カルト宗教の被害者を救済するのに力を注いでいる弁護士が、今年の3月に一冊の本を上梓されました。 「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」と題するものです。これはアメリカで公表されたカルト問題の文献を選んで翻訳されたものです。
カルト宗教のことが話題になると、日本ではおおかた無理解が目立ちます。そんな宗教に入団する人の自己責任だというのです。また、カルト宗教で傷ついて、人間関係を上手に営めないようになった人を責めて、「もっと前向きに生きろ」、「考え方が消極的だ」と上からの目線で「裁き」ます。「裁く」というのはエホバの証人の世界では一つの用語で、決めつける、とか排除するためにレッテルを貼る、とかいう意味です。
エホバの証人を自ら脱出してきた人や、追い出された人、もうこれ以上居続けることができない、というところまで追い込まれた人などが何人かホームページや掲示板を運営されてきましたが、なんとそこでも、世間と同様に、心痛を訴える人や、自暴自棄な心情を吐露する人を責め立てるのです。エホバの証人時代と同じような、暗黙のルールのようなものができ上がり、こういうことを書いてはならないとか、ああいうことを吐露してはならないというような、明文化されていない圧力ができあがり、エホバの証人の会衆のような雰囲気になる場合もままありました。
はっきりいいますが、現在問題になっている、学校でのいじめ問題に対処らしい対処がいまだにできていないのは、被害者の立場に立った理解がなされていないからですが、それと根は同じなのです、カルト被害者を上からの目線で責め立てる態度というのは。
カウンセラーやホームページの管理人が自らの心理的優越感を得るために、被害者を利用しているのと同じです、そんなのは。ホームページのなかには、直接エホバの証人としての経験がないくせに、ただ自分の意見に対しての賞賛を書き込んでほしいばかりに掲示板を開設する人さえいます。そんな人は言葉の定義を問題にしたり、さまざまな方面の知識を披露することに努力するのです。カルト被害者は救済どころか、自分の問題を理解してくれるところさえどこにもないのです。ただ「弱者」、「敗北者」、「無能」、「挫折者」呼ばわりされるだけなのです…。
かつてはセクシャル・ハラスメントもそうでした。考え方の問題だ、で片づけられたり、挑発的なファッションやふるまいをする女性のほうが悪いというような議論で片づけられてきました。しかし、理解のある、真に知性的な弁護士や、被害者の粘り強い運動の結果、いまやセクハラ問題は法律の場で扱われるようになりました。日本では、まだ決して十分とは言えませんが、2~30年前に比べれば、格段の進展です。カルト被害者への理解ももっと広げたいと、わたしは切実に願います。
この本は昨日、お食事の帰りに買ってきたものですから、まだ内容を読んではいませんが、序章に当たる部分のさらにその冒頭の文章をご紹介したいと思います。ほんとうは「冤罪」の後編を準備の最中だったのですが、急遽こっちに切り替えました。この記事が、自己責任を主張する人たち、カルト宗教に無関心を装う人たち、またとくにエホバの証人問題を扱うブロガーたちの目に留まりますように。
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【なぜ社会問題と考えるべきなのか】
そもそもなぜカルトが世界中で問題とされてきたのでしょうか。それはカルトが幾多の社会問題や事件を引き起こしてきたからです。つまりカルトという言葉は、決して、最初に定義ありきの演繹的な概念言語ではありません。カルトは実体を伴う経験帰納的な概念言語であることを理解する必要があります。一般には、この点に誤解があり、カルトという言葉を、得体の知れない宗教団体に対する一種の差別用語のように使用する例がありますが、それは間違いです。このことは最初に確認しておきたいと思います。
(「カルト宗教-性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)
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いきなりむずかしいことばがでてきました。「演繹」と「帰納」ということばについてちょっと意味をわかりやすく説明しておきます。
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演繹法とは、結論を、前提だけから、しかも論理学の教える規則にしたがって引き出す手続きのことです。演繹の「演」は、巻いてあるものを延ばすことです。「繹」のほうは何重にも巻いてある “糸まり” の糸口から糸をひっぱりだすことです。「演繹」はすでに提示された「前提」のなかに暗々裏に含まれているものを明るみに引き出すという意味で、つまり「推論」と同じことです。
「推論」とは、「論」つまり結論を「前提」から引き出すことです。「推」は押し出すことですが、前提が結論を押し出す=結論が前提から引き出される、ということです。数学や論理学はこの「推論」によって研究されます。推論はつまり「証明」することと同じ意味です。高校2年生で、「数列」の教材の中で「数学的帰納法」というのを勉強しますが、数学的帰納法の手続きも、結局は演繹なのです。
一方、「推理」のほうは、「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推し測ること」です。それはつまり「推測」ということであり、推論とは決定的に違う点があります。推論によって「証明」されたことは論理的に100パーセント信頼のおける結論ですが、「推理」の結果でてきた結論は「推し測り」の結果ですから、100パーセントの信頼性を持たないのです。そして「帰納」がするのはこの「推論」なのです。
帰納法は、個々の経験的な事例を集め、そこから一般的な結論を一気に引き出すという手続きです。この「一気に」という点が帰納法の大切な特徴です。推論つまり演繹では、結論の引き出し方はとても慎重ですが、その代わりその結論は仮説・仮定のなかですでに存在していた内容をはっきり証明しただけです。つまり情報量は仮説・仮定の内容から増えません。
しかし、帰納法によって引き出された結論は、前提(数学では仮定、科学では仮説)には含まれていなかった要素を新しくつけ加えるのです。この場合は情報量が増大します。しかしそうしたやり方で結論を出すためには、前提と結論の間に横たわっている溝を「帰納法的飛躍」といわれるやり方で「一気に」跳びこさねばならないのです。そしてそこに帰納法の持つ生産性・創造性があるのですが一方論理が飛躍する危険性も存在するのです。
帰納の「帰」は「万物が一つに帰する」という古代中国の文句からきたもので、「納」も「多くのものを一つに納めいれる」という場合の「納」です。そして今の場合、ここで万物とか多くのものというものは、個々のことがらについて述べた文であり、「一つ」というのは一般的にも説明できる結論として述べられた文のことです。帰納法には冒険的要素があり、したがってその結論は「~である」ではなく、「~だろう」となります。
(「論理的に考えるということ」/ 山下正男・著)
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これでもよくわからないでしょうから、実例を挙げておきます。
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「昨日は富士山がよく見えていた。そして今日はこんなによい天気になった」。この事例から、「今日も富士山がよく見えるから、明日も晴れだろう」と考えるのは、帰納的な推論によっています。しかしこれは正しい推論になってはいません。一般に、帰納的推論によって導いた結論は正しいという保証はありません。
数学では、帰納的推論を用いて、あることが成り立つだろうと予測することは、十分に慎重でなければなりません。そのような例として、たとえば、
nΛ2(nの2乗、のつもり。以下同じ)+n+41
は、すべての自然数 n に対して素数だ、と予想してみましょう。
n に1,2,3, ... ,10を代入しても、すべて素数となっています。
1+1+41=43 素数
4+2+41=47 素数
9+3+41=53 素数
…
100+10+41=151 素数
n に11,12, ... ,20を代入しても、すべて素数です。もっと驚くべきことには、n に31,32,... ,40を代入してもすべて素数になっています。
これらから帰納的に推論して、予想は正しいと考えたくなります。
しかし、この予想は正しくはありません。
n=41 のとき、
nΛ2+n+41
は、1681+41+41=1763=41×43 となって素因数分解されてしまいます(つまり素数ではないということ)。
帰納法はこのように、証明するのには難しい論理なのです。
(「中高一貫数学コース2」/ 志賀浩二・著)
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戦争中、沖縄で集団自決を軍から強要されたというのは方便だったというひとりの方の告白から、歴史修正論者たちが勢いづきましたが、あれも帰納的な議論です。一人の方はそうだったかもしれませんが、アメリカ軍にとらわれになるよりは民族の誇りとなるよう死ぬことを教えられ、命令された人はほかにおおぜい存在するのです。一事例から全部が嘘だったと結論しようとするのが「帰納的飛躍」です。
元エホバの証人の掲示板にたまに書き込まれる、「自分の会衆ではそんなひどいこと起こっていなかった、自分は親に愛され、会衆の成員にも愛し愛されていた、だからあなたたちの言い分はマユツバだ」というような書き込みも「帰納的飛躍」です。これらはみな「証明」にはなりえない議論です。
「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」の著者の方々が言おうとしているのは、カルトの問題は被害者の個々の事例から法的に救済することを考えなければならない社会問題であって、演繹的に論証し、一般的な定義づけができないからといって、被害者を排除してはならない社会問題なのだ、ということです。わたしもまったく同感です。ひとりひとりの被害のケースはユニークな事例です。ですから教団そのものを即悪だとか犯罪団体だとは決めつけられないかもしれない。教団そのものを法で断罪はできないかもしれない。だからといって、被害者に責任を押し付けたり、被害者を非難したりするべきじゃありません。妙にお上品ぶって、前向き思考で生きていきましょうなどと、どうしてえらそうにお説教するのでしょう、一部の人たちは。
そういう人たちをここで暴露してみましょう。これはもうずっと以前から言いたかったのですが、掲示板の常連の方々からの総バッシングが怖くてできませんでした。でも今や自分のブログを持った以上、遠慮なく言ってやります。
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若い人々の臨床心理学者志望は、自分自身の不安に根ざしていることが多い。自己存在、別の言葉で言えばアイデンティティが確立されていない弱さをカバーするために、「人を助ける」ことによって自分の存在価値を保証しようとしているのです。
…(中略)…
でも、自分の存在がきちんと確立されていない人、つまり自分の問題が自分で処理できない人が、相手を助けるという重い責任をちゃんとできるのでしょうか。
わたしは、そういう若い人たちに、学部生の間に自分をもういちど見つめなおしてほしいと思っています。
(「不思議現象 なぜ信じるのか」/ 菊池聡ほか・著)
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掲示板で、傷ついた人たちの吐露の言葉に食ってかかる人、矛盾点を探し出して議論を吹っかける人、お説教をする人、自分への賞賛を書き込ませるよう巧妙にまたは脅しにより操作する人、そういう人たちは「自分自身の不安」を解消しようとしているのです。他人に訓話をたれるというのはつまり自分のほうが「上」に立つということだからです。自分の存在価値をそこで証明できるのです。まして他人を真っ向から否定してやることは、どれほど自分の価値を高められることでしょう!
いったいそんな人たちに、自分で言うほどのえらそうなお説教をするだけのどんな事実上の値打ちがあるのでしょうか。「自分の内心の不安」を他人を利用して解消することしかできない人が。
さてさて、ちょっとキツくなりましたが、本題である「カルト宗教…」の引用を続けましょう。
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それではカルトが分類してみると、おおむね次の4つになります。
① 対社会的攻撃型
② 資金獲得型
③ 家族破壊型
④ 信者・構成員収奪型
…(中略)…
③は親子の断絶や離婚などの事件です。カルトの信者になったために、出家などで親子が断絶してしまう、夫婦が離婚に至ってしまうことが往々にして起きます。時にカルトに入信した親とともに、その子どももカルト内で生活させられるなどし、これに心配した他方の親やその両親(子どもから見れば祖父母)が、子どもをカルトから取り戻そうとして、トラブルに発展するケースもあります。
④は、信者の安全や健康を無視した無償労働、これに伴う事故や、パワーハラスメントやセクシャル・ハラスメントなど信者への虐待や性的収奪、児童虐待などがあげられます。マインド・コントロールを駆使した勧誘で、対象者を心理的な脅迫状態に置き、心をがんじがらめにして「熱心な信者」に仕立て上げます。その上で、そういった精神状態に陥った信者に対し、「労働基準法」「最低賃金法」などの労働法規の趣旨を逸脱した劣悪な信者管理を行い、信者を伝道活動の実践と称して、危険な地域に派遣したりもします。
それから施設内の子どもの人権侵害の問題もあります。カルトのなかでは、子どもも労働力のひとつとされ、カルトの歯車として、大人と同じように働かされ、教育を受ける権利が侵害されている例があります。希望した教育さえ受けさせられずに育った児童は、のちに成人してカルトを自らの意思で脱会した際にも、社会復帰の厳しさに直面して精神的に苦しむ結果となり、自殺してしまった子どももいますし、病気治療さえも受けさせられずに、施設内で死亡した例もあります
私たちは、こうした事件を継続的に引き起こす集団を、単に「カルト」、ときに法秩序、社会秩序を破壊する団体という意味で「破壊的カルト」と呼んでいます。カルトがこうした社会問題を引き起こしてきたからこそ、弁護士はカルトを法的なレベルでも問題にしてきました。ただふつうの人と違う考え方をしている、奇妙だからなどという理由で問題としてきたわけではありません。
もちろん、カルトにまつわる問題のなかには、法的な問題性が明らかなものもあれば、現状では同義的な問題にとどまるものもありますが、後者についても、道徳は法の源泉として時代のなかで次第に法として純化していくこともあります。ひと昔前までは問題とされることのなかったセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントが、今は「違法の問題」とされていますし、もちろん道義的な問題自体も、それ自身が社会問題になりうることを考えると、無視するわけにはいきません。つまりカルトの問題を考えるとき、その団体の活動がどのようなものであるか、すなわちその実態的考察が不可欠な要素となります。
ところがときに、知ったかぶりの知識人・評論家のなかには、こうしたカルトの実態を直視せず、「カルトの定義があいまいだ」などと、言葉の問題に矮小化させるような意見を言う人がいます。しかし、言葉には「水」「光」などといった、経験で理解できる帰納的言語と、物理学や数学で使われる、最初に定義ありき、の演繹的言語があります。すでに述べたように、カルトは演繹的言語ではなく、経験帰納的な概念言語です。この点を理解すれば、カルトの持つ実態こそが、この問題のいちばんの重要な問題であり、考えるべき対象であることがよくわかります。「カルト」の定義があいまいだと批判する人は、この点を大きく誤解しています。
人は、世界に存在する森羅万象のすべてを体験して知ることはできません。カルトの問題も同じです。つまり、カルトという言葉も、その実態を体験するなかで理解するか、少なくとも理解しようとする想像力がなければ、そもそも永久に理解できない言葉というよりほかありません。それはいわば「海」を見たことのない人が「海」のことを語られても、実感できない状況と似かよった心理状態といえます。
…ですから、本書を読んでいただいたみなさんには、知ったかぶりの知識人や評論家にならず、ぜひともカルトの深刻な被害の実態に、目を開いてほしいのです。国の政策は、最終的には国民が決めてゆくものです。この間、カルトの被害を実感せず放置してきたのは、実は、日本国民の問題でもあります。
(「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)
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カルト宗教被害は、被害者個々人でそれぞれ異なっているので、それらすべてのケースを包括的に説明できる、一般的定義を定めることはできない、だからといって、カルト被害者を放置することはできない、とにかく被害者ひとりひとりを救済することを行わなければならない…と著者は訴えておられます。
いままでに経験のない病気にかかった人は、いろんな医者をまわりますが、たいていはどこでも原因不明ということで扱われます。診断基準がないからです。患者が苦しみを訴えても、医者は既成の知識で対応しようとすると、患者は理解されず、精神的にまいってしまいます。シックハウス症候群の子どもたちは最初、そのような経験をしました。身体の症状を訴えても、既成の知識ではどこも悪いところは見出せないのです。そのうち、患者の子どもたちのほうが、ふつうの子と違うということで、疎まれるようにさえなるのです。しまいには、「甘えている」、「仮病だ」などと教師にののしられるようになりました。既成の知識を大前提にして「演繹的に」症状を推論しても、新しい病気は理解できないのです。うつ病にかかった人も最初は「甘え」「がんばりが足りない」としか見られなかったではありませんか。
カルト被害者も同様です。被害者一人一人のケースを、既成の知識で対処しようとするのではなく、個々人を独自の例として、共感的に対処していかなければならない、と著者はここで強調しておられるのです。それがここでいうところの、「帰納的」言語で語るという意味です。帰納的思考はものごとを証明しようとするのには危険な思考ですが、カウンセリングの立場から見れば、既成の枠組みにとらわれない、個人を尊重した思考法として、なくてはならないものでもあるのです。
問題なのは、カルトの定義(もちろん、物事を扱うのに、定義を定めるのは大切です。そうやって新しい事情はマニュアル化されてゆくのですから)ではなく、個々人にカルトが実際に被害を及ぼしている、という実態なのです。
実態を共感的に想像し、理解しようとしなければ、人権侵害の問題は扱うことができないし、実態を知ろうとせずに、自分の賢さを印象づけるためだけに、理論的な議論をしようとする人たちには人権という問題を口にする資格さえない、という著者たちの憤りのこもった文章に、わたしはいたく感動しました。ほんとうにそのとおりだと思います。
従軍慰安婦のこと、南京での虐殺事件、靖国神社に祀られている台湾や韓国からの徴集兵たちの家族の心の痛み…。そうしたことをあたまから否定し、旧日本軍の思考と価値観をごり押しする人たち、石原都知事のように外国人差別、女性蔑視を公然と発言する人たちが、そんな人たちが、いま日本でもてはやされています。歴史の修正はこうした国民意識に支えられてもいるのでしょう。教育基本法「改正」から憲法改正に至る道筋を「順調」に進めるのは自民党だけではない、日本国民の無関心というエゴイズムに支えられているのです。
したがって、カルト宗教被害者にとって、今は逆風の時代です。日本の現状に今、国民個人個人の尊厳よりもまず国家の対面を優先、という思想が優勢になっている時代です。それはそのまま、教義や神のために個人などいくらでも犠牲になっても問題じゃないという思考とまったく同じなのです。誰か人間を神格化して、その人に威光を与え、それに評価されることで自分に自信を与えようと考える人々、それは国家に命をささげて靖国神社に行こう、という思考とまったく同じなのです。さしずめ、エホバの証人の場合は、「組織に人生を捧げつくして王国へ行こう」というものでしょうね…。
石原都知事の発言をたいしたことはないと考える人が東京都民には多いということをわたしはよく知りました。そういう人たちは、学校でのいじめの問題について発言する資格はないのです。ことばがどれほど凶器となりうるか、その実態に共感しようとしない人なのですから、そもそもいじめ問題を理解することすらできないでしょう、そう、だからこそ、東京都の教育は超反動化しているのです。
わたしは、元エホバの証人です。集団のなかで意図的に孤立させられるということがどれほど心を痛めつけることか、また言葉による表面上はそうはみえない巧妙な中傷がどれほど深刻な傷を深く刻み込むのか、わたしはよーっく実感できます。ですから、今の日本の流れには断固抵抗します。エホバの証人のような宗教には徹底的に批判を加え続けます。そうすることが、エホバの証人として過ごした人生を無駄にしない唯一の方法だと確信しています。その経験から知恵を引き出さなければ、エホバの証人時代の人生はほんとうに無意味なものになるでしょう。「知ったかぶりの知識人」タイプのご立派な元エホバの証人の方々が言うように、経験から知恵を引き出さず、ただ単に昔のことを見ないように、忘却してとにかく自分のことに没頭して生きるだけなら、ほんとうにあの時代、あの時間は無意味で無駄なものになるのです。だからわたしは、エホバの証人のような宗教によって傷つけられた人だけでなく、全体主義の犠牲にされてきたすべての人たち、切り捨てられ、排除され、バカにされ、低められてきたすべての人に、まず共感する人間でありたいと、そういう人間でありたいと、決意しているのです。
この本を、元エホバの証人の方々にはぜひお勧めします…がちょっと高めの値段なんですが…。
ISBNは、978-4-7762-0393-3です。全部読んだら、また一本記事を書きますね。今回は書きながらちょっとアツくなりました。
はー、タバコ一服吸っちゃお。