者に仕立て上げたのは個人の性格とか素質ではありません。暴力をコミュニケーションの手段として使う人は必ず暴力を受けてきている。しつけと称して、暴力を受けてきている。身体的な打撃から、ことばや接し方による心理的な暴力にいたるまで、暴力は体験によって学習され、習得されるものなのです。つまり暴力に走るよう無意識に、あるいは誤まった育て方によって、反社会的な生き方に追いやり、暴力をつかって人々をコントロールすることを教え込んだ人間がいる、ということが言いたいわけです、わたしは。そしてそこから目を逸らして、堕落してしまった人間だけをさらし者にするな、とわたしは糾弾したいのです。

殺害者を首尾よく死刑に処すことができても、人をして殺人者にまで仕立て上げてしまう影響力を残したままにしているなら、社会はまた別の殺人者を迎えることになるでしょう。「人をして殺人者にまで仕立て上げる影響力」とは、たとえば体罰を許容する、許容するどころか賞賛さえする「文化」、男尊女卑、家父長制という「文化」、そのほか「伝統」や「習慣」という名目で温存される影響力。それらは「日本人らしさ」という地域・国民のアイデンティティに拘わることだからというような理由で放置されているのです。また家族のコミュニケーションの低下、幼いころから激烈な競争にさらされる制度、努力が決して報われない不平等な制度…。

こうした、社会に潜む原因というものを放置しているなら、-「放置する」ということは、換言すれば、社会はある人々からは希望も生きることへの積極的な意欲も奪い去っている、ということなのです-根っこが生きている雑草のように次から次へと生え出てくるのです。

不運な人々、不遇な人々、不遇に対処する自信さえ育ませてもらえなかった子どもたち、そういった追いつめられ、放り出され、廃棄された人間たちが怒りを鬱屈させて、その鬱屈した怒りの感情が不健全に醸成されてゆき、やがて反社会的な行動に走らせる。いくら捕まえることのできた殺人者を次々に処刑していっても、社会は決して殺人者による生活への脅威を減らすことはできないのです。

もちろん、育ちが不遇だからといってすべての人が殺人者になるわけではありませんが、また逆にすべての人が首尾よく不遇な体験を克服できるわけでもないのです。

わたしはこのたびの裁判においては、被害者にも感情移入はできますが、加害者である少年の気持ちにも痛いほど感情移入できるのです。わたしもエホバの証人の親によって、またエホバの証人という宗教組織そのものによっても、精神的な虐待をずっと受け続けてきた人間だからです。彼の挑発的で、すねた言動はわたしも高校生時代は行っていたからです。

親に愛されず、周囲に自分を認めてもらえず、拒絶と侮辱とを継続的に与えられてきた人間には深い怒りがある。もっとも愛を求めたい親に本当の姿の自分を受けいれてもらえないことへの怒りは、積もり積もってあるとき、限界に達する。きのうまでおとなしくて良い子だった子どもが、あるとき突然キレる。でもそんな子どもに理解を示す社会人はいない。みな、親に逆らう「反道徳的な」子どもに異常があるとしかみない。

そして「あの子が異常だからこんな事件を犯したのだ、だからうちの子がそんなことをすることはない」と解釈して安心を得る。しかし、気づいていない、わかっていない。このたび被告席にいた、元少年はどこにでもいるふつうの子なのです。異常なのは子どもじゃない。あなたたちが「常識」とか「世間さま」とか呼んで、奉っているものにこそ内在しているのです。



この裁判にもどりますが、この事件で感情の問題としては加害者と被害者の二者間の問題であって、第三者が外からあれこれアドバイスしたり煽ったりすることではないと、わたしは考えています。しかし、マスコミの被害者への異常な肩入れと煽情にははっきり抗議をしたいですし、そういう煽情に乗って死刑執行を要求する人たちへは侮蔑と嫌悪の感情しか感じません。とくにマスコミとオヤジ系週刊誌は。
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立川反戦ビラ事件 公安警察の手口と国民の意識 (訂正しちゃいました)

2008年04月20日 | 一般
立川反戦ビラ事件は最高裁第二法廷、今井功(いまいいさお)裁判長により上告が棄却され、市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバー3人に住居侵入罪が確定しました。その判決は「表現そのものを処罰しようとするものではない」とわざわざ断った上で、表現の手段として「人の看守する邸宅への侵入であった」と認定し、その是非を問うているのだということです。

「たとえ表現の自由の行使のためとはいっても、自衛隊・防衛庁が管理し、一般に人が自由に出入りできないような場所に管理権者の意思に反して立ち入ることは、管理権者の管理権を侵害するのみならず、そこで私的生活を営む者の私生活の平穏を侵害するものだ」という内容の判決だったらしいです。(中嶋啓明/ ジャーナリスト/ 「週刊金曜日」/ 2008年4月18日号より)。

中嶋さんの記事によると、判決後、罪の確定した三人の被告は「だれもがやっていたことで突然逮捕され、75日間も拘束された。こんな不当判決では司法に不信感しか感じることができない。日本の民主主義がまた一つ消えた」と語り、批判したそうです。

実際、これは民主主義の大きな後退といえるものでした。その理由の一つにこんなことが言われました。
「判決はあたかも管理業務に携わっていた隊員が自主的に連絡を取り合って被害届を出したかのように(最高裁の判決が)認定しているが、実際には、公安警察からの要求で提出されたことが裁判過程で明らかになっている。事実認定の上でも、明らかに判決は間違っている」。

つまり、判決を下すに当たって考慮しなければならないはずの証拠が一部無視されたのです。そうなったのには、やはりある方面からの意思が強く働いたと考えざるを得ないわけです。その辺のからくりを、右翼活動団体「一水会」元代表、現顧問の鈴木邦男さんが文章にしておられますので、それを今回、ご紹介します。

まず、逮捕の経緯を簡潔に引用文によって説明します。


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「今回の弾圧は全国の反戦平和運動に対する予防弾圧としての効果を持っています。逮捕し、長期間拘留して、裁判を強いる。それに伴う生活破壊で全国の運動団体や個人を萎縮させるのが狙いでしょう」と大洞俊之さん(市民運動団体「立川自衛隊監視テント村」構成員)は指摘する。それは家宅捜索・押収の令状に、その対象物として「沿革、運営、組織にかかわるもの」とあった点からも裏づけられる。「住居侵入容疑でそんなことを調べる必要がありますか。市民団体潰しが目的です」と、「テント村」代表で学習塾教師の加藤克子さんが憤る。

こうした警察・検察の政治的意図は、第二回~第四回の公判における検察側証人尋問でも浮き彫りになった。

第二回公判の証人で、陸上自衛隊東立川駐屯地業務隊厚生課長(当時)の防衛庁(当時)事務官は、官舎の5号棟~8号棟の管理人として立川署に被害届を出した。官舎の住人でもある彼は、「被害届は東立川駐屯地業務隊長の命令であり、防衛庁(当時)のそれより上層部からの命令ではない」と述べたあと、被害届を提出する前に刑事が訪ねてきたこと、立川署の刑事から被害届を出すように言われたことを認めた。さらに警察が作成して持ってきた被害届の文章に署名・捺印だけをした事実を述べた。

第三回公判の証人で、官舎の住人ではないが1号棟~4号棟の管理人として立川署に被害届を出した、航空自衛隊東立川駐屯地業務課長の航空自衛官も、やはり被害届は警察の方で作成しており、その内容を確認して署名・捺印だけをしたと認めている。しかも警察がわざわざ被害届を彼の事務所に持ってきたのだという。

この事実は、公安警察が主導した計画的な逮捕だったことを示している。自衛隊側も、ビラ配りを目撃した官舎の住人が「テント村」のメンバーを写真撮影し、ビラも保存し、警察とともに三人の人相を確認するなど証拠集めに手を貸している。警察と自衛隊の間に緊密な連携があったことがわかる。


(「ルポ戦争協力拒否」/ 吉田敏浩・著)

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これは小泉路線のイラク派遣に反対する運動を封じ込もうとする意図の下に行われたものである可能性が覗えるという根拠ですね。この署名を募った手口を、鈴木さんは書いておられます。

鈴木さんは若いころ、右翼活動を展開する上で警察のご厄介になることは頻繁だったようです。それで公安警察に手口には詳しいそうなのです。


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こういう手口だ。公安警察は、一軒一軒を回った。反戦ビラを見せて「こんなものが郵便受けに入っていませんでしたか」と聞く。
「えっ、あったかな」「ビラ、チラシは、すぐ捨てるから分かんないな」という人も多い。
「いや、本当に配布したんですよ」と警察に言われれば「そうですか」と言うしかない。

そして「これを配ったグループは市民団体といってますが、本当は極左過激派が牛耳ってるんですよ」と、あることないことをいう。「ほら、内ゲバで何人も殺しているでしょう。また、爆弾を仕掛けたり、火炎瓶を投げたりしているグループですよ。そんな奴らが敷地内に自由に出入りしているんですよ。怖いでしょう」と言う。不安を煽る。

「それに、お宅には小さなお子さんがおりますよね。何かあったら大変ですよ」とさらに不安を煽る。ここまで言われて「いや、不安はありません。政治的な表現活動は自由です。警察が介入することではありません。お帰りください」と毅然として言える人はいない。それに自衛隊官舎だから、警察には友好感情を持っている。「そうでしょう。不安ですよね。じゃあ、ここに署名してください」と公安は紙を出す。ビラ配りによって、居住者がいかに不安を感じ、恐怖におびえているかが書かれている。すでに文書は作られていて、あとは署名するだけになっていたのだ。手回しがいい。そこまでやられたら署名する。拒否して警察ににらまれたらたまらない。拒否したら「極左過激派のスパイだ」と自衛隊に通報されるかもしれない。そう思って署名する。

それに「不安でしょう」と聞かれ「ええ、そう言われれば不安ですね」と答えただけだ。それだけの署名のはずだ。それでもって、まさか逮捕するとは思っていない。居住者は「逮捕してくれ」なんて一人も思っていないのだ。公安の話術に不安をかき立てられ、「不安です」と言っただけだ。署名をして、市民グループに「通報」するだけだと思った。あるいは近づけないように警告してくれるのかと思った。

ところがいきなり逮捕だ。そして(異例の)長期拘留だ。何気なく署名した住民たちも悔やんでいるだろう。やましさを感じているだろう。公安の手口は卑怯だよ。


(「愛国者の座標軸」/ 鈴木邦男・著)

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公安警察とその後ろの政治的「意思」、まあおそらくどこかの政党、アメリカと緊密な政党でしょうけれど、そういう意思がわたしたちの暮らしの上にあたりまえのようにのしかかってきている時代。それも悔しいけれど、わたしはそれ以上に、こういうことに対して大多数の国民が無関心か、ぎゃくに拍手喝采を与えている現状に怖いものを感じるのです。



行儀よくまじめなんてできやしなかった
夜の校舎 窓ガラス壊してまわった
逆らい続け あがき続けた 
早く自由になりたかった
信じられぬ大人との争いの中で
許しあい いったい何 解かりあえただろう

これは尾崎豊という80年代末から90年代初頭のカリスマ的ロックシンガーの手による「卒業」という歌の一部です。権威への抵抗をストレートに表現して、当時の若者の多くから圧倒的な共感を得たのだそうです。わたしはそのころはもう30代になっていましたし、邦楽はそんなに聴かなかったので知らないのですが。精神科医で大学の教授も兼任しておられる香山リカさんは、この歌を21世紀の2003~4年の若者たちに紹介し、共感をどれだけ得るかを見られたのだそうです。そうするとこういう反応が返ってきたそうです。


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大学2,3年生が集まるあるクラスでは、試聴の後の感想レポートにこんなことばが並んだ。
「ワルぶっているだけではないか」
「おとなに支配されているなんてただの妄想だ」
「どうして学校や先生を恨んでいるのか理解できない」
「理由はどうあれ、物を壊して人に迷惑をかけるのはいけない」
「みんな不満はあっても我慢して生きているのだから、ひとりだけ身勝手なことをするのは許されない」...

彼らは決して、今の生活に不満がなく毎日が楽しいわけではない。それどころか、その心の内をつづってもらうと、
「自分には居場所がない」
「どこにいても息苦しい」
と、いわゆる「生きづらさ」を切々と訴える若者も少なくない。

若者の焦燥感、不全感はもちろん、それ自体異常ということはなく、「自分らしさ」が芽生えて、ある程度固まるまでは、だれもが多かれ少なかれこういうマイナスの感情に襲われるであろう。

ただ、その感情の矛先が、尾崎豊の場合は「親、教師、世間、社会」に向かっていたのに対し、今の若者たちは違う。その中には、本当に心の底からおとなに感謝しており、恨んだり腹が立ったりすることはないと言う人から、時には反発も感じるけれど「みんな我慢しているんだから」とそれを抑えこんでいるという人までがいるようだ。

もちろんおとなにしてみれば、その根底にあるのが感謝であれ我慢であれ、若者が自分たちに逆らわず、おとなしくいうことを聞いてくれたほうが何かとやりやすいのは確かだ。



ただ気になるのは、これは「おとなと若者」という図式に限った話ではない、ということだ。多くの人が今、「決まってしまったことなんだから」ということばを口にする。「有事法制そのもおには疑問もあるけれど、成立してしまったんだから協力するしかないじゃないか」、「自衛隊のイラク派遣には賛成できないけれど、行くことになったからには無事を祈るべきじゃないか」...。

そしてその「決まったこと」に対して異議を唱えると、「みんな従っているのに自分勝手だ」と言われる。その法律やシステム、あるいはリーダーが本当に信頼できるものや人であるかどうかが問題なのではなくて、「私だって不平不満を言わずにおとなしくしているのに、自分だけ好きなことを言ったりやったりする人がいる」ということのほうが問題にされるのだ。もっと平たく言えば、「抜け駆けはずるいじゃないか」ということになるだろうか。

こういう人たちは、誰かに「大切なのは足並みをそろえることです」と教えられ、抜け駆けを強く禁止されていたわけではない。それなのに、自主的に「決まったことには逆らわない」、「強い力を持っている人のいうことは聞く」、「もし反発を感じてもひとりだけそれを口に出したりはしない」というルールを制定し、それを堅く守って生きているのである。

そしてそうやって自分で作ったルールに縛られて生活をしているうちに、本当にリーダーや権力者のいうことが正しいような気になってくる。小泉首相(2005年当時)の支持率が中々下がらないのも、こういう仕組みによる側面もあるのではないだろうか。つまり、最初は「首相の方針には全面的には賛成しかねるが、ここで反対意見を言ったら浮いてしまうだろう」と「どちらかといえば支持」と答えていたも、その発言にうなずいているうちに本当に「やっぱり小泉首相しかいないじゃないか」という気分になってきて、支持しない人を激しく攻撃したりするようになるのである。

イラク戦争への自衛隊の派遣、北朝鮮問題などなど、さまざまな難題がふりかかる中で、日本人は大きな不安を抱えている。そうした状況が、「リーダーを支持しないのはけしからん」という、単純な思考をもたらしているのかもしれない。

…(略)…

発達心理学的に考えると、親や教師に対して反抗する若者が少なくなったことを無邪気に喜んでよいのかどうかという問題がある(=反抗は子供が自立していく過程で必然的に生じる時期であるから)が、もし親と子どもが本当に仲良くなりつつあるのだとしたら、それを頭ごなしに否定する必要もない。ただ政治家や政府、あるいはマスコミ、メジャー企業など権力をもつものの場合には、親や教師を愛し感謝するのと混同して、疑問をもたずに感謝することには気をつける必要があるのではないか。


(「いまどきの『常識』」/ 香山リカ・著)

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香山さんは世間的には、熟年の人々から見て「若手」であり、しかもTVのワイドショーなんかにコメンテイターとしてちょくちょく出演したりしているので軽く見られているようです。本をたくさん出しておられるのですが、引用が多いとか、酒場談義の域を出ないとか、辛口の批評を受けているのですが、誰もが内心では「なんかおかしい」と漠然と思っていることを、明快なことばで表現できるというのは、やはり大学出だなと思います。香山リカさんはわたしと同年代の人であるせいか、香山さんの書く文章はわたしのセンスにフィットしているのです。だからわたしにはわかりやすく、でも各内容は核心をついていて、それを簡潔明快に書き表す人なので、わたしは一目置いています。



香山さんが指摘されていることは、今日の国民の側の自発的な反動潮流を一部分明快に説明していると思います。今の日本人は妙にお上に従順なんです。

たとえば、自衛艦に衝突した漁船のほうが悪い、イラクへボランティアで活動しているなんて、日本の政策に真っ向から反対する活動なんかしやがって、それがカッコイイのがまたしゃくにさわるが、どうだ見ろ、イラクの過激派に人質にされている、ばあ~か、誰が助けるか、自己責任だ。みんなが選んだ小泉さんの方針でイラクに自衛隊を派遣しようというのになにが反戦ビラ配布だ、ひとりだけカッコつけるなよ、ってとこでしょうか、わたしが受ける日本人の一般的な感覚は。

でもこういう「自発的に従順になる人間」ってね、カルト宗教の信者とまったく同じなんです。エホバの証人の熱心な信者がこうでした。みんな宗教組織の指導部の矛盾に気がついている、でもあえてそこからは目をそらす。そして組織に従順になるために、理由をこじつける。論理を創作する。おんなじなんです…。あの人たちと今の日本人は。だからわたしは、そういう従順な日本人がとってもとっても不気味なんです。

元エホバの証人が集まる掲示板をみると雰囲気がわかります。みんな「傷ついた元エホバの証人の皆さんは集まって自由に書け」とは言いますが、実は自由ではありません。何か、誰かに遠慮しなければならない。ちょっと本音を書けば叩かれる。よーっく見ると、マニアックなところでは「お行儀よくしましょう、掲示板は社会と同じです、みんなにショックを与えることは書かないようにしましょう」としっかりカルト信者の行動様式に準じるよう暗に強制されてたりします。掲示板は社会とおんなじじゃないのに。匿名じゃないか。社会では匿名の声など拾い上げてはくれない。でもネットの掲示板ではその可能性が開かれているのに。掲示板で場を仕切ろうとするひとたちは、そうやって互いが互いを牽制し、自分が誰よりもユニークでない代わりに、ほかの人が頭角を出すのも許さない、そうすることで自分の劣等感や孤立感を埋め合わせようとするのです。宗教団体のなかで果たせなかった野望を、バーチャルに実現させようとするんですね、特に現役系の掲示板では。ひどい人たちだと思います。

こういうひとたちは、要するに「弱い」。エホバの証人上がりの人たちだけじゃない、いま、ネットでネット右翼よりネット左翼よりのブログで威勢のいいことを書いていたり、高邁なことを書いていたりする人でも、本当は弱いなあと思う場合があります。その証拠は、ちょっと強い調子でコメントされると、言葉がなってないとか何とか言って、強制的に削除して、逃げる。議論しようとしても個人攻撃に走って論点そのものを話題にもってこない。こういう点も、元エホバの証人系の掲示板を荒らす現役の人の特徴そっくりです。弱い。脅迫的なことばを多くすればするほど、人格攻撃的なことばを多くするほどに、弱さがさらけ出されて見苦しい。

今日本人はそれと同じになっている。きちんと言うべきところに言えない。言うべきことをきちんと議論できない。コミュニケーション・スキルの低下に、国民の反動潮流の一因があるのではないかと、わたしはひそかにそう感じているのです。そしてそれがひとり国民だけの問題ではなく、マスコミや司法人にまで及んでいることに、強い危惧を憶えます。ひたすら時の権力に迎合し、遠慮し、威嚇など受けるとさっと人権や自由や権利を放棄してしまう。そしてそれを体のいい論理で言いぬける。それが公式見解として受けいれられる。抗議することにバッシングが起こる。不正や権力の暴走にはバッシングが向かわない。この弱さは看過できない。看過してはならない。尾崎豊のように暴力で抗議するのは行き過ぎですが、面倒がって沈黙するのも行き過ぎた「お行儀」だと思います。言うべきことは、言うべきところにストレートに抗議として表明しようではありませんか。相手にも反論の余地を十分に開いて、そうやって国民的に議論を展開してゆくようにするべきです。


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春うらら…新入社員のみなさまへ(上)

2008年04月13日 | 一般
春うらら。な~んかモチベーションが上がらないんです。後期高齢者医療制度だのがはじまってたいへんな時代が到来しようとしているのに…。

先週、近所の大会社で、スーツを着込んだ若い人たちがぞろぞろっと出てきたのを、窓からぼ~っと眺めていました。「あー、学校を上がって、会社に入ったんだ…」。

ルナはエホバの証人というカルト宗教教団で布教活動をしていたため、若い時分を会社で正社員として、襟にバッジをつけるという経験はしたことがありません。だから、かれらの初々しい姿を見て、前途洋洋たる姿を見て、ちょっと妬けちゃいました。「あ~…。生きかたの選択をほんとに間違えたなあ」。つくづく感じてため息をついてしまいました。

で、今回は、そんなエリートコースを歩んできたわけじゃないけど、わたしとちがってまだまだ人生を洋々と生きてゆける皆さんのお役に立てれば、と思い、「丁寧な言葉、言い方」をリストアップしようと思い立ちました。題して「新入社員、ものの言い方基礎の基礎編」です。機会を改めて、もうちょっと面白みのある、議論のしかたとか反論の仕方、嫌味への切り返し方なども取り上げてみたいと思います。でも今回はほんとうに基礎の基礎をリストアップしてみます。


--------------------------

初対面のあいさつ。
 ビジネスは人との出会いで始まります。第一印象はその後の仕事の広がりにも影響するという事を意識してください。


自己紹介の基本:

はじめまして。(いちど切る)
本日より配属になりました○○○子と申します。
ご覧のとおり、親譲りの大柄で、
小さなころから運動ばかりしてきました。
ですから「元気」には自信があります。
一日も早く仕事を覚えて戦力になれるようにがんばりますので、
よろしくお願いします。



ポイント。
1.自分の特徴をユーモアを交えて話すと印象に残ります。
  トピックスの数は1~2点に抑える。
  30秒以内にまとめる。長いとウンザリされます。
2.新人はやる気をアピールすると好印象抜群。
3.表情豊かに。
  口元を上げる。微笑の表情で話すとグンと好印象。
4.姿勢。背筋を伸ばしてほどよい緊張を保つ。
5.「少しゆっくりかな?」と思うスピードがちょうどいい。
  目線は相手の目より少し上、まゆのあたりに置くと自然。



日頃のあいさつ。

ポイントは、「いつでも、誰にでも」。
「あいさつは心の小道」と呼ばれ、自分の心を開いて、相手に近づくために欠かせない行為です。すれ違ったとき、目が会ったときに、あいさつをしないのは悪印象。元気よく、あいさつや声かけを自分から進んでするよう、毎朝心がけましょう。

1.出社から午前11時ころまでは…
「おはようございます」。
気合が入りすぎて声が大きくならないように。距離感が大切。

「今日はいいお天気ですね」など、時にひと言加えると good 。
でもタイミングも大切。相手が明らかに忙しいときは短くあいさつ。
余裕がありそうならひと言添える、あど空気を読むことはもち、大切。

返事がなくても、あいさつは続ける。
返事がなかったり、鈍い反応だったりしても、あいさつはつづけましょう。したりしなかったりのムラのある態度は禁物。明るくあいさつをすることを自分の信念、習慣としましょう。これが「前向き志向」、「積極的人生観」、「攻めの姿勢」といわれるものです。

あいさつをするときは新人の方でお辞儀を伴うようにします。ヘッドホンは外します。



2.日中のあいさつ。
社内の人へは、「お疲れさまです」と声をかけあうようにする。黙礼だけでもOK。


3.退社するとき。
「お先に失礼いたします」「お先に失礼させていただきます」。

上司や先輩など周囲の人が忙しそうなときには、
「今日はこれで失礼させていただきますが、何かお手伝いすることはありませんか」。

「ご苦労さま」は目下の立場からは使わないこと。

退社する人には…
「お疲れさまでした」。
お疲れさまでした、は自分が帰るときにするあいさつではないことに注意!
退社する上司には明日の予定について確認することも忘れずに。
「明日は○○社に直行しますのでよろしくお願いします」
「明日の会議は10時からでよろしいでしょうか」



感じのよいあいさつのポイント。
相手の名前をつけたり、天気のことや前日のイベントの話などもつけ加えるだけで相手も返しやすくなります。
「鈴木さん、おはようございます」
「お疲れさまです。中村さん、昨晩の歓迎会ではありがとうございました」...

相手の好みに合わせて話題を選べたら「あいさつ名人」です。







名刺交換のマナー。
ビジネスの世界では、名刺は「顔」と呼ばれるほどたいせつなもの。渡すときも受け取るときも丁寧に扱います。

渡すとき。

はじめまして。
 (相手の正面に歩み寄る)
○○(会社名)の山川みどり(←仮名です)と申します。
 (名前を言ったあたりから名刺をスッと差し出す)
どうぞよろしくお願いいたします。
 (相手が受け取ったら一礼しながら↑を言う)

訪問した側や立場の低い側から渡すのがルール。
座ったままの交換はNG。必ず立ち上がる。テーブル越しは避ける。
☆相手と正面から向き合い、胸から胸へと渡す。両手で渡し、両手で受ける。
 名刺を右手で持って、左手を名刺の下に添える。
 同時交換になったときは片手でもOK。



受けるとき。

両手で受け取る。相手の名前や、会社名、会社のロゴなどを指で押さえないように注意します。

相手の名前はその場で確認する。
受け取った名刺はすぐにしまわず、その場で目を通して「○○さまですね」と口に出して確認すると丁寧な印象になります。
むずかしい名前で読み方が分からないときは必ず確認します。
「たいへん失礼ですが、お名前はどのようにお読みすればよろしいでしょうか」。

めずらしい名字なら、「失礼ですが、ご出身はどちらですか」などと聞けば、場が和みます。




相手から先に名刺を渡されたら...。

タイミングを逸して先に相手から渡されたら、あわてずにいったん受け取ります。それから、
「申し遅れました。○○と申します」
「遅くなりまして、たいへん失礼しました」
と言ってこちらも名刺を渡しましょう。


名刺交換のタブー。
×相手の名刺を折り曲げる、汚す。
×立ち話中、相手の名刺を腰より下に下げる。
×すぐに名刺入れにしまう。
名刺は、立っているときは腰のあたりで両手で持つ。
商談中はテーブルや名刺入れの上に置いておく。




【好感をもたれる返事のしかた】

まなざしが重要。
元気よくハイと返事をしても、相手をきちんと見ていなければ印象はかえって悪くなります。逆にいえば、目を見てあいさつをすれば好感度はグンとアップするということ。

印象は一瞬で決まります。だからこそ返事は明るくシャキシャキっと「はい!」とすることが大切。短い言葉こそ明るく。

語尾までしっかりと。
最後の一語まではっきりと、ゆっくり伝えましょう。心を相手に届けるつもりで。
×はい、かしこまりました
○はい、かしこまりました。

了承のフレーズをいくらか挙げておきましょう。
 かしこまりました。
 承知いたしました。
 承りました。
 お引き受けいたします。

相手の名前を添えると印象アップ。
会話の中で、同調するとき、相手の名前をつけ加えると、より親切な感じになります。
「そうですね、鈴木さん」
これだけでやわらかな返事になります。




【仕事の話しかた:報連相=ホウレンソウのスキル】

1.報告する。

報告は仕事の区切りを示すものです。あなたの報告がないと、次に作業や流れに移れない可能性さえあります。上司はいちいち「報告しなさい」とは言いません。だからこそ積極的な報告が必要とされるのです。


報告前に上司の都合を確認。
人の半径1メートル以内に入るときは必ず、「失礼します」と声をかけます。上司が重要書類などを見ている場合がありますから。
「失礼します。○○の件でご報告があるのですが、いまよろしいでしょうか」
「○○社への訪問の件でご報告がございます」
☆何の要件かを先に説明すること。「あの件」「その会議」「例の件」など、守護が明確でない表現は避けます。


小さなことでも報告。
「○日の会議資料を作成いたしました。お目通しを願えますか」
「会議室への資料の配布を終えました」

頼まれた仕事を終えて一週間後に報告しても意味がありません。たとえば資料配布が済んだら会議を開始することになっていたら、この小さな報告がなければ会議を始めることができません。
「おい、○○の会議資料はどうなってる?」などと上司に聞かれたら、あなたの報告が遅いということ。
「ご報告が送れて申し訳ございません」
とひと言詫びてから簡潔に報告しましょう。


報告は必ず本人に。
報告は支持を受けた人に直接します。ほかの人に報告や伝言をお願いしても、正確性に欠ける場合があります。「直接」を心がけましょう。


ミスを報告する。
ミスやトラブルの原因、経緯を隠さずに報告し、最善の対処法などの指示を仰ぎます。起こったことはしかたがありません。大切なのは、ミスやトラブルに対処すること。落ち込む前に報告を入れましょう。
「○○商事からクレームがきてしまいました。原因はわたしの連絡ミスにあります。たいへん申し訳ありません」

上司に知られる前に自分で処理しようとするのも禁物。かえって事態を悪化させてしまう可能性が大きいからです。

結論から事実を正確に。
結論から先に告げ、経緯や理由は後から説明します。
曖昧なことや憶測は報告として意味をなしません。「~ではないかと思います」といった表現をしないように。




2.連絡する

外出するとき。
目的と行き先、記者予定時刻を告げます。上司のほか、周囲の人にも声をかけておきましょう。
「今日の14時から、○社へ打ち合わせに行ってまいります。16時には戻る予定です」。
万が一、帰社予定より遅れそうな場合も訪問先から一報を入れるようにしましょう。
「話が長引いておりまして、帰社時間が30分ほど遅れそうです。わたし宛てに何か連絡は入ってますか」。

できる人ほどとにかく、まめに連絡します(ルナ註:これはホント!)。連絡をまめにすれば予定外の仕事に対応できたり、段取りもつけやすくなります。

直行と直帰の連絡は…
朝、会社に寄らず直接取引先などに出かける「直行」は、できるだけ前日までに上司に許可をもらいます。
「明日は10時から○社に訪問したいのですが、直行させていただいてよろしいでしょうか」。
やむをえず当日になってしまった場合は、始業時間前に連絡を入れることを忘れずに。

外出先から直接帰宅する「直帰」も事前に許可をもらっておきます。ただし直帰する前に連絡を入れます。
「何もなければこのまま直帰させていただいてもよろしいでしょうか」。


約束に遅れるとき…

取引先との約束に遅れる場合は、「遅れそう」と分かった時点で連絡を入れましょう。連絡する時間を惜しんでギリギリの時間に到着するよりも、連絡をして5分10分遅れるくらいのほうがいいものです。遅刻はいいものではありませんが、やむをえない場合もあります。連絡せずに遅刻するというのは論外です。

(まずはお詫び)
「たいへん申し訳ございません」
(理由を簡潔に)
「事前の打ち合わせが長引きまして」
(到着可能な時間を正確に)
「20分ほどお約束の時間に遅れます」
(了承を得る)
「お待ちいただいてもよろしいでしょうか」




3.相談する
気になることはまず相談を!
 わからないことや迷うことなどがあるときはそのままにせず、周囲の人に積極的に質問しましょう。相談するときはTPOをわきまえましょう。相談する相手の忙しい時間帯や、食事中、害すつ直前はできる限り避けましょう。

相談のフレーズ
(前置き)
「お忙しいところ申し訳ございません」。
(相談内容)
「新しいプロジェクトのことで質問したいことがあります」。
(丁寧な語尾)
「いま、お時間をいただけるでしょうか」。

語尾は「~してください」では強いので、「~していただけないでしょうか」とおうかがいを立てるニュアンスで。

内容はスマートに。
前置きの後はできるだけ短く内容をまとめましょう。だらだら話すのは相手にも混乱を招いてしまいます。
・困っていること
・どうしたいのか
・何がききたいのか
・自分なりの考えはどうなのか

上司と話すのは何かと緊張してしまう、という人はメモ書きで話す内容をまとめるのも手です。

前置き言葉の例。
「いま、よろしいでしょうか」
「恐れ入りますが」
「お時間いただいてよろしいでしょうか」
「突然のお願いで恐縮ですが」
「お忙しいところ申し訳ございませんが」

☆プライベートな相談や、深刻な内容は勤務時間後に。
 こみいった話やプライベートのことの相談は、時と場所を選びましょう。もちろん、相手を選ぶことも忘れずに。退職や結婚などプライベートな要件は勤務時間外に相談するのがルール。
「折り入って個人的に相談したいことがあるのですが、今週中にお時間いただくことはできませんでしょうか」
誤解を招かないよう、はじめに仕事のことではなくプライベートのことだときちんと伝えましょう。


事後報告も欠かさず!

相談事が解決した場合もそうでない場合も後日感謝の言葉を述べることを忘れずに。

「先日は貴重なお時間をいただきほんとうにありがとうございました。○○の件は説明を重ねてご理解いただくことができました。おかげさまで解決いたしましたのでご報告いたします。ほんとうにありがとうございました」。

相手を立てる言葉を付け加えると好印象(ルナ註:だけど男の場合、よけいな誤解や期待を起こさせる場合もある。女性先輩の場合は事後報告を忘れるとあとでえらいことになるかも…)。
「○○先輩に相談したおかげでうまくいきました。○○方面に詳しい先輩に相談してほんとうによかったです」







【謝罪する】
仕事でミスをした、上司から叱責を受けた…。イヤなシーンですが、仕事をしていく上では必ず通る道です。仏頂面や知らん顔では印象×。きちんと謝罪しましょう。

謝罪のフレーズとなると「すみません」が思い浮かぶかもしれませんが、ビジネスシーンでは「申し訳ございませんでした」が謝罪フレーズとして適切です。当然ながら頭も下げましょう。

謝罪のフレーズ
1. わたしの不注意で
2. ・申し訳ございません
・申し訳ございませんでした
  ・失礼いたしました
  ・お詫びの言葉もございません
  ・たいへんご迷惑をおかけいたしました
3. ・そこまでは考えが及びませんでした
・お恥ずかしい限りです
・わたしの不徳のいたすところです
4. 今後はこのようなことのないよう十分配慮いたします。以後気をつけます


いいわけや不誠実な言葉は厳禁

 ×何度も確認したはずなんですが…
 ×ほんとにそうなっていますか?
 ×~さんにお願いしておいたのに…
ミスに対するいいわけや責任逃れは最低です。確認していようが、誰かに頼んでいようがミスはミス。しっかり謝罪しましょう。

自分のミスでクレームやトラブルが発生したときは、自分ひとりで解決しようとか、何とかしようとか、ましてや画し通そうなどとは考えないこと。一刻も早く上司に報告します。迅速な対応がさらなるミスを防ぐものです。

ミスをしたときの五箇条
1. あわてない。
2. 上司にしっかり報告。
3. 心をこめて謝罪。
4. いいわけや責任転嫁は絶対にダメ。
5. 反省したら立ち直る。

ミスの原因の分析や確認をしたら、今後に生かすことも忘れずに。
同じミスをしないように心がけましょう。
いつまでも引きずらず、早く立ち直る切り替えも大切なのです。




【仕事の指示を受ける】

心地よく受け答え。
「はい、承知しました」
「かしこまりました」

期限を確認。
「10日までに仕上げます」
期日を伝えると上司も安心します。

断るとき。
無理なときはお礼から始めると明るい断り方になります。
「せっかくご用命いただいてうれしく思っておりますが、今回は残念ながら~のためできかねます。次回またお声をかけてください」。

(不安なときは意欲を伝える)
少し重荷ながらもチャレンジしたいという場合は…
「自信がない部分はありますが、やってみます」と伝えましょう。引き受けられないときは無理をする必要はありません。

(途中でできないことが判明した場合)
理由を伝え、代案を提案し、仕事に支障をきたさないようにする。
「お引き受けして恐縮なのですが、~~という理由でできなくなりました。○○までお時間をいただければ可能ですが、いかがでしょうか」


NGな3ワード
「できませーん」
「イヤです」
「無理です」
こんな返事は通用しません。
(ルナ註:ウチじゃしょっちゅうこんな言葉を使っているが^^。うちは中小企業なのでそんな感じです。大企業にお勤めの方はくれぐれもうちのまねはしないように)


(下)につづく
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春うらら…新入社員のみなさまへ(下)

2008年04月13日 | 一般
(上)からつづき






【電話を受ける】

コールは3回以内に取るようにする。
第1声は「はい」。「もしもし」は使わないようにすると好印象。
大代表の電話の場合、「お電話ありがとうございます」をつけ加えると好印象。

・相手が名乗らないとき
「失礼ですが、どちらさまでしょうか」
・相手の声が聞き取れない
「恐れ入りますが、お電話が少々遠いようですが」
・よく聞こえなかった
「申し訳ございませんが、もう一度お願いできますでしょうか」

相手が名乗ったら
相手の名乗りにあわせてあいさつをします。

相手:お世話になります。○×商事の△△ですが。
自分:こちらこそお世話になります。

相手:こんにちは、○×商事の△△ですが。
自分:こんにちは。



電話を取り次ぐ
「○○課の誰々ですね。ただいま代わりますので少々お待ちください」
 取次ぎは必ずメモをとる。自分宛ではない場合、聞きなれない単語や憶えにくい名前などが飛び交います。箇条書きでいいから必ずメモをとること。



☆電話の取次ぎ基本パターン
 「おつなぎします。少々お待ちくださいませ」。

(保留ボタン)

 「(自分の名前)ですが*番に○社の△さんからお電話が入っています」。
取次ぎ先の方が出たら、取り次いでいる自分の名前も名乗る。どんな電話でも名乗るのがマナー。

簡単に要件を聞いていたら、
「~の件でお電話です」と伝える。


特定の人に当てた電話ではなかった場合。
 相手の要件を聞いて、関連する部署につなぎます。
「ただいま担当の者に代わりますので少々お待ちください」。

関連部署に内線。
「~に関するお問い合わせのお電話が入っています」。


名指し人が不在のとき。
(不在理由を告げる)
「○○はあいにく外出しております」。
(対処方法をたずねる)
「戻り次第、こちらからお電話をさしあげるようにいたしましょうか」。

対処方法には
①相手がかけなおす
②こちらからかけなおす
③伝言をことづかっておく
などがあります。どの方法にするかは相手に決めてもらいます。

不在理由の告げ方。
外出:「外出しております。
席にいない:「席を外しております」
その他:「ただいま~中でございます」
休んでいる:「お休みを頂戴しております」

相手が対処に困っていたら…
相手の話しぶりから「急ぎ」のようすを察したら、
「わたしでよければご用件を承りますが?」
「わたくし、同じ部署の○○と申しますが、よろしければ代理でお伺いいたしましょうか」。

伝言をことづかっておく場合は、必ずメモを復唱する。とくに電話番号や数字はゆっくりと復唱して、お互いが確認しあうようにする。最後に、
「私○○が承りました。たしかに△△に申し伝えます」
と名乗っておく。



迷惑な電話の対応。
間違い電話でも、会社にかかってきた電話ですから、丁寧に対応することを心がけましょう。
・間違い電話:「こちらは○○会社でございます。失礼ですが、おかけまちがいではないですか」
・何度も同じ相手からかかってきた場合
「失礼ですが、何番におかけでしょうか」。
・セールス電話
「申し訳ございませんが、そういったお話はお断りするように言われております」
「いまは必要ございません」
・応答できない電話
「わたしではわかりかねますので上司と代わります」


電話をかける「上品」スキル

基本ステップ
(名乗る)
「わたくし、○○会社の~と申します」
(決まりのあいさつ)
「お世話になっております」
(指名する)
「△△課の~さまをお願いします」

取次ぎ

(相手が出たら名乗ってから確認)
「わたくし、○○会社の~と申します。…さんですか」


用件を伝える
(用件を簡単に伝え、都合を聞きます)
「本日は○○の件でお電話いたしました。今、お話してよろしいでしょうか」

折り返し電話を頼む
(相手が不在の場合は、かけ直すのが原則ですが、相手の都合によっては折り返し電話をもらう場合もあり)
「恐れ入りますが、お戻りになりましたら、お電話をいただけますでしょうか。念のため、こちらの番号を申し上げます」

伝言を頼む
「では○○から電話があったことだけをお伝え願えますか」
「では、ご伝言をお願いします。メモのご用意をお願いできますか」

携帯電話からかける
「携帯電話から失礼いたします」
とひと言詫びること。携帯は緊急時のみ、が基本。

携帯電話にかける
「外出先にまでお電話して失礼いたします。いま、お電話、だいじょうぶですか」





【来客に対応する】

お客様が話しかけやすいように笑顔で「いらっしゃいませ」と顔を向けます。はじめて来社する人にとって会社のイメージは最初に応対した人の態度で決まります。来客の応対は受付の人だけがするものではありません。受付を担当している人が不在だったり、ロビーや廊下でとまどっているお客様を無視して通り過ぎる社員がいれば、イメージは悪くなります。

声をかけるときは
「失礼します…」
「お客さま…」
「ご用件をお伺いしましょうか」

「すみません…」「あのう…」は×



☆来客応対のフレーズ

(相手が要件を告げたら)
「○社の△さまですね、営業部の**でございますか。少々お待ちください」

(名刺を出されたら)
「お預かりいたします」

(あらかじめ来訪予定を知らされていたら)
「○○さまですね、お待ちしておりました」

(アポイントの有無を確認する)
「失礼ですが、お約束でございますか」

(アポイントがない場合)
「ただいま確認をしてまいりますので、少々お待ちくださいませ」

(内線電話で取り次ぐ)
「○○社の**さまがお見えです。どちらにご案内しますか」

(訪問先の担当者を呼びにいく)
「ただいま○○を呼んで参ります。少々お待ちくださいませ」

(行き先を告げる)
「○階の○室へおいでください」

(案内する)
「お待たせしました。○○にご案内いたします。こちらへどうぞ」
方向は手のひらで示す。

(応接室へ通したら)
「○○はすぐに参りますので、しばらくお待ちください」


(席を勧める)
「どうぞ奥の席におかけください」
(飲み物の好みを訪ねる)
「お飲み物をご用意します。お茶とコーヒーとどちらにいたしましょうか」
「冷たいものと温かいものとどちらにいたしましょうか」
(お茶を出す)
「お茶をお持ちしました。前から(後ろから)失礼いたします」


接客の基本用語
「いらっしゃいませ」
「お待ちしておりました」
「本日はわざわざご足労いただきありがとうございます」
「お忙しいなか、お呼び立てして申し訳ございません」

あいさつを交わしたら、近況や天候の話など軽く雑談を交わしてワンクッション置くのがマナーです。いきなり本題に入ると事務的な印象で、相手をせかしているようで失礼です。


(「人に好かれるものの言い方・伝え方のルールとマナー」/ 古谷治子・監修)

--------------------------

とまあ、こんな感じです。もっともこの本の著者の方はTBSと中国新聞社という超一流の会社に勤めてきた方なので、こんなバカ丁寧な言葉を使う習慣がついたのでしょうね。うちじゃ、課長から「あれ、どうなった」と聞かれても、机から顔も上げずに「“あれ” じゃわからん」と応答します。

でもね、大きな会社に採用された若い方々の参考になればと思って、まあこんなエントリーを出してみました。ルナは長いことカルト宗教で世間からは隔離されて暮らしていましたので、大企業ライフというのを知りません。この記事を書き写していてちょっとうらやましい気分になりました。

今年入社された大学出のみなさま、高卒でも、新入社員のみなさま、あたらしいステージでのご活躍・ご健闘を祈っております。

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エホバの証人問題のひと区切り

2008年04月08日 | エホバの証人のこと、宗教の話

 

 

 

 

 

エホバの証人問題の最終回として、最後にこの記事をご紹介します。

 

 


--------------------

 


「時間は何も解決してくれない」-悲嘆する人に寄り添う:「安易な励まし」自問

 誰しも必ずいつかは死ぬ。多くは大切な人を亡くす経験もするだろう。しかし、その悲しみは一様ではなく、深い悲嘆からすぐに立ち直れる場合もあれば、時間がたっても日常生活さえ困難なほどに苦しむ人もいる。そのような人に対して、どう接したらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか。「悲嘆」に向き合うことが宿命づけられた記者の一人として、ある講座の扉をたたいた。

 JR福知山線脱線事故の現場に近い聖トマス大(兵庫県尼崎市)で昨年10月から公開講座「『悲嘆』について学ぶ~愛する人をなくすということ」(3期1年半)が開かれている。JR西日本が費用を賄う寄付講座で、講師は末期がん患者や震災被災者の心のケアに当たる精神科医、宗教者、死別体験者らが務める。

 受講者約300人の中には同脱線事故の被害者の遺族が数十人いる一方、個人資格で登録したJR西日本の幹部らも交じる。「生と死を考える会全国協議会」会長で、この講座のコーディネーターを務める高木慶子・同大客員教授から「記事で死を扱う新聞記者にこそ学んでほしい」と勧められた。私はこの半年、取材時間を融通しながら第1期15回のうち9回を受講した(第2期は既に締め切り)。

 「とりあえず初回ぐらいは」のつもりだった私が途中で投げ出さなかったのは、講師の柏木哲夫・金城学院大学長が使った「安易な励まし」という言葉に引っかかったからだ。

 若い時、死を間際にした患者に「弱音をはきたかった時、先生に『もっと頑張りましょう』と言われ、二の句が継げず、やるせなくなった」と告げられた経験談に出てきた。遺言と受け止め、後にホスピス医として2500人をみとった柏木学長はこう語る。「弱音をはきたい時には、はき切ってもらう。死の恐怖におびえている時には、取り去ろうとするのでなく、恐れる気持ちに耳を傾けることが大切。励ましは時に心を傷付ける」

 柏木学長は悲嘆から立ち直るまでの12段階のプロセスも紹介した。身近な人の死後、最初に現れるのはショックによる現実感覚のまひ。続いて「何かの間違いだ」という否認。パニック、敵意、自責の念などと続き、抑うつ状態や無感動状態の末に死を受け入れ、立ち直る、というものだ。

 受講した脱線事故の遺族には、こうしたプロセスを経験した人も多く、大学には「自分の精神状態が理解できず戸惑っていたが、立ち直りへの道筋なのだと分かり、安心した」との声が寄せられているという。



  ×  ×  ×

 癒えない死別の悲しみを語る有名人も私の心をとらえた。昨年1月17日に交通事故で長女えみるちゃん(当時10歳)を亡くしたタレントの風見しんごさん(45)だ。風見さんは一周忌に合わせて、家族の思い出や事故の記憶をまとめた「えみるの赤いランドセル」(青志社)を出版した。交通安全を訴える講演活動も行う。

 「娘を奪われた悲しみは、この立場に立たされた者にしか分からない。それを広く伝えるのが芸能人である私の天命」と、取材の申し出に快く応じてくれた。

 えみるちゃんは学校へと家を出た直後、青信号で渡っていた近くの横断歩道でトラックにひかれた。風見さんが駆けつけた時もまだトラックの下だった。普通では考えられない向きにへしゃげた両足。内出血で腫れ上がった顔。瞳の中まで血で真っ赤になった目。「地獄とはあのことです」。風見さんは今も日に一、二度、その時の記憶が突然よみがえるフラッシュバックに襲われるが、「悲惨な現実を知ってもらうため」と、講演などでは忌まわしい記憶を包み隠さずに語る。

 「3カ月たてば、この程度は立ち直っているはず」「1年たてば、もう忘れられるだろう」。他人の勝手な想像を感じることもあるが、間違いだ。事故後しばらくは現実を受け止め切れず、「奇跡が起きて、ある日ひょっこり帰ってくるかも」と本気で考えていた。しかし、時間の経過とともに現実を受け入れざるを得なくなる。ただ、それは立ち直りを意味するものではない。「えみるは本当にもういないんだ」。その思いが逆に悲しみを倍加させる。「時間は何も解決してくれない。それが実感です」--。

 現在の風見さんは「寝ている時も芝居をしている時も24時間えみる用のアンテナを頭に立てて、天国からの声に耳を澄ませている」。彼女の人生が残したメッセージを理解することが、いつか天国で再会するための絶対条件と信じて。



  ×  ×  ×

 私は新聞記者としてこれまで取材や記事を通じて「安易な励まし」をしていなかったかと自問しながら受講を続けた。

 第1期を終え、たどり着いたのは「寄り添うこと」の大切さだった。柏木学長は「同じ体験がなければ『あなたの気持ちがよく分かる』とは言えないが、『つらいでしょうね』とは言える。それが癒やしにつながる」と話した。

 作家の柳田邦男さんは「二・五人称の視点」という言葉を使った。「他人の死」である三人称の視点は平等・冷静を保つために大事だが、身近な人を亡くす「二人称の死」の苦しみを理解する努力も重要ではないかと。

 第2期の講座開始を前に高木客員教授から私は「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」とくぎを刺された。




毎日新聞 2008年4月2日 大阪朝刊


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わたしは多くの元エホバの証人が言うほどJWICの管理人さんに親しみを感じません。むさぼって読んでいたころもそうだし、今もそうです。それは何となく言葉の端々に私たちへのさげすみと、アメリカ社会流の学歴偏重の価値観を感じ取ったからです。「しょせんあの人は外部の人だ。それもアメリカの富裕層流の考え方に近い人だ」ということをひしひしと感じたのです。

元エホバの証人系のHPに付属していた掲示板でも、苦しみを吐き出す人へのさげすみと攻撃的傾向に嫌悪を覚えたことも多いです。とくに元2世となると、アダチル度が高いので、いい子でいたがったり、感情の濃密な吐露に過敏に反応したりする人、場をコントロールしようとする人、道徳や常識でかためた正論で乱暴な書き込みをする人を即攻撃したりする人が多いのもしょうがないといえばしょうがないのですが…。

ただそういう人たちが、自分はすでに達観しているようにふるまっていることには今でも我慢なりません。はっきりいえばこういう人たちこそウツ思考なのであり、鬱的であるというのはつまり思考が硬直しており、スキーマに完全に捉われているからです。でもそのころのわたしには反論する術を持たなかったため、いわれっぱなしでスゴスゴ「正論」のまえに敗退した書き込みした人と同じ立場にいました。

その後、精神医学や心理学のちょっと本格っぽい本を読み続けてゆくに連れ、反論する手がかりも少しずつふやすことができました。今なら、JWICの管理人さんにだってさえ正面から抗議する勇気もあります。もちろん掲示板の「偽教師」、「偽達観者」たちならどこまでもしつこく食い下がってやれます。でも時代は変わり、掲示板よりももっと個人的なブログの時代になりました。

ブログでは自分の独裁が利いて、自分にとって都合の悪い意見や反論を強制的に削除できます。でもそうすることがすでにその人の未熟さ、病的ナルシズムを雄弁に物語っているのです。少なくともわたしのブログではそんなことはしません。わいせつ系のコメントでも、それはその人なりの自己表現の仕方だろうと思うので、連続しない限りそのままにしています。

目を日本の社会に向けると、やはり弱った立場に落ち込んだ人へはバッシングこそすれ、励ましたり寄り添うことはめったになされないのです。多くの精神科医は、日本人には国民的性質としてうつ思考性が観察される、という文章を書かれたり、またそのような談話をされます。が、多くの人は注目しません。

まるで日本は危急の事態に追われており、人間を道具のように使い捨ててでも、何かにキャッチアップしなければならないかのように、デッドレースをしているようです。それは戦時下の様相をさえ示しているのです。個々人の都合や事情などにかまけていられないのだ、というような雰囲気…。こういう面にわたしはエホバの証人社会に似たものを見いだします。

つまづいてゆく人々は、その人たち自身が欠陥者であり、つまづいた人の自己責任だと言わんばかりの、弱者バッシングと暴力(心理的な暴力と体罰)礼賛、勝利至上主義。手段はどうあれ勝ち残った者勝ちだという投げやりな思考。元2世の多くの人はこういう思考にどっぷり漬かっているように感じることがあります。日本の社会はエホバの証人社会と酷似しています。それは個々人の事情にきめ細かく対応してゆこうという民主主義的な思考を面倒がり、もっと短絡に、自我を延長する対象としての「国家」や「民族精神」、「宗教組織」への帰依を重視する態度であり、それはようするに他者の威光によって自分を大きく見せようとする、動物の防衛本能にも似た精神態度が共通しているように思える、という意味です。精神科医に言わせると、そういう態度は、自分というアイデンティティが未成熟なため=自分に自信が持てず、他の人々を信頼できず、自分のほんとうの願望も感情も分からない人の思考様式なのだそうですが。



もう自分のブログでエホバの証人のことに重点を置くことは少なくなると思いますので、いままで掲示板かどこかで、弱っている人(=わざと乱暴な言葉を書きなぐったり、猥褻なことを書きなぐる人など)を正論でバッシングし、死をさえ本気で見つめているような人を軽蔑をもって迎える人を返り討ちにしてやる機会もないでしょう。

ただ、最後に「強くて成功した」元エホバの証人2世たちに言いたいことは、「資格のあるカウンセラーでもなければ、医師でもないあなたたちはどれほど偉いの?」「それほど偉くないのなら、なぜ言葉じりや表面上の汚さを問題にして、『なぜあえてこんな書き込みをするのだろう』と掘り下げて考えようとしない自分たちの弱さ、卑怯さを問題にしないの?」「それは自分が逃げている自分自身の問題から目をそらすためでしょう?」etc...ということです。

弱っているときに弱音を吐いて何が悪いの? 弱音を吐いたり批判的になるなと言ったのは、あなたたちの親でしょう? エホバの証人の親でしょう? あなたたちは単にエホバの証人の親の教えを自動的に内面化しているだけでしょう? 内心ではそれを知っているのに、それから目をそらしたいだけなのでしょう? ただ単に親への感情を冷静になって断ち切れない自分の弱さを正当化したいだけでしょう?
 親があなたたちを自分自身の延長とみなしたように、あなたたちもいまだに親を自分の延長として密着しているだけなのです。 

あるいは単に、ネット上で自分の理想的な姿を “アバター” として描き出したいだけなのでしょう? 心理学や哲学の知識をかじった自分をひけらかしたいだけなのでしょう? それはだれかを低めることで自分を高めて、そうやって自分の価値を見いだそうとする行為です。エホバの証人のベテル出身者がよく取る行動です。あるいは、ネット上のそういう人たちに対して間接的に反抗するために、アダルトチルドレンをバッシングして見せたりするだけなのでしょう? 本人に直接言えないもんだから…。アダルトチルドレンであるわたしたちはほんとうに自分自身の未熟さに苦しんでいるのに、あなたたちの競争心のために利用されるのです、わたしたちは…。

そんなあなたたちに、わたしはこの記事を紹介したいのです。人を励ますということはどういうことか、人はほんとうに常識どおりに癒されてゆくものなのか。そもそも、人ひとりひとりの心のありようは、千差万別であり、何事も一般理論どおりに運ぶものではないのです。そういうあやふやさ、あいまいさ、グレーゾ-ンの存在に脅威を覚えるのです、あなたたちは。

ひとつひとつ個別に対応できないのです。自分に理解できない世界、自分とは異なる人の思考にあなたたちは脅威を覚えるのです。つまり、知力が弱いのです。どんな有名な大学を出ていてもね。東大出身者だって、まともな歴史評価ができない人がいるのです。それは自己評価の低さのためです。大日本という強固な偶像に頼らなければ自分を信じられないのです。そういう人たちは、ものごとはきれいに区別されていなければならない、善悪ははっきり見えていなければならないのです。中間の曖昧な部分というものの存在に脅威を覚えるのです。こういう人間心理の綾を、わたしはこのブログで暴いていって見せましょう。あなたたちがどんなに激しく反論しようと、どんなに正論を大上段から打ってみても、わたしはこう感じます。

「限りなく二人称に近づこうと寄り添わなければ二・五人称の視点は持てない。そうでない記事は言葉が上滑りして、すぐに分かる」(高木慶子・聖トマス大学客員教授)

 

 

 

 

 

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