Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

エホバの証人体験を決して無駄にはしない! (追記あり)

2007年04月23日 | エホバの証人のこと、宗教の話

 

 

 

 

 

カルト宗教の被害者を救済するのに力を注いでいる弁護士が、今年の3月に一冊の本を上梓されました。 「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」と題するものです。これはアメリカで公表されたカルト問題の文献を選んで翻訳されたものです。

カルト宗教のことが話題になると、日本ではおおかた無理解が目立ちます。そんな宗教に入団する人の自己責任だというのです。また、カルト宗教で傷ついて、人間関係を上手に営めないようになった人を責めて、「もっと前向きに生きろ」、「考え方が消極的だ」と上からの目線で「裁き」ます。「裁く」というのはエホバの証人の世界では一つの用語で、決めつける、とか排除するためにレッテルを貼る、とかいう意味です。

エホバの証人を自ら脱出してきた人や、追い出された人、もうこれ以上居続けることができない、というところまで追い込まれた人などが何人かホームページや掲示板を運営されてきましたが、なんとそこでも、世間と同様に、心痛を訴える人や、自暴自棄な心情を吐露する人を責め立てるのです。エホバの証人時代と同じような、暗黙のルールのようなものができ上がり、こういうことを書いてはならないとか、ああいうことを吐露してはならないというような、明文化されていない圧力ができあがり、エホバの証人の会衆のような雰囲気になる場合もままありました。

はっきりいいますが、現在問題になっている、学校でのいじめ問題に対処らしい対処がいまだにできていないのは、被害者の立場に立った理解がなされていないからですが、それと根は同じなのです、カルト被害者を上からの目線で責め立てる態度というのは。

カウンセラーやホームページの管理人が自らの心理的優越感を得るために、被害者を利用しているのと同じです、そんなのは。ホームページのなかには、直接エホバの証人としての経験がないくせに、ただ自分の意見に対しての賞賛を書き込んでほしいばかりに掲示板を開設する人さえいます。そんな人は言葉の定義を問題にしたり、さまざまな方面の知識を披露することに努力するのです。カルト被害者は救済どころか、自分の問題を理解してくれるところさえどこにもないのです。ただ「弱者」、「敗北者」、「無能」、「挫折者」呼ばわりされるだけなのです…。

かつてはセクシャル・ハラスメントもそうでした。考え方の問題だ、で片づけられたり、挑発的なファッションやふるまいをする女性のほうが悪いというような議論で片づけられてきました。しかし、理解のある、真に知性的な弁護士や、被害者の粘り強い運動の結果、いまやセクハラ問題は法律の場で扱われるようになりました。日本では、まだ決して十分とは言えませんが、2~30年前に比べれば、格段の進展です。カルト被害者への理解ももっと広げたいと、わたしは切実に願います。

この本は昨日、お食事の帰りに買ってきたものですから、まだ内容を読んではいませんが、序章に当たる部分のさらにその冒頭の文章をご紹介したいと思います。ほんとうは「冤罪」の後編を準備の最中だったのですが、急遽こっちに切り替えました。この記事が、自己責任を主張する人たち、カルト宗教に無関心を装う人たち、またとくにエホバの証人問題を扱うブロガーたちの目に留まりますように。






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【なぜ社会問題と考えるべきなのか】



そもそもなぜカルトが世界中で問題とされてきたのでしょうか。それはカルトが幾多の社会問題や事件を引き起こしてきたからです。つまりカルトという言葉は、決して、最初に定義ありきの演繹的な概念言語ではありません。カルトは実体を伴う経験帰納的な概念言語であることを理解する必要があります。一般には、この点に誤解があり、カルトという言葉を、得体の知れない宗教団体に対する一種の差別用語のように使用する例がありますが、それは間違いです。このことは最初に確認しておきたいと思います。


(「カルト宗教-性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)


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いきなりむずかしいことばがでてきました。「演繹」と「帰納」ということばについてちょっと意味をわかりやすく説明しておきます。





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演繹法とは、結論を、前提だけから、しかも論理学の教える規則にしたがって引き出す手続きのことです。演繹の「演」は、巻いてあるものを延ばすことです。「繹」のほうは何重にも巻いてある “糸まり” の糸口から糸をひっぱりだすことです。「演繹」はすでに提示された「前提」のなかに暗々裏に含まれているものを明るみに引き出すという意味で、つまり「推論」と同じことです。


「推論」とは、「論」つまり結論を「前提」から引き出すことです。「推」は押し出すことですが、前提が結論を押し出す=結論が前提から引き出される、ということです。数学や論理学はこの「推論」によって研究されます。推論はつまり「証明」することと同じ意味です。高校2年生で、「数列」の教材の中で「数学的帰納法」というのを勉強しますが、数学的帰納法の手続きも、結局は演繹なのです。

一方、「推理」のほうは、「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推し測ること」です。それはつまり「推測」ということであり、推論とは決定的に違う点があります。推論によって「証明」されたことは論理的に100パーセント信頼のおける結論ですが、「推理」の結果でてきた結論は「推し測り」の結果ですから、100パーセントの信頼性を持たないのです。そして「帰納」がするのはこの「推論」なのです。

帰納法は、個々の経験的な事例を集め、そこから一般的な結論を一気に引き出すという手続きです。この「一気に」という点が帰納法の大切な特徴です。推論つまり演繹では、結論の引き出し方はとても慎重ですが、その代わりその結論は仮説・仮定のなかですでに存在していた内容をはっきり証明しただけです。つまり情報量は仮説・仮定の内容から増えません。

しかし、帰納法によって引き出された結論は、前提(数学では仮定、科学では仮説)には含まれていなかった要素を新しくつけ加えるのです。この場合は情報量が増大します。しかしそうしたやり方で結論を出すためには、前提と結論の間に横たわっている溝を「帰納法的飛躍」といわれるやり方で「一気に」跳びこさねばならないのです。そしてそこに帰納法の持つ生産性・創造性があるのですが一方論理が飛躍する危険性も存在するのです。

帰納の「帰」は「万物が一つに帰する」という古代中国の文句からきたもので、「納」も「多くのものを一つに納めいれる」という場合の「納」です。そして今の場合、ここで万物とか多くのものというものは、個々のことがらについて述べた文であり、「一つ」というのは一般的にも説明できる結論として述べられた文のことです。帰納法には冒険的要素があり、したがってその結論は「~である」ではなく、「~だろう」となります。





(「論理的に考えるということ」/ 山下正男・著)


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これでもよくわからないでしょうから、実例を挙げておきます。





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「昨日は富士山がよく見えていた。そして今日はこんなによい天気になった」。この事例から、「今日も富士山がよく見えるから、明日も晴れだろう」と考えるのは、帰納的な推論によっています。しかしこれは正しい推論になってはいません。一般に、帰納的推論によって導いた結論は正しいという保証はありません。


数学では、帰納的推論を用いて、あることが成り立つだろうと予測することは、十分に慎重でなければなりません。そのような例として、たとえば、

nΛ2(nの2乗、のつもり。以下同じ)+n+41

は、すべての自然数 n に対して素数だ、と予想してみましょう。

 n に1,2,3, ... ,10を代入しても、すべて素数となっています。

1+1+41=43 素数
4+2+41=47 素数
9+3+41=53 素数

100+10+41=151 素数

n に11,12, ... ,20を代入しても、すべて素数です。もっと驚くべきことには、n に31,32,... ,40を代入してもすべて素数になっています。

これらから帰納的に推論して、予想は正しいと考えたくなります。
しかし、この予想は正しくはありません。

n=41 のとき、

nΛ2+n+41

は、1681+41+41=1763=41×43 となって素因数分解されてしまいます(つまり素数ではないということ)。

帰納法はこのように、証明するのには難しい論理なのです。





(「中高一貫数学コース2」/ 志賀浩二・著)


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戦争中、沖縄で集団自決を軍から強要されたというのは方便だったというひとりの方の告白から、歴史修正論者たちが勢いづきましたが、あれも帰納的な議論です。一人の方はそうだったかもしれませんが、アメリカ軍にとらわれになるよりは民族の誇りとなるよう死ぬことを教えられ、命令された人はほかにおおぜい存在するのです。一事例から全部が嘘だったと結論しようとするのが「帰納的飛躍」です。


元エホバの証人の掲示板にたまに書き込まれる、「自分の会衆ではそんなひどいこと起こっていなかった、自分は親に愛され、会衆の成員にも愛し愛されていた、だからあなたたちの言い分はマユツバだ」というような書き込みも「帰納的飛躍」です。これらはみな「証明」にはなりえない議論です。

「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」の著者の方々が言おうとしているのは、カルトの問題は被害者の個々の事例から法的に救済することを考えなければならない社会問題であって、演繹的に論証し、一般的な定義づけができないからといって、被害者を排除してはならない社会問題なのだ、ということです。わたしもまったく同感です。ひとりひとりの被害のケースはユニークな事例です。ですから教団そのものを即悪だとか犯罪団体だとは決めつけられないかもしれない。教団そのものを法で断罪はできないかもしれない。だからといって、被害者に責任を押し付けたり、被害者を非難したりするべきじゃありません。妙にお上品ぶって、前向き思考で生きていきましょうなどと、どうしてえらそうにお説教するのでしょう、一部の人たちは。

そういう人たちをここで暴露してみましょう。これはもうずっと以前から言いたかったのですが、掲示板の常連の方々からの総バッシングが怖くてできませんでした。でも今や自分のブログを持った以上、遠慮なく言ってやります。




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若い人々の臨床心理学者志望は、自分自身の不安に根ざしていることが多い。自己存在、別の言葉で言えばアイデンティティが確立されていない弱さをカバーするために、「人を助ける」ことによって自分の存在価値を保証しようとしているのです。


…(中略)…

でも、自分の存在がきちんと確立されていない人、つまり自分の問題が自分で処理できない人が、相手を助けるという重い責任をちゃんとできるのでしょうか。

わたしは、そういう若い人たちに、学部生の間に自分をもういちど見つめなおしてほしいと思っています。





(「不思議現象 なぜ信じるのか」/ 菊池聡ほか・著)


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掲示板で、傷ついた人たちの吐露の言葉に食ってかかる人、矛盾点を探し出して議論を吹っかける人、お説教をする人、自分への賞賛を書き込ませるよう巧妙にまたは脅しにより操作する人、そういう人たちは「自分自身の不安」を解消しようとしているのです。他人に訓話をたれるというのはつまり自分のほうが「上」に立つということだからです。自分の存在価値をそこで証明できるのです。まして他人を真っ向から否定してやることは、どれほど自分の価値を高められることでしょう! 


いったいそんな人たちに、自分で言うほどのえらそうなお説教をするだけのどんな事実上の値打ちがあるのでしょうか。「自分の内心の不安」を他人を利用して解消することしかできない人が。

さてさて、ちょっとキツくなりましたが、本題である「カルト宗教…」の引用を続けましょう。




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それではカルトが分類してみると、おおむね次の4つになります。

① 対社会的攻撃型
② 資金獲得型
③ 家族破壊型
④ 信者・構成員収奪型

…(中略)…

③は親子の断絶や離婚などの事件です。カルトの信者になったために、出家などで親子が断絶してしまう、夫婦が離婚に至ってしまうことが往々にして起きます。時にカルトに入信した親とともに、その子どももカルト内で生活させられるなどし、これに心配した他方の親やその両親(子どもから見れば祖父母)が、子どもをカルトから取り戻そうとして、トラブルに発展するケースもあります。

④は、信者の安全や健康を無視した無償労働、これに伴う事故や、パワーハラスメントやセクシャル・ハラスメントなど信者への虐待や性的収奪、児童虐待などがあげられます。マインド・コントロールを駆使した勧誘で、対象者を心理的な脅迫状態に置き、心をがんじがらめにして「熱心な信者」に仕立て上げます。その上で、そういった精神状態に陥った信者に対し、「労働基準法」「最低賃金法」などの労働法規の趣旨を逸脱した劣悪な信者管理を行い、信者を伝道活動の実践と称して、危険な地域に派遣したりもします。

それから施設内の子どもの人権侵害の問題もあります。カルトのなかでは、子どもも労働力のひとつとされ、カルトの歯車として、大人と同じように働かされ、教育を受ける権利が侵害されている例があります。希望した教育さえ受けさせられずに育った児童は、のちに成人してカルトを自らの意思で脱会した際にも、社会復帰の厳しさに直面して精神的に苦しむ結果となり、自殺してしまった子どももいますし、病気治療さえも受けさせられずに、施設内で死亡した例もあります




私たちは、こうした事件を継続的に引き起こす集団を、単に「カルト」、ときに法秩序、社会秩序を破壊する団体という意味で「破壊的カルト」と呼んでいます。カルトがこうした社会問題を引き起こしてきたからこそ、弁護士はカルトを法的なレベルでも問題にしてきました。ただふつうの人と違う考え方をしている、奇妙だからなどという理由で問題としてきたわけではありません。

もちろん、カルトにまつわる問題のなかには、法的な問題性が明らかなものもあれば、現状では同義的な問題にとどまるものもありますが、後者についても、道徳は法の源泉として時代のなかで次第に法として純化していくこともあります。ひと昔前までは問題とされることのなかったセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントが、今は「違法の問題」とされていますし、もちろん道義的な問題自体も、それ自身が社会問題になりうることを考えると、無視するわけにはいきません。つまりカルトの問題を考えるとき、その団体の活動がどのようなものであるか、すなわちその実態的考察が不可欠な要素となります。

ところがときに、知ったかぶりの知識人・評論家のなかには、こうしたカルトの実態を直視せず、「カルトの定義があいまいだ」などと、言葉の問題に矮小化させるような意見を言う人がいます。しかし、言葉には「水」「光」などといった、経験で理解できる帰納的言語と、物理学や数学で使われる、最初に定義ありき、の演繹的言語があります。すでに述べたように、カルトは演繹的言語ではなく、経験帰納的な概念言語です。この点を理解すれば、カルトの持つ実態こそが、この問題のいちばんの重要な問題であり、考えるべき対象であることがよくわかります。「カルト」の定義があいまいだと批判する人は、この点を大きく誤解しています。

人は、世界に存在する森羅万象のすべてを体験して知ることはできません。カルトの問題も同じです。つまり、カルトという言葉も、その実態を体験するなかで理解するか、少なくとも理解しようとする想像力がなければ、そもそも永久に理解できない言葉というよりほかありません。それはいわば「海」を見たことのない人が「海」のことを語られても、実感できない状況と似かよった心理状態といえます。



…ですから、本書を読んでいただいたみなさんには、知ったかぶりの知識人や評論家にならず、ぜひともカルトの深刻な被害の実態に、目を開いてほしいのです。国の政策は、最終的には国民が決めてゆくものです。この間、カルトの被害を実感せず放置してきたのは、実は、日本国民の問題でもあります。





(「カルト宗教 性的虐待と児童虐待はなぜ起きるのか」/ 紀藤正樹・山口貴士・著)


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カルト宗教被害は、被害者個々人でそれぞれ異なっているので、それらすべてのケースを包括的に説明できる、一般的定義を定めることはできない、だからといって、カルト被害者を放置することはできない、とにかく被害者ひとりひとりを救済することを行わなければならない…と著者は訴えておられます。


いままでに経験のない病気にかかった人は、いろんな医者をまわりますが、たいていはどこでも原因不明ということで扱われます。診断基準がないからです。患者が苦しみを訴えても、医者は既成の知識で対応しようとすると、患者は理解されず、精神的にまいってしまいます。シックハウス症候群の子どもたちは最初、そのような経験をしました。身体の症状を訴えても、既成の知識ではどこも悪いところは見出せないのです。そのうち、患者の子どもたちのほうが、ふつうの子と違うということで、疎まれるようにさえなるのです。しまいには、「甘えている」、「仮病だ」などと教師にののしられるようになりました。既成の知識を大前提にして「演繹的に」症状を推論しても、新しい病気は理解できないのです。うつ病にかかった人も最初は「甘え」「がんばりが足りない」としか見られなかったではありませんか。

カルト被害者も同様です。被害者一人一人のケースを、既成の知識で対処しようとするのではなく、個々人を独自の例として、共感的に対処していかなければならない、と著者はここで強調しておられるのです。それがここでいうところの、「帰納的」言語で語るという意味です。帰納的思考はものごとを証明しようとするのには危険な思考ですが、カウンセリングの立場から見れば、既成の枠組みにとらわれない、個人を尊重した思考法として、なくてはならないものでもあるのです。

問題なのは、カルトの定義(もちろん、物事を扱うのに、定義を定めるのは大切です。そうやって新しい事情はマニュアル化されてゆくのですから)ではなく、個々人にカルトが実際に被害を及ぼしている、という実態なのです。

実態を共感的に想像し、理解しようとしなければ、人権侵害の問題は扱うことができないし、実態を知ろうとせずに、自分の賢さを印象づけるためだけに、理論的な議論をしようとする人たちには人権という問題を口にする資格さえない、という著者たちの憤りのこもった文章に、わたしはいたく感動しました。ほんとうにそのとおりだと思います。

従軍慰安婦のこと、南京での虐殺事件、靖国神社に祀られている台湾や韓国からの徴集兵たちの家族の心の痛み…。そうしたことをあたまから否定し、旧日本軍の思考と価値観をごり押しする人たち、石原都知事のように外国人差別、女性蔑視を公然と発言する人たちが、そんな人たちが、いま日本でもてはやされています。歴史の修正はこうした国民意識に支えられてもいるのでしょう。教育基本法「改正」から憲法改正に至る道筋を「順調」に進めるのは自民党だけではない、日本国民の無関心というエゴイズムに支えられているのです。

したがって、カルト宗教被害者にとって、今は逆風の時代です。日本の現状に今、国民個人個人の尊厳よりもまず国家の対面を優先、という思想が優勢になっている時代です。それはそのまま、教義や神のために個人などいくらでも犠牲になっても問題じゃないという思考とまったく同じなのです。誰か人間を神格化して、その人に威光を与え、それに評価されることで自分に自信を与えようと考える人々、それは国家に命をささげて靖国神社に行こう、という思考とまったく同じなのです。さしずめ、エホバの証人の場合は、「組織に人生を捧げつくして王国へ行こう」というものでしょうね…。

石原都知事の発言をたいしたことはないと考える人が東京都民には多いということをわたしはよく知りました。そういう人たちは、学校でのいじめの問題について発言する資格はないのです。ことばがどれほど凶器となりうるか、その実態に共感しようとしない人なのですから、そもそもいじめ問題を理解することすらできないでしょう、そう、だからこそ、東京都の教育は超反動化しているのです。

わたしは、元エホバの証人です。集団のなかで意図的に孤立させられるということがどれほど心を痛めつけることか、また言葉による表面上はそうはみえない巧妙な中傷がどれほど深刻な傷を深く刻み込むのか、わたしはよーっく実感できます。ですから、今の日本の流れには断固抵抗します。エホバの証人のような宗教には徹底的に批判を加え続けます。そうすることが、エホバの証人として過ごした人生を無駄にしない唯一の方法だと確信しています。その経験から知恵を引き出さなければ、エホバの証人時代の人生はほんとうに無意味なものになるでしょう。「知ったかぶりの知識人」タイプのご立派な元エホバの証人の方々が言うように、経験から知恵を引き出さず、ただ単に昔のことを見ないように、忘却してとにかく自分のことに没頭して生きるだけなら、ほんとうにあの時代、あの時間は無意味で無駄なものになるのです。だからわたしは、エホバの証人のような宗教によって傷つけられた人だけでなく、全体主義の犠牲にされてきたすべての人たち、切り捨てられ、排除され、バカにされ、低められてきたすべての人に、まず共感する人間でありたいと、そういう人間でありたいと、決意しているのです。

この本を、元エホバの証人の方々にはぜひお勧めします…がちょっと高めの値段なんですが…。
ISBNは、978-4-7762-0393-3です。全部読んだら、また一本記事を書きますね。今回は書きながらちょっとアツくなりました。

はー、タバコ一服吸っちゃお。






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欺かれる人々のおぞましさ

2007年04月16日 | 一般
国民投票法案、正確に言うと、「早急に憲法改正するための手続法案」が衆院通過したとき、田中真紀子が神経質に椅子を左右に振っていて、そう、息をのむように椅子に沈み込んでいました。自民党議員のなかにも、議論らしい議論をまったくせずに、ただ数に頼んで反動的法案を次々に強行採決する安倍総理とその配下の連中に、違和感を持ち始めた人がいるのでしょう。

国威発揚に同調するみなさん、ほんとうにこれでいいんですか? いま、すがすがしい気分ですか、それとも誰かに暴行を加えた後のように、うっぷんは晴れたが自己嫌悪は深まっていませんか? あなたのその気持ちは、冷静な思考に基づいているでしょうか、それとも、感情的なものですか?

1970年生まれの若い学者が、昨年、このような記事を雑誌に発表しました。「世界」だの「朝日」だのはサヨクの低俗誌だとあたまから決めつけないで、なぜ、そのような批判をするのか、という観点に立って読んでほしいと思います。一部分だけ、ご紹介します。

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2005年の参院選挙で郵政民営化をかかげる小泉自民党が大勝したのは、それまで自民党の票田ではなかった都市部の浮動層が自民党に投票したからである。彼ら(都市部の浮動層の人々)はどのような要求を持っていたのだろうか。

それは、「郵政事業の陰でさまざまな権益がむさぼられている構造を解体しなくてはならない」という要求だ。「国家とは国民みんなのものであり、一部の特権者がそれを私物化してはならない」というナショナリズムの主張がその土台にある。

郵政民営化をめぐる議論では、ぬるま湯につかっている郵政公社の職員を市場原理のもとでもっと競争させなければならない、というようなことがさかんに言われた。公務員に与えられた特権や保護に対して短絡的に(*)不満を持つ有権者がこれに応えたのだった。自分たちは厳しい競争社会のなかでこんなに苦労しているのに、彼らだけが守られていてズルい、という感情だ。

(*註)「短絡的に」というのは、実際には、郵政事業は独立採算によって行われていて、職員の人件費には税金は使われてはいなかったからです。このことを知らなかった、いや、知らされずに、事情に通じている一部の人々以外のわれわれ国民は、小泉元首相とそのお抱え「知識人」たちの操作的な議論におどらされていたからです。

しかし、そうやって郵政事業を市場原理のもとにおけばどのようなことになるだろうか。市場での競争はより激化し、有権者たちはますます厳しい競争にさらされて苦労することになるだろう。一般に公共セクター(公共事業に民間企業の資金と能力を導入して、効率よく経営することを目指した公共事業体)での労働条件が悪くなれば、それは民間にも波及せずにはいない。しかし小泉自民党に投票した都市部の浮動層はあえてそれを実現させようとしたのである。彼らはたたきやすい標的に不満をぶつけることで、結局自分たちの首を絞めてしまうのである。

郵政民営化は、郵貯・簡保にあつめられたカネを自由市場にまわすことで、金融市場を効率化する、という目的のために推進された。しかし、労働市場の効率化(=労働者の非正規化。要するに「使い捨て化」)が結局は雇用を不安定化したように、金融市場の効率化も日本の金融システムを不安定化しかねない。なぜなら、日本がこれほどの財政赤字を抱えていながらも通貨危機に陥らずにすんだのは、郵貯・簡保にあつまってきたカネで国債を買い支えてきたからだ。金融財政システムが不安定化すれば、あとは増税によって対処するしかなくなるだろう。

郵政民営化に賛成票を投じたひとたちは、郵政公社をバッシングすることで溜飲を下げたかもしれない。しかしその代償はあまりに大きいのだ。

郵政民営化が圧倒的に支持されたのはナショナリズムの要求を通じてであり(=国は国民のためのものであるべきだ、役人だけウマイ果実をむさぼるのは許せないという感情)、その背景には、生活のための環境が厳しくなっていることへの民衆の不満がある。しかし、そのナショナリズムを通じて実現されたのは、彼らの不満の種をますます深刻化するような政策なのだ。

逆に言うなら、国家のほうは、そういう下からのナショナリズム感情を利用して自らを再編成している。いま国家はグローバル化とハイテク化がおしよせて来るなかで、より利潤率の高い新しい産業を育成することに躍起になっている。

民衆の生活を犠牲にしてでも労働市場と金融市場を流動化し、安い労働力と多くの資金を新しい産業へと差し向けようとしているのはそのためだ。これによって人々の間に生活不安がさらに深刻化する。ところが人々はその不安をナショナリズムというかたちに翻訳することで、国家の政策を逆に後押ししてしまっている。民衆の要求はずるがしこく利用され、国家の目論見に喰いつくされようとしているのだ。


(「国家の思惑と民衆の要求は、なぜ逆説的に一致するのか」/ 萱野稔人/ 「世界」2006年6月号より)

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醜くて、おぞましい、この統治の姿。わたしたちは、熱狂的に国威発揚を掲げることによって自分で自分の首を絞めている。

例を挙げると、東京の国立市の学校で、国威発揚の式典を拒否した教師をバッシングする。それもメジャーな新聞(S新聞)が先頭を切って、扇情的な、きわめて主観的な記事を書く。人権侵害もはなはだしいことを、新聞が書く。ネットウヨクが殺伐とした文章でそれに乗る。彼らは自分のうちに巣くう「不安」「不満」のエネルギーを吐き出すところを見つけ出したのです。しかしそれによって何をしているのかに、なぜ気づかないのでしょう? 産…もとい、S新聞がやったことは、言論と表現の自由を否定することなのです。それはマスコミの生命線であるはずのものなのに。それとももうマスコミ人を放棄したのでしょうか、政府お抱えの、平成版ゲッペルス啓蒙・宣伝省大臣になったのでしょうか?

教育基本法を変えることによって、教育の荒廃が解決されると思っているのでしょうか。教育を荒廃させたそもそもの原因が「改正」教育基本法のなかで法制化されたのです。そしていま、憲法も「もとどおり」、つまり明治憲法に接近したものに変えさせようと、布石が急いで布かれてゆきます。それで社会が正常化すると思うなら、それはちょっと早合点だと思います。むしろ不満と不安が解消されるということだけが成し遂げられ、わたしたちの生活はよりいっそう不安定きわまるところまで落ち込んでゆくでしょう。

感情で決めるのではなく、もう一度、冷静な頭で考えてから決めても遅くはないと思うのですが…。






今日の安部独裁を生んだのは、この、2005年の参院選でした。

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石原慎太郎の朝

2007年04月08日 | 一般
今日は統一地方選挙の日ですね。東京都民の方々を敵にまわそうかとか、侮辱しようという気持ちはさらさらありませんが、でも石原人気が根づく東京都に向けて、地方人としてではなく、一国民として、日ごろ思っていたことを書きます。

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人は閉塞状況に陥ると、 “英雄” を求めがちになる。未来への視界が曇った現代という時代に、石原氏が格好の “英雄” として人々の前に現れたかのように見えるのは、彼が大衆の “嫌悪” の情念に便乗してのけたからだと分析したのは、月刊誌『世界』2000年10月号の特集「石原都知事批判」のうち「『嫌悪』の支配者・石原慎太郎」(21世紀東京研究会)だった。

“憎悪” と言い切れるほどではない、あやふやで、しかし(生活の閉塞状況のゆえに)人々の心に確実に宿るようになったもやもやとした感情。都職員の大幅な賃金カットをはじめ、ディーゼル車規制、カラス狩り、銀行への外形標準課税、三国人発言や中国・北朝鮮に対する差別的言辞の数々が拍手喝采を集めてきた石原都知事のありようを見る限り、くだんの指摘は正鵠を得ているのではないか。

石原氏自身、参議院に初当選を果たした年に書いてもいた。三派系全学連による米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争が勝ち得た市民の共感は、知的ではなく衝動的、ライフル魔に対する野次馬の爽快感のようなものに過ぎないと斬って捨て、そしてこう述べていたものだ。

《 現代という状況にあっては「嫌悪」こそが唯一、人間自身にとっての情念情操である。 嫌悪は、われわれの内深く凝結しているがゆえに、われわれ自身それを見出しえず、あるいはまた、嫌悪はわれわれの身体の内いっぱいに溢れているがゆえにわれわれはそれを嫌悪として気づかずにいる。

そしてまた、その嫌悪を隠蔽する数多くの粉飾をわれわれは持ちすぎている。形骸化した諸価値。それらの価値への忠誠の擬態。そしてなによりも、今日の人間自身の情念である嫌悪の快感を代行し拡散させる、非情念的でいたずらに観念的な、行為ならざる行為。

現代の人間のほとんどは己の情念を持たず、すなわち、肉体なき人間の行為は行為たりえず、すなわち、行為ならざる行為はいたずらな挫折感をしか生まず、すなわち、その反復は人間を、社会、文明に対する主体者の地位から引きずり下ろすだけでしかない。

私は自らの純粋に個的な「嫌悪」を意識化し、それをも時代の心情としてとらえ直したとき、それを時代的に、歴史的に、社会的に一つの意思として表現しつくすために、現代の社会力学のなかで政治という手段を選ぶ気になった。

…(中略)…

いずれにしても、私の政治参加の決心は、政治的である前に、私的な、私自身の存在にかかわる問題であって、詮ずるところ、私の嫌悪の直截な表現に他ならない。

私は、嫌悪し憎しみ、とり壊すべきものを、より嫌悪し、より憎しみ、より実際に壊そうとするために、嫌悪の対象である行為の母体であるところの政治のうちに在る自分を選んだだけだ。 》(「『嫌悪』-現代の情念」/ 『祖国のための白書』 集英社、1968年所収)


“嫌悪” についての分析は見事というほかにない。この文章が書かれてから35年を経過した現在(2003年現在)、“肉体を持たない人々” なる形容はもはや抽象ではなく、バーチャル・リアリティ、高度ネットワーク社会などと言われる世界にあって、実体そのものになってきた。人々の嫌悪の種も、とめどなく肥大化してしまっている。

大衆の嫌悪の対象を叩き壊すことを目的に政治家になったという石原慎太郎氏が、この時代の寵児になっていることは、その意味で自然の成り行きではあるのかもしれない。ただ、では彼がたとえば首相となり、これ以上に “英雄” として振る舞うような未来が、多くの人々にとってほんとうに望ましいのかどうか。なるほど石原氏には多くの著作があり、長年にわたる政治家と作家の兼業で、さまざまな体験をしてきているのだろうが、彼そもそもの、また現在に至るまで抱き続けてきていると思われる政治的情念は、はたして指導者にふさわしいものなのか?


(「空疎な小皇帝」-「石原慎太郎」という問題-/ 斉藤貴男・著)

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世界的な視点から見た、一般的な人々の「閉塞感」というものには、たとえば失業率の増大とか、終わらない戦闘状況とか、破綻した経済から来る生活の困難さ、極度の貧困、政治的思想的な抑圧とかが見られますが、現代日本における「閉塞感」に限定すると、それはもっと心理的、実存的な問題ではないだろうかとルナは個人的に思っています。

それは自分のほんとうの意向が押しつぶされ、会社や学校が要求する「枠型」にはめ込まれざるを得ない状況、自分の気持ちを正直に表明すると、「疲れているんじゃないか」、「わがままじゃないか」、「甘えではないか」といわれる社会の風潮への不満があるのではないでしょうか。

特に石原さんが政治家になった1968年当時といえば、高度成長経済期の絶頂です。身を粉にして働かされていた人々が、そう、エコノミック・アニマルとまで言われて、それこそ戦前の精神主義的な自己犠牲をそのまま引きずって生きてきて、家庭が犠牲にされ、人間関係が薄く、ぎごちなくなっていたものの、経済的には所得も増えるなど、成果は上がっていたために、おおっぴらに漠然とした不満を表明することを許す雰囲気がなくなっていた時代でした。「漠然とした不満」とは何か。それは「自分が生きていることの意味」、「生きていることへの充実感」という実存的な意味が失われたことだと、わたしは確信をもって言います。これはエホバの証人として20年弱生きてきた経験から言うものです。

それは、他人がよしとする価値観にそって、他人が決めた目標のために身を粉にし、他人からの評価をもって自分の存在価値を得る、というような生き方が、真に充実感や生きる喜びという人間にとってもっとも重要なものが得られない、という事実からくる不満です。他人に評価してもらおうとすれば、他人の土俵で、自分が内心ではとくに興もわかないことに一生懸命にならざるをえないですから、そこには何の充実感もないのです。

一例を挙げれば、70年代後半ごろから、オリンピックでメダルを取れなかった選手が、暗黙に引退を要求されるといった風潮に反発を言い表す選手が現れ始めました。選手は自分が好きでやっているだけなのに、とくに優れていたというだけで「日本を背負って立つ」ことが要求され、世界の舞台で成果を出すよう要求されるのです。これはもう「自分が好きでやっている」という範囲を超え、他人の満足のためにおどらされているのです。これではつらいだけなのです。逆に、自分はとくに好きじゃないけれど、たまたま、あるスポーツについての素質を賦与されて生まれたために、そのスポーツをやらされて十数年やってきたけれど、本来自分がやりたいことではないので、気持ちや意欲、勝ちに行く執念といったものが切れてしまう、わかりやすくいえば「燃え尽きて」しまう。

「燃え尽き」は仕事にがんばってきた人にもっと多く見られます。有名進学校に行き、大企業に入ってたくさん収入を上げればしあわせになれると親から刷り込まれて生きてきたものの、やがて自分のやっていることに疑問を覚えるようになったり、疑問を覚えればまだましで、漠としたいらだちがちょっとしたことで表現されてしまう。レストランなどでウエイターのひとのちょっとした落ち度に顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、執拗に罵倒し続ける、あるいは家庭で妻や子どもに当り散らすという行動に表わしたり、突然、身体が言うことを利かなくなる、身体が重いなどの欝を発症させる…。匿名性の高いインターネットの書き込みで凶暴なことを書き込んだり、他者を否定する攻撃的な書き込みをする、といった行為も、「漠然とした不満」の表したかです。

「漠然とした不満」が公に表明される場合、それは弱者へのバッシングとなって表れます。移住外国人や社会的弱者(人間的「弱者」ではない)、画一化されていない個性の人などへのバッシングです。また人間の成長には個人差が私たちが思う以上に大きく関係しているので、学校で、成長のゆっくりな子や愛し方を知らない親のために成長が遅らされている子が残忍にいじめられる。逆に、エホバの証人のような画一化の圧力の強い環境では、個性的でしあわせなひとがいじめ抜かれる。

石原慎太郎の言動には差別や独断が色濃く表されます。それは彼が上記引用文で表明しているように、自信の「嫌悪」を公に表現しているのです。彼の場合の「嫌悪」は、ではいったいなんでしょうか。具体的に上記では書かれていませんので、わたし個人の推測の域は出ないのですが、それは戦後民主主義の精神が、彼のうちで消化されなかったこと、彼のうちにある、既成の秩序への得体の知れない反発感(既成の秩序への言葉で十分言い表せない反発感というものは、自分自身がよくわからない・何をしても充実感が得られない・思い通りにいかないことにふつう以上に耐えられない、といった自分を見失っている心理状態であることが多い、とカウンセラーや精神科医などは書きます。これは一般的な見解で、必ずしも石原慎太郎氏に言い得ている、とは言い切れませんが…)といったものではないでしょうか。カルト宗教に入団する人に、こういう人が多いことが知られています。オウム真理教に入団したある人は、「他の人がディズニーランドで楽しそうに過ごしていても、自分は全然楽しくなかった。どこにおいても自分が入り込める場所がなかった」と述べたことを90年代末の朝日新聞夕刊で見かけました。(昔のワープロのフロッピーに記録しておいたんですが、ちょっと今すぐには引っ張ってこれません。そのうちその記事を探しておきます)

上記引用文にある、「現代という状況にあっては「嫌悪」こそが唯一、人間自身にとっての情念情操である。 嫌悪は、われわれの内深く凝結しているがゆえに、われわれ自身それを見出しえず、あるいはまた、嫌悪はわれわれの身体の内いっぱいに溢れているがゆえにわれわれはそれを嫌悪として気づかずにいる」という一文には、このようにして、実存的な喪失感を持つ人が「大衆」といえるくらい多いこと、そしてそれが、得体が知れず言葉でうまく言い表せないものであることを言っているように思います。

「そしてまた、その嫌悪を隠蔽する数多くの粉飾をわれわれは持ちすぎている。形骸化した諸価値。それらの価値への忠誠の擬態。そしてなによりも、今日の人間自身の情念である嫌悪の快感を代行し拡散させる、非情念的でいたずらに観念的な、行為ならざる行為」…というのは、戦後民主主義という擬態、つまり個人個人は真に尊重されなかった戦後のあり方への幻滅、それなのに、問題を民主主義的に扱おう、といわれることへの嫌悪感が言い表されているようにわたしは感じました。たとえば、外国人が(とくに白人じゃない外国人が)近所に引っ越してくるといえば、恐怖や嫌悪を感じているけれど、そんなことは表面には出さず、表面的にきれいな言辞で済ましている、というようなことでしょうか。家族の成員が仕事一本やりで、コミュニケーションの方法が習得できないでいる人々にとっては、異なった習慣、異なった宗教、異なった思想を持つ人と上手につながりを築くことができません。ですから「恐怖」を覚えるようになるのです。その「恐怖」は嫌悪感となって表明されるのでしょう。石原慎太郎お得意の外国人差別発言ですが、その発言に共鳴する大衆が存在するということは、東京都民全体の共有感情なのでしょう、それは。

石原さんは、そういう恐怖感、嫌悪感を、きれいごとの言辞で隠すのはもうやめよう、はっきり表現してやれ、と言うのです。
「私は自らの純粋に個的な「嫌悪」を意識化し、それをも時代の心情としてとらえ直したとき、それを時代的に、歴史的に、社会的に一つの意思として表現しつくすために、現代の社会力学のなかで政治という手段を選ぶ気になった。いずれにしても、私の政治参加の決心は、政治的である前に、私的な、私自身の存在にかかわる問題であって、詮ずるところ、私の嫌悪の直截な表現に他ならない」。
そういう考えは、大衆の要求に押されたからではなく、まず彼自身のうちにあったものであり、それを公に実現しようという動機から参議院に出馬した、と言うのです。そしてそれは国民の多数に受け入れられました。国民にも同様の「嫌悪」があって、それを表明する代弁者を求めていた節があったということでしょう。

「私は、嫌悪し憎しみ、とり壊すべきものを、より嫌悪し、より憎しみ、より実際に壊そうとするために、嫌悪の対象である行為の母体であるところの政治のうちに在る自分を選んだだけだ」。
そして実際に、彼は、彼の主観から見て「取り壊すべきもの」に容赦なく口撃し、行動してきました。

「都職員の大幅な賃金カットをはじめ、ディーゼル車規制、カラス狩り、銀行への外形標準課税、三国人発言や中国・北朝鮮に対する差別的言辞の数々が拍手喝采を集めてきた」というように、生活場面で、都民の不満の直接な対象をどんどん対処して、それが都民に評価されました。都職員の大幅な賃金カットなどはやんやの拍手喝采だったことでしょう。

しかし、彼の根本にあるのは、「嫌悪」を生み出させているものです。それは、わたしはまずまちがいなく、戦後日本に根付いた「民主主義」への誤解と無理解であり、憲法が保障する人権を軽視する精神的土壌だと考えています。それは国民にも十分すぎるほど内在されているエネルギーで、教育基本法「改正」への無関心な対応や、評価すらする対応、憲法改正に向けての「国民投票法」へのマスコミの偏向報道などにも如実に表れています。

「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という日本国憲法の12条の「義務」をわたしたちは真摯に受けとめてきたでしょうか。わたしは小中学校では、憲法にある「国民の権利及び義務」の章が解説されたのを覚えていません。国会とか内閣とかのことがちょっと話されただけで、もちろん、試験でも重要視されていませんでした。「議員の三分の二以上の」というところがカッコになっていて、そこに「三分の二」を書くよう求められていたくらいでしょうか。民主主義が十分に消化されず、いえ、意図的に議論を避けてきた結果、現在の日本の風潮があります。教育基本法がすんなり改正されたとき、マスコミの偏向報道を目の当たりに見たとき、わたしはいわば自ら洪水の流れに飛び込む日本国民のすがたが見えました。そうさせるのは、石原慎太郎が心に抱いている「嫌悪」であり、個人を真に尊重してこなかったゆえの、自己喪失感であろうと思います。わたしはインターネットはあまりしませんが、たまにみる議論でも、鬱憤晴らしとしか思えないような、野蛮で下劣な攻撃的な文章しか見ません。文章とはいえないでしょう。

さあ、選挙の朝。石原慎太郎の朝。今日、大坂は晴れています。東京の「空気」は晴れるのでしょうか、それとも格差社会へ向かってどんより曇ってゆくのでしょうか…。

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「あるある大事典」騒動、ほんとうに愚かなのは?

2007年04月04日 | 一般
なんとはなしにTVをつけると、関西TVが弁解番組を放送していました。その終わりのほうだったのですが、そのまま眺めていました。ふと思い出したことがあったので、記事を割り込みます。

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商業テレビ放送は、もともとは販売促進の道具と思われていた。最初のテレビ局はアメリカのフィラデルフィアに昔からあるラジオ局が始めたもので、最初のCMは冷蔵庫の広告だった。

…(中略)…

スポンサーは当初、ラジオと同様にテレビでも放送時間帯全部を買い、全てのCMを提供し、番組内容の決定にもかなり権限を持っていた。しかし、しだいに放送局は全番組をコントロールするために60分の番組時間枠よりも60秒のCM枠を分けて売り始めた。

放送局は広告時間を広告主に売って収入を得る。15秒、30秒、60秒のスポットCMで、値段は一日のうちでの放送時間と視聴者の人数により異なる。夜8:00~11:00という視聴者のいちばん多いプライムタイムのスポットは、値段もいちばん高い。放送局はCM時間をよく「パック売り」する。たとえば、「プライムタイム2本、プライムに近いところ2本、昼間3本でどうですか」という具合で、値段はそれぞれ別個に買うよりは安くなっている。

ネットワークは広告主に時間を売って収入を得る。広告主側は、ある特定の時間にテレビを見ている消費者の数と種類に応じてそれを買う。この視聴者情報を見出す研究を「人口統計学」と呼ぶ。放送統計社とか、A.C.ニールセンといった会社は各番組の15分ごとに視聴者の性別、年齢、学歴、所得、などで最も多い層を調べる視聴パターン調査を毎日行っている。このデータは広告主に高い値段で売られ、広告主はそのデータを使って自分の広告を最適の時間帯に入れ、ねらった消費者層のできるだけ多くに見てもらえるようにする。


(「メディア・リテラシー」/ カナダ・オンタリオ州教育省・編)

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テレビ番組は、視聴者に教養を与え、視野を広げ、豊かな楽しみを提供することを目的としていたのではなかったのでした。はじめから「販売促進の道具」だったのであり、ですからテレビ局は視聴者から利用料を徴収するのではなく、広告主から広告料を取るのです。それが放送局の従業員を養うのです。つまり、放送局は責任を一切、広告主に負うのであって、視聴者に負うのではない、ということです。ですから、関西TV局が、「視聴者を裏切ってしまった」などと弁解しているのは、本来的に言うと筋違いなのです。本筋はというと、「こんな事件を起こすことにより、スポンサーのイメージに傷をつけてしまい、たいへんなことをしてしまいました、そのことを遺憾に思っています」というものでしょう。

テレビ局にとっては、視聴者への責任というよりは、道義的に放送していいことと、やらないほうがいことの区別がある、という程度のものでしょう。あくまで責任は広告主の期待に応えることですから、視聴者を集めるためには、道義など二の次にしてしまう可能性があるのであり、それが実際に行われていたということですね、今回の「あるある大事典」事件は。

上記引用文によると、

「放送統計社とか、A.C.ニールセンといった会社は各番組の15分ごとに視聴者の性別、年齢、学歴、所得、などで最も多い層を調べる視聴パターン調査を毎日行っている。このデータは広告主に高い値段で売られ、広告主はそのデータを使って自分の広告を最適の時間帯に入れ、ねらった消費者層のできるだけ多くに見てもらえるようにする」…

…のですから、逆に、今見ている連続放送番組などに入っているCMをチェックすると、その番組がどういう人たちをターゲットにしているかを推測することができますよね。

そういうわけで、放送局にとって「視聴者」とは何かというと、こういうことになります。

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広告主がおもにねらう層は購買力のある最大視聴者層で、放送局はそういう人々を惹きつける番組を考え出すのに多大のエネルギーと時間を割く。視聴者は広告主に売られているのだ。

たとえば「G.I.ジョー」は、ハスプロ社がキャラクター人形を売るために作った。「マイアミ・バイス」が高視聴率番組になったあとすぐに、マイアミ・バイスの衣装とアクセサリーのシリーズが街にお目見えした。


(上掲書)

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放送局はCM時間枠を広告主に売りますが、その時間枠の値打ちは「視聴者」です。視聴者をどれだけ集められるか、という要素がCM時間枠の価値の全てです。ですから放送局が「今後、視聴率に踊らされないようにしてゆく所存です」などというのは、自分たちは商売を二の次にします、という意味を言っているのと同じです。あんまり期待できませんよね。

それよりもむしろ、わたしたち視聴者のほうに、「賢くなってゆくこと」が重要ではないでしょうか。CM分析の視点をご紹介しましょう。

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ある特定の番組一本におけるCMの数量と業種。
 CM一本の長さは何秒か。
 CMの総数は何本か。
 番組全体に占めるCM時間の割合はどのくらい?

 その番組にCMを多く入れている業種について上位3つにまず注目。
  なぜそれらの業種は多いのかを推測してみる。
 放送時間や番組の内容から、CMがターゲットとしているのは誰だろう。



CMの映像言語を分析する。
 CMのショット数はいくつだったか。
  同じ時間内でショット数を増やすとどういう効果がもたらされるか。減らすとどうか。
 どういう編集・映像処理がなされているか(カット、フェードイン、フェードアウトなど)。
  編集・映像処理の違いによって映像にどういう意味が生じるか。
 どんなカメラワークが使われているか。
  カメラワークの違いによって映像の意味はどう変わるか。
 画面の色調。
  その色調によって、どういう意味が作られているか。
 テロップやロゴが使われているか。
  それは画面のどこか。色や字体はどんな印象を与えようとしているか。



音声技法と全体の構成を分析する。
 使われているBGM、CMソング、音響効果、ナレーションなどについて、
  それらがどのような印象を持たせているか、
  それらがどういう意味をつくりだしているか、
  ナレーションは男声か女声か、なぜそうなっているのだろう。

 全体の状況はどう設定されているか。それがつくる意味。
 全体のテンポはどうなっているか。
  テンポと、カメラワーク・ショット数・BGMとの関係を推測してみる。
 ジョルトはいくつあるか。またなぜそれはジョルトといえるのか、具体的に説明してみる。
  (*)ジョルト: テレビ業界で使われる用語で、一種の衝撃を与えるシーン。
           笑い、
           暴力、
           画面での人やモノの動き、
           音声技術としての高音、
           編集上での、めまぐるしいカット…
  …などで衝撃を与えようともくろまれたもの。



CMの商品情報を分析する。
 CMから商品の機能や価格、原材料などについて、またサービス内容について、
 どのようなことがわかるか。
 
 CMを見ても商品についてよくわからなかった点はあるか。
  (ルナ註:一昔前のサントリーウィスキーのCMなど)
  ある場合、それはどのようなことか。

 上のことから、テレビ局や広告主は、私たち視聴者をどのように捉えている、と思うか。
  ものごとを慎重な考量精査によって選択する人々か、
  それとも情緒的で簡単に操作できる愚衆か。


(「Study Guide メディア・リテラシー」/ 鈴木みどり・編)

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特に重要な視点は、CMが価値観、イデオロギーを一方的に提供する、ということです。

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テレビCMには、性別や年齢、人種・民族的背景などを異にする多様な人々が登場する。
CMは15秒や30秒といった短い時間で視聴者の注意をひきつけ、商品イメージを最大限に印象づける必要がある。

そのため、このような人々は、綿密に計算して構成された状況設定の下で登場することになる。彼らはどんな外見や容姿で、どのように振る舞い、どのようにCMに登場しているだろうか。そして、そのような登場の仕方に、どんな意味を読み解くことができるだろうか。

CMのこうした分析により、CMが単にサービスを宣伝するだけでなく、ジェンダーやライフスタイルなどの価値観を提示していることに気づき、それに対して受動的であるのではなく、主体的に読み解くこと(*)の重要性を知ろう。
 (*)つまり、提示された価値観、ライフスタイルを受け入れるかどうかを自分で比較考量して選択すること。

1.登場人物を分析する。
注目している、あるCMには、性別、年齢、人種・民族的背景からみてどのような人物が登場するか。

女性、あるいは男性が登場している場合、それぞれどんな人として登場するか。その態度、行動などを観察して言葉にしてみよう。
またそのような登場の仕方に、どのような価値観を読み解くことができるだろうか。使われている映像技法、音声技法に留意して考えてみよう。
若者、あるいは中高年層の人物が登場している場合についても、
人種・民族的背景が異なる人が登場している場合についても、
同様の分析を行ってみよう。

登場する人々が提示する価値観と商品の販売は、どのように結びつけられているか、具体的に考察してみること。



2.状況設定を分析する。
海や山、森の中などの「自然」を使っているCMはあるか。それはどこのどんな「自然」か、
京都の街の一角のような「街」を使っているCMはあるか。それはどこのどんな「街」か。

これらのCMでは、「自然」「街」とはわたしたちにとってどのような価値を持つものといっているだろうか。使われている映像技法、音声技法に留意して推測してみよう。

なぜそのような「自然」や「街」を使うのだろうか。
商品の販売と「自然」や「街」がどのように結びつけられているか、具体的に考えてみよう。

「自然」や「街」以外にはどのような状況設定があったか。それらはどのような価値をもつものとされているだろうか。なぜそのような状況に設定されているのだろうか。



3.CMによって提供されているライフスタイル。
家族が出てくるCM、家族の存在を暗示するCMがある場合、それらのCMでは、家族の成員のおのおのがどんな役割を果たしているか。そこからどのような価値観を読み解くことができるだろうか。

分析したCMのなかで、「しあわせ」とは何かを語りかけるCMはあるだろうか。
ある場合、CMでは、「しあわせ」とはどのようなものだと言っているだろうか。
使われている映像技法、音声技法に留意して具体的に説明してみよう。
それは誰にとっての「しあわせ」か。そういう「しあわせ」をどう思うか。



4.著者はかつて、「人々は商品にではなく、(CMの)イメージに対して支払いをしている(『テレビ、誰のためのメディアか』より)」と書いた。あなたは著者のこの見解についてどう思うか。


(上掲書より)

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わたしが子どもの頃、世間ではおとなたちが、「テレビばかり見ているとバカになる」と言っていました。マンガ番組ばかり見ていないで、勉強しろ、ということでしたが、少なくとも、テレビばかり見てきた世代は、偏った思想を持つようにはなっているようです。テレビだけでなく、上記の分析のための視点は、新聞記事、テレビ・映画のドラマにも適用できますが、メディアによって知らされていることは、現実のわずかな一部分である、という理解がないと、わたしたちは容易にメディアを駆使する人々によって、私たち自身が操作されてしまうでしょう。「現実にそうなっている」といえば、みなさんは言いすぎだと思われますか。

納豆は高カロリー食品です。1パックでおよそ100キロカロリーの熱量を含みます。ところが捏造されたデータを一方的に提供されたために、多くの人が狂奔しました。データを捏造した放送局に、倫理的責任が問われるのは当然でしょう。しかし、そもそもテレビ局というのは、視聴者の福利を気にかけているのではありません。テレビ局にとって視聴者とは、CM時間枠に値打ちをつけるためのものでしかありません。テレビ局はスポンサー、広告主に対して、「多くの人々の脳髄にまで、情報操作された効果的なCM映像を刷り込みます」という約束をしているのです。テレビ局の責任感とは、CM時間枠を買ってくれたスポンサーにたいする約束を果たすことなのです。つまり、視聴率をとることです。彼らが、視聴率至上主義を反省します、などと弁解するのは、早く火消しをしたいからです。視聴率を取らなければ、彼らは食い扶持を失うことになるでしょう。テレビというものは、第一にスポンサーの意向に最優先で応じようとするもの、視聴者はCM時間枠に値打ちをつける当てもの。ですから、テレビ局に視聴者への配慮を要求するのは無理難題というものです。わたしは「あるある大事典」事件でいちばん問題なのは、視聴者のほうだと思うのです…。だって、テレビ局の演出に盲目的に飛びつくんですから。

テレビ局というのはしたがって、人々の耳目を惹きつけるエンターティメントを提供するところです。いつでも正確な情報を良心的に提供するという保証などしないのです、彼らは。またスポンサーのほうも、商品を開発すれば、その商品を売るのに妨げになるものは、その社会の社会規範でさえ変えようとします。商品を値下げし、さらに武器まで売るためには教育基本法を変え、憲法も変えようとします。

そしていまや誰もその動きに抵抗しないのです。抵抗しないどころか、日本は偉大な国なんだという自覚がテレビドラマや、映画や、新聞、書籍を通して涵養され、歴史を直視せず、都合の悪い歴史事実を書き換えることにOKを言うのです、日本の国民は。東京都知事選挙の予想では、やはり石原慎太郎が最有力なのだそうです。教育を荒廃させている原動力の彼が。東京都民は民主主義よりも力による一元的な指導のほうを選ぶのでしょうか。しかし、民主主義の意味さえ、もはやきちんと言える人がいないのです。

この時代の流れを促進させているのは、かつてファシズムの時代にそうだったように、このたびもやはりマスコミでした。


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冤罪はこうしてつくられる・前編

2007年04月01日 | 一般

冤罪-。冤罪の被害は、犯罪被害者以上に屈辱的で、取り返しのつかないものとなります。冤罪で有罪の判決を受け、理不尽に刑罰に服させられることはもとより、運よく最終的に無罪判決を勝ち得ることができたとしても、それまでには長い時間がかかりますし、その間に失うものはそれまでのふつうの人間関係、社会での立場、職、信用などのほか、野次馬マスコミの好奇にさらされ、大げさな記事を書かれることから来る名誉毀損の屈辱…。

また間違った犯人を作り上げてしまうことは、真犯人を取り逃がしたままにしておくと言うことですから、犯罪事件の真相が隠されてしまうことになります。日本では、冤罪が晴れ、無実が確定しても、そのあとあらためて事件の再捜査が行われることがないそうなのです。つまり事件は迷宮入りです。

さらに犯罪被害者たちは当然のこと、被疑者とされている人に恨んでも恨みきれない思いをぶつけます。ところが冤罪であれば、それは筋違いの恨みなのです。これも悲惨な話です。実際、冤罪が晴れても、犯罪被害者はそれまで犯人とされてきた人に恨みを持ち続けることが多いのだそうです。人間と言うのは理不尽な経験をしたとき、どうして自分がこんな経験をしなければならないのか、その理由をなんとかして知ろうとするものです。 …ある場合は創作してでも。たとえばエホバの証人のようなカルト性の強い宗教が社会からなくならないどころか、人々の支持を根強く受け続ける理由の一つは、理不尽な出来事や、不安を解消させるような断定的な答えを提供しているからです。

冤罪はなぜ起こるか、いえ、人が冤罪者となるには少なくとも一度は罪を認め、自白し、供述調書を取られるわけですから、冤罪はなぜ起こるか、という問いは、実は、人はなぜやってもいない罪を自白するのか、なぜ身に覚えのない犯罪について詳細に供述するのか、という問いでもあるのです。「自白の心理学」という小著を中心に、ご紹介しましょう。

 


一つの大きな理由は、捜査する人たちや、被疑者扱いにされた人の周囲で、確たる根拠を尊重しないで、あたまから決めてかかる態度がみられることです。「自白の心理学」で引照されていた事件を紹介します。


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数年前に(2001年からみて)、ある公立小学校で男性教師が、担任していた小学校二年生の女の子にわいせつ行為を行ったとして懲戒免職の処分を受けたことがある。そのことを報じた新聞記事には「休憩時間などに教室で女子児童をひざに乗せて身体を触った。保護者の指摘に、『いたずらは絶対にしていない』と否定していたが、最後には事実を認めた」(読売新聞1997年3月27日付け・夕刊)と記されている。

この記事の限りでは、教師が最初は「いたずらはしていない」とうそをいってだましていたが、保護者の追及によってこのうそはあばかれたのだというように読める。もとより教師がいたずらをしたのが事実ならば、この理解でよい。しかし(著者が直接)事件の当事者から話を聞いてみると事情はそう単純ではない。

第一に、問題とされた教師は、保護者からの訴えがあったのち、子ども本人はもとより保護者とも、直接に話をする機会をもてなかった。というより特定の保護者からの訴えを聞いた校長らが、問題が大きくなることを怖れて、面談の機会を回避させたという。

しかも被害者であるはずの女子児童も、先生にいたずらされたと自分から訴えたのではない。子どもはひょんなきっかけで、股に手をあてて、そこにぐりぐりがあるというようなことを親に話したらしい。この「ぐりぐり」を女性器のことではないかと思った親が、そんなことを誰から聞いたのかと質したところ、子どもが「先生」と答えたのだという。子どもが言ったのはそれだけである。

ところが親はそのひと言をとらえて、娘が学校で担任の先生にいたずらされたのではないかとの不安にかられた。これがことの発端であった。

そしてその後、当の親が同級の保護者に声をかけ、わいせつ事件ではないかとの話が盛り上がってゆくのだが、その過程で子ども本人にしっかり事実を確かめたのかというと、子どもを混乱させたくないという理由で、誰もそれはやっていない。

のちになって、ぐりぐりのことを訊いたという「先生」が、実は子どもの通っていた学童保育の女の先生らしいことが判明する。それにその「ぐりぐり」というのも太もも上部に腫れた部分があったことを言っていたと思われる。しかし、これらのことが明らかになったのは、当の疑いをかけられた担任の男性教師が行政処分を受けてからのことであったという。

 

 

そのことはともあれ、当事者である子どもと教師の話が横に置かれたまま、情報はもっぱら保護者たちと校長の間で交わされ、不安と怒りに突き動かされるかたちで、保護者の一部と校長はやがて教師のわいせつ行為をほとんど確信するに至ったようなのである。そうした(今はやりの言葉でいうと「空気」の)なかで教師への追求が行われた。

しかし当然問題の教師は否認する。校長らは、新聞沙汰になるようなことがあっては困る、ことが大きくならないうちに、ここは保護者の言うことを認めて謝罪してはどうかと強力に迫った。

(場の空気という圧力に追い詰められてゆくにしたがい、)問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく。そうした疑心暗鬼の中で圧力に抗し切れないまま、結局、教師の側が折れて謝罪文を書いたのだという。

 

 

この教師がほんとうにいたずらをしているのであれば、否認のうそを周囲の人々の力であばいたのだということになる。しかしこの教師が無実だとすればどうだろうか。自分の中の真実を守って否認している教師に対して、周囲の人たちが強く謝罪を求め、うその自白を促し、教師は心ならずもそれに屈してうそをつくことになった。そして現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである。

 


(「自白の心理学」/ 浜田寿美男・著)


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まずこの事件では、犯罪の事実さえ曖昧で、だれも確かめようとはしませんでした。当の女児にさえ確認を取っていないのです。心配性の母親(エホバの証人向きの人ですね、この人は)の想像がうわさ話になり、それが大きくなって、新聞沙汰になるのを怖れた学校側がただ「火消し」にのみ奔走した事件でした。学校側は事実を調査して、明るみに出そうとするよりは、事実がどうこうより、親たちに広がった動揺・怒りを収めるために、とにかく謝罪文を書けと「強力にせまった」のでした。つまり、思い込みを立証しようとして周囲が必死になるのです。

疑いをかけられた教師は、はじめは当然否認しますが、この圧力に屈し、やってもいないことを認めてしまい、懲戒免職になったのでした。

そのことなんですが、「自分の中の真実を守って否認している教師に対して、周囲の人たちが強く謝罪を求め、うその自白を促し、教師は心ならずもそれに屈してうそをつくことになった。そして現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである」と、書かれていることです。ここでこの「周囲の人たちは強く謝罪を求め」たことには、事実を究明しようとするよりは、とりあえず犯人がわかって、社会の憤りを収めたいという動機があるのです。

そして無実の人は、そういう周りの動機に合わせようとして、周囲の期待にこたえようとして、謝罪文を書くことに同意します。その際の心理状況は、「問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく。そうした疑心暗鬼の中で圧力に抗し切れない」というものでした。取調室で自白していく無実の人には、どうすれば周囲の人は「この圧力」を緩めてくれるか、という言いなりになる心理状態が見られるのです。

そしてこの、「現実に自白をし、謝罪したあと、周囲はそのうそをあばこうとするどころか、逆にそれを支え、固めて、証拠化する方向で行動したのである」という点に、人はなぜやってもいない罪を認め、やってもいない犯罪について詳細に供述するのかという疑問の答えがあるようです。つまり、「そういえば、あの先生はよく児童を抱っこしていたっけ…」というような話がひっぱり出されてきます。こういう話が、「わいせつ行為があった」という本人の「自白」を裏づける証拠として認識されるようになります。「あなたはよく児童を抱っこしていましたね?」と、わいせつ行為があったという、一部の親のうわさにしかもとづかない、根拠は薄いけれど、「確信」を持って強い調子で詰問され続ければ、当人も、「問題になった教師のほうでも、相手が小学二年の子どもたちだから、休み時間など抱っこをせがんだり、ひざの上に乗って遊んだりする、そんなときこちらで気づかずに股間に触れることがあったかもしれないと思うようになってゆく」のです。

話はそれますが、エホバの証人の審理委員会での聞き取りもおおよそこのようなものです。本人を「援助する(罪を認めればエホバに対して正直にふるまったことになり、それでエホバのみ前における清い立場を回復できるようになる、という理屈。よくわからないかもしれませんが…)」という名目ですが、実際は罪に定めて本人を辱め、貶めようとする「裁き」が行われます。日ごろ自分の意見や主張をする成員などは、たまたまこのように、うわさから起こった言いがかり的な「罪」を着せられて、当の成員のプライドを傷つけて従順にならせようとする「管理」の一環として行われるのです。公式に日常的に行われているわけではありませんが、わたしはこのような「援助」を受けたことがあります。また、「エホバの証人情報センター」に投稿された経験談などを読むと、レイプされた女性信者が、心理的支えを受ける代わりに、声をあげたか否か、どうしてふたりきりになったかなど細かに尋問され、それはレイプか合意にもとづくエホバの証人の性道徳に違反したことだったかが確定されようとするみたいです。レイプされた女性に必要なのは共感と支えなんですが、エホバの証人はそれは「罪」かどうかを裁こうとするのです。そういう痛ましい経験をした人を支えるのが宗教であり、またキリスト教の「愛」だと思うんですけれどね、わたしなんかは…。

 

さて、上記の事件では、学校での出来事であって、警察は介入しませんでした。では警察、犯罪捜査のプロたちが介入するところでも、このような冤罪事件は起こるのでしょうか。起こります。警察でも、捜査官の思い込みによる「確信」のもとに、犯罪を否認する被疑者が追い詰められてゆくのです。捜査官のテキストである、「犯罪捜査101問/ 補訂第5版/ 増井清彦・著」によると、

 

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【第92問 否認している被疑者の取調べ要領はどうか】

被疑者が供述を拒否し、あるいは虚偽の内容の供述をして犯行を否認した場合、それを追求して真偽を明らかにすることは、捜査官として当然の義務である。ただ、否認する被疑者に対する説得行為は、往々自白の強要であるといういいがかりをつけられることがあるから、特に取り調べの態度に注意しなければならない。それには、被疑者の弁解を無視することなく、誠実に対処することが大切である。

否認している被疑者の取調べに当たっては、次の事項に留意すべきである。

あらかじめ記録及び証拠物等を精査検討して事件の全貌を把握し、確信をもって取り調べること。頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べをしてはならない。被疑者は、捜査官の心理を見抜くことに敏感であり、装うてみてもすぐに看破される。あせらず、毅然とした態度で、迫力のある取調べをしなければならない(ただし、記録等を検討した結果、犯人であるとの確信を持てない場合は、予断を持たず、供述の信用性を検討しながら、適切な質問をすべきである)。

黙秘・否認の原因を早期に究明し、被疑者を説得して、自発的に供述させるよう努めること。
否認の原因が被疑者自身にあることが判明した場合には、その心情をよく理解し、原因の除去に努めながら、被疑者を説得して勇気を与え、その善性をよみがえらせることによって、自発的に供述させるようにすべきである。…(後略)
 
被疑者から繰り返し詳細に弁解を聞き、矛盾・不合理を追及すること。
虚偽の供述には必ず事実に符合しない点、不自然な点があるから、これを追求し、被疑者をして到底自己の刑事責任を免れることはできないものと、観念させることが肝心である。
  
被疑者の人格を認め、その緊張感をほぐし、親近感を持たせること。
被疑者は否認を通すため、いつも極度に緊張している。取調べに当たっては、権威をかさにきた脅しや技巧を用いず、誠実な態度で接し、全人格的な信頼感を醸成することに努めるのが有効である。お互いに胸襟を開き、相手に親和感を持たせるため、雑談をすることも必要である。
 
誘導又は誤導にわたる取調べを行わないこと。
否認の場合には、矛盾や不合理が多く目につくが、弁解には注意して慎重に検討することを忘れてはならない。不用意に自己の先入観を押しつけて追求するときには、虚偽の自白をさせる危険があるので、十分注意しなければならない。

 

 

(「犯罪捜査101問」/ 増井清彦・著)


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この取調べ要領で、いちばん重要なポイントは、「あらかじめ記録及び証拠物等を精査検討して事件の全貌を把握した上での確信」という点にあるでしょう。冤罪が起きるのは、捜査官の側の「不用意な先入観」にもとづく、根拠が薄いままでの「確信」が押しつけられて自白が強要されることにあるようです。この要領は、実際に犯罪に手を染めた人には有効に機能するのでしょうけれど、何もやっていない人には有害に機能します。「もしかすると白かもしれない」という疑念は持ってはならないので、確信をもって、「毅然とした、迫力のある」追求がなされるのです。また冤罪で供述が取られるのは、要するにウソの話なので当然矛盾点や不合理な点が出てくるのです。それを一つ一つ追求されたとき、無実の被疑者は精神的に参ってしまうのです。特に取調室では、被疑者にとって捜査官は生殺与奪の権を握る権威者となるのです。無実の被疑者はなんとかして、捜査官にわかってもらいたいとします。そこへ「ときに親切に接し」てくる捜査官に助けを求める気持ちが起こって、捜査官に「取り入る」姿勢を持つようにさえなるのです。

では、実際の事件を例に、どのように無実の人が自白して行くのかをみてみましょう。2年後に後編をアップします。ぜひ読んでくださいね☆


 

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